2022年07月09日

成功に価値は無い!



日本講演新聞でよく紹介されている執行草舟(しぎょう・そうしゅう)氏の新しい本です。新刊という意味もありますが、これまでとは違って、わかりやすく書かれた本になっています。
これまでの本(「「憧れ」の思想」)は、やたら小難しくてとっつきにくい、けれどもいいことを書いている、という印象でした。その本意がわかってくると、スムーズに読めるのですが、それまでは「何を言いたいんだろう?」という思いがあって、頭に入ってこなかったという印象があります。

今回は、比較的に若い層(20〜40歳)に向けた内容で、1テーマごとの完結で、わかりやすく書かれているようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

どうして成功したいと思ったこともない私が、こんなことになっているのか。
 その理由があるとすれば、思い当たることは一つしかありません。小学生の頃に出会った武士道の書『葉隠』です。
」(p.4)

執行氏は、小学校1年で「葉隠」と出合い、その哲学に心酔し、極めて来られたようです。その後、事業を始められてそれが上手くいくなど、世間的には成功者だと思われています。その理由は、成功を求めることではなく、「葉隠」の生き方を実践してきたことにあると思われているのですね。

『葉隠』で語られていることを簡単に言えば、体当たりの精神です。この世を生き抜く者としての「生命の燃焼」を教えてくれているのが『葉隠』の真髄です。
 さらに分かりやすく説明すると、ボロボロになるまで体当たりを繰り返して、燃え尽きて死ぬ。そういった価値観が『葉隠』で言われていることです。良い子になるための「道徳」とは別物だということを、分かってもらいたい。
」(p.17)

人間関係の改善に役立つかどうかも、関係ありません。生まれたら、命が尽きるその日まで、ものごとに体当たりし、実践し続ける。これが武士道です。損も得もなければ、良いも悪いもありません。」(p.18)

何が言いたいかというと、武士だけの生き方論が「武士道」ではなく、日本人としての本当の生き方を示しているのが「武士道」だということです。
 『葉隠』では、自分の生命が求めるものに体当たりを繰り返し、何の功名を求めることもなく死んでいくことが「本当の人生」だと説いています。
」(p.19)

ここでもうすでに結論が語られており、以下はその繰り返しとも言えます。
つまり、結果を求めることをしないという生き方です。結果はどうでもよく、ただそうすることが自分らしいからそうする。それが正しいかどうかさえ、どうでもいいのです。あくまでも自分の魂の声にしたがって、命も惜しまずに全力を出し切ること。それが武士道であり、『葉隠』に示された生き方であり、日本人みんなが踏み行うべき道だと執行氏は言われるのです。


会社を辞めるのは、一向にかまわないと思います。でも、それは自分のわがままから出たことだということを、分かっていないといけません。会社が悪い、上司が悪いといって他人の責任にするのは、武士道ではありません。
 上司がどうあれ、会社がどうあれ、すべては自分の責任だと考える。そうすることで、さらに鍛錬を積み重ね、一人の人間として成長することにつながります。上司や会社に恨みを残すこともないでしょう。
」(p.24)

昔は「お家」というものを絶対的な存在とし、そこに忠誠を誓う生き方が武士道とされてきました。現代ではすでに「お家」というものがないので、それに近いのが「会社」ではないかと執行氏は言います。
しかし、その「お家」と同等の「会社」でさえ、辞めることそのものを否定はしないと言うのですね。どう決断したにせよ、その責任はすべて自分にある。その生き方の方が優先されるからです。

なお、理不尽な目に合うことは、生きていればいくらでもあることで、それによって鍛えられるという話もされています。会社に限らず、家族も同じだということも言われていますね。
すべてにおいて、自分の思い通りの結果を目指すのではなく、自分らしく生き抜くことが優先される。結果はどうでもよく、勝手に後からついてくる。そういうことではないかと思います。


バカにされたからといって、私はその人を憎んだりはしません。言いたいことを言えば嫌われることなんて、分かりきっているからです。
 バカにされようが、嫌われようが、信念を語る生き方をする。それを武士道は教えてくれます。
」(p.29)

執行氏は、出会った人の99%から嫌われ、バカにされていると言います。それでも、そういうことを気にせず、自分を貫き通しておられるのだと。


私が言いたいのは、お金があるから、本を読んでいるからできるんだ、という話ではないということです。人を助ける人は、お金があるかないかにかかわらず助けます。自分が食い物に困ってでも相手を助ける。これが本当です。「お金持ちになったら人を助ける」なんて言う人がいますが、それは嘘です。
 金持ちだから、成功したから、健康だから、自信があるから、これらは自分の生き方と何の関係もありません。本人が決意した生き方が、その人の生き方です。
」(p.31)

何らかの条件を付けている限り、それは言い訳になります。やらないことの言い訳です。
本当にそれがやりたいなら、無条件に始めるはずです。今、できることをやるはずです。

そこには、「自信がなくてできない」という言い訳も含まれると言います。何かができるから、何かがあるから、という理由で自信が持てるなら、その自信は偽物です。根拠のある自信は、簡単に崩れ去ります。だから私は、「根拠のない自信」を持つよう勧めています。「根拠のない自信」とは、自分が「やる」と決めるだけのことですから。


自分の生まれやルーツのことを「宿命」と言います。「宿命」とは、終わってしまった運命のことです。出身地、家、卒業した小学校、これらはすべて「宿命」です。これから先にある運命ではなく、自分の過去にあった運命のことです。
 「宿命」は変えることができません。例えば、日本人であること。ひとたび日本人として生まれてきたからには、どう転んでもフランス人という人種にはなれません。親もそうでしょう。自分の両親から生まれてきたという事実は、絶対に動かせないのです。
」(p.48)

宿命と運命の違いについては、いろいろな説明があります。すでに起こった運命を宿命と呼び、未だ起こっていないものが運命だという説明は、なるほどと思いました。


私は、商売や事業は「志」を実現するためにやるものだと思っています。「志」がなかったり、ダメになったりしては、事業を行う意味はありません。」(p.58)

執行氏にとっての事業は、自分の志を表現するものであり、単に生活のためとか、儲けるためではないと言うのですね。
したがってその志のための適正な規模を保つように心がけておられるそうです。


現在の日本には、家制度がほとんど残っていません。ですから、家制度と聞いてもピンと来ない人が大勢いると思います。しかし、昔の家制度に最も近いのが、先にも触れましたが、いまの会社組織だと言えば、イメージしやすいのではないでしょうか。
 武士は、「家」を大事に考え、それを守るために戦いました。相手を攻め負かすというより、自分にとって大切な「家」のために、槍や刀をとったのです。
 つまり、先述したように「武士道」は、”戦いの哲学”ではなく、”守りの哲学”だということを思い出して下さい。
」(p.77)

先に書いたように、武士道の本質は「お家」のために命を投げ出すことです。現代であれば「会社」だと執行氏は言います。そしてそれは、他を打ち負かすためではなく、守るために命を投げ出すのだと言うのですね。


武士道で重要なのは、成功や失敗ではありません。いったん自分が選んだのなら、そこに自分の人生と命を捧げる。大事なのはそこです。
 選んで命を捧げた結果、失敗したのだとしたら、それは運命です。『葉隠』でいう犬死にになるかもしれませんが、それはそれでいい。『葉隠』の武士道では、犬死にOKです。
」(p.146)

そもそも結果に執着していないのですから、成功か失敗かなど、どうでもいいことなのですね。自分が選んだ(決めた)という一点によって、そうする意義が生まれる。
私も、妻のことを愛するのは、私が愛すると決めたからだ、と考えています。妻がどうこうとか関係なく、私がそう決めたから、それに従うだけなのです。


よく「会社のここがダメだからうまくいかないんだ」とか、「こういうところがイヤなんだ」という人がいます。そういう人に限って、きれいごとばかり言っています。
 人間に欠点があるように、どの会社にも欠点はあります。すべてが美しいなんてことはありません。汚れた部分はあるし、表面からは見えない裏の部分もあります。
」(p.156)

こうしたダメな部分を拒絶するのではなく、受け入れ、許したとき、会社の中で自分が何を成すべきかという使命が分かります。分かったら、そこに全精力を傾ける「やる気」がわいてきます。」(p.158)

完璧を求めるということは、他人に責任を負わせるということなのですね。不完全であってもそれを受け入れ、自分の責任で何とかしようとする。そういう生き方こそが、「志」のある生き方だろうと思います。


学校もそうでした。昔は先生がムチを持っていて、子どもが嫌がる暗記や筆記をさせていました。やらないと、問答無用に容赦なくムチが飛んでくる。まさしく「不合理」です。
 しかし、この「不合理」があったからこそ、子どもたちは人生を考え勉強ができるようになり、社会に出て働ける人間になれました。自分の能力を伸ばすこともできた。
 私は、「思い通りにならない」「イヤなことをせざるを得ない」といった、文明の毒素ともいえる「不合理」が、最も人を育ててくれると思っています。
 だから、本当に成長したいと思ったら、「不合理」から逃げてはいけません。「不合理」という毒を食らい、消化し、自己化するのです。
」(p.179)

困難があるから成長できる。私もそう思います。しかし、だからと言って暴力が正しいとは思いませんがね。


信念を貫き、自分として一生懸命やれば、出世できなかろうが、儲からなかろうが、そんなことはどっちでもいいのです。出世や儲けを考えること自体がダメなのです。
 平社員で一生を終える運命であるなら、その運命を一生懸命に遂行すればよい。「損な生き方だ」と思うかもしれませんが、葉隠流に言えば、その考え方がもう上方風の格好つけ武士道なのです。
」(p.207)

ここでも、結果を放り出して、やるべきことに邁進する姿勢、つまり生き方こそが大切なのだということを言っています。
結果が出ないからダメなのではない、ということを言われているのでしょう。私もそう思います。


結果にとらわれずに行為に情熱を燃やすという生き方は、私も「神との対話」によって知っていて、実践しています。できているかどうかは別として、そう生きようと思っています。

ただ、執行氏が言うことの多くに賛同するものの、一部には納得できない部分もあります。
たとえば原発批判です。特にその理由を言われず、さも当然かのようにあるべきではないと決めつけられています。執行氏がどう考えるかは自由なのですが、それがさも絶対的に正しいかのように言われるのには、私は違和感を感じます。なぜなら、ここに引用したような執行氏の考え方と矛盾すると思うからです。

何が正しいかなど一概には言えないはずです。その人にはその人の正しさがあり、その思いに従って命を燃焼させているなら、それでいいというのが武士道ではないのでしょうか? そうであれば、原発の研究や推進にだって、それぞれの思いがありますよ。そんなことがわからないのでしょうか?

そういう思いもあって、ややもやもやする部分はあります。
しかし、全般的に観れば、結果を気にせずに自分らしく生きよ、というメッセージだと思うし、そういう点では共感しています。

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タグ:執行草舟
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2022年07月02日

月まで三キロ



SNSで友だちが紹介していたので、面白そうだと感じて買ってみました。
興味が湧いたのは、著者が理系だということ。そこをウリにするということは、小説の中に理系の要素が取り入れられているということです。どんなふうに取り入れられているのか、そこに関心があって読んでみることにしたのです。

私が買ったのは文庫本です。検索でたまたま先にヒットしたので、単行本ではなく文庫本になりました。でもお陰で、短編をいくつか読むことができ、著者の伊与原新(いよはら・しん)さんの小説の傾向が見て取れました。

この文庫本には、タイトルにある「月まで三キロ」という小説の他に、5つの小説が盛り込まれています。さらに、この文庫本用に書かれた超短編も含まれています。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介していきましょう。しかし、これは小説ですから、なるべくネタバレしないように、物語のキモを紹介したいと思います。

ある日のことだった。母の月命日だったので、仏壇に仏飯を供えていた。父がそれを手づかみにして、口に入れようとした。普段なら好きにさせただろうが、その日は朝から言うことを聞いてくれず、いらいらしていた。父の手首をつかんでやめさせようとすると、逆につかみかかってきた。それを力まかせに引きはがし、顔面をなぐりつけた。倒れ込んだ父は、失禁していた。匂いが辺りに漂った。畳に染み出す尿を見つめていると、涙があふれてきた。膝から崩れ落ち、嗚咽した。」(p.36 「月まで三キロ」)

この物語には、老人介護の問題、認知症の問題が関わってくるのです。私が今、老人介護施設で働いているだけに、ここの描写は共感するのです。

そうだ。違う。父はあんなところにいるわけじゃない。岐阜にいる。老人ホームにひとりでいる。岐阜駅まで行けば、そこから三キロもない。
 父は、もう何も答えてはくれない。でも、焦点の合わないその目を直接のぞき込むことはできる。耳もとで直接問い質(ただ)してやることはできる。
 息子のことをどう思っていたのかと。息子に本当は何を伝えたかったのかと。そして、息子のことを愛していたのかと。
」(p.52-53 「月まで三キロ」)

認知症になった親に、何をしたって意味がない。そう考えることもできます。しかし、相手が何も返してくれないとしても、こちらからアプローチし続けることはできるのです。
問われているのは、相手がどうするかではなく、自分がどうするか、それだけではないのか? そんなことを考えさせてくれるのです。


なんで別居することになったの? 離婚するつもりなの? 親権はどうなるの? 何を訊いても、「それは大人の話だから、そのうちね」。そうやって除(の)け者にされるのは、うんざりだった。もう十二歳。そこらの小学生より知識はある。幼稚な駄々をこねたりもしない。話してさえくれれば、何だってわかるのだ。」(p.131 「アンモナイトの探し方」)

こういうことって、あるんじゃないかなぁと思いました。大人は子どもを、大人のミニチュアだとか、未熟な大人だと考えがちです。でも、本当にそうでしょうか?
私も、正直に話してくれない母に対してキレたことがありました。きちんと話してくれれば、私だってわかるのに、と。

私はそのとき思い知った。わかるための鍵は常に、わからないことの中にある。その鍵を見つけるためには、まず、何がわからないかを知らなければならない。つまり、わかるとわからないを、きちんとわけるんだ」(p.143 「アンモナイトの探し方」)

登場人物のセリフですが、このセリフについては、巻末にある逢坂剛(おうさか・ごう)氏との対談の中で、逢坂氏が指摘しています。

気の利いた警句がうまいタイミングで出てきますね。」(p.360)

こういうセリフはいいですね。」(p.360)

