2022年09月29日

よくがんばりました。



喜多川泰(きたがわ・やすし)さんの新刊が出ることをFacebookで知って、すぐに予約しました。その本がやっと届いたので、他の本を差し置いて真っ先に読みましたよ。

小説なのでサクサク読めますが、さすがの喜多川節ですね。喜多川テイスト満載の小説になっていました。
本によって想いを伝える。「手紙屋」に始まる喜多川さんのこの考えは、この小説にも生かされていました。

今回のテーマは、父と息子。そして、それぞれの人の生き様です。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。と言っても、これは物語なので、ネタバレしない程度に収めますね。

最初にあらすじですが、前書きに「陽子ちゃん」の話が出てきます。これがあとから種明かしされる前フリになっています。
主人公は石橋嘉人。中学の数学教師です。結婚していて、2人の子ども(姉と弟)がいます。その嘉人の人生にも、いろいろなものがありました。
愛媛の西条の出身ですが、飲んだくれの父の元から逃げて、母子家庭で育ったのです。それ以来、音信不通だった父。その父が亡くなったと、地元警察から連絡が来ます。
遠い過去の故郷に戻った嘉人でしたが、西条祭りの思い出が蘇ります。非日常の祭りがあるからこそ、人は日常を暮らしていけるのかもしれない。
その西条祭りは10月半ば。2020年から2年間は、コロナ禍で中止されていましたが、2022年には3年ぶりに行われるとか。今はまだ9月ですが、小説では、それが行われた様子が描かれています。


そうなってからは、年に数回程度あるかどうかわからない「自分の父親」というものを思い出すときも、愛するでも憎むでもなく、あくまで他人として感情に揺さぶられることなく振り返ることができるようになっていた。
 ところが、自分が知らない哲治の暮らしぶりや、別れてからのことを知ることで、それがいいものであれ、悪いものであれ、嘉人の感情を揺さぶる何かに変わってしまうのではないかという懸念があった。どうせ変わるのであれば、憎い、許せないという方向に変わってくれたほうが楽だろうと思っていたが、思い出したのは哲治の父としての優しい一面だった。
」(p.115-115)

記憶というのは、自分に都合の良いものと言うか、思い込んでいることが断片的に残っているだけのことが多いようです。
私自身も父については、「怖い」という印象しかなかったのですが、しかし、よくよく思い出してみれば、楽しかったこと、優しかった父のことも、本当はあったはずなのです。


あなただって父親がいないのに立派に育ったじゃない。きっといいなくて寂しい思いや辛い思いもたくさんしたんだろうけど、そのぶん強くなったり、優しくなったりもしたでしょ。あなたが、父親に甘えたかったのにそうさせてもらえなかったことを恨む気持ちもわかるの。ただ、一方で、そのおかげで今のあなたのように強く優しくなれたのも事実でしょう。あなたは可哀想ではない」(p.148-149)

物事は多面的です。それによって「悪い」とも言えれば、「良い」と言える面もあります。
「可哀想」というのは、1つの見方に過ぎないのです。そして、他人(や自分)を「可哀想」と見ることは、その人の価値を認めないということでもあるのですね。


一言で言えば”石橋嘉人”の人生を生きている。人から見れば幸せそうでも、順風満帆でも、そこにはあなたにしかわからない苦しみや悩みがたくさんあったでしょうし、今もあるはずよ。どんなに親しい人でもそれを理解することはできない。たった一人でその苦しみと向き合って生きている。そんなことができるのはあなたしかいない。他の誰も”石橋嘉人”の人生を生きるだけの強さはないわ。それこそが人間の凄みだと私は思うの」(p.195-196)

それぞれの人に、それぞれの人生があります。そしてそれは、その人にしか生きられないもの。他人は、ああだこうだと好き勝手に評価するけど、実際にその人生を生きられるのは、その人だけなのです。
だからこそ、その「違い」こそが素晴らしいものであり、その人のかけがえのなさだと思います。


いつも明るいって言う人もいれば、いつも暗いと言う人もいる。すべて同じ一人の人間について言ってるとは思えないほど、聞く人によって答えが違うの。つまり人の性格なんて、周りの人の価値観という光をその人に当てて見えた投影図でしかないということよ」
「なるほど。その人に光を当てるというのは、観察者の価値観でその人を見るという意味なんですね」
」(p.199)

他の人を見れあれこれ評価するとしても、それはその人の価値観という光によって浮かび上がる投影図であって、その人そのものではないのです。
だから、他人からどう評価されるかなんて気にする必要はないし、自分のことは自分が評価すればいいし、評価するしかないのだって思うのです。


それぞれの人に、それぞれの思いがあります。他の人によって、「良い」だの「悪い」だの決めつけられるようなものではありません。
ですから、それを他人がどう評価しようと、放っておけばよいのです。それより、自分が自分をどう評価するかが重要であり、自分が「良い」と思う自分、そして自分の人生であるように、自分がやっていくことですよ。
もちろんそれで、思いどおりに変えていけることもあれば、そうならないこともあるでしょう。それでも、それを含めて自分であり、自分の人生です。それをまるごと受け入れて、「よくがんばりました。」と言ってあげればいいんじゃないかなぁ。

これも、ぜひ読んでいただきたい本です。読んで、自分で感じて、自分で考えてください。
きっと、もっと自分のことが好きになるでしょう。そして、それによって、他人のことも好きになっていけるでしょう。


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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 07:19 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年09月25日

テレビは見るな! 新聞は取るな!



Youtube動画でテレビや新聞に洗脳されてるから、テレビなんか見るな!というような話をした矢先、こういう本があることを知りました。
著者は船瀬俊介(ふなせ・しゅんすけ)さんです。船瀬さんの本は以前にも「3日食べなきゃ、7割治る!」を読んでいます。
今回も、最近、健康&ダイエットに関する本を読んでいて、その流れで船瀬さんの本が紹介されていて、その関連本としてこの本が表示されたので、タイトルにピンときて買ったのでした。

しかし、読み始めてから、思っていたのと少し違うなと感じました。
それで前に紹介した本の記事を読み直したのですが、やはり船瀬さんの過激に批判的な部分に賛同できない気持ちが書かれていました。
今回の本も、批判が強すぎて感情的になりすぎており、事実の認定に客観性が欠落している部分が散見されました。

ただ、だからと言って船瀬さんの言うことを否定できないことも事実です。
私は、こういう考えもあるなというくらいで読みました。そういう前置きをして、本を紹介したいと思います。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

……本当のことが、書けないんだ」
 なんど、この嘆きの声を聞いたことだろう。
 わたしには、若い頃より何人もの新聞記者の先輩、友人たちがいた(本書第一章参照)。
 みな、正義漢で、やさしいひとたちばかりだった。
 その彼らが、苦渋と諦めの表情でこうつぶやくのだった。
 朝日のK記者は「辞めたい」と嘆き、読売のH記者は「ナベツネが白といえば白」と自嘲した。日経のM君は「企業批判は一行も書けない」。
 共同のT先輩は「わが社は腐ってます!」と号泣した。
」(p.17)

確かに、こういうことがあったのでしょう。
マスコミといえども企業ですから、儲けのために圧力を受け、真実を捻じ曲げることがあっても不思議ではありません。


『ほんものの酒を!』は三一書房から新書判で刊行されるやベストセラーとなった。
 勇気づけられたのが、地方の名酒造である。そこから優良な地酒ブームに火がついた。
 その品質向上の勢いは、火付け役のわたしですら、驚嘆するほどだ。
」(p.67)

確かに、日本酒の品質が大幅に改善された時期がありました。その流れを作ったのは、船瀬さんの本がきっかけだったのですね。
ただ、品質を隠して偽の酒が造られていたかのように書かれていますが、それはどうだろう? と思うのです。当時、三倍増醸酒というのは知られており、二級酒や一級酒の区分けにはあまり意味がないことも言われていました。

私も、甘ったるい日本酒は頭痛がするし、悪酔いするので敬遠していました。その中で、新潟へ行った時に「八海山」という日本酒を飲んで、千鳥足になりながらも気持ちよく酔い、二日酔いもしなかったことがきっかけで、純米酒というのば別の酒だと気づいたのです。
それ以降、飲むなら純米酒か、せいぜい本醸造と決めていました。今では、純米酒や本醸造以外の日本酒は存在しないのではないでしょうか。日本酒がワイン並に世界に受け入れられるようになったことは、本当に素晴らしいことだと思います。


これら「タレント証言」「商品テスト結果」「各社回答」の”証拠”を固めて、記者会見の案内を出した。テーマは「洗剤CMはインチキだ!」
 マスコミ各社が詰めかけた。なかでも活躍したのがNHKの池上彰さんだ。
」(p.78)

そう言えば、そんなことがありましたね。洗剤のCMで「こんなにきれいになります!」という誇大広告。実は新品と差し替えていたことがわかり、告発されたようです。その当時、池上さんはNHKの記者だったようです。
まあ、あんなCMがウソだということは、多くの人が気づいていただろうと思います。なぜなら、実際に洗ってみればわかるからです。私の姉も、小学校の時の自由研究で、洗濯方法による汚れ落ちの違いを研究発表しましたが、どれ一つきれいに落ちたものはありませんでしたよ。


こういう過去の告発したデタラメを書かれているのですが、ちょっと盛りすぎているんじゃないかなと感じる部分も目立ちます。
たとえば、化粧品による「女子顔面黒皮症」という被害についての記述が56ページからあるのですが、そこには代表的なメーカー大手7社とその代表取締役を、詐欺罪、薬事法・景表法違反の罪状で刑事告発したとあります。資生堂も入っています。しかし、ネットで検索してみると、公害訴訟になっており、資生堂は入っていません。
これは、化粧品に含まれていた色素によるアレルギー反応が原因だということになったようです。資生堂の製品には、それが使われていなかったのだとか。そして、多額の和解金を払って和解決着したようです。

もし本当に詐欺罪で告発し、勝訴していたのだとすれば、大問題になっていたはずですが、そんな記憶もありません。
化粧品被害は、使用者の全員とか大多数に及んだわけではなく、一部の人だけでした。そして、そういうアレルギー反応があることを予見できなかったということで、そういうことはあり得ると思うのです。
そうであれば、騙して毒を買わせたなんてことではなく、安全に対する配慮が少し足りなかった、今後は改めます、という程度のものとも言えるのではないでしょうか。


子どもは大人のおよそ一〇倍、胎児は一〇〇倍、悪影響を受けると考えるべきだ。
 だから妊娠中こそ、電磁波を母体から遠ざけなければならない。
 たとえば、IH調理器を普通に使っているだけで数十ミリガウスは被ばくする。
 すると、流産が五・七倍急増する、という研究報告がある。
 さらに恐ろしいのが電気カーペットや電気毛布だ。表面は三〇〇ミリガウスを超える。
 つまり、安全基準の三〇〇倍超。電磁波の発ガン性、催奇形性を思い出してほしい。
 妊娠初期三ヵ月間、電気毛布を使った妊婦を悲劇がおそっていた。
 胎児の先天異常(奇形)が一〇倍に急増していたのだ。
」(p.93)

スカイツリー周辺住民には、これから数倍から数十倍、ガンや白血病、奇形が発生することだろう。」(p.97)

だから門真市民は、全員退避しなければならない。
 福島原発と同じ。それなのに、門真市民は、電磁波の脅威について、何ひとつ知らされていない。
 一人の自治会長がコツコツと調査を進めた結果、衝撃事実が判った。門真市の白血病死亡率は、大阪府の平均の約一五〇倍にたっしていた……。
」(p.103-104)

電磁波が健康を害するということは、昔から指摘されてきました。それについても多くの研究がなされていますが、いまだに確たる結論が得られていないと思います。
しかし船瀬さんは、このように10倍とか100倍とか、ガンや奇形が増えているという何とも恐ろしい結論を断定されています。
では、実際はどうなのでしょう? ネットで検索した限り、そういう統計結果を見つけることはできませんでした。もし、10倍とか、まして100倍もガン患者やガン死亡者が増えていたなら、統計数値も歪な急増が見られるのではないでしょうか?
それとも、そういう統計数値でさえも、後で出てくる闇の支配者によってもみ消されているのでしょうか?


だれも知らされていないが、電磁波被ばく以上に、リニアには致命的欠陥がある。
 それが”クエンチ”現象だ。これは、超電導磁石が、突然、磁力を失う。
 その原因は、いまだに不明。
 つまり、原因が不明ということは、対策も不能ということだ。
 この謎の”クエンチ”がいかに恐ろしいか。リニアの全路線の九割はトンネルだ。それも、南アルプスの頂から三〇〇〇メートルも地下の暗黒の世界。そこを時速五〇〇キロで疾走する。その瞬間、”クエンチ”が起きたらどうなる?
 一瞬で乗客は火ダルマに包まれる。約一〇〇〇人の乗客は火炎地獄で苦悩死する。
」(p.109)

だからJR東日本の社長も絶対に乗らないと言っているのだとか。
表現は詩的で、いかにも恐怖を煽るような書き方です。トンネルの中での衝突火災事故において、地下3000mかどうかなど、どうでもいいことでしょう。
それに、そんな事故が起こる可能性を無視して開発し運行しても、大惨事が起こったら会社が潰れますよ。そんな博打みたいなことをやるでしょうか? 私には疑問です。


3Gガラケーでも害がある。
 一〇年間耳に当てて使う。それだけで五倍も脳しゅようができる(二〇代)。
 おそるべき発ガン性だ。
」(p.121)

「5Gにはタバコと同じレベルの発ガン性がある」
 ガン研究の世界的権威A・ミラー博士(トロント大名誉教授)は断言する。
 これは、人類全員にタバコを強制的に吸わせるのと同じだ。
」(p.121)

これも電磁波による発ガン性の指摘ですが、たしかタバコのガン死の可能性は5%上昇させるというものではなかったでしょうか?(厚労省の資料) それなのに、5Gより3Gの方がガンの危険性が高くなるのでしょうか?

たしかに発ガン性に関しては、数倍と指摘する研究があることも事実です。しかし、そういう一部の研究があるからと言って、それが絶対的に正しいと言い切れません。
船瀬さんの主張は、一部の自分にとって都合の良い事実を切り取って取り上げ、不安(恐れ)を煽るような表現で紹介しているように感じられます。そういう意味では、船瀬さんのやり方こそ、まさに洗脳ではないか、という気もするのです。


なら、人類にも同じ被害が確実に生じる。それは、だれでもわかる。
 なのに、なぜ”かれら”は5Gを強行しようとしているのか?
 目的は三つだ。

@巨利収奪
A洗脳操作
B人口削減
」(p.125)

よく言われていることですね。しかし、儲けのためということは理解できますが、人口削減というのは、私には眉唾です。本当に人口削減が目的なら、こんなまどろっこしいことはしないと思うからです。
さらに言えば、携帯電話(スマホ)という超便利なものが普及した社会において、その「かれら」は利用しないのでしょうか? もし利用すれば、自分たちを殺すことになりますけど。

いやそれは、5Gを使わない地域があるんだ。そう言う人もいます。でも、先ほど引用したように、3Gでも害があるんですよね? そのうち固定電話なんてなくなりますよ。電磁波が問題なのであれば、アマチュア無線もトランシーバーもダメでしょ。


アメリカでは食事療法など自然な治療でガンを治す医者が数百人暗殺された……という。ガン食事療法で世界的な権威マックス・ゲルソン博士も、ロックフェラー財閥が放った刺客に暗殺されている。」(p.138)

まず、根拠がまったく示されていません。そして伝聞を示すことで、暗にそれが事実だと思い込ませようとしています。根拠を示さずに言い切るのは、洗脳の常套手段ですよね。


Aの毒物反射は、血圧低下だけではない。
 その他、何十という毒反射の症状が出ている。しかし、医者も製薬会社も、これらには眼をつぶる。「副作用」のひと括りで片付ける。彼らが望むのは、血圧低下という”毒反射”だけ。それを「主作用」として、大々的に宣伝し、売りまくる。
」(p.147)

西洋医学の、もう一つの致命的な過ちは「病気」と「症状」を混同したことだ。
 東洋医学は、「症状」を「病気」の「治癒反応」ととらえる。こちらが正解だ。
 風邪という「病気」のとき、「発熱」「咳」「下痢」などの「症状」が現れる。
 それらはすべて、「風邪」を治すための「治癒反応」だ。
」(p.149)

あらゆる病気の原因は、”体毒”に帰する。
 ”体毒”のルーツには二つある。口の毒と、心の毒である。それは過食と苦悩……。
 代謝能力を超えた過食と苦悩が二つの毒素を体内にめぐらす。それが「老廃物」と神経ホルモン「アドレナリン」だ。後者は毒蛇の毒素の三〜四倍というほど猛毒だ。それが、体内を巡る。ムカムカ気分が悪くなり、イライラする。
 万病は、これら”体毒”によって生じる。
 だから、”体毒”を消せば、万病も消える。
 これが、「断食」(ファスティング)で病気が治る基本メカニズムだ。
」(p.152)

薬というものは、私もこういうものだと思っています。基本的に人体の症状を抑えることを目的にしています。その症状が病気そのものであるかのように見なしているからです。
しかし、船瀬さんも指摘しているように、症状とは自然治癒力が病気を治して健康に向かおうとするために引き起こしているものです。発熱も下痢も嘔吐も痛みも高血圧も、すべてそうです。
そこを見誤っているのが西洋医学だという指摘は、私も賛同します。そして、断食を含む少食によって健康を取り戻す、つまり、自然治癒力を助けるという考え方にも賛同しています。理屈的に筋が通っていると思うからです。


肉類をはじめとする動物たんぱく質は、腸内悪玉菌の大好物。やつらは「肉」をエサにして大増殖して、アミン類、インドール、スカトール、アンモニアなど、猛毒、発ガン物質を排泄する。それが、まず腸壁を刺激する。だから、アメリカに渡った日系人の三世の大腸ガン死亡率は、母国日本の五倍にも達する。
 さらに、発ガン物質は腸壁から吸収されて、全身をめぐる。
 だから肉食者は、あらゆる発ガンリスクが高まる。
 さらに、心臓病や糖尿病リスクは、跳ね上がる。
」(p.160)

これも、一方的な決めつけかと思います。5倍も発がんしているのであれば、それが統計に表れるはずです。しかし、日本人とアメリカ人を比べてみても、そこまでの差はありませんよ。むしろアメリカ人の方が、ガン死が減少しているという統計もあります。
それに、人口削減を目論んでいる人たちがいるのなら、アメリカとかイスラエルとか、残したい地域の人たちは健康食を食べられるように策謀するんじゃないでしょうか。

もちろん、だからと言って、菜食の方が健康的だという説を否定するつもりはありません。私自身、いずれ人類は肉食をやめるだろうし、究極的には食べることをやめるんじゃないかとさえ思っています。


私たち人類は、大きく騙されてきた。そして、今も騙されている。
 だれから? それを、私は本書では”闇の支配者”などと表している。
 その正体も明記してきた。国際秘密結社フリーメイソンであり、その中枢を支配するイルミナティである。ロスチャイルド、ロックフェラー両財閥は、その”双頭の悪魔”である。
」(p.177-178)

船瀬さんは、陰謀論が正しいのだということを堂々と主張されています。しかし、私は懐疑的です。
理由は単純です。なぜ、そんな秘密を船瀬さんは知ることができるのか? そして、それを知りながら、なぜ船瀬さんは暗殺されないのか? これだけ著作で暴露しているにも関わらず。

もし、船瀬さんの暴露が、闇の支配勢力にとって大して問題になってないのだとすれば、それはすなわち重要な秘密を暴いていないことになります。もし暴いているなら、確実に殺されているでしょう。だって、ガンの自然療法を推進する医者ですら暗殺されたんですからね、船瀬さんによれば。
ここに大きな矛盾を感じています。この矛盾について、この本でもそうですが、陰謀論者から的確な説明を聞いたことがありません。だから私は懐疑的なのです。もちろん、だから真実ではないと断定するものではありませんがね。


この他にも、日航機の墜落事故、マレーシア航空370便の失踪事件、9.11テロなど、いくつかの事件や事故での陰謀説を展開されています。
私も、一部に関してはかなり疑問を持っているものがあります。しかし、だからと言って、絶対的に陰謀だと決めつけるだけの根拠も持ち合わせていません。


しかし、わたしの周辺で、マスコミ出口調査を受けた者は皆無だ。
 わたしが主催する「船瀬塾」全員にも聞いたが、一人の手も挙がらない。
 つまり、「出口調査」「アンケート」もポーズだけ。
 他方で、二〇一二年、ネット上ではロイター通信による市民による出口調査が公表されている。
 その結果は、選挙速報とはまったく正反対だ。
 じっさいの出口調査では、「未来の党」が八倍、自民に大勝している。
 しかし、フタを開けてみたら……自公の”圧勝”。
」(p.248)

2012年の衆院選で自公が圧勝したことも、マスコミの意図的な情報操作であり、さらには投票の改ざんだと船瀬さんは決めつけています。
しかし、これも私には眉唾です。まず、仮に船瀬さんの身近な人たちが出口調査を受けていないとしても、出口調査をしていないという決定的な証拠にはなりません。それに、マスコミの出口調査はウソだと決めつけながら、ロイターの調査は本当だと、どうして断定できるのでしょう?
さらに、地方局の報道だと与党が1%で野党が99%の得票だったというようなことを取り上げていますが、その方がおかしいでしょう。だって、地方で与党がほとんど支持されないなんてことはありませんから。そんなに国民のリテラシーは高くありませんて。

このように、船瀬さんにとって都合の良い情報は無条件に正しいと断定し、受け入れたくない情報は間違っているとか、意図的に捏造されていると決めつけている。そして、それを示すのに都合の良い情報のみを証拠として取り上げている。
私には、そのように感じられます。もちろん、絶対にそうだとは言い切りませんがね。


なるほど、「真実」を知ることは、楽しいことではない。
「真言」は「耳に痛く」「心は惑う」。
 しかし、「真実」に耳をふさぎ目を閉じる。
 そうして生きることは、まさに「真実からの逃亡」だ。
 その先には、やはり、「底無しの地獄」が待つ。」
(p.300)

私も、真実を追求することは重要だと思います。あくまでも決めつけずに、可能性に心を開きながら。
だからこそ、船瀬さんが主張する「真実」に対しても、懐疑的な態度を持ち続けたいと思うのです。


すでに何度も言っているように、船瀬さんの話は、決めつけていることが多いように感じます。根拠が足りないのです。
もちろん、何を信じるかは人それぞれですから、船瀬さんの陰謀論を信じたい人は信じればよいと思いますよ。しかし、私はまだ懐疑的だということです。

大手のマスコミだけでなく、こういう本であっても、必ずしも真実を語っているわけではない。私は、そのように思っています。
だからこそ、自分で判断することが大切であり、そのための能力を磨くことが重要ではないかと思うのです。
そういうことをお伝えしたくて、あえてこの本を紹介しました。私が絶賛お勧めする本ではありませんが、参考にはなるかと思います。

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タグ:船瀬俊介
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 08:22 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年09月21日

