おそらくTwitterで情報を見かけて、興味を覚えて買った本です。
著者の武田双雲(たけだ・そううん)さんのことは、日本講演新聞の記事で知っていました。書道家ですが、実にしっかりした考え方をされる方と認識しています。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「じゃあ、なぜ僕はいつも幸せなんだろうか−−。
それはたぶん僕が「感謝オタク」だからです。
人はいつの間にか、自分に「ないもの」に意識が向きがちになってしまいます。
だから、常に心が満たされない状態になってしまう。
でもそこで、自分に「あるもの」に気づいて、感謝をすることができたら……日常の景色の見え方が変わってきて、自分自身の状態も変化してくるのです。」(p.3)
「それでは、僕自身はどうやって自然と感謝できているのか−−というと、その鍵が本書のテーマ「丁寧」です。」(p.4)
「僕はそれを「丁寧道(ていねいどう)」と呼んでいるのですが、「丁寧」の本質をつかんでから毎日を過ごしていただけると、どうしたって不幸な気持ちになれないのです。
それどころか、内側から無尽蔵に湧き上がるワクワクとした感覚で、毎日が楽しい気持ちで溢(あふ)れるようになります。
そして、なぜだか「丁寧道」を実践していたら、嫌なことが起きない、成果も出ちゃう、なんだかモテちゃう、お金も入ってきちゃう……そんなふうにいいことばっかり引き寄せるようになります。」(p.4-5)
双雲さんの幸せのコツはいつも感謝することであり、双雲さんが提唱する「丁寧道」を実践することで自然に感謝できるようになると言います。
さらに、現実的に良いことばかり引き寄せると言います。このことに関しては、私はこれまでの経験からそうではないと思っています。引き寄せやすくはなると思いますが、良いことばかり引き寄せるわけではないと。
ただ、これまでなら悪いと思うことを引き寄せても、そこに感謝の種を見つけるなら、それもまた良いことになりますけどね。
「要は、対象は何であってもいいので、あなたの気の向いた瞬間に、「対象を丁寧に感じ尽くす」(=「丁寧道」)ということをしてみてほしいのです。」(p.21)
いつもだったら意識さえしないこと、ぞんざいに扱うことを、あえて丁寧に扱い、丁寧に感じ尽くす。それが「丁寧道」なのですね。
「いま実践してみていただいた「丁寧道」。
実はやっていることは、茶道を大成した、かの千利休と同じです。」(p.24)
これはわかりやすい例えですね。無意識にただ単にお茶を飲むことはできますが、これでは茶道にはなりません。
同じお茶を飲むにも細部にこだわり、意識を届かせてお茶を点て、飲む側も心を尽くして飲む。これが茶道です。
これと同じように、あらゆることにおいて丁寧の極致のように扱い、味わい尽くすこと。それが「丁寧道」なのです。
「「丁寧道」をするときのポイントは、一つひとつを味わうことです。
普段、流れ作業で済ませていることを「視覚」「聴覚」「触覚」「味覚」「嗅覚」をフル稼働させて、「うわぁー!」と”楽しそう”に(※ここ重要です。冷めた気持ちではなく)感じ尽くしてみてください。」(p.26)
あらゆる感覚を総動員して、今、行っていることを感じ尽くす。さらに、その感覚を新鮮な驚きとともに喜ぶことですね。
「最初にずばり言ってしまうと、「丁寧道」を実践しているときには、あなたはマインドフルネス状態にあります。言い換えれば、とてもリラックスしながら雑念のないゾーン状態と言ってもいいでしょう。」(p.30)
ここまでの「丁寧道」の説明を読んだ時、私は、これはマインドフルネスと呼ばれる瞑想と同じだなと思いました。まさにそのようですね。
「要は、先に自分の機嫌のマインドセットができていれば、外部要因からネガティブな影響を受けない自分でいることができるはずなのです。
そして、それを自動的につくってしまおうというのが、僕の言うところの「丁寧道」の目的でもあります。」(p.34)
私たちは外的な刺激によって、自分の機嫌を左右させることが当たり前になっています。たとえば、雨が降ったら憂鬱になるような感じです。
