2022年05月02日

日本語が世界を平和にするこれだけの理由



何の縁でこの本を知ったのか忘れましたが、面白そうだったので買ってみました。著者は長年カナダで日本語教師をしておられた金谷武洋(かなや・たかひろ)さんです。

どうやら日本語の成り立ちが英語とはまったく違うという指摘だけでなく、そのことが世界平和に大きな影響を与えるという主張のようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

ところが本当は何から何まで正反対だということに私は気づいたのです。
 それを知ることで、大きなメリットが二つあります。
 一つ目は、「普段あまり気づかれていない日本語の秘密」を知っていただけたら、日本語本来の美しさを生かしたコミュニケーションができるようになることです。「日本語に秘められた大きな力」に気づき、役立てていただければ、これほどうれしいことはありません。
」(p.5-6)

もう一つのメリットは、私たちの母語である日本語が英語とどう違うのかをはっきり理解すれば、英語の習得におおいにプラスになることです。」(p.7)

このように本書を読むメリットを最初に語られています。述語が最初(主語の次)に来る英語に対して、最後に来る日本語、ということは知っていますが、それ以外にも違いが多々あるようです。
そして、このことを通じて、日本人が日本語のことを実はよくわかっていない、という指摘もされるそうです。


ひとことで言えば、日本語は共感の言葉、英語は自己主張と対立の言葉だというのが私の結論です。
 日本人は話し手と聞き手の共通点に注目し、英語を母語にする話者は両者の違いに注目すると言ってもいいでしょう。
」(p.24)

これが世界平和につながってくるポイントになります。それは、本書の最後で出てきます。
ここからは英語などの言語と日本語の違いを紐解いていくのですが、この結論を知った上で読むと、よりわかりやすいでしょう。


さて、お互いを見合うのではなく、心を通わせるために二人が同じ方向を見ようとすると、不思議なことが起きます。
 相手と並ぶことで相手が視界から消えてしまい、見えなくなるのです。
 もちろん、話し手は初めから自分だって見えません。日常表現を比べて気がついた「英語の文には人間が出てくるのに、日本語の文にはいない」ことの理由の一つはそのためと言っていいでしょう。
」(p.30)

たとえば日本語の「ありがとう」と英語の「Thank you」を比べると、日本語には人が出てこないのに英語には人(you)が出てきます。このことが示すように、日本語は相手と一緒に同じ方向を見ているので、視界に人が入らないから言葉にも人が出てこないのだと言うのですね。
これは面白い視点だなぁと思いました。たしかに、「ありがとう」は「有り難いことです」という状況を述べる言葉です。「Thank you.(あなたに感謝します)」とは意味合いが違いますね。


第一章では、あいさつなど日常表現を比べて「英語の文には人間が出てくるのに、日本語の文にはいない」という結論を出しました。そして第二章の人名と地名の比較からも、これとそっくりの結論になりました。つまり、言葉を話す場を、劇の舞台にたとえるなら、英語はそれを演じる役者、「人間に注目」するのに、日本人は人間よりもその周りの舞台や背景、つまり「場所に注目」するということです。もしそうなら、全く同じ状況を日本と英語では全く違った角度からとらえていると言えそうですね。」(p.54-55)

様々な状況証拠を積み重ねながら、人に注目する英語と、場所に注目する日本語という違いをあぶり出そうとしています。


つまり、日本語という言葉そのものの中に「自己主張にブレーキがかかるような仕組み」が潜んでいるのではないか、と私は予想しました。」(p.73)

アメリカ人などが自己主張が激しく、自分の意見をはっきりと言うのに対し、日本人はあまりはっきり言わずに言葉を濁したりします。こういう民族的な違いも、実は言語の違いから来ているのではないか、と推測されるのです。


ですから英仏語と比べて日本語で少ないのを「人間」とするのは言い過ぎでした。そうではなく、初めて、つまり新しい情報として人間を出すときには「花子さん」や「太郎君」を使ってもいいけれど、「一度登場した人についてもう一度何か言うときにはわざわざ「彼」や「彼女」と言う必要は日本語にはない、ということなんだと修正したのです。」(p.83)

たしかに私も中学生くらいのころ、「彼(he)」「彼女(she)」という言葉に違和感を感じたことがありました。それは恋人のことを表す言葉だったからです。
日本語の場合、省略することが多いです。むしろ省略する(本当は話さない)方が日本語らしい言い方なのです。どうしても言う時は、「あのこ」「あの人」みたいな表現はあります。しかし、それとわかる場面で「あの人の家」とか「あのこの声」みたいな所有格での表現は、滅多に使われませんね。


日本の大学でフランス語を学び始めたとき、私が一番驚いたのは「動詞活用」でした。逆に言えば、動詞活用があるために、「食べます」などという簡単な日本文が何とそのままでは仏訳できないのです。誰が食べるのかが、つまり主語が決まらない限り、動詞の形(これを活用と呼びます)が決まらず、文が作れないからです。主語が文に「必ずある」のはそのためです。」(p.89-90)

英語は、せいぜい「三単現のS」くらいですが、それでも活用があります。フランス語はもっと細かくあるようです。
重要なのは、主語に対する動詞の活用があるかどうか、という点です。動詞の活用がある限り、文に主語が必要になってしまうのです。
たしかにこれは面倒くさいですね。実際、フランス人でも間違えてしまうのだとか。もう笑い話ですね。

ちなみに私が知っているタイ語では、動詞活用はありません。それどころか、まったく活用(変化)がありません。なので、覚えてしまえばすぐに話せる。発音が難しいという点はあるものの、文法的には非常に簡単だと思います。


日本語の文にはほとんど「わたし」が表れないのも、やはりその理由は話し手の「視点」、あるいは「立ち位置」です。
 上空からではなくて地上の、自分に見えている状況の中に「わたし」はいます。すると、「わたし」は話し手に見えなくなります。写真にカメラマンの姿が写らないのと同じことですね。
 そう考えたら、文の中から「わたし」が姿を消すのはむしろ当然と言わねばなりません。道に迷った日本人が「私はどこにいるの?」ではなくて「ここはどこですか?」と言うのも、自分(=わたし)が見えないから、という説明が一番いいのではないでしょうか。
」(p.122-123)

英語の話者は、全体を俯瞰した上空から見ているのに対し、日本語の話者は、話者の視点から見ているということです。それが文に「わたし」が出てくるかこないかという違いになって現れている、ということです。

この着眼点は面白いなぁと思いました。たしかに英語では「Where am I?(私はどこにいるの?)」と言います。日本語では「ここは、どこ?」です。でも日本語でも、集合写真を見ながらなら「私はどこにいるの?」と尋ねたりします。
つまり、視点が違うのです。写真を見ている自分の視点から、写真に写っている「私」を探せば、「(写真に写っている)私はどこ?」と言えるのですね。

ここでは、川端康成の「雪国」の冒頭の文を英訳した例も書かれていました。日本人なら乗客の視点でイメージするのに、英語話者は上空からの視点で、列車がトンネルから出てきた様子をイメージするのだとか。なるほどそういう違いがあるのかと納得しました。


「主語がいらない」ことと並んで、学校で教えてくれないもう一つの大きな日本語の特徴が「主題」です。学校文法の情けないところは、日本語にとって非常に大切な「主題」の本当の役割を教えてくれないことです。これは近い将来とか来年とか言わずに、今年から直してほしいと思います。特に文科省の大臣を始め、お役人の皆さんにお願いします。この問題と真剣に取り組んで一日でも早く解決することを、私は「国策上の大事」と考えています。」(156)

日本語には主語が要らないと言われますが、主題があると金谷さんは言われます。この主題を正しく認識していないこと、日本語文法教育で正しく教えないことが、間違った日本語を普及させることにつながり、ひいてはそれが世界平和に貢献できない日本語話者にしてしまうという論理のようです。

三上文法のすばらしさは、主題が句読点(つまり「、」や「。」です)を越えることを発見したことにも表れています。つまり、一度話者が「りんごは、」と日の丸を立てると、その後に盆栽がいくつ並んでもいいということです。
 英語やフランス語にはこんな便利なものはありません。助詞の「は」は、日本語の「スーパーてにをは」なのです。
」(p.162)

ここで言う「盆栽」は「文」のことです。戦後の日本語文法では、「〜は、」の「は」は、主語を示すと教えていますが、主語ではなく主題だと言っているのですね。主題とは、「これから○○について話しますよ」という複数の文のテーマを示しているということです。
なので、「私は、」というのは、「私」が主語ではなく、「私」について語ろうとする主題なのだということです。たとえば、「私は、英語が話せます。」という文の「私」は主語ではなく、主題なのです。文としては、「話せます」だけで成り立っていて、主語を入れる必要がないのです。


つまり、本書で注目してきた「わたし」と「あなた」の共存が、ここでは「敵」と「味方」の共存という形をとっているということに思いついたのです。そう考えれば、敵はいつまでも敵ではなくなります。
 国境を越えて、広く地球という一つの星の上に共存する人類というところまで連帯の和を広げてゆくなら、戦争という異常な状況に敵もまた当事者、そして被害者として巻き込まれていたと考えられるからです。確かに戦争では、ほんのひと握りの人たちを除いて、敵も味方もほぼ全員が犠牲者と言えるのです。「正しい戦争」などというものはありません。
」(p.207)

広島の原爆の慰霊牌に「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませんから」とあるのですが、この主語は誰なのかという論争がありましたね。過ちを犯したのは、日本なのか、日本の政府なのか、はたまたアメリカなのか、ということです。そこをあいまいにしているのが日本語であり、それが世界平和につながるのではないか、という指摘ですね。

私も同じように沖縄の墓参に来ていたアメリが人たちの姿を見て、私は、広島と沖縄の慰霊碑には共通する思想があることに気がつきました。それは、国や言葉はちがっても、結局我々は繋がっている、という「共存、共視の思想」であって、その「共視」の思想は日本語そのものに根っこがあるのだ、ということです。それがこの本でお伝えしたかった日本語の「共視」の思想です。」(p.209-210)

沖縄の慰霊碑には、亡くなられた日本人の名前だけでなく、戦って命を落としたアメリカ兵の名前も彫られているそうです。敵と味方を厳然と分けるのではなく、一緒に悲惨な体験をしたよね、という見方。それが日本語的な考え方なのですね。

今度の敵はイスラム原理主義です。テロを是とするイスラム過激派を容認はできませんが、私にはアメリカの「正義病」も同様に恐ろしいのです。その両者が不毛な殺し合いを続けています。実に愚かなことだと言わざるをえません。
 その意味では、今こそ、日本の出番なのです。日本的な共存、共生の思想は大袈裟でなく、地球を救える力を持っているのですから。その力の源泉が日本語であることこそ、本書が明らかにしようとしてきたことなのです。
」(p.212)

911後のテロとの戦いも、どっちが「正義」かという争いをやっています。アメリカにはアメリカの正義がありますが、相手には相手の正義があるのです。そこに気づかなければ、世界平和は実現しないのではないでしょうか。私はそう思います。


私は、ヨーコが、たとえ長年アメリカに住んではいても、日本語を話す日本人だったことがその大きな力の源泉だったように思えるのです。それは「日本語力」と言っていいものではないでしょうか。」(p.216)

ビートルズのジョン・レノンが、平和という考え方にシフトしたのは、オノ・ヨーコと結婚したことがきっかけになっているという見方ですね。そして、その核心的な要因は、日本語にあったと見られているようです。

その上で言いますが、日本語ほど、話者と聞き手を分離せず、進んで同じ地平に立って、できれば同じ袋に入ろうとする言葉は他にありません。その意味では、少なくとも私が学習して知っている10を越える言葉の中で、日本語は最も平和志向の、ロマンチックで幸せな、美しい言葉だと自信を持って言うことができます。」(p.223−224)

英語に代表される他動詞のSVO構文を基本とする言語の根本的な問題は、その構文が発想として「SとOの分離による二元論」、そして「S(主語)のO(目的語)に対する支配」へと繋がるということにあります。
 さらに、Sには「力」とともに「正義」がしばしば与えられてしまうのが一番危険なのです。英語を始め西洋の言語の話者が何か失敗をしてもあまり謝らないのはそのためでしょう。自分は力と正義が与えられるSの位置を常に保っていたいと思うからです。
」(p.224-225)

主語を明記しないと文法的に成り立たない言語は、「わたし」の正当性を主張しがちなのですね。そういう言葉を使っているから、そういう考え方が自然と身についてしまう。そういうことがあるのかもしれませんね。


日本語ブームと言われますが、世界でどれほど日本語が広まっているのか、私にはよくわかりません。金谷さんは、日本語を学んだ外国人が、ますます日本を好きになっているという事実から、これからも日本語が広まっていくと予想されています。
そこには、日本語は難しい言語ではなく、むしろ易しい言語なのだという見方があります。たしかに読み書きに関しては難しいのですが、会話は易しいという見方ですね。これは、私もそうかもしれないと認識を新たにしました。

さて、日本語が広まることが、本当に世界平和につながるでしょうか?
何とも言えませんが、可能性はあるなと、この本を読んで思うようになりました。

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タグ:金谷武洋
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2022年04月24日

マスターからの手紙



雲黒斎(うん・こくさい)さんの本を読みました。たしかFacebookの投稿か何かで、この本が最高だというようなコメントがあり、それなら読んでみようかと思ったのです。
サブタイトルが「超訳『老子道徳経』」とあります。雲黒斎さんの本ですが、本名の黒澤一樹(くろさわ・いつき)の名前で出版された「ラブ、安堵、ピース」という本がありましたが、あれもたしか老子の関係だったはず。そう思って、老子関係の2冊目の本かなと思ってましたが、違ってましたね。
読み終えてからわかったのですが、本書はその「ラブ、安堵、ピース」そのものだったようです。他の出版社から改定再販するにあたって、書名を変更されたようです。
しかし、読み終えるまで気づかなかったということは、すっかり内容を忘れていたということですね。(笑) 「ラブ、安堵、ピース」は2017年に読んでますから、5年前のことです。改めてその紹介記事を読み返したのですが、また違う感銘があったようで、後で引用して紹介しますが、その箇所にも違いがあります。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

でもね、そうやって人が世界に名を付けることによって、タオは姿を隠し、代わりに「解釈」という幻想が現れる。そしてその幻想を「現実」と認識して生きているのが人間なんだ。
 世間一般に言われる「現実」は、「様々な存在は分かれている」という幻想の中にあるけど、本当の現実(リアリティ)に分離はない。物理的に分かれて見えるからといって、それが「個別な存在だ」と決めつけてしまうのは早とちりだ。
」(p.24-25)

名前を付けることで分離分断された個々別々のものだと解釈する。それが幻想なのですね。

このように、「解釈」は、何かと何かを識別し、それらを比較したときに現れる。
 一瞬のうちに行われる「自動連想ゲーム」の結果だ。
 もちろん、識別自体に問題があるワケじゃない。
 識別したものを比較し、その一方だけに価値をおいたり、選び取ろうとしてしまうところに、「満たされなさ」が生まれてしまうんだよ。
 そして、もうひとつ大事なポイントは、この「解釈を生み出す物差し(優劣を決める基準)」が、人それぞれ違っているということなんだ。
 だから、「あるがままの現実」はひとつでも、「解釈の現実」は人の数だけ存在する。
」(p.29-30)

本当の現実がひとつのものなのに、その一部だけを選んで得ようとする。それは本質的に無理なことだし、一部しか受け取るまいとするのですから、不完全になって満たされなさを感じるのですね。
そして価値観は人それぞれであるということ。それなのにそれを絶対的なものと勘違いして、どっちが正しいかと争う。違うものを排除しようとする。劣ったものを批判非難する。こうして幸せから遠ざかっていくのです。

だからね、そもそもの「賢い者ばかりをありがたがる」という物差しがなければ、人は「競う」という世界から自由になれるんだ。
 同じように、皆が皆、希少価値を重んずるから、それらを奪い合い、しまいには、「泥棒だ! 強盗だ!」という騒ぎになる。
 世の中が、「あいつが偉い」「これは素晴らしい」と、やたらに煽り立てるほど、余計に心がかき乱されるけど、本来は「事物そのもの」に価値が内在されているワケじゃない。人間がその対象に、概念的な価値を後付けしているだけなんだ。
」(p.33-34)

価値を与えているのが自分の考え方、つまり価値観であり、それが絶対的なものではなく人それぞれなら、奪い合わなくても自分の考えを変えれば良いだけです。そうすれば簡単に幸せでいられるのです。


「解釈の世界」に生きる人は、物事を分離して捉えているからこそ、「人の内に命がある」と言う。人に限らず、生物の個体それぞれに、個別の命が宿っていると思っている。
「あるがままの世界」に生きる人は、存在すべてのつながりを捉えているからこそ、「命の内に人がある」ことを知っている。
 個別の命があるのではなく、無限に広がるたったひとつの「命」という空間の中に、すべての存在の躍動があるんだ。だから、そこに見えるのは、「個々の死生の繰り返し」ではなく、「絶え間ない宇宙の呼吸(全体における運動)」。そこには、奪われる命も、与えられる命もない。
」(p.39)

