2023年07月30日
女性たちで子を産み育てるということ
何を見て買おうと思ったか忘れましたが、同性婚が話題になっている昨今、興味深いテーマだと思いました。サブタイトルに「精子提供による家族づくり」とあるように、いわゆるレズビアンカップルが子どもを産み育てるということの現状と問題点を探ったものになっています。
著者はいずれも研究者の牟田和恵(むた・かずえ)氏、岡野八代(おかの・やよ)氏、丸山里美(まるやま・さとみ)氏の3人です。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「子どもの家族を見ていると、たいていの場合、あれこれと子の世話を焼くのは母親で、父親は知らん顔ではないまでもちょっと離れて母子を見ている、という構図がよくありますが、母親二人の家族ではそうではありません。二人ともが子を気遣い協力し合ってかいがいしく世話をしているようすからは、子どもへの深く篤い愛情が溢れんばかりに感じられます。」(p.14)
「そして、自分は一人ではなく、妊娠出産と子育てをともに担おうとする信頼できるパートナーがそばにいて、「妊活」をサポートしてくれるし、周囲の仲間たちも励ましてくれる。
これは、シングルで子どもをもとうとする女性にはなかなか得難い環境でしょう。ただし、後で詳しく述べるように、ここで決め手なのは、「レズビアン」であるという性的指向ではなく、信頼しあい生活をともにするコンパニオンシップ、すなわち、ともに子育てをしていこうという意欲のほうのように思えます。」(p.16-17)
母子家庭というのは、母親が仕事と子育ての両方を行わなければならず、大変だなぁというイメージはあります。では、異成婚のカップルだとどうかと言うと、最近でこそイクメンなどと言われて父親が子育てに関与することが増えていますが、やはり主体は母親だと言えるでしょう。
これがもし女性同士のカップルだと、2人して同等に子育てに関与することが多く、異成婚カップルとはまた違った感じになるようです。
「しかし、この治療が受けられるのは「婚姻関係にある夫婦間のみ」です(日本産科婦人科学会のガイドラインによる)。シングルの女性、女性がパートナーである女性は、日本ではこの医療による「恩恵」はうけられません。」(p.18)
AID(非配偶者人工授精)に関してです。つまり夫に問題があって妊娠しない場合、他者の精子をもらって妻が妊娠するように、医療的な行為が行えるのです。
他の国では、異性夫婦以外でもこの医療が受けられる場合もあるとか。こういうところにも、日本はまだ異性カップル以外は認めない、シングルマザーは許されない、という価値観がはびこっていることが見られますね。
「そこで日本では女性カップルたちは、なんとか「自力」調達を行います。
よくとられている方法は、まず、ゲイの友人からの提供。」(p.20)
LGBT仲間という人間関係もあり、ゲイ友だちから精子を提供してもらい、注射器の針のない形のシリンジなどを使って精子を膣内に注入するというやり方で妊娠するそうです。精子の確保方法は他に、インターネットでドナーから精子を提供してもらう方法もあるのだとか。
「母子世帯向けの制度以外にも、保育園や学童保育の利用料などは、世帯所得に応じて異なるため、女性カップルの場合には、同一世帯としては認められないnbmの所得がカウントされず、bmの所得のみが算定されます。その結果、婚姻カップルや事実婚カップルと比べて利用料が安くなることもあります。
こうしたことについて、「ずるい」とか「不正だ」という向きもあるでしょう。しかし女性カップルは、男女の婚姻カップルや、男女の事実婚カップルがあたりまえのように利用できる制度を利用できないために、より多くの不利益も受けています。」(p.31-32)
「現在、パートナーシップ制度を導入している自治体が増えてきています。これを利用すれば、医療機関で家族として対応されたり、市営住宅に家族として入居できる、住民票の続柄をたんに「同居人」ではなく「縁故者」と記載できる、企業によっては賃貸住宅を借りる際や保険に入る際、携帯電話の「家族割」などにそれを考慮するなどの内容を含む注目すべき取り組みで、全国に広がっていってほしいものですが、残念ながら法的効力はなにもありません。パートナーシップ制度は結婚制度とはまったく異なるもので、婚姻カップルや、一部は事実婚カップルに求められている社会保険や税金、遺産相続上の利点はなにもないのです。」(p.32)
本書では、子のある女性カップルの子を産んだ側をbm、産んでいない側をnbmと略して区別しています。
同じ子のある家族でありながら、異性カップルと同性カップルでは扱いが違うという問題があります。この差別状態を緩和するために、自治体によってはパートナーシップ制度を設けているところもありますが、十分ではないようです。
私は、いっそのこと法律で結婚と同等の権利と義務を認めるパートナーシップ制度を作れば良いと考えています。そうすれば、現行の結婚制度や戸籍制度を変更することなく、もちろん憲法も改正せずに、実質的に同性婚を認めることができるからです。ついでに、夫婦別姓制度の実現にもなりますね。
「そうではなく、実際の理由の第一は、ご近所づきあい自体がそもそもほとんど皆無なこと。
日本で話をきかせていただいた女性たちの多くは、住宅密集地域のマンションに住んでいたのですが、マンションのお隣をはじめ、近所との付き合いはほとんどなし。」(p.37)
レズビアンカップルということで白い目で見られたりすることは、日本ではあまりないようです。それは日本人が精神的に優れていて、差別意識がないからと言うより、単にご近所さんに関心を持たない生活スタイルが定着しているからでした。田舎だと、また事情が違ってきそうですね。
「自分たちでもそうなのですから、日本社会では、女性が二人、手をつないだり、寒い時であれば相手のポケットに手を入れたり、とても親しげにしていても、公然とキスでもしない限り、「女性カップル」、「レズビアン」とみられることはそれほどありません。ただの「友達」か姉妹、カップルの年齢差によっては「母娘」。
これは、一面では、欧米社会のように「カップル」が社会の単位とはみなされておらず、女性同士の関係がいちいち性的に見れることないという点で「自由」ではあるのですが、同時に、女性たちの関係、レズビアン関係が社会的に無きものとされていることの裏返しでもあるでしょう。」(p.39)
日本ではまだレズビアン関係が社会的に認知されておらず、仮にそういう人たちが目の前にいても、まずは親しい友人、姉妹、母娘のような、自分がそう見たい関係として見られてしまうのですね。
「「父」と考えるならばその人物はどのような人かと「出自」を知りたくもなるでしょうが、あくまで「タネ」「精子提供者」として子どもの頃から理解していれば、「その人物」は誰だろうとまで考えるでしょうか。「子どもは出自を知る権利がある」というのは、「子どもは実の父と母から生まれる」という考え方があまりに自明なところからの発想かもしれません。」(p.80)
「養子の場合「実の親」を捜そうとする傾向があるのは、産みの親が自分を「捨てた」理由が気になるためか、何かが欠落しているという気持ちが起こりやすいのに対し、レズビアンの子の場合は、望まれて家族のもとに産まれてきているので、自分の何かが欠落しているという気持ちにならないのでは、とリルは語っていました。」(p.96)
AIDに関する問題の1つとして、子どもが自分の遺伝的な父親を知りたいという権利をどう扱うかという問題があります。しかしこれは、自分が愛されて生まれたのかどうかを知りたいというだけで、必ずしも精子提供者を特定したいわけではないと言えるかもしれませんね。
「ドッティたちが言うには、両家の家族は今は自分たちのことを完全に受け入れ、尊重してくれている。でも敬虔なカトリック信者なのでメンタリティとしては受け入れるのが難しいのだ、と。そんな風に完全に理解受容してくれないことをどう思うか、とキャシーに質問すると、それは彼らの考え方だから尊重する。彼らは私たちの考えを尊重してくれているのだからそれでいい、という答え。愛し合いながらも互いの価値観を尊重するということなのでしょう。」(p.82)
「ラファエラとラディカは、子ども二人に洗礼していませんし、教会にも行っていません。ラファエラは子ども時代に両親に連れられて毎週教会に行っていましたが、一〇代後半で行くのをやめました。彼女たちは、教会のことはまったく気にしていないから教会に変わってほしいとも思わない、とはっきりと言っていたのは印象的でした。保守的なカトリックの規範の裏で、社会は変化しているのだ、と。」(p.92)
同性の性的な関係に否定的なカトリック信者の場合、信仰とぶつかるだけに大変なところがあるようです。
しかしこのことによって、自分の信念や価値観を疑ってみることができるし、信念や価値観は人それぞれだと受け入れられるようになるとするなら、悪いことではないとも言えますね。
「ネガティブな反応を怖れてサビネはシモンに対して、友達に言わなくてもいいよ、と言っていたそうなのですが、アメリカのTVドラマ Modern Family(養子をとって子どもを育てているゲイカップルなど、多様な家族が登場する)の人気などもあり、子どもが友人たちから家族のことでいじめられることはないようです。」(p.93)
親がLGBTということでは、子どもはいじめに合うことより、むしろクールだと思われることが多いのだとか。TVの影響は絶大ですね。
「さらに補足しておけば、札幌地裁判決でも触れられているように、当時は異性婚のみが想定されていて、同性婚は想定されておらず、したがって、想定すらされていないものを禁止していると考えることはできない。
以上のように二一世紀に入っても、憲法を誤読・曲解してまで強固に異性婚にこだわり、選択的夫婦別姓すら認められず、強かんでさえ婚姻間では犯罪と認められてはこなかった現状は、日本社会の根幹にあるジェンダー問題を象徴しているといえよう。」(p.161-162)
憲法にある両性による合意で結婚できるという規定は、当時の親が無理やり結婚させるという風習を改めさせるものであり、同性婚の禁止規定ではないことは明らかです。ただ、現在の価値観とは食い違いが生じてきているのも事実で、憲法改正をさっさとやったらいいのにと思います。
「合衆国−−そして、日本も−−の現状は、依存関係に必要な財や労力を配分するどころか、家族はこうあるべきだと命じる家族イデオロギーと、それに付随する、ときに懲罰的な制度と優遇政策を巧みに利用している。そこでは、ひとが物質的・感情的ニーズを満たそうとするさいには、家族へと退却し、妻・夫や子・親といった関係にあるひとだけで育み・支え・成長の基盤を与え合うべきだと強調され、それに従う者たちは、税制や社会福祉政策を通じて特権を与えられている。こうした制度が問題なのは、非規範的家族を逸脱家族として社会的に貶めるからだけではない。依存を必要とする者は家族内で支えられるべきだという規範に忠実な人びとは、じっさいには家族内で支えきれない者たちがいかに社会に溢れていようとも、その現実から目を逸らすことも許されてしまうからだ。」(p.174)
政府が考える規範的な家族観を国民に押し付けているのです。違う価値観を持つことを許さず、そういう人を社会から抹殺してしまうことを容認する仕組みなのですね。
こういう家族観の押しつけによる弊害は、老人介護の問題でもありました。嫁に全責任が押し付けられてきたのです。しかし、それではどうにもならなくなって、介護保険制度を作り、老人介護を家族の問題から社会の問題へと切り離したのです。
子育ても同様ではありませんかね。異次元の少子化対策と言うのであれば、家族の問題から切り離し、社会の問題とするよう制度改正をすべきだと思います。
「夫婦間のAIDによる生殖補助医療は何十年も前から行われていますが、これはあくまで、「不妊の男性」から「不妊の負い目」を取り除き後継ぎを得るための、男性への補助医療。施術は女性に行われ女性が妊娠出産しますから、見過ごされやすいのですが、男性の生殖の補助であり、それに大学病院も産科婦人科医たちも挙げて協力してきたのです。
それに対して、シングルマザー、とくに未婚シングルマザーへの差別的視線も一例ですが、女性が、自分たちのために、子をほしいという気持ちに、社会も医師たちもなんと冷淡なことか。これはやはり、女性に生殖の決定権や選択権を渡すわけにはいかない、という意思の表れなのではないでしょうか。」(p.191-192)
たしかに、結婚はしたくないけど子どもはほしいという女性はいますよね。異次元の少子化対策を言うのであれば、少なくともAIDを希望する女性に対して認めてはどうでしょうね。
本書は、子を持つレズビアンカップルに的を絞って聞き取り調査した内容から考察したものとなっていますが、現在の社会や制度のいろいろなことが見えてくるように思いました。子を産むとはどういうことなのか、結婚とは何か、親子とはどういうことなのか、などなど。
ぜひ、こういう本を読んで、これまでの価値観が本当に良いと思うのかどうか、考えてみるのもいいのではないかと思います。様々な価値観を持つ私たちが、そして私たちの子孫が幸せに暮らすには、社会がどうあるのがよいのか。ぜひ、考えてみてください。
2023年07月24日
パワーか、フォースか
もう1年前になりますが、友人から紹介されて購入した本になります。それから1年、ずっと積読状態でした。やっと読んでみようかという気持ちになり、読んでみました。
著者はスピリチュアル的なことを研究しておられるデヴィッド・R・ホーキンズ氏。翻訳はエハン・デラヴィ氏と妻の愛知ソニア氏です。
はっきり言って、けっこう難しいです。一応読み終えましたが、詳細部分はよくわからないので、常に本質は何かという視点でのみ読み勧めました。
要は、キネシオロジー(Oリングなどで知られる)を使うことによって、知覚できない真実を知ることができ、それによれば、この世はこうなっているよというような話かと思います。
ただ、私の知識に照らしても、ここで語られていることは深い真理だなぁと思いました。なので、安易にはお勧めしませんが、良い本だと感じました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「『各々の人間の心は、巨大なデータベースに永遠に接続されているコンピュータ端末のようなものである。そのデータベースは人間の意識そのものであり、そこで起きる我々自身の認識は、単なる個別の表現にすぎない。しかし、そのルーツには、全人類が共有する意識の源がある。このデータベースこそ「天才」の領域に属していて、人間であるということがこのデータベースに参加していることである。よって、生まれながらにして人間は「天才」にアクセスできる能力を持ち合わせているということである。そのデータベースには無限の情報が含まれており、誰もが、いつ、どこでも容易にアクセスできるものである。これは実に驚くべき発見であり、個人レベルであれ、集団レベルであれ、アクセスできる情報であり、今までまったく予期できなかった、人生を変えるだけのパワーを生み出すものである』」(p.26-27)
改定前の本書の序文からです。ホーキンズ氏は、本書の重要なメッセージはこれだとして、事前に綴っておられます。
簡単に言えば、人であるというだけで全知全能の神にアクセスできるということです。
「この本の目的は、あなたが読み終わった最後に「私は常にそれを知っていた!」とうなづけることです。そうであればこの本は成功したといえるでしょう。ここに含まれている内容は、あなたがすでに知っていることを反映しているだけなのですが、あなたはそれを自分が知っているとは知りません。そこで私がやりたいと思ったのは、今まで隠れていた絵のパズルのピースが点々と現れて、互いを結びつけることでした。」(p.28)
全知にアクセスできる人間ですから、すべてのことを知っているはずなのです。けれども私たちは、私たちがそういう存在だということを忘れています。本書は、それを思い出させるものだと言っているのですね。
「『パワーか、フォースか』は、人間の精神的進化のもっとも低い表現(恥)からもっとも高い(悟り)レベルにいたるすべての層を、論理的に説得力のある意識の分析として示したものです。本書は、目に見えるものと目に見えないもの、人間、非人間なども含めた存在するすべてのエネルギー的な本質を明らかにすることによって、すべての創造物の一体性を浮き彫りにしています。」(p.39)
本書では、人の意識レベルを数値で表しています。それを論理的に説得力のある分析を行っていると、新しいまえがきでは語っています。
「人間は自分がコントロールできるフォースによって生きていると思っていますが、実際には隠されている源からの制御不能なパワーに左右されています。」(p.60)
タイトルにあるパワーとフォースですが、日本語に訳せばどちらも力になります。では何が違うのか?