私も、この哲学的な表現が、とても良いと感じました。「わからない」を明確にすることによって、「わかる」が輪郭を見せてくれるのです。

「やることはまだいくらでもあるからな」
「いくらでもって……」朋樹もそちらに顔を向ける。「いい場所はもう水没しちゃったんでしょ? それとも、ここは見込みがあるんですか? 何かすごい発見がありそうとか」
「そんなことは誰にもわからん。わからんからやるんだろうが」戸川は渋い顔で言った。「やるのは誰でも構わんが、何年、何十年かけてでも散々やってみて、それでもダメなら、ここはダメだということがわかる。そして、次の場所へいく。わかることではなく、わからないことを見つけていく作業の積み重ねだよ」
」(p.156 「アンモナイトの探し方」)

エジソンが電球を発明した時のエピソードを思い出します。失敗するということは、それがダメだとわかるということです。それだけ成功に近づいているのだと。
こういう考え方がなければ、地道な作業の繰り返しはできません。一足飛びに成功だけを追い求め、けっきょく何もできずに終わってしまうのです。
化石を見つけるという作業も、同じなのですね。たとえ有力な場所がダメになっても、まだ掘っていない場所はある。だったら、探してみるしかない。それが、研究者の考えなのです。


「優−−」哲おっちゃんが兄貴に顔を向ける。「さっきの最後の質問の答えは、冗談や。ミカに言うといて。人生に後悔はつきものや。でもそれでええやないか。そのために、ブルースがある。優には優の、健には健の、ミカにはミカのブルースがある。お父ちゃんは、機嫌ようお父ちゃんのブルースをやってますさかい−−ってな」」(p.212 「天王寺ハイエイタス」)

何を選択しても、選択しなかった方に未練が残ることはありますよ。だって、それを経験しなかったのですから。でも、それが人生なんですよね。


伊与原さんは、元々ミステリー小説を書かれていたそうです。科学的なことは、専門家にとっては常識でも、一般人にはよくわからないこと。だから、それをミステリーのトリックにしていたのだとか。
たしかにそういうトリックはありますね。たとえば、鋭い何かで刺殺されたのに、凶器が見つからない、実はその凶器は「つらら」だったとか。

伊与原さんは、そういうミステリー小説を書かれていましたが、ある時に限界にぶち当たって、編集者からミステリーじゃないものを書いたらどうかと言われて、「月まで三キロ」を書いたのだそうです。それによって、新ジャンルを切り開くことになったようです。

私はこの短編集を読んで、科学的なうんちくがみごとに伏線になっているなぁと思いました。小説のテーマは、別のところにあります。それは、恋愛というよりも家族愛のようなものですね。
そして、主人公が様々な出会いをしますが、状況は何も変わらないのです。正義のヒーローも現れないし、事態が急変することもありません。ただ、主人公の見方が変わるのです。それによって救われると言うか、穏やかな満足感が訪れます。

何だかホッとする小説ですね。ミステリーのようでミステリーじゃない。科学のようで、科学もどうでもいい。まさに新ジャンル。率直に、面白いと感じました。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:24 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年06月27日

人生で大切なことはすべて学年通信のコラムに書いてあった



日本講演新聞で紹介されていた本です。著者の末松孝治(すえまつ・たかはる)さんは、「ふくしまの男性家庭教諭」という肩書です。
男性で家庭科を教えているというのも珍しいのですが、この本は、末松さんが学年通信の裏に書き続けたコラムの集大成となっています。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

哀しいのは、大人になったいまでも、長く継続することがなかなか難しいということです。ですから、私にとって「自分との約束」というのはそれほど信用できるものではありませんでした。他の人との約束は一生懸命に守ろうと努力できるのですが…。

「自分との約束」とは、自分で決めたことを実行するということです。では、なぜ自分と約束するのかというと、それはきっと現状の何かを変えたいという決意があるからだと思います。
」(p.43)

「継続は力」という格言がありますが、私の高校の時の陸上部の顧問の先生が座右の銘だと言っていました。どんな凡庸な人であっても、継続していれば必ず大成するのだと。
末松さんは、自分が継続できない性格だと告白します。他人との約束は守ろうとするけど、自分との約束を守れないのだと。そこで、次のような方法を提案します。

それなら一層のこと、「もう『自分との約束』はあきらめ、他人との約束に変えてしまおう」と考えてみてはいかがでしょうか。そうすれば、「あの人と約束したんだからやらなければならない」に変換できるので、きっと成功率はあがるだろうと思うのです。」(p.44)

そう言って、生徒たちに自分と約束しようと呼びかけます。これが効果があるのかどうかはわかりませんが、生徒指導というのは、こういうものかもしれませんね。


「偶然」という漢字を分解すると、「人」+「禺」(会うという意味)+「然」(然るべくして、必然という意味)になります。つまり偶然は、「人が出会うのは必然」と書くのです。不思議ですね。」(p.47)

学年通信のコラムを書こうとしてアンテナを張っていると、こういう引き出し(うんちく)がどんどん増えてくるのだそうです。
それにしても、偶然という言葉が実は必然を示しているとは、面白い考え方だなぁと思いました。


片腕で見事に打ち、片腕で守るピートのプレーは、見ている人々に大きな感動を与えたのです。」(p.69)

片腕でメジャーリーガーになったピート・グレイの話を取り上げています。私はまったく知らなかったので、言われるがままに「ピート・グレイ」で検索してみましたよ。
メジャー在籍は1年間で、それほど活躍できたわけではなかったようですね。けれども、そういう選手がいたからこそ、後のアボット投手のような選手も出てこれたのかもしれません。

最後に、ピート・グレイの座右の銘を紹介します。
「A winner never quits. (勝者は絶対にあきらめない)」
」(p.70)

先程の継続の話とも重なりますが、「あきらめない」こと、「続ける」ことが、成功への唯一の道なのだと思います。


鶴ヶ城には縦横2.5m以上ある推定7.5トンの巨石が石垣に組み込まれているそうです。東山温泉の入り口にある山から約1kmの距離を運ばれてきたのですが、これをどうやって運んだかという話です。男衆が約100人で運んだと言うのですが、1人あたり約70kgを持って1kmも進めるでしょうか?
これを可能にする秘策があったと言うのですね。これが実に面白かった。

実は、石の上に「あるもの」を乗せてさらに重くしたのです。そんな逆転の発想で石を動かしたというのです。では、いったいなにを乗せたのでしょうか?
 それは、「女性」でした。石の上に美しく着飾った心動かされるほどの魅力的な女性たちを乗せ、歌い踊らせたといいます。それを見た男たちのテンションは最高潮にまで上がり、その勢いで7.5トンもの石を持ち上げて1キロ先まで運びきってしまったというのです。
」(p.141)

男というものは、なぜにこうなのでしょうね。(笑)
いずれにせよ、こういうワクワクする動機があると、不可能も可能になるってことですね。

この話で思い出すのは、天岩戸伝説です。天照大神がお隠れになった時、神々が相談してやったのが大宴会。その中心には天宇受売命が半裸状態で踊っています。それにやんやと喝采を贈る神々。楽しかったのでしょうね。私は、こういう話が好きです。


この二つの話に共通する視点は、「落ちたりんご」、「流された工場」を見たのではなく、「落ちなかったりんご」、「流されなかった缶詰」という残されたものに目を向けたということです。
 これから皆さんは人生において、どうにもならないピンチが一度や二度は訪れるかもしれません。そんなときは、「ものの見方や考えかたを変えてみる」ということを心がけてみるといいでしょう。すると、それまで最大のピンチだと思っていたことが最高のチャンスに変わることもあるかもしれません。
」(p.225-226)

有名な話ですが、平成3年9月の最大瞬間風速50mを超える台風によって、青森県津軽地方の特産のリンゴの約9割が落ちてしまったという話です。売り物にならなくなったリングを見て意気消沈したリンゴ農家の方々。その中で、落ちなかったリンゴに注目し、受験生への贈り物にしたらいいと考えた人がいたのですね。
また、2011年の東日本大震災の津波で缶詰工場が大打撃を受けた時、流されなかった缶詰に注目して、「希望の缶詰」として販売し、復興の一歩にしたという話です。
すべては見方次第ですね。末松さんは、ひすいこたろうさんの本をたくさん読まれているようです。そういう点、私とも親和性がありますね。


これも話題になった2013年3月のWBCアジア予選「日本対台湾」戦での出来事です。試合は日本が逆転で勝ったのですが、試合終了後に台湾の選手がマウンドを囲んで円になり、全員がスタンドの方を向いて一礼したという出来事です。
これには伏線があって、試合の2日前にTwitterで、東日本大震災の時に台湾から多大な支援をしてもらったことのお礼を、スタンドから発信してほしいという訴えがあり、その試合では、「謝謝台湾」のようなプラカードがたくさん掲げられました。それを見た台湾の選手が感動し、試合後のこの行動になったのです。

野球は、台湾で最も人気のあるスポーツです。WBCの日本戦も台湾各地の大型ビジョンでも放送され、2300万人の人口の半数を超える1200万人が視聴しました。この東京ドームの映像は国際映像で台湾の人たちへと届けられ、日本人にとって台湾の方々への感謝を伝える機会となりました。
 台湾が震災後、他国以上の支援を日本に対してしてくれたのはなぜでしょうか。その理由を知りたい人は、私のクラスの書棚にある白駒妃登美著『感動する!日本史』(中経出版)のP84〜を読んで下さい。
」(p.235-236)

白駒妃登美さん「感動する!日本史」は、私もブログ記事で紹介しています。P84から書かれているのは、台湾のために尽くした日本人、八田與一さんなどのことです。その恩を台湾の人たちは忘れずにいてくれたのです。

同じようなことは、他の国でもありますね。トルコが親日なのは、エルトゥールル号遭難事件のことを知って、日本人をリスペクトしてくれているからです。
これも白駒妃登美さんがいくつかの書籍で紹介してくださっています。「海難1890」という映画がありますが、このトルコの人たちの恩返しによって、イラン・イラク戦争時の日本人の危機が救われました。
また、イランも親日国です。これは、イランが石油を輸出できなくなった時、メジャーに対して喧嘩を売った出光興産の出光佐三氏の活躍によるものです。この話は、映画「海賊と呼ばれた男」になってますね。ひすいこたろうさんも「心が折れそうなときキミに力をくれる奇跡の言葉」という本の中で、この話を紹介されています。
私はこの映画を観て、出光佐三氏に興味を持ち、「マルクスが日本に生まれていたら」という同氏の本を読んでみました。これもお勧めの1冊です。


本書は、高校生向けに末松さんが書かれたコラムを集めたものです。なので、一つひとつのコラムを読みながら、「ふ〜ん、なるほどね。」と感じ入りながら読めるものになっています。
子どもへの贈り物としても良いと思いますし、大人が読んでみても、読み応えがあると思いました。

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タグ:末松孝治
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 07:54 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年06月18日

続・老後はひとり暮らしが幸せ



以前に紹介した「老後はひとり暮らしが幸せ」の続編です。
前回の本で、なぜか一人暮らしの方が満足度が高く、幸せを感じられる人が多いという現実が紹介されていました。今回は、なぜそうなるのかということについて、さらに深く追求したものとなっています。著者は辻川覚志(つじかわ・さとし)医師です。

アンケート結果を重視して、できるだけ客観的に事実を積み重ねて結論を導き出そうとする姿勢に共感できます。
結論は、「さもありなん」ということに落ち着くのですが、事実の積み重ねがあるからこそ、その結論にも重さが感じられると思います。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

しかし、少しくらい悩みが減っても、ひとり暮らしには、どうしても寂しさや不安が残ってしまいます。これらの感情は暮らしの質を低下させるものです。それなのに、なぜ、ひとりで老後を暮らすことが、満足することにつながるのでしょうか。そのことを追求するために、本書では、この寂しさや不安という感情に焦点を絞り、皆様方から教えていただいた結果をまとめたいと思います。
 今回は、60歳以上の男女570名の方々に、寂しさと不安を中心に、詳細なアンケート調査をお願いしました。
」(p.6)

前作で老後は同居より独居の方が満足度が高く、幸せに生きられるという結果が出ていました。アンケートの詳細は巻末に載っていますが、今回はその理由を探っていこうというものになっています。


しかし、前章で触れましたように、寂しさは多くの場合、一過性です。ある一定の時期を乗り越えれば、慣れるということがありえる感情です。しかも、短期間だけ、家族が家を訪問して、にぎやかに過ごしてしまうと、家族が帰ってしまい、また、ひとりになったときが寂しいので困るという声すらあります。
 つまり、あまり波風を立てずにひとりで暮らしているかぎりでは、それほど強く寂しさを感じることはないともいえそうです。
」(p.52)

そもそも寂しさは一過性であり、満足度に大きく影響しない感情ではないか、というわけですね。
私もひとり暮らしが長かったのですが、寂しいと感じたことはありません。むしろわずらわしさがなくて、気楽だったという気がします。


悩みも、寂しさと同様に、ひとり暮らしで不安がない人が最低で、同居で不安があるとされたグループが、一番悩みが多いという結果でした。
 つまり、不安に関して考えても、満足度や悩みの程度という観点からみると、同居はあまりよくありません。
 結局、ひとり暮らしで不安のない人がひとり勝ち、ということになりました。満足するひとり暮らしを牽引しているのは、このグループの人たちだったわけです。
」(p.66)

「ひとり暮らし」で「不安がない」ことが、満足して生きるポイントになりそうだということですね。


ですから、ここで注目すべきは、体調が落ちてきてしまったら、ひとり暮らしも、家族と同居されていても、同じ程度まで悪化してくるということになります。体がいよいよ弱ってきてしまうような段階になってくると、寂しいとか、不安だという感情においても、家族と暮らしているということはあまり関係がなくなって、結局は、自分自身の問題だということがわかってくるからかもしれません。」(p.78)

身体が弱って思い通りにならなくなってきた時の不安は、同居も独居も同じであり、同居の家族の支えは不安解消に役立たないということですね。


結局、厳しい言いかたになってしまうかもしれませんが、厳しい暮らしのなかで、うまく満足して暮らしておられる人とそうでない人の違いは、最終的には、その人がどのように思い、感じておられるかということにかかっているといえそうです。」(p.80)

ここまできますと、大きな役割を果たすものは、その人がもつ死生観ではないかと思えてきます。別に宗教的に帰依されておられなくても、死に対するとらえかたや考えかたをはっきりと描けている人は、心が安定しているように感じます。
 また、宗教と結びついていなくても、毎日、先立たれた家族のことを思い、その人の思い出と一体となり、日々の暮らしのなかで、共存しているような雰囲気をもたれている人は、いかに厳しい状況に追い込まれても、心静かに暮らされているように思えます。
」(p.81)