けれどもそれは本当ではありません。雨が降ったら楽しくなる人だっているのです。子どもは、雨が降るとわざわざ外に出て濡れて楽しもうとするじゃありませんか。
斎藤一人さんは、自分の機嫌は自分で取ることが重要だと言われています。双雲さんも同じ考えで、そのために「丁寧道」を実践することだと言われるのです。
「「丁寧」の逆は「雑」です。つまり、違いは「丁寧にするか、雑にするか」であって、「速いか、遅いか」ではない。スピードは関係ないのです。」(p.43)
丁寧にすることは、時間をかけてゆっくりすることではないのですね。速い時間の中でも細心に気を使って丁寧に行うことは可能です。
事実、双雲さんも例に上げているように、プロ野球選手の投球やバッティングも、瞬時の中で丁寧に行っている動作があるのです。
「先程、あなたの発したエネルギーの波が、あなた自身の現実に反映されるということをお伝えしました。
つまり、あなたが焦っているエネルギーを発すれば焦らされる現実が、イライラするエネルギーを発すればイライラさせられる現実が、上機嫌なエネルギーを発すれば上機嫌になるような現実が、それぞれやってくるということなのです。」(p.54)
まさに、それが「引き寄せの法則」ですからね。
「僕はいま、書道家以外にも、現代アートを描いてみたり、オーガニックのお店を開いてみたりしているんですけど、結果的に成果も出ちゃうし、興味のある分野からオファーがきてモテちゃうし、お金も入ってきてしまう(笑)。
それに、問題も起きません。
よく仕事では「問題解決能力」の高い人が重宝されますが、本当は「問題引き寄せない能力」があるほうがよくないでしょうか?」(p.58)
医療でも治療より予防と言われますが、仕事でも同じことが言えるかもしれませんね。
「ということは、やはり慣れるまでの最初のうちは「ゆっくり」やってみて、体になじませていくことが、「丁寧道」においてもうまくいきやすいアプローチなのです。」(p.66)
「だから、お風呂で体を洗うとき、歯を磨くとき、着替えるとき、靴を履くとき……「あ、これを丁寧にやってみよう」と思えたことについて、どんなピンポイントなことでもかまわないので「普段の2倍の時間」をかけてやってみてください。」(p.66)
先ほど、丁寧にするとはゆっくりすることではない、と言ったばかりですが、慣れるまではゆっくりやった方がいいようです。
これも考えてみれば当然で、慣れていないうちは、いちいち頭で考えながらやらなければならないからです。それが無意識にできるようになるからスピードアップします。「丁寧道」を行う上でも、同じことが言えるのですね。
「だから、「一気に成功」という近道を求めるのではなく、あらかじめ腰を据えて「長〜くやる」という精神を持って臨むほうが、「時間をかけてやるものだから」と思えるので迷いや不安にも対処でき、結果的に無理なくハッピーに上向いていくわけです。」(p.70)
焦って結果を出そうとするのではなく、じっくりやり続ける。やっぱり継続は力ですね。
「ただし、いくら「ギブ、ギブ、ギブ……」とやり続けていても、「いっぱいギブしたからテイクをあとでくれよ」というような、見返りのテイクをすごい気にしている「有償のギブ」だと、そういったエネルギーの波が発信されます。
すると、自分にも「なくなることが織り込み済みのギブ」が戻ってくるようになるわけです。
では、どうすることが理想的なギブになるのか−−。
それは「子どもみたいにはしゃぐこと」なのです。」(p.75)
「きっと、何かをしてものすごく楽しんでいたら、ギブしているかどうかもわからないうちに、何だかすごいギブをしていて、「いつもありがとうね〜」なんて言われて友達のお母さんにお菓子をもらったりする。
「え、ほんとに? ○○くんにもあげよ〜」みたいな感じで、そのお菓子をまた誰かにおすそわけしたら、それがさらに大きくなっていく。
そんな感じの「遊んでいたら豊かになっていく」スタイルが、「丁寧道」においても理想なんです。」(p.76)
ギブ&テイクを、ギブするからテイクしてくれよ、というような見返りを求める考えであるなら、それは結果にこだわる考え方なんですね。