本質が「ひとつのもの」だけであるなら、生命が「ひとつのもの」であるなら、そういうことですね。


タオを生きる人は、誰かを救おうだとか、改心させようだとか、成長させようなどといった、何かをコントロールしようとする作為がない。
「世はこうあるべき」というイデオロギーを押しつけることもなければ、「自分はこうでなくてはならない」というセルフイメージに縛られることもない。
 世の「うつろい」そのものを受け入れ見守る、愛の中に生きる。
 タオは、万物を生み出し繁殖させるが、それらが成長しても、決して我がものとはしない。万物の創造主でありながら、支配者を気取らない。
「(意図を持って)働く」のではなく、「(摂理の)働き」とともにある。
 これこそが、タオを生きる人の奥深さ「徳」なんだ。
」(p.49)

自らの意図や希望を押しつけることがない。なぜなら、意に反するものは存在しないし、「かくあるべし」と考えないから。ただあるがままを無条件に、無批判に受け入れるだけ。愛とは、そういうものですね。


「解釈の世界」では、一定の条件を満たしていなければ、相手や状況をそのまま受け入れられない。
 ありのままの相手では受け入れられず、自分が受け入れられる状態に「変わって欲しい」と願うから、そこに、相手を自分好みにコントロールしようとする作為が生まれる。
 また、相手に気に入られようとするがゆえに、ありのままの自分を認めず、相手の求める条件に沿う自分に矯正しようとしてしまう。
 そうやって、「わたし」という自意識が強くなり、取引の世界に埋もれるほど、人は本当の愛から離れてしまうんだ。
」(p.67)

家庭内にいざこざが起きれば、「親孝行をしろ」「目上は敬え」とやかましく語られ出し、国の秩序が乱れれば、国民の模範となるべき者が求められ出す。
 だけど、みんなが本当に求めているのは「愛」だろう?
 本当に望んでいるのは、「礼儀」でも「正しさ」でも「ルール」でもないじゃないか。
」(p.67)

愛は無条件。このことを知っているはずなのに、誰もそれを実行しようとはしません。自分の解釈、特定の解釈に従わせようとするのです。


人はそれぞれに理想や希望を抱えていて、人生が思い通りに運ぶことを期待している。
 残念だけど、どんなに綿密な計画を立ててでも、コントロールしきれないのが人生ってもんさ。
 人生もまた、すべての流れはタオに従っているんだ。
 人間にはどうすることも出来ない。
 タオが右に流れようとすれば、現象は右に流れる。人はその流れに逆らえない。
 その流れと同調せずに「左に行きたい」と願っても、「なぜ願い通りにならないんだ」という苦悩にしかならない。
」(p.87)

どんなに「思い通り」にしようとしても、そうはならないものだと老子も言っています。その「思い通り」に執着するから苦悩が発生するのです。


だからこそ、優れた者は「反戦運動」ではなく「平和運動」を選ぶんだ。
 前にも書いたとおり、「争いがない」ことでしか「平和」はあり得ないんだからね。
 それゆえに、平和が訪れてもおごり高ぶる事がない。
 「平和のために戦う」という行為ではなく、「そこに加わらない」という無為こそが、その平和をもたらすのだから、そこに「己の強さをひけらかす」なんてことはナンセンスだろう。
」(p.89-90)

マザーテレサは、反戦運動には参加しないが、平和運動なら参加すると言ったとか。平和のために争うなら、それは平和には結びつかない。それがわかっていたのですね。

自衛のため、やむを得ず用いなければならないとしても、決してそこに大義名分や免罪符をつけてはならない。
 仮に戰に勝ったとしても、それを美談にするようじゃダメだ。英雄になってはいけない。
 その勝利を褒め称えるなら、それは人殺しを楽しみ、褒め称えているのと代わらない。
 殺人を楽しむような輩がこの世で志を得ることなんて、できるわけがない。
」(p.92)

防衛のために暴力をふるい、敵を殺してしまうことはあるかもしれません。しかし、その行為を褒め称えることはもちろん、仕方なかったと言い訳をしてもダメなのです。
どんな理由があったにせよ、人殺しは人殺しです。どうにか殺さずに済む方法があったのではないか? そう自問し続けることが大事なのです。


人生は「思い(願い)通り」に流れてくれるわけじゃない。
 でも、人生を「思い(願い)通り」に歩むことはできる。
 どんな状況であっても、「満たされない」と解釈するのなら、人生は決して満たされない。
 どんな状況であっても「満たされている」と解釈するなら、人生は幸せなものになる。
 ほら、人生における「幸不幸」は、その人の「解釈」の世界に浮かび上がっているのさ。
」(p.94)

「満たされない」と解釈している限り、満たされる人生にはならないのです。幸せもまたそうですね。


「足るを知る」という言葉が指しているのは、「有り余るほど抱えている」ことでも、「欲をこらえて我慢する」ということでもない。「欠乏感がない」ということなんだ。」(p.119)

現実を何とかし、思い通りに十分に抱えることでないのはもちろんのこと、欲しいものを我慢することでもないのですね。つまり、そもそもそれは、それほど欲しいものではないという認識に立つことです。すでに十分にある、あるいは、あればいいけどなくてもかまわない、という認識です。


前の本の紹介でも書きましたが、この考え方は、まさに「神との対話」シリーズで語られている内容です。ですから私も理解しやすいのです。
それにしても驚くべきは、こういう考え方が2500年以上も昔に、すでに示されていたということです。ただ、私たちが理解し受け入れてこなかっただけなのでしょうね。

雲黒斎さんの解釈力、表現力には、本当に感服します。「超訳・般若心経」もありましたが、これからも「超訳」シリーズを出してほしいと思います。

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タグ:雲黒斎
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2022年04月21日

おむつを減らす看護・介護



前に紹介した「認知症はこわくない」の最後に対談があり、縛らない看護を推進しておられる田中とも江(たなか・ともえ)さんの話がありました。それで興味を持ち、その考え方や手法を知りたくて本書を買いました。
私も老人介護の仕事をしている中で、排泄の問題は日々、頭を悩ましています。排泄介助が追いつかないため、トイレへ行ける人にもおむつをして、その中でおしっこをしてくれと言っている自分がいる。本当にそれでいいのだろうか? いろいろと考えるのです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

医療や介護の現場で、おむつは汎用されています。もちろん、おむつが必要な場合が多くあるのは事実です。しかし多くの現場では、それが本当に必要なものかどうか、という明確なアセスメントもなく、また、本人や家族との話し合いはおろか説明もないまま、現場の看護・介護スタッフの独断で、使用されているのが現実です。また、使用にあたっても、その使い方が、御本人に合った適切な使用法か、というアセスメントがされているとは思えません。
 排泄は、人間の生活行為の中でも極めてデリケートで、ケアされることへの引け目を感じやすい部分です。そして、そのケアの質によって高齢者の生活の快適さ、さらには健康度をも大きく左右するものでもあります。高齢者への不適切なおむつ使用は、身体的、心理的、社会的にもダメージを与えています。特に安易なおむつ使用は、高齢者の活動性を大幅に制限することから、私たちは、おむつは「拘束」にすらなりうるものであると考えています。
」(p.3−4)

冒頭の「監修のことば」の中で、田中さんはこのように問題提起されています。
なお、専門用語のアセスメントとは、客観的に評価・分析することです。


さて、もしあなたがケガや病気のために、立って歩くことができないことから、トイレに行けなくなり、おむつを着けられたらどうしますか。
 下半身をおむつに包まれた情けない姿、そして、おしっこもうんこもその中に出さなくてはいけない苦痛、さらに濡れて汚れたおむつをつけたまま、じっとしている不快感。濡れたままのおむつは気持ちが悪いだけでなく、冷えると寒く、ずっしりと重いので歩くだけでも大変です。新しいおむつと取り替えてもらうときは、下半身を露(あらわ)にされ、他人の視線にさらされます。
「とんでもない。おむつを着けられるのだけは、絶対にごめんだ」
 誰もがそう感じることでしょう。
 しかし、この「当たり前の感覚」が、お年寄りには適用されていないのが今の現実です。
」(p.8)

たしかに排泄の問題は、プライベート感が強いだけに、介護されるだけで抵抗感があるものです。ましておむつの中に排泄し、その状態でい続けなければならないのは苦痛でしょう。

私自身、老人介護を始めた当初に、自分でおむつを着ける実験をやりました。自分が経験のないことを他人にやらせることには、どうしても抵抗があったからです。
けれども、小便は何度もやってみましたが、大便はできませんでした。室内にシャワーがないことも1つの理由です。自分できれいにできないので。しかし、そういう環境があったとしても、やはり大きな心理的な抵抗がありますね。

はっきりしていることは、排泄は人間の尊厳にかかわることだということです。おむつは、自尊心を傷つけ、生きる希望を奪います。精神的にも、肉体的にも、きわめて大きなマイナスの影響を与えることは間違いありません。」(p.10)

私も、もし自力で排泄ができなくなったら、もう生きていなくてもいいかなと考えることがあります。それくらい、排泄は重要な問題なのです。
しかし、とは言え、障害によって寝たきりになって自力で排泄できない人もいます。そういう人は、生きている意味がないのか? そんなことはないでしょう。そういう人が「死にたい」と思う気持ちもわかるし、そういう人だって自力で排泄したいという気持ちもわかるのです。その上で、それでもおむつという選択肢もあるよね、と私は思うのです。

治療のためにおむつという手段が必要、という論理に対抗するのは容易ではないとしても、それであきらめてしまってよいのでしょうか。治療の効果よりも、おむつがもたらす弊害がお年寄りの生きる力を奪ってしまうことに目を向けるべきです。」(p.12)

おむつが必ずしも有害ということではなく、治療とか生活の質とかとのバランスなのですね。それを考えずに、最初からおむつありき、という考え方は疑ってみるべきだと思います。


おむつをしたことが、または汚れてもすぐに「随時交換」しないことが、介護量の増大を招いていることは少なくありません。
 これに対して、トイレ誘導で排泄できれば、介護の手が必要だとしても、トイレまでの誘導、排泄後の処理といった部分のみですみます。途中でパンツに尿や便を失禁してしまっても、シャワートイレで洗うことができますし、衣類の着替えも寝たきりの姿勢でおむつを替えるような中腰の力作業は必要ありません。
」(p.25)

介護の大変さからして、実際はおむつよりトイレ誘導の方が楽なのだと田中さんは主張します。しかし、私はこれには懐疑的です。それこそアセスメントがされているとは思えないからです。
トイレ誘導で必ずしもきちんと排泄できるわけではありません。失敗すれば、もろに衣服の交換、洗濯をしなければならないのです。おむつなら、尿もれ便漏れでもなければ、おむつの交換だけで済みます。
それに何より、おむつ交換は時間が読めます。短時間で済ませられます。しかしトイレ誘導にかかる時間は、対象者次第です。10分、30分とトイレに座り続ける人もいて、いつ終わるかわからなければ、そこを離れられないこともあります。その人の排泄介助だけが仕事なら可能ですが、他にやらなければならない作業があり、それをやらなければ他の人への介助もできなくなるのです。


おむつを導入する理由として、よく言われるのは「トイレまで行けない」「たびたび失禁する」「転倒する危険がある」などです。
 しかし、本当にそうでしょうか。杖を使ってでも、歩ける人であれば、トイレに行けます。スタッフがその人の排尿パターンを把握してトイレ誘導すれば、トイレで排泄できます。車椅子であっても、便器への移乗ができればトイレ排泄が可能です。転倒しないようにケアするのがスタッフの仕事です。
」(p.35)

たしかにトイレで座って排泄できる人は、少なくともスタッフの介助があればトイレ排泄が可能です。問題は、いつでも随時にスタッフが介助できますか? ということではないでしょうか。
そして、骨がもろくて立つことさえ医師から禁じられた人もいます。スタッフは、車椅子への移乗ができるなら、トイレも行けると思っていても、骨折したら誰が責任を取るのでしょう? 家族だって責任を取りたくはありません。そうやって医師の言いなりになるのです。医師だって背金を負いたくありませんからね。本人の意向などそっちのけで。


トイレへの誘導を習慣化することで、お年寄り本人の排泄に対する学習能力が芽生えます。最初は失敗してしまっても、トイレへ向かおうとしたり、尿意・便意を訴えるようになってきます。おむつが必要だった人も、おむつがはずれるケースがあります。」(p.48)

おむつに慣れてしまって、尿意・便意すらなくなってしまう人がいます。そういう人でも、定時的にトイレへ誘導し、便座に座ってもらうことで、自力で排泄できるようになると田中さんは言います。
たしかに、そういうケースもあるでしょうね。しかし、それよりも多くのケースで、その逆があるのではないでしょうか? トイレ誘導していたけれども、徐々に尿意・便意もなくなってしまう。ズボンまで濡れていても、何とも感じない人もいるのです。


「まったく、もう、さっきも取り替えたばかりでしょ。洗濯物を増やさないでちょうだい」
 などと言ったら、ますます気持ちは萎縮し、次からは濡れた下着をタンスに隠したり、徘徊したり、問題は深刻になるばかりです。
「水、こぼれたのね。じゃあ、着替えましょう」
 と見て見ぬふりをして、着替えと掃除をさりげなくすませます。同時に、廊下で放尿する理由をきちんと把握し、事前にトイレ誘導できなかった現場のスタッフの側の問題を反省することが大切です。
」(p.53)

たしかにそうだと思います。それができたら理想的ですね。
しかしスタッフも、他に作業を抱えながら時間に追われながら、懸命に仕事をしているのです。愚痴の一つ、文句の一つも言いたくなるでしょう。私は、その気持ちもわかります。
そういう文句を言ってしまうスタッフだって、本当はそんなことを言いたくはないのです。どうすれば良くなるか、いろいろ悩んでいるのですよ。

おむつ交換は、2人ペアになって何十人ものおむつを取り替える作業で、1日に8回も9回も同じことが繰り返されます。生産性はなく、達成感を味わうこともないでしょう。いくらがんばっておむつ交換をしても、おむつをしている限り、ADLやQOLが向上することはないのですから。
 それと比べ、車椅子から便座に移乗するときにスタッフが2人がかりだとしても、時間的にはおむつ交換ほどかかりません。汚れた下着やシーツの取り替えといった手間も不要です。おむつではなく、トイレで排尿できるようになると、精神的な喜びや生きる力をわきあがらせ、身体的にも活動性があがってきます。筋力がつけば、便座への移乗時にはスタッフが1人いればできるようになることもあります。
」(p.56-57)

たしかにそういう一面もあるのですが、必ずしもそうは言えない、というのが私の実感です。おむつで定時的な介助なら、1日に8回も排泄介助をやりません。せいぜい5回でしょう。けれども、随時に排泄介助をするなら、それこそ1日に8回も9回もやる必要があるかもしれないのです。トータルで、どっちが負担でしょうか?
田中さんの思いはわかるのですが、それを正当化するために、無理やりこっちが合理的だと決めつけるのはどうかなぁと思うのです。

しかし、ポータブルトイレのほうが実は手間がかかるのです。朝に、昼に、ポータブルトイレ内の排泄物をトイレに捨てに行く作業、洗って消毒剤を入れる作業、部屋にたちこめた臭を消す作業などです。トイレに連れていってあげたほうが本人も気持ちいいし、長い目でみればスタッフも楽なはずです。
 トイレに行くことは足腰を鍛え、寝たきりを防ぐためにも大切です。
」(p.59)

これも、たしかにそういう面もあります。けれども、一概にそうは言えない、と私は思います。
トイレに行ける人でも、ポータブルトイレの方が安心できるからと言って、トイレに行かない人もいるのですから。

ただ、トイレに行かなければならないからという理由で、多少無理をしても動くことで筋力を鍛え、日常生活がスムーズに行えるようになるという一面もあります。何ごとも絶対的にこれが正しいとは言えないのです。


身体拘束については介護現場を含めて様々な固定観念があり、それが廃止への取り組みを阻害している。その代表的なものは「身体拘束は本人の安全確保のために必要である」とか、「スタッフ不足などから身体拘束廃止は不可能である」という考え方である。しかし、こうした考え方は、介護現場での実践の積み重ねにより、多くは誤解を含んだものであることが明らかになってきている。」(p.100)

そして、何よりも問題なのは、身体拘束によって本人の筋力は確実に低下し、その結果、体を動かすことすらできない寝たきり状態になってしまうことである。つまり、仮に身体拘束によって転倒が減ったとしても、それは転倒を防止しているのではなく、本人を転倒すらできない状態にまで追い込んでいるからではなかろうか。」(p.100)