自分なりの死生観があったり、先に亡くなられた愛する家族のことを思い、対話できる人は、現状が厳しくても静かな心を保つことができ、日々の生活に満足できるということですね。


そうしますと、睡眠時間とゆとり時間には、両者とも大きな差を認めませんでしたが、何もやることがなく暇だと思う時間は、図のごとく、寂しさや不安を感じる人とそうでない人とで、はっきりとした差を認めました。やはり、暇な時間が少ない人は、寂しいとか、不安だという感情をもつことが少なかったのです。」(p.85)

寂しさや不安をできるだけ感じないようにするには、忙しくしていることがポイントのようです。
何かやるべきことがあるというのは、大変なことである反面、無駄な思考を巡らす機会が減ることでもあり、充実した生活に役立つようです。


アルコールを適量で抑えることができている方のお話をうかがうと、自分の体調が知らせてくれるので、抑えられるとおっしゃいます。つまり、自分自身と対話しながらお酒を楽しんでおられる姿が浮かびます。おそらく、このような方は、アルコールを、食欲増進と生活のリズム管理、体調維持に利用されておられ、けっして、寂しさや不安を消すために使っていないということになります。」(p.118-119)

アルコール依存症というのがありますが、私はここにこの病気の本質が書かれていると思いました。
依存症になるのは、その依存対象によって不安や寂しさを消そうとしているからです。しかし、それでは消えないのが不安や寂しさなのです。方法が間違っているのに気づかずに、もっともっとと求めるようになる。これが依存症です。依存物質が原因ではないのです。


難病になり、治療法も限られてくると、体を動かすのもおっくうになってきて、もう何もする気が起きなくなるかもしれません。しかし、そんなときでも、人によっては、いろいろ工夫しながら、マッサージや体を温めたり冷やしたりして、なんとか症状を軽くしようと毎日努力されています。たとえば、理学療法士の人から教えてもらった方法をやってみたり、ご自分で試行錯誤した結果、体が楽だと思われるやりかたでやってみたりして、とにかく、自分がよいと感じたやりかたを探しておられます。そうすると、一番、長く続くわけで、それを毎日やっておられるわけです。」(p.128-129)

自分の身体と対話しながら、自分に合った方法を探して実践するから、長く続けることができる。自分の身体は自分がケアすることですよ。
そして、自分の身体のケアのために時間を使っているから、それだけでも日々を充実して過ごせるのですね。


私はあまり信心深い人間ではありませんが、結局、信仰心はあろうとなかろうと、形見の品を肌身離さず身につけたり、毎日念じて声を出したりするだけで、寂しさや不安が減るわけですから助かります。非常に厳しい環境に陥ってしまっておられても、なんとか元気に暮らされている多くの方々からいただいた秘訣は、結局、心のなかで念じたり、実際に声を出して祈ったりすることでした。」(p.145)

宗教の信仰に限らず、何かを信じて実践することが、寂しさや不安から救ってくれるのかもしれませんね。


せいぜい、私たちにできることは、寂しさや不安を少しでも軽くしながら、いかにできるだけ満足しながら暮らせる時間を長くするように、頭と体を同時に使い続けるように工夫するしかないわけです。具体的には、3章で説明いたしましたように、体が丈夫な間は、思いっきり自分が有意義だと思う活動をしながら、好きな暮らしをします。そして、徐々に体の自由がきかなくなってきたら、4章で述べましたように、自分の身体が許す範囲で、考えてもしかたがないことを考える暇をつくらないように努力します。そうすることで、できるだけ自分の意思で暮らし、意味のある暮らしを楽しむことができる時間を長く保つことができると信じるしかないわけです。そして、結局、それを実現するためには、他を頼らず、なんでも自分でやれることはやるようにして暮らすことが、最終的には自分にとって最良の選択肢になりうるということを多くの方々から教えていただきました。」(p.152-153)

これが本書のまとめとも言える部分だと思います。


ひとり暮らしは大変です。何もかも自分ひとりでやらなければいけません。衰えていく心身を感じながら、自らでもできることは最後までできるだけ自分でやろうとされ、もし、他の人から親切をもらえば感謝しつつ、見守ってくれている人に安堵させるよう情報を提供し続けている人こそ、もっとも満足しながら老後を暮らしておられるように感じます。」(p.171)

私の父も、ほぼ見えなくなった今でも、ひとり暮らしを続けています。だから私は父を信頼し、満足した人生を送ってほしいと思うのです。


今回のアンケート結果は、たしかに、ひとり暮らしは、寂しさも不安も多いということがわかりました。しかしながら、これらは満足度には決定的な影響を与えないということもわかりました。別の見方をすれば、ひとり暮らしがあまりに厳しい環境なので、自ら悟りに似た自立した感情をもつしかなかったと解釈することもできるかもしれません。しかし、それが結果的にひとり暮らしの満足度を引き上げてくれているとも理解できるわけで、厳しい環境に置かれているからこそ、人の情けをありがたく感じ、自らの暮らしを厳しく律することができているのかもしれません。
 できるだけ、他の人の迷惑にならずに、あちらに逝きたいと皆様はおっしゃいます。今回のアンケート結果からいえば、そのためには、結局、自分自身だけで生きていくように努力しなさい、人を頼ってはいけませんという非常に明快な答えをいただいたと思います。
」(p.185-186)

たしかに、そういうことなのでしょうね。甘えるとは依存することです。依存するとは、自分の外に執着することです。その執着心があるから、それが得られないことが不安になり、満足度が下がるのです。
満足度を高めたいなら、執着心を捨てること。自分ひとりで最後はどうにでもすると決意すること。その覚悟によってこそ、依存心を断ち切って、幸せで生きたれるのだと思います。

悟りを得たから満足してひとり暮らしができるのではありません。はからずもひとり暮らしをせざるを得なくなったから、悟りに近い境地で、生きる覚悟ができたのです。
私たちの魂は、私たちが幸せに生きられるように常に導いている。私は、そのことを本書を読んで感じました。

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タグ:辻川覚志
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2022年06月15日

ぼけますから、よろしくお願いします。 おかえりお母さん



認知症になった母親、それを支える年上の父親。その家族のありさまを、娘の立場で書き綴ったエッセー集です。
この物語は映画になっています。著者の信友直子(のぶとも・なおこ)さんが、自ら撮影した動画をもとにしたドキュメンタリー映画です。

私の母親も認知症(レビー小体型認知症)になり、父親が老々介護をしました。そういうこともあり、このテーマには非常に関心があります。
さらに、私は今、老人介護施設で認知症のお年寄りと向き合っています。どう対処すればいいのか、悩む日々です。だからこそ、このテーマを扱った本書に関心を持ったのです。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

私が、母に対する胸の奥のどす黒い思いを吐き出した回では、
「うちだけじゃないんだ、と思ったら励まされました」
 というお手紙もいただきました。そして私は「ああ、私はこの人の役に立てたんだ」という喜びを、取り戻すことができたのです。
 やっぱり私、誰かの役に立ちたいんですよね。役に立てたことで、私はいてもいいんだな、と安心できる。認知症になって「私はもう家族の役に立てんようになった。この家におってもええんじゃろうか」と悩んでいた母と同じです。
」(p.4)

この考え方は、ある意味で麻薬のようなものだと思っています。役に立つから存在意義がある。その考え方をする限り、究極的に人は幸せになれない。私はそう思うのです。


でも母に理不尽に怒られてばかりの父はよく我慢しているなあ。それが不思議だったのですが、ある時、父がポツリとこう言ったのです。
「直子もお母さんを傷つけるようなことは言うなよ。お母さんが一番不安なんじゃけんの」
 ああ、父は全部わかっているんだ。その上で母をいたわり、支えようとしているんだ。私は父の度量の広さに感動しました。
」(p.21)

認知症になった人が一番苦しんでいる。たしかにそう思います。だから、周りが支えてあげなければならない。たしかにそうです。でも、その思いによって、支える側が苦しむこともあるんですよね。だから、この問題は難しいのです。


「母が認知症になったからといって不幸なことばかりだろうか? だからこそ気づけた素敵なこともあるんじゃないか?」
 私にとって認知症からの最大の贈り物は、父が案外「いい男」だと気づけたことでした。
」(p.32)

何が「良い」か「悪い」かなど、一概には言えません。大変な問題でもある認知症においても、「良い」と見ることができるのですね。

母が認知症になって、父と母の距離はぐっと縮まりました。娘としては目のやり場に困りますが、それでも60年連れ添った人生の最終章にこんなスキンシップが取れるなんて、幸せなことではないでしょうか。」(p.37)

認知症になったことで、理性のバリアが取っ払われて、素直に甘えられるようになった母親。そしてそれを受け止める父親。たしかにそれは、素敵なことだと思います。

私も決して、母の認知症を最初から「贈り物」だなんて思えていたわけではありません。大好きな母が壊れてゆくのを見るのは怖く、悲しく、目を背けたくもなりました。
 でも気づいたのです。いくら目を背けたところで現実は変わらない。ならば潔く受け止めて、その上で少しでも前向きに、楽しく生きる方法を工夫した方が得じゃないかと。これは、長く暗いトンネルを抜けてつかみ取った、生きるコツのようなものです。
」(p.38-39)

すべては見方次第です。そこに気づくために、認知症という困難な状況に向き合う必要があった。そうとも言えるのですね。


そして気づいたのです。ああ、こうやって笑いが生まれたら、母も安心するんだな、と。母は自分の居場所がないと感じているのですから、「お母さんがおっても、お父さんも私もこんなに楽しいんよ」と態度で示せばいいのです。そうすれば母も「ああ、私はここにおってもええんじゃね」と安心します。」(p.53)

認知症になると、どうなっていくのかわからない「不安(恐れ)」から、疑心暗鬼になりがちです。家族が自分を邪魔者にしているのではないか? その疑念を払拭してあげることが大切なのですね。
お父さんの「何じゃ? わしゃ聞こえんわい」という聞いてないふりというのも、大いなる愛なのではないか。そうやってボケて笑いを取ることで、余裕が生まれるのです。

母に疎外感を与えるのが一番良くないので、父も私も必死でご機嫌を取りました。そうしないと「私が邪魔なんね」「おらん方がええんじゃろ」と被害妄想が膨らんで、手に負えなくなるからです。そして、父も私も次第に母に気を遣うことに疲れてきました。」(p.64)

認知症の人の「不安(恐れ)」を刺激しないようにするために、機嫌を取ったり、あえて介入しなかったり、何が正解かはわかりませんが、介護者にはいろいろと苦労があるのです。
でも、そういう気遣いを重ねることによって、介護者が疲れてくるのです。


父にとって母の介護サービスを受け入れることは、自分の限界を認めることです。手に負えなくなったから助けてください、と白旗を揚げることです。私は父の誇りを傷つけてしまったんじゃないか? 私の安心のために、父を傷つけてもいいのか?
 でも、こうも思うんです。
 人は必ず年をとる。父だって一人で母の面倒を見られなくなる日がいつかはやってくる。今、父が感じているだろう無力感は、いつかは味わわなければならないものなんだ……。
」(p.77)

介護保険ができても、他人の介護を受け入れるということが、昔の人には理解できないのでしょう。それもまたその人の生き方ですからね。
でも、老人介護は、家族だけでは大変すぎると思うのです。だからこそ、老人介護を公的(社会みんなの責任)にすることは、良いことだと思うのです。


つい最近、父がつぶやいた名言があります。
「年寄りにとって、「社会参加」いうのは社会に甘えることなんじゃのう。かわいい年寄になって、何かしてもろうたら「ありがとう」言うんが、わしらの社会参加じゃわい」
」(p.80)

まさにそうだなぁと思う反面、そうしないと介護してもらえない悲しさも感じます。


「介護はプロとシェアしなさい。家族の役割はその人を愛することと割り切って」……今井先生からこう教わって初めて、自分が「介護の責任」を履き違えていたことに気づきました。
 娘の私がいるのに、母の世話を他人のヘルパーさんに押しつけるなんて、責任逃れ……それまで内心そう思ってきました。でもそれは言葉を変えれば、世間体を気にしていたということです。
」(p.106)

介護保険制度の素晴らしい点は、「介護」を家族の義務(役割)から解放したことです。家族には、家族にしかできないことがあるのですから、たとえ介護をするとしても、それが最重要だと考えないことですね。

そう、近所の人たちは本当にやさしかったのです。人生100年時代と言われ、誰が認知症になってもおかしくない今、「あそこのおばあさんはぼけた」と陰口をたたく人はいないのです。誰もが人ごとでなく自分ごととして認知症を捉えているから、母のことも親身になってくれる。そう実感しました。もっと早くご近所に話して、頼ればよかったな。」(p.108-109)

昔ながらのコミュニティがあると、認知症はずいぶんと助けてもらえますよね。それは、他の本でもそう感じました。
でも、そういうコミュニティのない都会ではどうでしょうか? あるいは、たとえ田舎だとしても、全員が全員、認知症に優しいわけではないという現実もありますよね。
事実、私が勤める施設でも、認知症の人を同じ認知症の人が責めるという現実があります。だから、必ずしも認知症であることを公開しても、それで上手くいくわけではないと思うのです。


大好きだった母がどんどん別人になってゆく。おもらししても知らん顔。指摘するととぼけ、そのうち逆ギレして、
「私はおらん方がええんじゃろ!」
 こんな姿を見せられて、心が揺れないはずはありません。
 悲しさ、情けなさ、絶望感。認知症の肉親を介護している人なら、誰もが思い当たる葛藤ではないでしょうか。
」(p.110)

認知症と排泄の問題は、本当に深刻だと思います。指摘したからと言って、上手くいくわけではありません。
では、どうすればいいのか!? それがわからないから、周囲は苦労するし、だからこそ認知症にだけはなりたくないと思うのです。


母はこんな思いまでして生きていたくないんじゃないだろうか。いっそ死んだ方が楽なんじゃないだろうか。そんな思いが頭をよぎったことも一度や二度ではありませんでした。」(p.128)

そうまでして生きていたいのか? そうまでして生かせておくことが、その人の助けになるのか?
この疑問は、究極的なものだと思います。

もはや認めざるを得ません。母が認知症になってから、私は努力しないと母を愛せなくなりました。取り乱し泣き叫ぶ姿を見ていると、大好きだったあの母と同じ人だとは、どうしても思えないからです。」(p.130)