これは、本書を読んでいかないとわかりづらいのですが、要はエゴ(顕在意識、理性)によって「◯◯しよう」としてすること、その行為とかエネルギーがフォースであり、そういうものによらずに勝手に起こってくることがパワーと言えるのではないかと思います。
意識のマップ(p.101)というのがあり、「恥」(20)のレベルから「悟り」(700〜1000)のレベルまで、意識のレベルを表しています。このレベルがパワーのレベルとも言えるのでしょう。
「自分自身の知覚によって生じた結果に対して責任を取るにつれ、「自分を打ち負かすものは、外の世界には何もない」という理解が生まれ、他者に責任をなすりつける精神を超越できます。人生で起こる出来事に対して、自分がどう反応し、どういう態度をとるかによって、それらの出来事が人生にポジティブな影響を及ぼすか、それともネガティブな影響を与えるのかを決定します。その経験は、チャンスにもなれば、ストレスにもなるのです。」(p.104-105)
現実の状況や出来事の責任がすべて自分にあると考えれば、現実の犠牲者にはなり得ません。そうであれば、何かをするための前提条件、つまりチャンスでしかないのです。
「歴史全体を見ると、法的措置、戦争、相場操作、法律、規制などの社会問題は、いずれもフォースの力によって、改善しようと試みてきたということに気づきます。しかし、これらの問題をいくら処理しても、同じことがしつこく繰り返されるだけです。個人にしても政府にしても、フォースに基づいた近視眼的な方法では、これらの問題は解決できません。」(p.106)
なぜそういう問題が現実に起こってくるのかということについて、本質的な原因を見極めない限り、対処療法では本質的には解決しないのです。
「測定が示す数字は十進算ではなく、対数を表しているということをよく覚えておいてください。よってレベル300は、150の2倍の範囲を意味するのではなく、10の300乗(10300)のパワーを示しています。ですから、ほんの数ポイント上がるだけでも、パワーは大きな増加を表しています。」(p.108)
「怒り」のレベルは150ですが、そのパワーを倍にしても300にはならないのです。それくらいこの意識のマップに示されたパワーのレベルは、数値が少し上がるだけで大きな違いがあるということですね。
「私たちの社会で、人を操ったり罰したりするためによく使われるのが、「罪悪感」です。」(p.111)
「罪悪感にとらわれてしまうと、結果として「罪」の意識に支配されてしまいます。それは誰に対しても「許さない」という態度をもたらします。また、この感情は、宗教扇動者によって、強制や支配に利用されることがあります。」(p.111)
お勧めしている「神との対話」では、不安と罪悪感は人類の敵だと言っています。他人をコントロールする手段であり、愛の真逆のものなのです。
「200レベルにおいて、初めて「フォース」から「パワー」に切り替わります。
200以下のエネルギーレベルに陥っている被験者をテストすると、すべての反応が弱くなるのが簡単に確かめられます。ところが200以上の生命を支えるフィールドでは、誰もが強く反応します。
これは生きることに対してポジティブか、それともネガティブな影響を与えるのかを識別できる臨界点です。」(p.120)
その人がどのくらいのエネルギーレベルかも、キネシオロジーで知ることができるようです。そしてエネルギーレベルが200というのは、「勇気」という言葉で表されるものだそうです。
「「中立」のレベルでは、「さて、この仕事が得られないのなら、また別の仕事でも探そうかな」と言うことができます。これは、内なる自信の始まりを意味します。自分のパワーが感じられると、人は簡単におじけづいたりしませんし、他人に認めてもらう必要もありません。」(p.122)
エネルギーレベル250が「中立」です。他人からどう思われようと、自分を信じ、人生を信頼できるのですね。
「それはここでいう「愛」ではなく、むしろ依存的で感傷的な類のものといえます。そのような関係性には本当の愛はおそらく存在せず、プライドによる憎しみから生じているのでしょう。
500レベルは、無条件かつ不変で永久的な愛の発展によって特徴づけられます。その源泉は外部の要因に依存していないので、決して揺らぎません。
愛することとは、心の在り方です。世界に対して許し、養う、サポート的な在り方です。」(p.128-129)
「愛」のエネルギーレベルは500だそうです。そしてその「愛」とは、多くの人が勘違いしているものとはまったく違うものなのです。
「各々の意識の到達レベルが高ければ高いほど、その人の人生をすべてを変えてしまうほど、もたらすパワーは大きくなります。非常に意識の高い状態を一瞬経験するだけで、目標や価値観も同様に、人生の方向性を完全に変えることができます。今までと同じ人間ではなくなり、その経験と共に新たな人間が誕生すると言えるでしょう。困難な道ではありますが、これこそがスピリチュアルな進化のメカニズムです。」(p.147)
先に示した意識のマップのエネルギーレベルを上げていくこと。それがスピリチュアルな進化なのです。
「テクニックが即座に偽りと真実を区別するので、たとえば加害者は誰かとか、行方不明の人の居場所なども、実際に解決につなげることができます。大きなニュースの出来事に隠されている真実を明らかにすることも可能です。」(p.162)
これは驚くべきことなのですが、キネシオロジーが全知にアクセスするものだという前提なら、まさにそういうことになります。
つまり、人が本当のことを言っているのか、それとも嘘を言っているのか、簡単に見抜けます。また、目撃者が誰もいなくても、そこで何があったのか知ることもできるのです。
「死の恐怖をいったん超越できれば、人生観が変わるほどの経験となります。その理由は、死という特定の恐怖は、他のあらゆる恐怖の基盤となっているからです。」(p.171)
私たちは恐れ(不安)があるから、本来の私たちではない選択を余儀なくされています。その恐れ(不安)の最たるものが死だと思います。
だから、この死の恐れ(不安)を乗り越えることが何よりも重要だと私も考えています。
「世の中の有害なものはすべて、暴露されることによって無害になります。そうであれば、何も隠されたままでいる必要はありません。あらゆる思考や行動、決断、感情は絶えず動き続ける生命のエネルギーフィールドの中で、互いに組み合わさりながら調和をとり、渦を巻き起こしながら永遠の記録として残ります。このことに私たちが気づけば、そのような発見に初めはおじけづいても、その気づきは進化を早めるための飛び込み台となるでしょう。」(p.176)
お勧めしている「神との対話」でも、すべてを見える化する、透明化することを勧めています。
「パワーは生命そのものを常に支えることに関係しています。それは、人間の気高さという性質を訴えています。「気高さ」とは、私たちが「俗っぽい」と呼ぶフォースの領域と相対しているものです。
パワーは私たちを高揚させ、威厳を与え気高くしてくれるものです。フォースは常に正当化されなければなりませんが、パワーは正当化される必要はまったくありません。フォースは部分的なものに関係しますが、パワーは全体に関係しています。」(p.180)
パワーとフォースの違いを対比した文ですが、パワーは存在する「ひとつのもの」に仕えるものだと思います。
この後も対比が続くのですが、フォースは移動しパワーはじっとしている、フォースは対立しパワーは敵対しない、のような記述があります。これは「神との対話」の不安(恐れ)と愛の対比によく似ていると感じました。
「「「フォース」は常に真実の置き換えです。「銃と警棒」は弱さの証です。ちょうど虚栄心が自尊心の不足から生じているように、他人をコントロールする必要性は「パワー」の不足から生じています。罰は暴力の一つの現われであり、「パワー」に代わる効果のない置き換えです。」(p.223)
つまりフォースは恐れ(不安)から他人をコントロールしよう、思い通りにしようと働くのに対し、パワーは愛から他人も自分もありのままで自由にさせるのです。
「どんな宗教でも、原理(根本)主義派は常に一番低く測定され、犯罪の意識と同じ水準で活動していることがわかります。その象徴は、自己中心的な極端主義と非合理性です。しかし人類の85パーセントは、200の臨界点となるレベル以下で測定されるために、間違いは容易に広まると同時に、世界中で受け入れられることになります。」(p.347)
宗教の原理主義というのは、経典に書かれている規律を何が何でも押し付けなければ気がすまないという考え方です。そういう意識レベルは、パワーではなくフォースに傾いているってことですね。
そして宗教そのものが、教祖が表れた時から比べると時代とともにエネルギーレベルが落ちていることが書かれています。こういうのは面白いですね。
「意識のレベルをもっと向上させることは、どんな人でも世界に対して与えることのできる最高の贈りものです。その上、波及効果によって、その贈りものは源に還元されます。何世紀もの間、全体としての人類の意識のレベルは危うくも190に留まり、1980年代半ばに突然204という、希望が持てるレベルまで飛躍しました。今日となって、人類は歴史上初めて上に向かって進み続ける安全な地点に到達しました。」(p.360)
これをアセンションと言うのでしょうか。人類全体のレベルとして200の臨界点を1980年代に超えたと言っています。
「一般的な知恵として、人は天を崇拝するか、地獄を崇拝するかによって、やがてはどちらかに仕える者となります。地獄とは神によって課された状態ではなく、むしろ自分自身が選択したことの必然的な結果です。絶えずネガティブを選択する最終的な結末であり、したがって愛から自分自身を遠ざけることなのです。」(p.366)
お勧めしている「神との対話」でも同様のことを言っています。神が人を地獄に落とす必要がないのだから、そういう意味での地獄は存在しません。けれども人は、その想像力によって地獄を創り出し、地獄を体験するのです。
かなり難解な内容でしたが、スピリチュアル的にはお勧めしている「神との対話」の内容とほぼ一致しているのではないかと思いました。
実際にキネシオロジーによってすべてのことが正確に測定できるのかどうか、私にはわかりません。また本書にも、それが正確だという科学的な根拠は示されていません。
なので、どう感じるかは人それぞれにお任せするしかないなぁと思いました。
かなり難解なので、安易にすべての人にお勧めしたいとは思いません。しかし、真理を探求したいと思われる人は、挑戦してみてもいいのではないかと思いました。
タグ:デヴィッド・R・ホーキンズ 本
2023年07月03日
見えないからこそ見えた光
先日紹介した「あなたに贈る21の言葉」に取り上げられていた岩本光弘(いわもと・みつひろ)さんの本になります。
岩本さんは、弱視から全盲へと移行した後、テレビでおなじみの辛坊治郎さんと一緒にヨットで太平洋横断に挑戦したことで話題になりました。けれどもその挑戦は、出港間もない悪天候の中、鯨と衝突するという不運が重なり、断念することになりました。
失敗に終わった挑戦を、世間は冷たく叩きました。そのことがトラウマになり落ち込んだ岩本さんですが、再度挑戦しようという気持ちになったのです。本書は、その再挑戦の直前に発行されたもののようです。
再挑戦の結果は、すでに知られているようにみごとに成功されました。つまり、成功が確定する前に書かれた本なのです。
私は他で言っていますが、2016年にリストラされました。その時、まだ成功していないどん底の今だからこそ情報発信する意味がある、というように考えたのです。
多くの成功者は、成功した後に、かつての不遇の時代のことを情報発信されます。それでは、成功したから言えるんだろう? と思ってしまいますよね。
どうせなら、まだ成功する前のどん底の時に情報発信して、その後を見てもらえばいいんじゃないか? 私はそう思ったのですが、岩本さんのこの本は、まさにそういう内容だなぁと思いました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介したいと思います。
「そんな時期を過ぎ、次第に自分の障がいを受容することができるようになっていきました。そして、ようやく他人からの援助を受け入れられるようになったのです。
その頃考えたのが、私を助けてくれた人たちが、『あー、いいことをしたな』と思えるのであれば素晴らしいことではないか。見えないという私の存在意義のひとつはそこにあるのではないか、ということでした。」(p.25)