これも、たしかにそう言える面もありますが、必ずしもそうは言えないと私は思うのです。
相変わらず身体拘束をせざるを得ない時があると介護現場が感じているのは、単なる誤解ではないと思いますよ。つきっきりで介護できるとか、随時に臨機応変に対応できる環境があればいざしらず、他の業務を抱えながらでは、どうしても無理があるのです。

身体拘束される本人の機能劣化は、たしかにあると思います。しかし、ではフリーにしたことで転倒し、骨折した場合、いったい誰が責任を負うのですか? 本人がそれでも良いと意思表示できるなら、その意志を尊重することも可能でしょう。けれども、それが認知症の人ならどうですか? 家族だって責任を負えません。まして医師は、安全な方を選択したくなるでしょう。


本書の全体を通じて感じたのは、理想的にはそうかもしれないが、実際の現場でどうするかは難しい問題がある、ということです。
それでもおむつをしないとか、拘束をしないという選択は、崇高なことかもしれませんが、そういう崇高さを求める関係者の同意がなければ、現実的には難しいのではないかと思うのです。

認知症と診断され、本人の意思が軽視される前に、そういう決断がなされればいいなとは思います。しかし、こういう問題に直面するのは、そういう時期の後なのです。それだけに、一概には何とも言えないなという思いが残ります。

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2022年04月15日

理由を探る認知症ケア



お勧めしている「日本講演新聞」岸英光(きし・ひでみつ)さんの記事があり、とても興味深かったので、何かご著書を読んでみようと思ってネットで検索したところ、この本が表示されました。介護職をしていて認知症に関心があったことと、共著のように思えたので購入しました。
しかし、実際の著者はベ・ホス氏で、在日の方のようです。岸さんは第3章と第6章を監修されていて、コミュニケーションに関してトレーニングを提供するなどして、本書の執筆に協力されたようです。

ということで思惑とは違ってしまったのですが、私の今の仕事には役立つ内容でした。偶然とはいえ、こういう本を読めたことは幸いなことだと思っています。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

そもそも、「認知症である本人が、日常生活の中で、どんなときに、どんな場所で、何につまずいているのか?」という「理由」がわからないまま、「つまずいている人にどう対処するか?」という解決方法ばかりを追い求めることは、本末転倒ではないかと思うようになったのです。」(p.10)

認知症のBPSDが問題視されますが、たとえばなぜ徘徊するのかという理由を知らずに、どうやって徘徊しないようにさせるかということばかり考えるのは、本末転倒だと言うのですね。だからタイトルにもあるように、その人がそうする理由を探ることが重要なのだと。


認知機能が低下しているために、適切な判断を下すための情報の理解に限界があり、立てる仮説にも限界や思い込みが強く働き、想定外の結果になったときに混乱するということが、本人にも起きている−−と見ることができるのです。
 これからは、この「本人の混乱」に目を向け、『本人は何につまずいているんだろう?』という目線を持ち、そのつまずきを支えるケアが求められます。
」(p.17)

想定外の結果とは、たとえば散歩に出かけたつもりで帰り道がわからなくなって困惑する、というようなことです。つまり認知症の人が混乱した結果、あてのない徘徊をしているかもしれないのです。

このように一般的に知られている対処方法は、あくまでも混乱を収める確率が高いというだけであって、誰にでも適した方法というわけではありません。人の個性は十人十色ですから、想定通りにいかないことがあるのは不思議なことではありません。」(p.20)

たとえば財布がなくなって誰かに取られたと騒ぎ出した時、それを否定しないとか、一緒に探すなどの一般的な対処方法があります。それが必ずしも正解ではないということがある。その人の混乱は、その人固有のものだからですね。

つまり、適切な「方法」は、その人なりの「理由」がわかれば、導きやすくなるのです。
 認知症ケアも同様で、一人ひとりに適した介護方法を見つけるためには、「理由」を知ることが必要です。
」(p.23)

たとえば自宅にいながら「家に帰りたい」と言い出した時、ここがあなたの家だと理解させる方法を考えがちですが、その最適な方法を見つけるためにも、なぜ「家に帰りたい」と言うのか、その理由を探ることが重要だと言うのです。


そして、もう一つは、「予防に取り組めば取り組むほど、『認知症=ダメ』という価値観を強める」ということです。」(p.31)

認知症もなってからの治療より、なる前の予防が重要だと言われます。しかし、それに取り組むのは、それだけ認知症を恐れているからです。恐れから一生懸命に行動(予防)すれば、その動機である「恐れ(不安)」がさらに強まります。


認知症になると、自分の存在がおぼろげになっていきます。自分が何をして生きてきたか、自分は誰とどんな思い出を作ってきたかといった記憶が失われます。言い換えれば、「自分」が徐々に失われていくような体験なのかもしれないのです。
 だからこそ、自分のこと(顔、名前、生活歴、趣味、こだわりなど)を知ってもらうことに、もっと時間を使ってもいいのではないかと思うのです。
」(p.33)

認知症の予防のために好きでもない計算ドリルなどをやるより、自分に関することをノートに書き留めて、ケアしてもらう時に役立つよう備えることが重要なのではないか。そうベ・ホス氏は考えるのだそうです。たしかに、これもまた頭を働かせることになりますしね。


わたしたち介護者にとっては、「介護の困難を取り除くこと」や「家族の負担感を軽減すること」は大きなテーマであることは確かですが、そうした捉え方だけに介護者が彩られていたとしたらどうでしょうか? 本人にしてみると、「あなたを介護するのは大変だ」「あなたは家族に負担をかける」と言われているようなものです。
 認知症というやっかいな症状に、一番悩まされているのは本人なのに、「認知症の症状でわたしたち(介護者)を煩わせないで!」と言われてしまっては、これほど辛いことはありません。
」(p.37)

確かに、そういう一面はあるでしょう。しかし、「ない」ことにはできません。そうではあるけれども、それをできるだけ見せないようにする。そういうことになるのでしょうね。

徘徊や帰宅願望などのBPSDが起きる場面では、本人が不安な気持ちや不快な感覚などに包まれていることが多く、その不安や不快を解消するために、歩き回ったり、家に帰ろうとしたりしていると見ることもできます。
 その視点で、「本人が求めている認知症ケアは何だろう?」と考えてみると、これからのケアとしては『認知症ケア=本人の”不快”の時間を一分一秒でも減らし、”快”の時間を一分一秒でも増やすこと』という捉え方が適切なのではないでしょうか。
」(p.37-38)

完璧にはできないのですから、少しでも、一分一秒でも、というように、よりよくなるように考えていくしかないのだろうと思います。


本人は、何かを体験(見る、聞く、におう、触れる、感じる、考える、思い出す、など)して、家に帰りたいと言ったり、介護者につかみかかったり、大声を出したりしている−−としたら、きっかけを発見するポイントは、本人が体験していることに目を向けることだといえます。」(p.59)

認知症の方のことを理解するには、本人の体験をしっかりと観察することだと言います。介護者が気づいていないことに気づいている可能性がある。その可能性を意識することですね。


不満はあるけれど、妻のためなら参加してもいい。この言葉を聞いたときに、これも素晴らしい自己決定だなと思いました。そして、おそらくは自分にあった不満を、すべての関係者に聴いてもらって、受け取ってもらえたことで、自分が感じている不満よりも大切な妻への思いを再認識したのかもしれません。」(p.71)

デイサービスを嫌がって行かないと言い張っていた男性が、関係者に不満をしっかりと聞いてもらえたことである程度満足し、妻のことを思いやる余裕が生まれたことで行動に変容が現れた実例です。
ただ、これが良かったことかどうかは何とも言えません。行きたくもないデイサービスへ行くことは、やはりストレスを溜めることになるからです。妻と合わせて総合的にどうかという考え方もありますが、双方が満足できる解決方法が他にもあるのではないか。そんな気もします。


そのため、こうしたBPSDの表現は、実はわたしたちに理由を探ることをあきらめさせる「枠組み」といっても過言ではないのです。
「徘徊の理由を探りましょう」と話し合いをしようとしても、話し合う前から「理由はわからないだろう」という無意識をわたしたちに抱かせてしまっているとしたら……。やはり、「徘徊」という表現は適切な選択とはいえません。
 このように、理由を探ることを妨げる「価値観の枠組み」が、ケアの現場には数多くあります。
 そこで、まずは自分が持っている「枠組み」を発見することが、理由を探る認知症ケアの第一歩になります。そうすることで、これまで聞き流していた言葉が重要な情報に感じられたり、見逃していた言動を観察できるようになるなど、理由を探るために必要な事象が目に止まるようになり始めます。
」(p.76)

「枠組み」というのは「偏見」や「思い込み」「決めつけ」とも言えますが、悪い意味ではありません。捉え方のクセとも言えます。ただ、そこに自分で気づいていないと、無意識にその考え方のクセが発動されるため、枠組みの外の事象や可能性を見落としてしまいがちなのですね。

この「わかればできる」という枠組みは、裏を返すと「できない=わかっていない」という捉え方も表しています。また、この捉え方は、「できない・わからない」といった本人の能力に焦点を当てていますが、そのことで見逃すものが出てきます。
 それが、本人の意思(選択)です。もしかすると、入れ歯を入れないのは、「入れ方がわからないから」ではなく「入れ歯を使いたくない」という本人の意思なのかもしれないのです。
」(p.86)

可能性はいろいろあるということですね。枠組みにとらわれて、その可能性を考えることができなくなると、本当の理由を探れなくなるのです。


自分は「被害者」だと訴えるとき、そこには「加害者」が存在します。つまり、被害と加害という(あまり好ましくないつながりではありますが)他人との関係が存在するのです。「妻」「嫁」「ヘルパー」など、一番身近でよくしてくれる人を加害者として訴えることは、裏を返せば、『その人との関係を途絶えさせたくない』『その人を頼りにしている』という思いの表れだと見ることができます。
 施設の職員が、「得意な和裁を教えてください」と関わり始めたら、お金を盗られたという訴えがなくなった−−という話があります。
」(p.103)

こういう捻れた思考の発現はやっかいですが、こういう可能性もあるということですね。


本人の記憶力・理解力・判断力の低下(いわゆる中核症状)や、理解不能な言動(いわゆるBPSD(行動・心理症状))を、一言で「認知症」と表現していることが見受けられます。
 そして、こういう出来事を「認知症」とひとくくりに表現するとき、そこには「わたしたちには理解できない」「わたしたちにはなす術がない」というあきらめに似た姿勢が、見え隠れします。これでは、理由を探るケアのスタートラインに立つことさえできません。
」(p.106-107)

人の行動の理由は1つであるとは限りません。複合要因も多々あります。そうであれば、「認知症だから」と決めつけることは、偏見でしかないのです。


言い換えれば、「気づいていないことがあるかもしれない」「知っていることとは違うかもしれない」という姿勢でいることです。そうすると、自分では考えもつかない不思議なことだらけであることに気づき、シンプルに疑問を抱き、知りたいという気持ちが湧いてくるでしょう。
 その人に対する「興味・関心」が湧いていれば、理由を探る準備は整っているといってもいいかもしれませんね。
」(p.109)

わかったと思った瞬間に、思考がストップしてしまうのです。だから知っていることでも、わかっていることでも、まだ知らないことやわからないことが隠れているかもしれないという、可能性に心の扉を開いておくことが重要なのですね。


その人らしさは細部に宿るといいます。習慣は「食後のコーヒー」で聞き取りを終えてはだめなのです。「好みの味は?」「ホット? アイス?」「使っていたカップの色は?」「食べ終えたらすぐに飲む?」など、どれか一つが違うだけでも飲む気になれないことだってあるのです。」(p.128)

たしかにそうなのでしょうけど、ここまで言われるとうんざりしますね。介護職にいったいどこまで要求するの!? という気持ちになるからです。
実際、使っていたカップの色と違うから飲みたくないなんて仮に言われたとしても、そんなの慣れればいいだけじゃないか、とも思います。それに、それがどれほど重要かというのも、人それぞれでしょう。
究極のところ、どこまで探っていっても、その人の理由はその人にしかわからないし、その人自身にもわかっていない理由はたくさんあると思います。そうであるなら、いったいどこまで理由を探るのが適切なのか? という問題も、実際の現場では出てくるのではないでしょうか。


人を相手にしているのですから、完璧に一から十まですべて相手のことを理解するということはできません。また、今日、わからなかったことが、これからもずっとわからないわけではありません。しかし、行き詰まりを感じるケアでは、「自分じゃダメだ」「あの人のことはよくわからない」と、その状態がずっと続くかのように捉えがちです。
 だから、「わからなくてもよし!」と自分に言ってあげてください。「わからないかもしれないし、わかるかもしれない」というスタンスが、明日は明日で新鮮に向き合えるあなたをつくってくれます。
」(p.143)

理解することが重要だと迫られ、そんなの完璧には無理でしょ! とブチ切れそうになったら、こんな風にフォローされました。(笑)
でも、そういうことだと思います。完璧に理解するなんて不可能ですが、それを最初から不可能と諦めたのでは、一歩も前進できないのです。


これまでもお伝えしてきたように、家族ごとに背景は違い、介護負担もさまざまです。その中で、どの家族も精一杯の介護をしながら生活しているわけですから、「承認」は家族の気持ちを解放するうえでも重要です。
 そして、「承認」には二つのポイントがあります。

 一つ目は、具体的な行動がもたらす具体的な影響を伝えるということです。
」(p.229)

二つ目は、「自分が承認される体験があると、他人を承認しやすくなる」ということです。」(p.230)

上手くできていようとできてなかろうと、誰もがその人なりに精一杯に介護をしている。そのことを「承認」によって伝えることで、負担を軽くすることになると言います。これは、介護している家族に対してだけでなく、仕事として行っている介護職に対しても重要なことだと思います。

そしてそのためには、まずは具体的に承認することだと言います。ただ「素晴らしい」と言うより、「一緒に散歩されたことで、お父様も笑顔になられましたね」というように、具体的に示してあげることです。それによって、次もこうしようという意欲が湧いてきますから。
次に、他人を承認できない人は、自分が承認されていると感じていないからだ、ということです。つまり、介護する家族を承認してあげることで、家族は介護している認知症の人のことを承認しやすくなるということになります。本人は、家族から承認されることで、イライラや不安も軽減することになります。


家族を支えるすべての専門職に大切にしてもらいたい価値観があります。それは、「人の存在が人を勇気づける」という価値観です。」(p.232)

しかし、家族は、わたしたち専門職がどれだけの知識や経験を持っていて、具体的にどのような助言やアイデアを示せるか? ということだけを、頼りにしているわけではありません。
 ただ、そばにいるだけでも人は勇気づけられたりするものです。
 誰かが一緒にいてくれるだけで、あまり行きたくない病院にも行くことができたり、初めての場所にも行ってみようという気持ちになることがあります。このように、一緒にいて行動や決断をサポートすることを、コンパニオンサポートといいます。
 そんなコンパニオンがいることは、家族にとっては大きな支えになります。
」(p.232-233)

専門職だから、知識や技術でサポートしなければならない、と考える必要はないのです。ただ寄り添っていること。それだけで十分な価値があり、十分に役立つのですね。


認知症の人自身が悩んでいる。不安や恐れを感じている。だから、それがわからない人にとっては理解できない行動を取ってしまう。それが徘徊などのBPSDとして表れ、それによって介護する側も苦しむことになる。それが、認知症とその介護に関わる大きな問題です。
この本では、その問題に対して、根本にある認知症の人の「そうする理由」を探ることで、本人の悩みや不安、恐れを軽減して、そういう問題行動を減らしていこうというアプローチを示しています。

もちろん、それが完璧にできるわけではありませんが、今よりも少しでも気づくことができるなら、少しでも問題行動を減らすことに役立つでしょう。

それにこのことは、何も認知症の人に限らないと思いました。だいたい他人のことはわからないのです。だから「あの人はおかしい」というように決めつけ、その偏見から他人を見たりすることが多々あります。人間関係のトラブルの多くは、こういう偏見や無理解から生じているのではないでしょうか。
そうであれば本書のアプローチは、すべての人間関係のトラブル解消のためのアプローチでもあるようにも思います。

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2022年04月08日

認知症はこわくない



これもたしか上野千鶴子さん「在宅ひとり死のススメ」で紹介されていた本だと思います。著者は高橋幸男(たかはし・ゆきお)医師

私は死ぬことはもう恐くはありません。ガンで死ぬなら、最幸だとさえ思っています。けれども、認知症というのは、その実態を知れば知るほど「やっかいだな」という気持ちになります。
そんな中で、認知症でも大丈夫、認知症でも一人で暮らしていける、という少数の方々がいらっしゃることがわかりました。なので、その観点を知りたくて、読んでみることにしたのです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

