2023年07月24日

パワーか、フォースか



もう1年前になりますが、友人から紹介されて購入した本になります。それから1年、ずっと積読状態でした。やっと読んでみようかという気持ちになり、読んでみました。
著者はスピリチュアル的なことを研究しておられるデヴィッド・R・ホーキンズ氏。翻訳はエハン・デラヴィ氏と妻の愛知ソニア氏です。

はっきり言って、けっこう難しいです。一応読み終えましたが、詳細部分はよくわからないので、常に本質は何かという視点でのみ読み勧めました。
要は、キネシオロジー(Oリングなどで知られる)を使うことによって、知覚できない真実を知ることができ、それによれば、この世はこうなっているよというような話かと思います。
ただ、私の知識に照らしても、ここで語られていることは深い真理だなぁと思いました。なので、安易にはお勧めしませんが、良い本だと感じました。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

『各々の人間の心は、巨大なデータベースに永遠に接続されているコンピュータ端末のようなものである。そのデータベースは人間の意識そのものであり、そこで起きる我々自身の認識は、単なる個別の表現にすぎない。しかし、そのルーツには、全人類が共有する意識の源がある。このデータベースこそ「天才」の領域に属していて、人間であるということがこのデータベースに参加していることである。よって、生まれながらにして人間は「天才」にアクセスできる能力を持ち合わせているということである。そのデータベースには無限の情報が含まれており、誰もが、いつ、どこでも容易にアクセスできるものである。これは実に驚くべき発見であり、個人レベルであれ、集団レベルであれ、アクセスできる情報であり、今までまったく予期できなかった、人生を変えるだけのパワーを生み出すものである』」(p.26-27)

改定前の本書の序文からです。ホーキンズ氏は、本書の重要なメッセージはこれだとして、事前に綴っておられます。
簡単に言えば、人であるというだけで全知全能の神にアクセスできるということです。

この本の目的は、あなたが読み終わった最後に「私は常にそれを知っていた!」とうなづけることです。そうであればこの本は成功したといえるでしょう。ここに含まれている内容は、あなたがすでに知っていることを反映しているだけなのですが、あなたはそれを自分が知っているとは知りません。そこで私がやりたいと思ったのは、今まで隠れていた絵のパズルのピースが点々と現れて、互いを結びつけることでした。」(p.28)

全知にアクセスできる人間ですから、すべてのことを知っているはずなのです。けれども私たちは、私たちがそういう存在だということを忘れています。本書は、それを思い出させるものだと言っているのですね。


『パワーか、フォースか』は、人間の精神的進化のもっとも低い表現(恥)からもっとも高い(悟り)レベルにいたるすべての層を、論理的に説得力のある意識の分析として示したものです。本書は、目に見えるものと目に見えないもの、人間、非人間なども含めた存在するすべてのエネルギー的な本質を明らかにすることによって、すべての創造物の一体性を浮き彫りにしています。」(p.39)

本書では、人の意識レベルを数値で表しています。それを論理的に説得力のある分析を行っていると、新しいまえがきでは語っています。

人間は自分がコントロールできるフォースによって生きていると思っていますが、実際には隠されている源からの制御不能なパワーに左右されています。」(p.60)

タイトルにあるパワーとフォースですが、日本語に訳せばどちらも力になります。では何が違うのか?
これは、本書を読んでいかないとわかりづらいのですが、要はエゴ(顕在意識、理性)によって「◯◯しよう」としてすること、その行為とかエネルギーがフォースであり、そういうものによらずに勝手に起こってくることがパワーと言えるのではないかと思います。

意識のマップ(p.101)というのがあり、「恥」(20)のレベルから「悟り」(700〜1000)のレベルまで、意識のレベルを表しています。このレベルがパワーのレベルとも言えるのでしょう。


自分自身の知覚によって生じた結果に対して責任を取るにつれ、「自分を打ち負かすものは、外の世界には何もない」という理解が生まれ、他者に責任をなすりつける精神を超越できます。人生で起こる出来事に対して、自分がどう反応し、どういう態度をとるかによって、それらの出来事が人生にポジティブな影響を及ぼすか、それともネガティブな影響を与えるのかを決定します。その経験は、チャンスにもなれば、ストレスにもなるのです。」(p.104-105)

現実の状況や出来事の責任がすべて自分にあると考えれば、現実の犠牲者にはなり得ません。そうであれば、何かをするための前提条件、つまりチャンスでしかないのです。

歴史全体を見ると、法的措置、戦争、相場操作、法律、規制などの社会問題は、いずれもフォースの力によって、改善しようと試みてきたということに気づきます。しかし、これらの問題をいくら処理しても、同じことがしつこく繰り返されるだけです。個人にしても政府にしても、フォースに基づいた近視眼的な方法では、これらの問題は解決できません。」(p.106)