つまり、助けてもらわなければ生きていけないという自分は、助けてあげたいという他の人の役に立っている、ということなのです。
「そういった交流が、障がい者理解につながり、社会にとってもそのきっかけになります。理解できていないというのはどちらかが悪いわけではなく、それまで一緒にやるという接点がなかっただけです。そういう意味でもバリアを破った感がありました。」(p.34)
岩本さんは盲学校の時代、アマチュア無線や英会話、そしてバンド活動をするなど、様々な挑戦をされたそうです。新しいことをしようとすれば、いろいろと壁にぶつかるものです。しかし、その壁は「悪い」と決めつけて責めるものではなく、互いにとって新たなことに挑戦する経験でもあるのですね。
だから私も、障害者とかマイノリティの人々は、もっと社会に出てきてほしいと思っています。もちろん、つらい思いもするでしょうけど、そういう経験の積み重ねでしか、私たちの社会は変わっていかないと思うからです。
「私たち視覚障がい者にとって命取りになる状況は日常茶飯事です。そうやって生活していると、自分自身以外のものに助けられる、その存在に感謝をすることが常にあります。命の大切さ、今あることへの感謝というのを日々感じているのです。生きているのではなく生かされている、こう考える時に人生は豊かになると思います。」(p.53-54)
目が見えないということは、見える人以上に容易に危険に遭遇することになることは想像に難くないでしょう。健常者ならめったに落ちない駅のホームでも、障害者はちょっとしたことで落ちる危険性がある。
でも、だからこそ、何もないことが有り難いことなのだと思うこともできる。健常者にとって「当たり前」だと思い込んでいることが、必ずしもそうではなく、本当は「有り難い」ことなのだと認識すれば、ただ生きているだけで感謝したくなるんですね。
「しかし、先に進めない山手線のなかで、私が聞いたつぶやきはそのようなものではありませんでした。
「何だ、またかよ」「むっちゃ迷惑だな」「俺のアポはどうしてくれんだよ!」
自己中心的のものばかりであったことに、私は驚いたのです。
人身事故で電車が止まることが当たり前になってしまって、そこまで追い詰められた人のことを考えられなくなっているのだなと少し切なくなりました。」(p.61)
たしかに、東京で働いていた頃、電車に乗っていて人身事故に遭遇するような場面に私も何度か遭遇しました。「死ぬなら勝手に死んでくれよ。なんで俺たちを巻き込むんだよ。迷惑なんだよな。」というような声も聞きました。
でも私は、そういう人たちの気持ちもわかるのです。ある意味で共感できます。前提として社会が殺伐としているのです。常に効率を求められ、迫られている。だから自分のことで目いっぱいなのです。
だから私は、そういう人たちのことも責めたいとは思いません。ただ、社会全体が平和で幸せであるためには、そういう逼迫感がなくなることが一番なのだろうなぁと思うのです。
「入学してすぐの頃、心理学の先生が私に「仕事をしながらなぜわざわざ勉強に来るのか」と尋ねてきました。私が率直に「彼ら(生徒)の気持ちをわかりたいからです」と言うと、「そういった気持ちで来るのならやめなさい」と言われ、驚きました。せっかく入ったのに……と思いましたが、4年間学んでその真意がわかりました。
その真意は、相手の思いをわかろうと努力することはできるけれども、人の心をすべてわかったつもりでカウンセリングすることは間違っているということでした。だから、人の心はわかり得ないものであるという前提で、寄り添う。それは聞くことの重要性、ただ聞くことに終止するということなのだろうと思います。」(p.83)
筑波大学附属盲学校で教鞭をとっていた頃、生徒たちの心理を知りたくて、青山学院大学で心理学を学び始めたのだそうです。その時、このように言われたのですね。
人はそれぞれ違うし、どれだけ言葉で説明してもわかり合えないことがある。私は、そのように思っています。
だからこそ、聞く(わかろうとする)ことをしつつも、その大前提として「わからないことは必ずある」という思いを忘れてはいけないなぁと思うのです。
話せばわかる、ということが傲慢なのだと思います。話さなければわからないことがあるけど、いくら話してもわからないことはある。けれども、その人にはその人の価値観があり、その価値観において間違ったことはしない、つまり、その人にとってはその行動が正しいということなのです。
「行動できない人に共通していることがあります。それは、不安な心に支配されているということです。怖がることはありません。やってみてください。この行動派になることが何事も成功への第一歩なのではないでしょうか? やってみたら意外と何とかなるものです。」(p.103)
「できるかどうか」ではなく、「やるかどうか」なのです。だから私も、結果を恐れずにやりたいと思ったことをただやればいい、結果ではなく行為そのものに情熱を注ぐこと、と言っているのです。
「飛行機で行けば12時間くらいで到着してしまうところを約2ヵ月かけてセーリングする。だからこそチャレンジと言えるのでしょう。
普段の日常では温かい食事、お風呂、映画を見る、といった生活ができますが、ヨットでの生活は、生鮮食料品なし、シャワーなし、インターネットなしのないない尽くしの2ヵ月なのです。しかし、この2ヵ月間の旅は飛行機の旅では経験できない多くの楽しみがあります。」(p.137)
ヨットで太平洋横断という旅は、壮大な無駄で非効率であり、快適の対極にある行為だと言えるでしょう。でも、だからこそ挑戦であり、冒険であり、最高に楽しい娯楽だと言えるのです。
そういう意味では、人生そのものがまさにそういうことだと思っています。全知全能の神が、あえて神らしくない存在として、不自由を抱えた存在として生きてみたらどうなるか。こんな挑戦的な娯楽はないでしょう。障害者として生きることも、マイノリティとして生きることも、健常者に比べたら、より挑戦的でスリリングなゲーム(娯楽)をやっている、とも言えるのではないでしょうか。
「私がヨットにはまった理由のひとつが、通常の道路では運転できないけれども、海では操船ができることでした。サンディエゴ湾内では、行き来している船は多いし、ブイやいかだなどの障がい物もあり、操船はできますが晴眼者からのフィードバックが必要となります。
しかし、太平洋の真ん中では、ぶつかるものは何ひとつない。この太平洋の懐の大きさは、全盲の私にはありがたい限りです。操船できる自由を与えてくれているのですから。」(p.150)
ぶつかるものが(ほとんど)なければ、だいたいの方角で進めばいいだけ。それを「太平洋の懐の大きさ」と表現されていることに、どれほど「自由」と「感謝」と「幸せ」を感じておられるのだろうと思いました。同じ状況であっても、感じることは人それぞれだなぁと思ったのです。
「ダグことダグラス・スミスも、太平洋を航海するという夢を以前から持っていましたが、セーリング仲間にその夢を話しても、いい反応はもらえませんでした。そんな時私の話を聞いて、ダグは私に「私たちは同じ夢を持っている。君はヨットの操作をわかっているし、私はきちんと見ることができる。良いパートナーシップになると思わないか」と言ってくれました。」(p.184-185)
これが、以前に読んだ本で紹介されていた部分ですね。この出会いによって、太平洋横断という再挑戦が決まったのです。
「もう人は信じられなくなったんだ。と涙ながらに話した後に、自分は人を信頼するということを忘れていた、人を信頼することがいかに大切かということが今さらながらわかった、と話してくれました。
「私も目が見えなくなったときはそうだったけれども、今は人を信じて生きるしかない。お金にしても、アメリカのお札はみんな同じ大きさだろ? 日本はみな大きさが違うし、手で触るとわかるようになっているんだ、だから、このアメリカで100ドルだと言って1ドル札を出されても私はわからない。私は言われたことを信じているんだ。それでしか生きていけないんだ」と言うと、彼はさらに泣き出しました。」(p.190)
バス停でホームレスが岩本さんに、座る場所を教えたことがあったそうです。岩本さんは素直にその助言に従い、移動して座ろうとした時、そのホームレスは、自分のことを信じてくれたんだ、と話し出したのだそうです。
たしかに、その見知らぬホームレスが言うことが正しいとは限りませんからね。しかし、信頼しなければ生きていけない現実がある。けれども、それは仕方ないとは言え、強制的にでも人を信頼して生きる生き方をさせてくれているとも言えるのですね。
信頼することに何の補償もありません。信じれば益があるという保証がないからこそ、本当の意味での信頼だと私は思っています。
「信頼する」とは、「愛すること」です。愛は無条件ですから、無条件で、つまり何の見返りもなく信頼するのです。
「クジラがぶつかって、最初は、
『何で俺の夢を邪魔するんだ』
『どうして俺なんだ』
と目が見えなくなった時と同じように思いました。ですが、今では、天なのか神なのかそれは人それぞれ違うと思いますが、そういった力が働いたのではないか。都合が良いかもしれませんが、より強いインスピレーションをもっと多くの人に私が与えられるようにするために、クジラが私たちのヨットにぶつかるよう作用したのではないか、と思っています。広い太平洋でエオラスとぶつかったクジラに文句を言っても何の解決にもならない。むしろ、そのことは必然だったのではないかとさえ思うのです。」(p.194-195)
辛坊治郎さんと挑戦したエオラス号での太平洋横断は、悪天化で突然、クジラに衝突されて浸水するという事故により、失敗に終わりました。よりにもよって、あのただっぴろい太平洋での衝突事故。それを偶然と見るのか、必然と見るのか。その見方は自由に選べますが、その選択によって、自分の生き方が影響されるのです。
「相手に対して不満を持っているあなたの顔は引きつってはいませんか?
どうぞ、そんな時だからこそ、自分を誉め、自分を愛して、鏡の前で笑ってみた後に、相手のことを考えてみましょう。そうすることで何か人間関係を良くする糸口が見えてくるかもしれません。」(p.203)
これは私が「鏡のワーク」でお勧めしているのと同じことですね。
ありのままの自分を受け入れ、認め、誉めること。そうすれば、その安心感の中にあれば、他人を責めずに受け入れることができるようになります。
岩本さんは、ヨットの冒険家として知られていますが、指鍼(ゆびばり)術セラピストやコーチングによって生活の糧を得ておられるようです。そのため、幸せになるための考え方が散りばめられた本になっていました。
この本が出版された後、岩本さんは太平洋横断に成功されています。2019年4月のことです。(致知出版社の記事より)もし、その挑戦が失敗に終わっていたとしたら、この本の評価はどうだったでしょうか?
私はそれでも、この本は価値あるものだったと思っています。それは挑戦者の記録であり、挑戦とは結果ではなく過程(行為)そのものだと思うからです。そしてその行為、つまり経験こそが何よりも大切なものだと思うのです。
2023年07月01日
おかげで、死ぬのが楽しみになった
Facebookでフォローしている比田井美恵さんの投稿を読んで、これは面白そうだと思って買った本になります。
比田井さんは上田情報ビジネス専門学校(通称ウエジョビ)の校長をされていますが、知ったきっかけは、日本講演新聞で紹介されていた夫の比田井和孝さんの本、「私が一番受けたいココロの授業」を読んだことです。
比田井さんと縁のある元我武者羅應援團総監督の武藤正幸さんが、小説家デビューしたペンネームが遠未真幸(とおみ・まさき)さんで、本書の著者になります。
比田井さんによると遠未さんは、6年半かけて本書を書き上げたのだそうです。その間に、たくさんのストーリーを考え、検討し、最適なものを求めた。そのために時間がかかり、その集大成が本書なのだそうです。
そんな紹介をされたら、もう読むしかないでしょ。と言うことで、買った本になります。
そして読んでみて、買って正解だったなぁと思いました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
とは言え、これは小説なので、ネタバレしないようにしたいと思います。特にタイトルがなぜこうなのかは、ぜひ本書を読んで楽しんでいただきたいと思います。
まずストーリーの概略と構成を書きます。
高校の時の応援団の1人が亡くなり、その葬式に他の3人のメンバーが集まるところから物語が始まります。高校の同級生も、すでに70歳です。
そこで孫から遺言が渡されます。そこには、応援団を再結成してくれと書かれていました。何のために? 誰を応援するのか?
