2021年10月13日

家にいるのが好きになる 断捨離 すっきり生活

この本は、市販はされていないようです。
たしかFacebook広告として見て、ここのところブームが続いている「お片付け」や「整理収納」を提唱しているものだと思いました。ただ、そこに書かれていたキャッチフレーズに興味を持ち、リンク先のサイトを見たのです。
キャッチフレーズの内容は忘れてしまいましたが、そこにあった問いの答えを知りたくて、この本を注文したのです。

書籍代としては無料ですが、別途、送料+手数料の550円がかかります。届いた本を見ると薄手のペーパーバックのようなもので、これなら書籍代として550円でも不思議じゃないなと思いました。

要は、本をダシにメルマガ読者を獲得し、その先にある有料講座を販売したいということのようです。
そういう販売手法は知っているので、それ自体をどうこうとは思いません。ただ、急速に興味を失って、しばらく読まずに放っておきました。他に読みたい本もあったからですが。

けれども、他の読みたい本を読み終えたタイミングで、「薄い本だから一気に読んでしまおうか」と思い直し、読んでみることにしました。
そうしたところ、これは単なる「お片付け」の本ではないことがわかりました。それで、ここで紹介したいと思ったのです。

著者は、クラタ−コンサルタントのやましたひでこさん。詳細は、公式WEBサイト「断捨離」をご覧ください。


前置きが長くなりましたが、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

断捨離は、そうした住まいに堆積しているモノを相手にするので”片づけ”と混同されがちですが、「見える世界」から「見えない世界」を変えていく、という行法哲学であり、単なるモノの片づけではありません。」(p.21)

今まで「執着心」とは、誰もが心のうちに抱えている、逃れられない根深い欲求であり、自分では如何ともしがたい存在だと思っていましたが、「眼の前のその洋服を取り除くことは、私自身の執着心を取り除くことになるのではないだろうか」と、はたと気づいたのです。」(p.26)

つまり、モノを断舎離するということは、片づけて整理整頓してすっきりする、という次元の話ではなく、モノを断舎離することによって自分の執着心を手放すということなのです。

執着心を手放せということは、昔から仏教などでも言われてきました。しかし、その目に見えない心の中の執着心を、どうやって手放せばいいのか? そこが難しいところでした。
それを目に見える形であるモノの断捨離によって行おうとする。それが、やましたさんが提唱しておられることなのです。


つまり「思い入れがあってどうしても捨てられない」というほどに根深い執着心ではなく、もっと反射的な、衝動的な感覚。人間の心の最も奥深いところにある執着心とは、ただそれが「使えるモノである」ということに対する依存心のようなものだということがだんだんわかってきました。」(p.27)

その手放そうとする執着心の中でも、実は何気ない「まだ使えるのにもったいない」という思いこそが、根深い依存心になっているとやましたさんは言います。

もったいない、まだ使える、いつか使う時が来るかもしれない。そんな思いでモノを収納し、見えなくなってしまい、いつしか忘れ去られる。それは、心の中のゴミと同じです。活用されないのであれば、ないのと同じこと。ないけれどもある。そういうことが、実は根深い依存心になっている。

これは、何となくわかります。つまり、もったいないという思いは、裏返せば不安なのです。今、捨てるという決断をすることが恐いのです。失敗するかもと不安なのです。だから捨てられない。取っておこうとする。
つまり、この根深い執着心、依存心の本質は不安(恐れ)だということです。


このようにモノを通じて「なぜ・なぜ・なぜ」と思考を進めていく中で、自分の課題を発見し、最終的にモノを通じて「不要・不適・不快」を取り除くことで心の解放感を味わっていきます。」(p.36−37)

なぜそのモノを必要と思うのか? 本当に必要なのか? そういう判断は自分にしかできません。自分にとっての正解しかないからです。
そうやって自分の心の内を見つめていく作業は、意識的に生きることにつながります。自分の生き方が本当に自分らしいものなのかを問い直す作業でもあるのです。


でも、もっと俯瞰して住まいを見た時に、本当にそれは「もったいない」とモノを惜しみ、愛おしいと感じる行動になっているのかどうか。そんな風に、モノをまさに「死蔵」しておくことこそ、もったいないのではないか。」(p.38)

断捨離を通じてヨガを暮らしにおいて実践していくためには、「罪悪感」と「後ろめたさ」から逃げずに向き合い、そのことに「申し訳ない」と真正面から懺悔できる自分でありたい。」(p.61)

捨てることに罪悪感や後ろめたさを感じて、つい捨てられずにいる。それをいくら「もったいないから」と言い訳したところで、本心ではそれは不安(恐れ)に過ぎないとわかっています。
捨てなければ、新しいものは入れられません。呼吸は吐かなければ吸うことができないのです。そのモノが悪いからとか、価値がないから捨てるのではなく、今の自分には不要だから捨てる。そうであれば、そのモノに対する敬意や、それでも捨てなければならないことに対する「申し訳ない」という思いも出てくるはず。そこに向き合う必要があるのです。


なければないで、あるもので工夫をする。こうした発想の積み重ねが「捨てて困る」を「なくても大丈夫」と前向きに捉えていくセンスを磨いてくれます。」(p.77)

でも何かあった時に困るのではないか、という未来に対する不安(恐れ)が、捨てることを逡巡させてしまいがちです。たしかに、「捨てなければ良かった」と思うことに遭遇することもあるでしょう。けれども、実はそれがなくても大丈夫だということに気づくチャンスでもあるのですね。

どうしても私たちは「足りない」とか「ない」という側面をフォーカスする癖があります。」(p.77)

私たちは無意識に、この「足りない」とか必要なものが「ない」ということを考えて、不安(恐れ)を感じてしまうのです。これは、お勧めしている「神との対話」シリーズでも言われていることですね。

けれど、ここでもやはり、俯瞰がポイント。なぜなら、その困りごとは果たして、必ず防がなくてはいけないような大ごとなのでしょうか?」(p.78)

実際は、なければないで何とかなってしまうことがほとんどだろうと思います。それを経験しないから、いつまでも不安に感じているだけなのです。


見える世界を自力で変えていくことで、空間が蘇れば、見えない世界の他力の応援が得られる。

 モノを選び抜き、その空間を、掃く・拭く・磨くところまで行けば、確実に人生は変わる。「変える」というより「変わる」のです。
」(p.95)

断捨離とは、自分の人生を変えること。しかし、自分がやるのは単に吟味してモノを捨てるだけ。そうやって自分が住まう空間を素晴らしいものにしていくことで、自ずと自分の人生が磨かれ輝いていく。そういうことを、やましたさんは言われています。


最初は、どうやって上手にお片付けができるかを示した本だと思っていました。しかし、内容はまったく違いました。
重要なのはお片付けすることではなく、自分自身と向き合うことなのですね。そのための手法としてのお片付けなのです。

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2021年10月11日

認知症にならない29の習慣



鎌田實(かまた・みのる)さんのご著書は、すでに何冊か紹介していましたが、縁あって鎌田さんが住んでおられる長野県茅野市の住人になったこともあり、何冊か鎌田さんの本を買ってみました。その中の1冊です。

最近は、看取りとか認知症について関心があります。なので、鎌田さんが実践しているという認知症対策に興味があったのです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

僕が信州に赴任したのは40年前。当時の長野県は脳卒中が多く、不健康な地域でした。脳卒中は病院で命を助けても、まひや認知症などの後遺症が残ります。地域に戻った患者さんの家では、介護地獄が待っていました。」(p.2)

食事や運動などの生活習慣について知ってもらい、生活パターンを変えてもらいました。その結果、長野県は平均寿命日本一の長寿県になりました。
 そうやって培ってきた健康づくりのノウハウは、認知症予防にも共通するものが多くあります。
」(p.2)

長野県の寿命だけでなく健康寿命が長くなったのは、鎌田さんたちの活動によるものが大きいと言われていますね。そのノウハウを、この本で紹介するということです。


老化をすすめるものとして「慢性炎症」と「フレイル」(虚弱)が注目されています。この2つの予防は、老化にともなって増える高血圧や糖尿病、動脈硬化、脳卒中、がん、うつ病などを防ぎ、要介護状態にならないようにするのと同時に、認知症の予防にもつながります。」(p.3)

運動が認知症予防に効果的というデータは世界中のさまざまな論文で発表されています。特に、ウォーキングのような有酸素運動と、スクワットのような筋肉を刺激する運動の組み合わせは、認知機能の向上に効果があるとされています。」(p.4)

老化をすすめる慢性炎症を抑えるには、野菜をたっぷりとることが大事です。野菜の色素には抗酸化力があり、慢性炎症を抑えてくれます。また、魚にはDHAやEPAといった脳の血流を高めるオメガ3脂肪酸が豊富に含まれています。筋肉の材料となるタンパク質も豊富で、フレイルを防ぎます。」(p.4)

認知症の予防は大切ですが、認知症の予防のために生きているわけではありません。健康にいいからといって、つらいことをイヤイヤ続けるのは苦行です。
 脳は、好きなことや楽しいことをすると、前向きになり活性化します。特に、人と楽しみを分かち合ったり、社会とかかわって自分の能力を発揮するという喜びは、人生の原動力になります。楽しむことは、認知症予防には大切なポイントです。
」(p.5)

以上がこの本で示される予防方法の本質ではないかと思います。運動、食事、考え方ですね。
特に最期の脳の活性化に関する考え方は重要かと思います。運動も食事も、イヤイヤやっててはダメなんですよ、ということですからね。


彼は、大学病院で、認知症かどうかを調べる4つの検査を受け、軽度認知障害と診断されました。その後、認知症デイケアに通い、認知力アップトレーニングや絵画療法、楽器の演奏、筋トレなどに取り組みました。結果、3年ほどで健常な認知機能になり、軽度認知障害から回復することができたのです。」(p.15)

つまり、早期発見することで認知症予備軍が認知症にならずに済む、ということのようです。

しかし、これは一例ですし、この対策が本当に効果があったのか、放っておけば認知症になったのかなど、実際のところはわからないと思います。
この本全体を通じて感じたことですが、よく「これによって認知症の発症率が○%下がった」という研究結果を紹介されるのですが、私は疑問に感じます。
なぜなら、たしかにそういう研究はあるのでしょうが、脳卒中などによる脳機能障害以外では認知症の原因は不明だからです。何かによって何十%も違いがあるなら、それが原因だと断定できるでしょう。でも、そうはなっていないのです。

鎌田さんは、そういうことも理解されておられると思いますが、こういう本でそこの正確性を追求しても売れなくなりますからね。したがって、やや煽るような、断定するような書き方になっているのも仕方ないことだと思います。

ですが、読む方としては注意が必要だと思います。ここに書かれた方法をやれば、認知症にならずに済む、ということではありません。
そこをはっきりさせないと、予防を怠ったから認知症になったのだ、認知症になった人が悪い、という誤解も生じかねませんからね。


糖尿病の人は血糖値が正常な人に比べて約2倍、認知症の発症リスクが高くなります。血糖値が上がると慢性炎症が進むため、認知症のリスクが高くなると考えられているのです。」(p.27)

これも同様ですね。「2倍」という言葉に驚かされますが、仮に正常な人の認知症発症リスクが1%なら、糖尿病の人は2%ということです。こう言われると、大差ないなぁと思いませんか? その傾向がある、とは言えると思いますよ。糖尿病は身体のあちこちで悪影響を与えるものですからね。


肥満も要注意です。中年期に肥満だった人は認知症リスクが高い、と発表したのはスイスのジュネーブ大学の研究です。
 特に、BMI30以上の人は要注意ということがわかりました。
」(p.29)

これも糖尿病と同様ですね。認知症に限らず、肥満が身体の健康に悪影響を与えるという傾向については、以前から言われていることです。肥満が認知症の原因ではありませんし、この記述ではどの程度の影響かもわかりません。


アメリカのヴァンダービルト医学校の研究では、野菜ジュースを週3回以上飲む人は、1回以下の人よりも、アルツハイマー型認知症の発症率が76%も少ないという報告をしています。」(p.38)

これも同様ですね。どんな研究なのかもはっきりしません。もし本当に76%も発症を抑えることができるなら、アルツハイマー型認知症の原因は野菜不足、あるいは野菜ジュース不足だと言えるではありませんか。
野菜ジュースは飲まないけど、野菜を食べている人はどうなのでしょう? 野菜ジュースと言っても、にんじんジュースかもしれないし、トマトジュースかもしれません。その違いは? 1回にどの程度飲んだのでしょう? 100ccですか、200ccですか? フレッシュか濃縮還元かの違いはないの? などなど、ツッコミどころはたくさんありますよ。