認知症であることを受け入れられないと、認知症に負けてしまう患者(家族)を受け入れられなくなるんですね。

認知症になった母を「努力しなければ愛せなくなった」と感じた私。でも同時に思ったのです。ならば努力をすればいい。形からでもいいから、ありのままの母を愛することを始めよう。それが、今までさんざん愛情を注いでくれた母への恩返しなんだと。」(p.134)

思い通りにならない認知症の家族を、あるがままに受け入れるしかない。そこから初めて、「愛」のなんたるかがわかるようになる。私もそう思います。


正直に言って、信友直子さんのお母様の認知症の程度は、大したことないと思います。私の母の認知症の程度は、それ以上に大したことないと思います。
けれども、実際にその介護をする人にとっては大変なことなのです。だからこそ、この認知症の問題、特に排泄の問題は、大事だなぁと思うのです。

簡単に答えは出ませんが、どんな風になっても愛するという思い、その決意が重要なのではないでしょうか。たとえ施設に預けるとしてもね。

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2022年06月11日

パンツを脱いだあの日から 日本という国で生きる



日本講演新聞の5月9日号(2929号)の社説は、魂の編集長・水谷謹人さんが書かれたもので、そこでマホムッド・ジャケルさんのことが書かれていました。その最後にこの本が紹介されていたので、買ってみたというわけです。

社説では、水谷さんがプラン・インターナショナルで精神的里子の支援をしており、その子がバングラディシュの子であること、そのタイミングでジャケルさんの本の帯メッセージの依頼があったことが書かれていました。

私もかつて、プラン・インターナショナルでフィリピンの子の支援をしたことがありました。その後、タイでは、EDFを通じてタイの子の支援もしました。
世界の貧困問題、そこから派生する様々な問題を、必然的に考えることになりました。しかし、個人の力ではいかんともしがたい。そういう現実があります。

私は、ジャケルさんが運良く日本に留学することになって、日本で生きることを決意したきっかけとなった「パンツを脱ぐ」という体験に興味を持ちました。銭湯で言われたのだろうということは、容易に想像がつきました。でも、それだけではない大きな文化の違いがあると思ったのです。

正直に言って、私はバングラデシュという国の名前は知っていても、正確な場所さえも知りませんでした。この本を読んで、ミャンマーとインドの間にある国だと初めて知ったくらいです。さらに、かつては東パキスタンと呼ばれていたことも。
そう言えばたしかに昔、東パキスタンと西パキスタンとあったなぁと、おぼろげながら思い出しました。飛び地のように分かれた経緯や、その後の独立戦争のことも、この本で初めて知りました。

けれどもバングラデシュの人たちは、以前から日本のことを慕っていたようです。同じアジア人の国で、第二次大戦でボコボコにされながら、わずか20年で先進国の仲間入りをした日本。自分たちの国も、いつか日本のような豊かな国にしたい。多くのアジアの国の人がそう感じるようですが、バングラデシュもまた、そう感じる人が多いそうです。

それにしても、この本を読んで知ったバングラデシュの現実は、ある意味で悲惨としか言いようがありません。私はタイで暮らしていましたが、タイはかなりマシな国なのだと思いました。
でも、ジャケルさんのような人が増えていくことで、少しずつ変わっていくようにも思います。人は意識が変われば変わるのです。そのためにも、日本はお手本であり続けたいし、その日本を支える日本人として、その素晴らしい文化を後世に残さなければと、改めて思いました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

母さんは、私を里子に出そうと考えました。
 運よくお金持ちの家にもらわれたら、食べるものに困らない。なにより生命が保障してもらえる。この子の将来を考えたら、いまここで手放してあげたほうが、この子にとってもいいかもしれない。幸せになるのかもしれない。

 母さんは必死でした。
 そんな母さんの話を聞きつけて、ひとりの男が訪ねてきます。
「この子を、お米3kgで買いますよ」
 私は、お米3kg分でした。それは飢えた家族にとって、喉から手が出るほどほしいものでした。
」(p.13)

日本にもかつて、そういう時代があったと聞いています。頭を下げて近所から食べ物をもらうしか生きる方法がない。そんな現実は、アジアでは普通だったのです。
たったお米3kg分の命でしかない。それでいいのでしょうか? お母さんは申し出を断りました。断腸の思いで。今のジャケルさんがあるのは、こういう生かしてくれた人たちの重荷を背負う決断によるものだったのです。


「大学には合格しなかったかもしれない。でも僕は、僕が本当に学びたかった文学を大学受験を通じて、たっぷりと学ぶことができた。それがなによりの財産なんだ」
 彼は合格するためではなく、文学を学ぶために勉強していたのです。そして彼はその後、バングラデシュの作家として暮らしています。
 自分はこれからどう生きていきたいのだろう。
 バングラデシュという社会にいても「本当の目的」を見失わなければ、それはやがて自分を助ける「経験」となって返ってくる。
 だから人生には、失敗も後悔もない。彼からそのことを教わりました。
」(p.67)

ジャケルさんが大学受験に合格した時、一緒に受験した友だちは落ちたそうです。しかし、その友だちの言葉を通じて、ジャケルさんは大切なことを学んだのですね。


おじいちゃんたちはだれに言われたわけでもないのに、毎朝、マンションのまわりや道路のごみ拾いをしたり、お花に水をあげたりしています。
 その光景は、私たちの心を幸せにしてくれます。
 バングラデシュ人に必要なのは、そういう「行動」です。
 挨拶をすれば、返してくれて、ときには会話にも花が咲きます。
 お金のため、自分のためだけではなく、人のため、社会のために「行動する」という考えが、残念ながらバングラデシュではまだ根づいていないように思います。

 また日本は、ルールやマナーを守ります。
 日本人からすれば「当たり前じゃないか」と思われるかもしれませんが、この「当たり前」を守ることこそ、「経済成長」するうえで欠かせないものなのです。
」(p.226-227)

もしかしたら生きているうちに結果が出ないかもしれない。それでも未来の子どもたち、未来の地球のことを考えて努力していました。
 日本人は、あきらめないのです。
 いつ報われるかわからないことでも、努力をつづけます。そしてそれはやがて大きな実を結び、いま日本は世界に名だたる先進国となっています。
」(p.228)

ジャケルさんは、バングラデシュにない日本の優れた文化を、このように言います。自分のことだけでなく他人のこと、社会のこと、未来の子孫のことを考えて行動する。そして信頼されることに重きを置く。たしかに、日本人の良さかもしれませんね。


最後に吹田市長の後藤氏の寄稿文がありました。その中で後藤氏はこう言っています。

結局、彼ジャケルはこの著書で、人が生きる上でいかに「愛」が」必要か、様々な形の愛の中でしか人は生きられないのだ、という事を極限の人生経験から伝えたかったに違いない。

 愛に包まれ”豊かな”社会で暮らすことを当たり前に感じる、日本の若者に対して。
」(p.236)

ジャケルさんの悲惨な体験、苦労の体験は、たしかに日本人の想像を超えたものだと感じます。その数々のピンチを、ジャケルさんを支える多くの人の愛によって乗り越えてきた。ジャケルさんの今は、まさに奇跡の連続の後にあるものなのです。
この本を読めば、いかに私たちが恵まれた環境にあるのかがわかります。そして、そういう社会を作ってくれた先祖の方々の苦労をしのばずにはおれないでしょう。


ジャケルさんは、日本語の会話は何とかなっても、本を書くレベルの読み書きはできなかったようです。では、どうしてこの本が生まれたのか?
ジャケルさんをサポートしてくれる盲目の友人、西亀さんの提案があったからだそうです。ジャケルさんの話を電話で聞いて、西亀さんがパソコンにタイプする。そうやって原稿を作っていったのだとか。

取材の話を聞くうちに、目は見えなくても、言葉が通じて助けてもらえること、ビザの心配がないこと、仕事を自由に選べること、そして日本に生まれ、日本で当たり前に生活出来ていることなど、これまで当たり前と思っていたことが、全部「有難いこと」と思えるようになりました。」(p.238)

目が見えないというハンディを抱えて、健常者よりはるかに多くの苦労があったでしょう。それでもジャケルさんの経験を知ると、今の自分がいかに恵まれているかと再認識するのです。


どんな経験をジャケルさんがしてきたのか、ここでは引用しませんでした。あまりに多いからです。ぜひ、本を読んでみてください。その方が、より感動が伝わることでしょう。

私は、今の日本があるのは、2千年以上も昔から、日本人らしく生きることをずっと続けてきたご先祖の方々のお陰だと思っています。そのDNAによって、私たちは自然と日本人らしい価値観を持ち、考え方をするようになっているのだと。
だから、ジャケルさんが褒める日本人の特性は、私が優れているのではなく、多くのご先祖様たちによって培われ、受け継がれたものだと思うのです。
その結果が今の社会であり、私たちという現代に生きる日本人なのです。そうであるなら、今の私たちがやるべきことは、ご先祖様たちがされたのと同じように、今度は未来の日本人のために、優れた日本人らしく生き、そのDNAを伝えていくことだろうと思います。
そうすることによって、日本人は世界の人々のお手本となり、世界を豊かにし、平和にすることに貢献できる。私はこの本を読みながら、そんなことを思いました。

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2022年06月07日

さとりをひらいた犬



メンターのお一人、吉江勝さんがメルマガで絶賛して紹介されていたので買いました。
小説なので読みやすく、自然と真実について理解できるようになっていますね。著者は利根健(とね・たけし)さん。プロフィールを読むと、ステージ4の癌から生還され、その際に神秘体験をされたのだそうです。

神秘体験によって悟りを得た方は多くいらっしゃいます。そういうのを羨ましいと思ったころもありましたが、最近は、私は私らしい生き方でいいと思っています。なので、羨ましいと感じることはなくなり、そういう体験をする方が増えることで、世の中全体が気づきと成長へ加速しているんだなぁと喜ばしく感じています。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
と言っても、これは小説ですから、あまりネタバレにならないよう注意しながら、ごく一部を引用したいと思います。

まずストーリーの概要ですが、人に飼われている猟犬のジョンが、狼のダルシャとの出会いによって「自由」に目覚め、勧められた「ハイランド」を目指して旅立ち、様々な出会いと経験を繰り返しながら「悟り」を得ていく、というものです。

ハイランド…そこはわしらやおぬしのように、ほんとうの自分に目覚めた者たちが目指す場所。ほんとうの自分を探す旅…ほんとうの自由を見つける旅…それがハイランドへの旅なのじゃ。ハイランドを目指して旅をしても、全ての者がたどり着けるわけではない。ほんとうの自分、ほんとうの自由を理解できた者のみがたどり着く場所、それが『ハイランド』なんじゃ」(p.57)

ダルシャの友人でイノシシのコウザは、このようにハイランドを説明しています。


”危険”は『いま、ここ』で対処すればいいものだ。その”危険”を恐れ、未来を憂い、未来を不安視して心の中に創り出す影、それが”恐怖”だ。したがって、”恐怖”というものは実在しない。幻想だ。目の前には危険しかない。恐怖などないのだ」(p.107)

恐怖の中で生きるということは、幻想の中で生きることと同じ意味なのだ。この幻想に気づくこと、幻想を見抜くこと、それがほんとうの自分への、ほんとうの自由への第一歩なのだ」(p.107)

赤い魔獣と呼ばれた大熊のゾバックは、ジョンが感じた「恐怖」について、こう説明しています。


よいか、物事には偶然はない。全てが必然じゃ。起こるべくして物事は起こる。ダルシャとの出会い、ゾバックとの出会い、おんしたちの出会い、そしてわしとの出会い…。これを魂の計画と呼ぶ」(p.168)

予言者様と呼ばれるネズミのクーヨは、この他にも様々なことをジョンに話して聞かせています。


シーザー、君の考えが間違っているとは言わないよ。でも、僕はどの種族が優れていて、どの種族が劣っているとは思わない。それは”優劣”じゃなくて”違い”なんじゃないかな」(p.187)

猟犬仲間のシーザーに対して、ジョンはこう語っています。


全ての攻撃は、愛してほしいという心の声なのです。私には、あなたが助けを呼ぶ子犬にしか見えません。あなたは、自分でそれがわからないのですか?」(p.229)

白帝の妹という白馬のシャーレーンは、自分を襲おうとしているシーザーに対してこう言いました。


こ、この世界に、優れているも、劣っているもない。みんな同じだ。お、俺がここで死ぬのは、俺自身が、それを選択したからだ…。俺は、俺の意志によって死ぬのだ。俺は俺の魂の声に従って、死ぬのだ」(p.240-241)

ほ…ほんとうに大事なことは”どう生きたか?”なのだ…。死ぬとき、それはその者の”存在”が、まさに、問われるときなのだ。何を持っていようと、どんな地位にいようと、どんな実績や勲章や証があろうと、そんなものはいっさい関係ない。あっちの世界には、そんなガラクタは持ってはいけないのだ。死ぬときに問われるのは、『どう生きたのか? どういう存在であったのか?』そ…それだけだ」(p.241)

シャーレーンを守るために戦い、傷ついた赤目の狼のゲトリクスは、死ぬ間際にシーザーに対してこう語ります。


全ては必然。お前の住んでいる世界の出来事は、全てお互いの魂の計画なのだ。全ては体験による学びと遊びだ。私たちはお互いの芝居の演目を演じる役者同士なのだよ。だから、そちらの世界にいるときは、その芝居を楽しむことだ。私は十分に楽しんだから、なんの悔いもない」(p.277)

臨死体験をしたジョンは、かつてジョンによってとどめを刺された白帝と呼ばれる白馬と出会います。そこで白帝はジョンに、こう語ったのです。


感情とは、さかのぼると二つに集約される。それは愛と恐れだ」(p.284)

臨死体験から生還したジョンに、大熊のゾバックはこう言います。


永遠の時間が流れる中で、あるとき、そのたった一つの大いなる存在は、自分という存在を、自分を知りたいと思いました」(p.290)

自分の顔を外から見るために、大いなる存在は自分を分離しました。つまり、見る者と見られる者に分かれたのです。大いなる存在は自らを分離することによって、自分を外側から見ることができるようになり、自分をより詳しく知ることができるようになりました。こうして大いなる存在の、分離の物語が始まったのです」(p.290-291)