わからないけど、ともかく仲間の最後の望みであるならと、残ったメンバーの3人は応援団を再結成します。
そこからは、それぞれのメンバーを主人公にした物語が展開します。そして、そこに協力することになった孫の物語も。
それぞれの物語やキーワードが関連し合い、全体の物語が展開していきます。その中には、応援すること、生きるということなど、深遠なテーマに関するメッセージがちりばめられています。
「和訳すると、口もとのゆるみを愛して進め。応援団での3年間がそうだったみたいに、思わずニヤニヤしちゃう方へ進んでさえ入れば、人生はオールハッピーになる」
のほほんとした、それでいて一点の曇りもない声色だった。
「この先、世界が敵に回ったとしても、オレがオレの味方でいてやればいいってわけよ」巣立は私たちの顔を見つめ、「オレにはオレがついている。だからオレは一人じゃないんだなー」としみじみつぶやいていた。」(p.17)
亡くなった巣立の座右の銘が、「ラブ・ニヤニヤ」なのだとか。ふと口元が緩んでニヤついてしまうようなことを選択して生きる。それが人生の極意だと言うのです。
「「選手を後押ししてるつもりだったけど、こっちが力をもらってたのかもな」
板垣のつぶやきに、長年解けなかった方程式の解が降りてきたかのように、はっとした。応援は、する側からされる側への一方通行の行為ではない。
私たちは支えることで、すでに受け取っていたのだ。」(p.86)
応援される側が応援する側から一方的に恩恵を受けているわけではないのです。応援する側は応援することによって、応援される側がいてくれることによって、受け取っているものがあるのですね。
「才能もなく、試合に出られる希望もない。身の程をわきまえない努力は、惨めさを生むだけだ。
彼は構えたバットをゆっくり下ろした。顔を上げ、私の目をまっすぐに見る。
「父さんと約束したんです。『笑われても、歩いてでも、走れ』って」
「なんですか、それは?」
「口癖です。父さんの」周くんの目に力が宿る。「速く走れるかは人によって違う。でも走るかどうかは自分次第。だから、笑われても、歩いてでも、走れ」」(p.103-104)
才能もなく、バッターボックスに立たせてさえもらえない周くんは、それでもお父さんからのメッセージを忠実に守って、ひたむきに練習に打ち込みます。結果がどうかじゃない。誰かから評価されるかどうかじゃない。ただ自分が自分を諦めないかどうかだけが重要なのです。
「「自分のために貫いたことは、意外と誰かのためになったりする」
「何それ、自分勝手に生きれば良かったってこと?」
結婚生活の苦労を否定された気がして、いらっとしてしまう。
「自分勝手上等」巣立は頷き、「ただ自分のために生きるってのも、案外、楽じゃないけどなー」と独り言のようにこぼした。」(p.192)
他の誰かのために何かをするんじゃなく、他の人はどうでもいいから自分のために何かをする。それが結果的に他人のためになることがある。
要は、結果を求めない生き方だと思いました。とかく他人のためにという生き方は、他人からの評価を得たいという動機によるものです。つまり、他人のためのようで、実は自分のためなのです。
そうであれば、むしろ他人の評価など気にせず、自分の望みを追求すればいい。自分らしい生き方を追求すればいい。自分が愛であるなら、自分らしく生きることは、誰かのためになるのです。
「あの頃の私に、現在の自分が一矢報いることができるとしたら、勇気の使用量かもしれないって。だって、高校時代に比べたら、病気も怖いし、鏡に映る老いた自分を見るのも怖いし、家に一人でいるのすら怖い。もちろん、死ぬのもどんどん怖くなる。昔よりも、生きるために使う勇気の燃費は、同じ一歩でも、必要な勇気の量は桁違いだろうよ。だからこそ、何も考えずに踏み出せてしまったあの頃より、震えながらも踏み出す今の一歩の方が、よっぽど勇ましい気がしないか?」(p.320-321)
若いころは無謀なこともできますが、年を取れば取るほど冒険できなくなるものです。そうであればこそ、老人の無謀な一歩には意味があるし、大きな勇気を使ったと言えるのですね。
私もそう思って、小さなバンジーを飛び続けようと思います。そういう生き様が、誰かのお役に立てるかもしれないと思ってね。
「「そもそも、がんばっていない人に『ガンバルナ』とは言わないもん。必死で努力しているのを知っているから、限界まで踏ん張ってきたのをわかっているから、『今は自分を守るために、がんばらない道を選んでいいんだ』ってことでしょ」
「『ガンバルナ』とあえて背中を引き止めることで、休むことも、あきらめることも、逃げ出すことさえ受け入れる。否定形なのに、相手の存在を丸ごと肯定する言葉。苦しみの底にいる相手にふさわしいエールじゃないか」と引間が感心したようにつぶやいた。」(p.331)
東日本大震災の時、多くの人がネットで「がんばれ」とメッセージを発信しました。それに対して被災者側から、自分たちはもう十分にがんばってるのに、さらに頑張れと言うのか!? というような反発もありましたね。これは、うつ病の人に対して「がんばれ」と言ってはいけないとされるのと、同じことだと思います。
私は、「がんばれ」じゃなく「がんばろう」と言ってきました。それは、がんばるのはあなただけじゃなく、私も一緒にがんばるよ、という意味を込めていました。一緒に頑張ろうよという誘いかけです。
言葉のニュアンスがどれほど伝わるかはわかりませんが、十分に頑張っている(と思っている)人に対しては、「がんばるな」というメッセージが伝わるのかもしれないなぁと思いました。
そもそも頑張っても頑張らなくても、どっちでもいいんだと思います。何かをするから価値があるんじゃなくて、存在そのものに価値があると思うからです。
「自信に根拠なんてねえよ。根拠がないから、自信の出番なんじゃねえか。根拠があったら、ただの確認作業だろ」(p.421)
私も「根拠のない自信」こそが本物の自信だと言ってきました。根拠のある自信は、所詮、不安の上に築き上げた楼閣に過ぎないのです。
ここでは紹介できませんが、それぞれの物語の登場人物やメッセージが、密接に絡み合っています。「そうか、ここでそうつながるのか!」と驚き、感心することが多々ありました。
読み物として純粋に楽しめます。そして、たくさんのメッセージを受け取れます。
こんな素敵な小説を、著者が6年半かけて創り上げた物語を、たった2千円弱で読めるって、本当にありがたいことだなぁって思いました。
2023年06月30日
仕事で大切なことはすべて尼崎の小さな本屋で学んだ
これも日本講演新聞の記事で知った本だと思いますが、尼崎にある小さな書店(小林書店,まいぷれのWEBページ)が舞台の物語です。実話ではなく、店主の小林由美子(こばやし・ゆみこ)さんが体験されたことを元に、コピーライターで著者の小林徹也(こばやし・てつや)さんがフィクションに仕立てたものになります。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。とは言え、小説なのでなるべくネタバレしないようにしたいと思います。
物語は、書籍の取次会社大手「大販」に就職した主人公の大森理香が、尼崎の小林書店の店主、由美子さんから影響を受けながら成長していくというストーリーになっています。
その中にある由美子さんの実際のエピソードも含まれていて、ピンチの時に傘を売ったという話には、由美子さんの人柄が感じられました。
「まずは、仕事のことでも会社のことでもまわりの人のことでも、ひとつずつでもええから、ええところを探して好きになってみ。そしたら自然ともっと知りたくなってくるもんや。何でもええやん。せっかく縁あって大販に入ってんから、仕事のことも会社のこともまわりの人のことも、好きにならんともったいない」(p.93)
なぜか大阪支社の営業に配属された理香は、慣れない大阪での一人暮らしに参っていました。そんな時、由美子さんからかけられた言葉です。
最初にまず好きになってかかる。そう決めてかかる。そういう考え方が、自分の未来を明るくしてくれるのです。
「由美子さんが薦めてくれたのは、『百年文庫』というシリーズだった。
『百年文庫』とは、一冊ごとに漢字一文字でテーマを決め、日本と海外を分け隔てることなく短編3篇を集めたアンソロジー。何と全100巻あるとのこと。」(p.96)
こういう小説の集め方があったんですね。面白そうだと思って調べてみたのですが、すでに販売されていない本が多いようです。もし、気に入ったものがあれば、私も読んでみようかと思いました。
「「えー、私なんて何もないですよ。薄っぺらで」
「理香さん、ひとつだけ忠告してもええ?」
「何でしょう?」
「自分を卑下するような言葉を使ってたら、ほんとに薄っぺらくなるよ」
「はい。でも私なんて」
「ほら、また『私なんて』」
「ゴメンナサイ」
「謝ることやないけど、何で理香さんはそうやって自分を低くするん? もっと自信持ってええやん」」(p.119-120)
私もそうでしたが、無意識に自己卑下するんですよね。そしてそれを「謙虚」なことだと思っている。自分が低くあることによって、他人を喜ばせ、それによって他人から評価してもらえる、つまり愛されると思っているんですね。
「「理香さんが仕事していく上で一番の弱みは何?」
「読んだ本の量が圧倒的に少ないことです」
「だとしたらそれが強みやないかな」」(p.151)
「「この業界、本好きの人が多い。でも世間を見渡したら、本好きは圧倒的に少数派や」
「確かに」
「だとしたら理香さんは多数派の人たちの気持ちがわかるってことやろ?」」(p.152)
「当たり前だが、読書量が圧倒的に少ない私に何か気の利いたフェアを考えることはできない。できることは本を読まない人の気持ちになって、どんなフェアが実施されていたら手に取ってみたくなるかを考えることだ。」(p.153)
「だとしたら店が薦めるのではなく、お客さんがお客さんに薦めるのはどうだろう?
考えてみたら、私たちは普段から他のお客さんの意見を参考にすることが多い。」(p.153)
自分で弱みだと思っていることが、見方によっては強みになるという実例です。本を読んでいなからこそ、本を読まない人の気持ちがわかる。そういうことがあるんですね。この小説では、読者が好きな本を他の人に伝えるというイベントで、新たな読者を掘り起こすことができたということになっています。
食べログなどもそうですが、今はレビューによって販売動向が左右されます。新規の顧客の開拓にも、こういう既存ユーザーのレビューが、大きな力になるのでしょう。
こういうことがあるので、すべてのことにおいて、「弱み」というのは1つの見方に過ぎず、単に「違い」なのだと思います。「違う」からこそ、他の人にない発想が可能になるし、それは「強み」とも言えるのですね。
「大阪での経験で一番学んだのは、人は「熱」がある場所を「快」と感じるということだ、逆に「熱」がないところに人は集まらない。「熱」を生み出すためには、人の気持ちが乗っかる必要がある。もちろん店側のスタッフの気持ちも大切だが、お客さんの「本気」がそれに乗っかると、さらに店は熱くなる。」(p.257)
人は「熱」に引かれるという観点、たしかにそうだなぁと思いました。そうであれば、誰かが「熱」の中心になれば、他の人を引き付けることも可能になるわけです。
実際、これまでの私のわずかな人生経験においても、事態を打開していく人は「熱」のある人だったなぁと思います。可能か不可能かに関係なく、ともかくやってみる、可能性を信じてやってみる人なのです。
そうであれば、重要なことは、闇の中にあって闇を嘆くのではなく、自ら光になることだと思います。これはお勧めしている「神との対話」で言われていることですがね。
これは小説ですが、店主の由美子さんは、実にエネルギッシュな人なのだなぁと感じました。つまり「熱」のある人であり、人を引き付ける人なのです。
それだけで万事が上手くいくわけではありませんが、山あり谷ありでも、そうやってエネルギッシュに生きる人生は、楽しいものだなぁと思いました。
小林書店では、年間を通じてお勧めの本を送るというサービスもやっているようです。自分が読みたい本ではなく、由美子さんがお勧めしてくれる本が読めるというものですね。これも、面白いなぁと思いました。
2023年06月28日
なぜこれを知らないと日本の未来が見抜けないのか
これはたしかTwitterで誰かが紹介していた本だと思います。著者は江崎道朗(えざき・みちお)さん。以前、「コミンテルンの謀略と日本の敗戦」という本を読んでいて、この方の本なら間違いないだろうと思って買いました。
歴史や政治に関して幅広い知識と深い洞察をお持ちの方だと感じています。本書では、タイトルには出てこないのですが、「DIME(ダイム)」という視点がなければ日本の明るい未来がやってこない、というようなことが語られています。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「たとえばアメリカは、仮に米中で戦争が起こったとき、国務省を使って外交交渉をする(D)だけでなく、軍事的に中国を恫喝する(M)、財務省を使って在米の中国共産党幹部の資産を凍結する、商務省を使って中国系企業をアメリカ市場から追放する(E)、FBI(米連邦捜査局)などを使って在米の中国共産党幹部の関係者を拘束する(I)といった、外交(D)、軍事(M)、経済(E)、インテリジェンス(I)を使って対抗措置をとり、在中のアメリカ人たちを守ろうとするにちがいない。あるいは在米の中国共産党幹部の関係者を拘束するなどして、人質交換といった手段を駆使することもいとわないだろう。
そして、アメリカ政府が自国の国民と企業を守るためにそうした手段をとることを、アメリカ国民の大半は容認、支持しているのだ。
そもそも外国との紛争が起こることを想定して、全世界にいる自国民と自国益を守るために、アメリカ政府は、外交、インテリジェンス、軍事、そして経済の四つの面での準備を怠ることなく進めているのである。」(p.8-9)
つまりDIMEとは、外交(Diplomacy)、情報(Intelligence)、軍事(Military)、経済(Economy)の頭文字を集めた言葉であり、この4つを有機的にリンクさせなければ、社会としての、政府としての、目的が達成できない状況があるということなのですね。
「「外交は、外交官だけでやるものではない。自由な立場で動くことができる民間人だからこそ、外交、インテリジェンスの分野でできることがある。
「外交は政府・外務省がやるべきことだ」と思い込んでいた私は、またまた自分の浅はかさを思い知らされた。」(p.43)
江崎さんは、民間シンクタンクASEANセンター代表の中島慎三郎氏に深く師事して、多くのことを学ばれたようです。花屋の経営者でありながら、福田赳夫総理らのスタッフとして東南アジア外交に関与されていた中島氏は、民間人でありながら、いや民間人だからこそ、その立場でできる日本のための外交に従事されておられたようです。
「そこで中島先生は、私に「感情的に反発するだけの人間になりたいのか、それとも勝利を勝ちとる優秀な指揮官になりたいのか」と問いかけたのだ。
「どんなに情けなくても、どんなに臆病であっても、味方であるなら役立つこともある。そう考えて情けない味方を活用しようとするのが、優れた指揮官だ。戦争をよく知らない指揮官は、味方が臆病であること、情けないことを許せずに味方を斬ってしまう。その結果、味方がどんどん減って戦争に勝てなくなる。」(p.46)
「「江崎さん、政治家というものは使うものであって、なるものではないんだよ。たしかに民間人のままでは世間から脚光を浴びることはないが、大事なことは日本をよくすることであって、自分の名前を売ることではないはずだ」
「政治家を使う」という発想は、当時の私にはかなり刺激的だった。おそらく中島先生は、政治家をただ偉い人として祭り上げるのではなく、日本をよくするために政治家の力をいかにお借りするのかを考えろ、という意味でおっしゃられたのだろう。」(p.47)