Aさんは、毎朝Bさん宅にやってきて、お嫁さんがつくってくれるお昼ごはんを一緒にいただき、一日中話し込んで夕方帰っていくそうです。お嫁さんが、「いつもこうなんですよ」と屈託ない笑顔で話してくれました。Aさんは時々道を間違えることがあって集落内を迷っていたそうですが、地区の人はみなよく知っていますから、Aさんの思いを尊重して、AさんをBさん宅まで連れていくかAさん宅に送っていくわけです。Aさんがうろうろさまよっても「徘徊」という概念はなかったのです。
 私は認知症の人がそのように地域で暮らせることが不思議でした。
」(p.5)

高橋医師は、島根県の隠岐の島へ行かれて、認知症があまり問題視されていないことに驚かれたのだそうです。

それでは、なぜ誰もが「認知症はこわい」と思うようになったのでしょうか。私は、一九七二(昭和四七)年に発行された有吉佐和子さんの小説『恍惚の人』が、契機になったと思っています。『恍惚の人』は東京周辺の町が物語の舞台です。『恍惚の人』を書くにあたって、有吉さんは、いろいろと取材をされたと思いますが、隠岐島や石垣島のような認知症の人との出会いはなかったのでしょう。結果的に、『恍惚の人』で描かれた認知症の人は、どんな思いで日々生きているのか、その心の中がまったくと言っていいほど書かれていませんでした。何もかもわからなくなって、異常な行動(たとえば、主人公は青梅街道を何度となく新宿方面へと徘徊します)を示し、世話をする家族が大変である、という話になっています。主人公は、最後に大便を畳に塗りたくるようになり、ほどなく亡くなるのですが、有吉さんはこの状態に「人格欠損」という言葉を使っています。」(p.7-8)

読んだことがないので知りませんでしたが、小説「恍惚の人」の影響で認知症が知られるようになり、同時に恐れられるようになったという説は、当たっているのかもしれませんね。

昔の時代に戻ることはできませんが、昔の人たちにとって認知症はこわくないと思われていた背景は何であるのか、それを知って現代に生かせれば、認知症の生きづらさも少しは改善できるでしょう。
 そして今私たちがすべきことは、まずは認知症を病む人の理解だと思います。
」(p.8-9)

昔は認知症という言葉はなく、ボケとか老人ボケなどと呼んでいました。私が子どもの頃です。その後、「ボケ」という言葉は良くないと言葉狩りにあい、「痴呆症」と名付けられましたが、意味合いが同じなのでこれも却下され、「認知症」という言葉になりました。

では、本当にボケは怖くなかったのか? 何とも言えません。そのことは、またいずれ書こうと思います。
ただ、昔はボケてから亡くなるまで、それほど長くなかったのではないか、という考察もできるということです。ボケても元気で動き回って、周囲の人に迷惑をかけることが少なかった。だからあまり社会問題にならなかったのではないかと。


ここで言いたいことは、認知症そのものが特殊な病ではなく、人が生きていく、特に長生きするときに出てくる、限りなく病ではあっても、老化を伴った価値のある、生きる上で意味のある経過だということです。まず、認知症をそういったものと捉えることは、認知症と向き合う際には大変重要なことではないでしょうか。」(p.17)

これはとても共感します。認知症も、発達障害も、自閉症スペクトラムも、はたまた健常者と呼ばれる人との関係においても、同じようなことはままあります。そうであれば、特別なことと考えるよりも、何かがちょっとだけ突出しただけのこと、と考える方が有益だと思うのです。


私の経験では、認知症はどういうふうな経過をたどるのか、というのを知ることと関係があるのですが、誰でも認知症になることへの不安のすべてはなくせません。まして、「あなたは認知症です」と医師から言われた瞬間、あるいは周りがそうみなしたときから、自分自身も「ああ私は、ぼけてしまった」と思い、人に言えない不安が大きく募ります。
 対応が進んでいるデンマークでさえ「認知症になりたくない」と言っているのはそういった不安があるからだと思いますが、そこからが違います。日本の場合は当事者も家族も認知症に対するネガティブなイメージを思い浮かべて、恐れだけが増幅していく、だから日本のほうが不安が強いのだと思います。
」(p.20-21)

解決方法がなく、自分自身を失っていくと思われている認知症ですが、日本と先進国のデンマークとでは、その反応にわずかに違いがあるようです。
そこにこそ、認知症と向き合う姿勢の1つの指針があるように思います。


ところが、認知症に関しては、意外に多くの人が当事者を悩める人と本気でみなしていないように思います。認知症の当事者も悩める人なのだということを理解して、その人のそばで寄り添って付き合っていけば、多くの認知症の人は、誰もが思うより、はるかにやさしく穏やかに日々を生きていけるはずです。
 わからなくなっていくこと、できなくなっていくことは、本来、老いからくる機能低下とみなしてもよいのです。普通の老いは誰もが認めています。
」(p.23)

認知症というのは、原因が脳の障害で、進行が普通の老いに比べて急激に来ます。言ってみれば「あなたの老い方は少しばかりみんなより速いね」というようなもので、認知症の人とつながる上で、その視点が重要だと私は思っています。」(p.23-24)

老いれば誰も、だんだんとできていたことができなくなる。そういう機能低下や見た目の劣化に、多くの人は戸惑い、悩むものです。
ですから、急速に機能低下していく認知症においても、その分、深刻に悩むことがあると言えるのですね。
そういう視点が、たしかになかったなぁと思いました。


ある当事者の方が本を書かれているのですが、そこでは奥様との葛藤が記されています。奥様と本人との関係はそんなに簡単ではなく、お二人の間には人には知れない葛藤があるのです。奥様自身もいらだって悩んでいます。最後の最後、奥様は「やっぱり、私が(主人の症状を)悪くしている」と言っているのですが、これこそあとで述べる認知症の”からくり”を理解されている発言です。」(p.25)

認知症そのものは、脳機能の低下ということですが、それが周りに及ぼす影響は、人間関係の維持が困難になるということかと思います。それまで近い関係であればより、その影響も大きくなる。それが認知症の問題点です。
そしてそれは、本人が悩んでいることを理解できず、これまでと同様の関係を維持できるのが当然と考えてしまう周囲の人によってもたらされるもの。そういう一面があるのですね。


どこをどうすればよくなるか、大きなポイントは夫婦関係や親子化関係など、家族関係を改善していくことです。それによって非常によくなるということは、私の長年の臨床経験からわかっています。しかし、その辺のことが、認知症ではなかなか触れられないのです。」(p.27)

これまでできたことが急速にできなくなるのですから、周囲の人はそれが理解できず、これまでと同様のことを期待します。もちろん本人も自分に期待したいのです。その期待が、本人を苦しめています。
だから、周囲の人の過剰な期待を減らしていくこと。そのことで本人の負担を減らすこと。そうすれば、人間関係が改善され、認知症の症状も緩和されるのですね。


認知症という病をもった人は、”寄る辺ない”状態のままで「叱られ(続け)る」というストレスになかなか耐えていけません。叱られるいわれがないと思って「何も悪いことはしていない」と必死に訴える人もいます。また、叱られ責められてばかりいるから「自分は要らない存在だ」と嘆き、「死んだほうがいい」と言う人も珍しくありません。多くの人が叱られ続けることで、急速に自尊心を低下させますが、笑顔をなくして表情が硬くなるようになれば要注意です。不安や緊張が一段と強まり、周囲のちょっとした言葉や態度が契機となって、本格的なBPSD(行動・心理症状)につながりやすいのです。
 そして、ここまで述べてきたようなことを、私は認知症の”からくり”と呼んでいます。認知症の種類を問わず、家族関係のよし悪しも問わず、認知症になると誰もが”からくり”に陥りやすくなってしまいます。
」(p.32)

これは認知症に限りませんね。そう感じました。
たとえば、鬱(うつ)の人に対して「がんばれ」と言ってはいけない、と言いますが、これも周囲の過剰な期待です。「あなたはもっとできるはず」という言外の意味を含み、それが「どうしてもっとやらないの!?」という責める言葉に転嫁されて受け取られます。
そうやって責められ続けたら、認知症でなくても鬱でなくても、つまり健常者であってもおかしくなるでしょう。


一人暮らしの高齢者も、認知症になりゆく過程で周囲とのつながりを失いやすく、そういう意味で認知症になりゆく不安とともに強い孤独感があります。しかし、家族がいる場合とは異なり、”からくり”からいえば、日々指摘を受け(叱られ)続けるストレスはきわめて少ないということになります。
 ですから、一人暮らしの認知症の人は、家族と暮らす人よりBPSD(行動・心理症状)が起こりにくいだけではなく、程度も軽い可能性があります。
」(p.34)

一人暮らしの認知症の人の、暮らしへの不安はかなりあるとは思いますが、いろいろな人とのつながりを得ることで、BPSD(行動・心理症状)も起こりにくくなり、程度も軽くなりますし、多くの人の支えがあれば、思う以上に豊かに暮らしていけるはずです。」(p.35)

前に読んだ「老後はひとり暮らしが幸せ」でも、一人暮らしの方が幸せに生きられるとありました。濃厚な人間関係から解放されることで、日常的にストレスにさらされることがないからです。
このことは、認知症のBPSD(徘徊などの問題行動のこと)にも現れるのですね。


認知症の方々を長年診ていたら、理由がないのに家を出て行くということはまずないことがわかります。最も多いのは、もともと散歩のように外へ出る習慣もなくわけがわからないままに出て行く、そしてみんなが「大丈夫か、大丈夫か」と言い出す徘徊で、徘徊の中には、今日は近所を散歩しようと思って道に迷ったり、いつもの日課で外に出て道に迷ったりという場合もあるでしょう。そこには本人なりの出て行く理由が必ずあります。私が言うところの”からくり”です。」(p.62)

徘徊と言っても、本人には何らかの目的(意図)があって外へ出ていくのですね。ただ、外に出たものの道がわからなくなって、歩き回ることになるだけ。戻ってこれれば、何も問題がないのです。もちろん、途中で事故に遭う危険性はありますが。

徘徊で亡くなった人、家族が見つけることのできないような場所で亡くなった人は、もしかしたらご本人が死に場所を求めて徘徊した可能性が高いのではないかと、私は考えています。やはり、家族の中で居場所のない、孤立して”寄る辺ない”認知症の人が、励ましや叱責で「私なんかいないほうがいい」「迷惑をかけるだけだ」と思って、「死んでしまったほうがいい」「人知れずに死にたい」と思うのも決して珍しいことではないのかもしれません。そして、最期は本能的に隠れようとするのではないでしょうか。」(p.63-64)

つまり、散歩がしたくて出て行って道に迷う徘徊とは、目的が違うということですね。
つらくて消えてしまいたいという、いわば自殺願望のようなものがあって、戻りたいと思わなくなっている。そういう徘徊でなければ、事故でない限り、徘徊中に亡くなることは滅多にないのだと。

私の経験からは、認知症の人のつらさや不安は、記憶障害や判断力の低下といった中核症状が進行することよりも、認知症が進む中で、身近な人とのつながりをなくし、孤独で寄る辺がなくなることのほうが深刻なのだと思っています。BPSD(行動・心理症状)のある人はその傾向がより顕著ですが、周囲を巻き込むBPSD(行動・心理症状)は、介護者を苦しめ、介護者のうつ状態を引き起こします。それは結果として、認知症の人の施設入所や病院への入院につながりやすいのです。」(p.65)

認知症の人への周囲の過剰な期待は、認知症の人を苦しめます。その苦しみによって、深刻なBPSDを引き起こし、それが介護をする周囲の人を苦しめるのです。


事例でも示しましたが、寄り添い、支えるために大切なことは二つです。
 一つは、寄る辺のない認知症の人たちにとって、なんと言っても身近な人たちとのつながりを取り戻すことです。その場合、認知症の人たちは自分から行動を起こすことはできませんから、なによりも家族など身近な人の対応が重要です。
」(p.65-66)

具体的には、認知症の人に、笑顔で、感謝の言葉を忘れずに、できるだけ話しかけることが大切です。声をかけてもらえるということは、認知症の人にとって、自分を大事にしてくれている、という思いにつながります。その際、話しかける内容は、季節のことなどさりげない話題から始めて、認知症の人の昔懐かしい自慢話、苦労話などをするのが最も有効です。」(p.66)

もう一つ大切なことは、できなくなったことを可能な限り家族や周囲が受け入れて、励ましや、こうあってほしいという願望をできる限り少なくしていく必要があります。指摘を減らす=叱られないというだけで、ずいぶん穏やかになったという認知症の人が、私の経験では何人もいます。叱られないということは、認知症の人の尊厳を守ることにもつながります。」(p.67)

過剰に期待しないこと。以前のように行動せよと指摘しないこと。できないことを受け入れて、フォローすること。そして機能低下があっても、存在するだけで価値があるのだということを知って、敬意を示すことですね。
これは、ある意味で認知症の人だけへの対処法ではなく、うつ病でも、発達障害でも、自閉症スペクトラムでも、同じではないでしょうか。そればかりか、健常者であっても、このように対処すべきではないかと思います。

認知症になるのがこわくない社会、なっても安心して暮らせる社会、それは認知症でない人たちとってもよい社会ではないでしょうか。言い換えれば、人と人がつながっていて、認め合える社会であるはずです。そして、社会を家庭に置き換えれば、私たちが認知症とどう向き合うか、よりわかっていただけると思います。」(p.69)

まさにそういうことですね。認知症かどうかに関係ないのです。
そういう意味で言うと、認知症の人というのは、本当はこうした方がいいんだよということを私たちに気づかせるために、あえて認知症になって示してくれている魂なのかもしれませんね。


これは巻末にある田中とも江さんとの対談からの引用です。田中さんは、身体拘束廃止に取り組んでこられた方のようです。田中さんの本も買ったので、いずれ紹介できると思います。

後に八王子の川上病院という精神科病院で認知症の患者さんたちの身体拘束廃止に取り組んだときも、看護学総論で学んだ「五つの基本的なケア」(@起きる、A食事、B排泄、C清潔、Dアクティビティ)を自分なりに咀嚼して、患者さんのどんな行為にも理由があるという考え方で「叱らない」「許容する」「拘束しない」を徹底していき、二年で身体拘束を廃止することができました。昭和六一(一九八六)年、まだ「人権」とか「尊厳」など言われない時代で、周りの抵抗もありましたけど、「絶対、それまでの看護に戻ってはいけない。あれは看護の恥だ」という一念で取り組みました。」(p.166-167)

たしかに、介護や看護する人たちは、疑問を感じるのです。しかし、多くの人が現実に圧倒されて、身体拘束の道を選んでしまいがちです。
「便いじり」をしてしまう方に、それができないようにミトンを手にはめる。これも身体拘束です。転倒すると骨折する恐れがあるなら、車イスに安全ベルトと称して拘束ベルトを装着する。
これらは介護や看護する側の都合とも言えますが、スムーズに介護看護できることが、その方の役に立つと思うから敢えてしているのです。

けれども、その方の意志に反していることは事実です。便いじりする人は、便いじりしたいのです。その時のその状況においては。
では、どうすればお互いがWin-Winの関係になれるのか? つまり、便いじりさせたくないわけですから、ご本人が便いじりしたいと思わなければいいのです。どうすればそれが可能でしょうか?