子どもみたいにはしゃぐというのは、結果を気にしていないのです。結果を求めるのではなく、その行為自体を楽しむことが重要ですね。結果は勝手についてくるのです。
「こんなふうに「丁寧道」をしていると、いろんなものに感動したり、感謝したりすることが増えるので、ギブ&テイクなんて考えていないのに、うっかりギブしていることが結果的に増えていきます。
僕としては、ギブしようと思ってしているんじゃなくて、むしろ自分が楽しいというエゴのもとに、感動したことや面白いと思ったことを無邪気にはしゃいで伝えているだけなので、そこにしんどさや仕事してる感もありません。」(p.78)
「このあたりの心持ちが、「丁寧道」がうまく軌道に乗る人と、なんだかうまくいかない人の差が生まれる原因かもしれません。」(p.79)
結果を追わずに、「丁寧道」をやることそのものを楽しむことですね。
「僕は「ただ、見る」ということを結構オススメしているんですが、その「ただ、見る」というのも「感じる」「味わう」に等しいんです。
たとえば、忙しくせかせかしてしまう自分に対して、「なんで私は!」とジャッジをして怒ってしまうと、そこからは怒りや不安のエネルギーが発信されてしまいます。
でも、そこで「あっ、私はいつもこういう状況だと、せかせかイライラするんだな」と、客観的に「ただ、見る」ことができるようになると、自分自身へのパターンが認識できるようになります。
そして、パターン認識さえできてしまえば、また同じ状況になっても、「またこのパターンがきたな」と心が荒れることなく、対処できるようなります。」(p.92)
上手くできない自分を責めている間は、ジャッジしているのですね。ジャッジせずに観察する。そしてその現象を面白がる。そうしていると、自然と対処できるようになるのですね。
「「丁寧道」もそれと一緒で、習慣づくまでの反復に最初は時間がかかるものなのです。」(p.94)
習慣化するには繰り返すしかなく、どうしても繰り返す時間が必要なのです。
「そう考えると、「しなくちゃいけないと思い込んでいたけど、本当はしなくたっていいのかもしれない」と、手放せる「義務感」があることに気づいた人もいるのではないでしょうか。
また、「義務感」のように思い込んで苦しくなっていたけど、やっぱり「本当にしたいことなんだな」と気づく場合もあるのではないでしょうか。
特に後者に気づけると、「義務感」を純粋な「意欲」へと転換できる可能性も出てきます。」(p.111)
自分が感じている義務感を書き出してリスト化し、可視化することで、いろいろ気づけるようになると双雲さんは言います。
義務だと思っていたけど本当か? そうやって自分の無意識の思考を疑い、考え直してみることは大切ですね。
「「受動」から「能動」へと意識を変えてみることだけで、義務からくる「しなくちゃ」が、欲求からくる「したい」に変わります。
「したい」ではなく、「させていただきます」「え、いいんですか? させてもらっちゃって! あざす!」というくらい積極的に向き合えるようになります。」(p.118)
どうせやらなければならないことなら、それを義務だから仕方なくイヤイヤにやるのではなく、前向きな姿勢で取り組むことが重要ですね。
「ある明確な目的のために行動する。とても前向きで建設的だと思います。
そうは思うのですが、その反面、「〜のために」というのは、目的達成ばかりに焦点が当たっている気がしてなりません。
「いま、このとき」の自分が、大事にされていないのです。」(p.120)
「「やったー!」という達成感は一瞬のもので、その直後にはまた別のさらなる目的を達成する未来のために、「義務感」で頑張り出す日々が始まります。」(p.120)
目的意識から行動するということは、結果に対する執着心につながります。そこからは不安や恐れが出てくるでしょう。
「言い換えれば「いま、このとき」を味わって生きるということ。
つまり、未来にばかり向きがちな自分の目を、少しでも「いま、このとき」に向けるということが、「丁寧道」の真髄でもあるのです。」(p.121)
結果に対して執着するのではなく、行為そのものに情熱を燃やすこと。行為そのものを楽しむこと。前後際断して今に生きる。それが重要ですね。
