私は、「自由」という価値観こそが、もっとも重要な価値観だと思っています。
おそらくそのことは、多くの人が認識しているのでしょう。
ですから、自由は基本的人権とされるのです。
しかし、「自由には責任が伴う」という人がいます。以前の私も、そう思っていました。
あるいは、「自由と自分勝手とは違う」という言い方もします。
いずれにせよ、ある一定の価値観に従うことが前提で、その上で自由が与えられるという考え方です。
でも今の私は、そうではないと思っています。
自由とは、文字通りに自由です。何ものにも束縛されないという意味です。自分の思い通りで良いということです。
そうすると、社会的には様々な問題が出てきます。そのことは私も、よくわかっています。
たとえば、「自由なら人を殺すのも自由なのか?」と極論をぶつけたくなる人もいるでしょう。
いいですねえ。極論は私の好むところです。なぜなら、問題の本質が浮かび上がるからです。
たしかに、この究極の問に答えることができなければ、本当に文字通りの自由で良いのだとは言えないでしょうね。
では、私の考えを言いましょう。
殺すのも自由です。
ただし、これはだからと言って、すぐに刑法を廃止して良いというような意味ではありません。
現実の社会として具体的にどうするかは、また別の問題です。
ここでは心の問題として話しているのだとご理解ください。
話を戻しましょう。
ではなぜ、殺すことが問題になるのでしょうか?
それは、殺す側の問題ではなく、殺される側を問題にしているからではないでしょうか?
すなわち、理不尽に命を奪われるのは、許されないことだと。
では、こういうことを想像してみてください。
もし、人は何をされても死なない存在だとしたら、それでも殺すことは問題でしょうか?
「何言ってるの?意味がわからないよ。」
そんな声が聞こえてきそうです。わかります。けれど、そんなこともあるかなあと想像してみてください。
もし、殺されることによって変化することはあっても、人の本質としての生命は死なないとしたら?
もし、人の本質としての生命(=魂)が同意しない限り、殺されることがないとしたら?
もちろん、そんなことがあると証明はできません。
でも逆に、そんなことがないという証明もできません。
ただ、もしすべてが「ひとつのもの」であるとしたら、それは十分にあり得るし、いえ、むしろそうでなければおかしいのです。
すべてが「ひとつのもの」なのに、互いが何の関連もなしにバラバラに動くはずがありませんから。
規則(価値観)に他人をしたがわせなければならないという考えは、怖れから生じています。
怖れとは不安のこと。つまり、愛の対極になります。
もし私たちの本質が愛であるなら、その対極(不安)に留まるということは、どう考えてもおかしなことです。
「そんなことを言っても、聖書にもちゃんと十戒と言って、モーセが神から受けた規則があるじゃないか!?」
そういうように聖書を持ち出されると、私としても反論が難しい。
けれどもあれは、後世の人が勝手に戒律と考えただけで、実はそうではないのかもしれませんよ。
そのことを示唆する内容が、「神との対話」 に書かれていました。
この考え方には、私は衝撃を受けました。一部を引用します。
「まず、あなたがきっと驚くこと、そして、多くのひとの感性を逆なでするような宣言から始めよう。十戒などというものはない。」(p.129)
全知全能ですべてである神が、どうして戒律を守れと命じる必要があるでしょうか?
何のために?それにもし、戒律が必要だと神が考えるなら、守られないようにするはずがありません。
守れと命じておいて、守られているかどうかを見守るなんて、そんな悪趣味なことを神がやらなければならない必要性が、どこにも存在しないのです。
では、あのモーセの十戒とはいったい何なのか?また一部を引用しましょう。
「わたしは自分の姿をかたどり、自分に似せてあなたがたを創造し−−祝福した。そして、あることを約束し、言質を与えた。前にも話したように、あなたがたがわたしとひとつになる時がきたときはどうなるか、という約束だ。」(p.130)
つまり、時が来た時、人は神とひとつであることを、自らを通じて知ることができるようになっている、と言うのです。
その印とは、それが十戒と呼ばれるものだと言います。
「神を愛せ」ではなく、そのときが来たら人は、「神を愛する」ようになる。
「殺すな」ではなく、そのときが来たら人は、「殺さない」ようになる。
「盗むな」ではなく、そのときが来たら人は、「盗まない」ようになる。
このように、そのときが来たなら人は、誰に命じられなくても神を愛し、他人の命や所有物や配偶者を盗もうとはしなくなるのだと。
その言質を神は、人に示したと言うのです。
殺してはいけないと言われるから、あるいは殺したら刑罰が与えられるから、あなたは殺さないのですか?
もしその規則がなくなったら、あなたは殺すのですか?盗むのですか?それがあなたらしいあなたなのですか?
問われているのは、そのことです。
自分という存在は、いったいどういう存在なのか?
その答を、宇宙は毎秒毎秒、注目し続けているのです。
極論を言うなら、選択肢は2つしかありません。
「愛」か、「愛でない(=不安,怖れ)」か?
私たちはそれを、自由に選択することができます。
自由に選択できるからこそ、私たちは愛を体験し、その素晴らしさを味わうことができるのです。
だから、完全な自由が重要だと思うのです。
2012年08月15日
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