ほんとうの世界、真理の世界では、優劣はありません。”敵”も”味方”もありません。それはただ単なる個性や役割の”違い”であって、あなたが考えているような優劣や”勝ち負け”は存在しません。なぜなら、元をたどれば、全ては一つの存在(Being)だからです。私たちひとりひとりの存在は、大いなる存在の別の側面を、それぞれが表現しているだけなのです」(p.292)

自分を襲おうとしたシーザーが傷ついた時、シャーレーンはシーザーを癒そうとします。その時、シャーレーンはこう語りました。


ほんとうの自由とは、外側の何かから自由になることではありませんでした。身体やエゴの声といった”自分”からの自由…これがほんとうの自由です」(p.351)

年老いた狼のレドルクと出会い、瞑想を続けたジョンは、その気づきをこう語ります。

”私”は分裂した個ではなく、宇宙、全体、大いなる存在、そう、”それ”そのものだということが、三つの存在を通して、腹の底からわかる。それが、”さとり”じゃ」(p.353)

レドルクは、ジョンが十分に体感したことを察して、「悟り」についてこうまとめるのです。


登場者のセリフを集めてみましたが、内容についてはいちいち論評しません。なぜなら、これはすべて私がお勧めする「神との対話」シリーズで言われていることだからです。
なので、私にとってはよく知っていること。けれども、この物語を読みながら、感極まって泣いたことも白状しておきます。

けれども、それを言葉にして説明しても意味がありません。ぜひ読んで、自分で感じてみてください。「神との対話」シリーズはお勧めですが、そのエッセンスを物語として読むのも良いことだと思います。

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タグ:利根健 小説
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2022年05月31日

不倫と正義



Twitterで国際政治学者の三浦瑠麗(みうら・るり)さんをフォローしていたのですが、本を出版されるとのことで興味を持って買いました。中野信子(なかの・のぶこ)さんのことは存じ上げなかったのですが、脳科学者だそうです。
専門分野では大きく違うお二人ですが、女性であることと、割りと自由な考え方をされるように感じました。そういうこともあり、お二人がどういう対談をされるのか興味がありました。

最初に結論を言うと、少しもやもやした感じが残りました。対談というスタイルからして、そうならざるを得ない部分もあるかと思います。
また、お二人とも結婚されているのですが、夫が不倫した場合にどうするのか、という点に関して、心穏やかではいられないというようなことを言われているのに、それ以上の深掘りがない点です。
つまり、「不倫=悪」という観点を是認したまま、そこまでバッシングする必要がないじゃないか、ということになるかと思うのですが、そのスタンスが明確に感じられなかったのです。

ただそれでも、不倫とか結婚という制度についてとか、いろいろな話を聞くことができました。
そういう点では、有益な内容だったかと思います。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

もちろん、別々の人間であれば誰であろうと、「どの意見も完全に一致する」ということは論理的にあり得ない。あるとしたらどちらかが妥協して、あるいは心的負担というコストをかけて、関係性を優先することを主たる目的に、自分の意見をゆがめている可能性がある。けれど、そんなことをしなくても、互いに違う意見を持っているからこその面白さ、刺激、また内省につながる発見を得られるという喜びを味わえる能力自体が、知性というものだろう。三浦さんは、違う意見を持っていることを豊かさと捉え、是とできる人であると思う。」(p.3-4)

中野さんの三浦さん評です。私も、そういう雰囲気を三浦さんには感じます。
そして、こういう評価ができる中野さんも、ただ者じゃないなと思いました。この本を読み始めるにあたって、面白そうだなと感じた部分です。


前提としてまず申し上げておきたいのは、一夫一妻型の種って哺乳類では3〜5%とされているんですね。そもそも圧倒的に少数派なんです。その上、多くの人が誤解していると思いますが、人間は生物としては一夫一妻型ではないんです。一定の発情期もないから、いつでもパートナーを探すことができる。そして、同時に複数のパートナーを持つことが可能な脳を持っている。一夫一妻型の種ではそれができません。」(p.20)

中野さんの発言ですが、科学的に見ればそういうことなのでしょう。

ある遺伝子を持っているタイプの人では、未婚率、離婚率、不倫率が高くなる。この遺伝子の持ち主は、身内にはやや冷たい行動を取りがちになるためではないかと考えられています。一方で、外づらはいい。そのため、社会経済的地位も上がりやすくなる。で、「よく稼ぐ」です。1人にこだわる気持ちが薄いからか、人脈を形成するのも得意で、その場限りの雰囲気を作るのも上手です。」(p.21)

アルギニンバソプレシン(AVP)という幸せホルモンと呼ばれる脳内物質に似た物質があるそうですが、その受容体タイプによって性行動に違いが出るのだそうです。パートナーを1人に固定した方が心地良いのか、複数だったり次々とだったりの方が心地良いのか、という違いです。
そして、いわゆる「稼ぐ人」は、パートナーを1人に固定できない傾向があるのだそうです。何となくわかる気もします。

だから、片方のタイプの脳の人がもう片方のタイプの脳の人を「そんなの人間としておかしい」とかあれこれ言ってみてもあまり意味がない。それぞれの機構で「自分の感覚が普通だ」と脳が処理しているから。それなのに「生まれたからにはいろんな人と付き合いたい」だとか「1人の人と添い遂げるのが本当の幸せ」などと言い合っても話がかみ合わないわけです。あなたの茶色い目はおかしい、いやあなたの青い目こそいかがなものか、と言い合っているようなものです。」(p.29)

脳の機構によるものであれば、一方的な価値観である「倫理観」を押し付けようとしても無理がある。そう中野さんは言います。


要は、そのケースでは1人の女性にパートナーが2人いるんですね。ご本人は、私はポリアモリーという性的志向を持っているので、フェアに責任を持ってこの2人のパートナーと関係を維持しているんです、と言われるんです。でも、いやいや、それはパートナーの相当な犠牲のもとに成り立っているんじゃないですか? と思いましたね。身分制社会で別の目的を婚姻に求めるならともかく、好きになった人に他の男がいても、彼女はポリアモリーだったんだと思えば傷つかない、なんてことがあるわけないでしょう。だからって、そんなのは駄目だ! とか言いませんけどね。」(p.58)

こういうところに、三浦さんの限界を感じました。傷つかない人がいてもいいんじゃありませんかね。たとえば、パートナーもポリアモリーだったとしたら。
岡本かの子さんは、ご主人と若いパートナーと3人の生活をしていたそうです。ご主人が傷ついたかどうかは知りませんが、そういうかの子さんを丸ごと受け入れて、愛したのではないかと思いますよ。

そもそも、愛する相手を思い通りにしたいと考えるなら、それは愛ではないのです。違っているのが当然で、違うから面白いし魅力的だ、とも言えるわけです。
最初に引用した中野さんの三浦さん評からすると、この三浦さんの発言はちょっと残念ですね。

執着をしない恋愛というのはないでしょ。」(p.59)

中野さんもそう言って、三浦さんに同調します。
しかし、本当にそうでしょうか? 少なくとも私は、妻に執着しているとは思っていません。もちろん、それは恋愛ではないと言われればそれまでですが。
けれども、この時点でお二人の対談に、あまり魅力を感じなくなったのは事実です。


でも、要するにあの壁ドンの様子って、「支配されている」「身動きとれなくされている」わけですよね。そのことを、ああ、自分は要求されているんだと感じて喜ぶわけです。そういう回路があるんだなということですよね。」(p.92)

支配されることを必要とされていると感じ、そこに喜びを感じる。愛に飢えている時、執着している時、ありがちなことですね。


次は、男性の攻撃性についての話題です。男性が自分をリスペクトしろと迫り、そうしなければ暴力を振るうようなところがあるのに対して、女性にはそういうところがあまりない。その話題に関して三浦さんは、そういった男性がいても自分がアクティブになれたのは自分なりの防御の術を学んだからだと言います。

一つは「透明シールド」なんですよ。外部からの性的な、あるいは敵意のある視線や態度に対して、私にしか見えない「透明シールド」で自分の心を守るというのがあるんです。
 もう一つは、基本、みんなのことを好きになるように、いい面を引き出そうとする心がけですよ。私は誰に対しても割と悪意に取らないよう、善意に取るようにすることによって、世の中が恐怖ばかりではないという世界観を持っているというか、つくり出したんでしょうね。
」(107-108)

こういうところが三浦さんの魅力でもあるのでしょう。


社会全体の発想という点でいうと、結婚を尊べ、すなわち妻子を放り出すなというのは、「村」の社会保障で面倒を見るんじゃなくて、「家」単位の社会保障を機能させてほしいからだと思うんですね。人に迷惑をかけるな、という。その気持ちが強すぎて、公的な社会福祉が存在する現代でも、有名人が離婚すると、シングルマザーでやっていけるのか、などという余計なお世話に近いような記事が出回りますよね。」(p.138)

離婚や、それにつながる不倫は、「家」で保障すべき責任を果たさないことに対する怒り、つまり「家」に属さない他の「村」人に迷惑がかかるという発想なのでしょうか? そこは何とも言えませんが、三浦さんはそう考えるようです。


1人の男の人がたくさんの女の人に子供を産ませたけど、その陰には全く遺伝子を残せなかった男の人が大量にいたということですよね。そういう時代は実は意外と人類の時代を追っていくと長くて、今みたいに一夫一妻が保障されているなんて、男の人はパラダイスだよって思いますよ。結婚生活のおかげでいい思いしているのに、それに異を唱えるとは何事かって。でも、不倫報道でコメントしなきゃいけないときに、「でも一夫多妻制のほうが人間にとっては普通です」ということを私が言うと、えっ、男の味方ですか、みたいなことを嬉々として言う男の人が必ず現れる。いや違うよって(笑)。なんでみんなオレは一夫多妻側だと思っているのかすごい不思議です。」(p.154)

動物界を見ると、まさにそうですね。有能なオスは子孫を残せますが、残せない多数のオスに支えられているとも言えるわけです。
たくさんある精子の中の1つだけが受精できて、子孫を残せるというのも、ある意味で同じことですね。


国は不貞行為というものを民法上の不法行為として位置づけることによって、不貞行為は結婚という制度を裏切るものだって勝手に決めちゃったわけです。」(p.160)

中野 決め事をしていない夫婦のほうが長続きするという調査があるんですよね。」(p.161)

婚前契約書も、関係を安定させなくするものとして結果的に機能してしまうという面がある。大事なのは、ちょっと困ったねということがあったときに話し合える間柄、そういう信頼関係のはずなのに、外部装置の存在が、関係を安定させるどころか、かえって弱くしちゃうということを今いみじくも指摘してもらったような感じがします。」(p.161)

制度によって永遠の愛を保障しようとすると、かえって壊しやすくなってしまうという指摘です。不倫を違法なものにすることで、かえって許せないことになってしまい、関係が破綻しやすくなっている面があるのではないか。愛が自由なら、まさにそうなるでしょうね。


この話を素直に受け止めて考えると、日本は世界各国の中では最も世俗主義的な部類なわけですよ、本来は。宗教の要素もどちらかというと低いしね。最も価値相対主義的であってもおかしくない。」(p.208)

なのに、なぜか不倫に対しては強いバッシングが起きている。すると宗教的な倫理でバッシングしているというよりも、社会を機能させなくなってしまう不安みたいなものの方が根強いんじゃないかとも感じますよね。」(p.208-209)

日本人の場合は、唯一神の代行者が「世間」なんだと思うよ。「民衆」というと一見、主権在民的なことを言っているようで美しく感じられるんだけど、微細に網の目の張られたパノブティコン(中央の監視塔からすべてが一望できる監獄のこと)と考えるとかなり怖い社会。私たちの「世間」はアブラハムの宗教のような形を取らないけれど、人々の行動様式を制限したりある方向に誘導したりという機能だけで考えたら、宗教のような機能を持っているともいえる。それは、日本に独特なものかもしれない。これを同調圧力と呼ぶ人もいるだろうね。」(p.210)

不倫を倫理に反するという意味で考えた時、倫理を支える宗教がなく、何となくこれまでの社会が壊れてしまうような漠然とした不安が、それを否定する原動力になっているという見方ですね。
そして、その原動力である不安を正当化しているのが「世間」という目に見えないもの。何となく、「みんな」がそうなのだから、それに合わせるべきだという同調圧力ですね。


三浦 そこら中に性産業やラブホテルが林立している国で、そんな「倫」もへったくれもないだろうと思うはずなのですが、そうじゃないんですよね。「建前としての倫理」だろうと思うんですよ、これは。
中野 エクスキューズだよね。きれいで、自分が正しい側に立つための化粧みたいなもの。身だしなみとしての「倫」であって、本当に行動規範として植えつけられているかというと、そうではない気がしますね、「正しいラベル」みたいな感じ。
三浦 だから、何だろうな、みんなの見ているところで悪いことをしちゃだめだよと。
中野 見えないところならいいよっていう。
」(p.215-216)

他人に知られるようにやることは他人に影響を与えるから悪いということですね。知られないなら適当にやっておけと。たしかに、そういう面が日本人の思考にあるかもしれません。


三浦 女性が化粧をする姿を見て不快になるということ自体、すごい現代的なことですよね。だけど、ものすごい不快ってねぇ……わざわざこっちの様子を見て憤慨するというのはなんなんだと。
中野 女の舞台裏を見たくない、みたいな人いますよね。あるいは、してはならないとされていることをしている女に対するむかつきみたいなものもあるかもしれない。
」(p.218-219)

不倫バッシングと電車内での化粧バッシングには、共通点があるようにも思います。そのものはけっして「悪い」とは言い切れませんが、本来は隠しておくべきものであり、他人の目に触れることが「悪い」のだと。
私は同様に、公衆の面前で抱き合ったりキスしたりする愛情表現を嫌悪する気持ちも、同じではないかと思います。他人が見ている前でやるなよ、というもの。


「おわりに」の中で三浦さんは、本音と建前の中にバッシングの欲求が生じるのではないかということを考察されています。
つまり、本音では美しくありたい、正しくありたいと思っていても、自分の弱さからそうなれないでいる。でも、その弱さを開き直って認めてしまうと、本当は求めている美しさや正しさを放棄したことになる。それは嫌なので、建前としては美しく正しい自分であることを見せるが、実は他人に知られないそうではない部分を持っていることもわかっていて、そういう矛盾した自分を受け入れざるを得なくなっている。その本音が表に出されることが嫌なのです。
不倫が世間に知れ渡るということは、隠しておくべき本音を開き直って見せたようなもの。それが許せなくて、バッシングするのではないかということですね。