生まれが9割の世界をどう生きるか



以前に紹介した「ただしさに殺されないために」の中で「親ガチャ」についての記述がありました。
若者たちにとっては「努力すれば報われる」という、ひと昔前までであれば多くの人から素朴に信じられ肯定されてきたような美しい物語を、真っ向から否定し叩き壊す「不都合な真実(ネタバレ)」があまりにも数多く提供されすぎてしまったのである。」(p.212-213)
つまり、遺伝によってほぼ決まっているのだから、努力すれば何とかなるというの幻想であると。それが「親ガチャ」という言葉を生み出し、それが共感的に受け入れられる土壌になっているのではないか、というわけですね。

このことに興味を覚えたので、ここで紹介されていた安藤氏の本を読んでみることにしたのです。
ネットで検索して探したのですが、紹介されていた本の後に出版されたこちらの本が面白そうだと感じました。サブタイトルには「遺伝と環境による不平等な現実を生き抜く処方箋」とあり、そういうどうにもならない現実を生きる方法について言及されていると思ったからです。

著者は安藤寿康(あんどう・じゅこう)氏。慶応大学の文学部卒となっています。遺伝学は理系かと思ったのですが、教育心理学や行動遺伝学などの専門分野で、遺伝が与える影響などを研究しておられるようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

世界は親ガチャと環境ガチャでほとんどが説明できてしまう不平等なものですが、世界の誰もがガチャのもとで不平等であるという意味で平等であり、遺伝子が生み出した脳が、ガチャな環境に対して能動的に未来を描いていくことのできる臓器なのだとすれば、その働きがもたらす内的感覚に気づくことによって、その不平等さを生かして、前向きに生きることができるのではないでしょうか。」(p.6)

これが結論的なことですね。詳しく説明されていますが、遺伝によって50%くらいは決まっており、生活環境によって30〜40%が決まるのであれば、自分の努力ではほぼどうにもならないということになります。これが本の帯に書かれている「人生は「運」と「偶然」で決まります」ということなのですね。
けれども、そういう他律的な部分があることを前提として、自分の意思でそれをどう受け止めるかを決めることができます。それによって、幸せにもなれれば、不幸にもなれるのです。


個々のパーツは、確かにお父さん、お母さんに似ているわけですが、出来上がった子どもの顔は、お父さんそのものでもなければ、お母さんそのものでもありません。お父さん、お母さんからいくつかのパーツが伝達された結果、まったく別の顔立ちが作られたのです。どんなパーツが伝達されてどんな顔立ちになるのかは、父と母それぞれの生殖細胞で減数分裂が行われた後、受精卵になった時点で決まります。こうして作られた顔立ちが遺伝だと考えればよいでしょう。」(p.37)

遺伝でほとんどが決まると言っても、その遺伝のされ方は様々です。同じ両親のもとに生まれる兄弟姉妹で違いが多々あることからも明らかでしょう。

どんな役柄を演じる舞台や脚本を与えられるかが、つまりは環境ということです。そういう意味で、人の顔は、親から伝達されたパーツで構成された顔立ちと、どういう表情をすることになるかという環境によってできていると言うことができます。」(p.38)

普段どんな表情をしているかがシワに刻み込まれて、その人の顔を作り上げる。そうであれば、苦悩に満ちた人生環境なのか、それともニコニコ笑顔で過ごせる環境なのかで、作られる顔(表情)はまったく違ってくるのです。

人間のABO血液型も非相加的遺伝ですね。遺伝子型がAAまたはAOならA型、BBまたはBOならB型、OOならO型、ABならAB型になるということはよく知られています。
 もっとも、人間のさまざまな形質の大部分は相加的遺伝で説明でき、知能や学力なども相加的遺伝の傾向が強い形質です。
」(p.44)

私も子どもの頃に読みましたが、メンデルの法則で知られている遺伝の話が、「親に似る子似ない子」という本で紹介されていました。これが非相加的遺伝と呼ばれるものだそうです。
しかし、遺伝の多くは相加的遺伝であり、これは両親のいくつかの遺伝子の組み合わせでONとOFFが決まり、そのONの集積によって、その特性がどの程度現れるかが決まるというものです。したがって、同じ両親の子どもであっても、その効果量が合わせて1のこともあれば10のこともある。どういう子どもとして生まれるかは、遺伝子の組み合わせ次第というわけです。


ある時点で同じ景色や出来事を経験しても、次の瞬間にはそれぞれ別の景色や出来事に出会い、違う経験の連鎖となってゆく。その異なる経験の連鎖から何を切り取り、何を知識として積み重ねてゆくかに、環境の偶然と遺伝の必然が相互作用していきます。」(p.51-52)

また、親としてはどの子も同じように褒めたり叱ったりしているつもりでも、その受け取り方は子どもによって違います。叱られたことをものすごく気にする子もいれば、まったく気にしない子もいます。どういう影響を受けるかは、子どもの遺伝的素質によって変わってきます。それどころか遺伝的素質が同じはずの一卵性双生児の間でも変わってくるのです。」(p.53)

つまり一言で「環境」と言っても、まったく同じ環境を経験できるわけではなく、その違いによって受け止め方(経験)が違ってくるということが1つあるのです。さらに、仮にまったく同じ環境であったとしても、それをどう受け止めるか(経験するか)は、それぞれの遺伝に影響された素質によっても違うということですね。

ですから言うまでもないことですが、子育ての影響が少ないというのは、親が子どもの世話をしなくてもいい、関わりを持たなくていいということではありません。子育て(共有環境)の影響が少ないといいますが、これは「こう育てればこうなる」という一般的な子育ての法則があるわけではないと言っているのです。」(p.54-55)

同じように育てたからと言って、同じように育つわけではありません。どう育つかは、何とも言えないのです。


ただ世の中、ごく稀にへそ曲がりがいて、遺伝的素質のセットポイントが2の人がたまたま出会ったセットポイント2の指導者の持つ何かに強烈にインスパイアされて、いきなり4の能力を発揮してしまうということがないとは限りません。これを遺伝と環境の相互作用と言います。こんな稀な出来事が生ずるメカニズムは複雑すぎて解明不能です。」(p.58)

立派な親や指導者だから、立派な子どもや選手が育つわけでもないのですね。

以上をまとめると、環境というのは膨大な要因で構成されており、一つ一つの要因の効果量は極めて微小、なおかつしばしば遺伝的素質と複雑な交互作用をしているということです。誰にとっても同様に作用する、単純な環境というものは存在しません。あらゆる形質は、遺伝と環境が複雑に作用して形成されているのです。」(p.60)

結局、遺伝とか環境によってほとんどが決まってしまうのですが、それらは本人がどうすればどうなるかという予測が不可能なものだ、ということになるのです。


音楽的な才能だとか大上段に構えなくても、何かを好むということ自体がすでに「その人らしさ」の表れであり、能力の萌芽なのです。
 自分の中にある「これが好き」、「これは得意」、「これならできそう」、そういったポジティヴな内的な感覚は、自分の能力に関する重要な手がかりです。
」(p.77)

才能というのも、両親の才能とか指導者などの環境だけで決まるわけではありません。その子にどんな才能があるか、周りからは知る由もなく、本人が何を好むか、どんなことに直感を感じるのかによってのみ、知ることができる可能性がある、ということですね。

遺伝的素質という観点からすれば、きょうだいも他人と同じくらいに違うと言っても過言ではありません。ある形質について、他人と比べて一喜一憂しても仕方ないのと同じくらいに、きょうだいと比べても仕方ないのです。」(p.94)

遺伝によってほとんどが決まるという意味は、同じ両親からは同じ才能の子どもが生まれるわけではないのです。


その結果は、教育年数の差は賃金に一定の差を生みますが、どの大学に行くかは将来の賃金に影響しない。特に一卵性双生児のきょうだいが、一方は偏差値の高い高校、他方がそうでない高校に行き、大学も偏差値の違う大学に行ったとしても、その差はその後の賃金には影響していないことがわかりました。」(p.105)

つまり、受験の成功や失敗で人生が決まるわけではないのですね。それが統計が示していることなのです。


では、資産の多寡に関係なく、誰もが学校で読み書きを習うようになったら現代の読解力のグラフはどうなるでしょうか。その場合は、グラフはきれいな正規分布を描くでしょう。
 つまり、環境側の圧力が低下すればするほど、遺伝的な能力の差がストレートに出てくるようになるということです。
」(p.134-135)

かつてのように、貴族とか武士など上流階級の人にしか学ぶ機会が与えられないような社会的な制約があるなら、当然、その恩恵が得られる階級に属しているかどうかで人生が決まると言えるでしょう。
しかし現代の日本のように、そういう差別が許されない社会においては、基本的に遺伝的な能力差が顕著に現れるのです。


あまりにも自分と合わない環境だと感じたら、別の居場所を持つようにする。それは空想の世界でも、思索の世界でもかまいません。その先に何か豊かな世界が予感できるのであればいいのです。」(p.142)

ほとんどのことが遺伝的に決まっているなら、特定の環境に合わせて能力を伸ばそうなどと無理な努力を重ねるより、自分が居心地が良いと感じる環境、つまり自分に合った環境を選んでいくことが賢い生き方だと言えるのではないでしょうか。


確かに、子どもの能力が「特定の領域に対してフィットしている」という稀な幸運はありえますが、そのためにいくつもの習いごとをさせて適性を見るというのは分のよい方法だとは思えません。なぜならいわゆる才能を発揮している人が、子どもの頃にたくさんの習いごとをする中で、その才能の素質に出会ったというエビデンスはないからです。むしろ遺伝的な能力は、どんな状況でも自らそれを育てる環境を選び取っていくようです。」(p.157)

では、児童期の学力や知能に影響がある共有環境の具体的な中身、どんな子育てをすると、子どもの知能を高めることができるのかについては、正確なところはわかりません。これは研究されていないのではなく、数ある要因一つ一つの効果量が小さいため、「○○をしたら、決定的に知能を高める効果がある」と答えるほどのものがないということです。」(p.177)

しかしこれまでの研究で、子どもの知能や学力に効果がありそうな要因を2つ挙げることができます。それは「静かで落ち着いた雰囲気の中で、きちんとした生活をさせること」と「本の読み聞かせをすること」です。」(p.177)

何が子どもの教育に役立つかははっきりしないものの、自堕落的ではなく、落ち着いて何かに没頭できるような静かな環境と、知的好奇心をくすぐるような読書の習慣を身に着けさせる読み聞かせが良いと安藤氏は言います。


また、素質がない人が何かに挑戦することが無駄とも私は思いません。この世のあらゆる知識は何らかの形でつながっていますから、自分の中にある別の能力に気づくきっかけになるかもしれません。素質がなかったからこそ、素質がある人がどれほどすごいのかを深く理解できるようになり、その世界のよきサポーターになることも大いにありえます。」(p.184)

自分が大成しないとしても、挑戦することのメリットはありますからね。


タークハイマーらの研究結果から言えるのは、SES(社会経済状況)が高くなるとさまざまな能力についての遺伝率が上がる傾向があるということ。つまり、お金の制約など環境側の圧力が低くなることにより、その人が持っていた遺伝的素質が出やすくなると言えます。」(p.206-207)

遺伝的素質の高い子どもにとって、SESの高低はそれほど問題にはならないと言えそうです。もちろんSESが高い方が素質を発揮する文化資本にアクセスしやすく有利ですが、それに恵まれていないSESの低い環境にいても、遺伝的素質があれば、それが自ずと発現し、自らがその才能に気づき、周りの人もそれを支えようとして、引き上げてくれる可能性があるでしょう。」(p.207)

つまり、才能がある子どもは、たとえ環境が整っていなくても、どうにかしてその才能が発揮されるようになっていく、ということですね。
逆に言えば、環境が整わないから才能が発揮できなかったと考えるのは間違いで、そもそもそういう才能がなかったのだと考えるべきだということです。


優生学は否定されましたが、同時に心理的形質の遺伝がタブーになったことで、逆に「優生的現実」、すなわち遺伝的に優秀な人が有利に生きられる社会はそのまま残ってしまったのです。人々は「優れた人」をあがめ、自分もそうなろうとし、そうでない人の価値を貶めます。そういう優生思想は生き延びてしまいました。そのことに、私たちはもっと自覚的であるべきでしょう。
 遺伝的素質の差異があるにもかかわらず、特に知能や学力という基準で人を序列化する。そうした暗黙的な序列に基づいて、社会的地位や収入が決まっていく。これこそ、「優生社会」ではないでしょうか?
」(p.227)

ナチスが、アーリア人こそが遺伝的に優れているという優生思想を掲げ、遺伝的に劣っている人種を見下したことは有名です。そのことへの反省(忌避)から、優生的遺伝を否定し、教育次第で才能を伸ばせるとするのは、科学的とは言えません。
能力は遺伝的に決まるものですが、能力は多岐にわたっています。学力とか知力だけが能力ではないし、それだけで人の優劣が決まるものではありません。


しかし、人間の能力の生かされ方は、突出した個人技ではなく、複数のローカルな人間関係の中で現れてくるものです。いや仮に突出した人だけが輝いていたとしても、その人の周りには、その人を輝かせているたくさんの人たちの協力によるネットワークが成り立っています。そのネットワークの中で、他の人にはできない働きをする時、その能力にはやはりその人の遺伝的素質が発揮されているのです。」(p.230)

たとえば野球の才能がある人でも、誰もが野球を知らない国へ行けば、その才能を発揮できません。野球のことを知って、その才能を高く評価してくれる大勢の人がいるからこそ、その才能が社会の役に立つのです。

能力の個人差について研究してきた行動遺伝学者がこんなことを言うのは意外かもしれませんが、そもそも論で言うなら、人より抜きん出た能力を伸ばして輝くという考え方そのものに無理があるのではないでしょうか。」(p.233-234)

小さな集落の中で、自分の持っている能力を自然に発揮してリアルに生きる。そうした生き方は、これからのロールモデルになりうると感じました。ハーバード大学が1938年から行っている成人の発達研究でも、家族、友人、コミュニティとつながりのある人は幸福で健康、長生きすることが示されています。
 高度知識社会の幻想にとらわれていると、世界には高い知能を備えた少数のエリートとその他大勢の凡人しかいないように見えるかもしれませんが、リアルな社会はたくさんのローカルをその中に包含しています。
」(p.236)

たくさんの仕事が生まれるということは、たくさんの「隙間」ができるということ。その隙間を埋めれば埋めるほどさらに多くの隙間ができます。お金になる仕事に限らず、同好の士が集まるコミュニティも生まれます。生まれた場所とは違うところに居心地のよい時間を見つけてそこで仲間になった人たちと過ごすもよし、自分自身で隙間を作ってそこに人を呼び込んでもよいのです。起業というほど大層なものでなくても、居心地のよいコミュニティはそれだけで価値があります。」(p.239-240)

見えない他人と比較して、自分の才能の無さをなげいていても意味がありません。それより、現実的に身近なコミュニティにおいて、自分の居心地のよい居場所を見つけることですね。その中で自分らしく生きれば、それが自分の才能を発揮する最高の場所になるのですから。


いますぐ解決することは難しいですが、私はこれらは移行期ゆえの問題だと見ています。まともに食っていけるだけの報酬を得られる人がグローバルな序列の上の方だけということになれば、結局はその上の方の人たちがせっかく作ったモノやサービスを買う人間はいなくなってしまうのですから。」(p.241)

経済格差の問題に関して、最近は格差が拡大したというニュースもあります。それに対して、一時的なものと見ておられるようです。

言うまでもなく、私たちの社会はとても不平等です。その不平等をもたらす大きな原因の一つが、偶然親から配られた遺伝子の組み合わせが生む遺伝的な素質の格差だということが行動遺伝学によって明らかになりました。それからもう一つの原因は偶然の環境です。遺伝も環境もガチャであり、それで9割が説明されてしまいます。」(p.245)

興味を持ったことを学んでいく中で、社会における自分の役割を見出す。同時に、他者の持つ素質を見出し、学んだことを伝えていく−−。
 それこそが、はるか未来でもAIにはできない、人間の役割ではないでしょうか。
」(p.246)

不平等ということは、「違い」があるということです。人それぞれ違うのです。つまり、多様であるということ。
だからこそ、自分や子どもの才能を見つけようと努力することは良いとしても、他人の才能を見つけ出したり、それを称えたりすることによって、共に生きていくことが、全体で素晴らしい社会にしていくことにつながるのではないでしょうか。
このことが、タイトルの「生まれが9割の世界をどう生きるか」という問いへの答えになるかと思います。


遺伝や環境で9割が決まるということは、最初に想像していたのとは違う意味でした。いわば宿命というものだと思います。自分が意識してどうこうできるものではありません。
また、生まれた後のことであれば、運命とも言えます。運命は自分の努力でどうにかなるとも言えますが、それでも思い通りにはならないものです。

したがって、ただ起こったことを必然であり、最善であり、完璧なのだと受け止める。その上で、どう生きるかが問われている。
どんな才能が与えられているかはわからないけれど、何らかの才能が与えられているのだと信じて、今の自分を受けれ入れて、自分に正直に生きること。
そんなことを考えさせてくれる本でした。

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タグ:安藤寿康
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2022年09月15日

医師が教える最強の間食術



これもYoutubeの本の要約動画で知ったものです。著者は鈴木幹啓(すずき・みきひろ)医師。冒頭に写真付きで紹介されていますが、93kgから69kgへと4ヶ月で24kgのダイエットに成功されたそうです。
その秘密が間食として高カカオチョコレートを食べること。1日75g食べたと言われますから、ほぼ市販の1箱を毎日食べられたことになります。
もちろん、他の食事においてのカロリー制限などと併用であることは言うまでもありません。これまでと同じ食事をして、チョコレートだけ余分に食べたら、それは体重も減らないでしょう。

鈴木医師は、この高カカオチョコレートを間食として食べることが、単にダイエットに役立つだけでなく、様々な健康のための要因になっていると言います。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

確かに、「間食」で食べるものには、砂糖がたっぷりで、
健康にいいとはいいがたいものが多くあります。
しかし、適度な量で、さらに健康効果が高いものを
食べれば、「間食」は、食事では摂れなかった
体にいい栄養素を補給する、最高の機会となるのです。
」(p.3)

健康のために、サプリメントを摂るよりも、
おいしい「間食」のほうが、摂り忘れる回数が、
ぐっと少なくなりそうな気がしないでしょうか?

栄養価の高いものを
「間食」で摂る食事術こそ、
継続性が高く実践しやすい健康法だと
気がついたのです。
」(p.4-5)

食事を吟味して健康的なものを食べることは大事ですが、毎食毎食、栄養価を考えながら食事を作る(する)というのは、なかなか大変なことですからね。
鈴木医師は、味気ないサプリメントで栄養素を補給するより、間食を利用した方が効果的だと気付かれたようです。

ただ、栄養面、手軽さどちらも抜群で、
私がおすすめするのが、
高カカオチョコレートです。
(カカオ成分が70%以上のチョコレート)
」(p.6)

フルーツはおいしいし栄養価も高いと言えますが、日本では値段も高いし、基本的に生モノですから、扱いもそんなに簡単ではありません。
けれどもこれがチョコレートなら、保存も容易だし、好きな時に好きな量を食べられる手軽さがありますね。

ちなみに、人類史上、最高齢122歳まで生きたフランス人のジャンヌ・カルマンさんは、
週に1kg近くのチョコレートを食べていた
といいます。
」(p.13)

高カカオチョコレートには、様々な健康効果が期待できると言います。もちろんだからと言って、チョコレートさえ食べれば誰もが長生きできるわけではないでしょう。
ただ、この健康効果を知れば、上手に間食に取り入れたくなると思います。私も読後、そう思いましたから。


では、「適切な間食」とはどのようなものでしょうか。
 一番大切なのは、何を食べるかということです。
 私がおすすめするのは、次の3つの要素を含んだ食べ物です。
 ・老化を防ぐ「ポリフェノール」がたっぷり入ったもの
 ・太りにくいもの(GI値が低いもの)
 ・おいしくて、手軽に食べられるあまいもの
」(p.28-29)

間食で摂りたい要素としては、栄養面ではポリフェノールであり、食べても太りにくい(食物繊維が多い)ものであり、かつ甘くて手軽なものということですね。

血管が老化すれば、血の巡りが悪くなり、高血圧、糖尿病といった生活習慣病、心筋梗塞や脳梗塞といったもののリスクが高まりますし、脳の老化によって認知症、免疫細胞の老化によってがんなどが引き起こされることもあります。
 そんな体の老化を防ぐ成分として、私が注目するのがポリフェノールです。
」(p.29)

抗酸化作用のあるポリフェノールが老化防止に役立つことは、すでによく知られていますね。

そしてポリフェノールは、次のグラフのように体内で蓄積ができず、摂取してから効果が続くのが3〜4時間なので、できるだけこまめに摂りたい栄養素です。」(p.30)

摂取後2時間で、血中濃度のピークになるようです。その後は急速に血中濃度が下がっていき、4時間でピークの半分くらいになってしまう。8時間経つと1/3くらいになるのですね。

フルーツと異なり、高カカオチョコレートには、食べる際に皮をむいたり、切ったりする下処理が必要ありません。
 小分けにされているものも多くあり、それをパクっと食べればいい。そして砂糖も含まれているので、あまくておいしい。
 いい意味で中毒性があり、継続性にとても優れたものです。
」(p.41)

最近ではスーパーやコンビニでも高カカオチョコレートがよく売られており、手軽に手に入れることもできます。


では、毎日どれぐらいの量を食べていけばよいのでしょう。
 国立がん研究センターのがん対策研究所予防関連プロジェクトのウエブページで発表されている「多目的コホート研究(JPHC研究)からの成果報告」から考えると、日本人は、大よそ男性で1000mg/日、女性で900mg/日のポリフェノールを摂取しているようです。

 そして、1日の理想のポリフェノール摂取量は1500mg以上と一般的にいわれています。
 つまり、足りていないのです。
 チョコレートの種類によって異なりますが、72%以上の高カカオチョコレートを25gほど接種すれば、680mg以上のポリフェノールが接種できるので、不足分は十分に補える計算となります。

 したがって、1日に摂りたい分量の目安は25g。例えば、1ピース5gを5ピース、5回に分けて食べる「チョコちょこ食べ」はいかがでしょう。
」(p.42-43)

まずは、朝起きてからの「目覚ましチョコ」。
 起きたてに高カカオチョコレートをひと口。体に活動モードのスイッチが入ります。
 次に、3食食べる前の「チョコファースト」。
」(p.45)

食事の前に食物繊維の多い野菜を食べるベジファーストという食べ方がありますが、その野菜の代わりにチョコを食べる方法ですね。

もうひとつがおやつとして、がんばっている自分への「ごほうびチョコ」。
 昼食と夕食の間、仕事や家事の途中でパクリと食べてみてください。
 おすすめは14時〜16時まで。この間は、脂肪を蓄積するホルモンBMAL-1(ビーマルワン)の値が少なくなるからです
」(p.47)

このような「チョコちょこ食べ」という食べ方を勧めておられます。


ダイエットをしている場合は、高カカオチョコレートを間食で食べるぶん、食事で摂る炭水化物を減らしてみてください。」(p.50)

摂取カロリーの総量というものは、注意すべきだということですね。


高カカオチョコレートを食べ慣れていない人は、まずはカカオ70%台のものからスタートしてみてください。
 これを苦いと感じるようなら、要注意。味覚があまさに慣れきっている証拠です。
 食べ続けることで味覚は正常に戻っていき、自然と砂糖の多い食べ物を欲さないような体に。体質改善もできて、さらに大きな効果が得られます。
」(p.51-52)

砂糖中毒になっている場合も、この苦味が美味しいと感じるようになるまで続けることが大事なようです。


カカオマス、ココアパウダー、ココアバター、といったものは、すべてカカオの含有量として計算されますが、ポリフェノールがたっぷりなのは、カカオマスです。
 そのため、同じカカオの含有量の数値が記載されていても、カカオマスの量が違えば、ポリフェノール量が違います。
」(p.52)

高カカオチョコレートを買う時は、パッケージにポリフェノール量が書かれているものを買うのが良さそうですね。


健康でいたいなら、「脳」「血管」「腸」を大切にしましょう!