ですから、こういうのは単に「傾向があると考えられる」くらいに思っておけばいいと思います。


僕は、卵を一日に約3個食べます。タンパク質が多く、認知機能の維持によいと注目されているコリンが含まれているからです。オススメは鎌田式ウーロン卵。ウーロン茶と少量のめんつゆにゆで卵を漬けるだけです。卵黄コリンは、脳内に吸収されやすいといわれています。」(p.46)

何だか健康オタクっぽい話になってきましたね。でも、よくよく考えてみれば、この本で紹介しているのは鎌田さんが実践しておられる健康法なのです。
健康法というのは、何も認知症対策だけではありません。健康であれば認知症対策も含まれるわけですから、そういう観点から、鎌田さんが「これが良さそうだ」と思われて実践されていることを、ただ紹介しているだけの本なのです。


国立長寿医療研究センターは、腸内環境が認知症に強く関連があるとする論文を発表しています。腸内の細菌状態が脳の炎症を引き起こす可能性があるといいます。
 僕は、腸内細菌の善玉菌を増やすために、発酵したものを毎日食べるようにしています。納豆、みそ、チーズ、ヨーグルト、麹などです。
」(p.60)

これも同様ですね。発酵食品が腸内環境を整えるのに役立つ、ということは言われています。食べて悪いことはないでしょう。健康にも役立つと思います。


ビールに含まれるホップの苦味の成分、イソα酸が、アルツハイマー型認知症を予防するという研究があります。」(p.64)

これも同様ですが、個人的には採用したいですね。(笑)


脳を活性化するには、いつもと違うことをして、マンネリから脱することが大事です。新しいこと、苦手だと思って避けてきたことにも、どんどん挑戦してみましょう。」(p.86)

脳を使うこと、刺激を与えることは、老化防止に役立つと言われています。マンネリは刺激がないということですから、こういうことも大切だろうと思います。


認知症の一般的な症状に、アパシーがあります。何事にも無関心で、無気力になることです。人間は何かをしようという意欲があってはじめて行動するので、意欲そのものが低下すれば、身体活動も減り、脳機能も衰えていきます。認知症の人の約半数に、このアパシーがみられると報告されています。」(p.100)

アパシーに陥らないためにも、日ごろから脳が喜ぶことをやりましょう。脳は楽しいこと、好きなことには集中力が高まり、感動した出来事は記憶に強く残ります。」(p.100)

これもそうなのですが、アパシーだから認知症になるわけではありませんからね。認知症の人の多くがアパシーになっているというだけです。
したがって、アパシーにならないことが認知症予防になる、と言い切れるものではないでしょう。

ただ、心身の健康を保つ上で、先ほどのマンネリ防止と同様に、脳を活性化させてよく使うことを心がけるということは、大切なことではないかと思います。


最近、僕は、ワーキングメモリという短期記憶に問題が出てきたかなと思っています。軽度認知障害(MCI)のもう一つ前段階ぐらいになってきたと思って、もっと積極的に生きようと決め、地域包括ケア研究所をつくり、所長になりました。」(p.111)

ここが面白いと思いました。つまり、これだけの認知症対策を続けてこられた鎌田さんであっても、認知機能が衰えてきているということですからね。

ただこれも、この認知機能の衰えが認知症につながるものかどうかは何とも言えません。因果関係はないのかもしれませんし。
現に、鎌田さんのような対策をほとんどしない人でも、認知症にならずにいる人もいれば、逆に健康に気をつけていた人が認知症になるケースもあります。


読者のなかには、「認知症になったらおしまい」というイメージをもつ人がいるかもしれません。しかし、「認知症=何もできない人」というのは大きな誤りです。
 脳の機能の一部がそこなわれても、できることはたくさんあります。現存能力を生かしながら、自分の「居場所」や「役割」を持ち続けることが、脳にいい刺激を与える。脳を刺激すれば、進行を遅らせ、いい状態を長く保つことができるーー好循環を生み出します。認知症になったからといって、人生をあきらめる必要はないのです。
」(p.114)

僕には佐藤さんの言葉で忘れられない言葉があります。

「認知症になって不便なことは増えたけれど、不幸ではありません」

 本当にその通りだと思います。
」(p.115)

ここまで、認知症をいかに防ぐかという対策を語ってこられた鎌田さんですが、最後に本質的なことを書かれているなと思いました。
要は、認知症を恐れてはいけないのです。不安を動機として認知症対策に汲々となってはダメなのです。これで認知症が防げるかもしれないけど、防げないかもしれない。それはそれでいいじゃないか。認知症になったからと言って、不幸になるわけじゃないんだから、認知症の人生を楽しめばいい。
私はここから、そういう鎌田さんのメッセージを汲み取りました。


たくさんの対策があるので、それらすべて忠実にやろうとすれば無理があるし、おそらくやる気も失せてしまうでしょう。
適当にやるのがいいと思います。何が効果的なのか、まだわからないのです。ですから、自分に合ったものを採用し、これで自分はより健康的に生きられると信じて、実践することだと思います。

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タグ:鎌田實
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2021年10月05日

ピンピンコロリの新常識



長寿であることはめでたいことであり、昔から不老長寿が求められてきたように、人々の基本的な欲求とも言えるでしょう。しかし、長寿であれば何でも良いというわけではなく、健康寿命が長いことが求められるようになっています。つまり、寝たきりとか介護が必要な状況で長生きすることに対しては、否定的な考え方です。

したがって、なるべく健康で長生きした上で、死ぬときはコロリと時間を置かずに死にたいという欲求が出てきました。それが「ピンピンコロリ」という考えです。
たまたまオススメに上がってきたので買ってみた本ですが、この本は、そういうピンピンコロリを目指すための考え方を伝えるものになっています。

著者は、医学博士であり名誉教授でもある星旦二(ほし・たんじ)さん。医師であり研究者でもある立場から、どうすればピンピンコロリが実現できるかを語っておられます。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

はじめに、驚くべきデータをお知らせしましょう。北欧の国フィンランドで行われた調査で「医療者から医療処置や指導を受けた人よりも、それをせずに放置した人のほうが、15年後の生存率が高かった」という結果が出ました。医師の言うことを聞いた人よりも「検診なんて行かない!」という人のほうが、結果的には長生きだったというのです。」(p.13)

もちろん、検診はムダであると言うつもりはありません。検診によって重大な病気が発見されることもありますし、健康づくりの指標にすることも可能です。
 しかし、検査数値から処方されるがままに薬を飲むことが、本当の健康づくりになるとは限りません。
」(p.14)

じつは、私たちの調査で「病院が少ない地域のほうが、そこに住んでいる人たちは健康で長生き」ということがわかっています。なんと、医療施設がととのっている都会よりも、医師不足・施設不足といわれる地域のほうが、平均寿命が長いのです。」(p.15)

私も、数年前に検診を受けることをやめました。それよりも自分の身体の声を聞いて、身体を信頼しようと思ったからです。
星さんも、検診によって医師から「悪い」と言われたからというだけで自分の身体の声を聞こうともせず、医療に頼ることが問題だと指摘されています。

こういう医療に頼る(依存する)体質が問題だということは、破綻した地方自治体で有名になった夕張市でも明らかになりました。市内の公共の病院がなくなって、返って市民が健康になったという有名な事例ですね。
安易に医療に頼れない環境である方が、長生きできるという結果が実際に出ているのです。


一方、ここ数年平均寿命がトップクラスというのが長野県です。こちらは、医療機関や介護施設などいわゆるハコモノを増やす代わりに、県や自治体、医療機関が協力しあって、県民が「自分の健康は自分で守るもの」という意識を持つような活動を積極的に行っています。健康に対する自立心があれば、健康寿命を実現できるというモデルケースとなっています。生涯学習に不可欠な公民館活動もダントツ第1位です。」(p.31)

たまたま長野県の諏訪地区に移住したのですが、諏訪中央病院の医師として長野県の健康寿命を伸ばすための活動をされた鎌田實さんのご著書も読んでいました。ハコモノを充実させるとか、薬をたくさん処方するとかではなく、県民の啓蒙活動や、意識改革を進めてこられた方です。

これまで長寿トップ県だった沖縄県は、どんどん短命県になってきています。国からの支援が多くなってきたのにつれて、長寿県ではなくなってきたという現実に、目を向けてみるべきかと思います。


PART2は「すぐに始められる!ピンピンコロリアクション」ということで、星さんオススメの行動が示されています。「新しい洋服を買いに出かける」とか「美容院に行く」など、ちょっとおもしろいものがありますが、それぞれに理由が書かれています。気になる方は、ぜひ本をお読みくださいね。

その中からいくつか紹介しましょう。まず9番目の「おいしいものを食べる」からです。

では、何を食べたらいいのかということになりますが、心がけていただきたいのは「自分の体に聞く」ということ。言葉で聞いて頭で考えて判断するだけではなく、あなたの体に合うのかどうか、あなた自身がよく感じてみることが大切です。
 私たち人間には、自分に合うものと接していればリラックスし、合わないものと接していれば緊張するという性質があります。体に合うものを食べたときは「おいしい、うれしい」と感じ、その後の体調もよいでしょう。
」(p.51)

「○○が健康によい」という情報は多々ありますが、それに踊らされないことですね。まずは自分の身体で試してみること。それが自分に合うかどうかは、自分の身体がよくわかっているのです。自分の身体を信頼することが大事ですね。


次は17番目の「健康法オタクになる」です。「なるな」ではなく「なる」ですからね。お間違えないように。

でも「ちょっと体調が悪いなぁ」というとき、病院や薬にすべてまかせるのではなく、自分でできることをやってみましょう。風邪気味ならしょうが湯を飲んで体を温め床につく、肩や腰の凝りならツボ押しやマッサージをするといったことです。
 じつはそれらは迷信ではなく、体にいい方法なのです。人間の体には自然治癒力があり、それを後押しする方法が、昔から伝わる民間療法です。
」(p.67)

つまり、病院に頼るなってことですね。現代医療でなくても、効果があるものはたくさんあります。私もレイキをお勧めしていますが、他にもたくさんあるでしょう。そういうのを知って、自分の体で試してみる。要は現代医療に依存せず、自分主体で生きることが大事なのです。


次は18番目の「手洗いとうがいをする」です。昨今のコロナ騒動で、細菌やウイルスなどから身を守る術として、よく知られるようになりました。

しかしそれ以外にも、目を向けておくべき病気があります。それは世界の死因のトップである感染症です。抗生物質が簡単に入手できる日本でさえ、死因の3位は風邪をこじらせたことによる感染症である肺炎なのです。
 そう聞いて真っ先に予防接種が頭に浮かんだとしたら、ちょっと考えを改めましょう。感染症にならないためにいちばんの近道は、ウイルスを体に入れないことです。
 毎年話題になる感染症は、インフルエンザです。そのいちばん有効な対策は「うがいと手洗い」です。また入浴によって体を清潔に保つことです。
」(p.69)

コロナでは、まったくエビデンスのないマスクがさかんに取り上げられていましたが、はっきりしているのは手洗い、そしてうがいですよ。星さんは、3番目にさえもマスクではなく入浴(身体を清潔にする)だと言っています。


次は21番目の「発酵食品を食べる」です。これは健康法としてよく知られてますね。

具体的にいえば、納豆、キムチ、みそ、甘酒、漬物、ヨーグルトなど。きのこ類もそれ自体が「菌」ですので、腸内細菌の活性化に一役買ってくれます。
 腸のなかで細菌が活発に動くと、水素がたくさんつくられます。この水素が、活性酸素という体のサビを抑制してくれるので、腸内細菌を元気にすることが大切なのです。
」(p.77)

活性酸素を取り除く水素を腸内細菌が出しているとは知りませんでした。ビタミンEなどが余分な活性酸の除去に役立つことは知っていましたが。

もちろん、活性酸素そのものが悪玉ではありません。身体にとって悪い対象を攻撃するのに役立ってもいます。要はバランスなのです。そのために、活性酸素が増え過ぎたら除去する健全な仕組みを体内に持っていることが大事なのでしょう。


最後は27番目の「生涯現役で仕事を続ける」です。

日本一の健康長寿として知られている長野県では、高齢者の有業率が高い、つまり、働いている人の割合がとても多いことがわかりました。長野県を訪れると、どの地域でも、畑には長靴を履いて元気に作業する高齢者の姿を見かけます。農作業というのもいいですね。植物・動物などの生命力に触れるのは、精神衛生上とてもよいのです。
 その反対に、寝たきりの高齢者が多いのは沖縄県。もともと、のんびりした地域ではあるのですが、周りの人がなんでも世話を焼いてくれるので、体を動かさなくなってしまうということも、その理由ではないかと考えられています。
」(p.89)