「同時に、マスコミ報道などを見て、「政治家たちは何をやっているのだ」と不満をもち、親しい政治家がそれほどいるわけでもないのに、なんとなく政治家を小ばかにしている自分がいた。
そうやって日本の政治に不平・不満を述べるだけの人生でよいのか。中島先生のように民間人でありながら、「政治家の力を借りて」日本の政治をよくしていく道をめざすべきではないか。」(p.48)
1994年、羽田孜内閣の法務大臣に任命された永野茂門参議院議員は、南京大虐殺はでっち上げだと思うと発言し、中韓から猛烈な反発を食らい、わずか11日で辞任したということがありました。その永野元法務大臣についての論評ですが、あいつはダメだと批判して切り捨てるだけなら誰でもできます。事実、そのようなことは現在でも、SNSの世界で毎日のようにされてる言論です。
しかし中島氏は、そういう人であっても同じ同志として扱い、どこかで役立つよう考えるのが真のリーダーではないかと言われるのですね。
私も、政治に対する不平不満をSNSで吐くことが多々ありました。では、それに対して私自身がどう行動しているのか? 「お前は何をやっているんだ!?」と問われると、答えに窮するところがあります。
「相手をコントロールしようとする人間は、相手のことを深く知ろうとする。アメリカや中国やロシアは、日本を含む相手の国の内情を必死で調べ、宣伝、恫喝、経済的利権、ハニートラップなどあらゆる手段を使って相手をコントロールし、自国の国益を確保しようとする。
この相手の国をコントロールする目的で相手の内情を調べ、対策を講じることこそを、インテリジェンスと呼ぶ。
このとき中島先生は、日本の政治の議論は属国的な発想が強いことが問題なのだとして、こう批判した。
「日本の政治、外交に関する議論で問題なのは、たとえば韓国がけしからんとして、韓国との付き合いをできるだけやめようとすることだ。それは属国の発想だ。覇権国ならば、韓国をどのようにしてコントロールするかを考え、韓国のことを徹底的に調べるべきだ。」(p.54)
相手国がひどいと批判非難するだけなら誰でもできます。しかしそれでは属国的な発想であり、問題解決にはつながらないということですね。
外交は片手で握手しながら、もう一方の手で殴り合うようなものだ、という表現がありましたが、まさにそうだと思います。隣国と離れることなど不可能です。影響があり続けるなら、いかに自国の有利になるよう相手をコントロールするかという発想が必要なのだろうと思います。
「中国人船長を釈放しないと中国で働いている日本人をスパイとして拘束し、刑務所に送るぞ、と脅したのだ。さらに、レアアースの日本への輸出を事実上、禁止とした。
国益にかかわるならば、外国にいる自国民は、たとえ犯罪者であっても手段を選ばずに守ろうとするのが中国という国である。しかし、これは独立国家ならばある意味では当然の振る舞いで、綺麗事だけいって自国民を助けようとしない日本政府のほうが異常なのだ。」(p.71)
2010年、中国漁船が日本の巡視船に体当りし、拿捕された事件のことです。あの時の政府の対応は、本当に酷いものでした。
そして、外国から日本人が拉致されても、不当に犯罪者扱いされても、結果的に何もできないのが日本政府だということも、よくわかってきたのではないかと思います。
「この日本版NSCが、日米関係の根本を変えた。第二次安倍政権までの日本はある意味で、アメリカの国家戦略に従う国だった。前述したように、一九四五年当時の「降伏後に於ける米国初期の対日方針」に示された<米国の目的を支持すべき、平和的かつ責任ある政府を、究極において確立すること>という、アメリカの国家戦略を支持する日本政府という戦後の日米関係のあり方が続いてきたのだ。
そこから自前の国家安全保障戦略を策定し、推進する国へと政治を根幹から変えようとしたことは、まさに劇的ともいえる変化であった。」(p.83)
防衛省、外務省など、縦割りで考えていたら、アメリカの言いなりになってしまう。官邸が主導して、各組織を有機的に統合して、日本にとってどうするのが最も良いかを主体的に考えて実行する組織。それが日本版NSCであり、安倍政権のもとで作られたのでした。
「つまりはTPPを背景に、ASEAN、インド太平洋諸国に対して軍事支援を実施し、外交関係だけなく、経済的・軍事的関係を強化する。これが「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」構想の実体なのだ。
日本がアメリカに従属するだけで自分の国のことしか考えない国家から、インド太平洋諸国を牽引し、アメリカを引き込む独立国家へと変わったからこそ、トランプ大統領は安倍総理のことを重視したし、政権交代が起こっても、ジョー・バイデン政権は日本のことを引き続き重視せざるをえなくなった。」(p.85-86)
「第二次安倍政権の前後で、国際社会における日本の立ち位置はまったく異なるものになった。しかし、肝心の国民の側がそれを理解しなければ、いつか日本はまたアメリカに従う国に戻ってしまうだろう。自由と独立は自ら勝ちとるものだ。与えてもらうものではない。」(p.87)
こういうことがわかってくると、いかに重要なリーダーを失ったかがわかります。返す返すも残念なことであり、殺害した犯人は、まさに日本国家の宝を奪うテロ行為を働いたと言えるでしょう。
「たとえば尖閣諸島に武装難民が上陸し、それを追い出すために自衛隊が出動しようとしたとする。それに対し、中国は沖縄を攻撃する構えを見せて脅してくるかもしれない。
そのとき、日本はそれでも尖閣諸島の奪還をめざすのか、それとも沖縄の安全を考えて尖閣を手放すのか。あるいは中国との軍事的緊張関係がさらに進んだら、中国大陸に進出している日本企業が人質になる恐れもある。その場合にどうすればよいのか。
これは政府だけではなく、国民一人ひとりに突きつけられている問題だ。日本は民主主義の国なので、その総意が国家戦略になる。よって<日本自身が譲ることのできない利益や価値観を戦略の中で自覚することが必要>と村野氏は説く。
じつは、トランプ政権時のアメリカでは、中国に送り込んでいたCIA(米中央情報局)要員が数十人規模で音信不通になっているといわれている。それでもアメリカは、いまも諜報活動を続けている。アメリカの国益のために多少の犠牲はやむをえないと考えているからだ。これは国家としての優先順位の問題である。おそらくはやがて日本も、同じように覚悟を決めるときが来るだろう。」(p.105-106)
日本人の多くは平和ボケしており、こちらが攻めなければ相手から攻められたりしないと、何の根拠もなく信じているようです。しかし、現実的にはまったく違います。
こんな平和ボケした国民に、優先順位をつけるとか、何かを犠牲にしてでも護るべきものだとか、そんなことが考えられるでしょうか? 決断できるでしょうか?
これが民主主義国家の弱点かもしれませんね。けれども私たちは、こういう弱点を受け入れつつも、何とか日本という国を護っていかなければならないのだろうなぁと思います。
「注目すべきは、「経済安全保障推進会議」の設置だろう。安全保障に関して、全大臣が出席する会議はこれが初めてだ。経済安全保障はすべての省庁がかかわるということで、それも総理がトップダウンで指示を出すのではなく、各省庁がそれぞれの立場でどのような問題に取り組むか、自分たちに何ができるかを考えさせて発表させる。
安全保障の問題となると、とかく日本政府は消極的だ、アメリカのいいなりだという批判がなされる。しかし、岸田政権が本腰を入れて取り組んだことは間違いない。内閣に経済安全保障担当大臣を置いた国も、じつは世界で日本が初めてだ。」(p.163-164)
検討ばかりと思っていた岸田政権ですが、実は安全保障に関して本腰で取り組んでおられたようです。
「この戦争でまずはっきりしたのは、原則として核をもつ国同士は戦争をしないということだ。戦場は、核兵器をもたず(正確にいえば核兵器を放棄した)、NATOにも加盟していないウクライナ領内に限定され、アメリカをはじめとするNATO加盟国が戦火にさらされることは、いまのところ起こっていない。
さらに、戦争の優劣は軍事力だけでは決まらない。ポイントは「DIME」の総合力だ。軍事力で圧倒的に劣るウクライナが簡単に屈しないのは、米英をはじめとする自由主義陣営から、軍事面、財政面、インテリジェンス面での支援を受けているからである。つまり「DIME」の観点で見れば、ウクライナはロシアと同等、あるいはそれ以上の力を有しているのだ。」(p.189)
核兵器の保有がいかに戦争抑止に有効かということは、今回のウクライナ戦争を見ても明らかですね。
そして戦争は、単に軍事力だけではなく、総合戦になるということです。金融や貿易の停止による経済戦争、プロパガンダを駆使して味方を増やし、敵の戦意を削ぐインテリジェンス戦争、そして味方の国を増やす外交戦争もあるのです。
そういう意味では、弱小国のウクライナがよく検討しているという見方もできますが、私は逆に、ロシアが米英を相手に善戦していると見ることもできるなぁと感じています。
いずれにせよ、核保有国内で戦闘が起こらないということであれば、ロシアを追い返すことができたとしても、敗北させることはできないということになります。
「だが一方で、首都キーウの様子は意外にも平穏だ。ときどきミサイル攻撃を受け、電気やガス、水道といったインフラも一部は破壊されたが、市民は普通に出歩き、自動車の往来も多い。インターネットや携帯電話も使えるし、スーパーマーケットでは食料品が売られ、マクドナルドやスターバックスなども営業している。さまざまな支障はあるにしても、多くの方が通常の生活を送っている。
見方を変えれば、国家が戦争状態に入っても、支障さえなければ民間企業は通常の業務を続けられるということだ。モノをつくり、または輸入し、流通させ、販売している。戦争が始まったからといって、すべての人々の日常が途切れるわけではない。
むしろ、そうでなければ戦争を継続できないのである。」(p.189-190)
国家全体が臨戦態勢に入ってしまえば、戦争の継続はできなくなるということですね。しっかりと日常生活を送ってくれる大多数の国民があって、経済が回ることが重要なのです。
このことからもわかるように、東日本大震災やコロナ禍において、不要な自粛を求める考え方がはびこりました。あれなどは、国家を上げて戦うことをさせないようにするための、日本弱体化工作ではなかったかと感じます。
「だが、こうした一連の改革について、メディアはこぞって「総理大臣による独裁政治が始まる」と批判した。これはあまりに筋が悪い。民主的な選挙で選ばれた与党のリーダーが、方針を示して官僚に指示を出すのは当たり前だ。むしろリーダーの与(あずか)かり知らぬところで官僚が勝手に決めてしまうほうが、国家としてよほど危うい。
だいたい森総理は、メディアからひどく叩かれるリーダーだった。私の経験上、叩かれる総理ほど真っ当な仕事をしている傾向がある。」(p.212)
これまでの閣議は、首相が主催するものの、議題は各省庁が時間給会議によって決められるというものでした。それを総理主導に切り替えたのが森首相だったのだそうです。
森元総理は、東京五輪の招致においてもメディアから随分と叩かれましたね。功績のある人を素直に認めようとしないのが、今の日本人のレベルなのでしょう。
「末次先生がこうして政府要人同士の会談にこだわったのは、戦前の反省によるものだ。先に述べたとおり、インテリジェンスの現場がどれほど優秀でも、中枢がそれを理解しなければ意味がない。
トップの戦略に基づいて現場が細かい戦術を駆使し、その成果をトップの戦略に昇華させるという循環ができて初めて、大きな問題を動かせる。」(p.242)
中野学校OBの末次一郎氏は、戦後、各国に収容されていたBC級戦犯の釈放運動に取り組み、次は沖縄返還運動に取り組まれたそうです。末次氏は民間人のまま、各国の要人と会い、コミュニケーションを図ることで信頼関係を作り、事を進めようとしたのです。
ただ、こうした現場の活動と、政府中枢の思惑が一致していないと、チグハグな対応となってしまい、DIMEの効果を発揮できないと江崎さんは言います。当然のことでしょうね。
「「江崎君、思想というものは豊かなものだよ。君の話を聞いていると心がギスギスしてくる。心がギスギスするような話をしている人間のいうことに耳を傾ける人がいると思うかい」
「いや、だって、でも政府・自民党はおかしいではないですか」
「だから、自民党がけしからんといって、いまの状況は是正できるのかい。できないだろう。ほんとうに自民党を含めて外交を立て直そうと思えば、それは人生を懸けてのことだ。そのためには、外交はどうしたらよいのか、なぜ自民党はこうなってしまったのか、中国は何を狙っているのか、なぜ韓国に対して日本は弱腰なのか、そもそも先の戦争についてどう考えたらよいのか、君はそういうことについてどれだけ知っているのか」
たしかに当時、私は何も知らなかった。小柳先生は「何も知らなくて自民党はけしからんといって世の中は変わるのか。そんな暇があるのならば、きちんと勉強したまえ」と、どうしたらよいかということまで丁寧に話してくれたのだ。」(p.250-251)
江崎さんが九州大学の時、講師で来られていた九州造形短期大学の小柳陽太郎教授から、大事なものの見方を学ばれたようです。
この時は、1982年のいわゆる教科書誤報事件で、「侵略」を「進出」に書き換えさせたという新聞の誤報を元に、反発する中韓に対して宮澤喜一官房長官が謝罪し、中韓の意向を汲んで教科書を作ると発言したことに対し、江崎さんは怒って小柳教授に訴えたのだそうです。
けれども小柳教授は、批判非難して良くならそうすればいいけど、そうならないのであれば、それは意味がないと諭したのです。それよりももっと事情を知ることだと。
けっきょく国も人も、それぞれの事情があるのです。その事情を知らずして、単に批判非難したところで、事態は変わりません。
ではどうするのか? その答えがこの本にあるとあると思いました。つまり、相手の事情を知ろうとすることです。相手には相手の、そうせざるを得ない事情がある。それを前提に、知ろうとすることが重要なのです。
それはつまり、相手の立場を慮ることであり、相手を信頼することにもなります。そういう信頼関係を築き、コミュニケーションを図ることによって、相手もこちらの事情を斟酌してくれるようになるのです。
それが真に平和的な外交というものではないかと思います。もちろん、相手を暴力に訴えさせないための武力を持つことは、つまり抑止力としての武力を持つことは重要です。なぜなら、相手を愛らしくない行動に踏み切らせないようにするためです。
知らないから怒りが湧くのだと思います。だから批判非難したくなる。
だから、知ることが大切です。わからなくても、知ろうとすること。仮にそれでもわからなくても、信頼することはできます。きっと相手には相手の事情があるんだろうなぁ、と。
その上での決断であれば、相手を闇雲に追い込むようなことはしないでしょう。だって、事情があってそうせざるを得ない立場の相手なのですから。愛すべき相手なのですから。
昨今の中国、韓国、北朝鮮、ロシアといった隣国との関係を考える時、こういう視点は大事だなぁと思いました。
こういう視点を持っていなければ、日本は孤立したり暴走したりして、かえって国益を損ねる結果を招きかねませんからね。
2023年06月24日
あやうく一生懸命生きるところだった
この本は、Facebookで友だちが紹介していたので、興味をいだいて買った本です。
この本を、成分献血をしながら読んでいたら、スタッフの方から「私もこの本を読みましたよ。読みやすくて、とてもためになる内容でした。」と声をかけられました。ベストセラーになっただけに、知っている人も多そうです。
実はそのスタッフの方から、「今度、馬の絵本を読もうと思っているんです。ちょっとページ数があるのですが、大人も楽しめるということなので。タイトルは忘れちゃいました。」と言われて検索してみました。おそらく、「ぼく モグラ キツネ 馬」ではないかと思うのですが、どうでしょうか?