 体のこの3つの機関を「いい状態にキープしておく」ことこそ、「健康でいる」ために重要なのだ、と覚えておいてください。
」(p.55)

最重要なのは脳、血管、腸の健康を保つことだと鈴木医師は言います。

カカオポリフェノールを接種することで、脳の血流量が増え、BDNFを含む血流が増加することによって、脳の認知機能が高まる可能性があるのです。
 さらに、ポリフェノールといえば、抗酸化作用。抗酸化作用=アンチエイジングで知られていますが、脳の疲れを癒やし、BDNFを増やすのにも有効です。
 もうひとつの「テオプロミン」は、カカオから発見された成分で、自然界ではカカオのほか限られた植物にのみ含まれる苦味成分。血管を拡張させる作用があり、中枢神経の血管を拡張させることによって、記憶力や集中力を高める働きがあるといわれています。
」(p.66)

BDNFというのは、脳の活動をサポートする栄養分だそうです。このように、脳の健康や活性化に役立つことが期待されるようですね。

その点、高カカオチョコレートには、血管を修復し、強くする成分が含まれています。
 代表的なのが「カカオポリフェノール」。これには血管の炎症を抑え、血液をサラサラにして血流をよくする作用があることがわかっています。
 また、近年ではカカオポリフェノールに含まれるフラボノイドにも、血管をしなやかにする働きがあることも発見されました
」(p.68)

他にも悪玉コレステロールを抑制する効果があるなど、血管や血流の状態を良くするのに役立つ成分も、多く含まれているようです。

意外かもしれませんが、高カカオチョコレートには「食物繊維」が豊富です。」(p.69)

不溶性食物繊維が豊富で、便のかさを増したり、善玉菌のエサになって腸内フローラの状態を良くするのに役立ちそうです。


強い抗酸化力を持つポリフェノールは、直接的に活性酸素を退治し、体の老化から身を守り、アンチエイジングや生活習慣病の予防などにも力を発揮してくれる、「老化防止バリア」のような存在です。
 そして同じポリフェノールの中でも、チョコレートに含まれる「カカオポリフェノール」は、より高い抗酸化力が期待できます。
」(p.79)

カカオポリフェノールは数種類のポリフェノールの化合物だそうで、抗酸化作用の高いエピカテキンの含有量が多いという特徴があるそうです。


脳由来神経栄養因子であるBDNFは、記憶や認知機能と関連し、うつ病やアルツハイマー型認知症などの中枢神経系疾患との関連が、論文で報告されています。
 このBDNFは歳をとるとともに減っていくのですが、愛知県蒲郡市で行われた高カカオチョコレートの実証研究「蒲郡スタディ」(蒲郡市、株式会社明治、愛知学院大学による共同研究。45〜69歳までの347名を対象に実施)での実験で、チョコレートを摂取する前と後の血液中のBDNFを調べたところ、摂取後に増えていたことがわかりました。
 これは脳の認知機能や記憶力の向上に、カカオポリフェノールが役立つ可能性を示唆しています。
」(p.84-85)

チョコレートメーカーにとっては、これは朗報ですね。


次ページの表を見てもわかるように、高カカオチョコレートは低GI食品。GI値で見れば、太りにくい食品なのです。」(p.90)

カカオ72%のチョコレートが29なのに対し、バナナは51、フライドポテトは63、食パンは95などとGI値が示されています。
ちなみに55以下は低GI、56〜69は中GI、70以上は高GIという分類になるようです。

「脂肪=デブの素」。そう思うのも当然です。
 しかし、カカオ豆に含まれる脂肪は、ほかの脂肪と比べ「体内に吸収されにくい」性質があります。
」(p.96)

ステアリン酸が多くて、吸収されにくいのだそうです。

また、ステアリン酸、パルミチン酸のふたつの脂肪酸は、構造が安定している飽和脂肪酸。構造が不安定な不飽和脂肪酸は酸化しやすく、食品をダメにしやすいですが、飽和脂肪酸であるステアリン酸は変質しにくく、酸化しにくいのです。
 これが、チョコレートが長期保存できる理由でもあります。
 これらの理由から、カカオ豆に含まれる脂肪は体脂肪になりにくいうえ、酸化して体を傷つけることのない脂肪といえます。
」(p.97)

含まれる糖質も吸収が穏やかで、脂質も体に良いものだということですね。


前ページでご紹介した通り、高カカオチョコレートには、さつまいもの約4倍、ごぼうの約2.6倍もの食物繊維が含まれています(カカオ成分86%の場合)。」(p.100)

食物繊維は注目されている栄養素ですが、血糖値の上昇を抑えたり、便通を良くするなどの効果がありますね。
また善玉菌のエサにもなって腸内フローラの環境を良くしてくれる。腸を元気にする栄養素と言えるでしょう。

72%の高カカオチョコレートを「チョコちょこ食べ」習慣で1日25g食べるとすると摂れる食物繊維は3g。1日の不足分の半分もの量を補えるのです。」(p.103)

食物繊維以外にも、腸を元気にしてくれる栄養が高カカオチョコレートにはあるそうです。

カカオプロテインは食物繊維同様、大腸までしっかり届く「難消化性たんぱく質」。日本人に消化しにくい人が多いといわれる、牛乳に含まれるカゼインの消化率を100とすると、カカオプロテインはもっと消化しにくく33.3しか消化されないといいます(※帝京大学と株式会社明治の共同研究結果による)。
 つまり、カカオプロテインは多くが小腸で消化されずに大腸まで届き、善玉菌のエサとなって善玉菌を増やしてくれるのです。
」(p.106)

また、カカオプロテインを摂取すると、「フィーカリバクテリウム」という善玉菌が増えることもわかっています。
 102ページでもふれましたが、善玉菌が出す短鎖脂肪酸は、大腸のエネルギー源でもあり、大腸を健全にしてくれる大切な存在です。
 フィーカリバクテリウムも、この短鎖脂肪酸を大量に作り出す働きがあり、長寿の人の腸に多く存在することから「長寿菌」とも呼ばれています。
」(p.107)

初めて聞くような話でしたが、こういうことがあるのですね。


カカオプロテインには、その免疫力を高める働きもあります。
 前のページで、カカオプロテインに腸内環境を整える効果があることをご説明しましたが、腸内環境がよくなることは、免疫力を高めることにもつながります。
 なぜなら、感染症や病気などから体を守る「免疫細胞」の約70%が、腸内に住んでいるからです。
」(p.110)

腸の健康状態が良くなれば、身体全体の免疫力にも良い結果をもたらすと言えそうです。


テオプロミンを含有する植物はごくわずか。カカオ豆のほかにマテ茶の原料の灌木(かんぼく)やコーヒーの木など、限られた植物にのみ含まれる貴重な成分です。
 その働きは、大脳皮質に作用して集中力や記憶力を高めたり、自律神経を調整して、脳や体をリラックスさせたりする効果があります。
 また、幸せホルモンといわれるセロトニンの働きを助ける作用もあるので、イライラや緊張を感じた時に、チョコレートを食べると脳が落ち着きます。
」(p.114-115)

脳の働きを良くし、リラクゼーション効果をもたらすようです。


チョコレートは、これまでご紹介してきた栄養素のほかにも、さまざまな種類の「ミネラル」を含んでいます。
 亜鉛、鉄、マグネシウム、カルシウム、リンなどなど……。
」(p.121)

まさに、高カカオチョコレートは、「天然のマルチサプリメント」といえます。」(p.124)

意外にも多くのミネラル成分が含まれていますね。特にマグネシウムは、骨粗鬆症予防には必須です。


20歳以上、50歳未満の便秘を自覚する女性に、高カカオチョコレートとカカオ成分の少ないホワイトチョコレートを2週間食べてもらい、排便の回数や量などを検証。その結果、高カカオチョコレートを食べたグループは、1週間で排便回数が2.8回から3.9回に増え、2週間後には4.9回に。一方、ホワイトチョコレートを食べたグループは2週間後にも排便回数は増えませんでした(173ページのグラフを参照)。
 便の量も173ページのグラフのように、高カカオチョコレートを食べたグループでは、2週間後には2倍以上に増えていました。
」(p.171-172)

これも高カカオチョコレートの食物繊維の効果と言えそうですね。

東海学園女子大学の西堀すき江教授の研究によると、ダークチョコレートを食べたほとんどの人の血液の流れが摂取前よりよくなったという結果が出ています(左ページ下のグラフ参照)。
 高カカオチョコレートにも、それ以上の結果が期待できるのではないでしょうか。
 サラサラの血液が血管をスムーズに流れてくれれば血圧も下がり、血管にムダな負担がかかることもなくなります。
」(p.180)

高カカオチョコレートに、様々な病気の予防や治療においても、効果が期待されるということですね。


高カカオチョコレートは、いつまでも若々しい体を手に入れるための優秀な天然サプリである−−実体験からも、さまざまな研究結果を見ても、私が運営する介護施設の方に試していただいた結果からも、決していいすぎではないと思っています。」(p.205)

また、今回、介護施設で高カカオチョコレートを試してもらった方の中で、便通の改善を見られたこと、便秘薬を飲む量を減らせたという方がいらっしゃったのは、非常に喜ばしいことでした。
 ご本人の健康課題が解決するということはもちろんのこと、これが、便臭の改善につながる可能性があるからです。
 たかが便の臭いと思われるかもしれませんが、これが介護従事者や面会に来る方のストレスにつながっており、大きな課題となっています。
」(p.205-206)

私も高齢者介護施設で働いているので、この気持ちはよくわかります。
便秘の解消が、そのまますぐに便臭の改善に直結するとは思えませんが、何らかの良い影響を与えるようには思います。


実際、その効果がどの程度のものかは何とも言えませんが、これは自分で試してみるのが一番だと思います。なにせ、安価に手軽に買えるものですし、その摂取習慣を身につけるのも簡単にできそうです。
まずは自分でやってみる。その上で、この本の内容を改めて評価したいと思います。

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タグ:鈴木幹啓
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 09:19 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年09月13日

98キロの私が1年で40キロやせた 16時間断食



Youtubeの本の紹介動画で16時間断食のことを知りました。実は以前から知ってはいたのですが、本を読んだことがなかったのです。
それで、16時間断食を提唱されてる医学博士の青木厚(あおき・あつし)さんという方がおられるとわかったので、その本を買ってみようと思ったのです。探してみたところ、98kgから40kgも痩せたという実体験を持つ小堀智未(こぼり・ともみ)さんという歯科衛生士の方との共著があり、読みやすそうだし興味深かったので買ってみたというわけです。

実際、漫画を多用してあるし、行間も広めで、とても読みやすいです。科学的な根拠を探るというより、実際に自分がやってみるためのガイドとして、役立つのではないかと思いました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

従来のような「食べものの内容を制限する」ことではなく、

「食べない時間を増やす」

 たったこれだけで、肥満解消に向かい、健康的に体質改善できるというものです。
」(p.34)

そのメインルールはただ一つ。

 16時間連続して、なにも食べない時間を作る

 これを実践するだけで、自然に食べすぎを防ぐことができます。さらに、体内では、

 ・脂肪が分解され、肥満によるさまざまな問題が改善される。
 ・内臓の疲れがとれて内蔵の機能が高まり、免疫力がアップする。
 ・細胞が生まれ変わり、体や皮膚の不調や老化の進行が改善される。
 ・血糖値が下がり、血管障害が改善される。

 といった効果が期待でき、美容と健康、若さを維持できるというのです。
」(p.35)

この部分に本書の主張が集約されてますね。もうあとは読まなくてもよいくらいです。(笑)


10時間ものを食べずにいると、体は脂肪を分解して、エネルギー源に変えようとします。
 さらに16時間に達すると、オートファジーという仕組みによって細胞が新しく生まれ変わり、病気や肌などのコンディションを改善に向かわせます。
」(p.39)

空腹時間が長ければ、体に溜め込んだものでエネルギーを作り出そうとするし、さらに新陳代謝が活性化するということですね。


毎日、空腹の時間を作ることができれば、より早く、より大きな効果が期待できます。しかし、週に1回でも、まとまった空腹の時間を作れば、体は確実にリフレッシュします。」(p.44)

16時間断食は、毎日必ずやらなければならないというような、ガチガチの規則ではないのです。


「16時間断食」の間はゼロカロリーの水分以外はとらない。
 これが理想です。
 しかし、最初のうちはお腹がすくこともあるでしょう。そのようなときはどうしたらいいか。

 青木医師は、ナッツ類(できれば味つけなし、素焼きのもの)を食べることを提案しています。
 ナッツ類が苦手だという人やアレルギーがある人は、「チーズ」「野菜」「ヨーグルト」でも構いません。
 ただし、16時間中、トータルで200キロカロリー以下を目安にしてください。
」(p.46-47)

基本は空腹の時間を作るということですから、ゆるゆるのやり方でも、それなりに効果は出るということですね。時間も16時間を死守する必要はなく、最初は12時間から始めてみてはどうかと言っています。


空腹の時間をつくらず、一日3食、常に食べている状態では、全身の細胞は「ブドウ糖代謝」をしています。ところが、空腹になるとブドウ糖の供給が減少し、細胞の代謝状態は「ケトン体代謝」に変化します(「メタボリックスイッチ」といいます)。
 細胞がケトン体代謝になると、「抗酸化作用が発揮される(活性酸素が減る)」「傷ついたDNAが修復される」といった体に素晴らしい変化が起こります。
」(p.54-55)

ブドウ糖だけが身体の栄養ではなく、ケトン体がその代わりになり得ることは、他の少食に関する本でもありました。
これまでにも少食の本は多数紹介しています。少食によって健康が保たれるということは、以前から知られていることなのです。

ちなみに、以前に紹介した一部の本を、ここにも示しておきましょう。「少食の実行で世界は救われる」「食べない生き方」「白米中毒」「3日食べなきゃ、7割治る!」「「食べない」健康法」「「食べること、やめました」」。同じ著者の本もありますが、参考にしてみてください。


「16時間断食」でダイエットに成功できるのは、「これは糖質」「これは高カロリー」といった選択をしなくてもいい点です。」(p.62)

食べられる時間帯が限られているため、自ずと少食になるということでしょう。
私も、低糖質ダイエットを実践してきましたが、ルールは緩やかで、主食を食べない、ということだけでした。それよりも大事なのは少食だと思っていたからです。


現在、小堀さんが16時間以外の食事で心がけているのは、次の3つ。

 @オメガ3を摂る
 A腸内環境を整える
 B筋肉アップを促す
」(p.70-71)

特に意識する必要はないのですが、これを意識することでより効果が高まるということですね。

このオートファジーは「16時間断食」だけではなく、オメガ3脂肪酸を摂ることによっても活性化されることが、研究段階ですがわかってきました。」(p.72)

オートファジーを活性化させるのにオメガ3脂肪酸の摂取が有効だということです。オメガ3脂肪酸を多く含む食べものは、ナッツ類、えごま油、アマニ油、魚介類だそうです。

腸内環境が悪い状態では、インスリン抵抗性が増大して肥満になりやすい、というのをご存じでしょうか。さらに、脂肪の燃焼に必要な栄養素(ビタミンやミネラルなど)がうまく吸収できず、脂肪がつきやすくなる、というのも問題です。」(p.75)

腸内環境を整えるのに効果的な食べものもというものもあって、それは発酵食品、水溶性食物繊維、オメガ3だとか。私は納豆を好んで食べますが、これは発酵食品でもあるし、水溶性食物繊維も多く含まれています。

また、「16時間断食」で自然に糖質の摂取量が減ることによっても筋肉量は減ってしまいます。脂肪やたんぱく質を構成しているアミノ酸を糖に作り替え、エネルギーにしようとするからです。

 筋肉量が減少すると、基礎代謝量が減るため、かえって太りやすくなってしまいます。筋肉でエネルギーとして消費される糖質や脂肪の量が減ってしまうのがその理由です。
」(p.76-77)

ケトン体代謝になると、脂肪からだけでなく筋肉からもエネルギーを作ろうとします。だから筋肉が細るのです。
そこで筋肉を増やすことが重要になるのですが、そのためには運動することはもちろんのこと、たんぱく質を多く含む食物を摂ることも大事なのですね。


このように「16時間断食」を続けることで、健康、そしてアンチエイジングや美容にも素晴らしい影響があるのです。
 事実、断食はドイツやロシアでは公式な医療として認められ、保険が適用されます。日本も近い将来、そうなる日がくるかもしれません。
 日本癌学会の発表では、がんが発生する主要な原因は、たばこ(30%)と肥満(30%)となっています。肥満を解消することは、禁煙と同じくらい重要ということです。
」(p.106-107)

肥満であれば、足腰に負担がかかって痛めやすくなったり、睡眠時無呼吸症候群のリスクを高めたり、高血圧や心不全、糖尿病、脳卒中、虚血性心疾患、がんなどのリスクが高まるとされています。
それらのリスクを放置しておいて、よく平気でいられるなぁと私などは思います。


さらに、「オートファジーは、抗炎症作用や抗酸化作用を通して、慢性腎臓病の進展を遅らせる」という研究結果が多数報告されています。また、「ラットを使った研究で、間欠的断食が糖尿病腎症の進展を遅らせた」という内容の論文も発表されています(間欠的断食とは「16時間断食」のように数時間ものを食べない時間を作ること)。オートファジーが活発になり、腎臓の働きが改善されれば、むくみの解消と同時に、さまざまな体の不調や病気を遠ざけることもできるのです。」(p.119)

老人介護施設で働いていて思うのは、お年寄りの多くが腎機能が低下することで、身体に不調が現れてくるということです。沈黙の臓器と呼ばれる腎臓は、血液中の汚れを排出する重要な機能があるので、これを健康に保つことは大切なことだと思います。


空腹の時間中に運動を行うとオートファジーが活発化すること、また、運動によって筋肉を動かすとその部分にオートファジーが起こりやすくなることが、明らかになったのです。」(p.152)

私も実感として、食事後の満腹時に運動するより、食事前の空腹時に運動した方が、ダイエット効果が高いと感じています。空腹時の運動は、重要な要素かもしれませんね。


「セカンドミール効果」といって、朝食をとらないと昼食時の血糖は急激に上昇しやすくなります(グルコーススパイク)。これも「16時間断食」の”デメリット”のひとつです。また、朝食を欠食すると胆石もできやすくなります。これも「16時間断食」の”デメリット”のひっとうです。
 これらの”デメリット”と「16時間断食」による”メリット”を検討して、「16時間断食」を実施するかしないかを判断していただければと思います。
」(p.178)

何事にもメリットがあればデメリットもあります。それらを総合的に判断して、選択することですね。そういう意味で、デメリットも正直に書かれる姿勢には共感します。


人類は歴史的に、空腹に耐え、空腹と闘ってきました。したがって人体は、空腹に対処する機能が発達しているのです。
しかし現代は飽食の時代です。毎日3食の食事、さらに間食も食べることができます。それらの食べ物には、必ずしも人体に良いものではないものが含まれているし、偏った食事になりがちです。
そういうことを勘案すると、私は「少食」であることがいちばん重要なのではないか、と考えているのです。

その「少食」を実践するのに、この「16時間断食」という方法は効果的だと思っています。
実際、私は、知らずにこれを実践していました。単に朝食を抜いただけなのですが、朝早いシフトに合わせて生活リズムを作ったため、13時くらいの昼食から20時くらいの夕食までの約8時間に食べる時間が集まり、それ以外の約16時間が、必然的に空腹の時間となっていたのです。

以前、一日1食という方法もやったことがありましたが、長続きしませんでした。
もちろん、それができる人、それが体調に合う人は、そういう方法でも良いと思います。
ともかく「空腹の時間」を作ることで、多くのメリットが得られると思うのです。

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2022年09月09日

被爆三世だから言う 日本は核武装せよ!