「つまり「髪の毛が乾いている未来」が早く欲しい反面、まだ髪の毛が乾いていない現在の価値は相対的に低くなっているということ。本書でこれまでに登場した言葉だと「いま、このとき」にいない状態、といえるでしょう。
だから、髪を乾かしている間はそれが無意味な時間に思えて、なんだかめんどくさかったり、イライラしたりしがちになるわけです。」(p.144)
この「ドライヤー理論」のたとえはわかりやすかったです。早く髪を乾かそうとしきりにドライヤーを振って動かす。その時の心理に注目してみることですね。
「それに対する僕の答えは、「忙しい」の前提にある「やらなきゃいけない」も幻、ということです。」(p.146)
忙しいと感じるのは、何かをやらなければならないという義務感を感じているから。そのどちらも幻想にすぎないと双雲さんは言われます。
「そして、この「認知」の設定がうまくいったとき、気持ちだけでなく、目の前の世界そのものが変わっているのです。」(p.148)
あることを行う時、どういう認知の設定をしているかが重要だと双雲さんは言います。他にもやることがあって忙しいという認知なのか、今はこのことを楽しもうという認知なのかということです。
「ドライヤー理論」のたとえで言うなら、髪が乾いた未来に意識を置くから、まだそうなっていない今が許せなくなります。
「これが「時間の分離」です。
人間のイラつきや落ち込みは、こんなふうに「いま」と「未来」、「現実」と「何か到達したい地点」が矛盾を起こしていることが原因になっています。」(p.149)
だから仏教では前後際断せよと言うのです。未来のことも過去のことも断ち切って今に意識を向けることですね。
「では、「認知」の観点から述べるとどうなるかというと、「『丁寧道』は「認知」をクリーンにしてくれるメソッド」だといえます。」(p.150)
先ほどの「時間の分離」の問題を解決するのに、丁寧道が役立つということです。
「それは、「ゆとりがあるから丁寧にできる」のではなく、「丁寧にやるからゆとりが生まれる」ということです。」(p.152)
「つまり、「条件が整う」という感覚も「認知」の問題なのです。
そして、自分にあるものよりも、自分にないものに視野が向きがちな僕たち人間にとって「条件が完璧に整った」と疑いなく思える瞬間はほぼこないのです。」(p.153)
たとえば、お金が貯まったら旅行をしようと考えます。条件が整ったなら、やりたいことをやろうという考え方です。ゆとりができたら丁寧にできるというのも同じです。
しかし、こうやって前提条件を作っている(認知している)間は、その前提条件が整うことがなく、フラストレーションを溜めることになるのです。
だから、前提条件を作らずに、条件が整う前に、さっさとやりたいことをやり始めることですね。条件は、後から整ってくるのです。
「行為としては、祈るだけ、お経を唱えるだけ、書を書くだけ、茶を飲むだけ、歌を詠むだけ……だったものが、ひたすら型を繰り返すうちに自我から解放され、不思議と、祈る神聖さ、唱える心の静寂さ、書く喜び、茶を嗜(たしな)む喜び、歌を詠む喜びとなったように、「丁寧道」も邪念を捨ててただただ行ってみると、そこには「なんだか気持ちいい喜び」が芽生えます。」(p.157-158)
茶道、書道、柔道など、日本人は何でも道(どう)にしてしまいますが、これは老子の思想から来ていると双雲さんは言います。作為を捨ててあるがままに従う「無為自然」が道(どう)の本質です。
丁寧にやるということも、道(どう)としてただひたすらそれをやることによって、無為自然の境地に至るのかもしれません。
お勧めしている「神との対話」シリーズでは、結果に執着するのではなく、結果を捨てて行為そのものに情熱を注ぐようにと言っています。つまり、前後際断して今に生きるということです。
双雲さんが示された「丁寧道」は、そういう生き方をするためのツールということですが、とても効果がありそうです。そして何よりも手軽にできます。私も、気がついたらやってみるという感じで、丁寧道をやってみようと思いました。
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