その具体的な方法は、ここには書かれていません。取り組む考え方としてはわかりますが、方法論としてはまだよくわかりません。ただ利用者様の考えを理解せよと言われても、他人のことを理解できないのが世の中のふつうですから。


これは前に紹介した「「平穏死」のすすめ」の著者、石飛幸三さんとの対談からの引用になります。

当時でも、お嫁さんの本音はいろいろあったとは思うけど、今は、核家族化してしまったこともあって、身を粉にして尽くそうなんていう感覚は間違いなく薄れている。まして、親が姿形も変わって、認知症になって気持ちも荒れて、乱暴なことを言い出したら、血のつながった子どもたちだってつい感情的になるじゃない。それが現実、それが介護地獄。もちろんその人が一生かかってつくってきた家庭だから、そこで家族みんなで覚悟ができれば、それが正しくていいことだと言われると、反論はしにくいけど、現実をしっかり見てほしいと言いたい。むしろ社会としてきちっと施設を準備して、プロが冷静に支えるというのが、今、最も必要な対応でしょう。」(p.185-186)

つまり、ひとり暮らしで最期までというのは無理というケースもあり、その場合、家族の介護があれば大丈夫だというのはきれいごとだとおっしゃるのですね。冷静に、客観的に対処できるプロの支援が、どうしても必要なのだと。

人間の心理としてスタッフだって、虐待する家族と同じ面がないとは言えない。うまくいかなければ悩むし、一生懸命努めているだけに、頭にくるような思いにかられることもある。でも、どうして認知症の人がそういった行動をとるのかということを真剣に考える、そういう文化が育っているから、自分たちの役割はそれでは済まないということもわかっている。しかも家族のように二四時間介護するわけじゃない、決められた時間に働く仕事だから、自分たちの役割がわかれば、プロに徹することができる。それがある意味では施設の強味かな。」(p.195-196)

これは共感します。1日8時間の仕事だと割り切れるからこそ、感情的にならずに冷静に対処できるという面はあると思いますから。

そして、高齢者の認知症の世界はそれこそ人間の心の世界だから、それにどう医者が役に立つか、もう一度人を診る医療というか、心を診る医療に戻らなきゃいけないと思うよ。その上で家族も「世の中がなんとかしてくれるだろう」なんていう他力本願じゃなくて、自分たちで認知症の人たちを知ろうと努力する、そして理解していく、そうしなければ本当に変わらないよ。」(p.201)

そもそも認知症だからどうこうではないのです。すべての人間関係と同じなのです。その心の世界に、医療も介護も踏み込んでいく必要があるし、家族関係においても踏み込む必要があると言えるのですね。


排泄の問題に関しては、ここで語られていることだけでは納得できない部分があります。しかし、徘徊とか不穏になるなどのBPSDに関しては、認知症の方の悩みを理解することで、かなり問題解決に近づけるのではないかとも思いました。

私自身、介護の世界に飛び込んで1年が過ぎましたが、まだまだ上手く対処できずにいます。さらに学びを深めていきたいと思いました。

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タグ:高橋幸男
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2022年04月04日

「平穏死」のすすめ



私が買ったのは単行本ですが、もうすでに文庫本になっているのですね。これもたしか上野千鶴子さん「在宅ひとり死のススメ」で紹介されていた本です。著者は石飛幸三(いしとび・こうぞう)医師。「平穏死」という言葉に聞き覚えがあるなぁと思ったのですが、実は10年前にすでにブログで紹介していました。それが「「平穏死」という選択」「「平穏死」10の条件」という本でした。いわば「平穏死」三部作の3冊目になったようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

人間はこうまでして生きていなければならないのか。これまで幾多の苦難に耐え、それを乗り越えてきた人生、その果てにまたこのような試練に耐えなければならないとは、なんとも言えない理不尽な思いを感じたというのが、その時の正直な私の気持ちでした。」(p.14)

しかし、ほとんどの方は喋れません。寝たきりで寝返りも打てません。今この人たちは何を考えておられるのだろう。どんな思いでおられるのだろう。鼻から管を入れられて、一日三回宇宙食のような液体を滴下され、定時的にしもの処理をされて、人によっては何年も生き続けるのです。この方々に、生きる楽しみがあるのでしょうか。」(p.14−15)

寝ていますから胃の内容が逆流して慢性の誤嚥性肺炎を起こします。膀胱機能が衰えていますから、たびたび尿路感染を起こして高熱を出します。これは治療なのか、何のための栄養補給か。ご家族にしても、正直に言って始めてしまったものだから、いまさら後に引けない、一体これでよかったのかとの思いが起こるのではないでしょうか。医療技術の進歩と延命主義による自縄自縛の悲劇をそこに見た思いでした。」(p.15)

石飛医師は、特養(特別養護老人ホーム)、芦花ホームの常勤配置医としてやってきて、最初にこう思われたそうです。胃瘻(ろう)や経鼻胃管によって栄養を与えられ、生かされているだけのお年寄りたち。これで良いのかという疑問が湧いてきたのでしょう。

私も、まだ若いころに伯父のこういう姿を見ています。そこは老人ホームのような施設で、そのフロアには糞尿臭が漂っていました。その一室のベッドに横たわっていた伯父は、まったく意識がないように思えました。反応することもなく、ただ胃に栄養を流し込まれ、シモの世話をされるだけの人生。
これは嫌だな。こうなりたくはないな。正直、そう思いました。

そして今、私が働く老人介護施設にも、こういう方がおられます。何のために生きているのだろう? 何が嬉しくて、何が楽しくて生きているのだろう? もう肩の荷を下ろしてもいいんじゃないだろうか。そう、思わざるを得ないのです。


石飛医師が赴任したころ、ホームのお年寄りに肺炎が多かったそうです。

原因はすぐに判りました。大部分が誤嚥性肺炎でした。
 高齢者にとっては食べることは最大の楽しみです。しかも認知症の場合は過食や早食いの方が少なくありません。その上介護職の方には食べさせないといけないという義務感があります。食べさせられないのは自分たちの技術が劣っているからではないかという自責感があります。おまけに食べる量が少ないと家族からクレームが来ることがあります。つい無理をしてしまうのです。
 しかし認知症の場合は中枢の機能が低下していますから、食べる際に気管の入り口にある蓋(喉頭蓋(こうとうがい))がうまく閉まらず、食べ物が気管に入ってしまいます。生きていくためには食べなければならないのに、食べることが命取りになるという逆説が生じます。
 介護士の大切な仕事の一つは食事介助ですが、そこにはこのような矛盾した作業をする面があるのです。
」(p.20−21)

しかし、ゆっくり時間をかけて食事介助をしている暇はありません。一人あたりに費やす摂食介助は、平均二十分以内に済ませないと次の業務に差し支えると言われています。隣では、別の入所者がトイレに行きたいと言い出します。介護士の数は足りていません。まだ前の食べ物が口の中にあるのに、次の食べ物を口の中に入れるようなことが起こります。誤嚥性肺炎を作ることになります。」(p.21)

まさに、私の職場でも起こっていることですね。


認知症の人は胃瘻なんてやめてくれと意思表示をすることができません。家族は見殺しにできないと思い胃瘻を付けることを承諾します。
 我が国では、老衰の終末期においても病院で亡くなる方が八〇%に及びます。同時に胃瘻を付けてホームに帰って来て寝たきりになる人が増えます。この状態は世界でも際立って多く、我が国の医療費高騰の原因の一つになっています。
」(p.23)

こういうことがあって、今ではホームでの看取りが推奨されるようになりました。しかし、人々の意識はすぐには変わらないので、相変わらず終末期に救急搬送されることが多い。私の職場でも、1ヶ月に2〜3回は救急車がやってきます。


そもそも九十歳前後の超高齢の方の基礎代謝は正確には判っていません。必要なカロリーはいくらかも判っていません。老衰した体にとっては、必要なカロリーという考え方自体が適切でないのかもしれません。体はもう生存することをやめようとしているのです。歳を取ると自然に量も質も変化します。一日二食の人が結構います。八十歳を超したら腹八分どころか腹五分でも結構なのです。
 入れ過ぎると簡単に嘔吐します。吸い込むと肺炎になります。老人は脱水になりやすいと言います。確かにそうですが、脱水になるからといって量を増やすと今度は心臓や肺がその負担についていけないのです。調節できる幅が大変に狭いのです。熱が出るのは脱水のためだと言って、入れる水分量を増やせば今度は溺れさせる危険があります。
」(p.26)

うちの施設でも、脱水を警戒して、無理に飲ませるようなことがあります。無理に飲ませる、無理に食べさせることはもちろん、飲み過ぎ食べ過ぎの弊害も考えてみる必要があるように思います。
いくら本人が食べられても、多くを与えないという判断ですね。しかし、これは難しい。一介護士にできることではありません。医師の意識向上を待つより他ないかと。


しかし老衰は故障ではありません。もう機械に寿命が来たのです。高齢者は老衰で死ぬことも多いのですが、老衰という病態が認識されていないという奇妙な現実があります。特に多くの医者は老衰という病態に戸惑うことが多く、死因として何らかの病名をつける必要を感じてしまうのです。」(p.66)

老衰とは、全体が弱っていって、どう治療しようと元には戻らない状態です。怪我による傷そのものや骨折などは治るかもしれません。病気も治るかもしれません。しかし、それが治ったからと言って、元の若々しい元気さを取り戻すわけではないのです。
そうなった時、治療が必要なのかということを、考えてみる必要があるように思います。治療をせずに、楽に楽しく過ごさせる。前回紹介した緩和ケアの本「なんとめでたいご臨終」にもあるように、そういう最期の時を過ごすことを優先する考え方があってよいと思うのです。


しかし、本人の命は本人が決めることです。高齢者医療においてはなおさらのことです。十年前は患者さんに「それは歳のせいですよ」とは相手に悪いようで言えませんでした。しかし最近は割合抵抗なく言えます。かえってそれが病気ではないという本人の安心感を生み、受け入れを促している場合があります。人々の意識が変わってきたと思います。人生は自分のもの、幕の引き方は本人の選択によるものという意識が高まって、家族もそれに沿う判断をすることが多いように思います。」(p.68)

私自身はもちろん、うちの家族もそういう考えを受け入れているように感じます。
それでも、母を亡くした時の父の無念さはありました。揺れ動く心が、まだ残っていたのでしょう。


認知症の方と接する上で最も注意しなければならない点は、いくらつじつまの合わないことを言う人でも、感情はしっかり残っているということです。人間には自尊心があります。ですから褒めること、これが一番認知症の方を喜ばせるようです。無視されること、見下されること、これは認知症の方の心を最も傷つけます。」(p.73)

認知症なのだとわかっていても、言うことを理解してくれない、指示に従ってくれないことに嫌気が差して、つい邪険にしてしまうことがあります。ここはしっかりと自分に取り入れたいなぁと思います。


ホームで看取るということが、何もしてあげられなかったという負の気持ちに、家族ばかりかホームの職員までもを追い込んでしまうのです。病院で亡くなれば、最後まで手を尽くそうとしたと言うことができます。しかし本当にそうなのでしょうか。」(p.80)

これは病気ではないのです。天寿なのです。ここで最期の時を決めるのは医療ではありません。人間が決めてはいけません。正に時の流れに身を任せるべきなのです。
 こう言うと、「寿命が来たと誰に決められるのか」「助けられないと誰が判定できるのか」と反論が必ず来ます。しかしこのような終末期の状態に至るまでの過程は、昨日今日始まったことではありません。
」(p.81)

たしかに私もそう思います。しかし、石飛医師も明快に答えられないように、これが寿命なのだと明確に判断できる方法はないようにも思います。
石飛医師は人が決めてはいけないと言いますが、私は逆に人が決めるしかないと思うのです。どっちが正しいかではなく、どちらも正しいという前提を置いて。
その上で、身体機能が弱まって、その改善が見込めないのであれば、それが肺炎だろうと心臓病であろうと、あるいは嘔吐による窒息であろうと、治療する必要はないし、治療せずに死なせてあげる方が良いと思うのです。


食べられなくなった。熱が出た。脱水だ。さあ、点滴だ。多くの人は点滴をすると元気になるとばかり思いこんでいます。もちろん点滴一本で状況が好転する場合もありますが、心臓が弱っている高齢者では点滴量が多いと心臓が負担に追いつけず、心不全を引き起こすことが少なくありません。
 本当のところ、超高齢者の補液量の管理は容易ではありません。
」(p.118)

うちの施設の利用者様も、足などがむくんでいる方が大勢いらっしゃいます。そして心不全を患っておられる方も。
おそらく、多量の血液を心臓が処理できなくなってきているのでしょうね。だから余分な水分を血液から排除する。その身体の生きるための働きが、むくみとして現れているのかと。
もしそうであれば、脱水を心配して水分を摂ることは、かえって心臓の負担を増やすことになる。せっかく身体が生きるための最善策を取っているのに、それに反することをしていることになるのです。

こういう点でも私は、身体を信頼して、自然治癒力に任せることが大切ではないかと思うのです。


介護士を見ていると、この時代いろいろな職業がある中で、よくこんな地味な、きつい仕事を選んだものだと感心します。しかしこのような人たちが居なかったらこの高齢化社会どうなるのだろうかと思います。付き合ってみると気持ちが明るく、優しく、その上、信念のある人たちです。高齢化社会はこのような人たちによって支えられているのだなとつくづく思います。もっと伸び伸び仕事をさせてあげたい、私は彼らを見ていて心からそう思いました。」(p.127)

私も介護職なので、この部分には共感します。常に入居者様やそのご家族からのクレームに晒されます。それを受けた経営者や上司から叱責されます。じゃあいったいどうすればいいの!? そう言いたくなることもあります。
でも、そうやってぶつかることによって、より良い社会的な仕組みや働き方などに変化していくのだろうとも思います。ネガティブに捉えず、前向きでありたいと思うのです。


芦花ホームでは、そこで最期を迎えた方のご家族様からいただいたご寄付を元に、看取り介護の研究を推進しているそうです。これは、その調査に関わった「場所づくり研究所プレイス」の宮地成子さんの、石飛医師の話などを聞いて書いた感想文からです。

お話の中で印象深かったことの一つは、「口から食べられなくなったら、もう先が長くない状態である」ということでした。「そうか、食べられなくなるというのは、生命活動が終焉に近づいているということなのか」と、その事実に驚き、また「安らかな死を迎える判断基準」として明快だと思いました。三宅島では「最後は水だけ与える、そうすれば精神が落ち着き自然に戻る」という言い伝えがあるそうです。無理に食べさせることで、誤嚥やそれに伴う肺炎が起こり、かえって体の負担になってしまうことがあるとのこと。父の最期の時、医師と点滴について相談することがありましたが、「栄養をとらずに横たわる人を静かに看取る」という選択肢は、その時の私たち家族には考えられませんでした。三宅島の言い伝えは、心安らかに亡くなっていく人を、「みんなで見届ける様子が目に浮かぶ、心に響く言葉です。」(p.138)

食べられなくなったら寿命だ。動物なら当たり前のことです。しかし人は、人の助けによって食べ続けることができます。だから判断に迷うのでしょう。
「食べられない」と一言でいっても、状況はいろいろあります。手が思うように動かないのか、噛めないのか、飲み込めないのか。そしてその状況は医療によって改善するのかしないのかなど。それが判断を難しくしています。
宮地さんは明快な判断基準と言われていますが、私はそれでもやはりその場の誰かが決めなくてはならないのだと思います。

そうであるなら、自分のことは自分が決めておくのが良いと思うのです。
私は、自分で食べられなくなったら、もう食べることをやめてもいいかと思っています。それは餓死かもしれませんが、それもまた運命というものかと。


これもまた、いろいろと「死」について考えさせられる本でした。
終末期の医療はどうあるべきか。なかなか難しい問題ではありますが、私たちは考えていかないといけないのではないかと思います。

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タグ:石飛幸三
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 21:40 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月27日

なんとめでたいご臨終



これも上野千鶴子さん「在宅ひとり死のススメ」で紹介されていた本です。在宅医療を、それぞれのエピソードを通じて紹介する内容になっています。300ページを超えるボリュームがありますが、とても読みやすい本でした。

著者は小笠原文雄(おがさわら・ぶんゆう)医師。今まさに亡くなられるばかりの患者さんや、身内を亡くされたばかりのご家族と一緒に、笑顔でピースサインの写真を撮られています。「死」というものを、納得して肯定的に捉えておられるのだなぁと感じます。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

病院勤務時代に救命救急もしていた私は、数百人の看取りをする中で、「死ぬ時は苦しいのが当たり前」、ご遺族にかける言葉は「ご愁傷さま」、そう思っていました。当時は、”家で苦しみ始めたら、救急車を呼んで病院へ”という考え方から、病院の使命である延命治療を受け、苦しんで亡くなる人が多かったのです。
 しかし、最期まで趣味の釣りを楽しみ、奥さんと笑顔で暮らした丹羽さんの穏やかな旅立ちは、私の医療に対する考え方を大きく変えました。
「最期まで家にいたい」という願いが叶う時、目には見えないいのちの不思議さがある、在宅医療なら病院ではできないいのちのケアができる、そう思うようになったのです。
」(p.4−5)

在宅ホスピス緩和ケアの「在宅」とは、暮らしている”処(ところ)”。「ホスピス」とは、いのちを見つめ、生き方や死に方、看取りのあり方を考えること。「緩和」とは、痛みや苦しみを和らげること。「ケア」とは、人と人とが関わり、暖かいものが生まれ、生きる希望が湧いて、力が漲(みなぎ)ることです。」(p.5−6)

小笠原さんは、死は敗北だとしてきた医療のあり方に疑問を持たれたのですね。そして、在宅ホスピス緩和ケアを始められた。そのことによって、同じ亡くなるとしても幸せでいられることがわかったのです。


ご家族は、”最期まで家にいたい”という患者さんの願いを叶えてあげたいという想いで支えていますが、ほとんどの方は、家での看取りが初めてです。
 患者さんが元気なうちはいいのですが、死ぬ直前になって少し様子がおかしくなると、どうしたらいいかわからずパニックになり、救急車を呼んでしまうご家族も少なくありません。急いで救急車を呼んで、死ぬ前に救急車が到着してしまった場合、何が起こると思いますか。悲劇です。患者さんは救命処置をされ、死ぬことを許されず、延命措置をされるのです。
 そんな悲劇を起こさないためには、患者さんの身にこれからどんなことが起こるのかを予め想定しておくことが大事です。そのため「お別れパンフ」には、これから患者さんに何が起こるのか、お別れの前にしておくこと、してはいけないことなどを書いています。
」(p.26)