Youtubeで、著者の橋本琴絵(はしもと・ことえ)さんが出演している動画を観て、本を書かれているんだと知ったので買ってみました。
被爆三世で核武装を推進するという考え方に興味を覚えたのです。どうやら広島の方のようですね。そして、希望の党で衆議院選挙に立候補されたこともあったようです。若い(1988年生まれ)のにすごいなと感じたのですが、この本を読んで素晴らしく頭の良い方だなぁと思いました。

本のタイトルからすると核武装に関する内容だと感じるのですが、それだけではありませんでした。むしろそれは1つの話題であり、保守本流としての政治的なあり方について語られている内容だと思いました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

ところで、「非核を貫く」という信念と、「日本も核抑止力を持つ」という物理的事実の対立軸は、何を意味しているのだろうか。それは、宗教と科学である。宗教とはあくまで「思想」であり形は無い。一方で、科学とは物理的事実である。問題は、「日本に再度核攻撃をさせない」という目的を実現するにあたって、宗教と科学という全く異なるアプローチのどちらが、国益に資するのかという判断が重要である。
 言うまでもなく、宗教とは同じ信仰心を共有するコミュニティーのあいだでのみ効力を持ち、科学とは人であろうと動物であろうと無制限に効力を持つ。つまり、日本人が非核を唱えても、核兵器を持つ近隣国の為政者がその観念を信仰しない限り、なにも意味はない。しかし、科学であれば、「日本を核攻撃したら自らも核攻撃される」という現実は当然、近隣の為政者と共有できる認識となる。
」(p.4)

平和憲法至上主義に見られる「こちらが攻撃する意図を示さなければ攻撃されることはない」という思想は、観念論であり、宗教にすぎないということですね。そういう思想を共有しない相手には通用しません。

つまり、「客観的根拠」ではなく、感情や期待という主観的観念論で作戦を実行した結果、日本は敗北しているのである。ところで現在の非核三原則は、まさに「白旗を挙げていれば攻撃されないだろう」という期待や感情ではないのか。日本はあの戦争を全く反省していないのである。ただ戦争がつらかったという話は、食中毒のときに「お腹が痛かったです」というだけでその原因菌を特定しないことと同じ愚かさである。」(p.6-7)

昭和19年の秋、日本海軍航空隊が台湾沖で米艦隊を壊滅させたという発表がありましたが、後になってこれが虚偽だと判明します。この時、堀栄三参謀が虚偽を疑ってパイロットに尋問したのそうですが、誰一人明確な回答をしなかったとか。
堀参謀は、海軍の虚偽発表と結論付け、フィリピン防衛作戦展開中の山下泰文陸軍将軍に上申しましたが、すでにルソン島からレイテ島へ無防備の兵力移送を開始していたそうです。そのため米艦隊に全滅させられたのです。

このような歴史的事実がありながら、それに何も学んでいないのが主観的で観念的な平和主義による国防思想と言えるでしょう。

日本が核攻撃される要因は複数あり、それはどのような人間の推論も超える。核保有国為政者の精神作用の機序、装置の誤作動、突発的暴発などの現実(自然)の複雑さを人間が予め知ることは不可能である。
 しかし、核報復能力は「恐怖」を相手方へ確実に与える。恐怖は精度の高い自律を促進し、決して誤作動さえ起きないような緊張の必要性を心理的に強制し、軽挙を抑える。少なくとも他の核保有国へ阿諛(あゆ)を繰りかえす、「非核三原則」という観念よりも遥かに核抑止効果を持つ。
」(p.8)

私が選挙に出た時、核防衛自体が無理でもせめて核シェルターの普及を訴えた。世界をみても、スイスが普及率百%、アメリカが八十二%、イギリスが六十七%に対して、日本は〇・〇二%という後進性があるからだ。」(p.9)

核兵器の保有を嫌うのはまだしも、核シェルターを装備する必要性を感じる人も少ないのが日本なのですね。
平和ボケとよく言われますが、何もしなくても平和は守られるものだと、根拠もなく確信しているかのようです。


つまり、「死の恐怖」を多くの民間人に与えることで根治不可能な心的外傷を負わせ、パニック状態にすることが戦略爆撃の目的だ。パニックになれば、選挙権を有する民衆が錯乱を起こして、その戦争が侵略であろうと防衛であろうと、政府は戦争能力を喪失するという期待が戦略爆撃論の支柱である(ただし、民主国家でなければ民衆の錯乱は統治行為に影響しないので、戦略爆撃をしても戦争に影響しない)。戦略爆撃の目的はインフラの破壊ではなく、精神の破壊にある。」(p.24)

この錯乱の中で、「非核三原則」という経典が宗教的な価値を有したのではないか。そして、非核三原則に異議を唱えることは許されないかりそめの普遍的真理と化した。つまり、核の議論を政治的論争と考え違いしていては、正しい結論は得られない。これは、被爆した苦しみを少しでも癒すために用意された経典に対する宗教論争だととらえなければならないのだ。
 それは、非核三原則ではなく「議論させず」と「考えさせず」が加えられ、非核五原則となっている現実からもわかるだろう。
」(p.25)

日本は、広島と長崎の核攻撃だけでなく、東京大空襲などの戦略爆撃も受けています。このように一般民衆を大量に殺戮する作戦は、インフラの破壊ではなく、日本国民の精神を破壊することが目的だったと考えるのが合理的と言えるのですね。
そのパニックの中で、日本人は宗教にすがるしかないという思考になっていった。それが非核三原則であると。


しかし、今回改めてマッハ二十まで加速して絶対に撃墜できない新型極超音速ミサイルを持つ国から、しかも侵略戦争を起こした国から核の脅迫を実際に受けて、今までのぼんやりとした恐怖の源が他国の核兵器にあることを日本人は再認識した。よって、殺されたくないという生存本能が刺激され、もはや非核三原則が持つ宗教の領域に合理的理由を見出せなくなったのだ。」(p.28)

私の祖母は最後まで「日本が核を持っていればやられなかった」と言っていた。世界で唯一の被爆国だからこそ、核を持つ正当な権利がある。核兵器の恐ろしさを、想像ではなく経験から知っているからだ。だからこそ、被爆者の記憶を継ぐ子孫は核に賛成する資格がある。「非核による被爆」という過ちを繰り返さないために、岸田首相には被爆者の声に耳を傾けるようお願い申し上げる。」(p.29)

被爆者やその関係者が、必ずしも非核思考ではないのです。事実、被爆一世の橋本さんのお祖母様は、対抗手段を持たなかったから好きなように攻撃された、と核心を突く言葉を述べられたのですね。


しかし、そうはいっても日本に核兵器はないから、核攻撃されれば一巻の終わりである。よって、いくら米国の強い求めがあったとしても、ウクライナ支援に及び腰となっても仕方がない側面があることも否定できない。
 なればこそ、米国が期待する国際秩序に向けて全面協力(自衛隊の北方領土派兵を含む)を約束する代わりに、日米安保に核報復義務を盛り込む要求を米国になすべき時局である。
」(p.37)

アメリカの求めに応じて国際協調を取ることを条件に、核保有国から核攻撃された時は、アメリカが代わりに核報復攻撃をすることを条約として明文化するよう求めることが、国益に適う外交だと言うのですね。


つまり、戦争中や戦争が終わった直後のように「市場介入=破壊された分など」を政府が把握することは容易であるから計画経済は成功するが、平時においてはひとの需要はきわめて複雑化するため政府は市場の情報を把握できない。市場の情報を全て知るのはどんな知識人(政府)でも不可能だから、介入は無意味であり、専門的な情報に熟達した人々がいる市場に任せるべきであるというのがハイエクの結論だ。」(p.99-100)

ハイエクがこの論文を発表した当時(一九四四年)、そのような「記録装置」すなわち人々の「欲する気持ちやその原因」という市場の情報を把握するビッグデータを保存する方法は技術的に存在しなかった。ところが、今は「ある」かもしれないのだ。ご存じの通り、クラウド化された膨大な情報の蓄積である。つまり、ハイエクが「計画経済は出来ない」という前提条件がいま崩れているかもしれないのだ。
 このため、「いまなら平時でも市場の情報を政府が把握して計画経済ができるかもしれない」と岸田政権は考えたのではないだろうか。
 しかし、著者はこれに懐疑的だ。いくらビッグデータの蓄積があるとはいえ、人の購買心理とは瞬間的に変わるものであり、それこそどのように微細な情報(移動・購入・売却・閲覧)も逃さず国家が把握収集するようにしなくてはならないからだ。それはもはや、自由主義の社会ではない。中国がいま現実にしつつある「ディストピア」だ。徹底した監視社会にするという前提の上で計画経済は機能する可能性秘める。
」(p.101-102)

計画経済のケインズと、自由経済のハイエクを比較し、平時には需要を正確に把握することは不可能だから、市場に任せるべきだという考えですね。
これは、岸田首相が新資本主義と銘打って、市場任せではなく政府が一定のコントロールをすべきだと打ち出した政策方針に対するアンチテーゼです。

私もかねてより、経済は市場に任せるべきだと考えています。政府が事業をやったりして市場に介入するから、保育も介護も上手くいかないと思っていますから。


繰り返すが、法的根拠のない河野談話は「従軍慰安婦」の語句を使用し、菅義偉内閣は「従軍慰安婦という語句は無い」との立場を明らかにしているという矛盾がある。そもそも、河野談話の根拠とされた従軍慰安婦報道を当の朝日新聞が虚報であった旨を認めた以上、「河野談話」が果たして私たち日本国の国益にどのように資するというのだろうか。
 そして、河野太郎氏は「河野談話の見直し」ではなく「歴代内閣の歴史観を踏襲する」と表明している。
」(p.108-109)

日本人には、相手の立場を慮ってあいまいにすることを良しとする気風があります。この「河野談話」もまさにそうでしょう。
しかし、これまでの経緯から明らかなように、はっきりと明言することが相手のためにもなることを、再認識すべき時ではないかと思います。

慰安婦捏造報道から約四十年の歳月をかけて、憎悪は大きく膨らんだ。次は、実際に海外の日本人が被害を受ける段階に至っても不思議ではないだろう。実体験として、私はイギリス留学中に「慰安婦を強制連行したのだから、日本人のお前を俺が強姦しても文句はないよな」といった脅迫を何度も外国人から受けている。」(p.127)

たとえ真実でなくても、当の日本政府でさえ明確に否定しないなら、世界はその嘘を真実だと信じてしまいます。
情報戦が常に行われている国際社会において、情報戦に後れを取ることは、それだけで国益を損なうことになるのです。

敗戦直後、アメリカ軍による集団強姦が連日起きており、日本の警察は、捜査はできなくても必死に事件を記録していた。女子校に乱入して生徒を集団強姦してトラックで連れ去った例、病院に乱入して看護婦らをトラックで連れ去った例、女子小学生や女子幼稚園児らの肛門と膣をナイフで切り裂いて「強姦できるサイズ」に加工した例など、残虐な性犯罪の記録は今も残っている。
 このような状況下で、特殊慰安婦として「強制連行」(主権がないので任意契約であることを証明する権限を持つ司法機関が存在しない)された日本人女性たちが米兵の相手をしていた一方で、女性を面白半分に銃殺して遊ぶなどの事例も記録されている。「主権が存在しない」とは、このようなものであると後世の日本人に語り継ぐべき史実である。
」(p.129-130)

私たちは、こういうことを教育の場で教えることをしません。価値観や考え方は教え込まなくてもいいのですが、事実は事実として教えるべきではないでしょうか。


しかし、対外危機が高まる中、「平和憲法」の理想的な観念だけが先行して現実の問題に対応する能力を失い、竹島や尖閣諸島という領土侵犯、拉致問題という基本的人権の侵害まで起こることとなった。つまり、現行憲法制定時には可能性の低かった「国家の危機」という点に誤謬が発生している状況だ。にもかかわらず、その現状に対して憲法を変えるハードルがあまりにも高いと言わざるを得ない。まさにアメリカ憲法起草者が懸念した「一部の凝り固まった思想の人々によって国民全体の要望が圧殺される」状況が現出しているのだ。
 経験は付け足すことはあっても変えることは出来ない。筆者は、「平和憲法」という”理想的”観念がこの国を毒し続け、国民の基本的人権を侵害し続けた(拉致問題の三十年以上の放置)という歴史的事実を後世に伝えるためにも、アメリカ式の「修正条項」という概念を日本国でも採用すべきであると強く主張する。
」(p.137-138)

人が考えて作ったものである以上、変化に耐えられなくなることはあります。これまで、私たちの常識とされてきたものが、どんどん変化してきた事実を見るだけで、そのことは明らかです。そうであれば、憲法であっても変化するべきだし、変化させないことは害悪であるとさえ思います。
橋本さんは、ワン・イシューでの改憲をまずは行うことだと主張します。憲法は改正できるという既成事実が何よりも重要だということですね。

私も、まずは改憲するという事実が重要だと思っています。なので、どんな条項であってもいいのですが、橋本さんは9条に自衛隊を明記することだと言います。
私は、両院の2/3以上で改憲の発議というハードルを下げることを、真っ先にやってもいいのではないかと思っています。両院の1/2以上で発議し、国民投票を行う。これだけでも十分に高いハードルなので、憲法を時代に合わせて変えていくことを良しとする価値観を、まずは共有することが大事だと思います。


戦後の日本共産党には「武装闘争」の路線と「平和路線」の内部対立があった。日本共産党自身の説明によれば、現在は「武装闘争」の方針は廃止していると主張しているが、「暴力革命」の路線は前述の通り廃止していない。一見すると矛盾するようであるが、次のように考えれば矛盾しない。
 平和路線、すなわち憲法第九条を守り続け、日米安全保障条約を廃止して在日米軍基地を日本国外に追放すれば、日本の防衛力は裸同然となり、容易に他国の侵略を受けることになる。この他国とは「共産国」だ。
」(p.152-153)

「外国の共産軍によって日本が占領されてしまえば、武力闘争を日本国内でしなくても暴力革命が達成できる」という考え方は、非現実的なものではない。このまま日本が憲法第九条を保持したまま日米同盟を廃止すれば、容易に可能である。
 そのため、今日では日本共産党は「護憲」に転換し、「日米安保廃止」を党是としているのではないだろうか。「平和」という聞こえのよい表現を多用しているが、その実態は日本人に対する殺人思想と変わりがない。
」(p.153)

たしかに、こう考えれば暴力革命を捨てずに平和路線へ転換した意味がわかります。自ら暴力革命を行う武装闘争では目的を達成できないという判断があったから、この平和路線による暴力革命へと転換した。だから中国の核を容認したり、日米安保に反対したりしているのですね。


良心と共感能力を持つ健常人こそ、彼ら彼女らの特徴を正確に把握する必要がある。彼らに対して何も知識が無ければ「議論」や「説得」という方向性に関心が向いてしまう。そうなれば向こうの思うツボだ。問答無用のデマと中傷の攻撃を浴びる。サイコパスに必要なのは対話ではないのだ。この価値基準をいわゆる「リベラル」と呼ばれる人々に対してあてはめるべきではないだろうか。嘘をつき続けることは政治的思想ではなく、彼らの性質の一様態なのだから。」(p.162)

メディアやリベラルを標榜する人々に対して、彼らはサイコパスではないかと痛烈に批判します。たしかに、そう感じる部分はあります。理屈が通じないからです。
しかし、だからと言って斬り捨ててよいとは私は思いません。そこは橋本さんと違う部分ですね。けれども、議論や説得は不要という部分は共感します。エネルギーはそこにつぎ込むものではなく、そうでない一般の人々の理解を深めるためにこそ使うべきだと思います。


令和四年一月二十八日、公明党の支持母体である創価学会は、同年七月に行われる参議院選での候補者支援について、政治姿勢や実績など「人物本位」で評価し、「党派を問わず見極める」とした基本方針を発表した。これは、事実上「反中は認めない」という方針であると解釈できるだろう。実際に、令和四年の参院選では岡山県の小野田紀美氏に対して選挙協力しないことを表明した。」(p.190)

私は今まで、公明党が何度も外国人参政権法案を提出するなどしている様子を「行き過ぎた人権意識」ゆえのことと錯誤していた。過保護ともいえる深い慈しみの念が強すぎる人々であるからこそ、マイノリティーの権利拡大政策に勤しんでいる「向こう見ずな善人」であると思い違いをしていた。しかし、今回の「ウイグル人の人権保護は必要ない」という明確な人種差別思想を目の当たりにして、これまでの政策も善意ではなく、憎悪に基づく悪意であったことが明確な事実になったのではないか。」(p.191)

小野田議員の国会での活躍を見ていると、国民目線で政治を良くしようとされてることが伝わってきます。その小野田議員を公明党が支援しないということはSNSを通じて知ったのですが、こういう背景があったのですね。


こうした観点から、「描画」という本来的にフェミニズムの対象とはなり得ないものに対して執拗に抗議をし、かつ五年間も問題視されなかった「温泉むすめ」がいまになって突如として抗議対象とされた背景がうっすらと見えてくる。それは「台湾の観光大使に任命された」という政治的事実である。当の日本人にしてみれば、「ただの観光大使」と思うかもしれないが、中国共産党の政治方針にしてみれば重大な「国土侵犯の政治工作」と受け取られても不思議はない。そこで、中華人民共和国の軍事作戦として「抗議宣伝活動」が始まったと考えれば、合理的な説明がつく。
 現代における戦争とは、必ずしも銃や大砲を使うとは限らない。情報とプロパガンダの応酬から既に始まっているのだ。形而下の侵略のみに気を取られて、形而上の侵略を放置する不作為は許されない。
」(p.198)

情報戦は常に行われており、自国に有利な世論へと誘導することだったり、敵国内の人心を撹乱して分離分断させることだったり、様々なことをやっていると思っています。
この事例も、その一環だと考えると合理的ですね。真実かどうかはわかりませんが、背後で操作している国があるかもしれない。そういうことは、常に警戒しておいた方がいいように思います。


多様性の社会とは、肌の色や目の色といった、精神とは無関係の、あくまで外見的かつ表層的な要素で一切を判断する排他性を許さない社会であり、倫理観の共有まで否定するものではない。
 なればこそ、この残された「慣習の芽」を絶やすことなく今以上に大切にし、日本を愛するすべての人びとがその出自にかかわらず日本の伝統に回帰しなければならない。それが、日本を救うのである。「財布をお盆に置いたままでも盗まれない社会」を取り戻すのが、私たち日本の保守主義者の責務である。」
(p.247)

橋本さんは、移民政策には明確に反対だと言います。つまり、価値観を共有できない人が大量に日本に居着くことになり、日本国籍を与えることにつながるからです。
したがって、父または母のどちらか一方が日本人なら子にも日本国籍を与えるという今の国籍法は、改めるべきだと主張します。両親が日本人なら無条件に与えますが、片親が日本人なら、他の国で国籍が与えられない場合に限って与えるべきだと。

見た目が日本人であることは重要な要素ではなく、価値観の共有が重要なのですね。
難しい問題ではありますが、こういう考え方には共感できる部分は多いです。いつかは世界中が日本のように、財布を落としてもそのまま返ってくるのが「ふつう」というようになってほしい。しかし、今すぐは無理だという現実を見ることも大事だと思うのです。
そうであれば、日本が日本であり続けるためにも、基本的な価値観を共有できない人を日本人として迎え入れることはやめた方がいい。それが双方のために良いことなのだ、という考え方も理解できます。


Youtube動画で見た時は、これほど激しい保守論者だとは感じませんでしたが、本を読むと、頭脳も明晰だし、ブレない軸をお持ちの方だとわかりました。
こういう方にはぜひ、国政の場で活躍してほしいなぁと思います。

ただし、私は是々非々なので、保守の方が選択的夫婦別姓制度や同性婚に反対する理屈には賛同できません。私にとっては、「自由」こそが最高の価値観ですから。

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タグ:橋本琴絵
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2022年09月05日

あきらめの「幸福論」



私の友人でもある「ぱっさん」こと木場秀俊(きば・ひでとし)さんが初めて本を出版されるとのことだったので、予約して買いました。
発行は2022年8月24日となっていますが、一般への販売開始は9月2日から。9月3日に届いて、4日から読み始めました。
180ページほどだし行間も広めで、ボリュームはそれほどありません。1〜2時間もあればサクサクと読める内容です。

体裁は、19の質問に対して、ぱっさんが答える形になっています。
カウンセリングや相談業もされていたぱっさんが、多くの人の悩みに答えてくれます。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

例えば、やりたいことが2つあったら、どっちかを優先しなきゃいけないし、どっちか諦めなきゃいけないわけじゃないですか。それが幸せなのか、不幸なのか。ずっと幸せでいられるっていうのは、幸せだって思い込むこと以外、可能にする方法がないと思うんですよね。」(p.5)

つまり、何かすること、達成する、所有する、というような外部要因で幸せを考えていると、幸せだったり不幸だったりするんです。常に幸せでいるためには、「幸せ」を選ぶしかない。つまり、自分のあり方の問題だということです。


幸せになる必要性というか、義務がなくなると、ようやく自分の人生の本質と向き合わなきゃいけなくなる。たぶん老後とかに起きてくる問題なんですよね。どうやって生きていこうか、どうやって死んでいこうかといういう問題。やるべきことはもうない。じゃあ自分っていうものは、一体何者なんだろうかっていうことと、毎日向き合うことになる。」(p.6-7)

「禍福は糾える縄の如し」と言うように、外部要因を根拠としていれば、幸せだったり不幸だったりという人生です。その時、幸せにならなきゃと「幸せ」に執着していると、もっと大事なものが見えてこないとぱっさんは言います。
それが自分自身と向き合うということですね。自分と向き合うことで気づきに至る。まあその伏線として、導入として、幸せに執着し、がんばっても上手くいかないことを経験するってことがあるんだと私は思います。


Q02「「生きる」ってどういうことですか?」という質問に、「煩わしさ、そのものです。」と答えている章です。

みんな外側を整えるために、スピリチュアルやろうとするんですよ。スピリチュアルって違う、もっと内側なんですよ。本当のスピリチュアルって、人生って面倒くさいよね、って気づいてからなんですよ。そこの面倒くさいよね、じゃあそっちはそっち、こっちはこっちって考えて、内側のことに集中し始めると、外側のことも付随して整っていくのです。」(p.23)

悟りって、なんか魔法みたいな感じで説明している人とかいらっしゃるんですけど、そういうものではなくて、もう本当に全部諦めて、諦めるっていうのも内側を向くために諦めるんです。どこを幸せにするの? っていうことなんです。」(p.25)

「引き寄せの法則」を駆使しようとする人は、まさに「外側を整える」ことを目的として、スピリチュアルを利用しようとしているんです。スピリチュアルが手段で、外側世界が目的になっています。
けれども本当は、外側世界のことはもうどうでもいいや、と切り離しておいて、自分の内側に入っていく。本当の自分に正直になろうとする。そうすることで、いつの間にか勝手に外側の世界が上手くいくようになる。私も、そんなふうに考えています。

死ぬときにどんな状態が理想的なのかというと、内側の自分ですよね。外側で満たそうとしていた自分っていうのにまず気づいて、そうじゃない、外側で満たすのではなくて、内側で自分を自分のために大事にする。そんな状態です。そんな生き方をしようと、まず決めることですよね。」(p.26-27)

外側に興味があるうちはね、思う存分やったほうがいいです。やりたいことがあるのに、内側に目を向けるっていうのって無理なんです。」(p.27)

人それぞれ発達進化の段階があるので、赤ちゃんにいきなり立って走れと言ったって無理。それは「助長」です。だから私も、暴走族をやりたいならやらせてあげたらいいと言うのです。
いずれその時が来れば、自然と自分の内側を見つめるようになります。そのためにも、無理をして背伸びをしちゃダメなのです。


次はQ07「何もかもうまくいかないときの乗り越え方を教えてください。」という問いに、「理想の人生をイメージして追求していくだけで充分なんです。」と答えている章です。

私の動画の中で、ひたすら「大丈夫」って唱え続ける動画があるんですけど、「これ以上のヒーリング動画はないです」みたいな感じで出ていたんです。そのブログを書かれた方が、その「大丈夫」を、ひたすら聞いてくださったそうなんです。

 それと一緒だと思うんです。結局今の現状って、八方塞がりだって思ってるとしても、八方塞がりの状態っていうのはいつか抜けるんですよ。それは何でかと言うと、生きていれば状況は変化するんですよ。

 そのときに、八方塞がりなままなんだって思っていてもね、状況は変わるんです。結局時間が経つっていうことが一番有効なんですよね。
」(p.67-68)

私も大失恋した時、時間が心を癒やしてくれたって実感しました。そして仏教でも「諸行無常」と言っていますが、お勧めする「神との対話」でも、すべては変化すると言っています。だから、何とかなるんですね。


次はQ12「「自分軸で生きる」にはどうすればいいですか?」という問いに、「自由に生きてください。」と答えている章です。

あるものに対して、抵抗するから病気になる。流されてたらどうですかね。どうせ、できることしかやってないですよ。
 自分軸って、常に自分のことを見つめてあげる心のことだと思うんです。自分軸って定まっているんだと思い込んでいるとしたら、その人は絶対自分軸じゃなくて、理想の自分を思い描いてるだけで、嘘つきですよ。そんな不自然な生き方している生物いないですよ。
」(p.111-112)

「かくあるべし」という考え方にしがみついて、そういう執着心を手放さないから本当の自分が見えてこない、自分に正直になれないんですね。


次はQ16「友達が少ないのですが、どうしたらいいですか?」という問いに、「”仲の良さ”ではなく尊重し合えるかどうか。会う頻度も関係ありません。」と答えている章です。