年寄りを大事にし過ぎて、早く引退させたりしてはいけないのです。ちなみに私の職場は定年制がなく、70歳代の方も働いておられます。自分にできることで仕事をし続けることは、健康寿命を伸ばす上で効果的なのだと思います。


PART3は「ピンピンコロリを実現する住宅づくり」ということで、星さんオススメの内容が語られています。その1番目の「「住宅」と「健康」の深い関係に気づこう」に、基本的な考え方が示されています。

家は、暮らしの基本です。多くの人にとって、休息を含めればいちばん長い時間を過ごすところですし、外出が多い人でも、自分の生活の基盤となる大切な場所です。ということは、家が、健康に大きな影響を与えるのは当然ですね。」(p.105)

まず、冬に暖かいことです。健康長寿のためには体を冷やさず、体温を高めに維持することが重要なのですが、そのためには家のなかを暖かくするのがいちばんの近道。逆に夏には涼しさを保つことが、快適な眠りを得るためにも必要です。
 温度だけではなく、湿度を適切に保つことも大切。湿度が高すぎるとカビやダニなどの発生を招きますし、乾燥しすぎても風邪をひきやすくなるなど、どちらの場合も悪影響があります。
」(p.105)

考えてみれば当たり前ですが、一番長く過ごす住環境を快適にすることは、健康のために重要ですね。冬は暖かく、夏は涼しく。昔の人は、そのために様々な工夫をしてきました。最近は、全国どこでも同じような安く建てられる家が増えましたが、やはりそこに手をかけることが大事なのだと思います。

星さんは、「高断熱・高気密住宅」「自然素材住宅」というキーワードを示されています。シックハウスのことも触れられていますが、建材選びも重要ですね。住んで快適な家にする。このことは、健康でいるために、大きな要因になっていると思います。


PART4は「自分の生き方そのものが、健康な毎日をつくる」というテーマで語られています。この本を通じて語られている内容の根本は、ここにあるのではないかと思いました。

「健康は、他人が決めるものではなくて、あなた自身が決めるもの」という面が見えてきたのです。「自分は幸せだ」と思っている人が幸せであるのと同じように、「自分は健康だ」と思っている人が健康であり、その後も元気で長生きできるのです。」(p.130)

たとえばカナダの調査では、「健康だと思わない」と答えた人が、「健康だ」という人に比べて、死亡率が約3倍も高くなっていました。
 またそれに関連して、「自分は実年齢よりも若い」と思う人が長生きであることもわかっています。自分が若いと思える人、自分は元気だと思える人は、生き方が前向きで、PART2のピンピンコロリアクションなども、意識せずとも実行しているのではないでしょうか。
」(p.131)

つまり、もっとも重要なのは自分の意識なのです。たとえ他の人が「あなたは不健康(病気)だ」と言ったとしても、それを受け入れず、自分は大丈夫だと思っている人の方が長生きするのです。自分に対する絶対的な肯定意識、信頼、満足感、それが大事なのですね。


どんなに医学が進歩しても、不老不死の実現は難しいでしょうし、この本もいわゆる不老長寿を目指しているわけではありません。「年齢相応に元気で暮らし、天寿を全うしましょう」ということをお伝えしたいと考えています。その自然の流れを認めたうえで、自分でできることをできる範囲でやっていくことを提案しています。心と体をできるだけ健康に保ち、人生を最期まで楽しんでいきましょう。」(p.142)

星さんは、これからは医療もDIY(Do It Yourself=「自分でやってみよう」)の時代だと言います。医師など専門家に依存するのではなく、上手に使いながら、最後は自分で責任を持って決めるという生き方です。そのためには、ベースに自分(の身体)への信頼が必要でしょう。そういう自己肯定感が大事なのです。

高齢者ならなおさら、なんらかの病気を持っているのは当たり前といえるでしょう。ですから、もし何かの病気を指摘されても、落ち込んだりしないことが大切です。病気とともに生きていく「一病息災」の精神をもちましょう。」(p.143)

検診を気にしすぎないということも、こういうことなのです。不調な部分があるからこそ、より身体の声を聞こうと意識づけていられる。そのことを思えば、その不調にこそ感謝ではありませんか。病弱な人ほど長生きすると言われますが、まさにそういうことかと思います。


一生学ぼうという姿勢が健康長寿の要素だということを証明してくれています。
 また、人生につきものともいえる失敗経験も学びのチャンスです。「一生勉強だな」と、しみじみと思わされるのは、成功ではなく失敗したときだったりするのです。失敗したときのダメージは大きいものですが、それを恐れずにチャレンジすれば、きっと何かが手に入ります。
」(p.150)

好奇心旺盛に挑戦し続けること。挑戦すれば、失敗もあります。その失敗を恐れ過ぎないこと。それは、たとえ失敗しても大丈夫だ、という自己肯定感があればこそだと思います。

ベースに絶対的な安心感(自己肯定感)があれば、結果を恐れたりはしません。何があろうと大丈夫だからです。そうであれば、より自分らしく生きられるのだと思います。
つまり、恐れずに自分らしく積極的に生きることが、健康で長生きすることにつながる。そう、星さんは考えておられるのです。


つらいことがあったとき、長い時間の単位で物事を考えるのもそれを乗り越えるコツです。つらいのはいっときのことで必ず過ぎ去ります。仏教では諸行無常といいますが、この世のすべてのものはうつろいゆくものなのです。ですから、過去にしばられず、いまを生きましょう。そして、この世を去った魂が何度も生まれ変わると考える輪廻転生のような視点を持つことも、物事を大きく広くとらえるうえで有効です。「ああじゃなきゃいけない」「こうじゃなきゃいけない」ではなく「あれもOK」「これもOK」という多様性を認める広い心が生まれるのです。」(p.157)

人生にはつらいこと、悲しいこと、困難なことも多々あります。それでも、それは過ぎ去っていくものであり、それもまた自分に役立つものだという見方が大事なのです。そうすれば、今を積極的に生きられます。
そして、そういう見方ができれば、すべてを肯定的にとらえることも可能になります。何でもOKだと思えるから、結果がどうであれ大丈夫だと思えます。こういう考え方、生き方が、健康長寿に役立つのです。


最初は、具体的な行動指針がバラバラに示されているだけで、内容が薄い本かなと思ったのですが、そうではありませんでした。その背後には、自分自身への絶対的な信頼を持つことがベースにあったのです。

医療に依存しないこと。自らを信頼した上で医療などを上手に利用すること。そういう主体的な生き方を確立することが、ピンピンコロリの実現に役立つ。そういうことを星さんは示されたいのだろうと思いました。

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2021年10月02日

介護施設で死ぬということ



最近、「看取り」ということに関心を持っています。そして、介護職をしていることから、介護施設で亡くなられる方も身近にいらっしゃいます。そんな時、こういうタイトルの本を見つけたので、思わず買ってみました。著者は介護アドバイザーの高口光子(たかぐち・みつこ)さんです。

高口さんは、介護老人保健施設(いわゆる老健)の「星のしずく」で看介護部長をされているとか。この本で「うちの施設」とあるのは、この施設のことでしょうか? しかし老健は3ヶ月で退所することが原則の、いわばリハビリがメインの施設。最近は看取りもやるようになったとは言え、本来の目的は自宅で暮らせるようになっていただくための一時的な施設です。
そのことがちょっと疑問にはなったのですが、ひょっとしたら他の施設でも働いておられるのかもしれませんからね。

ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

病院の素晴らしいところは、昨日今日出会った人でも、その命を見届けることができるとことです。介護施設で、それはできません。けれど、食事、排泄、入浴といった具体的な生活行為を通じて培った人間関係の中で、ひとりの人として、最期まで見届けることはできます。
 病院で死ぬということは、病名で死ぬということです。
 施設で死ぬということは、職員との人間関係をもって、ただひとつの”私”の名前で見送られるということです。そこで尊重されるのは、父や母という家族の中での立場だけでなく、今、あるがままの”私”という立場です。
」(p.3-4)

お母様を病院で看取られた高口さんは、施設での看取りとの違いをこう言います。そして、その施設でのターミナルケアのことがあまり知られていないと感じたので、それを伝えたいという思いでこの本を書かれたのです。


では、施設という生活支援の場で人の最期を見届けるとはどういうことなのでしょうか。
 一口に言えば、現在施設で暮らしているお年寄りのその人らしい生活を最期まで支え抜くということ、一般に言われているQOL(生活の質)を守るということです。
」(p.13)

私は、生活支援の場ではあたりまえの生活はもちろんのこと、人それぞれの生活習慣やこだわりも大切にしなければならないと考えています。なぜなら、それが個人の尊厳や尊重に直結するからです。」(p.15)

介護施設は、介護保険の考え方に基づいた介護をすることになっています。その考え方とは、介護を受ける人を中心にすること。つまり、その人の生活スタイルを重視することです。
たとえば入浴では、先に洗ってから浴槽に入る人もいれば、先に浴槽に入ってから洗う人もいます。身体の洗い方も、洗髪を先にする人もいれば、手から洗い始める人、足から洗い始める人もいるでしょう。そういう違いに善し悪しはなく、単にその人のやり方であり、その人らしさなのです。
介護施設では、できる限りその人らしい暮らしをさせてあげるように、ということになっています。それを最期まで支えるのが介護施設であり、介護施設で亡くなるとは、最期までそういう支えがあるということだと高口さんは言われるのです。

ただ、これについては「どうかなぁ?」という思いもあります。原則はそうですが、実態はどうなのでしょう? 介護保険でまかなえる費用は、そんなに高いものではありません。だから、介護職はいつも人手不足なのでしょう。そういうことを考えてみても、効率を優先してしまうことが多々あるのではないでしょうか?

この本全体を通じて感じるのですが、本当にここまでやってくれる施設なら、利用者様にとっては有り難いものだと思います。そして、それでどうやって施設の経営が成り立つのか、疑問にも感じました。


「老いて病んで、ただ死んでいこうとしている私に、お前たちはなんで近づこうとするんだ」と。
 この問いに、私たち介護者は応えていかなければなりません。私はそこに医療技術がここまで発達した現代ならではの、新しいニーズがあると感じています。
」(p.17)

お年寄りの今までの生き方を無視して数や量として扱うのか、やっかい者として排除するのか、それとも、ひとりの大切な人として最後まで見届けるのか。つまりお年寄りがどんな最期を迎えるかは、そのお年寄りが誰に出会ったかで決まるのです。生活支援の場におけるターミナルケアでもっとも重要なのはこの一点です。」(p.18)

仮に病気が治っても、機能障害などで目や耳など身体の機能が衰えたり、脳の機能が低下して記憶障害が起こったりします。何も言葉を発せず、寝返りもうてない。そんなお年寄りが、自分のどこに尊厳があるのか? と問うてくるのですね。
高口さんは、その問いに答えることが介護施設の役割であり、それこそが重要なのだと言うのです。

私たちは、治らない機能障害がある人は、人としてダメなんじゃなくて、その治らない機能障害も含めて、それがあるがままのその人なのだと考えます。
「そのあるがままの自分で生きていくのがつらいとか、悲しいだなんておかしいよ」
 それが生活支援の場で働く私たちの立ち位置です。この、機能障害が個性になっていく過程を踏む時間と場所が、私たちのいる生活支援の現場なのです。
」(p.22)

障害は個性だ、ということですね。たしかに、障害とされないまでも、人によって得手不得手はあるのが当然です。そのできないこと、劣っていることをもって、「ダメ」というのはおかしいのです。

年老いてたくさんの重度な機能障害を抱えることになっても、それさえ個性だとみなす。それも含めて大切なその人だと見る。そういう生き方を共に育んでいくのが、介護施設だと言うのです。


たとえ意識や言語の障害があっても、その人らしい食事、排泄、入浴ができるようにサポートすることを通して、このことを伝えていきます。お年寄りが「私はひとりではない」と実感できるということは、「ここで生きていってもいいんだ」という、自分が生きることへの肯定につながっていきます。」(p.33)

高口さんは、これを「個別ケア」と呼んでいて、介護者は単なる汚物処理者などではなく、利用者様の生きる力に貢献する仕事をしているのだと言います。
この点については先にも書いたように、介護保険制度の報酬とどう釣り合わせるのか、という疑問が私の中には残ります。たしかにこれが理想だとは思いますが、利用者様の専属介護者ではないのですから。