なぜそういう問題が現実に起こってくるのかということについて、本質的な原因を見極めない限り、対処療法では本質的には解決しないのです。


測定が示す数字は十進算ではなく、対数を表しているということをよく覚えておいてください。よってレベル300は、150の2倍の範囲を意味するのではなく、10の300乗(10300)のパワーを示しています。ですから、ほんの数ポイント上がるだけでも、パワーは大きな増加を表しています。」(p.108)

「怒り」のレベルは150ですが、そのパワーを倍にしても300にはならないのです。それくらいこの意識のマップに示されたパワーのレベルは、数値が少し上がるだけで大きな違いがあるということですね。


私たちの社会で、人を操ったり罰したりするためによく使われるのが、「罪悪感」です。」(p.111)

罪悪感にとらわれてしまうと、結果として「罪」の意識に支配されてしまいます。それは誰に対しても「許さない」という態度をもたらします。また、この感情は、宗教扇動者によって、強制や支配に利用されることがあります。」(p.111)

お勧めしている「神との対話」では、不安と罪悪感は人類の敵だと言っています。他人をコントロールする手段であり、愛の真逆のものなのです。


200レベルにおいて、初めて「フォース」から「パワー」に切り替わります。
 200以下のエネルギーレベルに陥っている被験者をテストすると、すべての反応が弱くなるのが簡単に確かめられます。ところが200以上の生命を支えるフィールドでは、誰もが強く反応します。
 これは生きることに対してポジティブか、それともネガティブな影響を与えるのかを識別できる臨界点です。
」(p.120)

その人がどのくらいのエネルギーレベルかも、キネシオロジーで知ることができるようです。そしてエネルギーレベルが200というのは、「勇気」という言葉で表されるものだそうです。

「中立」のレベルでは、「さて、この仕事が得られないのなら、また別の仕事でも探そうかな」と言うことができます。これは、内なる自信の始まりを意味します。自分のパワーが感じられると、人は簡単におじけづいたりしませんし、他人に認めてもらう必要もありません。」(p.122)

エネルギーレベル250が「中立」です。他人からどう思われようと、自分を信じ、人生を信頼できるのですね。

それはここでいう「愛」ではなく、むしろ依存的で感傷的な類のものといえます。そのような関係性には本当の愛はおそらく存在せず、プライドによる憎しみから生じているのでしょう。
 500レベルは、無条件かつ不変で永久的な愛の発展によって特徴づけられます。その源泉は外部の要因に依存していないので、決して揺らぎません。
 愛することとは、心の在り方です。世界に対して許し、養う、サポート的な在り方です。
」(p.128-129)

「愛」のエネルギーレベルは500だそうです。そしてその「愛」とは、多くの人が勘違いしているものとはまったく違うものなのです。


各々の意識の到達レベルが高ければ高いほど、その人の人生をすべてを変えてしまうほど、もたらすパワーは大きくなります。非常に意識の高い状態を一瞬経験するだけで、目標や価値観も同様に、人生の方向性を完全に変えることができます。今までと同じ人間ではなくなり、その経験と共に新たな人間が誕生すると言えるでしょう。困難な道ではありますが、これこそがスピリチュアルな進化のメカニズムです。」(p.147)

先に示した意識のマップのエネルギーレベルを上げていくこと。それがスピリチュアルな進化なのです。


テクニックが即座に偽りと真実を区別するので、たとえば加害者は誰かとか、行方不明の人の居場所なども、実際に解決につなげることができます。大きなニュースの出来事に隠されている真実を明らかにすることも可能です。」(p.162)

これは驚くべきことなのですが、キネシオロジーが全知にアクセスするものだという前提なら、まさにそういうことになります。
つまり、人が本当のことを言っているのか、それとも嘘を言っているのか、簡単に見抜けます。また、目撃者が誰もいなくても、そこで何があったのか知ることもできるのです。


死の恐怖をいったん超越できれば、人生観が変わるほどの経験となります。その理由は、死という特定の恐怖は、他のあらゆる恐怖の基盤となっているからです。」(p.171)

私たちは恐れ(不安)があるから、本来の私たちではない選択を余儀なくされています。その恐れ(不安)の最たるものが死だと思います。
だから、この死の恐れ(不安)を乗り越えることが何よりも重要だと私も考えています。