その人はね、いついかなるときでも、自分が無理のない範囲で私のことを助けようとしてくれるんです。私と意見が対立することもあるんですよ。意見が対立するときも、その友人は私を認めてくれるんです。対立しながら認めてくれるってすごいですよね。その友人は、私と相反する考え方もするんです。ただ共通してるところっていうのは、お互い自由でいようとするところなんです。この部分は、他の友達よりも遥かにお互い尊重し合ってるんです。

 実は、今まで実際に対面で会ったことって1回しかないんです。けれども5年ぐらいずっと友達です。私がいついかなる、どんな状態のときでも、同じように接してくれたのって彼だけなんです。
」(p.142-143)

実はこれ、私のことなんです。本当ですって。ぱっさんがYoutube動画で親友をカミングアウトしていて、そこで私の名前が出たのでびっくりしたことがありました。たしかに少しは期待していましたが、本当に私とは・・・と絶句しましたよ。

この相手を自由にさせるってことは、私が常に心がけていることでもあるんです。なぜなら、愛とは自由だから。そして、私はそのように生きようと決めたから。
だから妻に対しても「あなたは自由だよ」って伝えてきました。妻の友人から、彼女が私を気に入っている点は自由にさせてくれることだ、と聞いたことがありました。その時、本当に嬉しい気がしました。
ぱっさんが私のことをそう思ってくれて、喜んでくれている、認めてくれているというのが、私にとっても喜びです。


次はQ18「死んだあとも輪廻転生が続くのですか?」という問いに、「そんなことより「今」に集中しましょう。」と答えている章です。

自分が死んだら、魂は次の生を迎えると考えていると思うんですけど、Aさんが転生して、Aさんの魂として次の人生を歩むかどうかは、そうなる可能性も、ならない可能性も両方ありえると思ってください。魂を一つの個体として考えすぎているんですね。」(p.154)

ということは、自分がもし死んだとしても、この世の中に何か影響していくわけです。何かに影響を与えている、誰かに影響を及ぼしているんです。その誰かに及ぼした影響というものが、どこかの誰かのエッセンスになっている。これが、現実的に考えるといわゆる輪廻なんです。」(p.159-160)

つまり1つの魂が、何回も生まれ変わるという時間軸で考えると、真実が見えてこないんですよ。だって真実の世界は時空がないのですから。
喜多川泰さんの小説「ソバニイルヨ」では、死んだ犬の原子が世界中に均等に散らばるとすると、常に身の回りに(あるいは自分自身の中に)その犬の原子が何百個も存在することになることを示しています。また、新井満さんの訳詞で有名になった「千の風になって」でも、死んだ後は1000の風になって、つまり無限の存在として宇宙に遍在していることを示しています。
だからスピリチュアルでは、「あなたは私だ」みたいなことや「ワンネス」などと言うのです。そして、ある特定の有名人の生まれ変わりだという人が多数いるということも、これで説明できるかと思います。


最後はQ19「占いやスピリチュアルって本当に役に立ちますか?」という問いに、「「役に立つか」頼るのではなくて武器として使う。」と答えている章です。

占いで、ここが未来ですよって言われて、当たっても当たらなくても極論どちらでもいいんです。占いなんて、当たっても当たらなくてもよくて、前に進めるようになったら気分が良くなるじゃないですか。そういうときに、未来がここだよって言ってあげると、前に進み始めることができる。そのことに価値があるんです。」(p.165-166)

未来がこうなるから、あなたはこうしなさいって言われる類の占いを信じるのは不健全ですね。それは支配だと思います。選択肢が広がるような、占いの仕方が一番いいと、そう思うんです。」(p.168)

私は基本的に占いは信じません。と言うか、占いに身を委ねるような信じ方はしません。
なので、基本的には占いをしてもらうことはありませんが、おみくじを引くことはあります。またネットで「○月生まれの人は・・・」という情報を見たりもします。
それを見て、当たってるなぁとか、当たってないなぁとか、楽しむだけですね。また悪い占いは信じなくて良いと小林正観さんも言われるように、私も信じません。なので、その占いが悪い方角とか示していても、無視して自分がやりたいようにやります。

けっきょく、何を選択しようと魂の導きから外れることはないので、それが現世的に不利益であろうとどうしようと、魂レベルでは大したことはないし、そうなっても大成功なんですよ。
私はそういうふうに考えます。でも、それをまだ絶対的に信じられない人は、占いを少し頼ってみるのも、悪いことではないでしょうね。


質問に対して、明後日の方向の答えをバンとぶつけてきて、それがいかに筋が通っていて、また質問者の問いの本質に対して的確な答えになっているかを、後から説明するようなスタイルですね。いかにもぱっさんらしいスタイルです。
きっと頭がいいのでしょうね。私も自分で頭はいい方だと思うのですが、おそらく種類が違うのでしょう。私はどちらかと言うと、地道に積み上げていくような考え方なので。

そういう違う論の進め方は、とっても刺激になります。また論の進め方は違っていても、本質的な部分で一致している部分が多いというのも、「やっぱりそうだよねぇ」と感じられて心地よかったです。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 05:39 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年08月31日

ただしさに殺されないために



Twitterで紹介されていて、面白そうだと感じたので買ってみました。
「正しい」を根拠に他人を叩く人が多いのが今の世の中です。私は「正しさ」は人それぞれだと考えていますが、この本はどういう観点でこの問題に斬り込んでいるのか。そこが興味のある点でした。

著者は御田寺圭(みたでら・けい)さん。おそらく本名は違うと思います。ネットの世界では、白饅頭という名前も使用しているとか。Wikipediaによれば、会社員の傍ら執筆活動などをしている方のようです。

読み始めて思ったのは、文章が魅力的だということ。おしゃれな文を書かれる方のようです。
私のように、単刀直入に無骨な論理をぶつけるタイプとは、まったく違いますね。でも、こういう文章を書ける能力が素晴らしいと思いました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

最初の本書の構成を説明しておくと、5つの章があって、各章には6つの話題があります。つまり合計で30の話題を提供しています。
それぞれつながりがないものもありますが、全体として1つのテーマを追っている。そのことが、読んでいる間にも何となくわかりますが、最後まで読むと、それがはっきりとわかるようになっています。


●まずは序章で、「私はごく普通の白人男性で、現在28歳だ」から引用します。2019年3月にニュージーランドのモスクで起きた100人近くが死傷する銃撃事件を取り上げた話題です。
少し長くなりますが、この話題は本全体を貫いているテーマでもあるので引用しました。

彼が生まれてからいままで慣れ親しんできた西洋文明は、イスラム文明とあまりにも文化的な差異がありすぎた。西洋文明は信仰の自由を擁護するがゆえに、イスラム教を信仰する移民に対して「文化的同化」を一定の強制力をもって呼びかけることが事実上不可能になっていること、そしてなによりムスリムの人びとが概して多産であることによって、意図的かどうかは別として、少子化傾向にある白人社会の秩序体型や文化・文明を相対的に破壊する侵略者となってしまうことが、彼の問題意識として列挙されていた。白人や西洋文明をこれらの問題から積極的に防衛せねばならないという信念こそが、今回の襲撃に至った動機であると述べられていた。」(p.20)

統計的にはこのままのbirth-rate(出生率)をたどっていけば、数世代後には、白人の国の多くで白人はむしろ少数派になり、中東にルーツを持つムスリム系の人びとがマジョリティとなることは必至なのである。西洋社会でいま宗教と民族の人口バランスが崩れようとしているが、この問題を議論しようとする者には「差別主義者」のレッテルが貼られてしまう。それを恐れるあまり、だれも口を開こうとしながった。」(p.21)

今回の銃撃犯のような人間が、この世界に「分断」の種をばら撒いたのだろうか?

 いや、そもそも世界は、お互いが見えないくらいの距離にはじめから引き離されていたのではないだろうか。

 かつてのように別々の国で分断されて暮らしていればそれで大きな軋轢は生じえなかった人びと−−換言すれば人種だけでなく宗教も文化も価値観も規範も秩序も異なるがゆえにけっして交われず相容れない人びと−−の分断を解消し、無理やりに隣人としてしまったことで、「憎悪と殺意」が喚起されてしまったのではないだろうか。
」(p.22)

この事件のような最悪の結末を、西洋各国のリーダーや有識者たちは「多様性への無理解が引き起こした事件」であると口々に指摘するが、はたして本当にそうだろうか。「多様性がもたらす軋(きし)みへの無理解が引き起こした事件」と称するのがより適切であるだろう。今日における西洋文明を共有する白人社会の、ありとあらゆる場所で生じている「小さな軋み」の堆積が、最悪の形で噴出した事例のひとつにすぎないのではないだろうか。」(p.27)

価値観や倫理観の違う人びとが、自分たちの規範においてとても大切に心を寄せている人やものを踏みつけにしているのを見たとき、私たちはどのような思いを抱くだろうか。機関銃(アサルトライフル)を手にして暴力的な解決策に訴え出ようとすることはきわめて稀かもしれないが、しかし少なくとも「郷に入っては郷に従え」をスローガンにする政党、あるいは「さもなくばこの国から出ていけ」と訴える候補者をひそかに支持したくなったとしても不思議ではない。」(p.31)

西洋諸国で起こっている移民問題と政治の右傾化をとらえて、御田寺さんはこのように分析しています。
銃撃犯が行ったことは犯罪として処罰されるべきですが、それが起こった原因に対処しなければ、同じことが繰り返されるだけでしょう。
個人の特異性に原因を限定してしまうと、本質的な解決にはならないのです。


●第1章は「ただしい世界」です。第1話は「文明の衝突」で、2020年10月にフランスで起こった事件が話題です。
ある歴史教師がイスラム教の開祖、預言者ムハンマドの風刺画を授業で見せたことがSNSで拡散され、それを見た無関係のイスラム原理主義者によって殺されたというもの。

自分の個人的な人生の幸福を大切にでき、多様なライフスタイルのあり方が許容され肯定されるがゆえに進む少子化によってゆるやかな自死を選ぶ西欧文明を尻目に、ムスリム系の人びとは、次世代を安定的に維持するための人口再生産性を、西欧文明が築いた安全で快適な街の中でせっせと確保してゆけばよい。ただそれだけで、「文明の衝突」における最終的な勝利が約束されている。」(p.39)

西欧人たちは、かれらに恭順や同化を強くは求めず、自らの理想を示すことに酔い、寛大に住む場所を与えてきた。結果として、西欧人だけが人権思想の存在ゆえに、人権思想を支持しない人びとまでも扶養しなければならないという、高貴で片務的な倫理的責務を課せられた。

 この片務性に対する現地の西欧人たちの負担感と、高貴な責務を果たしたところで相手は自分たちの価値体系に恭順しないという徒労感が、西欧人たちの怒りや不満を蓄積させている。
」(p.41)

これも西洋文明で起こっている移民問題に関連する話題ですね。前提となる文化が違う人たちが隣人となった時、どういう対応が取れるのでしょうか?
日本は、移民を増やさない方針ですが、逆にそれが批判されたりもしています。しかし、移民を増やすとなった場合は、こういう問題が増えてくることも考えておかなければならないと思います。


次は第2話「アルティメット・フェアネス」で、コロナ感染の話題です。

周知の事実となっているが、新型コロナウイルス感染症は高齢者ほど重症化・死亡リスクが高い。若者だからといってリスクが一切ないわけではないが、しかし高齢者層のそれと比較すれば軽微であることは事実である。若者にとってみれば、不安定な雇用、回復の兆しの見えない景気低迷、悪化の一途をたどる気候変動、脆弱化に歯止めがかからない社会保障の先細りなどの方が、未知のウイルスによるパンデミックよりもはるかに人生に暗い影を落としている。
 パンデミックが浮き彫りにした「若者VS.高齢者」という対立構造は、さらにそのスケールを拡大させて「資本主義ルールの敗者VS.資本主義ルールの勝者」という構造にまで波及していく可能性を内包していた。
」(p.48)

ワクチンの完成をだれよりも望んでいたのは、比較的年長の者がその席のほとんどを占める「富める者たち」であった。かれらは、富を持ったまま死ぬことができないゆえに、いま死ぬことに大きな未練を抱えている。自分の命は、その辺の人びとよりずっと重要なのだと確信している。」(p.49)

オーストリア出身の歴史学者であるウォルター・シャイデルは、著書『暴力と不平等の人類史』の中で、疫病の流行によって富裕層や特権階級は(自らの優位性を担保してくれている既存社会を安定的に維持・更新するため)再分配に協力的になると述べた。今回の事態は、この法則が現代においても有効である可能性を示唆しているように見えた。」(p.51)

パンデミックによって露見してしまったのは、「すべての人命を守る戦い」の建前のもとで、これまでひた隠しにされてきた「格差」が、とうとう既存の社会を破壊しようと牙を剥き、それをエスタブリッシュメントが必死に抑え込もうとしている構図だった。」(p.52)

このコロナ禍で、世界の富裕層が富を増やしたことが知られています。極端な富の格差があることは知られていますが、格差が広がれば、全体としての不安定要因となります。


次は第3話「人権のミサイル」で、2021年11月にベラルーシが、自国の難民を他国へ送り込むという戦略を打ち出したという話題です。

ようするに人間(難民)そのものを、西欧各国が共有する道徳律である「人権」によってコーティングして他国に向けて打ち込む、いうなれば人間ミサイル兵器として活用する方法を考案し、実際にやってみせたのである。」(p.55)

アメリカのトランプ前大統領が当時の安倍首相に、メキシコ人2500万人を日本に送れば政権を転覆させられると言ったとか。これはジョークでしたが、実際にやれば大変な驚異となるでしょう。

2010年代までの世界を顧みれば、主に欧米(西欧)先進国は世界に覇権を拡大するための口実として「人権」を振りかざしてきた。国民に対して基本的人権を尊重しない国や指導者を、人道にもとる「悪」として、かれらに経済的な制裁を科すばかりか、ときにミサイルを打ち込むことをさえ正当化してきた。」(p.57)

これまでの時代においては、絶対的な正義や自明の真実とされてきた事柄が、猛烈な勢いで相対化され、その玉座から引きずり降ろされていく。
「人類にとって普遍的な基本的道徳律」としての栄冠に長らく輝き、欧米各国の覇道を支えてきた人権思想は、非人権国家の独裁者たちによって地上をゆっくりと歩いて国境を渡るミサイルとして転用され、国のリソースを削り社会不安を増大させる兵器となった。共産主義や社会主義を打倒し、世界を統治し支配してきた人権思想にはいま−−あまりに皮肉なことだが−−さらなる高潔さを目指して先鋭化してきた人権思想自身によって大きな綻(ほころ)びと動揺が生じている。
」(p.59-60)

人権を重視することは絶対的に正しいと思われがちです。それだけに反論できず、西欧に屈服するしかなかった。けれども、その人権を逆手に取って西欧を屈服させられる方法があったのですね。
これも難民問題が抱えているものと言ってよいでしょう。人権を重視するなら、移民を拒否できない。そこに西欧の弱点があるのです。


次は第4話「両面性テストの時代」で、イスラエルのコロナ対策が秀逸だったことが話題です。

これらは端的に人権侵害である。だがこうした人権侵害的な側面を多分に含む「新型コロナ感染対策」は、少なくともパンデミックの初期における被害状況を踏まえれば効果的であったと認めなければならないだろう。逆に、パンデミックの中心地となり、人命にも社会経済にも深刻な打撃を受けたのは主として、イスラエルとは対象的に民主主義的で、自由主義的で、人権主義的な手続きや社会制度を尊重し、これをどうにか維持しようと努める西欧文明圏の国々であったことはけっして偶然ではない。」(p.63)

パンデミックの端緒とされていた中国が早々に「コロナ禍」の最悪の状況を抜け出したのもイスラエルと同様の理由だった。かれらはいざというときには人民の私的権利の制限になんの躊躇(ちゅうちょ)もない。というより、普段からしていることを、今回の災禍においても行った−−ただそれだけである。かれらは西欧各国よりもずっと人権侵害に慣れている。なぜなら人権への重みづけが西欧各国よりはるかに軽いからだ。だからこそ、中国やイスラエルは「危機管理」において、他の先進各国を凌駕した。」(p.64)

ロックダウンのような強制は、人権を無視しなければできない側面がありますからね。

ハンガリーの首相であるヴィクトル・オルパンは、少子化の解決に向けて社会的リソースを猛烈な勢いで注入している。」GDPの4.7%に相当する巨額の社会投資を行い、正真正銘「本気」の少子化対策を行っている。」(p.66)

OECD加盟国の平均はGDPの2.55%で、日本は約0.8%だとか。ハンガリーは人口減に歯止めがかかってきたそうですが、日本はさらに加速しているようです。

オルパンがこうした政治的意思決定を断行できるのは、彼が民主主義的な手続きを簡略化または省略し、国民の権利を制限することに対してためらうところがないからであり、また移民を追い出したいという、多様性や寛容性のかけらもない国家主義的な野望を持ち合わせているからだ。」(p.48)

極端な政策を断行できるのも、他人の意見を考慮する必要性を感じない専制主義だからとも言えますね。

これまで絶対的に善であり素晴らしいものだと信じてきた価値基準には、陰の表情があることを突き付けられた。一方で、論ずるまでもなく悪であると軽蔑されてやまなかった価値基準にも、前者よりすぐれていると評価するべき側面があることを知らされた。」(p.70)

絶対的な「善悪」「正邪」というものはなく、すべては相対的です。


次は第5話「共鳴するラディカリズム」で、反原発とか反差別のような過激な思想や運動には共鳴性があるという話題です。

こうした思想に傾倒している人のふるまいや言動を見つめていると、ある種の共通点が見えてくる。すなわち、共鳴するラディカリズムに深入りしていく人のほとんどは、「生きづらさ」「被害者意識」「抑圧経験」を強く抱えているという点だ。心身共に弱っている人ほど、自分がこれまで抱えてきたそれらの機序と責任の所在をわかりやすく説明してくれるような物語に対して脆弱となる。
 生きていく中で、社会からさまざまな「被害」を受けて弱っている人は、人間社会で顕在化するありとあらゆる事象が普遍的に備えている「複雑性」を細かく解きほぐして消化していくような、根気を要する作業に耐えうる認知的リソースがない。
」(p.72)

その人にとって主観的な経験として耐えがたい苦しみが存在していることは否定しえない事実であるだろう。一方でその主観的事実の存在によって世界のすべてが説明されるわけではない。ある女性にとっての苦しみがあることは、世界がその女性を苦しめるものとして存在していることを断じるものではない。」(p.73-74)

傷つき弱った人に刺さった棘−−そうなったのはあなた自身の努力不足、または性格や人格などの問題によって生じた結果だという声−−をやさしく抜きながら、「あなたを傷つけたのはあいつだ。一緒に戦おう」と寄り添ってくれる思想体系が、多くの人を魅了するのは当然だ。」(p.74)

被害者意識があるから加害者を責めたくなるのです。敵を作り出し、それを打倒すれば自分は救われる、幸せになれると思い込む。
しかし、そこに本当の幸せはないのですけどね。

今日、世界の各所で台頭するラディカルな思想運動は、その党派性にかかわらず、複数の「ただしさ」を提示することで社会的統合を目指す「多様性」の反動として生まれたものだ。」(p.79)

つまり、主観的な苦しみが癒やされない人にとって、「多様性」という考え方は役に立たないのです。むしろ、それによって移民が増えるなどして苦しみが増している。そう考えるから、「多様性」を否定し、自分の「正しさ」を絶対的なものと決めつけることで救われようとするのです。


次は第6話「リベラリズムの奇形的進化」で、自他の自由を尊重し、差別や不平等を許さないリベラリズムが、異様な姿に変貌を遂げようとしているという話題です。

今日「リベラル」を標榜する人びとは往々にして、原理原則的な自由の重要性を謳いながら、その実、自分にとって都合のよくない類の自由に対してはきわめて否定的もしくは抑圧的である。」(p.79-80)

自分が共感できる対象にだけ偏重して強く共感する人びとは、逆に自分の感受性に響かない対象には著しく攻撃的で排他的にふるまう。自分にとって共感できるかできないかが、そのまま社会的善悪の判断に直結する。共感できるものはただしく、共感できないものは間違っていると。」(p.82)

「共感性」の高い人びとは、現代のリベラルな社会的風潮の躍進の立役者であることは間違いない。しかしながら、持ち前の共感性の高さゆえに、リベラリズムの基本的な理念である「普遍性」「平等性」に耐えることができない。これはパラドックスを構成している。」(p.82)

前のラディカルな思想と関連しますが、自分の正義を押し付けながら、自分をリベラルだと信じているのですね。
シー・シェパードの活動も、まさにそうでした。自分たちが正しいと思えば、他人を傷つけ苦しめても、その正しさを遂行しようとする。


●次は第2章「差別と生きる私たち」です。第1話は「キャンセル・カルチャー」で、人種差別発言をした人をネット上で糾弾するなどして、その人を社会的に抹消しようとする風潮が話題です。

リベラル・メディアが旗振り役になり、ある人が過去に行ったルール違反を見つけ出しては記事を書き、「ここに悪人がいる」と焚きつける。するとSNSでそれらの記事は一気にシェアされ、怒りの声が集まる。ラディカルな意見が共鳴していく。サイバー空間で大きく盛り上がった抗議の声明を、さらにメディアが記事化してSNSに還元する。再び火の手は強まる。「キャンセル・カルチャー」の渦の中心にいる人物は窮地に立たされる。これまで築き上げてきた名誉や信頼、現在の仕事や人間関係、そして将来のキャリア、ひいては人生そのものを一瞬にして失うことになる。」(p.95)

ある表現や言論について、もし現代的な人権感覚に整合的でなかったとしても、それを規制したり禁止したりすることは、本来的にはリベラリズムの価値観や精神性とは相容れないものだ。人権感覚の遅れを感じさせる、当世においては不穏当または不適切なものであれ、それを言明すること自体は「表現の自由」によって保障されており、なんらかの介入を行うこと自体が基本的人権と整合的でないからだ。ましてや超法規的な手続きによって制約を科すなどありえない。

 これはある種のパラドックスを構成する。リベラリストでありながら、なんらかの表現の規制を望む者は「人権感覚のコードに違反している表現は制限されるべきだ」とはいわない。「人権感覚のコードに違反したものはそもそも表現や言論にはあたらないので、これを制限したり成約したりするのは、表現の自由と矛盾しない」というロジックを採用する。もっとも、そのようなレトリックの内部的な整合性を担保したからといって、外形的には人権概念を自分に都合よく恣意的に運用、あるいは制限していることには変わりないのだが。
」(p.96-97)

人権に反する言動をみんなで寄ってたかって罰するという風潮は、まったく衰えるところがありません。法の裁きを待たずに、自分が「悪い」と思い込んだという理由で、超法規的に処罰することが「正しい」と信じて疑わない人が多いからでしょう。
これは中世の魔女狩りと同じで、集団イジメです。本書では、東京オリンピック前に起こった出来事を例として取り上げていますが、今、行われている統一教会に対するバッシングもまた、同じものだと思います。