安全のためにと言いながら、手足を縛ったり、鍵をかけて閉じ込めたり、薬で動かなくなるようにしてはいけません。動きを制限するのではなく、その人の「動きたい」「立ちたい」「歩きたい」をその人らしく引き出し、支えるのが私たちの仕事です。」(p.35-36)

私たち介護職は、普通に生きることがすでに「危ない」お年寄りの、普通に生きることを懸命に支える覚悟をもって、日々入居者の皆さんに接しています。なぜなら、私たちの仕事は一人ひとりのあたりまえの生活を一緒につくることだからです。」(p.36)

お年寄りにとっての自分らしい生活を職員とともにつくり上げていく過程と、家族と職員との新しい良き関係の2つを台無しにしてしまうのが、身体拘束です。だからこそ介護の現場で身体拘束をしてはならないのです。」(p.37)

職員は「お年寄りを縛らない」という具体的な目標を共有することで、前向きに話し合うことができ、そこに工夫や創造が生まれる余地があります。
 介護の現場に「絶対」ということはあり得ません。
 「どんなに気をつけても、人は転ぶときは転ぶ。死ぬときは死ぬ。それが生きていくことだから。そうであっても、私たちは大切な人を見守り支え合う」
 この視点や考え方を、信頼関係の下に家族と共有することができる職員は、生き生きと仕事をすることができます。
」(p.58)

高口さんは、絶対に身体拘束をせずに、お年寄りの自分らしく自由に生きたいという思いに寄り添うことが大事だと言います。

ただ、原則的に介護施設での拘束は認められていません。だからこそ、逆に介護の現場では苦労があります。
歩き回って転倒して骨折したり、施設から脱走して事故に合ったり。そのたびに、施設の職員は多大な労力をそこで使うことになり、残された他の利用者様へのケアがおろそかになります。あるいはご家族から責任追及されたりもします。

そういう相矛盾した中で、高口さんの言われることは理想論に近いようにも思います。
もちろん、ご家族には事前に可能性についてよく説明して、納得してもらうことが重要だとは言えます。けれども、それでもいざ何かが起これば、他人のせいにしたくなるのが人の情というものでしょう。
その不条理を噛み締めなければならないのが介護の現場だという一面もあると思うのです。


「自宅で看取るのは無理だけど、慣れ親しんだ環境と気心の知れた人たちに囲まれて最期を迎えさせたい」ということなら施設でのターミナルケアを選ぶのもいいし、施設で死なせることへの罪悪感がどうしても拭えず、後悔となってしまいそうな場合には、病院をおすすめします。医療という大義名分の下に亡くなったほうが、家族は精神的に楽になれるでしょう。」(p.44)

高口さんは、家での看取りに否定的です。なぜなら、家族の負担が大きいからです。それは家族のためでもあるし、終末期を迎えたお年寄りの望みでもあると言うのです。
たしかに、これ以上家族に迷惑をかけたくない、という思いを持つ人は多いでしょう。本音では家で死にたいと思っていても、そう言えない思いがあるのです。

この点で、お年寄りのわがままを受け入れ、わがままに生きてもらうことが大事なのだとする、前に紹介した看取り士の柴田久美子さんとは考えが違いますね。(参考:「この国で死ぬということ」


とはいえこのような段階を経てターミナルステージを迎える人ばかりではありません。入居して間もなくその時期がやって来る人もいれば、ずっと元気で病院とは無縁だった人が、一気に弱ってしまう場合もあります。
 そうなると、家族は混乱したまま、次々と選択を迫られ、追い詰められていくように感じる場合もあります。
」(p.64)

救急車で病院へ運ぶとはどういうことなのか、やってみなければ実感がわかないのです。手を縛られて点滴を受けるなど、想像もしていないことがあります。
そういうことを経験しながら終末期を迎えるなら、家族の心も固まりやすいもの。しかし、そうではないケースも多々あり、家族にとっても大変な選択をしなければならないのですね。

高口さんは、それでも事前に知っておくことで、混乱は少なくなると言います。しかし、この本の後半にいくつか事例がありますが、どんなに説明を受けていても、混乱してしまうことはあるのだと思います。

何を選択しても、「本当にこれでよかったのだろうか」とあとあとまで悩むことになるかもしれません。中には、親が亡くなった後も面影を偲ぶたびに、「口からでよかったのか」「鼻腔にしてよかったのか」「胃瘻にしてよかったのか」と問い続ける人もいるでしょう。
 とはいえ、少し大雑把な言い方になりますが、親にとっては何を選ぼうと大して違いはないのかもしれません。大事なことは、子どもが考え抜いた末に決めたかどうかなのだと思います。
」(p.73)

私は、親を看取ったすべての家族が、振り返って反省することはあったとしても、後悔だけはしないようにと願っています。反省はやがて思い出になり、生きていく糧になりますが、後悔は家族の気持ちの中に、いつまでも重いしこりを残し、思い出すのもつらい出来事になってしまいます。
 自分の死が、残された家族にとってつらいだけの出来事になってしまうのは、親本人の願いではありません。親の老いや、死から逃げず向き合った家族だからこその成長とこれからの充実が、親としての願いそのものでしょう。
」(p.83)

絶対的な「正解」などというものはないのですから、何を選ぼうと正解でもあり、不正解なのです。
重要なのは、何を選択するかではなく、どういう気持ちで選択するかということ。高口さんは、そのように考えておられます。


この国の大先輩である現在の高齢者世代の皆さんが頑張って豊かな日本を築いてきた結果、もっとも身近な愛する人の生き方や死に方を考え、家族で話し合うことができるようになりました。これは数ある豊かさの中でも最たるもののひとつだと思うのです。」(p.96−97)

けれど、迷ったり考えたり話し合ったりすることを通して、さらに言えばマイナスの感情を抱いてしまう自分自身と向き合うことも含めて、私たちは親から学ぶことができます。
 生きること、老いること、病むこと、そして死ぬとはどういうことなのかという問題を自分の親を通して考え、自分のこととして現実的にとらえる。これは高齢社会の日本で、長生きの親をもつ子どもにしか体験できない学びです。
」(p.98)

世界には、紛争が絶えない国もあれば、貧困に立ち向かうだけで精一杯の生活を強いられる国もあります。そういう中で日本は豊かで、どう死ぬかということを考え悩む余裕があるとも言えるのですね。


私たちは、どんなに疑問や反省の残るターミナルケアであったとしても、家族には「これで良かった。大丈夫です」とあえて言葉にしています。対応として、仕事として反省するのは、私たちの問題です。家族に対しては、「良かった」と言い切ること、それが家族以外の第三者の務めだと思っています。」(p.137)

これが高口さんの介護者としての矜持なのでしょう。実際問題、ご家族に対して後から「こうすれば良かったのに」と言っても仕方ありませんからね。

反省というのは、次の一歩を踏み出すためのもの。介護者にはまた次のお年寄りがいますから。でも家族には、その方しかいないし、やり直しはできないのです。それはそれで最善だった。そういう見方が大切かと思います。


最後の最後まで、お年寄りの立場に立って、立って、立ち通すのが、私たちの仕事です。本人の意向と家族の意向とが異なるとき、本人の代弁者として、家族に対してはっきり発言するのも私たちの仕事ではないのか。そう思いながらも、「母親本人によけいな苦しみを与えるかもしれないけれど、1日でも長く生きてほしいから病院へ」という、悩みに悩んだ末の娘さんの判断が私たちの前に示されたとき、私たちは、本人ではなく娘さんの判断を受け入れました。」(p.143-144)

高口さんが遭遇したケースですが、高口さんは、娘さんは自分のわがままを後になって悔いることはない覚悟を持っていると判断したから、本来のあるべき立場から離れて娘さんの判断を受け入れたと言います。

これも、どっちが正しくて、どっちが間違っているというようなことではないと思います。
今は後悔しないように思われても、後になって変わることもあります。それに、その判断を受け入れた介護職が、自分の判断に悩み続けることになるかもしれませんからね。先に話した柴田さんもそうでした。

ですから、重要なのは判断の是非ではないと思うのです。それよりもこれからの生き方です。その判断した結果の現実にしっかりと向き合い、これからどう生きるかが重要なのだと思います。


それまで夜勤は40人のお年寄りを2人の職員で看る体制でしたが、これを3人に増やし、そのうちの1人は川口さんだけにつくことにしました。2人の夜勤者を3人にした分、昼間の介護職員の配置が手薄になるため、相談員、リハビリテーション職員、厨房のおばちゃん、事務方の職員まで総動員して、3階の昼間の介護業務をみんなで支えるという体制にしました。そして勤務表を作成し直し、私たちらしいチームケアをつくっていったのです。」(p.153)

職員1名が完全に川口さんにつくというこの夜勤態勢は、川口さんのためというよりも職員のためになったと思います。
 職員が本当につらかったのは、従来の夜勤態勢で同時にナースコールが鳴ったとき、どちらかを選ばなければならないことでした。
」(p.155)

私が勤務している施設では、約30人のお年寄りを1人の夜勤者が看ます。他に宿直がいるので、何か合った場合の対応はしてもらえますが、通常業務は夜勤者だけで行います。
夜間の排泄介助など、どれだけの介助が必要かによっても違ってくるので一概に比較はできませんが、うちよりも余裕のある体制がベースとしてあるように思います。

それにしてもです。1人の利用者様のために夜勤者を1人増やすとか、他の職員の仕事を増やすとか、そんなことが簡単にできるのでしょうか?
専属の介護者がつくということは、その利用者様の金銭負担が増えなければおかしいし、そうでないなら、本来、他の方のケアでいただいているお金を、その1人のために使っていることになります。
今、目の前に困っている人がいるなら、他の人を放っておいてでもその困っている人のために尽くす。そういう考え方はあるし、それもまた素晴らしい考えだと思います。しかし、その一方で別の問題を引き起こしている。そうも言えるのではないか。私には、どうしてもそういう疑念が残るのです。


自分の意思を表現することができず、受け身的だったお年寄りや家族が自分の意思を明らかにすると、時に「わがまま」と言われることがあります。このわがままをどれだけ言ってもらえるか、どこまでわがままに振り回されるかは、人の生きる力を引き出す介護の仕事には大切なこととなります。
 だから、施設介護者はお年寄りに振り回されて、在宅を支えるショートステイの介護者は家族に振り回される。
 これが私たちの健全なあり方なのだと思いました。
」(p.177)

私も施設で介護をやっているので、この「お年寄りのわがまま」に日々接しています。みんなが同じようにやってくれて、決めごとにしたがってくれたらどれほど楽かと思うこともしばしばです。
けれども、それでも無遠慮にわがままを言ってくるお年寄りによって、本来の介護のあり方を考えざるを得ない。それがまた有り難いこととも言えますね。


少しでも食べてもらい、なんとか元気になってほしいという思いから、よかれと思ってやったことでした。まだターミナルケアに対する知識も浅く、おばあさんにはそれが苦痛になっていたことなど、まったく気づきませんでした。」(p.182)

これは高口さんが経験されたことですが、私も日々、こういう場面に遭遇します。
なかなか食が進まない利用者様の食事介助で、何とかして食べさせようとする。中には強引に食べ物を口に突っ込むスタッフもいます。
食べて元気になってもらいたいというのは自分の思いです。少なくとも、そのペースややり方では食べたくないと感じている利用者様の思いではありません。相手の自由を制限して自分の思いを押し付ける。それを「正しい」とは、私にも思えません。

では、食べずに元気がなくなって病気になって苦しんでもいいのか? 利用者様はそこまで考えて食べないことを選んでいるのか?
やはりこれも、難しい問題です。正解などどこにもないのだと思います。


介護は、人の生き方に通じる人との関わりそのものです。だから、介護を考えるとき、その職員の人としての生き方そのものが反映されます。生き方がいろいろあるように、介護の考え方もいろいろあるでしょう。ときには、職員全員の考え方が違うこともあります。違っていいのです。その違う考え方が、のびのび表現される現場であることが大切なのです。しかし、どんなにのびのび表現され、さまざまな意見が出されたとしても、仕事として行う介護は、ひとつです。これを決めるのが現場の介護リーダーです。」(p.204)

どれが正しいとは一概には言えなくても、現実には何かを選ばなければなりません。それを決めることは大変なことです。重責を感じることでしょう。
私がやっている施設介護の仕事では、まさにそういうことが行われています。考え方は人それぞれでも、リーダーがこうすると決めたなら、それにしたがって介護を行います。

これはまさに、「生きる」ということだなぁと思います。日々、自分の生き方が問われる仕事です。
介護職は、厳しく、大変で、なおかつ給料も低いとされる仕事。だから人が集まらない。けれども、非常にやりがいがある仕事だとも思います。なぜなら、自分の生き方に、人生そのものに、向き合わざるを得ない仕事だからです。