世の中の有害なものはすべて、暴露されることによって無害になります。そうであれば、何も隠されたままでいる必要はありません。あらゆる思考や行動、決断、感情は絶えず動き続ける生命のエネルギーフィールドの中で、互いに組み合わさりながら調和をとり、渦を巻き起こしながら永遠の記録として残ります。このことに私たちが気づけば、そのような発見に初めはおじけづいても、その気づきは進化を早めるための飛び込み台となるでしょう。」(p.176)

お勧めしている「神との対話」でも、すべてを見える化する、透明化することを勧めています。


パワーは生命そのものを常に支えることに関係しています。それは、人間の気高さという性質を訴えています。「気高さ」とは、私たちが「俗っぽい」と呼ぶフォースの領域と相対しているものです。
 パワーは私たちを高揚させ、威厳を与え気高くしてくれるものです。フォースは常に正当化されなければなりませんが、パワーは正当化される必要はまったくありません。フォースは部分的なものに関係しますが、パワーは全体に関係しています。
」(p.180)

パワーとフォースの違いを対比した文ですが、パワーは存在する「ひとつのもの」に仕えるものだと思います。
この後も対比が続くのですが、フォースは移動しパワーはじっとしている、フォースは対立しパワーは敵対しない、のような記述があります。これは「神との対話」の不安(恐れ)と愛の対比によく似ていると感じました。

「「フォース」は常に真実の置き換えです。「銃と警棒」は弱さの証です。ちょうど虚栄心が自尊心の不足から生じているように、他人をコントロールする必要性は「パワー」の不足から生じています。罰は暴力の一つの現われであり、「パワー」に代わる効果のない置き換えです。」(p.223)

つまりフォースは恐れ(不安)から他人をコントロールしよう、思い通りにしようと働くのに対し、パワーは愛から他人も自分もありのままで自由にさせるのです。


どんな宗教でも、原理(根本)主義派は常に一番低く測定され、犯罪の意識と同じ水準で活動していることがわかります。その象徴は、自己中心的な極端主義と非合理性です。しかし人類の85パーセントは、200の臨界点となるレベル以下で測定されるために、間違いは容易に広まると同時に、世界中で受け入れられることになります。」(p.347)

宗教の原理主義というのは、経典に書かれている規律を何が何でも押し付けなければ気がすまないという考え方です。そういう意識レベルは、パワーではなくフォースに傾いているってことですね。
そして宗教そのものが、教祖が表れた時から比べると時代とともにエネルギーレベルが落ちていることが書かれています。こういうのは面白いですね。


意識のレベルをもっと向上させることは、どんな人でも世界に対して与えることのできる最高の贈りものです。その上、波及効果によって、その贈りものは源に還元されます。何世紀もの間、全体としての人類の意識のレベルは危うくも190に留まり、1980年代半ばに突然204という、希望が持てるレベルまで飛躍しました。今日となって、人類は歴史上初めて上に向かって進み続ける安全な地点に到達しました。」(p.360)

これをアセンションと言うのでしょうか。人類全体のレベルとして200の臨界点を1980年代に超えたと言っています。


一般的な知恵として、人は天を崇拝するか、地獄を崇拝するかによって、やがてはどちらかに仕える者となります。地獄とは神によって課された状態ではなく、むしろ自分自身が選択したことの必然的な結果です。絶えずネガティブを選択する最終的な結末であり、したがって愛から自分自身を遠ざけることなのです。」(p.366)

お勧めしている「神との対話」でも同様のことを言っています。神が人を地獄に落とす必要がないのだから、そういう意味での地獄は存在しません。けれども人は、その想像力によって地獄を創り出し、地獄を体験するのです。


かなり難解な内容でしたが、スピリチュアル的にはお勧めしている「神との対話」の内容とほぼ一致しているのではないかと思いました。
実際にキネシオロジーによってすべてのことが正確に測定できるのかどうか、私にはわかりません。また本書にも、それが正確だという科学的な根拠は示されていません。
なので、どう感じるかは人それぞれにお任せするしかないなぁと思いました。

かなり難解なので、安易にすべての人にお勧めしたいとは思いません。しかし、真理を探求したいと思われる人は、挑戦してみてもいいのではないかと思いました。

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2023年07月03日

見えないからこそ見えた光



先日紹介した「あなたに贈る21の言葉」に取り上げられていた岩本光弘(いわもと・みつひろ)さんの本になります。
岩本さんは、弱視から全盲へと移行した後、テレビでおなじみの辛坊治郎さんと一緒にヨットで太平洋横断に挑戦したことで話題になりました。けれどもその挑戦は、出港間もない悪天候の中、鯨と衝突するという不運が重なり、断念することになりました。
失敗に終わった挑戦を、世間は冷たく叩きました。そのことがトラウマになり落ち込んだ岩本さんですが、再度挑戦しようという気持ちになったのです。本書は、その再挑戦の直前に発行されたもののようです。