次は第2話「NIMBY」で、これは「Not In My BackYard(私の裏庭にはつくらないで)」の略語だそうですが、要はごみ焼却場など必要性は認めるものの、それを自分の近くに作られると困るという考え方が話題です。

育ちのわるい人間に来てほしくないとか、障害者が暮らすコミュニティは自分の街にできてほしくないといった考えは、まぎれもなく差別である。差別であるが、そうした言動をためらいなく表出させ、ときに正当化するのは「(社会に必要だからという建前によって)私たちの安全・安心な暮らしが蔑ろにされている」というある種の被害者意識である。私たちは、差別や排除に積極的に手を染めているわけではない。そうではなく、国や自治体が、私たちが安心して暮らす権利を守ってくれないから、やむをえず自力救済しているのだ−−という良心がそこには少なからず含まれている。」(p.106)

「多様性」「人権」「寛容性」「包摂」−−といった、現代社会における先進的な規範意識とのコンフリクトを慎重に回避しながら、自分の近くに現れたハイリスクな人間を拒絶するためのロジックが必要となる。それこそが「私は被害者」である。」(p.107)

港区に子ども家庭支援センターを作ろうとした時、ハイソな地域に貧しい子の支援センターは必要ないとか、それによってハイソでない人が出入りするようになって地価が下がるなどと言って、反対運動が起こりました。
それに限らず、障害者支援施設を作る時も、どこでも反対運動が起こります。原発も、ゴミ処理場も、火葬場も同じです。すべて、自分が被害者になるという恐れ(不安)から、排除することに正当性があると主張しているのです。


第3話は「排除アート」で、公共空間にアートを造ることで、浮浪者が居着くことを防ぐという、排除という顔を見せずに実は排除しているという話題です。

自分たちには悪意などなく、差別心もなければ不寛容でもないことを丁寧に保証してもらいながら、行政には適切に対応してもらいたいのだ。図々しく厚かましいわがままに応じるために考案されたのが「排除アート」である。あくまで善意によって街を美しく整えた結果、どういうわけだかわからないが、ついでにホームレスも一緒にいなくなった。一挙両得。めでたしめでたし−−という、もっともらしい物語を、そのゴツゴツとしたオブジェは提供してくれる。」(p.116)

ベンチに間仕切りのように設えられた肘掛けも、実はそこで寝転がることを防ぐためなのだそうです。たしかに、寝転がりたかった時、不便だなぁと感じました。
それにしても、この「自分は悪いことはしてないよ」という顔をしながら他人を排除するという考えが、なんだかとってもいやらしく感じます。


次は第4話「植松聖の置き土産」で、障害者施設で19人を殺害した死刑囚に関する話題です。

「生産性のない者は、生かしていても社会の役に立たない。この社会には『無駄飯』を食わせる余裕などないのだから、犠牲となる者の家族や親族には申し訳ないが、生かすのではなく、死なせるのが、世の中全体のためである」−−とする植松の主張は、インターネットでは俗に「植松理論」と呼ばれている。」(p.118-119)

植松は、障害者の世話をしながら、社会に役立たない人間の世話をするという無益なことをやっている自分もまた、社会に役立たない人間だと考えたそうです。だから、そういう役立たない人間を死なせることは、逆に社会に役立つことになる。つまり、殺害することで社会の役に立つ人間、存在意義のある人間になりたかったのです。

しかし、現代社会を生きるわれわれは、建前の上では「生産性が人権に優越するわけではなく、人権の多寡に影響するわけでもなく、人としての存在意義を問うものではない」としながらも、現実的あるいは実務的なレベルにおいては−−植松のような常軌を逸した手段に訴え出ることはありえないにしても−−「植松理論」がいまこの社会に一片たりとも存在せず、また今後も決して存在する余地などないと、力強く断言することはできない。なぜなら「植松理論」に激しく憤り、この理論を断固として否定した人びとであっても、いざ自分の目の前に無能な健常者が現れてしまえば、その言動は植松よりはるかに穏当なものであったとしても、同じ延長線上の論理を振りかざしてしまうからだ。」(p.122)

常日頃は他人を「役立つかどうか」の軸で明らかに「選別」しておきながら−−結果的にその選別によって社会的に追放され、あるいは生活が立ち行かなくなり、死に追いやられた人すらいるにもかかわらず−−いざ植松が障害者に対して刃を向け、社会が構築している「選別」をよりラディカルに、そしてグロテスクな方法によって代替的に実践したときにだけ、そのような思想は自分たちの社会にはまったく相容れないもので、事実として一片たりとも存在していないし、今後も許容される余地は微塵もないと「殊勝」な態度を示す人々の姿は、社会の実情に対してあまりに鈍感か、あるいは欺瞞的にさえ映る。」(p.123)

たとえば仕事をするとき、無能と断じた部下や同僚を怒鳴りつけたり、バカにしたりして、排除しようとしてないだろうか? 「死ね」とまでは言わなくても、「私の目の前からいなくなってくれたらいいのに」と思ってないだろうか? 少なくとも私は、そういう人を多々見かけます。

植松が刑の執行を待つ身となったいま、どうしてもこのことに触れなければならない。すなわち「植松が死刑に処されることによって、植松の主張は完結する」と。

「生きる価値のない人間は殺してしまえばよい」という植松の主張を否定しながら、しかしこの社会は植松に対して「お前は生きるに値しない人間である」と断じている。植松の思想や行為を強く否定しながら、同時に植松の思想や行為と同じ帰結によって彼を裁いている。どんな人間でも、たとえ生産的でなくても、生きる価値がある。生きてもよい。社会は植松の凶行に対してそう応じた。だが植松はその連帯の「例外」となった。生きる価値がなく、死ぬべき存在として。
」(p.125)

これはもう最大の皮肉ですね。植松を弾劾して死刑にすべきだと言った人が鏡に自分の姿を映せば、そこに植松の姿を見るのです。


●第5話6話は飛ばして、次は第3章「自由と道徳の神話」です。第3話の「健やかで不自由な世界」では、アメリカで人気のレシピサイトが、牛肉を「世界最悪の気候犯罪者」だと断定して、今後は牛肉を用いたレシピを掲載しないと決めたことが話題です。

食肉文化も喫煙習慣も、それは単に個人的な好みや楽しみの問題として見逃されなくなる。いずれも「それは社会の健全性や道徳性の観点から認められるべきか」というまなざしを避けられない。この流れは牛肉やタバコだけにとどまるはずがない。社会的には必ずしも益はない、むしろ健康や経済などの観点からすれば有害ですらある一方で、しかし個人的な幸福をもたらすものとして愛好されてきたものは、そのすべてがターゲットになりうる。アルコール、カフェイン、糖質、脂質、なんでもそうだ。

 2020年代は、個人的な営為があくまで「個人的なもの」のままで完結するような余白がさらに失われていくことになる。「健康で健全な個人が集まる社会」を目指すことをだれも拒否できなくなる。
」(p.174-175)

不健康であることは、個人の自由ではなく、社会的に損害を与える行為とみなされるのですね。実際、タバコによる健康被害で、医療費が増大したなんていう話も聞きます。
そして、そういう社会に害悪を与える個人には、自由を与えない、自由を取り上げてもかまわないのだ、という風潮が出てきているのです。


次は第4話「自由のない国」で、2020年に成立した「香港国家安全維持法」に関わる話題です。

いやしくもリベラルを標榜する人びとが「よい多様性でないものは多様性ではない」「そんなものは自由に含まれるべきではない」−−などといいながら、本心では市民社会に抑圧的にふるまいたい政治権力・政治当局の代理人を自ら進んで引き受けている光景は笑い話にもならない。
 市民社会が権力からの介入を受けることのない本来的な自由を守るには、個人としては不快で、ともすれば反吐が出るような表現を目にしてしまう場面にしばしば遭遇するとしても、これを必要経費として引き受けていく覚悟が必要だ。
 社会的に望ましく、だれもが不快にならない存在や事象にだけ限定的に自由が付与されるべきだとする論調を好んで用いる人びとは近年ますます多くなっている。だがそれは自由ではない。中国政府がいまやろうとしていることとなんら違いはない。
」(p.180-181)

民主的な合意形成によって民主主義的な手続きを省略することが可能になるという−−文章にすると形容矛盾のあまり読解に難渋しそうになる−−あらゆる意味で倒錯した光景が、2020年代の先進各国の日常風景となっていく。これまで、民主主義的プロセスの省略には、ファシストや独裁者などといった汚名を含んだ、厳しい非難や批判がつきものだった。しかしながら、自分にとって許しがたい類の自由や権利を認めたくないという素朴な感情にいま全社会的に共感が集まっていることで、その潮目は大きく変化している。」(p.184)

強いリーダーシップを発揮するリーダーを求め、民主的な手続きによって独裁を可能にする。こういう風潮は、「私の自由は当然、認められるべきだが、あいつの自由は認めない」という考え方から生じているのです。


次は第5話「置き去り死」で、生後3ヶ月の女児が母親に置き去りにされて、マンションの一室で亡くなっていたという事件が話題です。

自分の望んだように自由にふるまえること、それは他者からの望まない関わりや強制を拒絶できる権利を有することと同義である。だれもが愛してやまない自由という名の権利は、この社会で自分の存在そのものを確立する大前提として肯定されてきた。
 他者からの関わりは、自分が気に入らなければ拒絶できる−−そのような自由は、とりわけ子育て世代の人びとから強く求められてきた。自分がいま育てている小さな子どもに、不審な他者からの不要な接触を受けるリスクを最小限にするためだ。
」(p.188)

迷惑な他人に煩わされない自由で快適な社会は、大勢の人びとに快適な暮らしをもたらし、ストレスフリーな人間関係を実現していった。だが、だれもが歓迎して謳歌する、自由で個人的で快適な社会で、その代償を支払ったのは、アパートの一室のトイレで産まれ落ち、そして見棄てられた子どもだった。
 置き去りにされて死んだ子どものニュースに悲嘆にくれ、私が親ならこんなひどいことは絶対にしないのに−−と涙を浮かべながらニュース映像を眺める人びとは、善人であることになんの疑いもない。しかしながら、まさか自分たちが毎日なにげなく行使しているその自由こそが、間接的に彼女たちをこのような結末に向かわせているとは想像できない。
」(p.192)

「ニュース」の中で伝えられた来歴を見るかぎり、加害者の女性には「迷惑な他人」として扱われる要素が散見されてしまう。これでは、たとえ本人が勇気をふり絞って、見知らぬ他者に窮状を訴えようと戸口を叩いても、招かざる客として追い払われてしまうのが関の山だ。
 彼女は、我が子を死なせてしまうという凄惨な結末を迎えてようやく、社会的不公正の被害者として世間の人びとからの認知を得た。だが、そのような結末を迎える前まで、彼女とその娘は社会によって意図的に不可視化された透明人間だった。透明人間になる前は「迷惑な他人」だった。
」(p.195)

自由を求めること、自由であることによって、他人を疎外することがある。たしかに、そういう一面がありますね。


次は第6話「死神のルーレット」で、日本の治安は年々良くなって世界的に見てもトップクラスだが、そんな日本の大阪市北区で起こった25人が犠牲になる放火殺人事件に関する話題です。

犯罪者がみるみる姿を消す平和で安全な社会であっても、しかし「疎外者」は生まれ続けた。だれからも包摂されることなく、存在を肯定されることもなく、世間から疎(うと)まれ、社会から遠ざけられる者が。」(p.196)

カネも身寄りもなければ、気難しく人当たりも悪い、外見的にも不潔そうで、さらにはなんらかの疾患を持っているかもしれない、粗暴な言動をとる年老いた男性が私たちのもとに助けを求めてやってきたとして、本当に彼を歓迎することができるだろうか。自分の手の届く範囲に置き、まめに面倒を見てあげて、彼と温かい縁を結び、終生の隣人として歓迎するだろうか。」(p.200)

往々にして私たちはかれらに同情せず、あるいは包摂もしない。なるべく速やかに、なおかつ穏便に、自分の近くから立ち去って貰える方法を選ぶ。

 私たちが暗黙の合意としてかれらを遠ざけることを選んだ以上、包摂されなかった疎外者の中から、ごくわずかにだが「復讐者」が現れてしまうことは、回避できない必要経費として受け入れていくほかない。
 私たちのうちのだれかが包摂すれば「復讐者」は生まれなかったかもしれない。だがそうしなかったのだ。
」(p.201)

この社会の全員が示し合わせて弱者を包摂せずに遠ざけて疎外したからといって、代償として自分が「復讐者」のターゲットになる確率はきわめて低い。統計的にはますます平和で安全になっている世の中において、かれらを包摂しないことによって支払わなければならない対価は安い。だれかを疎外するとき、そのたびに、1億2000万人をターゲットにしたルーレットが回されるとしても、自分のもとに死神がやってくる確率はどれくらいだろうか。」(p.202)

今回の事件では、あろうことか、ルーレットを回した大勢の人は難を逃れ、ルーレットを回さずに温かく迎え入れ、懸命に支えようと努めた人が殺された。

 事件の現場となり、犯人も通院していたという精神科クリニックの院長は、心身を挫(くじ)いた人とともに、けっして諦めず、親身になって少しずつ歩もうとする人格者として知られていた。院長を直接に殺(あや)めたのは犯人の男だが、その男の背後には、大勢の人が回したルーレットが連なっている。
」(p.203-204)

前話とも関係しますが、私たちが自由を求め、他者を排除することで疎外者が生まれ、その一部は復讐者となって社会を標的にするということです。
その時、犠牲になるのは、その人を疎外した張本人とは限りません。誰が標的にされるかはわかりませんが、間違いなく社会全体の犠牲で償うことになるのです。


●次は第4章「平等なき社会」です。第1話「親ガチャ」は、流行語大賞にもノミネートされた有名な言葉ですね。
子どもにとっては親を選べないから、親の当たり外れによって自分の運命が決まる。その考え方を端的に表した言葉です。

心理学者の安藤寿康は、これまで後天的な努力によって個人的に培われると世間的に信じられてきた数学や音楽などの能力が、実際にはきわめて大きな遺伝的影響を受けていることを突き止め、それを世に発表して大きな衝撃を与えた。
 安藤の研究は、体格やIQはもちろん、性格特性から才能から発達障害や反社会性まで、人間にまつわるありとあらゆる側面が、遺伝という本人の努力ではどうすることもできない「初期設定」によって、とても無視できないほど大きな影響を受けていることを示してしまった。
」(p.211-212)

「遺伝」と「代々にわたって再生産され継承されてきた豊かな社会的・経済的環境」は、個人的な努力や情熱とは比較にならないほど、その人の社会的地位や経済的成功の可能性を大きく支配する。この身も蓋もない事実が、確度の高いエビデンスとともに、それこそ暴力的ともいえるくらいはっきりと白日の下にさらされている状況が、2020年代という時代の前提となっている。

 若者たちにとっては「努力すれば報われる」という、ひと昔前までであれば多くの人から素朴に信じられ肯定されてきたような美しい物語を、真っ向から否定し叩き壊す「不都合な真実(ネタバレ)」があまりにも数多く提供されすぎてしまったのである。
」(p.212-213)

「親ガチャ」という言葉の突然のブームは、「あなたの人生は、あなたの努力で動かせる部分はとても少ない」−−という不都合な真実がひたすら堆積してきた時代のひとつの結果でしかない。」(p.215)

「親ガチャ」というワードの流行は「努力=能力」という神話によって構築されてきた欺瞞的な社会構造に対するシニカルな異議申し立てでもある。」(p.216)

そんなに遺伝的影響が大きいのかと思ったので、この安藤氏の著書「生まれが9割の世界をどう生きるか 遺伝と環境による不平等な現実を生き抜く処方箋」を買って、読んでみることにしました。
ただ、仮にそうだとしても、それは宿命であるという見方もできます。私がこの時代、日本という国に生まれたのも宿命です。ある人がポルポト政権下のカンボジアに生まれたとしたなら、それもまた宿命です。自分(の精神)では如何ともし難い。
つまりそれは人生の前提条件であり、この相対的な世界では必ず何らかの前提条件が与えられているに過ぎないのです。その前提条件の上で、今生をどう生きるかは、私たち自身に託されているとも言えるわけです。


第2話は「子育てをめぐる分断」で、前の話題と同様に、地域の人びとが子育てに参画しなくなってきたことに関する話題です。

子どもたちには、ともに暮らす家族や親族のほか、近隣に暮らす他者からの温かい視線が向けられていた。子どもはその家族にとってだけでなく、地域共同体にとっても宝のように大切にされてきた。

 しかしながら今日においては、子どもはその共同体の未来をつなぐ象徴ではなく、個人的優位性の象徴となりつつある。子どもを持つためには、経済的にも、社会的にも、人間関係的にも優位であることが前提条件となってきているからだ。子どものいないカップルの多くは、自分たちが子どもを持たない理由に経済力の乏しさを挙げる。子どもは、生活に余裕がある人びとにだけ与えられるぜいたく品へとその位置づけが変わろうとしている。
」(p.217)

「子どもたちのために」という建前は、政治的不公平感を納得させるための方便として、さまざまな場面で用いられてきた。今回の新型コロナウイルスでの経済支援でも、やはり「子どもたちのために」という文言は説得力を持っているかのように思えた。

 しかしながら、世の中の声を観察してみると、必ずしもそうではないことが見えてくる。というのも、子どもがいる世帯への支援それ自体が「逆差別的ではないのか」という声も、無視できないほど大きなボリュームで聞こえていたからだ。
」(p.219)

いまこの時代は、女性との縁がない、いわゆるモテない独身男性からの抗議の声を、世間が真に受けず、まともな批判として検討することもなく、ただの妬(ねた)み僻(ひが)みとして一蹴してしまえる最後の時期となるだろう。なぜなら、「恋愛や結婚ができる人」が多数派ではなくなり、「結婚どころか恋愛経験すらない人びと」が現役世代の多数派になる時代が近い将来やってきてしまうからだ。」(p.221−222)

子どもがいる、結婚している、恋人がいる、ということが贅沢なことと位置づけられ、少数派になってくるのですね。
自由恋愛が進んだことで、社会の人口の再生産能力が低下し、社会の維持が懸念され始めた昨今、個人の自由とはいったい何かということが、改めて問われるのかもしれません。


第3話は「能力主義」で、あらゆる差別に反対するとしている大学が、平気で能力で差別していることを取り上げた話題です。

「すべての人に開かれた組織であること」と「知的能力や学力に劣っている人を受け入れないこと」とは、はたして両立する論理なのだろうか。

「これは差別ではなく区別」「組織側にも選ぶ自由がある」といった建前があることは事実だ。しかしながら、建前がどのようなものであれ、能力で人を選別することは差別には当たらないのだろうか。
」(p.226)

無能への差別を完全になくしてしまえば、この社会を運営するためになくてはならない「だれもやりたがらないが、しかしだれかにやってもらわなければならない役割・仕事」をだれにも割り当てられなくなってしまうからだ。だれかがその役割を引き受けなければ社会の維持が困難になってしまうそれらの仕事を、独裁国家のように強制動員によってまかなうのではなく、ごく自然な選択の結果として演出しながら個人に引き受けさせるには「能力による序列化」が不可欠だ。」(p.228)

「容姿への差別は許さないが、学力による差別は公平である」は、いま多くの称賛を浴びる公平の定義であるが、あらゆる人にとって公平であるとは言い難い。学力試験が得意な人間にとってあまりにも有利に定義された「公平」であることは明白だ。」(p.231)

高い学歴や知的能力を持つジェンダー論者や社会学者が唱える「ミスコン廃止論」は、容姿によって女性を評価するコンテストが、女性から主体性を奪い、男性に奉仕する道具として見せるものだと批判する。この論旨はたしかに理にかなった側面を有している。だが、学力の高い自分たちにとって有利なルールを、あたかも万人にとって「公平」であるかのように主張するのはいささか誠実性に欠けている。」(p.233)

体力や腕力に自信のある人が相手を殴りつければいうまでもなく犯罪だ。しかし知的能力に自信のある人びとが知識社会でますます優位性を発揮し、知的能力に劣った人を暴力的に追いつめてしまっても−−それで間接的に死に追いやってしまっても−−明確な詐欺行為などがないかぎりは合法であり、罪に問われることはない。」(p.237)

私は「違い」は単に「違い」だと思うので、ミスコンも否定しません。それを否定するなら、100m競争だって否定しなきゃおかしいからです。
それぞれに得意とするものがあるだろうし、不得手なものもある。そういう「違い」を前提にしてみんなが仲間だという考えがあれば、「違う」から差別することにはならないからです。


第4話は「低賃金カルテル」で、社会にとって必要だけれども誰でもできるような仕事には、低賃金しか支払われないという問題についての話題です。

世間の人びとは、このパンデミックに際して「介護士はプロ、保育士は専門職、スーパーのレジ係は市民社会のインフラ、ゴミ収集に従事する皆さん、いつもありがとう」などと讃える。しかし「プロフェッショナル」にふさわしい対価を支払う役になった途端、急に共感的な声は鳴りやむ。だれもかれらに「プロ」としてふさわしい対価を支払おうとはしない。かれらを「プロ」であると同時に専門的な技術や技能や経験を持つ存在ではなく、やろうと思えばだれでもやれる仕事に就いている人びとと考えているからだ。」(p.244-245)

エッセンシャル・ワーカーはやろうと思えばだれでもできる仕事であり、なおかつだれもがあえてやりたがらない仕事だと見なされている。ここにエッセンシャル・ワーカーの多くが低賃金のままに置かれる理由がある。」(p.245)

対比的に藤井五冠のことが取り上げられています。いなくなっても誰も困らないようなことをやっていながら、大金を稼いでいるという存在ですから。これはプロ野球選手も同様でしょう。
でもこのことは、対価と役割のアンバランスとして、多くの仕事にあります。教師や聖職者の報酬は低く抑えられ、一方で風俗嬢は高い収入を得る。これは、お勧めしている「神との対話」で指摘されていることです。

私は、第1に政府が事業をしているために、報酬が低く抑えられていると思っています。要は、より安い価格で庶民にサービスを提供しなければならないという政府の考え方が、この賃金に反映されているのです。
もし、自由競争に任せるなら、需要と供給の関係で適切なところでバランスが取られるでしょう。やる人が少なければ給料は上がるし、増えれば下がるのです。


第5話は「キラキラと輝く私の人生のために」で、卵子凍結による代理母出産で、キャリアを捨てないで子どもを持つという女性の選択に関する話題です。

街中の公共空間に進出する性的なイラストや広告などに「女性を性的オブジェクトとして消費する搾取である」と激しく批判を向ける一方で、グローバル経済や能力主義のヒエラルキーにおいて下位に位置する女性を安価な労働力として市場に供給させ、エリート女性たちのトレードオフの解消のために利用する。別の女性の機会獲得のためにポートフォリオとして消費される立場にある女性が、グローバルな経済格差を背景にしていまだ多く存在することについて、その責任を負うどころか、「女性はいまも男性とくらべて所得格差がある。差別を受けいてる」などと、自説に都合よく援用すらしてしまう。」(p.254-255)

エリート女性がキャリアのために、卵子凍結で代理母出産をする時、彼女の代わりに「産む」という仕事をすることになる代理母は、たいてい低賃金の国の女性だという一面があります。タイは、法律によって代理出産を禁じましたが、今度はそれをウクライナが引き受けていたのだとか。