本書は、終末期を介護施設で迎えるという選択肢を提示し、それも1つの方法だとお勧めするための本のはずです。しかし、介護の現場で働いている私が読むと、自分の仕事のあり方を問い直すきっかけを提示されているように感じますね。

いずれにせよ、これからお年寄りが増え、老人介護サービスを利用する人はどんどん増えていくことでしょう。特別養護老人ホーム(特養)だけでなく、高口さんが働かれている老健でも、ターミナルケアをするようになっています。私が勤める民間の施設でも、そこで亡くなられる方もいらっしゃいます。
こういう施設で終末期を迎えるという現実は、これから間違いなく増えていくでしょう。ですから、今のうちにそういうことも含め、自分や家族の死に方を考えておくことも、良いことではないかと思います。死に方を選ぶということは、生き方を選ぶことでもありますからね。

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2021年09月24日

この国で死ぬということ



前回の「私は、看取り士。」に引き続き、柴田久美子(しばた・くみこ)さんの本を読みました。同時に購入したものですが、日本講演新聞で著者のテーマや内容がだいたいわかっていたので、複数冊を買ったのです。それだけ関心のあるテーマだということですね。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

これまで私は、十数冊の著書(巻末に拙書「参考図書」)を出版してきましたが、「看取り士」に関心を持たれるのはほとんどが女性でした。それはそれでよかったのです。しかしこれからの超高齢化・多死社会の到来を考えると、もっと男性の方たち、とくに団塊世代と団塊ジュニア世代の人たちに、「この国」の現実を直視してほしいと強く思うようになりました。」(p.i)

冒頭の「はしがき」で、柴田さんはこのように語られています。つまり、この本はある意味で、男性向けと言えるでしょう。


私たちの看取り学というのは、最期を看取ることだけを学ぶのではなく、死生観そのものを確かなものにして生きることです。旅立った人々の魂を重ねて生きることが今を生きる者の務めです。すべての人が誕生の時、天国行きの切符を手にしているのだから……。」(p.7)

看取りをするということは、確固たる死生観を持つ必要があるのですね。すでに天国行きは約束されている。そういう死生観があれば、生き方もまた違ってくることでしょう。


親の最期に近づいたとき、子供たちは「仕事があるから」と親の看取りよりも仕事を優先することが当然のように、あたかも美談のように語られた時代がありました。しかし、日本にはかつて家族全員で看取る風習がありました。看取りはすべてに優先すべき、最も大きな豊かさだと、先人たちは無意識のうちに感じていたのではないかと思えてなりません。
 死は、旅立つ人がこれまで生きてきたエネルギーのすべてを、見送る人たちに渡す荘厳な場です。また、死は第二の誕生のときであり、その誕生に家族が立ち会うのが看取りだと、私は思っています。
」(p.28)

私自身、家族親族の看取りの場に立ち会ったのは祖母の時だけですから、偉そうなことを言える立場ではありません。死に目に会えないのであれば、葬式に遅れてもかまわない。そう考えて、母の看取りもせず、火葬された後に帰省して初七日の法要だけで済ませたくらいです。
けれども、看取りを家族の重要なイベントと位置づけられる柴田さんの考えもわかります。


しっかりと自らの行く先を決めて凛として生きていく。それこそが人間らしい生き方だと思う。死は決して忌み嫌うべきものではない。それは私たちが魂の故郷に帰る日なのです。それを無理やりに引き止めるかのような、行き過ぎた医療行為は決して許されるべきではないでしょう。その意味で私たちは自分がどんな最期を迎えたいのか、しっかりと決めておくことが大切です。そのとき、私たちは医療を介さなくても、自然な死が迎えられることを忘れてはならないと思います。」(p.70-71)

医療を否定するわけではありませんが、むやみに延命するような医療行為は、私も拒否したいと思います。そういうことも死生観として確立しておくことで、「自然な死」を迎えられるのです。
かつては医療が無力だったために、「自然な死」が当然でした。しかし、医療が発達し、力を得ることによって、私たちの死は自然でないものになっていったのですね。


しかし、命の長さは決まっていたのだから、どれだけ親御さんやご家族がそばで目を光らせていたとしても、きっと救えなかったのではないかと思うのです。逝くときは逝ってしまう。
 けれど、どのような形であれ、その人は命の長さの分を生ききったわけなので、「ありがとう」と感謝して、手放してあげてほしいのです。罪悪感や責任感などで相手の魂をつかんで放さないようなことはせず、生き切った魂を解き放すのです。そうすることで、その魂も救われることになるし、遺された人間にとっても救いになると思うのです。
」(p.73)

身近な人が自殺した場合の心得です。私も、人は死ぬべき時に死ぬのだから、その死に方がどうであれ、地獄へ行くなどということもないし、その生き様(死に様)を丸ごと受け入れることが大切だと思います。


人はこの世に生を受けた限り、老いも病も死も決して避けて通ることはできません。私たちは病で寝たきりの生活を強いられることもあれば、ボケてしまうこともある。でも最後は必ず誰もがこの世を去って行く。それを私たちは当然のこととして受け入れていかなければならない。だからこそ、寝たきりになっても、ボケても、安心して暮らせる社会を築いていくべきではないでしょうか−−。」(p.79)

老いも死も避けて通れないし、寝たきりやボケも、そうなる可能性を否定できません。それでも人間の尊厳性を守れる社会を私たちは作っていけるのか? それが問われていると思います。


この世に生を受けた一人ひとりの人間には、すべて大切な役割がある。今までの人生がどうであれ、たとえ罪を犯し、人々からどんなに罵られようとも、生かされるべき尊い存在なのです。」(p.85)

命に貴賎はありません。軽重もありません。私も同感です。


人は死に背を向けている限り、あるいは生にのみ執着している限り、決して心に心の安らぎを得ることはできません。死を遠ざけようとすればするほど、苦しみや不安は増していく。しかし、離島で暮らす幸齢者のように、死をあるがままに受け入れて生きようとするとき、私たちの人生は大き変わるのです。」(p.87)

島根県の隠岐の島で看取りの家を始めた柴田さんは、高齢者のことを幸齢者と書かれます。あるがままに死を受け入れて亡くなっていかれるお年寄りの方々の中に、幸せな死に様、幸せな生き様を見つけられたのでしょう。


臨終にあって送る側が何をするのか。その人をそばでじっと見守りながら、ただひたすら手を握り抱きしめて、感謝の思いを伝えること、それだけです。そして、臨終という尊いときを共有できることに感謝する。この世を旅立つ人は、そばにいる者たちに目には見えない大きな贈り物、生きるエネルギーを手渡そうとしているのだから。このエネルギーを受け取り、また次の世代に手渡す。これこそが、まさに「命のバトンリレー」です。そして人類は命をバトンリレーすることで進化していく……。」(p.101)

何をするかということよりも、見守っていること、感じようとしていることが重要なのでしょうね。


母は以前に自然死を希望すると言っていましたから延命治療はしませんでした。しかし、あの時、私の気持ちは揺れていました。最期の14日間は母と一緒にいて、少しでも長く生きてほしいと思っていましたから。家族の方が延命治療を希望するという気持ちはよくわかります。ですから、延命治療をしないと決断するには、勇気が必要なのです。」(p.110)

柴田さんもそうであったように、家族にとっては葛藤があるでしょうね。最期を迎えた方への思いもあれば、世間体というのもあるでしょうから。

怖いというより、つまりは人の命を引き受けられない家族が多いということだと思います。漠然と誰かが何とかしてくれるだろうと期待して、家族の命も誰かにお任せしたい、ということです。お医者さんにお任せしたいし、自分が責任を取りたくないということです。」(p.111-112)

自分の病気の治療のことも自分で決めずに医師に「お任せします」と言ってみたり、最期を迎えた家族を、その希望通りに引き取ろうとせずに病院にお任せする。つまり、重要なことから責任を回避したいという気持ちなのでしょう。
けれども、それでは自分らしい生き様、死に様は、できないではありませんか。だからこそ、死生観を持つことが大切なのです。


しかし最近は医師のなかにも「患者の尊厳」を重視する方も多くなり、多死社会の到来が迫る中、厚生労働省も「患者の尊厳」についてはようやく指針を変えざるをえませんでした。
「できるだけ長く自宅や介護施設などで療養を続けた上で、最期は本人が希望する場所で亡くなることを推進する」
 このように、2018年に指針の改定がなされました。その背景には、医療費高騰に歯止めをかけたいという国の思惑もありますが、とにかく患者の尊厳を尊重する方向に国が舵を取る時代になったことは私たちにおいては大きな喜びです。
」(p.120)

どこで最期を迎えるかについての自己決定権を尊重する。国がそれを推進する時代になったのですね。


死は再び胎内に戻ることだと私は思っています。女性が胎内から命を産むなら、男性がその命を胎内に戻すことをしてほしいのです。女性は出産によって魂の覚醒をしますが、男性にはそのチャンスがありません。男性に魂の覚醒をしてほしいというのが私の切なる願いです。女性と同じように体で受け止めることで魂は覚醒するでしょう……。」(p.123)

確かに女性の妊娠出産は、神秘的で魂的と考えることができますね。一方の男性には、そういう命のつながりに生理的に関与している実感が湧くものがありません。柴田さんは、看取りに参画することで、そういう経験をしてほしいと願っています。


そしてこの体験で、私は、初めて看取りの意味がはっきりとわかりました。人は息を引き取ってから何時間もかけて「魂のエネルギーを放出していく」ということです。今では私達看取り士が当たり前のように行っていることですが、それまでの看取りは、お亡くなりになって30分から長くて1時間。何時間も抱き続けているわけではありませんでした。」(p.130)

亡くなられた男性の背中がずっと熱くて、7時間以上も抱き続けられたそうです。そういう経験から、抱き続けるという看取りのスタイルが生まれたのですね。


2人の距離が縮まったのには、ちょっとしたきっかけがありました。肝臓がんは皮膚にかゆみが出ます。そのため、軟膏を全身に塗るのですが、毎日、夏海さんが塗ってあげていました。来る日も来る日も祐子さんの肌に触れているうちに、夏海さんの中にあったわだかまりのようなものが溶けていったようなのです。」(p.133)

仲違いしていた母と娘が、「触れる」ことを通じて心を通わせるようになった。私がレイキを始めてから、「レイキは愛だ」と確信するに至ったのも、まさにこういうことです。


車内で何度も何度も繰り返し、「大丈夫だよ。ありがとう」と心の中で呟いていました。のちに看取り士になってから、この短い言葉こそ、死にゆく人を抱きしめる言葉であり、自分自身を励ます祈りの言葉であることに気づいたのでした。」(p.144)

私もこの「大丈夫」と「ありがとう」には、とても大切なメッセージを感じます。


死の孤独を癒せるのは、抱きしめることしかありません。私たちは母の命がけの出産により体をもち、この世に生み出されます。その瞬間に希望と孤独を手にするのです。自分では癒すことのできない背中があること、自分の身体の中に、自分の手の届かない場所があることを理解したとき、他者の存在が認められるのではないでしょうか?
 そして、ひとりでは生きることも、死ぬこともできないと受け入れた時、人はやさしく生きていけるのではないでしょうか?
」(p.145)

何ごとも1人でできることはない。その当たり前の事実に気づくことで、私たちはつながって生きているのであり、孤独は幻想だとわかるのですね。


旅立つ方は、自分が旅立つことを理解しています。ちゃんとそのお迎えが来て、自分も逝く準備ができたとき、その方は、私たちのような健康な人に比べて肉体こそ自由に動かせませんが、私たちにさまざまな気づきを与えてくれます。
 この域に到達すると、彼らの魂は完成度が高くなっています。私たちが偏見や先入観を捨てて心をオープンにしていくと、彼らの愛が私たちの中に流れ込んでくるようになります。
」(p.164-165)

実にスピリチュアルな話で、信じられないと感じる人も多いでしょう。けれども私は、こういうことはあると思うのです。


遺族の方が思い残すことなく看取りをしておくと、ひどい喪失感に陥ることはなく、旅立たれた方の魂が自分の中に生きているような感覚になるのです。
 人が旅立ってゆくとき、首の後ろからエネルギーが抜けていきます。看取る人は首筋から背中の方に手を差し込んで、この部分にふれたり、ひざ枕でその方からのエネルギーを受け取ることになります。すでに息を引き取られていても、肉体がある限りは時間をかけてエネルギーを放出していますので、同様の姿勢で看取り続けてください。最初は冷たく感じても、ふれているうちに肌のぬくもりが戻ってくることがわかります。
 この作法は、肉体がある限りはできるので、ぜひ実践していただきたいと思います。
 肉体があるうちに何時間もお体にふれて、エネルギーをいただくことは、グリーフケアの観点からも大切なことなのです。
」(p.170)