再挑戦の結果は、すでに知られているようにみごとに成功されました。つまり、成功が確定する前に書かれた本なのです。
私は他で言っていますが、2016年にリストラされました。その時、まだ成功していないどん底の今だからこそ情報発信する意味がある、というように考えたのです。
多くの成功者は、成功した後に、かつての不遇の時代のことを情報発信されます。それでは、成功したから言えるんだろう? と思ってしまいますよね。
どうせなら、まだ成功する前のどん底の時に情報発信して、その後を見てもらえばいいんじゃないか? 私はそう思ったのですが、岩本さんのこの本は、まさにそういう内容だなぁと思いました。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介したいと思います。

そんな時期を過ぎ、次第に自分の障がいを受容することができるようになっていきました。そして、ようやく他人からの援助を受け入れられるようになったのです。
 その頃考えたのが、私を助けてくれた人たちが、『あー、いいことをしたな』と思えるのであれば素晴らしいことではないか。見えないという私の存在意義のひとつはそこにあるのではないか、ということでした。
」(p.25)

つまり、助けてもらわなければ生きていけないという自分は、助けてあげたいという他の人の役に立っている、ということなのです。


そういった交流が、障がい者理解につながり、社会にとってもそのきっかけになります。理解できていないというのはどちらかが悪いわけではなく、それまで一緒にやるという接点がなかっただけです。そういう意味でもバリアを破った感がありました。」(p.34)

岩本さんは盲学校の時代、アマチュア無線や英会話、そしてバンド活動をするなど、様々な挑戦をされたそうです。新しいことをしようとすれば、いろいろと壁にぶつかるものです。しかし、その壁は「悪い」と決めつけて責めるものではなく、互いにとって新たなことに挑戦する経験でもあるのですね。
だから私も、障害者とかマイノリティの人々は、もっと社会に出てきてほしいと思っています。もちろん、つらい思いもするでしょうけど、そういう経験の積み重ねでしか、私たちの社会は変わっていかないと思うからです。


私たち視覚障がい者にとって命取りになる状況は日常茶飯事です。そうやって生活していると、自分自身以外のものに助けられる、その存在に感謝をすることが常にあります。命の大切さ、今あることへの感謝というのを日々感じているのです。生きているのではなく生かされている、こう考える時に人生は豊かになると思います。」(p.53-54)

目が見えないということは、見える人以上に容易に危険に遭遇することになることは想像に難くないでしょう。健常者ならめったに落ちない駅のホームでも、障害者はちょっとしたことで落ちる危険性がある。
でも、だからこそ、何もないことが有り難いことなのだと思うこともできる。健常者にとって「当たり前」だと思い込んでいることが、必ずしもそうではなく、本当は「有り難い」ことなのだと認識すれば、ただ生きているだけで感謝したくなるんですね。


しかし、先に進めない山手線のなかで、私が聞いたつぶやきはそのようなものではありませんでした。
「何だ、またかよ」「むっちゃ迷惑だな」「俺のアポはどうしてくれんだよ!」
 自己中心的のものばかりであったことに、私は驚いたのです。
 人身事故で電車が止まることが当たり前になってしまって、そこまで追い詰められた人のことを考えられなくなっているのだなと少し切なくなりました。
」(p.61)

たしかに、東京で働いていた頃、電車に乗っていて人身事故に遭遇するような場面に私も何度か遭遇しました。「死ぬなら勝手に死んでくれよ。なんで俺たちを巻き込むんだよ。迷惑なんだよな。」というような声も聞きました。
でも私は、そういう人たちの気持ちもわかるのです。ある意味で共感できます。前提として社会が殺伐としているのです。常に効率を求められ、迫られている。だから自分のことで目いっぱいなのです。
だから私は、そういう人たちのことも責めたいとは思いません。ただ、社会全体が平和で幸せであるためには、そういう逼迫感がなくなることが一番なのだろうなぁと思うのです。