人権思想がカバーする権利や自由が拡大し充実するほど、「人権が行き届いた社会」を維持するために必要なリソースが膨大になる。結果として、一部の人びとには自身の権利や自由を返上してもらう必要が生じる。この矛盾を−−社会的な不公平や差別ではないと丁寧に印象付けながら−−解消するためにこそ、能力主義が求められた。」(p.255-256)

あらゆる差別を撤廃するべく日々邁進する先進社会でも、最後まで「能力による差別」は肯定される。なぜなら、能力による差別こそが、維持コストが膨大にかさむ人権思想を持続させるための心臓そのものだからである。能力主義はあらゆる差別が駆逐されてもなお生き残る、いわば差別の王である。」(p.256-257)

能力が高い人は、それだけ自由の恩恵を受けられ、その自由のために、能力の低い人の自由が妨げられることは当然だ、という価値観ですね。


次は第6話「平等の克服」で、戦争や革命、疫病による社会秩序の混乱や瓦解が、その後の世界に富の平等をもたらすという話題です。

これまで、大規模な破壊や秩序崩壊の後に訪れていた富裕層課税への社会的合意は、富裕層自身が大衆社会に対して抱く恐怖心が大なり小なりその原動力となっていた側面がある。」(p.264)

社会が安定していればこそ、富裕層は富裕層として安全と豊かさを享受できた。だからこそ、その安定が脅かされる事態になった時、不安定要因の貧困層を慰撫する目的での再配分を行うことで、安定を守ろうとする動きが生じるわけですね。

富裕層や知的労働者たちが地理的にも物理的にも大衆とは隔絶された安全な場所に生活の拠点を移し、大衆社会の怒りや不満のエネルギーに直接あてられる恐怖を感じることもなく、モニタースクリーン越しに表示されるグローバル市場のチャートを眺めながら、政治的・経済的情勢を冷静に見極め、このパンデミックを危機ではなくチャンスとして活用する。」(p.265-266)

しかし現代のネット社会、グローバル社会においては、富裕層はいくらでも簡単に現実社会から逃げ出すことができるし、姿を見せずに操作することが可能です。

人間社会の高度化によって、平等すらも克服してしまえば、今度こそ「富の再分配」は懐かしい過去の遺物となる。」(p.266)

つまり、格差はますます開いていくと嘆息されるのですね。
私は、また別の見方をしています。ここで詳しくは書きませんが、人は少しずつ変わっていくものだと思っていますので。


●次は第5章「不可視化された献身」です。第1話は「子どもおじさん」で、立派な大人が親と同居し、子ども部屋を与えられて生活しているような、子どものような大人のことが話題です。
「子どもおじさん」は、「こどおじ」と略されることもあるとか。もちろん「こどおば(子どもおばさん)」も存在するそうです。

しかしながら、「こどおじ」の流行は、当人の主観的認識はどうあれ、「ちゃんとした暮らしができない男性には、他者(とくに女性)との人間関係を得る資格などない」とする風潮を全社会的に肯定し、経済的・社会的に弱い立場にある男性たちを人間関係から排除してきた結果として生じたものである。
 世の多くの人が、経済的・社会的・コミュニケーション能力的に劣った男性の排除に大なり小なり加担しておきながら、かれらが「自分は自発的に『まっとうな大人』の輪の中から退場した」と都合よく認識してくれていることによって、責任の所在をうやむやにすることができている。そればかりか、かれらのことを「こどおじ」などと呼び、小ばかにすることさえできた。
」(p.272)

急増している「こどおじ」は、少子高齢化や、孤独死と同じく無縁社会に連なる社会問題の文脈で語られる。
 これを社会問題として捉え、実際に解決しようと望むのであれば、この社会のメンバー全員が、自分たちの視界の外側に「こどおじ」を生み出すことによって得てきた人間関係の快適性を部分的に返還する必要がある。しかしながら、社会は本当にその条件を受け入れるのだろうか。
」(p.276)

つまり、社会不適合者が自発的に社会から隠れているのではなく、他の人びとが無言の圧力で社会から追い出しているのではないか、という指摘です。


第2話は「暗い祈り」で、コロナ禍による経済的な影響が顕在化しつつある問題についての話題です。

「時代の犠牲者」はいついかなるときも生まれてしまう。しかしいつの時代も、世間の人びとは犠牲となったかれらに感謝や謝罪の意を表さない。それどころか「本人の努力が足りないからそうなったまで」「自己責任だ」などといった冷酷な言葉によってかれらの苦しみを都合よく要約し、あっさりと総括してしまう。」(p.285)

努力が足りないから、やる気がないから。そうやって本人だけの責任にすることで、彼らに寄り添おうとしない多くの人々の対応に、御田寺さんは反感を覚えているようですね。


第3話は「きれいなつながり」で、東日本大震災での人びとの絆が話題です。
大変な状況下で人びとはつながりを求め、絆を結ぶことを選びました。しかし、コロナ禍では、つながることがリスクとされるようになりました。そこで、相手を選んでつながるようになったと言うのです。

これまでの世界であれば、なんでもないごく普通の隣人として、ゆるやかにつながり合えたかもしれない人びとが、これからの世界では、物理的にも心理的にもずっと距離の遠い他人のままになる。
 他者から「きれいである」「有益である」「無害である」「快適である」と認められる人でなければ、「つながり」や「絆」を結んでもらえなくなっていく。
 人間社会において、「つながり」や「絆」は希少財になっていく。
」(p.291)

市民社会の名もなき人びとが「あいつが感染者だ」「いやこいつだ」「感染者はどこだ」と自警団を結成して街の浄化に勤(いそ)しんでいるさなかに、良質なつながりを持つ人びとは、すでに次の有事を切り抜ける段取りを整えている。非公開コミュニティやメッセージグループで緊密な情報交換を行い、それぞれが持てる−−金融・政治・経済・社会・ビジネス・資産運用・キャリアなど−−ありとあらゆる知識を総動員して、不落の要塞を形成しようとしている。」(p.296)

つまり世界は一部のグローバリストによってコントロールされており、彼らはどんな状況下でもつながりあって富を増やす形を整えているということですね。今、流行の陰謀論とも関係してきそうです。
まあこれが真実かどうかは何とも言えませんが、こういう主張をする人は多いようです。


次は第4話を飛ばして第5話の「共同体のジレンマ」で、オンライン・サロンに関する話題です。

とりわけ人間関係における自由は絶対的な規範として肯定されてきた。人びとは自由に付き合う人を選ぶことができる。ある人が人生においてだれと関わりを持とうが自由であるし、逆にだれとの関わりを拒絶しようが、それもまた自由でもある。
 一見すれば、他者から煩わされることの少ない、快適な社会を実現しているようにも思える。しかしこのような快適性は、裏を返せば自分もまた他者からあっさりと−−個人的な快適性を高めるために−−拒絶される場面を感受しなければならないことも含意する。自分の快適性のために他人をためらいなく自由に切り捨てられる社会は、自分もいずれは同じ論理を他者から向けられる可能性を拒否しえない。にもかかわらず、人はいつも自分が選ぶ側、切り捨てる側に立てるものだと無邪気に信じている。
」(p.310)

個人の自由を追求するなら、他人を排除するということは、自分も排除されるということです。そして排除されて、社会から見棄てられた人の問題、それが御田寺さんの心にはずっとあったのでしょうね。
本書の最後の方に来て、やっとそのことが見えてきました。


第6話は「疎外者たちの行方」で、北九州の暴力団「工藤会」第五代総裁の野村悟に福岡地裁で死刑判決が下されたことが話題です。

たしかに、ヤクザ−−あるいは近年では「半グレ」−−とされる者たちが、一般企業向けの就職活動のように「ぜひともヤクザになりたいのですが、採用していますか!?」などとその組織の門戸を叩くわけではもちろんない。大抵の場合、ほとんど選択の余地のない強制スクロールの一本道をひたすら歩いた果てに、そのような世界が結果として待ち受けていただけだ。」(p.319)

だれかがほんの少しでも手を差し伸べていたら、違った未来があったかもしれない。だがそうしなかった。現代社会を生きる人びとの多くが、かれらに手を差し伸べるどころか、どこに暮らしていて、なにをして糧を得ていたのかを、そもそもまったく知らないのではないだろうか。へたをすれば、かれらの姿を肉眼で捉えたことがない人もそれなりにいるのではないか。」(p.320-321)

市井の人びとは、自分たちがまったく自覚することなくかれらを疎外し透明化してきたことに気づいていない。そしてその果てに彼らが「反社会勢力」になった途端、自分たちが100%被害者であるような顔をして−−近代社会の法や秩序は実際にそのように規定しているので、被害者であることはまぎれもない真実なのだが−−そして「ヤクザはいらない」と声を挙げる。」(p.321)

現代社会に生きる私たちは、自分たちの快適な暮らしを守るために、なにやら「厄介ごと」を抱えていそうな人やその子どもをほとんど無意識的に不可視化・透明化して遠ざける。
 遠ざけられたかれらは文字どおりの「疎外者」になる。その「疎外者」たちの中から−−全員ではなく、割合としてはごくわずかな例外であるといえるとしても−−社会に牙をむく者、刃を向ける者が生まれる。だとすれば、私たちがその責任の一端を担う者として、かれらと向き合わなければならない。
「ヤクザ」がひとつの」結果であるならば、当局がそのトップを捕まえて「世に仇なす極悪人」として断罪し、首尾よく絞首台に送れたところで、期待したようなハッピーエンドは訪れないだろう。
」(p.324)

「かれら」の姿を見つけること−−すべてはそこからはじめないといけない。」(p.324)

今の私たちの社会がこうなのは、今の私たちがこうだから。だからこそ、まず自分がその責任の一端を引き受けなければ変えることができない。
御田寺さんの主張は、そういうところにあるのではないでしょうか。


●終章は「物語の否定」です。
私たちは真実を見ているのではなく、その物語を見ているのだと御田寺さんは言います。物語とは、自分が都合よく組み立てた見方と言えるでしょう。

それでも、美しい物語からはじき出されたものたちを、世の多くの人が見える場所まで喚(よ)びもどすことによって、私たちがいま見ているのは「物語」であると、だれかが告げなければならなかった。この時代においてその仕事を引き受けたのが、たまたま私だった。」(p.331)

あえて真実を見ないことによって、つまり事実を自分の目から覆い隠すことによって、自分に都合よく解釈する。その都合の良い解釈によって、無視され疎外された人が苦しんでいようと、そこに気づこうともしない。
そういう現実があることを指摘することが、この本の目的だということなのでしょう。


オムニバスのように30以上の話題が繰り広げられていますが、それはそれぞれに関連性があり、最終的には1つのテーマによって貫かれていることがわかりました。
分厚い読み応えのある本ですが、惹かれながら最後まで読み終えてしまいました。そして、いろいろと考えさせられました。

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タグ:御田寺圭
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:01 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年08月20日

刑務所しか居場所がない人たち



何で知った本だったか忘れてしまいましたが、読み始めてすぐに、これは良い本を買ったなぁと思いました。
子ども向けに書かれた本のようで、漢字にはほとんどふりがなが振られており、文章も非常にわかりやすいです。読みやすく、あっという間に読めてしまいました。

著者の山本譲司(やまもと・じょうじ)さんは、元衆議院議員ですが、2000年に秘書給与詐取事件を起こして服役されています。そのことによって刑務所の中の知的障害者問題に気づき、出所後は障害のある受刑者の社会復帰支援に取り組まれているようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

それまで抱いていた刑務所のイメージは180度変わった。悪いやつらを閉じこめて、罪を償わせる場だと思っていたのに、まるで福祉施設みたいな世界が広がっているんだから。
 刑務所の周囲にそびえるあの塀を、僕は誤解していた。あの塀が守っているのは僕たちの安全じゃない。本来は助けが必要なのに、冷たい社会の中で生きづらさをかかえた人、そんな人たちを受け入れて、守ってやっていたんだ。
」(p.9-10)

山本さんが衆議院議員だった2000年9月、秘書給与流用事件で有罪判決を受け、栃木県の黒羽刑務所で服役したそうです。そこで見たものは、悪党だらけの世界ではなく、認知症のお年寄りや障害を抱えた人たちが多く暮らす世界だったそうです。
トイレや風呂ばかりか食事にさえ介助が必要な人たち。そこはまるで福祉施設のようだったと言います。

だれだって、罪を犯したいわけじゃない。
 知的障害のある人が犯行に走った理由は「生活苦」がいちばん多い。障害があるとなかなか仕事に就くことができないから、生活が困窮しがちだ。身近に頼れる人も、行く場所もなくて、ホームレスのような生活を続けたすえ、空腹に耐えかねて万引きをしたり、食い逃げをしたりするのが典型的なパターンだ。
 あるいは、やけに親しげに声をかけてくる人がいて、「友だちになった!」と思っていたら、じつは相手がヤクザで、いいように使われることだってある。
」(p.19)

知的障害のある人の犯罪は、いわゆる軽犯罪が多いのです。ともかく自分が生きていくためのことをしようとして、それでついつい犯してしまうような犯罪です。

実際、犯罪そのものが昔と比べて減っているし、殺人などの凶悪事件は激減していると言います。なので、刑務所に入っている殺人犯は、実に少ないそうです。

答えは……1%。
 2016年、新しく刑務所に入ってきた受刑者約2万500人のうち、殺人犯は218人だった。刑務所の中でも、殺人犯と会うことはめったにない。
」(p.21)

少年犯罪の検挙者数も、2016年は3万1516人で、10年前の1/4に過ぎないのだとか。少年鑑別所はガラガラ状態だそうです。

犯罪が減っているのに、治安が悪いような気がすることを「体感治安の悪化」なんて言うけれど、マスコミの報道がそうさせている面もあると思う。たぶん、視聴率や発行部数を稼げるからだろう。」(p.22)

さもありなん、ですね。

一方で、あまり減っていないのが知的障害のある人の犯罪だ。ほとんどが窃盗や無銭飲食、無賃乗車とかの軽い罪。スーパーで売り物のアジフライを一口かじっただけで、実刑判決を受けた人もいる。
 僕が思うに、もしかしたら裁判官は、「彼らのため」と思って実刑判決を出している面もあるのかもしれない。執行猶予がついて社会の中に戻ると、きっとまたいじめられたり、ホームレス状態になったりする。だから、緊急避難の意味あいで、実刑にするのかもしれない。
」(p.23)

そういう穿った見方をしたくなるほど、知的障害者の軽微な犯罪での実刑判決が多いのでしょうね。


たとえば、自閉スペクトラム症という発達障害のある人は、人とのコミュニケーションが苦手だったり、かたくなにルールを守ろうとしたりする。周囲からは「空気が読めない」と言われ、いじめの対象になることも多い。子どものころからずっとしいたげられてきて、いやな思い出ばかりかかえているんだ。そのつらさが、なんらかの刺激によって表に出て、犯罪に結びついてしまうことがある。」(p.30)

想像してみてほしい。どんな受刑者でも、生まれたときはかわいい赤ちゃんで、一生けんめいに成長してきた。それが、大人になってだれも支えてくれない日々をすごし、さらに年をとって生活に困る。やむをえず、万引きや無銭飲食に手を出して刑務所に入れられ、そこで死んでしまう。
 だれだって、こういう死にかたを望んだわけじゃない。家族や仲間に囲まれて、惜しまれながら息を引き取りたいと願っていたに違いない。だけど、それを許してくれないのがいまの社会なんだ。
」(p.38)

刑務所には、無縁仏となった遺骨がたくさん眠っているそうです。死んでも遺骨の引き取り手がない。社会の誰からも受け入れてもらえず、見捨てられた人たちが大勢いるのです。


気合を入れて、ぞうきんとバケツを持ってきてそうじをした。マスクや手袋なんかは支給されないから、もちろん素手だ。爪のあいだにうんちが入りこむ。最初は「自分の子どものうんちみたいなもの……」と思うようにしていたけれど、気がついたら慣れていたな。」(p.42-43)

山本さんは刑務所で、他の受刑者の部屋の掃除をさせられることがあったそうです。ゴミだらけ、糞尿だらけの部屋だとか。
本来なら、介護が必要な受刑者なのでしょうね。山本さんは、自然と介護士のようなことをされたようです。


寮内工場を担当する刑務官のほとんどが、受刑者たちを罰しているというよりは、保護している感覚で接していた。「弱肉強食のシャバの中で大変だっただろう。ここでは食事も寝床も与えるし、満期までは自分たちが守ってやる」。そんな気持ちでいることが、はた目から見てもよくわかる。
 夜中、独房で泣く受刑者に、刑務官が優しく子守唄を歌うすがたを見たこともある。
」(p.46)

若い刑務官には、しゃくし定規に受刑者をどなったりする人もいるけれど、それは受刑者がまだ怖いから。寮内工場にいるのは、暴力をふるいそうもない受刑者なんだけど、「受刑者=極悪人」というイメージが抜けないみたい。」(p.47)

日本の場合は服役とは懲役刑なので、何らかの刑務作業をさせられます。家具を作ったりする仕事ですね。しかし、そういう作業ができない人たちもいるわけで、そういう人たちが集められるのが「寮内工場」だとか。呼び名は、刑務所によっていろいろあるようです。
そこは、刑務所と言うより福祉施設のようなところだとか。ただ、ただでさえ安い刑務作業の報酬よりももっと安いようで、刑期を終えても蓄えがほとんど作れない。それもまたシャバに戻ってからの生活に困る原因にもなっているようです。

家族もいなくて家もない、お金もない。そんな、ないないづくしの状態は長く続けられない。満期出所者の半数近くは、5年以内に再犯をして刑務所に戻ってきている。だって、そうするしか身の安全を確保できないんだもの。
 再犯せずにいる人たちだって、まともな暮らしをしているとはかぎらない。やむをえず路上生活を続けたり、ヤクザの世界に足を踏み入れたり、最悪の場合は自殺しちゃう人もいる。
」(p.55)

刑期を終えても、問題が解決するわけではないのです。


また、知的障害者の軽微な犯罪に関する裁判の問題もあると山本さんは指摘します。

残念なことだけど、裁判官の知的障害に関する理解は決して十分とはいえない。真顔で「その障害って、薬で治らないの?」「いつから知的障害になったの?」なんて、とんでもない質問をしてくる裁判官もいる。」(p.60)

この程度の理解しかないから供述調書に対しても、知的障害があればこう理路整然とは説明できないだろうという想像が働かない。これも裁判の問題になっていると山本さんは言います。

前にも言ったように、知的障害者の犯罪は、罪名と実際にしたことのギャップが大きい傾向がある。車にあった30円を盗んだ「窃盗罪」とか、知りあいとケンカして、つい手に持った刃物が相手の首にちょっとふれて「殺人未遂罪」とか、罪名を聞いて想像するより被害が小さいことが多い。
 日本の司法制度には、被告人の知的障害を配慮するしくみがないことが、関係しているんじゃないかな。
」(p.61-62)

母親が賽銭箱に1000円を入れて、「いつか助けてもらえることがある」という話をしたことを覚えていて、困窮した時にその賽銭箱から300円を盗んだ知的障害者もいたそうです。裁判では、「まだ700円預けてある」と言うので、反省していないと受け止められたのだとか。

アメリカには、知的障害のある被告人のための特別な制度がある。IQ(知能指数)が50以下の被告人は「アンフィット」といって、ふつうの裁判を受けられる状態ではない人と判断される。知的障害についてよく理解した裁判官、検察官、弁護士のもと、裁判を受けることになる。要は、被告人の障害特性を考慮して刑を決めるんだ。イギリスやオーストラリアでも、同じような制度があるよ。」(p.62)

本来、刑罰を与える対象ではないのです。福祉によって守るべき対象。そういう認識が、日本にはまだないようです。

重大な事件なら、裁判の途中で弁護士が「本鑑定をすべき」と主張して、しっかり鑑定を受けることもあるけど、非常にまれなケースだ。知的障害者の被告人によくある、カップ酒を1本盗んだような軽い罪は、弁護士もそこまでやらない。」(p.66)

知的障害の有無は、せいぜい1〜2時間ほどの簡易鑑定によって判断されます。しかも、検察官お抱えの鑑定医が、ざっと資料を読んで、わずか数問の質問をするだけで。最初から責任能力ありという見方なのです。

そもそも、知的障害のある被告人は身元引受人がいないことが多くて、執行猶予つきの判決はほぼ無理だ。仮に、責任能力の有無を裁判であらそおうとすれば、弁護士が自腹を切って精神鑑定を依頼することになるだろう。裁判官は、軽い罪に、税金で精神鑑定をかけることを認めないからね。」(p.69)

検察は国の組織だから、やろうと思えばいつでも税金で捜査や精神鑑定ができるけれど、弁護士はそうじゃない。自分で弁護士事務所を経営するか、そういう事務所に雇われている弁護士がふつうだ。つまり、中小企業の社長か従業員みたいなものだから、経営のことを考えると、報酬の安い仕事はできないのかもしれない。」(p.71)

窃盗や無銭飲食をしてしまうくらいですから、被告側にはお金がなく、どうしても国選弁護人を選ぶことになります。そうなればなおのこと、不利な裁判になってしまうのですね。


知的障害者の問題については、裁判(司法)にも問題がありますが、それを受け入れてこなかった福祉関係にもあると山本さんは指摘します。
福祉関係者の多くが、知的障害者の犯罪に対して冷淡な態度を取るのだとか。知的障害者であっても、罪を犯したなら司法が担当すべきだと。

だけど、ほんとうにそうなのかな? くりかえすけれど、罪を犯した知的障害者は加害者になる前に、長いあいだ被害者として生きてきた人が多い。身寄りがなく、お金もなく、だれの助けもないなかで、やむにやまれず無銭飲食や無賃乗車などをしてしまった。罪を犯さざるをえないほど困っている人たちなんだから、本質的には福祉の問題だと僕は思う。」(p.83)


福祉の問題で言うと、知的障害者の障害認定の問題があると山本さんは言います。
知的障害者がもらう「療育手帳」ですが、自治体によってその名称も異なるし、判定基準もバラバラなのだとか。それでは、他の自治体へ転居しても、これまでの手帳が意味をなしません。そういう実態があったとは、知らなかっただけに驚きました。

また、判定基準は、財政に余裕のある自治体ほど、基準が緩やかだという傾向があるそうです。つまり、予算をどれだけ使うかが判定基準になっているのですね。

だから、日本は障害者の人数が異様に少ないことになっている。
 国は、「障害者手帳の発行数=障害者の人数」としてカウントしている。厚生労働省の発表(2018年)によれば、身体障害者・知的障害者・精神障害者を合わせて、日本の全人口の7.4%だ。
 それに対し、WHO(世界保健機関)と世界銀行が発表した『障がいについての世界報告書』(2010年)では、世界人口の15%がなんらかの障害があるとしている。この地球上の6〜7人に1人は障害者なんだ。
 日本だけが障害者が少ない? そんなはずはないよね。6〜7人に1人っていったら、もはやマイノリティ(少数派)ともいえない。この人たちが不自由なく暮らせるようにするのは、国の責任だ。そんな根本的なことができていないから、福祉につながらず、刑務所に来てしまう障害者があとをたたないんだよ。
」(p.85-86)