この本の著者は韓国人のハ・ワンさん。売れないイラストレーターをしながら会社勤務もするという二足のわらじを履いておられたようですが、ある時、思い立って会社を辞めてしまったのだそうです。
私と同じわけではありませんが、何か似ている部分もあるなぁと感じて、興味を持って読み進めました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「でも、もう疲れた。気力も体力も底をついた。チクショウ、もう限界だ。
そう、40歳はターニングポイントだ。そんな理由から、決心した。
今日から必死に生きないようにしよう、と。」(p.9)
「誰しも必死に頑張ろうとする世の中で、一生懸命やらないなんて正気の沙汰ではない。
でも、自分自身にチャンスを与えたかった。違った生き方を送るチャンスを。自らに捧げる40歳のバースデープレゼントでも言おうか。
正直なところ、この選択がどんな結果を生むのかはわからない。「頑張らない人生」なんて初めてだ。だからこれは、人生を賭けた実験だ。」(p.9)
ただこれまでとは違う生き方をしようと思って、どうなるかという結果を考えずに会社を辞めた。そんなハ・ワンさんの生き様が、このエッセイには書かれています。
「だからといって、一生懸命努力する人を否定するつもりも、適当に生きたほうがいいと言うつもりもない。落ち着いて聞いてほしい。
努力は、必ず報われるわけじゃない。
ただ、それだけの話だ。」(p.32)
「自分が ”こんなにも” 努力したのだから、必ず ”これくらい” の見返りがあるべきだという思考こそが苦悩の始まりだ。
見返りとは、いつだって努力の量と比例して得られるものではない。むしろ努力の量よりも少ないか、またはより多いものである。時には見返りがないことすらある。残念ながら真実だ。」(p.33-34)
ハ・ワンさんは日本の小説や漫画もたくさん読まれているようで、随所にそういう話が出てきます。ここでは村上春樹氏のデビュー作「嵐の歌を聴け」という本の内容が紹介されていました。
太平洋のど真ん中で遭難した男女がいて、男はここで救助を待つと言うのに対し、女は島がありそうな方へ泳いでみると言って別れた。女は必死で泳いでなんとか島にたどり着き、救助された。一方の男は、そこで何もせずに待っていたら救助された。この2人が後日再会した時、女は努力しなかった男も、救助されるという同じ見返りを得たことに理不尽さを覚えたという話です。
「みんなと同じように生きないという選択は、あらゆる面で疲れる。ひょっとして、みんなも疲れるから他人に合わせて生きているのだろうか。
もちろん僕も、いつも他人の視線を気にしてきたし、誰に見られても恥ずかしくない人生を送ろうと努力してきた。たとえ、それがうまくいかなくても。正直、「人生マニュアル」に合わせて生きてみたかったけど、簡単ではなかったんだ。
でも、本当に恥ずべきは、この年で何も持ち合わせていないことではなく、自分なりのポリシーや方向性を持たずに生きてきたという事実のほうかもしれない。
これまでほしがってきたものは全部、他人が提示したものだった。
みんなによく見られようとしていた。それが恥ずかしい。」(p.46)
「いい年して、まだ結婚していないの。」なんてセリフ、よく聞かれますね。結婚して、子どもを作って、家を買って、良い親になる。それが当たり前。そう言い聞かされて、そのように生きようとしてきた。たしかに、そういう面がありますね。
「そこでようやく認めることができた。自分にはお金を稼ぐ能力が決定的に不足していることを。
そして気づいた。
「どうすれば金持ちになれるか」だけを考えすぎるあまり、本当に大事なものを見落としてきたことに。
だから、金持ちになることはあきらめることにした。これまで辛酸(しんさん)を舐(な)めてきたが、やみくもに金持ちを目指すのは正しくない。」(p.52)
これ、私も到達した結論なんですよね。私も金持ちになりたかったけど、いろいろやっても上手く行かなかったのです。だから、もう金儲けしようとすることそのものをやめようと思いました。
私に金儲けの才能がないのは、その才能がない(=他の才能がある)人生を歩むことが、私らしく生きる道だと思ったからです。
「あきらめとは「卑屈な失敗」だと教わってきたが、実のところそうではない。
賢明な人生を生きるうえでは、あきらめる技術も必要だ。
僕らは、忍耐や努力する技術については幾度となく体にたたき込まれてきたが、あきらめる技術は教わらなかった。いや、むしろあきらめてはいけないと習った。」(p.65)
「賢明なあきらめには ”勇気” が必要だ。
失敗を認める勇気。
努力と時間が実を結ばなかったら、潔く振っ切る勇気。
失敗しても、新たなことにチャレンジする勇気。」(p.66)
実際、やったことがすべて成功するなんてことはないわけで、株式投資などにおいても損切りが必要なことがあります。もうこれ以上は続けないという見極めこそが、あきらめる技術なのだと思います。
人生において重要なことは、思いついたいろいろなことをともかくやってみて、上手く行かないなら自分には合わないのだと見極めて、それをやめることだと思います。そのために重要なのが、あきらめる技術なのでしょう。
「そう、結果は誰にもわからないものだ。
だから、眉間にシワを寄せて「どれを選べばいいか?」「正解はどれか?」と思い悩み、自分を苦しめる必要なんてまったくない。
人生のすべてをコントロールしようと考えてはいけない。
だって、そもそも不可能なのだから。」(p.73)
上手く行くのか行かないのか、結果はやってみなければわからないもの。そしてその結果でさえ、「悪い」と思っていたことが、見方が変わると「良い」になったりもする。
そうであれば、何を選択しようとどうでもいいってことになりませんかね。
「では一体、どうして答えのない問題に挑み続けるのか?
それはきっと、楽しいからに違いない。なぞなぞの本質は楽しさにある。
そうだ。本来、楽しむことが目的のなぞなぞに、僕らはあまりにも死に物狂いで挑んでいるのではないか?
答えを探すことにだけ集中し、問題を解く楽しさを忘れてはいないだろうか?
なぞなぞは、必ずしも正解しなくていい。間違えても楽しいのだ。
しかも、このなぞなぞには、どうせ正解なんでない。」(p.80)
人生はなぞなぞのようなものだと、著者のハ・ワンさんは言います。私は、人生はゲームだと言っていますが、同じようなことだと思います。
上手く行こうと上手く行くまいと、ただそれを楽しめばいいだけのもの。それを上手く行かなければならないという執着心にとらわれるから、苦しんでいるだけのように思います。
「結局、再びお金を稼がざるをえない。お金からは完全に自由にはなれないようだ。
しかし、以前とは大きな違いがある。
以前は、未来のために我慢してお金を稼いでいた。
「お金を稼ぐ」イコール「我慢して耐える」だったが、今は、現在の自由と喜びを維持するためにお金を稼ぐ。我慢するのではなく、喜びを少し味わうための能動的な行動だ。
今の生活が維持できるくらいに稼げればいいので、多くを稼ぐ必要はない。よりつつましい暮らしでもよければ、仕事をもっと軽くすることもできる。」(p.196)
働かなくて、お金を稼がなくて、生活ができるかと言えば、そうではないことは明らかです。ただ、他人が示す理想的な生活のために、あるいは他人と比較して同じくらいの生活のためにと、無理をしてお金を稼がなくても、自分が満足する程度に稼ぐという生き方はあると思います。
以前、「減速して生きる ダウンシフターズ」や「年収90万円で東京ハッピーライフ」という本を紹介しました。こちらでも、それほどお金を使わなくても生きられるという考え方が紹介されていましたね。
ただ、この本もそうですが、老後についてまだ真剣に向き合っていない気がします。多くの人は、自分が働けなくなった老後に対して、もっとも強い不安を感じているのではないでしょうか。今が大丈夫だから将来も大丈夫、とは言い切れない気持ちがあるのです。
これについては、日本では年金があれば助かるという面があるのは事実です。しかし、そもそも年金の受給額が低い人もいます。そういう人も、生活保護があるから大丈夫、というのが日本の建前です。しかし、現実的には様々な条件や規制があり、生活保護を受けられない人もいるし、受けられても自由がなくなる人もいるのです。
本書は、そういう点に言及するものではないので触れられていませんが、やはりそこに踏み込まないと、本当の意味で「安心して働かない」という選択はできないのだろうなぁと思います。
「けれど、ここ数年は幸せを感じる瞬間が増えた。状況が好転したからではない。
ありのままの自分から目をそらして苦労し続けることをやめ、今の自分を好きになろう、認めようと決めたからだ。
自分の人生だって、なかなか悪くはないと認めてからは、不思議とささいなことにも幸せを感じられるようになった。
こんなことにまで幸せを感じられるのかってほどに。」(p.215)
今の自分のままではダメだと否定している限り、幸せを感じることはできません。まずは、今のありのままの自分でOKだと受け入れることですね。
「そう、人生の大半はつまらない。
だから、もしかすると満足できる生き方とは、人生の大部分を占めるこんな普通のつまらない瞬間を幸せに過ごすことにあるのではないか?」(p.232)
何も事件が起こらない。何も達成しない。特別なものを何も得ない。それが人生の大半だと言うのですね。
実際、そうかもしれませんね。そんな何もない日常に幸せを感じられるかどうかが、人生を幸せに生きる鍵のように思います。
「逆に期待しなければ、基準がないから心も寛大になる。
少しでも良ければ満足につながる。
つまり、期待しなければ、良いことが起きる確率が上がるということだ。
ほんのちっぽけなラッキーでも、想定外の出来事なら十分に満足できる。
もし人生を期待せずに生きられたら、毎日がラッキーの連続、すべてがサプライズプレゼントみたいに感じられるのかもしれない。」(p.274)
お勧めしている「神との対話」でも、「期待なしに生きる」ということを言っています。それが神性であり、自由なのだと言っているのです。
これは、悪い結果を恐れて、わざと悪い結果を予想するのとは違います。「どうせ上手く行かないよ」という考え方がそうなのですが、それは期待しないことではなく、実は期待しているからこそ傷つかないためにそうしているのです。
本当の意味での期待せずに生きるというのは、結果がどうでもいい、結果を重要視しない、という生き方だと思います。良い結果なら儲けもの、悪い結果でも良い経験ができたと思える生き方ですね。
それほど期待せずに読み始めたのですが、とても読みやすいし、案外深い内容が書かれていて驚きました。
こういう本がベストセラーになるということは、多くの人が、こういう生き方を求めているということでしょうか。もしそうなら、それは人類にとって良い傾向だなぁと思いました。
2023年06月18日
体癖
もう1年以上前に買って、読み始めていた本ですが、途中で興味を失ってしまったこともあり、今日まで読み終えずに来ました。
退職と転居の時期が近づいたこともあり、この本も読み終えて置いていこうと思ったので、再び読み始めたという感じです。
著者は野口整体の野口晴哉(のぐち・はるちか)さんです。野口さんの本は、以前に「風邪の効用」を紹介しています。
この本は、私が生まれる前の昭和36年(1961年)7月に書き終えられたようです。そんな古い本でもあり、また、かなり専門的と言うか、整体を実践している人向けのガイダンス的な内容でもあり、一般の人には「難しい」と感じられるような内容です。実際、Amazonのレビューを見ても、そういう感想が多々ありました。
それでも、12種類の傾きや捻じれなどの身体的な特徴から、人の特徴を記して、それをどう扱うのが良いかを示したということは、整体を考える上で有益なことだろうと思います。
素人的には、すべてを把握することは困難だと思いますが、生まれつきの身体的な特徴によって性格とか考え方まで決まってくるということがあるのだ、というように受け入れれば、たとえ理解できないとしても、理解できないままに違いを受け入れられるようになるのではないかと思いました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「しかし人間もまた動物である以上、環境に適応してその機能形態を変化する自然の能力を有していることに変わりはない。そのため改善した環境に住めばその改善された環境に適応し、その機能形態を変えることは当然である。それ故消化しやすいように煮焼きしたものを食べておればそうしないと食えなくなり、丁寧に噛めば消化がよいことを知ってこれを実行しておれば、丁寧に噛まないと消化不良を起こすようになる。栄養物を選りどって食べておれば、栄養食品からでないと栄養が吸収できなくなる。」(p.22-23)
たとえば細菌などが体に害悪を与えるとして除菌が進めば、免疫力が弱くなって、ちょっとした細菌に接するだけで感染するようになるようなものです。
栄養豊富な食べ物ばかり食べていれば健康によいかと言われれば、必ずしもそうではないという面があるということですね。
「エネルギーの圧縮、凝固が病気を体に作りだし、自己を破壊に導くこともしばしばある。次々に生ずる欲求のため、実現が遅く感じ、欲求不満が生じ、また中には自分でもどんな欲求か判らないのに欲求不満だけを感じ、その実現の見当がつかぬため自分へ八つ当たりしている慢性病も少なくない。若い女房をもった亭主の喘息、嫌いな亭主をもった女房の婦人病、親の注意を求むるための寝小便等々、数え上げればいくらでもある。病気は体の故障だと考えている人も多いが、体以前の動きにすでに病気があることを注視すべきである。」(p.33)
病気は、精神的な偏りによって作られることがあります。そういうことがわかれば、病気を未然に防ぐことも可能になるのでしょうね。
「環境改善も天敵一掃も体の実質を丈夫にするための方法ではなかった。却ってその目的達成は自壊現象の誘導に通じる。我々はいかにしたら体を丈夫にし得るか慎重に考えざるを得ない。