たしかに、そういう面があるのかもしれませんね。
結論としてはよくわからないということになるのですが、ああでもないこうでもないと、思考をめぐらしてみるのは楽しいことです。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:07 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月20日

LGBTの不都合な真実



これはTwitterで誰かが絶賛しておられたので、それで興味を持って買った本です。
たいへん読みごたえのある、素晴らしい内容でした。そして、著者の松浦大悟(まつうら・だいご)さんの生きる姿勢、政治家としての考え方に、とても共感しました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

さて、この本ではLGBTを切り口に、差別とは何か? 人権とは何か? 正義とは何か? 公正とは何か? 寛容とは何か? 保守とは何か? リベラルとは何か? を考えていきたいと思います。これまでほとんど語られることのなかったLGBT論です。」(p.5)

「まえがき」でこう語られているように、哲学的な論考や多くの人の発言、あるいは表現を引用しながら、松浦さんの考えが示されています。
松浦さんは、かなり頭の良い方だと思われます。それだけに、表現がやや難解に感じられる部分が多々ありますが、示されていることは筋が通ったものだと思いました。


翻って、今回、杉田議員に面会を申し込んだLGBT団体はあったでしょうか? 友/敵図式でただただ攻撃しても問題の解決にはなりません。本当の意味でのLGBTの理解へとつなげていくためには対話こそ必要なのだということを、私はこのあとさまざまなメディアを通して訴えていくことになります。」(p.20)

杉田水脈議員の「生産性」問題に関してです。「新潮45」に載った記事で、LGBTは生産性がないのに行政的に支援し過ぎているというような内容でした。この表現が問題視され、激しくバッシングされましたね。

私もネットでそのことを知り、SNS上で杉田議員の発言を批判しました。ただしそれは、その発言が差別だからではなく、論理的に矛盾しているという点を指摘したものです。生産性がないから支援しないという論理だと、子どもを生まない、または産めない異性カップルは支援しない対象になってしまうからです。
私は、すぐに杉田議員が訂正されると思っていたのですが、そうはなりませんでした。結局、ただ叩いて黙らせただけで終わってしまい、本質的な議論へと進まなかったことを残念に思っていました。


中島氏が念頭に置いて書いているのは超国家主義や共産主義のことですが、私には近年のLGBT運動のことを言っているように感じられました。異論を許さず、自分たちこそが真理を知っているのだと急進的に現実の変革を実行しようとする彼ら。しかし、そうした企てはすべて失敗することは歴史が証明しています。保守思想家の中島氏は、政治は永遠の微調整でなければならないと言います。他者との価値の葛藤に堪えながら、一つひとつ合意形成を積み重ねていくことが重要だと。LGBTはまだまだ新しい概念です。日本の差別発言のほとんどは、情報を知らないことによる失言です。だからこそ、粘り強い対話が必要なのです。」(p.24)

私も共産主義思想に反対の立場ですが、それはいわゆる共産主義が全体主義であり、強制的な強権志向であり、反自由主義だからです。左だろうと右だろうと関係ありません。他人を強制して自分(たち)に従わせよう、そのためには暴力さえ是認する、そういう考え方に反対しているのです。
では、そうでないやり方をするとすればどうするのか? その問いへの答えが、この松浦さんの言葉にあります。粘り強い対話によって、他人が変わるのを待つことです。その間には、自分自身も影響を受けて変化することもあるでしょう。そうやって影響を与え、受けながら、少しずつ変わっていく。そのやり方以外に、平和的な変革などないと思います。


地方に住む多くの高齢者はLGBTという新しい概念に戸惑っています》と綴った真意を尋ねられ、私はこうこたえました。
「あまりにバッシングが激し過ぎると、人は心を閉ざしてしまい、対話のシャッターも閉じられてしまう。やっぱり分かってもらわないといけないわけだから、何とか対話の糸口を見つけていこうとすべきだ」
「特別なことを言っているわけではなくて、多くの人の気持ち、特に地方の高齢者の声を代弁しているんだろうな、と素直に思った。地方のおじいちゃん、おばあちゃんは世の中の動きが速すぎてついていけない。グローバル化で都会は街が変わり、外国人もどんどん増えていく。そうした中で、自分が今まで培ってきた価値観が壊されるような不安を感じていて、LGBTに関しても警戒感を持っている。
」(p.26-27)

松浦さんは杉田議員の発言を、地方の高齢者の思いを代弁しただけだ、と捉えられたようです。これは、私が思いもつかなかった視点でした。
たしかに、そういう一面はあると思います。目の前の変化が、ただ不安なのです。これまでの安定した生活が突き崩されてしまうような恐れがあるのです。そこに寄り添うという視点。私にはなかったなぁと反省しました。

《性的少数者のことも、それに拒否感を持つ人のことも理解し、ゆっくりと世論を変えていくべきです。生活を共にして、時間をかけて対話を重ね、「相手が困っているのなら助けたい」と思えることが、心からの理解です。保守はリベラルに、リベラルは保守に、共感してもらえる言葉をどう見つけていくか。互いの言葉を翻訳できる、新しい立ち位置の人が出てくることを期待したいです》」(p.38)

朝日新聞のインタビューに、松浦さんはこう答えられています。

二階堂記者は「普遍的な価値」という言葉を使いますが、後期ロールズが転向を宣言したように、普遍主義はただの欧州ローカルルールにすぎません。正義は一つではなく、それぞれの陣営にそれぞれの正義があるだけ。そうしたポストモダン状況において、自分たちの価値観をぶつけ合っても意味はない。お互いが傷つけあわずに生き延びるためには、共感可能性をいかに広げていくかが重要なのです。」(p.39)

朝日新聞のインタビュー記事に関して、同じ朝日新聞の左派、二階堂友紀記者が雑誌「世界」で松浦さんを攻撃してきたそうです。それに対して松浦さんは、差別者を許さないとするなら、国外退去でもさせるのか? と問いかけます。
そんなことは不可能です。単なる「違い」を責め、粛清を繰り返してきた共産主義者と同じこと。内ゲバでどれだけ多くの人が殺されてきたか。
だから私も、松浦さんの考えに賛同します。辛抱強く対話を重ね、説得するというよりも変化を待つのです。

リベラルの人たちの最大の勘違いは、自分たちが信じる「正義」を理論的に説明すれば相手は納得してくれると思っているところです。しかしそれは、あまりにも牧歌的な考えです。なぜなら正義の反対は悪ではなく、もう一つの正義だからです。」(p.53)

正義は人の数だけあります。だから、自分の正義を振りかざし、相手を恫喝し、時によっては暴力を振るうという権威主義的なやり方では、真の平和はなし得ないのです。


無論、世の中から差別がなくなったわけではありません。私も地元の国会議員に「同性愛者のあなたは秋田の代表としてふさわしくない。選挙の候補者を降りるべきだ」との旨を真顔で言われたときには一人枕を濡らしました。それゆえに差別解消に向けて尽力したい気持ちは人並み以上です。でも、だからこそ、はき違えた正義についてはLGBT当事者自身が声を上げていかなくてはならないと思うのです。」(p.60)

何かというとすぐに「差別だ!」と叫んで他人を糾弾する。こういうやり方には、私も辟易としています。
松浦さんは、マイノリティが疎外感を感じてしまう現実があることは受け入れながらも、だからと言って相手を糾弾するやり方には反対します。それでは真の解放にはならないと思われているからです。


ゲイは男性的性欲に従い、レズビアンは愛するパートナーとの安定した関係を持ちたがる。ゲイ男性同士は男女のカップルよりも性交合意のハードルが低いので数が増えるのは自然なのだ、と。そして三浦氏は、これは偏見でも差別でも暴言でもないと説きます。「男の性欲は、貶めたり隠したりすべきものではなく、コントロールすべきものです。生物学的デフォルトの性差を直視しない社会は、科学をないがしろにする社会」だと諭すのです。
 私は小川氏との対談で、このような刹那的な生き方にふたをするための同性婚の必要性を訴えたのでした。制度があることによって人は自らを律していく。結婚制度に同性愛者を組み入れることで、ゲイは「新しい生活様式」を見いだすことができるし、国家はさらなる安定性を担保することができる。コロナ危機の国難において、保守派にとっての重要な視座だと私は思います。
」(p.64-65)

ゲイの性交渉人数の平均が500人だとする米国心理学者の推定があるそうですが、欲望のままにフリーセックスをしている現実があるということですね。それをコントロールするために結婚制度を利用すべきだというのが、松浦さんの主張のようです。

これについては私は同意しません。むしろ、結婚制度そのものが、もっと緩やかなものになっていくべきだと思っているし、最終的にはなくなってもよいと思っていますから。
松浦さんは、結婚制度によって自らを律することになると言われますが、そうでしょうか? むしろ結婚制度によって他人の目を気にする、つまり他者からの価値観の押しつけを増進するだけのように思います。自律とは、自分の意思で自らを律することです。結婚制度があろうとなかろうと、自らによって律することができないなら、それは自律とは言えないでしょう。
ただ現実にはまだ結婚制度があります。それが異性間にだけ認められているものだから、それを押し広げて、同性間に認めてもよいのではないか。私はそう思っています。


私が見たハッテン場は福祉の現場でもありました。歌舞伎町にはシングルマザーのための託児所つきのキャバクラがあります。本来なら国や自治体がやらなければならない福祉の役割を風俗業が担っているのです。それと同じようにハッテン場は、社会からはじき出された若者や親族のいない孤独なゲイ老人の受け皿になっている可能性がある。」(p.68)

「ハッテン場」というのは、ゲイの出会いの場であり、フリーセックスの場でもあるようです。そして、お金がなくてもそこへ行けば、自分の身体を提供することで寝泊まりすることもできる。たしかに、そういう福祉的な一面もあるのでしょうね。
けれども、そういう人たちが必ずしも弱者ではないと松浦さんは言います。耳が不自由な、つまり障害を持った人でも若くて性的魅力が高ければ、性愛市場では強者になるからです。

貧困だから弱者、障害者だから弱者、歳をとっているから弱者というのは一面的な見方に過ぎません。人はある場面では弱者であっても、他の場面では強者だということがあり得るのです。権力は複雑に交差しているということをハッテン場は教えてくれます。」(p.68-69)

一方的な見方で弱者だと決めつけ、弱者だから助けなければと考えていると、思わぬ落とし穴にハマることもあるのです。


LGBT運動は自分たちを「一級市民」として認めてほしいと訴えてきたけれども、権利が向上すれば社会の成員としての義務も生じます。それは、これまで性的マイノリティゆえに「お目こぼし」されてきたゲイ・カルチャーが「法の外」として通用しなくなることを意味します。
 たとえば衆人環視の中で男女が偶然を装って性的な行為に及ぶハプニングバーは、しばしば「公然わいせつほう助」として摘発されていますが、ほぼ同じ理由でハッテン場の経営者が捕まるケースも出てきています。
」(p.69)

現在の風営法では異性間の性風俗店しか登録できないため、ハッテン場は風俗店登録ができません。風俗店でもないのにわいせつな行為をおこなわせているから、取り締まられることになっている。法の矛盾があるようです。

性的マイノリティを表明する国会議員がやるべきことはLGBT活動家と一緒になって聞こえのよいスローガンをお題目として叫ぶことではないはずです。不人気になることを覚悟のうえで現行制度とどう折り合いをつけていくかを考えるべきです。なぜなら、社会のチューニング(微調整)こそが国政の役割だからです。」(p.70)

マイノリティということで顧みられず、法の矛盾があるままに捨て置かれている。そこを解決するのが、政治家の役割だと言われるのですね。

たとえば献血の規定も、ゲイはHIV感染リスクが高いということで、6か月以内に男性同士の性的接触があると献血できないそうです。しかし、現在の検査技術は、性交渉後2ヶ月経過すればHIV抗体の検出が可能とのこと。実際アメリカは、この禁止期間を3ヶ月に緩和したそうです。
そういうことに注目し、制度を変えていく。それが政治家の役割です。そうすることによって、社会貢献の機会を増やし、ゲイであっても社会に役立てるようになるのですから。


私は同性婚には賛成です。ただし、立憲民主党や一部の憲法学者が主張しているような解釈改憲での導入には反対です。真の立憲主義の観点から正々堂々と憲法を改正し、日本社会に住む私たち自らが同性婚を選択したのだという「国民の記憶」を残すことが大切だと考えるからです。」(p.73)

憲法解釈によって同性婚を認めれば、政権が変わればひっくり返される可能性もあります。
憲法とは時の政権を縛るもの。だから、国民の総意として同性婚を憲法に盛り込む必要があると松浦さんは言います。


濱野氏はインタビューで「動物性愛は、医学的には精神疾患として分類されていますが、最近ではLGBTのような『性的指向』の一つだとする生化学者の意見もあります」と話しています。これは同性愛者がたどってきた歴史を彷彿とさせます。WHOが同性愛者を精神疾患の分類から外したのは1970年のこと。性同一性障害を外すのは2022年からです。そう考えると、誰にも迷惑をかけない「純粋な愛」であるズーフィリアも、いずれ精神疾患から分離される日が来てもおかしくありません。」(p.84)

人間同士の異性愛しか認めない考えを、LGBTは崩そうとしています。しかし、それが崩れるということは、それ以外の性愛形態も、なし崩し的に認めざるを得なくなってくる可能性はあるのです。
性愛対象が動物(ペット)だったり、二次元(アニメ)だったりする。さらには複数だったりもする。それも「性的指向」として、社会が受け入れられるのかという問題は、いずれ出てくるのです。

哲学者の菅野稔人氏は、アメリカでは同性婚合憲化以降、重婚も認めてほしいとの要求が出てきたことを報告しています(『リベラリズムの終わり − その限界と未来』)。アメリカにはモルモン原理主義者を中心に一夫多妻生活を実践している人たちが約3万〜4万人おり、その中から真剣に結婚の自由を訴える世代が登場し始めているのです。菅野氏は「他人に危害が及ばない限り社会は各人の自由に干渉してはならない」というリベラリズムの原理を突き詰めれば、同性婚だけ認めて本人の自由意志のもとでなされる一夫多妻婚や一妻多夫婚、近親婚を容認しないことはできないと断言します。」(p.85-86)

そういうことになりますね。松浦さんは、近親婚が先天異常の子どもが生まれることを理由に禁止され得るなら、高齢出産も禁止されなければ辻褄が合わないと言います。まさにそうですね。