たしかに、こうして比較してみると日本の異常さが目立ちます。


ただ、療育手帳をもらえればそれで解決かと言うと、そうではないと山本さんは指摘します。
療育手帳をもらえたことで知的障害者という偏見で見られるようになり、いじめられることにもつながるからです。そういう社会的な疎外によって、反社会的な方向へ流れてしまうこともあります。

ヤクザは、知的障害者のコンプレックスにつけこんで犯罪行為へと引きずりこむ。福祉関係者には「ヤクザから彼らをとり戻す!」ってくらい言ってほしいところだけど、たいていは現実から目をそらしている。」(p.91)

僕が言いたいのは、知的障害者全員に療育手帳を発行しろということじゃない。手帳を持っているか持っていないかではなく、「いま現在、何かに困っているかどうか」で福祉サービスを提供してほしいということだ。
 障害以外にも難病とか貧困とか、困っている人はおおぜいいるよね。そうした人たちが困った状態じゃなくなるように、一人ひとりに応じた支援をするのが本来の福祉だと思うんだ。
」(p.91)

福祉のあり方について、考えさせられます。


日本の障害者福祉予算は年間約1兆円。GDP(国内総生産)に占める障害者福祉予算の割合でいえば、スウェーデンの約9分の1、ドイツの約5分の1、イギリスやフランスの約4分の1、そして、社会保障制度が不十分だといわれているアメリカと比べても、2分の1以下になっている。先進国の中で、障害者福祉にこんなにお金を使っていない国はないよ。国として障害者福祉を軽視しているといわざるをえない。」(p.95-96)

これは私も驚きでした。こうやって数字で示されると、いかに日本の障害者福祉が貧しいものかがわかります。

「福祉に行ったら無期懲役だ」
 こんなふうに言う人が、ものすごく多い。
 そこまで福祉は信用されていないのか、と最初はショックだったよ。でも、彼らの言いぶんには納得できるところもある。福祉施設に入所すると、起きる時間も寝る時間も、お風呂も食事も、ぜんぶルールが決まっている。ちょっとコンビニに行きたくたって、自由に外出できない。何度かルールを破ると”むずかしい人”と決めつけられ、つらく当たられる。
」(p.103)

たしかに、こういうことはありますね。老人介護施設で働いている私ですが、このことはよくわかります。なので私も、老人介護施設には入りたくないと思っていますから。


善意は、ときとしてだれかを排除する力をもっている。
 自治体のメール配信も、親どうしの不審者情報の交換も、みんな「よかれ」と思っての行動だよね。自分たちを守ろうとしているだけだ。でもその陰で、本来は福祉につながるべき人たちが、刑務所に入れられている場合があることを、君に覚えておいてほしい。
」(p.111)

変な人、よくわからない人を排除することで自分たちの安全を図ろうとすると、その行為によって不審者とされた知的障害者が犯罪者になってしまうことがある。警戒され、排除されれば、誰でも抵抗したくなるものですから。


精神や知的に障害がある人が出所する時は、自治体に通知するようになっているそうです。それは、医療や福祉につないでもらうためです。
しかし、それに対して自治体が適切に対応しないという問題があるそうです。

ちなみに2016年は、刑務所全体として、全出所者2万2947人のうち3675人について自治体への通知をおこなっている。でも、自治体がきちんと対応してくれたのは、たったの66人にすぎない。」(p.114-115)

ここにも変な人は排除したいという不安や怖れに支えられた行動があるのですね。

だから僕は、反対運動をしている人たちも含め、周辺の住民を集めてもらって、直接話しをすることにした。そのときのようすは、地域のケーブルテレビでも流され、10回以上にわたって放送されることになった。
 そしたら、わかってくれたよ。反対していた住民のひとりがこう言った。
「要するに、累犯障害者は、地域の中で孤立し、排除されて刑務所に行っていたんですね。まさに、わたしたちのような人が累犯障害者を生み出していたんですね。もう反対はしません」
 障害のある人のことを何も知らなければ、身がまえてしまうかもしれない。だけど、どんな人たちなのかを理解すれば、彼らと共生することへの抵抗感は少なくなる。それを象徴しているようなできごとだった。
」(p.116)

知的障害者のためのグループホームを建てようとした自治体で、反対運動が起こった時の話だそうです。
人は、わからないものに対して警戒し、不安や怖れから抵抗してしまうものです。だから、対話を重ねることで理解を進め、信頼してもらうことが大切なのですね。


なにか事件が起きたとき、マスメディアは犯人が逮捕されるところや、裁判であらそうところまではこぞって報道するから、検察や警察、裁判所は華やかに見える。だけど、裁判が終わればパッタリ報道されなくなって、そのあとの刑務所のことは忘れられがちだ。
 罪を犯した本人にとってみれば、”生き直し”をスタートさせる刑務所こそ重要なところ。出所して、社会に戻るときに支援する更生保護は、刑事司法の総仕上げだ。これらにもう少し予算をかければ、再犯を大幅に減らせるんじゃないかって僕は考えている。
」(p.120)

本来ならば福祉が支援すべき対象でも、いまの社会はそれをせず、”臭いものにふた”のように刑務所に入れてしまう。そのために使われる税金が、一人あたり年間500万円と考えると、たしかに高いよ。
「犯罪者にお金をかけるのはもったいない」って言えば言うほど、再犯は減らないし、刑務所にかかるお金だって増えていく。
」(p.121)

今の司法のあり方も、メディアの取り上げ方も、悪いやつを捕まえて排除すれば終わり、ということになっている。だから問題が解決しないと私も思います。


犯罪をした人も、電車の中でわめき声をあげる人も、ゴミ屋敷を作る人もそう、僕らと同じ人間だ。困ったときにとる行動が、ちょっと違うだけだ。いつの時代も、生まれながらにそういう人が一定の割合でいる。
 障害者ってどんな人? そう疑問に感じたら、自分と違うところじゃなくて、同じところを探してみよう。おのずと答えが見えてくるから。
」(p.130)

日本で障害者の地域移行が始まったのは、ほんの10年くらい前のことだ。障害のある人はずっと施設に隔離されていて、最近になって少しずつ地域に戻ってきた。だから、大人たちも、どう接したらいいのかわからない。
 大人が身がまえると子どもも身がまえる。すると、障害のある人だって身がまえて、心を閉ざしてしまう。
」(p.133-134)

障害のある人を理解するっていうのは、腫れもののようにあつかうことでも、むやみに親切にすることでもない。自分と同じ目線で接し、彼らの立場になって考えてみることだ。
 周囲の人と気持ちが共有できた経験は、障害のある人にとって、たいせつな成功体験になる。そうやって、障害のある人に優しい社会、つまり、君も含めてみんなを優しく包みこむ社会が築かれていくんじゃないかな。
」(p.136)

私たちは、それぞれに違いがあるのが当然です。けれども、同じ人間です。雪の結晶がそれぞれ違いながら、全体としては同じ雪であるように。
そうであれば、最初から敵視し、分離分断を進めるべきではなく、安心し、信頼し、受け入れていく方がいいのではないでしょうか。
そのためにも、まずは自分の中から不安や怖れを取り除くことですね。


本人の世界を否定するんじゃなくて、そっと寄りそう。それができれば、障害があっても公の福祉に頼ることなく、暮らし続けられる。」(p.150-151)

出口支援は整いつつあるけれど、同時に、障害のある出所者に対する社会の意識も変わらなくちゃ、せっかくの支援策も生きてこない。管理や隔離をするのではなく、ふつうに暮らせる社会をめざさなくちゃ。」(p.161)

幻覚によるものを現実だと主張する人がいたら、その思いを汲み取って否定しないこと。その人にはそれが見えているんだから、否定しても無意味なんです。老人介護の現場でも、そういうことはありますね。
前にも引用したように、重要なのは知的障害者を出所後に施設に入所させることではありません。集団で暮せば、どうしても管理して自由を奪わなければならない面が出てきますから。
それよりも、地域において誰もが、障害者を対等な人間として見られるようになることが大事ですね。


ほんとうだったら、刑法そのものが変わる必要があると僕は思っている。刑法で定められた刑罰には、死刑、懲役、禁錮、罰金などといくつかあるけれど、累犯障害者が受けるのは、ほとんど懲役刑だ。もっと、罪を犯した人の背景に応じた償いかたがあってもいいんじゃないだろうか。たとえば、社会にいて、必要な支援を受けながら奉仕活動をするとかね。
 たいせつなのは、罪を償って二度と再犯しないことであって、刑務所に入れることではないんだから。
」(p.155)

たしかアメリカでは、軽微な犯罪に対してボランティア活動などをすることで出所できる制度があったように思います。日本にも、そういう制度と、それを支える団体や仕組みができるといいですね。


さて、だれもが安心して暮らせる社会って、どんな社会だろうか。
 キーワードは「ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)」だ。包摂っていうのは、何かを包みこむという意味。ソーシャルインクルージョンは、社会から排除されているすべての人を、ふたたび社会に受け入れ、彼らが人間らしい暮らしができるようにしよう、という考えかただ。
 罪を犯した障害者は、それまでの人生のほとんどを被害者として生きてきた。結果として、前科というものを背負ったがために、「障害者」「前科者」と二重の差別を受けて、いちばん排除されやすい存在になっている。
 いちばん排除されやすい人たちを包みこめば、だれも排除されない社会になるよね。
」(p.164)

もっとも受け入れがたい人を受け入れる、排除しやすい人を排除しない。そうすることは、日本全体を良くすることにつながる。
だから、今、障害者の犯罪について、深く考えて見る必要がある。私もそう感じました。


この本は、私の目を開かせてくれたように思います。
知ってるようで知らなかったことがたくさんありました。そして、ここに日本の、つまり私たちの重要な問題があると気づいたからです。

私たちは、不安や怖れから、分離分断や排除という行動に走りがちです。しかし、いくらそうやっても問題は解決しません。もういい加減に、そのことに気づく時がきたのではないかと思います。
不安や怖れを排して、安心と信頼を心に抱くこと。つまり、愛を動機とすること。私たち一人ひとりが、それを始めなければならないと思いました。

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タグ:山本譲司
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2022年08月17日

高齢者風俗嬢



ひょんなことでTwitterで知った著者の中山美里(なかやま・みさと)さん。お勧めのご著書を尋ねたところ、この本だとおっしゃるので、さっそく買ってみました。
風俗については私も関心がある方ですが、70歳代でも風俗嬢として働いているし、そういう風俗嬢を望む男性客がそれなりにいるということが驚きでした。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

結婚に失敗したりダンナが早死にしたら、風俗で一生懸命働けば子ども3人を育てていける。ダンナが浮気して私を振り向いてくれなくなってもきっと彼氏ができる……という人生の選択肢があることは、大きな救いとなった。
 不安も迷いも恐れも、全部自分の思い込みが作り出しているだけだった。
 それを教えてくれたのが、”超熟”と呼ばれるジャンルで活躍する風俗嬢やAV女優たちだった。
」(p.5)

著者自身が未婚のシングルマザーとして生きてきただけに、人生に対する不安がつきまとっていたようです。その不安をふっとばしてくれたのが超高齢の風俗嬢たちなのですね。


ソープランドやAV、ピンサロのようなグレーの職種、ストリップのような公然わいせつ罪が適用される危険がある職種でも、被害者がいるわけではない。世間に迷惑をかけている仕事ではなく、彼女がいなくて寂しい思いをしている人、奥さんとセックスレスで満たされていない人、奥さんに先立たれてしまった人、障害のある人……さまざまな男性がサービスを利用することで対価を払い、心身を満たしてくれる接客業であり、エンターテインメント産業である。」(p.10)

私も、性産業の中に非合法なものがあるとしても、「誰にも迷惑をかけていない」という視点は大事だと思っています。むしろ、それが喜ばれて役立つ、つまり需要があるからこそ、成り立っているのです。

そもそも私のスタンスとして、風俗の仕事は、学歴のない女性、結婚などによって職歴が途切れてしまっている女性、就職に失敗した女性、一家の大黒柱として稼がなければならないシングルマザーなど、まとまった収入を普通の職業や仕事で得ることが難しい女性にとっては、救済的な側面がある職業だと思っている。」(p.21)

社会の現状は、残念ながら女性に対して不利なものです。そういう中にあって、たとえ学歴やキャリアがなくても普通以上に稼ぐことができる仕事。風俗にはそういう一面があることも確かです。


中山さんが取材した中に、70歳代のAV女優のKさんがいます。彼女は還暦を過ぎてから性に対してもタガが外れて、付き合っていた彼氏の勧めもあってAVに出演したのだとか。

AVが発売されると、彼氏とラブホテルに行き、その作品を一緒に観た。もちろん彼氏は嫉妬に燃え上がる。そして、「負けないぞ」といつも以上に頑張るのだそうだ。そんな彼氏とセックスをするのが楽しいのだとKさんは話していた。」(p.49)

性的な興奮もあるのでしょうけど、私にはKさんが、「自由」を得て幸せを感じているように思えます。


風俗は、若さと美しさをウリにしていると思われているが、それだけでは客は同じ女性に何度も金−−しかも安くはない−−を落とさない。
 もてなしのきめ細やかさ、客を思いやる心、熟練したテクニックなど、さまざまな技術や経験によって、癒されたり、楽しい時間を過ごせたり、恋愛に近い気持ちを味わえる−−だからこそ、客は財布を開く。
 風俗嬢とは、私に言わせれば、れっきとした専門職、技術職だ。
」(p.111)

風俗業界では、見た目のいい派手な女性よりも、地味でパッとしない女性が本指名を返す真のトップランカーであることが多いとよく言われている。
 男性が、決して安くはないプレイ料金を支払う対価として求めているのは、見た目のいい女性にヌイてもらうことではなく、優しく癒してくれるエッチな女性とどんな時間を過ごせるか−−なのだ。
」(p.127-128)

たしかに若さや美しさにはアドバンテージがあるけれど、それだけで上手くいくものでもありません。そして、そういうアドバンテージがないならないで、工夫次第で何とかなるもの。
風俗に限らず、仕事はすべてそういうものだし、仕事だけでなく人生すべてが、そういうものではないでしょうかね。


風俗には、障害者にサービスを提供するところがあります。(「セックス・ヘルパーの尋常ならざる情熱」でも紹介しています。)障害者を専門にしているところもあれば、風俗嬢によって障害者もOKとなるところもあるようです。

働く女性たちは、「社会の役に立ちたい」「普通の風俗では働く気はない。障がい者風俗だからやりたいと思った」など、高い志や優しさをもった女性が大半だが、ちょっと変わったところでは障がい者フェチの女性もいるという。」(p.135)

動機も好みも人それぞれだということですね。


超熟女を求める客は、意外にも若い男性が多いと言います。そして、その多くはプレイ中にマグロなのだとか。つまり、何もせずに寝転がっているだけ。

−−責めたりするのが、面倒なんですかね?
「そうみたいですよ。プライベートでは若い女性と付き合っているんじゃないかと思うんですが、そこでは愛撫してあげたり、気持ちいいかどうか気をつかったりしているんだと思うんですよ。でも、若い女の子ってわがままだし、気も強いじゃない? そういうのが疲れて熟女風俗に来るんじゃないかなって気がしています」
」(p.139)

あと、男の人には失敗しちゃいけないってプレッシャーがあるでしょう? ここぞというところで勃起して、女のコをイカせてからじゃないと発射しちゃいけないみたいな。そのプレッシャーを感じなくていいのが、熟女風俗なのかなと思うんですよね」(p.139-141)

そういう鎧を脱ぎ捨て、素をさらけ出し、わがままを受け入れてくれる懐の深い女性に甘えることができる。
 それが、超熟女風俗の魅力なのかもしれない……。
」(p.141)

男性には男性の不安(恐れ)があり、それがプレッシャーとなっている、ということはあると思います。私自身も、そういうプレッシャーは感じましたから。
そういう不安(恐れ)があるからこそ、安心して甘えられる性風俗が求められるのかもしれませんね。


とにかくすぐ離婚しなければ……という状態で子どもを連れて家を出たとき、風俗という職業はとても優しく女性を迎え入れてくれる。
 寮があったり、提携の託児所があったりするほか、待機室に子どもを連れてきてもいい(教育的にどうかという意見もあるかと思うが)という店もある。
 さらには、新人期間だと優先的にフリーの客を回してもらえて、しっかり稼がせてくれる。新人期間が過ぎた後は本人の努力次第だが、入店して3ヵ月はある程度収入の目処が立つ。毎日8時間ほど待機していれば、安い店でも流行っていれば、1日3万円程度は稼げる。
 はたして、行政がここまでしてくれるだろうか。民間の支援団体がここまでしてくれるだろうか……と思うのだ。
」(p.149)

実際問題、シングルマザーとか貧困にあえぐ女性に救済の手を伸べてきたのは風俗産業だろうと思います。批判する人たちは、いったい何をしてあげたのでしょう? 彼女たちを本当に助けたのは風俗産業であり、その客の男性だったのです。その現実から目を逸らしているから、言っていることが観念的で、現実に役立つ考えにならないのです。


また、社会では性欲だけがなぜか蔑んでみられている。でも性欲は、食欲や睡眠欲と同じ人間の根本的な欲求だ。風俗は、レストランや居酒屋といった業種と同じジャンルに属していると私は考えている。
 食欲を満たしたいだけなら、定食屋や立ち食いそばでも充分だ。しかし、家でも味わえないような食事をしたい。友達と楽しくしゃべりながら食事をしたいということで、レストランや居酒屋を利用する。そのため、単なるサービス業というよりは、アミューズメント産業として扱われている店舗もある。
 風俗も同じだ。単純に性欲を解消するだけなら、ちょんの間やピンサロで充分かもしれない。けれども、昨今は、イチャイチャと恋人同士のように過ごす素人系のサービスや、本格的なオイルマッサージとともに性感マッサージも受けられ最後にヘルスプレイを楽しめるようなタイプの風俗が人気である。一昔前は、風俗に行かなければ味わえないマットプレイやイメクラプレイが人気だった。このように、風俗は単純に性欲を満たすだけでなく、プロのテクニックでしか味わえない快楽を得るほか、寂しい心を癒すといった役割まで担っているのである。
」(p.154)

食欲や睡眠欲が高尚で、性欲が下賤なんてことはないはずです。それぞれ身体の欲求であり、そこに精神的な欲求が絡んできて、様々なサービスが提供されているのがこの社会です。そうであれば、性欲絡みだけが否定されるべきではないと思います。


すると、「老後が不安だから」という答えが返ってきた。年金をもらえるかどうかわからないし、世の中では60歳で定年を迎える時点で、持ち家があった場合に夫婦ふたりで3千万円の貯金が必要だとも言われている。けれども、3000万円もの金額を貯められるとは思えない。その3000万円という大きな金額を用意しなければならないという強迫観念をもち、まだまだ先のことなのに老後が不安になってしまうのだという。
 そして、お金を貯めたところで、使う目的もないそうなのだ。
」(p.164)

でも、アダルト業界で働く超熟女たちを取材し始めてから、私の不安は少しずつ小さくなっていった。
 いくつになっても、元気で働ければなんらかの形で稼ぐことができ、ニコニコしながら柔軟に生きていけば求めてくれる人がいる。本当に最低限必要なのは、健康な心と身体だけなのだなと実感できるようになったからだ。
」(p.161)

風俗の仕事は、求める男性さえいれば、何歳になっても仕事がある。そして、男性の数だけ性癖があり、好みがある。それは風俗で働く女性にとって、とても救いになることではないだろうか。
 こんな自分でも必要としてくれる人がいるという実感は、そのまま「生きていてもいいんだ」という喜びにつながる。
」(p.168)

最近の若い女性は、漠然と老後に不安を抱いているのだそうです。そもそも持ち家があって、貯金が3千万円ってほとんどの人が無理でしょ。それが安心のために必要な資産なのだと言われれば、不安が煽られても仕方ありませんね。
それに対して中山さんは、性風俗が女性のセーフティーネットになると考えておられるようです。「蓼食う虫も好き好き」と言いますが、性に関する好みはそれぞれであり、だからこそすべての人に性風俗で働けるチャンスがある。そこが、安心の元になるんですね。


以前、婦人科の医師から「セックスをし続けている女性は、閉経した後も女性ホルモンが出続けている」と聞いたことがある。実はこれには続きがあって、「年をとって恋愛をすると再び出る」というのだ。そして閉経後に女性ホルモンが分泌されている人のほとんどは、配偶者以外の男性と関係をもっているのだとその医師は話していた。
 人間にとって、セックスとは心と身体にいい影響を与えるものなのだ。
」(p.169)

年をとっても恋をして、配偶者以外とも性的な関係を持つことが、女性の身体にとって良い結果をもたらしている。その事実を受け入れるべきではないでしょうか。


現場でよく聞くのが”40歳を過ぎてから開発された”というケースですね。それまでは旦那さんだけだったけれど、男の人ってどうしても年齢とともに落ち気味になるじゃないですか。仕事も忙しくなる時期だし。でも、女性は熟女になってから”性の感度が上がる”といいますよね。そこでミスマッチが起こるのか、初めて彼氏をつくる……つまり不倫をするわけです。ここで開花しちゃう人が多いように思います。残念ながら旦那さんの影響で開花するって人はあんまり聞かないかもしれません。」(p.177-178)

AVの制作スタッフの男性は、このように言います。私自身、性的に「落ち気味」を実感しているので、さもありなんと思いますよ。(笑)

介護施設なら、個室で一人ひとりお風呂に入るんじゃなく、混浴で大浴場に入ったほうがいいんじゃないですか。Hが好きな人はとにかく健康で明るいですね。よく笑うし、しゃべるし。僕も歳とって、こんなふうになれたらいいなと思います。枯れていく感じじゃなく、咲いていく感じですよね。衰えることあるのかな?」(p.178-179)

同じAV制作スタッフの言葉ですが、今、私が介護施設で働いているだけに、こういう考えもあるなぁと思いました。


人生もゴールが近い時期に、さまざまな男性から女として求められつつ、パートよりもちょっよいい金額を稼ぎ、健康な身体で毎日を過ごしている……私は、その生き方を、人間としての尊厳や自由があるものとして、「いい生き方だな」と思っている。」(p.183-184)

若くしてこの業界に入った女性は、案外その後も逞しくやっている。
 セックスワークは”堕ちる”場所ではない。
 チャンスをつかむ場所なのだ。
」(p.189)

たしかに、そういう一面があるなぁと私も思います。


そもそも、なぜ不特定多数の人とセックスしてはいけないのか? 誰にも答えられません。神が決めたから? クリスチャンなどには説得力がありますが、そうでない人、たとえば日本人には本来、説得力がありません。
古事記には天岩戸伝説があり、岩戸にお隠れになった天照大神を引き出すために、神々がストリップショーのような宴会を堪能しています。それが日本人の神話なのです。

そうであれば、まずは思い込みを捨ててみるところから始めてはどうかと思います。そういう意味でも、超熟女と呼ばれる高齢者風俗嬢が活躍する現実があることを知るのも、悪いことではないと思うのです。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 09:03 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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