体が丈夫ならば、食べ旨く、働いて快く、眠って愉しい。空の蒼く晴れていることも美しいし、太陽の輝くことも心を明るくする。花咲き、鳥歌うも欣(よろこ)びである。作られた楽しさを追い求め、汲々として苦しんでいる如きは、生くることそのものが欣びであることを体で感じられないからである。苦しんで鍛えて丈夫になれるつもりの人もいるが、それは違う。何もしなくても健康であり丈夫であるように人間はできている。楽しく快く生きることこそ人間の丈夫になる自然の道である。守られ庇(かば)われ、やりたいことをやれず、言いたいことを言えず、動きたいののに動かないで暮らしていることは決して健康への道ではない。
健康に至るにはどうしたらよいか。簡単である。全力を出しきって行動し、ぐっすり眠ることである。自発的に動かねば全力は出しきれない。」(p.34-35)
病気の原因をなくせば健康になるかと言うと、必ずしもそうではないということですね。体を過保護にすれば、それによって体が弱くなり、病気になることもある。
だからそういう不安を動機とした原因の排除に心をとらわれるのではなく、主体的に生きて、それでいて自分の人生を肯定して喜ぶこと、楽しむことが、健康の秘訣なのですね。
「同じ人間でもいろいろの運動習性があるが、そのどれももとを探ってゆけば体構造差にある。牛が草を食するのもその気が温和(おとな)しいからではない。虎が肉を食うのもその性が荒(すさ)んでいるからではない。各々の体構造によるのであって、人間各人の行動もまたもとをただせば各人の体構造のもたらす運動習性に他ならなぬ。」(p.39)
「一体、人間は何を主張しようとするのか、一言に言えば「我ここに在り」というのである。いろいろの言い回しはあるが、その端的は「オギャー」である。何故そんなことにワザワザ大声をあげるのかといえば、それは男であり女であるからに他ならぬ。全ての主張はその意味では性に連なると言えよう。
要求の第一は食べることである。動くことである。その身を保とうとすることである。何故食べたいのか、生きていたいからである。しかし何故生きていたいのかは判らない。生きていたいから生きていたい、というより他ない。ただ裡(うち)にある生の要求によって、食べたくなり、飲みたくなり、動きたくなり、眠りたくなる。その要求によって、一個の精子が万物を凝集して人体を作ったのであるから、いわば体構造以前の問題であろう。
それ故、主張も、要求も含めて要求といえる。一は個体存続の要求であり、一はいつまでも生きていたい要求の現われとしての種族保存の願いに他ならない。ここに人間の一切の動きのもとがある。人間に限らず、動物の動くのは体の動く前に動くものが裡に生じ、裡の動きの現われとして体が動くのである。それ故、動くことのすべては要求の現われに他ならぬ。一切の体の動きの背後に構造以前の要求がある。」(p.44-45)
「しかし、それでも鬱散(うっさん)してしまえばすぐ落ち着くのであるが、内攻して体の中で鬱滞したままでいると醗酵(はっこう)して育ち、後になって妙なところで爆発するのだから難しい。明日の天気予報ができるようになっても、宇宙船を飛ばせても、明日の奥さんの機嫌は予想もつかない。いや自分のだって判らない。その理由は何かといえば、体のエネルギーの集注、分散の平衡を保とうとするはたらきがいつも行われているからである。この平衡作用の働いていることを知らず、ただ目前に現われたことだけしか見なかったら、人間の生活というものは奇々怪々である。」(p.49-50)
「しかし、丁寧に一人一人を観ていると、それぞれに鬱散の習性があって、鬱滞すると怒鳴る人もおれば、愚痴を言い出す人もある。歩き回る人もおれば、茶碗を割る人もいる。」(p.51)
「咄嗟(とっさ)の時に出る動作は人によっていろいろあるが、同じ人はともすると同じことを繰り返す。そういう方向に動きやすい体構造をしているからであろう。錐体外路系運動の習性とでもいえようか。そのために鬱散の手段に癖があるので、その奥さんの街路系習性を心得ていたからこそ、この御亭主は身をかわし得たのだろう。」(p.51-52)
野口氏の人体の理解は、このように人間存在そのものに根ざしたもののようです。
人間の欲求が元になって、いろいろな動きとなって現れる。その現れ方は、体構造によって違いがあるということですね。
「この如く体癖素質は噴出方向によって十二種に分類しただけでは不十分で、さらにこの習性、また周期律、許容量等によって分類を進めねばならぬ。体の波による分類には「類」という名称を用いる。四十八類に分かつ。」(p.73)
12種の体癖分類だけでも素人には手におえませんが、専門的には48類に分類するのだそうです。
「どんな動作をしてもその固有の運動の焦点が反応するのですから、疲労の中心もここにあるといって差し支えありません。従って無意的にとる休息姿勢も、その偏り運動の焦点に起こっている不随意的緊張を弛緩させるような姿勢をとるのです。」(p.93)
無意識的に休息する姿勢もまた、身体の偏り、つまり体癖に起因していると言えるのですね。
「三種の人が好きと嫌いで何でも処理してしまうといっても、そうできているのだから当たり前なのです。それを五種のように、好きであっても嫌いであっても、まず計算してから返事しろと言われても、三種にはできない。人間は各々のそういう宿命というか、体癖によって生きているのですから、お互いにそれを理解し合っていけば、もう少し人間社会の中のゴタゴタは少なくなると思うのです。」(p.164)
つまり、「なんでこれができないの!?」と言いたくなるようなことがあっても、体癖が異っているとできないことがあるのです。
それだけ人は「違う」のですから、「違う」ということを前提にすれば、世の中は平和になると思います。
「肋骨を折った時などは、息をするのも苦しく、歩くとゴボゴボ音がする。しようがないので操法が終わると映画館に行って、片手で肋骨を押えながら見ている間は痛いのを忘れている。そうしているうちに治ってしまいましたが、病気になって床に臥して心を患い、気を患っているというのは馬鹿だなあと思う。そういう痛いところや、苦しいことがあったら、そのまま面白い漫画でも見ていたら、見ているうちに治ってしまう。歯が痛いといって一生懸命そこを押えている人があるが、注意が集まるほど感覚は敏感になるのだから、それはつまらない。」(p.258)
不安になって気にしていると、かえってその不調が持続するということがあるのです。それよりもさっさと忘れてしまった方がいい。その方が治りが早いということがあるんですね。
ここで「片手で肋骨を押えながら」とあるのは、まさにレイキですね。野口整体では「愉気(ゆき)」と言うのですが、要は「手当て」であり、本質的には同じものだと思います。
専門的過ぎるので、この本に書かれた概要的な情報では、12種の体癖さえ完全に知ることは不可能ではないかと思います。事実、私自身がどの種に入るのか、まったくわかりませんでした。
なので、この本で素人が理解すべきなのは、自分の意志ではどうにもならない体癖というものがあって、それは人それぞれ違うし、その違いによって、性格や行動、考え方も影響を受けるということを理解すればよいかと思いました。
2023年06月15日
京都祇園もも吉庵のあまから帖
久しぶりに志賀内泰弘(しがない・やすひろ)さんの本を読んでみたくなって、この本を買いました。
志賀内さんの本はこれまでに、「5分で涙があふれて止まらないお話」や「気象予報士のテラさんと、ぶち猫のテル」を読んで紹介しています。いずれも、ホロッと涙がこぼれるような、感動的な話が満載の本です。今回の本も、またそういう本でした。
どうやらシリーズ本のようですね。京都祇園の一見さんお断りのもも吉庵を舞台とした、ホロリとするような短編小説集となっています。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。とは言え、これは小説ですから、ネタバレにならないよう注意しながら、私が感動した部分を紹介したいと思います。
「ええか、今日からうちが、あんたの姉さんや。義理の姉さんいう言葉の上だけやない。ほんまもんの姉さんや。よ〜く覚えとき」
暮れかかる茜の空に、どこかで鐘が鳴った。
それを合図にしたかのように、奈々江の瞳から涙があふれてきた。」(p.62)
かつてNo.1の芸妓だった美都子は、舞妓になる前の「仕込みさん」の奈々江のことがいちいち気に入らなかったのです。甘すぎると思っていました。祇園で舞妓、芸妓になるということは、並大抵のことではないのです。
だから美都子は奈々江に厳しく当たってきました。けれども、東日本大震災で家族を失って、生きる道を探して舞妓になろうとした奈々江の事情を知った時、美都子は心底応援したくなったのです。本当の家族になろうと思ったのです。
「花街では、血がつながっていなくても、目上の人は『お義母さん』『お姉さん』『お父さん』『お兄さん』と呼びます。ご存じの通りや。みんな家族なんや。何よりも生きて行くんに大切なのは家族と違いますか?」(p.84)
もも吉庵の亭主、もも吉のセリフです。花街では、全体が家族。そうであれば、会社であろうと地域社会であろうと、みんなが家族だという考え方もできるはずです。
私は老人介護施設で2年間働かせていただきましたが、その中でもいろいろありました。
スタッフ同士で、「あいつは仕事が全然できてない」なんて悪口と言うか文句と言うか、日常茶飯事でした。同じ仲間なんだから、もっと受け入れたらいいのに、と思いました。けれども、そんな私でも、「何でこれができないの!?」と頭に来ることが多々あったのです。
私も、まだまだだなぁと思いました。私たちは家族だという覚悟が足りなかったのだと思います。家族であれば、もうどうしようもない。受け入れるしかない。助け合うしかない。その覚悟です。
「「ほほほっレディーファーストどすか、それは降参や降参。遠慮のう座らしてもらいまひょ」
もも吉は、青年の一言で「すくわれた」と思った。
青年も無言で笑った。
ここでもも吉は、ふと悪戯心(いたずらごころ)が湧いてきた。
年甲斐もなく、彼を好きになってしまったのだ。
それも、男はんとしてだ。
「お兄さん、それにしても粋なお人やなぁ。惚れてしまいましたがな」
「惚れて」というところを特に大きな声で言った。」(p.223)
若く見られても還暦は過ぎていると見られるもも吉は、電車内で若者から席を譲られようとしました。その時つい、まだそんな年ではないと抵抗してしまったのです。それに対して若者が、年寄だからではなくレディーファーストだからだ、と機転を利かせて言ったのでした。
日本人の価値観の中に「粋(いき)」というものがあります。相手に恥をかかせない。それも粋なのです。昨今、徹底的に相手を論破して、上から目線でやり込める、つまりマウントを取る風潮がありますが、それは粋ではありません。相手に対する敬意とか、親しみがないのです。
私はこれを読んで、「粋」というのは、「違いはあっても、みんな家族なんだ」という考え方が根底にあるように思いました。だから、価値観が違っても大切な人として扱いたいという思いがあるのです。
「恭子は、もも吉のそばに寄り添い続けた。
何も云わない。
ただ聴くだけ。
泣いては愚痴を言い、泣いては捨て鉢なことを口にするもも吉に、「うんうん」とだけ答える。」(p.261)
「「人生は、どんなに気張って生きていても、自分の責任でもなんでもないのに、どうしようもな辛いことが起きる時があるて」
「……」
「でも、それは受け入れるしかないんやそうや。よく、苦労は金を出しても買え、と言うわなぁ。でも、本当にお金を出してまで苦労を買う人は一人もいない。だから、神様がときどき人に苦労を与えるんやそうや。もっと苦労して精進せえよって」」(p.262)
「ええか、もういっぺん言うで。起きたことはどうにもならん。受け入れるしかないんや。その苦労は、神様がもっと精進せえ言うて、与えてくれたもんなんや」(p.263)
私もこれまで、こういうことが多々ありました。これを「強制終了」と呼んでいるのですが、SMS1本で婚約が破談されたり、メールでリストラ通告されたり。でもね、それは受け入れるしかないんですよね。
そして、そういう状況にあって落ち込んでいる人に対しては、ただ「寄り添う」ことしかできないんですよね。「お前はダメだ」と否定することがダメなのは当然として、「もっと頑張れ」と励ますのも違う。「共感」と言っても、「そうだそうだ」という共感じゃなく、「つらいよね。わかるよ。」という共感。それが「寄り添う」ということじゃないかと思うのです。
人生、長く生きていればそれだけで、いろいろなことがあると思います。私ですらあるのですから、私以上に波乱万丈の人生を送られている方も多数いらっしゃることでしょう。
そういう経験をされてこられた方であれば、この物語を読んで、しみじみと感じることがあるのではないかと思います。
もちろん、まだ若くて、そういう経験がない人もいるでしょう。そういう人にも、ぜひ事前学習として読んでもらえたらいいなぁと思います。
単に読み物としても、感動するストーリーばかりですからね。気軽に読んでみてくださいね。
2023年06月12日
あなたに贈る21の言葉
日本講演新聞の魂の編集長こと水谷もりひと(みずたに・もりひと)さんの新しい本が出版されると知って、予約して買いました。
水谷さんの本は、これまでに「日本一心を揺るがす新聞の社説3」や「日本一心を揺るがす新聞の社説 ベストセレクション」などを紹介していますが、新聞に書かれた社説の文章が秀逸です。
日本講演新聞の関連で言うと、先日、中部支局長の山本孝弘さんが書かれた「「ありがとう」という日本語にありがとう」を読んで紹介したばかりです。
読み終えて、この2冊は合わせて読んでほしいなぁと思いました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「理想を生きるということは、自分を好きになり、自分のために生きることです。
それはすなわち、誰かを幸せにし、
誰かの人生を応援することとイコールであることを、
私は50歳を過ぎたあたりから気が付きました。
だから、自分の人生が変わるような素敵な話を聴いて、