私は、ここに書かれているように、自由であるべきだと思いますよ。そして、そこまで自由を突き詰めるなら、結婚制度そのものが廃止されるべきだとも思います。どういう相手とパートナーシップを結ぼうと、その人の自由であり、他人や社会が規制する必要がないと思うからです。
ただし、急激にそうなるべきとは思いません。それこそ松浦さんが言うように、対話を重ねながら少しずつ人々の考えが変わっていくのに任せるべきだと思うのです。


LGBT活動家は自分たちを被害者の側に固定化し、「社会が悪い」「制度が悪い」と拳を上げてきました。けれど同性婚が法制化されれば家族や周りの人たちが同性同士の結婚を認めるようになるかというと、そんな簡単な問題じゃない。制度が幸せをもたらすわけではないからです。「同性婚制度がないので相方の葬式に出席させてもらえなかった」「同性婚制度がないのでICUに入れてもらえなかった」という声がよく聞かれます。しかし、そうなる前にどうして家族とコミュニケーションをとってこなかったのかという問題については、いつも不問に付されるのです。」(p.94)

権利を主張すれば、何でも思い通りになるわけではありません。いくら異性結婚をしていても、相手の両親が認めてなければ、同様のことは起こり得るでしょう。そこで「パートナーだから」と権利を振りかざして強行突破しても、後にしこりが残るだけだと思います。
もちろん、法的にパートナーシップを認められることで、容易にできることは多々あります。どちらも大切だということですね。


同性婚が成立してもその利用者がどれくらいいるかは未知数です。同性婚の法制化を求めるのはあくまでも「法の下の平等」とか「公正」といった観点からであって、いざ蓋を開けてみれば使い勝手のいい同性パートナーシップ制度のほうがよかったという結果になるかもしれません。」(p.98)

前にも言ったように、私は法的な結婚制度を廃止した方が良いと考えています。それよりも、もっと緩やかなパートナーシップ制度だけにすれば良いと。
そうすれば、どんな相手とパートナーシップを結ぼうとその人の自由です。家族に養育の義務を押しつけるのはやめるべきだし、遺産相続もパートナーシップと親子間にすればいいし、あるいはもっと簡便な遺言制度にして、遺言がなければ没収でもいいかと。
できるだけ本人の自由意志が認められるべきだし、認知症などで自由意志を表明できなくなった時の処置について、法的保護がなされれば良いと思います。

いまフィクトセクシュアルといわれるアニメのキャラクターしか愛せない若者が増えています。彼らの性的指向は生身の人間ではなく二次元キャラに向いているのです。」(p.101)

かつてLGBTも「性的嗜好」とされ、わざわざ好んでそうしていると思われていました。だから、制限されても当然とみなされていたのです。しかし、性同一性障害が認められることで、LGBTも性的嗜好から性的指向へと見方が変わったという歴史があります。
それにも関わらず、フィクトセクシュアルは性的嗜好だと、LGBT団体が蔑んでいる実態があるそうです。

もし、リバタリアンたちが推奨する結婚民営化が実現すれば、フィクトセクシュアルの人たちはさっさとLGBTを見限り、自分たちで承認組織を作ればいい。LGBTは差別される存在であると同時に、差別をする存在でもある。これもメディアが伝えないファクトです。」(p.102)

リバタリアンの提案は、結婚の認定を政府が行わずに、民間の公的機関が行えばよいというものです。政府は、それらの民間機関が認定したことを受けて、パートナーシップを認定すればいいのだと。
そうであれば、アニメキャラを愛するのも、ペット(動物)を愛するのも、複数人を愛するのも、同じように扱えますね。

なおリバタリアンとは、個人的な自由と経済的な自由を最も重視する政治思想を持つ人々のことだそうです。私と親和性がありそうですね。
次も、リバタリアンのアイデアだそうです。

憲法24条そのものを削除せよという提案です。批評家の東浩紀氏はゲンロン憲法委員会を作り、2012年に「新日本国憲法ゲンロン草案」を発表しました。その中には婚姻および両性の平等を規定している条文は入っていません。その理由は、婚姻という極めて私的な関係を、国民から国家へ与える制約である憲法に記述することは適切でないと考えたからだそうです。」(p.102)

私もそう思います。憲法は、国民が国家権力を制限するためのものですから。国民が規制されるようなことは、憲法に書く必要がないのです。


台湾は、アジアでいち早く同性婚を実現した国です。トランスジェンダーの閣僚、オードリー・タン氏は、民法改正によらず特別法として成立させた同性婚に胸を張ります。

しかし、その後、私たちは知恵を出し合って、問題の解決を実現しました。たとえば、同性婚を望むカップルがいた場合、婚姻の平等を保障するために個人同士の結婚は認めることにする一方、家族同士に姻戚関係は生じないことにする方法が生み出されました。これであれば、社会にとっても受け入れやすいのではないかと考えたのです。」(p.103-104)

古き良き伝統を尊重しながら、穏やかに社会を変えていく強かさ。これぞアジア型同性婚と呼ぶに相応しいものだと思います。」(p.104)

伝統を重視する保守的な考え方にも一理あるのです。それを無視して対立構造を深めるなら、どちらかが傷つくことになるでしょう。


母国で合法的に性別変更している彼らをペニスがついているという理由だけで女湯から排除すれば、日本は差別大国だと告発され国際問題なることは間違いありません。今から対処しておくべき課題だと思いますが、このような問題群について敏感にアンテナを働かせている国会議員は見当たりません(診断書なしで自己申告だけで性別変更できる国はノルウェー、デンマーク、マルタ、コロンビア、アルゼンチン、スウェーデン、ポルトガル、アイルランドなど)。」(p.118−119)

本人の性自認だけで、公式に性を変えられる国が多数ある。このことが非常に驚きでした。
パスポートに「女」となっているのにペニスがある。こういう人を日本は、「女」として受け入れるのでしょうか? 大きな問題ですが、たしかに議論すらされていませんね。

ブラジル最高裁は2019年1月、LGBT差別は犯罪であるとみなす判断を下しましたが、国民の憎悪はいっこうに治まらないのです。だから彼らを保護するための激しい権利獲得運動が必要となっている。けれども日本はそうではありません。女性たちはトランスジェンダーを嫌悪しているわけではない。洋服などの自己表現は自由にやってもらって構わない。ただし、女湯や女子スポーツへの参入だけはちょっと考えていただけませんかという要求なのです。そのことをどうかわかってほしい。お互いがお互いを思いやり、この場面ではトランスジェンダーが譲り、あの場面では生得的女性が譲るという「お互い様」の気持ちが必要なのだと私は思います。」(p.128−129)

性自認だけのトランス女性が、女湯に入る問題もありますが、女子競技に参加して好成績を残すというのも、大きな問題ですね。
また、障害者が器具を使うことで好記録を残すという問題もありました。そうするのが正しいのかは一概に言えませんが、そこに問題があると認識すること、その上で、双方が歩み寄る努力が必要なのだろうと思います。


LGBT活動家による「アウティング反対!」の大合唱のもと、暴露した学生のほうが悪者だと一方的にラベリング(レッテル貼り)されてしまいましたが、それはあまりにも短絡的な人間理解だと私は思います。遺族との裁判では和解が成立しており、口外禁止条項が設けられているため、これ以上の情報がオープンにされることはありません。だが、この事件からは多くの学びを得ることができます。
 アウティング禁止条例はLGBTへのまなざしを決定的に変える恐れがあります。LGBTから告白されたら誰にも相談してはならないとすれば、そんなリスクのある人にいったい誰が近寄るというのでしょう。「頼むから私にはカミングアウトしないでくれ」と思うのが自然ではないでしょうか。
」(p.139)

自分がLGBTであることを告白する「カミングアウト」や、他人がそうだとバラす「アウティング」についても、様々な問題がありますね。「アウティング」を犯罪にしてしまうと、たしかにそういう関係を望まない人からすれば、負担を背負わせないでくれと言いたくなるでしょう。


はるな愛さんは、トランスジェンダー=”女になりたい人”と見られることが生きづらさにつながっていると述べました。もしそうだとしたら、無理に戸籍の書き換えを目指さなくてもトランスジェンダーがトランスジェンダーのままで生き生きと暮らせる社会の在り方を我々は模索すべきではないでしょうか。もちろんこれは、性同一性障害のように身体に何とも言えない違和を抱えている人たちの適合手術を阻むものではありません。ホルモン療法の保険適用の実現に水を差すものでもありません。これまで「差別だ!」と封じられてきた議論の中にも見るべきものがあるのではないかという提案なのです。」(p.174)

LGBTとひとくくりにはできないのです。それぞれにそれぞれの感性があるのです。
そうであれば、男女のどちらかであるべきだというのがおかしいとするなら、そうでなければLGBTであるべきというのもおかしい。それぞれ違っていてそれでいい。そうなっていくべきではないかと思います。


たとえば日本で同性婚の法律ができたとしても、恋愛格差の解消にはつながりません。自己肯定感を持つことのできないLGBTの若者はさらに増えるかもしれません。そこに承認の問題が絡んでいる場合はなおさらです。どうすれば若者の自己肯定感を上げていくことができるのか。そのためには子育てや教育の問題なども含めた幅広い対策が必要だと感じました。」(p.191)

自己肯定感が低いと、自分を安売りしてしまう。それはLGBTに限らず、ノーマル(異性愛者)であっても同じことです。
ただそれがゲイだと、HIV感染のリスクを高めるという問題として表面化しやすいのです。けれどもそれは、単に1つのリスクに過ぎず、自己肯定感が乏しいことによって生じる様々な問題をあからさまにしているだけのように思います。


そこには共同体の特別な思いの反映があるのだ、と。同性婚を導入することで連綿と紡がれてきた共同体の核の部分が壊されてしまうのではないか? こうした保守派の不安を払拭する議論は、残念ながらリベラル側からは出てきません。私は改憲によって同性婚を導入すべきという立場ですが、保守派の心配を無視していいとは考えません。もう一方の当事者からはそれは暴力のように見えていることもリベラル派には想像してほしいのです。保守派が納得できる言葉を紡いでいかなければ分断は加速するだけです。」(p.220)

これは選択的夫婦別姓制度の導入にも言えることだと思いました。反対論者の論理は「伝統だ」とか「家族関係が壊れる」など、まったく的を射ていないものばかり。でも、そういう理屈にならない理屈を持ち出してまで反対するのは、これまでの社会が変わってしまうことへの漠然とした不安(恐れ)があるからでしょう。
私は、「隣に別姓夫婦がいても困ることはない」「実際、別姓夫婦は存在している」と主張して、その不安が杞憂であることを説明しています。しかし、それでも不安は容易には捨て去ることができないようです。根拠のない不安ですから、時間がかかるのだろうと思います。


異性愛者が真実を知りたいと思う気持ちは差別なのでしょうか。否。情報をオープンにし、腹を割って国民全体でとことん考えることが必要なのではないか。トランスジェンダーの問題を当事者だけで囲い込むのではなく、どうしたらいいか皆で知恵を出し合うこと。内へ内へと閉じるのではなく、外へ外へと開かれていくことが大切だと思うのです。ゲイで映画評論家のおすぎとピーコさんは先鋭化が著しい最近のLGBT運動に対し、「LGBTは認めさせるものではない」と苦言を呈します。マジョリティは性的マイノリティを思いやり、性的マイノリティはマジョリティを思いやる気持ちが大事であり、落としどころを探っていかなくてはならない。お互いが少しずつ譲り合いながら暮らしていける社会をつくっていくことが必要です。」(p.233-234)

等身大の真実の姿を見せず、きれいな部分だけを見せて、権利を獲得しようとする戦略に対する批判です。多くの国民はLGBTのことをよく知らない。知らないから不安なのです。不安だから否定してしまうのですね。
それを攻撃(差別)と捉えて、声高に「差別だ!」と主張しても、それは対立を先鋭化させるだけ。すべてをさらけ出して、「これが私たちなんです」と見せて、その上で全体としてどうやって共存できるかを模索する。そういう対話が必要だと松浦さんは言います。


「相手を問わず性欲を抱く男性的性欲」を唾棄すべきものとし、「どれだけセクシーでも好きじゃない相手には興奮しないという女性的性欲」こそ素晴らしいという女性性欲絶対主義・純愛主義を映画の善悪判断に持ち込むなというのです。LGBT活動家はフェミニズムに影響を受けている人も多い。女性的性欲を善とし男性的性欲を悪とするのはその弊害でしょう。けれどもゲイにとって男性的性欲は否定されてしかるべきものなのでしょうか。私はそうは思いません。ゲイも男性ですから異性愛者の男性と同じくらい性欲はありますし、性的な視線を異性愛者の男性に向けることもあります。もちろん法に触れるようなことをすれば犯罪ですが、ゲイの性欲そのものは悪ではない。ゲイのセックスを自虐的に蔑む若いLGBT活動家が増えていることに危惧を覚えています。それは生まれてきた自分を否定することと同じであり、自由・解放とは真逆のベクトルだからです。」(p.241)

LGBTとひとくくりにされますが、ゲイとレズでは性欲の質も量も大きく異なります。それは単に「違い」であって、善悪という価値観で決めつけるべきものではないと私も思います。


「モデルのように痩せている女性は魅力的、シンメトリーな顔の女性は美しいというのはステレオタイプ。男性目線で順位づけすることは差別である。画一的な美はコマーシャリズムによって刷り込まれたものだと気づこう。これからのミスコンは内面も含めた多様性を重視すべき」との批判は、相対化のためには必要だったのかもしれません。しかしだからといって、男性にモテるための美容やファッションに人生をかけている女性を全否定することはおかしい。アイドルなど美醜のジャッジがあるからこそ成り立つ職業はたくさんあります。強制されたものでない限り、女性たちの自己決定権は尊重されるべきなのです。既存のミスコンが気に入らないのであれば、自分たちで別の大会を開く方法だってあります。」(p.243)

私も、美醜を比較すること、判断することそのものを否定するような、ミスコン禁止という考え方には反対です。やりたい人はやればいいし、やりたくない人はやらなければいい。それぞれの自由だと思いますから。
こういうところにも、「絶対的な正しさ」があるとして、画一化均質化を渇望する自由に反するものを感じます。