少し長くなりましたが、看取りのやり方が端的に述べられていたので引用しました。

でも大丈夫です。悲しみはいつでも癒すことができます。旅立った人の肉体があるか否かで異なる部分はあるものの、いつでも”看取る”ことができ、それによってあなたの悲嘆を癒すことができるのです。旅立った方は遺された人のことをとても愛していて、彼らの幸せを願い見守っています。決して恨んだり怒ったりなどはしていません。」(p.173)

愛する対象を失った喪失感、死に目に会えなかったという臨終コンプレックスなど、私たちは大切な人の死によって悲しみを抱くことがよくあります。その悲しみを緩和することがグリーフケアですが、看取りや看取り直しによって、グリーフケアができると柴田さんは言います。


死者と話ができるというと、不可思議なことかと思われる方もいるかもしれませんが、自分自身との対話でもあるのです。」(p.179)

これまたスピリチュアルな内容ですが、私もこのように思います。魂が永遠なら、死んでも生きています。生命は永遠であり、ひとつのものであるなら、誰かとの対話は自分自身との対話でもあるのです。


私は「『ご縁をいただいてありがとうございます』と声をかけてください」と伝えました。私達の人生において偶然はありません。その自衛隊の方も、職務上のこととはいえ、何らかの理由があってその犠牲者と出会ったのです。その出会いに感謝し、「ご縁をありがとうございます」と伝えることで、相手の方は喜ばれます。」(p.180)

東日本大震災の後、被災地に入った自衛官で、赤ちゃんを抱いた若いお母さんの遺体を収容した時、何も声をかけてあげられなかったことが悔やまれるという話に対して、柴田さんはこのように言われています。
私たちの出会いは、すべてがご縁なのだと私も思います。どんな素敵な人でも、どんな嫌な人でも、出会いはご縁であり、必然だということです。それに感謝できるかどうかは、見方次第だと思うのです。


私が島に暮らしていた当時、抱きしめて看取った幸齢者さまのお通夜が7日間通して行われ、その間、ご遺体はずっと自宅にありました。」(p.182)

隠岐の島にはこういう風習があったのですね。「もがり」と呼ぶ死者の魂が戻るかもしれないという期間があり、それが死後の7日間なのだそうです。
実はタイでも、似たような風習があります。葬儀は3〜7日くらいかけて行われるのが普通で、その間、ご遺体は安置されたままです。葬儀の最期の日に火葬の儀が行われます。高貴な方になるともっと長くて、前国王のご遺体は1年間安置された後に火葬されました。


看取りとは何かと一言で言うなら、「愛を伝えること」だということです。これさえ心の底から納得できたなら誰でも看取り士になることができるのです。
 前にも書きましたが、愛を伝えるには、まず自分自身を愛さなくてはいけません。誰しも人間は完璧な人にはなれませんから、ときには自己嫌悪に陥ったり、人を羨んだりすることもあるかもしれませんが、看取りの場面では全ての人が「許し」と「愛」を心の底から体験します。
」(p.192)

私は、「レイキは愛だ」と言っていますが、柴田さんに言わせたら、「看取りは愛だ」ということなのでしょうね。
すべての経験は愛に通じているし、私たちは愛を経験するために生き、そして死んでいくのかもしれません。


実に、いろいろなことを考えさせられる内容でした。
特に私が男性であるだけに、男性にこそ看取りをやってほしいと言われる柴田さんの言葉が響きました。

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2021年09月18日

私は、看取り士。



日本講演新聞で紹介されていて、ピンと来たので買ってみました。映画にもなったのですね。著者は柴田久美子(しばた・くみこ)さん。縁があるのか、島根県出身の方でした。

ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。


死は悪いものでも、怖いものでも、ましてや穢(けが)れたものでもなく、むしろ、ものすごい量のエネルギーを放出する、その人の人生にとって最も大きな愛に溢れたイベントなのです。
 その場でエネルギーを受け取り、いのちのバトンをつないでいくことは、感動的な体験となるでしょう。
」(p.10)

柴田さんにとって「看取り」とは、こういうことなのですね。私も、死を忌み嫌うものではありませんが、こういう価値観の土台があってこその看取りなのだと感じました。


私は、敏夫さんから発せられるものすごい量のエネルギーに圧倒されながら、「ああ、人は社会のルールに反してさえいなければ、自分らしくわがままに生きていいんだ。むしろ、自分の心が喜ぶ生き方をすることが大切なんだ」と感じたのです。」(p.29)

わがままを言ったり、「普通」じゃない人というのは、扱いにくいと嫌われがちですが、柴田さんは別の見方をします。それは、その人の発するエネルギー量が大きいのだ、という見方です。芸術家にも変人は多いですが、それは裏を返せば、社会を変革するだけのエネルギーがあるということなのかもしれませんね。


この体験で、私は、初めて看取りの意味がはっきりとわかりました。それは、「看取りというのは、その方がお亡くなりになられてから何時間もかけてエネルギーを放出していくのだ」ということです。」(p.30)

看取りというのは、死ぬ直前からせいぜい死後30分程度の短いものではなく、死後24時間でさえ感じられるその方のエネルギーを感じ取ることなのですね。
ですから、死に目に会えなくても大丈夫なのだと言います。現代は、死後すぐに葬儀屋がやってきて納棺して通夜という段取りになって、死者とじっくり別れを惜しむこともできません。柴田さんは、そういう流れを変えていきたいようです。


敏夫さんの魂は、「自分がいやなことはしなくていい」「無理はしなくていい」、そして「喜びを感じられる生き方をしよう。それこそが魂を磨く道だ」という、とても大切なことを教えてくださいました。」(p.31)

わがままで無頓着で、他人に迷惑をかけるような変人だからこそ、そういう言わば非常識なメッセージを発することができたのだろうと思います。
自分に正直であること。ことに死の間際であればこそ、自分らしい生き方を選択することが大事なのです。


キラキラとした輝きの中で、「愛」という字がきらめいていました。そのとき、「ああ、私たちの存在って単純に”愛”なんだ」と妙に納得したのです。」(p.33)

ある看取りで、部屋に入った瞬間に空気が違うと感じたそうです。今まさに亡くなろうとされてる方の首の後から水蒸気のようなものが立ち上がっていて、それが部屋中に充満していって、キラキラして見えたそうです。その美しさに見とれてしまった時、その霧のようなキラキラしたものが「愛」に見えたのですね。

柴田さんは、そういう不思議な体験をされています。私にはそういう体験はないのですが、そういうものが見える人もいるだろうなぁと思います。


看取りに大切なのは「傾聴」「反復」「沈黙」「ふれ合い」です。お返事に困ることがあれば、「大丈夫ですよ」とやさしく声をかけます。死の前には誰もが無力です。それは当然のこと。」(p.48)

何か特別なことをしてあげようとか、導いてあげようとか、そういう驕った考えはじゃまなのです。ただそばに寄り添ってあげる。
私もよく「大丈夫ですよ」と老人介護の現場で声をかけます。それは、不安を取り除いてあげたいからです。何の根拠もなく、ただ優しくそう言って、少しでも安心してもらうようにしています。その際、できれば相手の身体に触れて、時には撫でてあげて、相手の話を聞いてあげます。奇しくも同じようなことをしているなぁと思いました。


看取り士がお伺いするのは、依頼を受けて最初にご説明に上がるときと、旅立ちの前後です。呼吸が乱れ始めたころにご連絡をいただければ、駆けつけます。看取り士の費用は1時間5千円です。保険は適用されませんので高額に思われるかもしれませんが、実際に看取り士が介在するのは、最初の面談の2時間、旅立ちの10時間ほどと、ご依頼いただいたときのみです。それ以外の時間は、「エンゼルチーム」がボランティアの形態でサポートします。」(p.65)

看取り士の業務と報酬に関して、具体的に書かれた部分があまりないので、この部分を引用しました。依頼する側は、だいたい6万円くらいを支払うことになるようです。ただ、ここには医師や看護師との連携や葬儀屋との折衝など、重要な部分の報酬に関しては書かれていません。
医療関係者を説得するのは、なかなか骨の折れることだと思います。なぜなら、医療界では「死は敗北」という価値観がいまだにまかり通っていると聞きますから。

※次に読んでいる本には、2019年現在で1時間8千円と書かれていました。値上がりしたようです。したがって、だいたい10万円くらい支払うと考えればよいかと思います。


看取りのとき、私は抱きしめてふれ合いながら呼吸を合わせます。40分、50分と合わせているうちに、旅立たれる方の呼吸と私の呼吸が一つになる瞬間が訪れます。呼吸と、ふれるという動作が連動して一体になった感覚−−。二人が一つの体になったような感覚は、相手も同じように感じられ、とても心地よく、一切の不安がありません。呼吸を合わせるという行為は、ただそれだけで喜びですし、深い安心感が得られるものなのです。」(p.69-70)

亡くなられる方の頭の後ろに腰を下ろし、片足あぐらのようなかっこうで、亡くなられる方の頭を足に乗せ、胸やお腹あたりに手を当てます。こういう姿勢で抱いていれば、長時間抱き続けられるそうです。

できれば24時間はご家族でお体にふれたり、話しかけたりする時間にしていただきたいです。24時間は、お体にまだぬくもりが残っています。この間、エネルギーを受け取り、いのちのバトンの受け渡しをしてください。もちろんドライアイスは不要です。」(p.76)

死後24時間、ずっと体に触れ続ける。そんな看取りを提唱する人はいなかったし、現代の葬儀では難しいものがあるでしょうね。けれど柴田さんは、こういう看取りこそが大事だと言われるのです。


亡くなってから時間が経過し、ご遺体もない中で、他界された方に対する思いや悔いが残っている場合があります。その場合は「看取り直し」といって、もう一度自分の心の中で他界された方を看取ることで気持ちの整理をすることができます。「看取り直し」もまた、グリーフケアの一つです。」(p.91)

日本では初七日の法要がありますが、それまでは魂が留まるとされています。そのことから、まるでその方が生きていらっしゃるかのように考え、朝の挨拶から食事などを一緒に行って過ごす。それが「看取り直し」になるのですね。


死というものは、あちらからお迎えが来て、初めて逝けるものです。そして、お迎えが来なかったら必ずこちらの世界にもどされます。ですので、自死で亡くなられた場合も、あちらからお迎えが来ているはずです。
 私たちは勝手に、自死はいけない、事故死は残酷だなど、目に見える事象で善し悪しを決めつけていないでしょうか。もちろん、自死という選択肢はないに越したことはありません。しかし、何が起こるかわからない世の中で、主観的な価値観だけで決めつけるのは、あまりにも愚かなことです。死の前には善悪の判断など存在し得ないのです。
」(p.100-101)

私も、自殺を悪いこととは考えません。残念なことではありますが、自殺されたという結果が出たのであれば、それもまた必然であり、最善であり、完璧だと考えるからです。

いのちの価値は長さではありません。十分に生き切ったかどうかです。自死だったけれども、その人にとっては周りの人にいのちの重みを伝える役割があったのかもしれませんし、何か訴えたいメッセージがあってのことだったのかもしれません。もしからしたら、そのメッセージを訴えるために、自死という方法を取らなければならなかったのかもしれない。
 遺された人は、そのメッセージをきちんと深く理解して、心に刻んで「ありがとう」と思うことから、次の一歩が始まるのだと思います。
」(p.103)

すべての出会いは贈り物だと「神との対話」シリーズでも言っています。どんな出来事も「気づき」を与えてくれるために起こっている。そうであれば、知り合いの死もまた贈り物なのです。


看取り士は彼らの生きる希望になるように努めます。死は敗北ではありませんが、かといって、看取るためだけの看取り士でもありません。「奇跡をあなたに届けます」という意味もあるのです。ここでいう奇跡とは、万能な力で病を治すようなことではありません。最後まで自分らしく生きていただくために、「希望を届ける」とも言えるでしょう。」(p.118)

高齢になって、老衰して亡くなって行くのであれば、生への執着心もそれほどないかもしれません。しかし、若くして亡くなっていかなければならない運命を背負った方の看取りは、また違うものがあると柴田さんは言います。
看取り士は、そういう方に対しても「大丈夫」と希望を与え続けるのですね。治るかどうかは何とも言えない。けれど、治らないなら治らないままで大丈夫なのだと。