感動したり、感涙したりしたことは、独り占めせず誰かに伝えてきました。」(p.4)
「はじめに」で、水谷さんはこう言われています。
この本は素晴らしい本だから、大切な人にプレゼントしてほしいと言われます。
それは、文章が素晴らしいからではなく、ネタ元の人や書籍や映画が素晴らしいからだと。
たしかに水谷さんの文章は、こういう話を聞いたとか、本で読んだ、映画で観たなど、ネタ元の紹介があります。それで私も、紹介される本を何冊も買って読んだのです。
私はこの本を、今働いている施設に寄贈するつもりです。この施設で働いておられるスタッフの方、また利用者様が手にとって、何かを感じてもらえるといいなぁと思っているのです。
「人生は何で構成されているのか。
それは、ズバリ、「習慣」です。
「人生は習慣でできている」とか「習慣が変われば人生が変わる」
そんな言葉をどこかで聞いたことはありませんか。」(p.15)
この序章にも書かれていましたが、私はマザー・テレサの「行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。」という言葉を思い出します。
他でも何度も耳にしたのでしょう。ですから今、私は、思考を変えるのも習慣によるものであり、思考の習慣が人生を創ると考えています。
「まず、比較的変えやすい言葉の習慣から手を付けましょう。
つまり口癖です。
愚痴、不平不満、悪口・陰口は絶対言わないと決めましょう。
「大丈夫」「できる」「ありがとう」など、ポジティブな言葉を意識して使いましょう。」(p.17)
これは小林正観さんや斎藤一人さんなども言われてますね。
言葉を変えれば思考が変わり、行動も変わります。思考、言葉、行為は、創造のための3つのツールだと、お勧めしている「神との対話」でも言っています。
では、「02 命ある限り、この人生を輝かせよう」からです。
「1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書」(致知出版社)の7月31日のページに書かれた話が取り上げられています。長男を白血病で亡くし、その8年後に次男をプールでの事故で亡くした塩見志満子さんの話です。
「しばらくして、同じ高校教師の夫が大泣きしながら駆け付けました。
妻の心境を察したのか、夫は志満子さんを近くの倉庫の裏に連れていって、
とんでもないことを言い出しました。
「これはつらく、悲しいことや。だけど、犯人を見つけたら、
その子の両親はこれから先ずっと
自分の子どもは友だちを殺してしまった、という罪を背負って生きていかないかん。
わしら二人が我慢しようや。うちの子は心臓まひで死んだことにしよう。
校医の先生に心臓まひで死んだという診断書を書いてもらおう。
そうしようや。そうしようや」」(p.32)
毎年、命日になると、次男の墓前に花が飾られているそうです。もし学校を訴えていたら、お金をもらうことはできたとしても、こんな優しい人を育てることはできなかった。志満子さんは、そんなふうに考えたそうです。
「志満子さんの壮絶な人生を紹介して、
「被害者は加害者をゆるしたほうがいい」とか
「ゆるすという行為は美しい」とか、
そんなことを言いたいわけではありません。
思ったことは、自分が抱えている苦悩なんて取るに足りない、
微々たるものだということです。
まだまだ自分は甘いと思ったのです。
もっともっと頑張れると思ったのです。」(p.34)
この最後の一文に、頭をハンマーでガツンと殴られたように感じました。そして、泣けてきました。
「そうだよ、まだまだやれるよ。もっとやれるよ。これからだよ。」と、自分を叱咤激励したくなったのです。
次は「05 苦しみや悩みにこそ意味がある」からです。
この話の元ネタは「ぼくの命は言葉とともにある」(致知出版社)という本です。兵庫県尼崎市の小林書店の「本の頒布(はんぷ)会」で送られたものだそうで、これは年会費を払うことで月に1冊、店主の小林由美子さんの選書が送られてくるものだそうです。
著者は福島智さんで、原因不明の病気で視力を失い、聴力まで失うことになった。見えない、聞こえないという状況になって、生きていく意味があるのかと考えたそうです。
「「今も苦悩の日々です」と福島さんは言います。
しかし彼は「苦悩にこそ意味がある」と考えています。
「何者かが自分に苦悩を与えているのだろう。
その苦悩は自分以外の誰かの命を輝かせるために
どうしても必要なものなのだろう。
それが使命なら果たさなければならない。
それが運命ならくぐらねばならない」と。」(p.57)
「人には役割があります」というセリフを、大河ドラマ「篤姫」で聞いたことを思い出しました。「宇宙戦艦ヤマト」に感動したのも、それが自分の運命なら受けて立つしかないという覚悟を見せられたからです。
そんなことを思いながら、また泣いてしまいました。私が置かれた状況は、福島さんほどひどいものではありません。ですが、私には私の役割がある。私の人生を私らしく生きていこうと思ったのです。
次は「07 クレージーな夢を叶えることの意味」からです。
元ネタは全盲の岩本光弘さんの講演からだそうです。ブラインドセーリングで太平洋を横断することを夢見て、辛坊治郎さんと一緒に旅立ったニュースがありましたね。残念ながら失敗に終わりましたが、その時、散々に叩かれたそうです。「見えないからこそ見えた光」(ユサブル)に、詳細が書かれているとか。
その後、ヨットのことはまったくわからないダグラス・スミスさんというアメリカ人から誘われて、再び挑戦することになったそうです。そして2019年4月、その夢が叶ったのです。
「「僕よりすごいのは、ヨットのことを何も知らないのに、
全盲の僕が操縦するヨットに乗り込んできたダグラスです」
「クレージー」は和訳すると放送禁止用語の日本語です。
ですが、案外そんなおかしな連中が社会を、
そして時代を変えてきたのです。
クレージーな夢を叶えるということは、
そういうことかもしれません。」(p.74)
言われてみれば確かにそうです。ダグラスさんは、岩本さんの思いに感じるものがあったのでしょうね。あなたはヨットの操縦ができるし、私は2つの目で見ることができるから、2人が力を合わせれば夢を叶えられるなんて、なかなか言えませんから。
この話を読んで、私はドン・キホーテを思い出しました。他の人からバカにされますが、それでも自分思うがままに突き進む。それがクレージーであり、人を感動させ、時代を変えていくのだと思います。
次は「11 大丈夫、トンネルの先には光がある」からです。
つい先日、引退を表明されたように記憶していますが、卓球の石川佳純選手の話です。石川選手にも暗いトンネルの時期があったそうです。ついには世界ランキング72位の選手にすら完敗してしまった。そんな石川選手の浮き沈みのドラマが、NHKスペシャルで放映されていたそうです。
「「勝ちた過ぎるとダメですね」と一言。
「勝ちた過ぎる?」、聞いたことのない日本語でした。
「『勝ちたい』『結果がほしい』ばかりだと何をやってるのか分からなくなる。
『なるようになる』という気持ちにならないと……。
次の試合がちょっとだけ楽しみになりました」と笑ったのです。
不思議なことに、次の試合から石川選手に勝ち星が戻ってきました。」(p.99)
この話を読んで、次の格言を思い出しました。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」
結果に執着していると、かえって思い通りの結果が得られなくなるのです。動機が恐れ(不安)だから、それが現実になるのですね。
だから、結果を手放すこと。行為に情熱を燃やすこと。つまり、結果を恐れずにやってることを楽しめばいいのです。
次は「16 素敵な思い込みを上書き保存する」からです。
映画「アイ・フィール・プリティ」の内容が紹介されていて、主演のエイミー・シューマーという女性お笑い芸人が、太め体型にコンプレックスを持っているOLのレネーを演じていたそうです。
レネーはある時、頭を強打してから、自分が理想的な体型になっていると錯覚するようになりました。自己肯定感が高まり、自信たっぷりに振る舞うようになったレネー。しかし、また頭を打つことがあって、これまでの自己認識が夢であったと気づくのです。
「2枚の写真をスクリーンに映し出しました。
「こっちが魔法にかかっていた時の私で、こっちが本当の私よ」と言うのですが、
会場の人たちは「どっちも同じじゃん」と反応します。
レネーがもう一度よく見てみると、確かに同じ写真です。
ということは「魔法」ではなく、「ただの思い込みだった」と気づくレネー。
そしてこう語りだしました。
「子どもの頃、みんな自信に満ちていた。
太っていても、パンツ丸出しでも気にしなかった。
みんなどこで自信をなくしたの? いつ自分に疑問を持ち始めたの?
自分で自分を素晴らしいと思える強さを持ってもいいんじゃないの?
子どもの頃の自信を忘れないで! だって私は私なのよ」
会場は拍手喝采となりました。
みんな何かしら自分にコンプレックスを持っていたのです。
自分のことを「すごい」「できる」と思っている人もいますが、
「何をやってもだめ」「イケてない」と思っている人もいます。
どちらも間違いではありません。
その人の思い込みなのですから。」(p.137-138)
ちょっと長かったのですが、論点がわかるよう引用しました。
自己認識というのは、自分が勝手に「自分はこうだ」と思いこんでいる、つまり勝手に信じているものなのですね。
そうであれば、自分に都合が良いように自己認識を変えればいい。「私はすごい」と決めればいいのです。
それが結論なのですが、そうは言われても簡単ではないとも言えます。だって、すでにそう信じているのですから。
そのためには訓練が必要かもしれないし、そもそも思考の習慣を変えるためにたゆまぬ努力と一定の時間が必要です。私がお勧めする「鏡のワーク」も、そのための方法の1つなのです。
私も、内向的で小心者だと思っていますが、この傾向はなかなか変わりません。今でこそ、自信があるように見えると言われることもありますが、根となる性格は、そう簡単には変わらないのです。
それでも、変えていこうとすることに意味はあると思うし、実際、ずいぶんと変わったなぁと感じます。他人からどう見えようと、私自身の中で自分の成長が確認できるなら、それでいいと思っています。
次は「17 平和とは、肯定し承認すること」からです。
作家の寮美千子さんの話です。「あふれでたのはやさしさだった」(西日本出版社)に書かれている話ですが、私も日本講演新聞の記事で知って、この本を読んで紹介しています。
「彼らは幼少期から、何を言っても否定される家庭で育っていました。
常に大人から叱責され、攻撃されてきました。
だから奈良少年刑務所の教官たちは、「否定しない」「注意しない」「指導しない」
そして「ひたすら待つ」という全承認の場を作っていました。
否定されない環境の中で少しずつ心を開いていくと、
少年たちは自ら成長していくというのです。
寮さんは言います。
「マスコミで目にする凶悪な少年犯罪は、社会に表出した最悪の結果だけ」と。」(p.147)
誰一人として、他人を苦しめたくて行動する人はいない。それでも犯罪など他人を苦しめる行動をしてしまうのは、そうせざるを得ない事情がある。私は、そう思っています。完全性善説の立場です。
なぜなら、私たちの本質は愛そのものであり、存在するのは愛しかない。それがお勧めする「神との対話」で語られていることであり、私もそうだと思っているのです。
最後は最終章で、「人生を面白がっているあなたへ」というタイトルです。
まず水谷さんが宮崎中央新聞社に入社してから、その会社の代表になる経緯について書かれています。これは、ここにもあるように、奥様の松田くるみさんが書かれた「なぜ、宮崎の小さな新聞が世界中で読まれているのか」(ごま書房新社)に詳しく書かれていましたね。
そこから、岡根芳樹さんの「セールスの絶対教科書」(HS)の話が取り上げられます。私もこれを読んで、セールスを極めることと人生を極めることは、実は同じなんだなぁと思いました。
「「失敗してもいいからやってみなさい」と言う大人はいなかったと思います。
だから、挑戦することに心理的なブレーキがかかってしまうのです。
そのブレーキを外す魔法の言葉を、桑森は師匠から教えられました。
それが「面白がる」です。
断られたら、その断り文句をネタ帳に書いて面白がるのです。
そんな言葉をたくさん集めて、将来成功体験を語る時のネタにするのです。
主人公が何も挑戦しないドラマはきっとつまらないでしょう。
いつだってこの人生ドラマの主人公は自分です。
だったら面白くなりそうな道を選んでみましょう。
失敗してもいいから。」(p.181)
私も、近々退職します。冒険です。挑戦です。詳しくは、私のYoutube動画をご覧になってくださいね。
人生は思い通りになりません。だからこそドラマは面白いとも言えるのですね。
そうであれば、「私の人生」というタイトルのドラマを、どれだけ面白いものにできるか、楽しんだらいいと思うのです。
私は、これまで20年以上、日本講演新聞(旧「みやざき中央新聞(通称:みやちゅう)」を購読してきましたが、先月いっぱいで解約しました。
これは、日本講演新聞がダメだということではありません。もちろん、ダメな点もいくつかあって、私も苦言を呈したことがありました。けれども、購読をやめる主たる理由ではありません。
そうではなくて、これまでの習慣を変えようと思ったのです。今回の退職も同様です。その退職することで生活が一変するこのタイミングで、他のこれまでの習慣を変えてみようと思ったのです。
それ以上の理由はありません。変えることで何が得られるのか、そんなことも考えていません。ただ変えてみる。強いて言えば、面白そうだからです。
日本講演新聞の購読はやめますが、これまで多くの本を紹介していただいたり、いろいろな考えを教えてくださったことには感謝しています。
そして、こういう単行本の形で出版されるものがあれば、積極的に読んでみたいと思っています。
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