野党の国会議員やLGBT活動家は問題を矮小化し、「同性婚が施行されてもあなたの生活には一切影響ない」といいますが、そんなことはありません。同性婚はここまでの広がりを持つ政治課題であり、天皇家の在り方を雛形とした全国各地の文化やお祭り・伝統にも影響を与えることは想像に難くない。だからこそ私は、国民みんなで決める憲法改正での同性婚を訴えているのです。」(p.272)

同性婚が認められると、天皇家だけ別というわけにはいかないだろうと松浦さんは言います。そしてそれは皇位継承にも影響するし、女性天皇や女系天皇をどうするかという議論にも影響します。
そうであればこそ、国民全体にまで議論の輪が広がる必要がある。そう松浦さんは考えているのですね。


日本においてLGBT政策の不備はたくさんあると思いますが、一番の問題は国家による承認がいまだなされていないことだと思います。当事者の中には、小学校や中学校でいじめられて育ち、自己肯定感を持てない人もいる。だからこそ、国が自らの生き方を認めてくれたという安心感が欲しいのです。子どもは敏感ですから、違いを嗅ぎ取ります。そのような環境で毎日の学校生活を送ることは、大変なストレスを生じさせます。私自身も過去に経験があるのでわかりますが、いじめを気にして生きてきた抑うつ感は、大人になってからも消えることはありません。国家が「LGBTは国民の一員であり、我々の仲間だ」と宣言し、その存在を丸ごと承認すれば、格段に生きやすい社会になるはずです。」(p.281)

現に存在しているのに、あたかも存在していないかのように扱われる。そのことによる自己肯定感の低さが、LGBTの人たちを苦しめているというのですね。
「違い」は単に「違い」です。「違い」があって当然だし、違っていても同じ仲間だ。そうみんなが思えたら、良い社会になるでしょうね。


本書ではLGBTの問題に関して、急進的な左翼活動家のLGBT解放運動のやり方に疑問を呈しつつ、様々な問題に言及しています。その一つひとつに新たな視点を提供してくれていて、私もいろいろと考えさせられました。

そして、このことから私は、これはLGBTだけの問題ではなく、障害者など様々なマイノリティの問題でもあるし、もっと言えば一人ひとりの「違い」に関する問題でもあると思いました。
読み応えのある質の高い内容です。松浦さんのような方には、ぜひ政治家として日本のために汗をかいて欲しいと思いました。

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タグ:松浦大悟
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 07:49 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年05月10日

ユダヤに学ぶ「変容の法則」



これも日本講演新聞に講演録が載っていたことで、興味を持って買った本だと思います。著者は赤塚高仁(あかつか・こうじ)さん。ヤマト・ユダヤ友好協会の会長をされています。

ユダヤと言うと、何となく陰謀論とかマネーパワーなどを連想してしまうのですが、赤塚さんは別の視点を持っておられました。
そしてそのきっかけが、師と仰ぐ糸川英夫博士との出会いにあったと言います。私も子どもの頃に憧れたロケット開発の分野で、ペンシルロケットの実験に成功された糸川博士。変わり者とされた博士が、晩年、生涯をかけて取り組まれたのが日本とユダヤ、つまりイスラエルとの関係を深めることだったのだそうです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

世はバブル真っ盛りの頃でした。
 先生は私にこう言いました。

「土地も株も大会社も崩壊するでしょう。今日本は国が滅亡するかもしれない危機を迎えています。
 欧米に学び追従する時期はとうに過ぎました。イスラエル国こそ、今の日本民族にとってもっとも大切なメッセージを伝える国です。でも、誰もそんな声を聞こうとはしない。だから私は、たった一人でも日本のためにイスラエルとの橋渡しをしようと思っています。
 いつの日にか日本とイスラエルが手をつなぎ、大きな影響力を及ぼして世界を平安に導くことを確信しています」。
」(p.34)

世界平和を願う糸川博士は、その鍵が日本とイスラエルが手を取り合うことだと感じておられたようです。


キブツでの生活は、一般社会のように個人や家族が生活の単位ではなく、キブツメンバー全員が大家族として暮らしており、所有も生産も消費も、そして生活の一部も共同化されています。
 共同化されているというのは、衣食住を中心とした、生きていくのに必要なものには一切お金はかからないということです。病気をしても医療費は無料、子どもにかかる保育費や教育費もすべて無料なのです。
」(p.52)

実は「キブツ」とは人類の歴史上、唯一成功した社会主義の組織とも言えます。」(p.53)

社会主義の国々は信仰のない「神なき世界」です。
 一方のイスラエルはユダヤ教の国家です。
 信仰をもつ人々による平等の世界は、私たちの未来に一つの可能性を示すものなのかもしれません。
」(p.53)

そういえば「キブツ」という生活共同体があるということを、随分前に聞いたことがありました。これをモデルにしたのかどうかわかりませんが、そういうお金のかからない生活共同体のことを描いた小説もありましたね。
お勧めしている「神との対話」にもコミュニティの重要性が書かれていて、愛によってまとまったコミュニティなら、対価を支払わなくても生活のための物やサービスが得られるだろうなぁと思います。


ユダヤ人にとって、教育とは「神が与えてくれた、それぞれの役割を見出すこと」です。
 人と同じなら生まれてくる必要も意味もない。誰とも違うからこそ生まれ、そして、その役割を果たしてゆくことこそが「生きること」なのだと子どもたちに教えるのです。
」(p.56)

違うことが当たり前だという考えが、ユダヤ人の中には根付いているようですね。だから教育現場でも、生徒が他と違うことを言っても、教師はそれを否定しないのだそうです。
違っていていいし、違っているから存在意義がある。こういう考えは、とても素晴らしいと思います。

わからない授業を無理やり聞かせたり、関心のないことを無理に教え込んでも身につくことなどありません。
 それよりも、興味のあること、好奇心が湧くことに集中させて能力を伸ばしていけば、いつの間にかほかの分野での成長も促されるとユダヤ人たちは考えているようです。
」(p.58-59)

授業に関心がなく、勝手なことをしている生徒がいたら、日本だと教師が注意したり、叱責したり、罰を与えたりして矯正するのが普通です。けれどもイスラエルでは、その子の興味のあることを探して、それをさせるのだそうです。
そして、そういう特別扱いをされる子どもがいても、他の生徒たちは不満に思わないのだとか。それは、そもそも違っていて当然だという考えが、子どもたちの中にも根付いているからのようです。


日本が敗戦を迎えた6年後の1951年、「サンフランシスコ講和条約」によって日本は主権を回復しました。そして、その条約が発効した1952年、日本と最初に国交を樹立した国はなんとイスラエルだったのです。
 1952年7月1日、ベングリオンは当時の日本国民に向けて「ベングリオン書簡/友情のメッセージ」という談話を発表しています。
」(p.77)

これは初めて知ったことです。イスラエルから先に手を差し伸べてきていたのですね。
イスラエルはアジアの西端にあり、日本は東端にあります。アジアの両端の国が手を取り合って、アジアを世界平和の礎にしていく。そんな未来が、すでに見えていたのかもしれません。


また、「開拓の父」と呼ばれるヨセフ・トゥルンベルドールという人も日本と深い関係がありました。彼はロシア軍の一員として日露戦争に従軍し、日本軍の捕虜として大阪に収容されました。

1年間この収容所に暮らすうちに、トゥルンベルドールは、なぜ日本のような小さな島国があの強大なロシアに勝ったのか、その答えを見つけました。日本人は規律正しく勤勉で、互いに私欲を捨てて公のために協力する、愛国心の高い民族であったのです。」(p.81)

これがトゥルンベルドールのイスラエル復興運動、シオニズムの目覚めであり、彼は大阪の収容所から世界へと発信するようになってゆきます。そして、驚くべきことに、収容されていたユダヤ人がシオニズム運動の活動をすることを、日本人は許しているのです。
 トゥルンベルドールが日本人を尊敬したように、日本人もトゥルンベルドールを尊敬していたからでしょう。
」(p.82)

私の故郷、島根県でも、日露戦争で被害を受け、漂着したロシア兵を住民が温かく迎えたという歴史があります。敵兵であっても、助けを求める者には救いの手を差し伸べる。その人情味は日本人の根本にあるのです。

また、トゥルンベルドール記念館に保管されている彼の遺品の中には「新しく生まれるユダヤ国家は日本的な国家となるべきである」という言葉が記されています。
 トゥルンベルドールの開拓魂に日本人の精神が影響していることは、二つの民族を結ぶ尊い絆といえましょう。
」(p.83)

イスラエル建国の精神的支柱の1つに、日本人の心があった。日本とイスラエルは、最初から深い絆で結ばれていたのですね。


糸川博士は、次のようなことを言われたそうです。

地球上には人間が60億以上いるといわれますが、私は、人類は60億で一つの生き物だと考えています。
 一人ひとりが、人類という生き物の細胞の一つとして、大きな繋がりの中で生かされていることに気づくときに、人は命の意味を知るのでしょう。
 すなわち命とは、自分のために使うのではなく、人のために使うときにこそすべてがうまくゆくようです
」(p.89)

ワンネスの考え方つながるものを、糸川博士も感じておられたのでしょう。
たしかに私たちの細胞は、一つひとつが個々別々の存在のようでありながら、全体として1人の人間として存在しています。赤血球や白血球など見れば明らかですが、1つの細胞として独立しています。けれども、そこには人体の一部としての役割があるのです。
いくら赤血球が心臓の細胞になりたいと思っても、そうはいきません。そして、心臓の細胞より赤血球が劣るということもないのです。

このことを考える時、私はNHKの大河ドラマ「篤姫」の初回に、篤姫(幼名は於一)の母親が言ったセリフを思い出します。
「この世のものには全て役割があるのです。それは人とて同じこと。侍も、百姓も、人の命の重さに変わりはありませぬ。されど役割はおのずと変わります。田畑を耕し、国を支えるのが百姓なら、その百姓たちを命投げ打ってでも守るのが武家の役割。於一、武家のおなごはいざというときのために覚悟を決めておかねばなりませぬ。」

個々別々の存在と見える私たちが、全体としての生命を支えているのだと気づけば、違っていてもうらやまず、卑下することなく、自分として命を全うしようと思うのではないでしょうか。


本書ではここから、聖書を紐解いていきます。
旧約聖書はユダヤ教の経典であるので当然ですが、新約聖書にもユダヤ教が顧みなかった一面があると赤塚さんは考えます。つまり、ユダヤ人イエスという見方をするのです。
よく描かれるひょろっと痩せた白人の姿ではなく、大工として働いて鍛えられた筋骨隆々のアジア人としてのイエスです。

そして、赤塚さんの聖書解釈を読んで、私は昔の記憶が蘇りました。赤塚さんが実際に話を聞いたかどうかは別として、ここで書かれている内容は、統一教会の教えに類似しています。なので、かつてそこに入信していた私にとっては理解しやすいものでした。


イエスが伝えたことは、「あなたはあなたのままで大丈夫」というシンプルな真理でした。その愛は「信じれば救われる」という条件付きの宗教の世界には収まりません。
 信じる前に信じられていたという喜びは、宗教の遠く外側にありました。
」(p.249)

赤塚さんはイスラエルで、ペテロやイエスの霊と遭遇しているようです。それが事実かどうかはわかりませんが、そういう体験をされたということは確かなのでしょう。
そこで感じられたのが無条件の愛ということです。キリスト教では愛を説きますが、やっていることを見れば、それを忘れているように感じます。無条件の愛と言いながら、これをすれば救われ、しなければ救われないなどと、条件を付けているのですから。そして、宗教戦争で見せた残虐な行為の数々。とても愛を説く人々の姿勢とは思えません。


赤塚さんは、こういう体験を経て変わっていったと言います。

争うことはもともと好きではありませんでしたが、地位や名誉、名声を得るために競うことに関心がなくなりました。
 「目標」や「夢」を設定して、それを追いかける考えが消えてゆきました。
 聖者や悟り人に対する憧れがなくなり、「良い人」でいるふりもしなくてよくなりました。格好をつけなくても、そのままの自分で良いと思え、弱さや欠点をさらすことに抵抗がなくなりました。
 美しい物語に興味がなくなりました。
 不思議を詮索せず見えない世界の虜にならず、出来事や現象が「在る」ことを素直に認めると、良し悪しの判断が不要になりました。

 善悪のパターンが消えると、正義感も薄れて勧善懲悪が馬鹿らしくなりました。
 善人・悪人という決めつけより、それぞれの抱えている闇の深さが意識されるようになりました。
 「正しい・間違い」などはなく、どちらにも学べる智慧があると知りました。
 他者との比較や嫉妬心がなくなるのは本当に素晴らしいことで、とても楽になり、心が晴れます。
 すると、人をコントロールしようとする気持ちがなくなり、説得することもなくなりました。

 世界を変えようという気持ちもなくなりました。
 変えるべきは世界でなく、自分の心だけなのですから。
 他者や社会が自分をどう見るかが気にならなくなりました。
 自分は自分でいいのです。
」(p.249-251)

ちょっと長いのですが、とても重要な部分だと思うので引用しました。
まさにこういうことですね。ありのままでいいと思えるようになると、こういうことになるかと思います。


第3次世界対戦かと思えるほどの未曾有の時局にあって、誰か特別なリーダーが現れて人々を導くのではないのです。一人ひとりが、変容を促されています。
 その変容とは、「願う」ことから「願われている」ことを生きるというものです。
 では、「願われている」こととは何か。
 聖書には、その答えまでもが記されています。

 兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。

 怠惰なものを戒め、小心なものを励まし、弱いものを助け、
 すべての人に対して寛容でありなさい。

 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。

 これが、キリスト・イエスにあって、
 神があなたがたに求めておられることである。
             (テサロニケ人への第一の手紙5-14)
」(p.265-266)

すべてがありのままで良いなら、誰に対しても寛容でいられるでしょう。すべてが良いのなら、いつも感謝していられるし、喜んでいられるでしょう。
このことからも、すべてがありのままで良いのだということを、神が示しているのではないかと思うのです。そして、そこに気づくようにと。その気づきこそが、求められている「変容」なのですね。


本のタイトルには「ユダヤに学ぶ」とありますが、必ずしもすべてを学ぶということではなさそうです。学ぶべき部分もあれば、頑なな彼らに気づかせてあげられる部分もある。そうであればこそ、互いが手を取り合うことに意義があるのかもしれませんね。

ユダヤと日本との関係を考えると、古くは同じ民族だったというような説もあります。その真偽はわかりませんが、現代だけを考えてみても深い関係があるなぁということを、この本は気づかせてくれました。

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タグ:赤塚高仁
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 08:50 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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