看取る側にも知識と心の準備が必要なのですね。昔なら、近所のお年寄りなどがやってきて、いろいろ教えてくれたり、支えてくれたりしたものです。今はそういうコミュニティーが崩壊しているので、いきなり身内の死に直面し、自分たちだけで何とかしなければならない。
救急車を呼ぶとはどういうことなのか? そういうことも、事前によくよく考えておく必要があると思います。


お孫さんが渡辺さんの告別式で話した言葉を、THP+に載せてくれました。

 この遺影(次ページ参照)は、先生方と一緒に畑に行ったときのものです。嬉しそうにピースサインをする祖父。大好きな畑に行き、お風呂にも入り、ビールも飲むことができました。自宅では本当に幸せそうでした。写真の笑顔を忘れず、祖父を偲んでいきたい。おじいちゃん、ありがとう。
」(p.33)

人はいつか死ぬものです。その最期が、幸せに満ち足りたものだったら、遺された家族もまた、幸せな気持ちでいられるのではないでしょうか。
なお「THP+」というのは、後にも出てきますが患者さんやそのご家族、そして在宅ホスピス緩和ケアに携わるチームの人々が交流し合えるアプリのことです。


上松さんはその後も大好きな焼酎を飲んで笑顔で生き、最期は穏やかに旅立たれました。多くの患者さんの最期を見てきた医師が、在宅ホスピス緩和ケアを選択したという事実を、抗がん剤で苦しむ多くのがん患者さんに知ってもらいたいと思い、この事例を取り上げました。それは、今も抗がん剤治療で苦しんでいる患者さんへ、上松医師が遺してくれた希望なのだと思っています。」(p.39)

最期まで抗がん剤治療を行ってきた医師が、自分が癌になったら治療をせず、緩和ケアをすることは卑怯ではないか? そういう葛藤を乗り越えて、自ら緩和ケアという選択肢があることを広めようとされたのですね。


ここにいたいと願うところにいられれば、心が定まり、極楽にいるような心境になれる。それが「ところ定まれば、こころ定まる」なのです。そして、そのような想いになれた瞬間から、我がいのちは、仏様と同じ清らかなところ、極楽が報土(ほうど)と化したところに存在し、今がいちばん幸せと思いながら穏やかに生きて、死ねるのではないでしょうか。
 希望死・満足死・納得死は、暮らしの中にあるのだと思っています。
」(p.48)

在宅で死ぬということは、自分がここにいたいという思いを満たすことなのですね。それは必ずしも自宅という意味ではなく、その人がそこにいたいという思いを満たせる場所、ということなのです。


最初にお伝えしたとおり、木下さんの希望は「自宅で最期まで過ごすこと」でした。だからこそ木下さんは限界が来るまで自宅療養していたのです。でも自宅療養にも限界が来た、近くに24時間診てくれる診療所もない、山で暮らすことはもう不可能だろうと、希望の光が消えました。希望がなくなると、免疫力が下がるとともに、ADL(日常生活動作)も下がり、悪循環となるのです。
 ところが「家で死ねる、山で死ねる」という1本の電話によって、自宅で最期まで過ごすことができるとわかり、希望の光が見えました。光には灯りと力があります。それが元気の源になったのだと思います。
」(p.60−61)

電話で自宅にいたいという望みを叶えてあげますよと伝えただけで、奇跡的に元気を取り戻したという事例です。病は気からと言いますが、病状にも大きな影響があるのですね。


自宅で看取るご家族は、患者さんが急変した時や亡くなった時、医師を呼ぶのが当たり前だと思っている人が多いと思います。でもそうではありません。「旅立ちの日が近づいたサイン」(196ページ参照)に記載してあるように、旅立ちの過程を知っていて、患者さんが穏やかであれば、最期の時はご家族だけで過ごしていいのです。ただし、苦しんでいる場合は救急車ではなく、訪問看護師を呼んでくださいね。」(p.73)

亡くなることを受け入れていれば、穏やかな旅立ちが可能なのです。


モルヒネとは、量を増やすことで痛みを緩和できる不思議な薬です。医師がモルヒネを使いこなすスキルを身につけるのと同時に、そのことを患者側も知っておくことが大切なので、次のことを頭の片隅にとめておいてください。
・痛みは薬で取れる
・薬は安全に使用できるように工夫されている
・医療用麻薬は、痛みの治療をしている限り、中毒にならず安心である
・突然の痛みは我慢せず、レスキューですぐ取る
・副作用による便秘や吐き気などは、予防できる
 さらにモルヒネは、エンドルフィンという嬉しい時や幸せを感じた時に出る物質の化学構造式にいちばん似ています。つまり、モルヒネを摂取すれば、エンドルフィンが出ている時と似た状態になって、痛みや苦しみ、呼吸苦を取り除くだけではなく、朗らかになれるのです。
」(p.79−80)

終末期の医療に関わらず、長期的な痛みの緩和において、もっとモルヒネの使用についてのハードルが下がるといいのに、と思います。
他にも、「ソル・メドロール」という薬の話がよく出てきます。私は老人介護の現場で働いていますが、看取りの段階のお年寄りに対して使っていないように思いました。こういうことも、医師によって知識や経験の違いいがあり、使用するしないという差が生まれるのかもしれませんね。


知らないことは不安を煽るのです。不安は免疫力を下げ、生きる気力を奪い、その結果、余命はさらに短くなると考えられます。気づいた時には死が迫り、やり残したことを悔やみ、その無念さと後悔の中で旅立つのは、真実を知るよりも辛いと思いませんか。「終わりよければすべてよし」と言います。真実を伝えず、最後の最後に地獄の苦しみを与えてしまった後悔は、取り返しがつかないのです。
 真実の告知によって、一時的に絶望感に襲われ、不安になるのは当然です。だから告知をする前提として、告知後に医師や看護師による心のケアを行うことが必要であり、重要なのです。
」(p.118−119)

最近は告知をする方が主流になってきたのではないでしょうか。人々の意識が変われば、告知のハードルも下がるでしょうね。


お金がなくて治療を諦めたり、絶望している人も少なくありません。そういう苦痛を社会的疼痛(とうつう)と言います。でも、お金があってもなくても受けられる医療、社会的疼痛を解決するスキルと知恵を備えた在宅医療、それが在宅ホスピス緩和ケアです。
 この事例は、隣のおばさんのようなボランティア的な方がいれば、ひとり暮らしでも安心してその地域で暮らし、生きたい”処(ところ)”で生き、旅立つことができるという地域包括ケアのモデルケースかもしれません。
」(p.139−140)

毎月の年金が72,466円、家賃が3万円という末期がんの高齢者の事例です。明るく朗らかに元気に生きられ、寝たきりになったら3日で亡くなる。だからそれほどお金がかからないと小笠原医師は言われます。
そのポイントは、訪問看護を介護保険ではなく医療保険から出すということです。70歳以上で低所得だと、医療費の自己負担は8千円が上限。それ以上は無料なのです。
痛みを取るためにモルヒネワインを飲む。夜眠れなければ「夜間セデーション」と呼ばれる睡眠薬を使った療法で、夜もぐっすり眠れるようになる。訪問看護の人だけでなく、近所のおばさんが尋ねてきてくれるので、適度に人と触れ合うこともできて、心も安定するのでしょうね。


タッチパネル式テレビ電話のおかげで、河合さんの安心感はさらに増したようでした。ひとり暮らしの患者さんが自宅で最期まで穏やかに過ごすためには、痛みを取ることと、痛みへの不安を取ること、安心できること、これがいちばん大切なのです。
 そして、もう一つ重要なのは、患者を支える体制です。在宅医療では多職種で支えます。そこで小笠原内科では、「THP+(ティーエイチピープラス)」というアプリを使い、情報共有をスムーズに行うとともに、連携ミスが起きないようにしています。
」(p.146)

現代は、テレビ電話が無料でできる時代です。スマホやPCを高齢者が初めて使うにはハードルが高いのですが、タブレットを専用機のように使えるようにしてあると、使いやすいかもしれませんね。
THP+は、支える側の情報共有手段であると同時に、患者やその家族とも情報共有できる仕組みだそうです。


「最期まで家にいたい」、そう願っても、ひとり暮らしだからという理由で反対する家族がほとんどです。
 そのいちばんの理由は「夜中にひとりで死んだらどうするんだ」というものです。ひとりで死んだら孤独死だと心配する方が多いのです。
 でも考えてみてください。病院で夜中に死んだら孤独死ではないのでしょうか。苦しさのあまり、うめき声などを発すれば、夜間巡回の看護師が早く気づいてくれるかもしれません。もしも、うめき声などに気づき、医師の到着が死亡前だったら延命措置を行うでしょう。しかしそれは生きるための「治療」ではなく、家族が到着するまで息をさせておくための「措置」であり、最期まで苦しい思いをさせる拷問のようなものになってしまうかもしれませんね。
 それなら本人が望む自宅にいて、仮に誰も見ていないところで亡くなったとしても、それは孤独死ではなく、希望死・満足死・納得死だとは思いませんか。
」(p.158)

よく孤独死を不安視する人がいますが、なぜそんなに心配するのか、私にはよくわかりません。どうせ独りで死んでいくのですから、その瞬間にそばに誰がいようといまいと、同じではないかと思います。
それよりも重要なことは、本人が満足しているかどうか、幸せかどうかだと思います。幸せに生きて、その状態で亡くなっていくなら、それでよいと思うのです。


「亡くなった後は、神妙な面持ちで涙を流すもの。笑顔なんて不謹慎」、合言葉は「ご愁傷さま」、まだまだそんな時代です。でも旅立つ人はそれを願っているでしょうか。交通事故などの不慮の事故や突然の旅立ちなど、無念の最後だった場合は、本人も遺族も悔しさや悲しみ、後悔の涙が溢れるでしょう。
 しかし、旅立つ人が希望死・満足死・納得死ができたなら、離別の悲しみはあっても、遺族が笑顔で見送ることができるのです。「なんとめでたいご臨終」と言わずにはいられません。
」(p.174)

私も、死は卒業だと思っています。卒業であれば、離別の悲しみはあっても、前途を祝福して旅立つもの。だから、悼むのではなくお祝いすべきものだと思うのです。


そして水曜日、ひ孫が到着すると、高木さんは穏やかに旅立たれたのです。
 到着した私たちも一緒に高木さんを囲み、笑顔でピースの写真を撮りました。
 これまで”その時”を見計らったような旅立ちをたくさん紹介してきました。この偶然のような奇跡が、これまで私が幾度となく立ち会ってきた「めでたいご臨終」なのです。
 延命治療で強制的に生かされているいのちではなく、目に見えないいのちがあるとしたら、それは「旅立つ時を選んでいる」、いのちの不思議さなのだと思わずにはいられません。
」(p.212)

逆に、いない時を見計らったような亡くなり方もあります。私の母がそうでした。老老介護の父が部屋から出て行った時を見計らったように、静かに亡くなったのです。
私は、魂は自らの意志で亡くなると思っています。だからどんな死であっても、「めでたいご臨終」だと思います。


安楽死と誤解されるほどの「持続的深い鎮静」を行う前に、苦しみの原因である大量の点滴を減らしたり、モルヒネを増やしたり、「夜間セデーション」を行うなど、何かやれることはないのか、命がけで考える必要があるはずです。
 そうすれば、「持続的深い鎮静」を行う必要がなくなり、QOD(死に方の質)が高い旅立ち、つまり最期に「あ・り・が・と」というやり取りができて、旅立つ人も見送る人も心が暖かくなるでしょう。
」(p.307)

苦痛をなくして死なせるために、「持続的深い鎮静」と呼ばれる長期間の麻酔(?)による睡眠を与える医療があるのですね。知りませんでした。
これはたしかに安楽死と同じか、それ以上にたちが悪いと感じます。生き殺しのようなものですから。


やがて旅立ちが近づくと、ヨチヨチ歩きになり、赤ちゃんと同じように這いずり、ついには寝たきりになります。この自然の摂理に沿って生きて、死ねることができた時、苦しみは少ないようです。
 しかし、今の日本はこの摂理に逆らった”長命”国にすぎないと私は思っています。自然の摂理の中で、在宅ホスピス緩和ケアが広がった時に日本は本当の”長寿”国になるのだと確信しています。
」(p.314)

まったく寝たきりの赤ちゃんが成長し、ハイハイし、つかまり立ちし、歩くようになる。死に向かう高齢者は、ちょうどその逆を進んでいくのですね。


死は、敗北でもなければ悲しいことでもない。むしろ喜ばしいこと。だから祝うべきこと。私もそう思いますが、死に向かっているご本人や、看取られた後のご家族と、笑顔でピースをされる小笠原医師の存在は励みになります。
もっとこういう考え方が広まって、死を身近なものとして、喜ばしいこととして受け入れられるようになるといいなぁと思います。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 08:59 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年03月21日

老後はひとり暮らしが幸せ



これも上野千鶴子さん「在宅ひとり死のススメ」で紹介されていた本です。非常に多くの興味ある本を紹介されていたので、買ってはみたものの、読むまでに随分と時間がかかってしまいました。

けれども、読んでみると非常に素晴らしい内容でした。単に自分の考えの正当性を押し付けようとするような文章ではなく、アンケート結果に基づいて可能性を丁寧に検討しておられます。

著者は大阪で開業されている辻川覚志(つじかわ・さとし)医師。辻川医師も、このアンケート結果は意外で、目から鱗が落ちるような結論になったようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

そこで、現在同居している人やひとり暮らしの人に、日常生活における満足度を聞いてみました。結果は、ひとり暮らしの人の方が、同居の人と比べて、より満足して暮らしておられることがわかりました。しかも、ひとり暮らしで子供を持つ人と持たない人とで、満足度はまったく変わらないこともわかりました。」(はじめに)

タイトルにもあるように、これが結論ですね。

たとえどのような状況に置かれていても、その人が満足しておれば、その日々は、その人にとって有意義で、充実していると言っても良いと思います。そのために、人の満足感から高齢期の生活を見直すと、いったいどのように見えるだろうかと考えたのです。」(はじめに)

満足感というのは主観的なものです。客観的に比較することはできません。たとえ同じ状況でも違いが出ることもあるし、違う状況でも同じように満足する人もいます。しかし、状況からその傾向を見ることはできます。
辻川医師は、そこに関心を持たれたようです。子を持つ人なら、独居、同居、ホーム入所の3つ、子を持たない人なら、独居かホーム入所。この生活形態による満足度を比較しようとされたのですね。

平成25年4月から5月にかけ、筆者の診療所を受信されたすべての60歳以上の方々を加えた、独居・同居者の合計484名の方々に、年齢、性別、満足度、悩みの程度、いろいろな状況などについてアンケート調査を依頼し、460名の方々から許可と回答を頂きました。また、さらに、このアンケート結果について、さまざまな年齢層の方々から頂いた意見も加味しながら、高齢期にどのように暮らせば、いちばん幸せに暮らすことができるのかを考えてみました。
 その結果、ひとり暮らしがもっとも現実的で、理想の姿であり、もっとも幸せに近いことがわかりました。
」(はじめに)

大阪府門真市の医師会では、60歳以上のひとり暮らしの人を対象に電話による情報交換を行っているそうで、その対象者からの情報に加え、辻川医師のもとに診療に訪れた方々へのアンケート結果から、このような結果を得られたそうです。なお、アンケートの詳細は巻末に載っていました。


この方は、友達も多く、お互いに連絡されたりしておられるようですが、それほど、頻繁ではありません。それにもかかわらず、寂しくないとおっしゃるのは、やはり、はじめからひとりであることが、前提条件のひとつになっていたからかもしれません。つまり、寂しいという感情は、その人の感じ方であり、あくまでも主観的な感情であることをあらためて認識させられます。」(p.14−15)

ひとり暮らしと言うと、すぐに寂しいと想像する人が大勢います。しかし、まったく寂しくないという人もいるのです。
実は私もその中の1人です。長らくひとり暮らしをしていましたが、まったく寂しいと感じたことはありません。孤独だとも思いませんでした。


すると、男性と女性で満足度には差がなく、両方ともに、独居の方が高い満足度を示していました。」(p.18)

男女でかなり違う価値観や考え方を強いられてきた高齢者ですが、それでもひとり暮らしの方が共通して満足度が高かったようです。


子が遠方に住んでいる方は、どちらかというと、身寄りのおられない完全独居の方々と似たように話される場合が多いような気がします。つまり、子からの支援を、あまり期待されていないように感じるのです。」(p.26)

人間はひとりで生まれ、ひとりで逝くものだといわれているように、この立場の方々の生き方こそ、人間本来の姿であるともいえるかもしれません。」(p.27)

アンケート結果によりますと、子が近くにおられる場合も、遠方にしかおられない場合も、子がいない場合も、すべて満足度には大きな差は認められませんでした。
 子の存在は、親にとって一体どのような意味を持つものか、よくわからなくなるような結果になりました。極端なことを言えば、満足する老後に、子は決定的な働きをしていないことを示していると思われます。
」(p.27)