「もういいよ、ありがとう」というのは、「これまでよく頑張ったね、もう頑張らなくてもいいよ」という意味です。人生の終末期を迎える人は、遺る人たちのことを本当に心配しています。彼らが自分に対して「逝かないで」と思っていることを、誰よりも敏感に感じ、遺される人がその手を放したくないことを痛いほどわかっているのです。ですから、「もういいよ、ありがとう」と言ってあげることは、「ああ、もう頑張らなくていいんだ」と、彼らの背中をちょっと押してあげるような意味合いがあります。」(p.134-135)

私の祖母がまさに亡くなろうとしていた時、泣いてすがって祖母を呼び続ける母に対し、近所の親戚の方がもう呼ぶなとたしなめたことがありました。その記憶が蘇ります。
本人にとって死は、悪いことでもなければ敗北でもありません。魂にとって死は喜びだと「神との対話」シリーズでも言っています。ただ別れの時なのです。未練なく逝かせてあげること。それもまた愛なのですね。


1度聞いてだめなら2度聞いて、それでもだめなら3回、4回と何度も聞いて……。諦めずに何度も繰り返し質問すれば、必ず意思疎通はできます。「認知症の方は決められない」と思うのは、単なる思い込み、固定観念にすぎません。ご自身が救われるためにも聞き続けることは大事です。」(p.157)

終末期に自分がどうしたいのかは、自分が決めるしかないのです。たとえ認知症であっても。医療を続けて助かりたいのか、それとももう十分なのか。決めるのは本人です。


お医者さんで「自分が当直になると、亡くなる人が多い。だから怖い」と悩んでいる人から相談を受けたことがあります。でも私は、それはいいことだと思います。その先生は、「この先生だと安心して逝ける」と患者さんから信頼されて、選ばれているのです。」(p.162)

介護の現場でも、亡くなる日の夜勤はやりたくないという雰囲気があります。作業が大変だからではなく、気が重いからという理由で。
私はむしろ、私の時に亡くなってほしいと思っています。それは、人が亡くなるというあまりない経験が積めるということがあるからです。でも、柴田さんの話を読んで、それもすべてその方が決めているのだなぁと思いました。


それより上の世代、団塊の世代やそのすぐ下の世代に、私が提案したいのが、男性による看取りです。看取りを経験すると、確実に自らのいのちが覚醒して成長できます。」(p.174)

「息子」という字は、最期の息を引き取る子どもという意味だと聞いたことがあると柴田さんは言います。女性は子どもを産んで命のリレーをするのが役割なら、男性は看取って魂の受け渡しをするのが役割ではないか。そう言って、男性に看取りを勧めておられます。


私が提案したい一つの目安の年齢は60歳です。60歳を過ぎたら、自分の旅立ちのことを考えて準備を始めてほしいのです。準備とは、エンディングノートを書いただけでは完全ではありません。それを、配偶者や子供たちとすり合わせ、これを執行するのは誰とか、いのちの責任を持つのは誰なのかというところまで、一つ一つ詰めていくことが必要です。」(p.189-190)

私も還暦になったばかりですから、ちょっと考えさせられました。


「看取り士」とは、余命宣告、または、お食事が口から取れなくなってから、ご本人、そのご家族の不安を取るために、共に寄り添う役割です。納棺前まで寄り添わせていただきます。」(p.237)

最後に鎌田實さんとの対談がありました。鎌田さんの著書は、「がんばらない」などをこのブログでも紹介していますが、諏訪で活躍されておられて、介護の仕組みづくりにも尽力された方でした。そんなこともすっかり忘れて私は縁あって長野県で介護職をすることになったのですが、これもまた魂の導きなのかもしれないなと思いました。

ここでは柴田さんが鎌田さんへ、「看取り士」というものを端的に説明されておられたので、その部分を引用しました。


「死の哲学」ってわかりにくいけど、せめて自分が万が一寝たきりに近いような状態になったら、胃ろうはつけるのかいらないのか、どちらでも構わないので、その判断を人に任せずに自分で判断することです。また、その希望や判断が変わることも”アリ”ですよね。」(p.257)

鎌田さんは、「死の哲学」を持つべきだと言われます。つまり、死が目前に迫った時、自分は何を選択するのか、という考えです。胃ろうや人工呼吸器などの延命措置はどうするのか、ガン宣告されたら手術や抗癌剤投与などの治療はどうするのか、認知症になったらどうするのか、などなど。私も、こういうことを日頃から考えておいて、親しい関係者に伝えておくことが重要だと思います。


でも、どんなに進歩しても、少しは良くなっても、ずっと生きることはできないっていう前提でいのちがあるんだということを、もう再認識すべきときに来ています。そうであるならば、自分が最期のときにどういうふうに逝きたいのかということを、自分が選択して自己決定するようにならなくてはいけないと思います。」(p.276)

医師など医療関係者が決めるのではない、ということはもちろんのこと、家族にすら決めさせてはいけないのです。自分のことは自分が決める。そこはわがままであっていいし、わがままであるべきだ。鎌田さんも柴田さんも、そう思っておられるようです。


縁あって介護職になりましたが、この仕事は身近に人の死がありました。考えてみれば当たり前なのですが、私もこの仕事をすることで、死のあり方について再考せざるを得ませんでした。

そんな時に、この本と出会いました。柴田さんは、私と同じ島根県出身で、対談された鎌田さんは、今、私が働いている長野県で医療関係の仕事をされてる方。そういう奇遇もあり、この「看取り士」というものに興味を持ちました。さらに多くを学びたいなぁと思っています。

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2021年09月08日

体温を上げて健康になる



前回の「免疫力強化大作戦」に引き続き石原結實(いしはら・ゆうみ)医師の本になります。
これは別冊宝島homeというムック本です。内容は、石原医師のこれまでの本とほぼ同様ですが、オススメの運動のやり方とか食べ物の作り方などが、絵や写真入りでわかりやすく書かれています。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

日本人の死因は、第1位ががん、第2位は心疾患、第3位は脳血管疾患です。2位と3位が血栓症(血管内で血液が固まって起こる病気)ですから、これを防ぐには血液をサラサラに保つ必要があります。
 しかし、血液をサラサラにするというのは、水で血液を薄めるという意味ではありません。血液をサラサラにするためには、血液の汚れを取りのぞき、循環をよくすることが大切なのです。
 水は摂りすぎると体の熱が水分に奪われてしまい、体の冷えにつながります。体の冷えは体内の代謝反応を抑制し、そのため血液中に老廃物が残って血液がドロドロになり、逆に血栓症が起こる可能性を高めることがあるのです。
」(p.10)

重要なポイントが書かれていたので、少し長いですが引用しました。
ちなみに死因の第4位は肺炎、第5位は不慮の事故、第6位は老衰、第7位は自殺と続きます。さらに第8位は腎不全、第9位は肝疾患、第10位が慢性閉塞性肺疾患となっています。(厚労省の「平成20年人口動態統計」より)
このように、2位と3位は血管の詰まりが原因の病気です。その原因は、血液の汚れだという分析なのですね。この血液の汚れをきれいにしている臓器が腎臓と肝臓だということを考えると、8位と9位も同じ原因とも言えます。また第1位の悪性新生物(いわゆる癌)は、石原医師によれば血液の浄化装置だそうですから、これも血液の汚れに関係しているのです。

このように考えると、事故、自殺、老衰を除くと、肺関係の病気以外はすべて血液の汚れが原因だと推測されます。しかし、その汚れを水で薄めるべく、大量に水を飲むというやり方は上手く行かないと指摘しておられます。
石原医師は東洋医学にも精通しておられるようで、「水毒」についても解説されています。ここでは引用しませんが、水分過多は水毒になり、冷え、つまり体温低下を招いて、様々な病気の原因となるのです。


「がんは血液の汚れの浄化装置」という理論は、血液生理学者の森下敬一氏が打ち立てられたものです。胃がんなら吐血、子宮がんなら不正出血など、がんには出血がつきものです。このように、漢方医学では「すべての病気は血液の汚れからくる」と考えます。血液をサラサラにするには、化学薬品で一時的に症状を抑えるより、生活習慣を改めて体質改善をはかることが大切です。」(p.16)

石原医師は、癌も生活習慣病の1つだと言います。そして生活習慣が良くないことが血液の汚れにつながり、そこから多くの病気が発生するのだと。

その生活習慣の中で大きな比重を占めるのが食事、つまり飲食の習慣です。そしてその中でも、食べ過ぎという習慣が、もっとも悪影響を与えると言われるのですね。
また、ここでも指摘されているように、薬の飲み過ぎも長い期間を経て人体に悪影響を与えます。薬は最終的に肝臓で分解されますが、人体にとっては毒素であり、汚れなのです。


現代人の体調不良の大半は「食べ過ぎ」が原因です。たいして体を動かさなくても、1日3回、習慣的に食事を取り続けています。
 消化吸収が追いつかず、胃炎・腸炎を引き起こしているにもかかわらず、消化剤や整腸剤を使ってまで食事を取り続けようとしたり、栄養剤の点滴まで登場しています。
」(p.38)

食べ過ぎの問題点を指摘されていますが、現代人は薬に頼ってまでも食べようとしているという指摘は、まさにその通りだなぁと思いました。

この後、スウェーデンのカロリンスカ大学の研究報告より、外科手術後に高栄養の輸液をすると、肺炎や胆嚢炎などの感染症を引き起こしやすい、という指摘をされています。いわゆる細菌は、汚れた成分を分解する掃除屋なので、体内でも老廃物の掃除を細菌が担当しているということが表れている、というわけです。


このように、石原医師の考えは一貫しています。ほとんどの病気の原因は血液の汚れであり、その主たる原因は食べ過ぎにある。また水分の取り過ぎで水毒を引き起こし、体温の低下を招いている。それらが関連して、免疫作用が弱まり、病気を深刻化させている。

そうであれば、重要な対策は食べ過ぎないことです。そして体温を上げることです。そのための生活習慣が重要だというわけです。

最初に書いたように、対策としての運動や食事のレシピは、本に詳しく書かれています。気になる方は、手にとってお読みくださいね。

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2021年09月06日

免疫力強化大作戦



この前、末期の癌を克服したムラキテルミさんの本「世にも美しい癌の治し方」を読んで、その治療をされた石原結實(いしはら・ゆうみ)医師の本を読みたくなって数冊買いました。これはそのうちの1冊です。
挿絵が豊富で読みやすい体裁となっています。絵はいげためぐみさんです。

石原医師の本は、すでに2冊ほどこのブログで紹介しています。(「100歳まで元気でボケない食べ方・生き方」「「食べない」健康法」)書かれている内容に大きな違いはなく、要は少食にすることと体温を上げることがポイントだという点で一致しており、それを貫かれています。
なので、どれか1冊だけでいいので、読んでみられることをお勧めします。

この本は、がん治療に特化したものではなく、一般的に免疫力を高めるということをテーマに書かれています。コロナの流行がもう1年以上も続いている中、有益な情報ではないかと思いました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

さて、われわれ人間も、動物も、病気がひどくなると、食欲不振に陥るか発熱することが多いものです。われわれが食物を食べないと血液中の栄養素も不足がちになり、白血球も十分な「栄養素」を食べられなくなり、空腹になり、ばい菌やガン細胞などを食べる力(貪食力)が増します。
 また、体熱が上がると、われわれが入浴中やサウナ浴中はからだが温まりよく動くように、白血球もその働きが促され貪食力が増強します。
 そうです。免疫力=白血球の貪食力は、「空腹(少食)」のときと「からだが温まった」ときに強化されるのです。
」(p.2 - 3)

「はじめに」の部分に、このように結論が書かれています。免疫力という概念は、科学的なものではないのですが、その主要なものを白血球が異物を除去する力だと考えれば、白血球がよく働く環境にすることが免疫力を高めることになる、という理論なのですね。
そして、そのような能力を身体は最初から備えています。だから自然と食欲がなくなり、発熱するのです。


食べないとからだが冷えると思われがちですが、じつは反対。食べすぎは体温を下げ、免疫力をダウンさせてしまいます。なぜなら、たくさん食べると、血液は食べたものを消化しようとして胃腸に集まります。その影響で、熱を多く生む筋肉や肝臓、脳には血液が十分に送られなくなり、体温が下がってしまうからです。
 ですから、体調が悪いときに「いっぱい食べないと力が出ないから」などと、無理に食べようとするのはよくありません。
」(p.30)

筋肉が熱を生むということは、一般的に知られています。ただ、人間の深部体温が一定していることや、筋肉が少ないガリガリの人でも一定の体温を保っていることを考えると、必ずしも筋肉が体温を維持しているとは言い難い気がします。

ただそのことはさておいて、食欲がわかないとか発熱するという症状は、それ自体が病気ではない、という点に着目する必要があるかと思います。
私はレイキをやっていますが、そこでも症状は身体の浄化作用だと言っています。つまり自然治癒力の働きだということです。
このことからしても、食欲がわかないということは、身体が「食べるな」と言っているわけですから、無理して食べることは身体にとってよくないと言えるかと思います。


よく「朝食をしっかり食べよう」ということばを耳にします。「朝食は健康によい」というのが、世間の定説のようです。
 とはいえ、朝はなかなか食べる気がしませんよね。農作業をして日の出・日の入りとともに生活をしていたころと違い、現代人は夕食も遅めで夜更ししがち。そんなわたしたちにとって、朝食は必要のないものになってきています。白血球を空腹にするためにはむしろ、朝ごはんを抜いた”プチ断食”がおすすめです。
」(p.54)

断食が健康によいということは、最近はよく知られるようになりました。その一方で、朝食崇拝も相変わらずあります。
しかし、人類の長い歴史を考えてみれば、朝、食事をしてから活動するようになった時代は、そんなに長くありません。なぜなら、長い狩猟時代を考えてみれば、獲物を獲らなければ食べられないからです。運が良ければ、昼間得られた獲物を夕方に食べることができる。そんな生活だったでしょう。

また、農耕になってからも、農家は日の出とともに野良に出ます。朝ごはんを食べてからなどという余裕はありません。ひと仕事を終えてから食べるのです。

私自身、若い頃は朝食崇拝もあり、朝食を摂ってから出かけていました。しかし、寝坊した日には食べている余裕がありません。
そんなことから、忙しい朝に無理に食べなくてもいいんじゃないかと思うようになり、ダイエットをするようになってからは、朝食抜きをやっています。

一時期、朝、たんぱく質を食べると胃腸の働きを整えて基礎代謝がUPするという話を聞いて、朝納豆生活をやっていましたが、今はそれもやめています。


石原医師は、ご自身の理論を科学的に検証されているわけではなさそうです。多くの場合が推論だろうと思います。
しかし、その推論の正しさを、医療の中で適用することで確信してこられた。そういう感じがします。

したがって、先ほどの筋肉量が多いと発熱量が多くて体温が高まるという説も、私はちょっと懐疑的です。
この本では、どうやって筋力を高めるかという方法も紹介されてますが、それも通り一遍のもので、どのくらいやればどの程度筋力が高まり、どの程度発熱量に寄与するかというような科学的なデータは示されていません。

けれども、少食が健康長寿に役立つことは、動物実験では明らかになっています。また、昔からそう言われてきた経緯もありますし、私もその論理に賛同します。
体温を高めることに関しては、どうやってという方法論の根拠がやや乏しいようにも思います。ぜひこの部分は実証実験をして、データを出してほしいものです。

まだ科学的に正しいとは言えない理論だと思いますが、可能性は十分にあると思っています。

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タグ:石原結實
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2021年09月03日

世にも美しい癌の治し方



坂爪圭吾さんがSNSで絶賛されておられたので買ってみました。坂爪さんとはお会いしたことがありますが、著者のムラキテルミさんとはお会いしていません。坂爪さんは親しくされておられるようなので、どんな方なのか興味がありました。

読んでみて思い出したのですが、この本の内容は以前、WEBサイトで見ているように思いました。特徴的な挿絵にも記憶があります。そして、石原結實医師の指示に従って癌を治されたということも思い出しました。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

ムラキさんは、純粋無垢、純情一直線の一途な方ですから、熱情のあまりこの「極く少食法で、どんなガンも治せる」というような印象を与える表現が時々出てきます。しかし同様のガンを患っている方がすべて、ムラキテルミ式の食事療法をやれば治る。などとは、医師の立場からは、とても言えません。しかし、ムラキテルミさんが「悪性の肝臓ガンを極く少食で治した」という事実は、厳然として存在します。」(p.7)

冒頭にある石原結實医師の推薦文です。特に余命宣告されたような癌患者や関係者は、藁にもすがる思いで治る方法を探しているものです。それに対して希望を与えることは意味があるとしても、絶対という保証はできないと釘を差しておられます。


DR.石原「全ての病気の原因は1つ

  血液の汚れ‼
  血液の汚れの原因は2つ
  1.低体温 と
  2.食べすぎ です。

  ガンは、
  血液の浄化装置ですから
  怖れることはありません」
」(p.31)

石原医師の著書も以前紹介していますが、ガンというものも絶対的な「悪」ではなく、理由があって存在するという考え方ですね。それが、汚れた血液を浄化するために存在するということです。

そうであれば、血液を汚れたままにしておいてガンだけ除去しても無意味です。だから血液をきれいにすることを勧められるのです。


家族や財産に恵まれて幸福だったヨブは、すべてを失い、重い病気にかかります。信仰も篤いヨブは、「何も悪いことをしていないのに、なぜこんな目に遭うのか」と嘆くのですが、神さまから、「私の与えることに文句を言うのか」と叱られてしまいます。やがて「今までこれだけの幸せをいただいたのだから、神様がご用意くださるなら、不幸も喜んでいただこう」と思えるようになるのです。」(p.88)

クリスチャンだというムラキさんは、聖書のヨブ記の一節を話して、自分も同じような心境だと言います。
病気とか事故とか、そうなってほしくないと思うことがあります。しかし、どんなに生き方を正して健康的な生活を心がけたとしても、そういう状況になってしまうことはあるのです。
そういう時、天を恨んだり、自暴自棄になってしまうこともできますが、ヨブのように受け入れて穏やかに生きるという選択肢もあるのです。


その当時、日本ではまだハルステッド法(大胸筋とともに癌を切除する方法)が主流でしたが、カナダでは、すでに温存療法が主流になりつつあったそうです。コータック療法もこの温存療法の進化した方法といえます。」(p.112)

ムラキさんが出会った癌サバイバーのお一人、すみれさんが乳がんを克服された事例に書かれています。コータック療法という名前を知らなかったのですが、高知大学医学部など、一部の病院でしか行われていないようです。
癌患者さんが、あちこちの病院で治療法を探し回るという話をよく耳にしますが、現場の医師が知らないことはあり得るとしても、日本ではまだ、治療法や事例に関する情報を一元管理して提供するというシステムが整っていないのでしょうかね。


食を慎み、体温が上がれば、体内神秘の力が動いて、体が治癒のシナリオも書いて勝手に「病気」を治癒します。「気」の浄化に必要なのは、浄化し易い体内環境だけでした。
 「空腹」であること。「体温が高い」こと。この2つだけです。
」(p.125)

ムラキさんは、ガンが治った後も好転反応のような症状が次々と襲ったことを書かれています。その最後が、腎臓結石でした。
ムラキさんは癌になる前、腎臓の働きが悪くなっていたのです。ムラキさんの身体は、癌を治して、やっと本丸の腎臓を治す働きができるようになった、ということかと思います。


江戸時代の有名な人相観(観相家)の水野南北が、人相を観ても当たらない人がいて、そういう人は食習慣が違うということに気づいたそうです。そこで「人の運は食にあり」として残したのが次の言葉です。
「腹八分目で医者いらず。腹六分目で老いを忘れる。腹四分目で神に近づく。」

この言葉は、インドのヨガの教義という話もありますが、少食が健康長寿につながるということは、現代科学でも動物実験でわかっていることです。また、動物が病気になった時は食べずにじっとしていることからも、断食が健康に良いとも言われています。

現代の栄養学はカロリー信仰のようなものがありますが、それでは説明できない少食を何年も続けておられる方や、さらに進んで不食の方もおられます。そういうことも考えると、栄養を摂るのが身体のために良いという考え方は、疑ってかかってもいいのではないかと思っています。

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2021年08月24日

ちよにやちよに



博多の歴女こと白駒妃登美(しらこま・ひとみ)さんが、絵本を出されるというので購入しました。テーマは国歌の「君が代」です。

「君が代」は、国歌としては異質です。これは他国の国歌を知ればよくわかりますが、たいていは他の国々と戦って自国を守ろうとか、国のために戦えとか、勇ましい歌が多いのです。私が暮らしたタイの国歌も、Wikipediaにはこんな訳が載っています。
「血と肉によるタイの団結 タイはすべてタイ国民に属せり 一致団結 国家の独立永らえん 平和を愛するタイ国民 苦難に屈する臆病者なし 侵されることなき国家の独立 自由のために命を捧げん タイ万歳 永きに渡る勝利を!」

それに対して「君が代」は、57577(=31文字)という和歌になっています。これだけ短い歌詞も珍しいのですが、その内容は、ただただ「君が代」が長続きしますように、という意味でしかありません。
ところが、この「君」というのは天皇陛下のことであり、天皇制に反対する人たちから、「とんでもない」「けしからん」という声が聞こえてくるのです。

したがって、学校での国歌斉唱に起立しない、歌わないという教員がいるそうです。政治的なポリシーからそうするとのことですが、公務員という立場にはなじまないもの。国に雇われておきながら、国のやり方には反対というのでは、会社の規則を守らない社員と同じですからね。

そんな問題が社会にはありますが、白駒さんはそこに、違う視点を持ち込まれています。「君が代」は、天皇制礼賛の歌ではないということです。これは、すでに多くの人が言っていることではあるのですが、それをあえて絵本にすることで、また英語訳を加えたバイリンガルにすることによって、日本の国歌の素晴らしさを広めたいということなのです。

なお、この絵本の文は白駒さんですが、絵は吉澤みかさん、訳は山本ミッシェールさん、書は高村遊香(たかむら・ゆうか)さんとなっています。


ではさっそく、本の一部を引用しながら、内容を紹介しましょう。ただ、これは絵本ですので、絵を写真で紹介するのはやめておきます。また、絵本のキャプションも引用しません。その代わり、最後に書かれた「あとがきにかえて」から白駒さんの言葉を引用しましょう。

私たちの国歌『君が代』の本歌(ほんか)は、平安時代に生きた、ある人物の詠んだ「愛の歌」です。このことを知った時、梅の花に太陽の光が差し込みキラキラと輝き始めたような、美しいあたたかさが、胸いっぱいに広がっていきました。」(p.34)

詠み人知らずとされている歌ですが、古今和歌集に載っています。これが世間に広まり、祝い事の場で歌われるようになりました。その歌は、「君が代」ではなく「わがきみは」と歌われているのです。

「わがきみ」とは、男女問わずに愛するパートナーのことを表現する言葉だそうです。ですからこれは、愛する人に対して「長生きしてね」と願っている歌なのです。


この歌は、多くの日本人の心を捉え、結婚式だけでなく、祝いの席で歌われるようになりました。そのため、古今和歌集から100年が経った和漢朗詠集には、「わがきみは」を「君が代は」と変えて載っているのです。

たとえば、正月の祝いの場とか、上司が栄転する時のお祝いの歌として歌ったりもしたのでしょう。そういう時、「わがきみ」より「君が代」の方が都合が良かったのです。


『君が代』が、天皇に捧げる歌であるという解釈は、明治以降に生まれました。」(p.35)

つまり、天皇制を強固にすることによって、国民意識の統一を図ろうとするようになってから、こういう解釈が生まれたということです。

なぜそう言えるかと言うと、天皇陛下のことを「君」とは呼ばなかったからなのです。「大君」とは呼びます。もし仮に「君」と呼んだとしても、その場合は「君が御代」というように、必ず尊敬を表す言葉が付加されるのです。

このような経緯が、詳細に書かれています。これを、天皇陛下の世が長続きすることを考えて作られた歌だから国歌としてふさわしくないという理屈は、完全におかしいと言えるでしょう。


日本の国歌はラブレターだったのです。こんな国歌、他の国にありますか?
だからこそ、この歌をバイリンガルにして、世界中に広めたい。それが白駒さんをはじめとして、この絵本制作に取り組まれた方々の思いのようです。

この歌を歌うとき、誰を「君(きみ)」と思うのかは、歌う人の自由です。想像の翼は、国境も宗教も、時代さえも、たやすく超えることができます。「君」は人でなくてもかまいません。想像力をふくらませれば、虫や動物や草木、山や海や地球、月にも宇宙にさえも対象を広げることができます。
 おおらかで和やかな人類愛、地球愛、宇宙愛を込めた、究極の愛のうた。「この素敵な先人たちからの贈り物を、世界中の人々と分かち合いたい」との思いから、英訳をつけたバイリンガル絵本といたしました。
」(p.36)

ぜひ、この絵本の制作に携わった方々の思いを、感じ取ってみてほしいと思います。

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※白駒妃登美さんのサイン
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 17:16 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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