子を持たぬ人は、悩みは少なく、日常生活における満足度も高い。しかも、年齢とともに、体の具合が悪くなってきても、満足度は低下しにくいようです。」(p.28)

子は、いればいたで悩みのタネにもなる、ということかと思います。しかも、同居のように日常的に接するとなると、日々、じわじわとストレスを感じ続けることになる。だから、むしろ子がいないか、いても日常的に接することがない方が、満足度が高くなるのかもしれません。

私も子はいませんが、したがって子育てのことで頭を悩ますことなく暮らしてきました。もちろん、子に自分の生活を助けてもらうこともできませんが、そもそもそれをアテにしていなければ、失ったとも感じませんからね。


多忙を極める人が、もし何か他の原因で多忙になった場合は、やらされているという意識が働き、ストレスをためることになりますが、もし自らの思いで積極的に多忙となった場合は、その人は、たとえ苦しくとも、自分の目標に向かって突き進んでいるという気持ちが加わるので、不満どころか、充実感すら感じることができるかもしれません。やはり、気持ちの持ちようなのです。」(p.33)

同じ「多忙」という状況であっても、他者から押し付けられていると感じているのか、それとも自ら望んで飛び込んでいると感じているのかによって、ストレスにもなれば充実感にもなる。すべては見方次第で決まるということですね。


多くのひとり暮らしの方々から聞いた内容から考えて、これが、満足度を上げるために、もっとも重要なポイントと言っても良いかもしれません。緊急時ではなく、普段の生活において、何でも相談できて、どんなことも話ができる友がいることは心強いものです。」(p.36)

信頼できる友がいるということは、ひとり暮らしに限らず、満足度を高めてくれるでしょうね。
けれども私は、その必要性すら感じません。なぜなら、頼る必要性がないからです。自分を友にすればいいし、何なら神を友にすればいい。そう考えています。


アンケート結果では、家族数が4人以上いる三世代世帯に属する高齢者は、ひとり暮らしの人と同じくらい満足しておられました。やはり、多くの家族と過ごす高齢者は、普段から、十分満足して生活されていることがわかります。昔ながらの大家族の中で過ごす老後は、今も快適な環境だと言えるかもしれません。
 しかし、今、この三世代世帯が減少してきています。そのため、多くの高齢者が三世代世帯で老後を過ごすことができなくなってきているという現実があります。
」(p.40)

三世代同居の大家族という形態は、老後の満足度からすると申し分ないのですが、現在の生活形態からすると実現が難しいということですね。


人に頼らないということは、人に期待していないということです。他人の力を期待していたら、もしやってもらえなかったときに、がっかりしますが、逆に、もしまったく期待していなかったのに、人から思わぬ援助をもらったりすると、自然に感謝する気持ちが芽生え、自分自身にストレスをため込むようなことはないということになります。また、人に頼らず、すべて自分で何でもやろうとすれば、当然、相当な身体能力を使いますので、自らの能力をできるだけ低下させずに済みます。」(p.43)

人に頼らないという覚悟によって、精神的にも身体的にもメリットがあるということですね。


とりわけ、家族数がふたり、3人と少数の場合、家族数が少ないだけに、うまくいかなくなったとき、満足度は大きく振れます。ひとりの人とうまく関係を持つことができなくなった場合、間に入って、緩衝役を買ってくれる人がいない分、人間関係の悪化が長期化する傾向があるようです。家族数が少ないために、肝心の人間関係を良好に保つことがむずかしいのかもしれません。」(p.50)

実際、アンケート結果を、家族数別に集計してみますと、独居と4人以上の家族がいる人の満足度が高く、家族数ふたりの満足度が最低で、家族数3人の満足度はその中間でした。このことは、緩衝役の働きが大きな意味を持っていることを示す結果と考えられます。」(p.63−64)

同居家族数が少ないと、特定の人に依存することになりがちなのですね。その特定の人との関係が悪くなると、とりなしてくれる人もおらず、長期に渡って影響を受けがちになる。これが同居の満足度が低い原因だろうと思われます。


この家族負担は、介護をする家族にとっては耐えがたい苦しみであることが知られていますが、頼む側の被介護者も苦しんでいるということがわかります。家族介護は、介護する側も介護される側も、どちらも幸せにはしないのです。」(p.90)

つまり、家族数が多ければ、うまくこれらの問題を吸収しながら、高齢者に対しても一定の支援を続けることができているのかもしれませんが、かならずしも、すべての三世代世帯が幸せとは限らないのではないかと思われます。」(p.91)

そもそも家族介護に大きな問題があるのです。嫁が介護して当然というかつての風潮もそうですが、介護されるのが当然でなくなれば、介護される側にも遠慮が生じます。
この問題を解決しようとしたのが介護保険制度であり、老人介護から家族の負担を解放し、ビジネスライクな公的介護にすることで、介護を受ける側の心理的な負担も解放する試みとなっています。

こういう様々な問題と、現代の「個の時代」という時代背景からしても、三世代同居の大家族制を無理して追い求めるより、同じように満足度が得られるひとり暮らしに解決策を求めるのが適切ではないか。辻川医師は、そう考えられるのです。


頭も使わなければ、どんどん機能を落としていきます。計算をやることも、漢字を使うことも、やらなくなれば、誰しもすぐに忘れて計算ができなくなったり、漢字を思い出すことができなくなったりした経験を持っておられると思います。何も老人ホームに入所しなくても、起こり得ることなのですが、ホームでは何もかもやってくれますので、いよいよ使いません。そうすると、ひとり暮らしに比べて、能力が低下しやすいと考えなければなりません。」(p.98)

老人介護施設では、スタッフがいろいろなことで介助します。しかし、スタッフにも作業割り当てがあるため、1人の入居者様にいつまでも時間を掛けるわけにはいきません。つまり、待っていられないのです。だから、スタッフが過剰に介助することになりがちです。
それだけ、ホームに入所すると自分が持っている機能を使えなくなる、つまり機能が衰えることになりがちなのです。


とにかく、住み慣れた土地から離れてはいけないのです。
 少なくとも、アンケートに回答して頂いた方々の意見では、住み慣れた土地には、自分自身の人生の記憶が染みついているのだとおっしゃいます。この慣れ親しんだ空気、風景、いつもの音、いつもの顔は、その人の人生そのものであると言っても良いかもしれません。
」(p.108)

住み慣れた環境にこだわるということは、それだけ影響を受けやすいということなのでしょうね。でもおそらく、私のように引っ越しを繰り返している人間には、あまり関係がないかと思います。


ひとり暮らしは、レストランサービスなんかなく、大浴場も完備せず、食事も掃除も洗濯も炊事もすべて自分でやらないといけないのに、満足度は高いのです。その理由は、明確です。自分が思っている通りの生活ができることが最大の利点だからです。この自由ということは、たとえば、体が衰えてきて、炊事をすることも、ままならぬことになってきても、ひとり暮らしの満足度を維持させる原動力となっていたのです。人間にとって自由とは、もっとも大切なことなのかもしれません。」(p.110)

これには私も同感です。人にとって最も重要なのは自由です。多くのことを犠牲にしてでも得たいのが自由。だから、老人介護施設は満足度が低くなるのです。


いつも一定の時間に、何かやろうとするだけで、朝、絶対に起きないといけなくなり、生活にリズムが生まれるわけです。規則正しい生活こそ、体調を整える第一歩です。」(p.128)

一人暮らしをする上で、怠惰にならずに健康を維持するための極意ですね。

体力が落ちてきても、アンケート調査に協力して頂いたひとり暮らしの方々は、非常に前向きに、病院だけでなく自宅でもリハビリテーションに励んでおられました。」(p.137)

ひとり暮らしは他の人に頼れないだけに、自分の身体機能を維持するための努力が欠かせないのです。それはある意味で、自分の身体を大切にすることではないかと思います。


ということは、他人を頼らずに何でも自分でやり、自分に残されているいろいろな能力を、日々使い切りながら自らが満足する人生をおくろうとすることと、多くの共通点があることに気づきます。つまり、認知症予防と、満足する老後を過ごすための努力とは、方向性が同じなのです。何も、認知症を予防しようと肩に力をいれてがんばる必要はなく、ごく自然に、人生を楽しもうとすれば、それがとりもなおさず、認知症予防につながるものと考えます。」(p.150)

ひとり暮らしを快適にするために、自分の身体機能を衰えさせないように使い続けることは、そのまま認知症予防にもなるということですね。
もちろん、認知症を完全に予防できるという保証はないのですが、身体を使い、頭を使い続けることは、予防のために大事なことではないかと思います。


一人暮らしの人がいよいよ衰えてきたら、選ぶ選択肢は、ふたつです。ひとつは、自宅で死ぬことであり、もうひとつは、高齢者用施設(種々の老人ホームや高齢者用賃貸住宅など)に入所することです。
 そこで、どこまで低下すると入所を決断するかというアンケートを独居の方々から頂きました。
@独力でトイレに立てなくなったとき
A自分の力で食べ物を口に持っていけなくなったとき
B買物が自力でできなくなったとき
 という3つの回答が多かったと思います。
」(p.190)

やはりひとり暮らしの方でも、自力で生活ができなくなると、他に頼りたくなるのでしょうね。
けれども、病院はいつまでも入院させてくれません。ですから、ホーム入所を考えるのだと思います。

私は、Bは論外です。なぜなら、介護保険でカバーできるからです。Aは、食べなければよいだけですから、心配していません。
問題は@です。尿意を感じないだけならおむつなどで対処できますが、着替えもできなければ自分の尻も拭けなくなったら・・・。
私は、もう食べることも飲むこともやめて、即身仏になるという方法もあるな、などと考えています。実際にどうするかは、わかりませんけどね。


また、自宅や病院で、身寄りもなく、最期を迎えたときは、どうなるのでしょうか。
 大阪府四条畷市の場合は、市が資産を調べ、3親等以内の身寄りを徹底的に探します。その上で、身寄りがおられないことがわかれば、市の方で、対応することになります。
 まず、病院や自宅から、直接、火葬場へ移送され、荼毘(だび)にふされます。その後、共同墓地ですが、しっかりと祀ってもらえます。
」(p.197−198)

本人の資産があるなら処分され、必要経費を差し引かれて、国庫に返還されるそうです。このように、日本国内であれば、死後の処分は最悪、行政がやってくれます。だから、独居でも何も心配しなくていいのです。


独居者全体の満足度は、同居者全体の満足度に比べて、有意に高い値を示していました。そこで、同居者を条件別に検討しましたところ、三世代世帯ならびに家族数4人以上の世帯に属する60歳以上の人の満足度だけは、独居者の満足度を上回っていましたが、悩みの程度は逆に多いという結果でありました。しかも、両者とも統計学的には、有意な差であるとまでは言えません。ということは、同居の中でも、もっとも高い満足度を示した高齢者群でさえ、決して独居者を超えるほど満足して生活されていないのではないかと考察します。」(p.202)

つまり、独居者では、悩みが少ないために、同居者に比べて、たとえ健康意識が低下してきても、満足度が高いことがわかったのです。
 その結果を補完するために、悩みと満足度の関係を調べましたところ、悩みが増えると満足度が低下するという明らかな相関を認めました。
 これらの結果を総合すると、60歳以上の人の日常生活における満足度を左右する主たる要因は、悩みの程度であるということがわかりました。つまり、この悩みをうまく低く抑えることができれば、年齢を重ねても快適な生活が待っていることを意味します。
」(p.203)

以上、すべての結果をあわせて考えますと、いろいろな対外的な活動を活発にし、もし子がおられても、決して同居はせずにひとり暮らしを維持し、できるだけ悩まないようにさまざまな取り組みをしながら、最後まで何でも自分でやり、自分の思いのままに暮らすことが最も理想的な老後の姿であるということがわかります。」(p.204)

これが、アンケート調査の結果から読み取れる結論だそうです。
なお、「健康意識」というのは、自分が健康であると意識しているかどうかという度合いのことですね。


残されたお金は、決して高齢者向け施設に入所するために使ってはなりません。人間誰しも、いずれ彼の地に向かいます。そのときの体の苦しみは、同居でも独居でもホームでも、同様ではないでしょうか。ならば、最期のときまで自分の意思で暮らすことができる可能性の高い独居が、一番、幸せに近い形なのではないでしょうか。
 他人に頼るからだめなのです。人を頼れば、充分な支援がもらえなかったとき、ストレスがたまるのです。もともと何も期待していなければ、もし少しでも援助をもらえたら、とても感謝する気持ちが出てきます。気分良く、満足した日々をおくる確率を高めることができるはずです。
」(p.209)

高齢者施設に入所して高いお金を払うのはもったいない。そういう施設で働いている私には耳が痛いことですが、現実には同意せざるを得ません。私自身、いくらお金があっても、そういう施設に入りたいとは思いませんから。


年老いても、老いる前でも、やはり重要なのは「自由」なのだと思います。無用に制限されたくはないのです。
家族であっても、離れて暮らしていればどうでもよいことを、同居していたら気になってしまって口出しをすることがあります。それがストレスになるのですね。

もちろん、同居していても互いの「自由」を認め合える関係であれば、独居より快適な生活ができると思いますよ。ただ、今の多くの人の他者依存の姿勢を見ると、まだ現実的ではないのかなぁと思います。
したがって、次善の策として、独居を貫くことは、有望な選択肢ではないかと思いました。

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タグ:辻川覚志
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2022年03月16日

ここまでできる自衛隊



ロシアがウクライナに攻め入り、戦争が始まりました。そういう時期に合わせたわけではありませんが、我が国の防衛を考えるのにふさわしい本と出合いました。
どういう経緯で買ったのかは忘れましたが、自衛隊の行動が法によって厳格に縛られていること、まただからこそ法整備が重要であることを知る上で、大変役立つ本かと思います。

著者は国際法・防衛法制研究者で軍事ライターでもある稲葉義泰(いなば・よしひろ)氏です。専修大学在学中の2017年から軍事ライターとして活動されているとのこと。随分とお若い方なのですね。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

しかし、一九一四年に勃発した第一次世界大戦によってもたらされた未曾有の被害を受けて、国際社会において徐々に戦争を行うことを制限したり、違法化したりするための努力が進められることとなりました。その成果の一つが、一九二九年に発効した「不戦条約」です。」(p.23)

国際社会では永らく、切り取ったもの勝ちの帝国主義的な侵略、植民地化が行われていました。それに歯止めをかけたのが、第一次世界大戦と、その後の国際社会のコンセンサスだったのですね。
しかし、この時点では「戦争」は禁止するものの、「武力の行使」は禁止されていない、という抜け穴的な解釈を生むことになりました。宣戦布告などをすれば「戦争」であり、そうではない武力行使は「戦争」ではないという解釈です。

その結果、人類は第二次世界大戦というまさしく世界規模の戦争を経験することとなり、国家が武力を行使することに対するさらに強固な規制を設けることにしました。

 それが、国際連合(国連)の基本文書であり、国連加盟国の権利や義務、さらに国際社会の諸原則について定めている国連憲章の第二条四項の規定です。
」(p.26)

これは、「戦争」だけでなく、「武力による威嚇又は武力の行使」を禁止するという国際条約であり、国際法なのです。日本国憲法の第九条も、この精神が反映されています。

しかし、これにも抜け穴があったことは明らかです。自衛のためと称して、その後も数々の戦争が起こっており、今まさにウクライナ戦争も勃発しているのですから。

しかし、だからと言ってこの人類の取組みをすべて否定する必要もないでしょう。少なからず前進していると捉えるべきです。
そうであれば、このウクライナ戦争においても、機能しない国連の取り決めを見直すきっかけにすべきではないかと思います。


本書ではこの後、自衛隊の行動に関する様々な法を取り上げ、何ができて何ができないのか、身近に起こる事例をたとえ話としながら説明しています。
それが必ずしもわかりやすいとは言えない部分もありましたが、少なくともそういう事例がなければ、面白みのない固い内容の本になっただろうと思われます。

たとえば隣国が尖閣諸島に上陸しようとした場合、どういう法がどう適用され、自衛隊は何ができるのか? どこまでできるのか? というようなことが示されています。

ただ、それでも多くの問題点があるはずなのですが、そういう視点での記述は少ないように思いました。


たしかに、考えてみれば日本国内で一般の人々が自衛隊の姿を目にするのは災害派遣が圧倒的に多く、被災地における自衛隊の活躍がテレビで報じられるほか、最近ではSNSの普及によって、さまざまな被災地の現場で活躍する自衛官の姿を目にする機会が多くなってきたことは間違いありません。しかし、本書でも触れたとおり、災害派遣は自衛隊の任務の一つとはいえ、あくまでも自衛隊の主たる任務は創設当時から一貫して「我が国の防衛」なのです。」(p.345-346)

アンケート調査で、国民が自衛隊に第一に期待しているのは災害派遣だという結果が出ました。戦争に直結しかねないことには、防衛とは言っても慎重なのでしょう。
稲葉氏は、そこにもやもやしたものを感じて、この本を書いたと言われます。つまり、やみくもに戦争に突入するような組織ではなく、法によって厳格に縛られた組織なのだということを、知らしめたかったのだろうと思います。


まあしかし、多くの人はこういう本は読まないと思います。どれだけわかりやすく解説したとしても、専門的と捉えられるでしょうから。
それに多くの人は、イメージで理解するものです。だからプロパガンダに容易に影響を受けてしまうのです。

なので、稲葉氏が意図したような結果にはならないと思いますが、1つの試みとしては評価できるのではないかと思います。
私自身、自衛隊が法によって縛られていることは認識していましたが、具体的にどう縛られるのかは知りませんでしたから。ある程度わかっている人には、役立つ内容ではないかと思います。

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タグ:稲葉義泰
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2022年03月07日

医者に寿命を縮められてはいけない



著者の石原結實(いしはら・ゆうみ)医師の本は、これまでに何冊も紹介しています。
最近紹介した本としては「体温を上げて健康になる」があります。また、石原医師の療法によって末期がんが治ったと言うムラキテルミさん「世にも美しい癌の治し方」も関連本と言えるでしょう。

今回の本も、これまでとほぼ同様の内容になっていました。ただ、知的生きかた文庫の体裁で、見開き2ページに1つのテーマでまとめる、というスタイルになっています。それが全部で82(他にコラムも)あって、どこからでも好きなだけ読めるという感じです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

もし、これらの老廃物が、尿や呼気、便、目くそ、鼻くそ、汗などを介して体外に排出されなかったら、汚れは血液に乗って全身をかけまわり、細胞・臓器を薄い毒ガスの中に入れたように、徐々に害していくでしょう。
 また血液中のコレステロール、中性脂肪、糖、タンパクなども、過剰であれば「血液の汚れ」となります。
」(p.18-19)

体の本能は、血液の汚れを何とか除こうとしますが、西洋医学ではその反応を抑えようとするため、病気がなかなか治りません。血液の汚れである老廃物や余剰物は、食べすぎ、運動不足、ストレス、冷えなどの日々の生活の中で蓄積していくのですから、健康になるにはまず血液を汚さない生活習慣にする必要があるのです。」(p.19)

石原医師の考えは、西洋医学は身体を全体として捉えておらず、症状を病気と捉えて、かえって身体を害しているということです。これは「万病一元、瘀血(おけつ)(血液の汚れ)から生ず」という言葉にあるように、東洋医学の考え方こそベースにすべきだ、というところから来ているようです。


冷えと食べすぎによって白血球の動きは鈍り、免疫力が落ちてしまうのです。
 白血球の働きを知れば、病気のときに、無理やり栄養をとって元気になろうとするのは逆効果だとわかります。断食が免疫力を飛躍的に高めるのは、食べ物の補給を断ち切られた白血球が、病気の原因となる老廃物やウイルス、病原菌、アレルゲン、ガン細胞などを思う存分に食べてくれるからです。
」(p.23)

白血球は貪食(どんしょく)細胞とも呼ばれ、身体に不要なものを食べることで健康を保ってくれています。これが免疫力の中心です。そうであるなら、白血球の働きを活性化させるためにも体温を上げ、余分な栄養を摂らないことが重要なのです。

石原医師は癌の治療法としてニンジン・リンゴジュースを勧めていますが、これを飲むと白血球の貪食能が50%も上昇したという実証例があるそうです。
ただこれについては、私はまだ何とも言えません。科学的に検証されたとまでは言えないし、そのメカニズムも不明ですから。それに断食が効果があるなら、ニンジン・リンゴジュースも飲まない方が良いに決まっているではありませんか。そこに矛盾を感じるのです。


あらゆる病気の原因は、体内・血液内に、老廃物と余剰物を「ためすぎること」、そして病気を治すには、「排せつすること」につきるわけです。汗や涙も含め、体外に排せつされるものには、「ありがたい」と感謝する気持ちが大切でしょう。
 健康の原則である「出す」ために、もっとも大切なのが「少食」と「発熱」です。
 もともと人体には、「吸収は排せつを阻害する」という生理上の鉄則があります。食べすぎると消化器官が大量の血液を必要とするため、排せつ器官である大腸・直腸、腎臓・膀胱などへの血のめぐりが悪くなり、十分な排せつがなされません。
」(p.25)

排泄が重要だということですね。ただ、なぜ少食と発熱が排泄を促すのか、この説明ではよくわかりません。それに、食べ過ぎると排泄器官が働かなくなるというのも、自分の身体のことを考えると疑問です。
食べることによって胃腸が動き、排泄したくなることってありませんかね? 朝一杯の水を飲むことで排便を促すという考えもありますから。


しっかりと健康指導を受けたグループのほうが、死亡率がずっと高かったのです。心疾患で亡くなった人は二倍、ケガや薬の副作用などの外因死ではじつに一六倍、総死亡数でも一・五倍にも及びます。この調査結果は、マスコミで「フィンランド症候群」と呼ばれ衝撃とともに受け止められました。
 フィンランド症候群は、ストレスが人の体に及ぼす役割を如実に物語っています。
」(p.31)

1970年代にフィンランドで行われた研究で、40〜50代の循環器系の病気の危険がある患者を2つのグループに分け、一方には綿密な健康診断や指導を行い、もう一方は自己判断に任せたのだそうです。その結果は、予想に反して指導した方の死亡率が高かったのだとか。
石原医師はその原因を、過度な干渉によるストレスだと考えているようです。特に免疫細胞の中のナチュラル・キラー細胞の働きを弱らせたのではないかと。


かつては中高年特有の症状だった高血圧や動脈硬化、糖尿病、心臓病、高脂血症などの「成人病」は、いまや子供や青年にも増えてきたため「生活習慣病」と呼ばれるようになりました。半世紀前の子供の体温は三六・八〜三七℃が普通でしたが、いまでは、三六℃に満たない体温の子供が約四〇%を占めます。体温低下は老化の特徴であることからも、子供たちの体に老齢化の波が押し寄せていることがわかります。」(p.35)

前半は納得するのですが、後半にやや疑問があります。体温低下が老化の特徴というのは、何となくそうかなぁと思うものの、あまり実感できません。
と言うのも、私が働く施設のお年寄りたちは、たいてい36℃以上の体温があり、36.5℃くらいある人が多いからです。でも、健康とは言えないんですよね。まあ、それは老化だと言うことかもしれませんが。


しかし、出血を「悪いこと」と決めつける前に、なぜ出血をしなければならないのか考える必要があります。「万病一元、瘀血より生ず」という漢方医学の理論に立てば、出血も血液を浄化するため人体に備わったメカニズムと理解できます。
 洋の東西を問わず古くから行われてきた民間療法の一つに、「瀉血(しゃけつ)」があります。
 ヒルなどの吸血動物に血を吸わせたり、血管を切開して汚れた血を人為的に抜く療法で、降圧剤のない時期の日本では高血圧や脳溢血の治療に活かされていました。
」(p.38)

また男性は生理がないからといってがっかりすることはありません。定期的に献血して「瀉血」を行えば、骨髄が刺激されて血液の産生能力が高まります。献血は自分も他人も助けられる、一挙両得のチャンスといえるでしょう。」(p.39)

喀血や下血など、出血を伴う病気がありますが、それらは血液を浄化しようとしているのだ、ということなのですね。それを人為的に行うのが瀉血で、新たに新鮮な血液を造ることで、血液全体の汚れを薄める作用があると言うのでしょう。
そして女性は生理によって、毎月のように出血している。これが女性が長生きな理由だと石原医師は言います。

そういうこともあるのかなと思います。献血で血を抜けば、造血機能が刺激されることは間違いありませんから。なので私は、積極的に献血をしています。


昔から日本には「湯治」という習慣がありました。風呂で体を温めると、人間の体を構成している六〇兆個の細胞から「HSP(ヒート・ショック・プロテイン)」というタンパク質が産生されます。このタンパク質によって、細胞内の古いタンパク質はよみがえり、白血球による免疫力が強化されるのです。」(p.41)

ガン細胞は熱に弱く、39.6℃で死滅するのだとか。また、ウイルスや細菌と戦うために発熱することからも、体温を高めることは何らかの良い結果をもたらすと思われます。
ただ、それが劇的な効果をもたらすかどうかはわかりません。日本のように風呂につかる文化がない人々は多数いて、必ずしもそれで寿命が短いわけではありませんから。


しかし、「食べたくない」という本能の声は「食べても胃腸は十分に働けない」という体からのサインでもあるのです。無理して食べると、十分な消化・吸収ができず、体内に老廃物が増えて、病気が治るどころか逆効果になります。
「食べることで体力がつく」のではなく、「体力があるから食べることができる」のが本当だからです。
」(p.42)

体力が弱った時に動物は食べません。それは食べられないからでもあるのですが、食べないことで元気になろうとしているとも言えるのですね。


肉は、肉食動物の栄養源であっても、草食動物にとっては何の栄養にもならないどころか、むしろ有害です。」(p.49)

食べ物の好き嫌いは、病気を予防し、健康を維持・増進させるための体の本能的な反応と考えてよいのです。」(p.49)

動物は、自分が食べたいものだけを食べます。栄養があるからと言って、無理して食べたくないものを食べたりはしません。
そうであれば人間も同じように、食べたいものを食べれば良いということです。体の声に素直に従うこと。それが大事だとも言えますね。


数日以上の断食をすると、吐く息は悪臭を放ち、体臭も強くなります。また、舌に厚い舌苔(ぜつたい)が現れ、濃いタンが出て、目ヤニや汚い鼻汁、濃い尿や真っ黒な便も出るという、排せつ現象のオンパレードが始まります。体にため込んできた老廃物や有害物質を一気に体外に排出することで、見違えるように元気になるのです。」(p.81)

石原医師は断食や少食を勧めておられます。それは、入ることより出すことを重視するからです。


動物性タンパク質を食べて自分の筋肉や心臓を形づくっている細胞のタンパク質をつくろうとするのは、たとえていえば、既製服をほどいてつくり直すのと同じで、ぴったり自分に合う細胞ができません。洋服は生地から仕立てたほうが自分に合うに決まっています。よって、私たちの体の細胞をつくるためには、まだ動物としての特性をもたない植物性のタンパク質(生地)のほうがより適しているわけです。」(p.89)

石原医師はこう説明しますが、ちょっと論理性に欠けますね。では肉食動物はなぜ肉を食べて健康でいられるのでしょう?
人間が動物性タンパク質を食べることの是非は、何とも言えません。しかし、この論理では的確に説明できているとは言えないと思います。


本能を無視して、「あれがいけない」「これをするべき」と、いろいろ指図すると、無理がかさみ体が悲鳴を上げます。何が正しいかは、すべて体に聞けばわかることですが、知識が邪魔して、なかなか「体の声を聞く」ことができません。大切なのは本能をよみがえらせ、本能にしたがうこと。そのためには、自分の体質が陰性なのか陽性なのか、自分の祖先はどんな土地で何を食べて体をつくってきたのか、動物としての本質は何かなど、「己を知る」ことが一つの手がかりになるでしょう。」(p.129)

自分に合う薬かどうかという項なのですが、本能に従うということ、体の声を聞くということが重要だという前段は納得できます。
しかし、そうであれば、一概に動物性タンパク質がよくないとは言えないでしょう。その人が自分の体に尋ねて決めればよいことです。
そして後段は前段と矛盾します。自分の本能に従えと前段で言いながら、そのために陰性体質か陽性体質かを知っておくことだとか、先祖が何を食べてきたかを知るべきだとか、矛盾していますよね。

石原医師は、東洋医学の見地から話をされるのですが、東洋医学が正しいという思い込みがあるのではないかと思います。
もちろん間違っているとは言いませんが、「東洋医学が正しい」を前提として、それを示す事実や論理だけを拾い集めている感があるのです。


しかし、よく考えてみると、バイ菌はゴミため、肥だめ、ドブ川、死骸などの汚いところにうようよと生息していますが、清流やコバルトブルーの海の中にはほとんどすんでいません。なぜなら、バイ菌は、地球上の余剰物、不要物、死骸などを分解して清浄化し、土の中に戻す使命を担ってこの世に存在しているものだからです。そうしたバイ菌が体内に入って来て、肺炎、気管支炎、膀胱炎などの炎症を起こすというのは、すなわちその人の血液(体内)が汚れていることの証でしょう。」(p.130)

これは一理ありますね。ただ、栄養が豊富であることが汚いことと同じなのかどうかは、一概には言えません。
生きている人の身体には免疫力という防御システムがあるから細菌が繁殖できないだけで、死骸には免疫力がないから繁殖できる。物質的には、生きている体も死骸も同じものではありませんか。


世界的な長寿学者であるボストン大学のトーマス・パールズ教授は、一〇〇歳まで生きる条件の第一に、「少しの毒は、生命を最大一五年伸ばす」としています。その毒とは「放射線(X線)」「紫外線(日光)」「アルコール(酒)」の三つです。」(p.138)

放射線も少量であれば人体に悪影響がないばかりか、逆に良い影響がある。それが広島長崎の被爆者の追跡調査でも明らかになったとあります。
アルコールもたしかに人体にとっては毒であり、だから肝臓で分解されます。しかし、それによるメリットがあることもたしか。何ごとも一概には言えないのですね。


健康を保ち、老化を防ぐには、全身の細胞への血流をよくすることが何よりも大切です。私たちはお腹が痛いときはお腹に、腰痛があるときは腰に、無意識に手を当てます。これは患部に手を当てて温め、血流をよくして症状や病気を治そうとする本能的なしぐさなのです。この「お手当て」こそ「治療」の本質といえるでしょう。」(p.143)

これがまさにレイキですね。しかし、どうして手を当てることが患部を温めることが主目的だと言い切れるのでしょうね?
こういうところも決めつけが多いなぁと感じてしまいます。


皮ふにすむ黄色ブドウ球菌は、ダニや化学物質から皮ふを防御しますし、腸内の常在大腸菌は、食物と一緒に侵入してくる病原菌をやっつけます。よって、抗菌グッズや消毒剤、抗生物質などで、こうした有益菌を殺すと、菌交代現象が起こり、さまざまな新種の病原菌が現れてくるのです。」(p.170)

人間の腸の中には百兆個もの細菌がすんでいますが、それは人間という生物と細菌の「共生関係」を示しています。それにもかかわらず、抗生物質で細菌を無差別に殺戮した結果の、細菌の逆襲がO-157食中毒であったかもしれません。
 健康のためにその「共生関係」を保つには、食物繊維をしっかり摂る、お腹を温める、食べすぎ(とくに肉食の過食)を避ける……などを心がけるといいでしょう。
」(p.171)

人体の健康が細菌によって守られていることは、徐々に知られるようになってきました。ですから、むやみに殺してはいけない。たしかにそうだと思います。
しかし、そのためにどうして食物繊維を食べ、肉食をやめ、お腹を温めるになるのでしょうか?

たとえば西洋人は肉食に合うように進化して、腸が短くなったと言います。そうであるなら日本人だって、これから肉食が増えていけば腸が短くなって適応するとも言えるはずです。
また、人間の歯の構成から食べ物の割合が決まるとも言われてますが、それなら西洋人と日本人とで歯の構成が同じなのはどうしてでしょう?

どうもこういう根拠のない決めつけには納得しがたいものがあります。


この「本能」こそが、自然治癒力の原点であるべきです。科学が忘れがちな、人間の中の自然や本能に根ざしたサインを一番重要視してほしいと思います。人それぞれがもっている本能を大切にすることが、自然治癒力を呼び覚ますのですから。
 この本に書かれていることも、実行したり、考えたりして、「どうも自分の体質に合わない」と実感されたら、無理をして続ける必要はありません。あくまでも「自分の本能」と「自分の体の自然に発現するサイン」を一番大切にしてほしいわけです。やってみて気分がよい、気持ちがよいというほうが、自分にとってつねに正しい選択なのです。
」(p.181)

こういうところは共感します。


日常の診察で気づくことは、「単純明快で明るく朗(ほが)らかな人、些細なことにこだわらない人」はガンにかかりにくく、かかっても、再発や転移も少ないという印象があります。反対に、「頑迷で、物にこだわりがあり、抑うつ気質の人」はガンが治りにくいようです。「精神の安寧」は、ガンを予防・治癒する何よりの薬なのでしょう。」(p.193)

精神が肉体に影響することは、科学的にも実証されています。不安が病気を作るのです。


この本は、最初にも書いたように見開き2ページで1つのテーマとなっています。そういう制約があるためか、あまり根拠を示さず言い切る表現が多いように感じました。
もちろんそれは編集の方針もあったでしょうし、そうした方がわかりやすいとか、浸透させやすいという効果を狙ったものかもしれません。
なので、私としては納得がいかない部分も多々あるのですが、全般的にはこれまでの本と同じような内容であり、支持できる部分が多いと思っています。

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タグ:石原結實
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 09:00 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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