入学してすぐの頃、心理学の先生が私に「仕事をしながらなぜわざわざ勉強に来るのか」と尋ねてきました。私が率直に「彼ら(生徒)の気持ちをわかりたいからです」と言うと、「そういった気持ちで来るのならやめなさい」と言われ、驚きました。せっかく入ったのに……と思いましたが、4年間学んでその真意がわかりました。
 その真意は、相手の思いをわかろうと努力することはできるけれども、人の心をすべてわかったつもりでカウンセリングすることは間違っているということでした。だから、人の心はわかり得ないものであるという前提で、寄り添う。それは聞くことの重要性、ただ聞くことに終止するということなのだろうと思います。
」(p.83)

筑波大学附属盲学校で教鞭をとっていた頃、生徒たちの心理を知りたくて、青山学院大学で心理学を学び始めたのだそうです。その時、このように言われたのですね。

人はそれぞれ違うし、どれだけ言葉で説明してもわかり合えないことがある。私は、そのように思っています。
だからこそ、聞く(わかろうとする)ことをしつつも、その大前提として「わからないことは必ずある」という思いを忘れてはいけないなぁと思うのです。
話せばわかる、ということが傲慢なのだと思います。話さなければわからないことがあるけど、いくら話してもわからないことはある。けれども、その人にはその人の価値観があり、その価値観において間違ったことはしない、つまり、その人にとってはその行動が正しいということなのです。


行動できない人に共通していることがあります。それは、不安な心に支配されているということです。怖がることはありません。やってみてください。この行動派になることが何事も成功への第一歩なのではないでしょうか? やってみたら意外と何とかなるものです。」(p.103)

「できるかどうか」ではなく、「やるかどうか」なのです。だから私も、結果を恐れずにやりたいと思ったことをただやればいい、結果ではなく行為そのものに情熱を注ぐこと、と言っているのです。


飛行機で行けば12時間くらいで到着してしまうところを約2ヵ月かけてセーリングする。だからこそチャレンジと言えるのでしょう。
 普段の日常では温かい食事、お風呂、映画を見る、といった生活ができますが、ヨットでの生活は、生鮮食料品なし、シャワーなし、インターネットなしのないない尽くしの2ヵ月なのです。しかし、この2ヵ月間の旅は飛行機の旅では経験できない多くの楽しみがあります。
」(p.137)

ヨットで太平洋横断という旅は、壮大な無駄で非効率であり、快適の対極にある行為だと言えるでしょう。でも、だからこそ挑戦であり、冒険であり、最高に楽しい娯楽だと言えるのです。
そういう意味では、人生そのものがまさにそういうことだと思っています。全知全能の神が、あえて神らしくない存在として、不自由を抱えた存在として生きてみたらどうなるか。こんな挑戦的な娯楽はないでしょう。障害者として生きることも、マイノリティとして生きることも、健常者に比べたら、より挑戦的でスリリングなゲーム(娯楽)をやっている、とも言えるのではないでしょうか。


私がヨットにはまった理由のひとつが、通常の道路では運転できないけれども、海では操船ができることでした。サンディエゴ湾内では、行き来している船は多いし、ブイやいかだなどの障がい物もあり、操船はできますが晴眼者からのフィードバックが必要となります。
 しかし、太平洋の真ん中では、ぶつかるものは何ひとつない。この太平洋の懐の大きさは、全盲の私にはありがたい限りです。操船できる自由を与えてくれているのですから。
」(p.150)

ぶつかるものが(ほとんど)なければ、だいたいの方角で進めばいいだけ。それを「太平洋の懐の大きさ」と表現されていることに、どれほど「自由」と「感謝」と「幸せ」を感じておられるのだろうと思いました。同じ状況であっても、感じることは人それぞれだなぁと思ったのです。


ダグことダグラス・スミスも、太平洋を航海するという夢を以前から持っていましたが、セーリング仲間にその夢を話しても、いい反応はもらえませんでした。そんな時私の話を聞いて、ダグは私に「私たちは同じ夢を持っている。君はヨットの操作をわかっているし、私はきちんと見ることができる。良いパートナーシップになると思わないか」と言ってくれました。」(p.184-185)

これが、以前に読んだ本で紹介されていた部分ですね。この出会いによって、太平洋横断という再挑戦が決まったのです。


もう人は信じられなくなったんだ。と涙ながらに話した後に、自分は人を信頼するということを忘れていた、人を信頼することがいかに大切かということが今さらながらわかった、と話してくれました。
「私も目が見えなくなったときはそうだったけれども、今は人を信じて生きるしかない。お金にしても、アメリカのお札はみんな同じ大きさだろ? 日本はみな大きさが違うし、手で触るとわかるようになっているんだ、だから、このアメリカで100ドルだと言って1ドル札を出されても私はわからない。私は言われたことを信じているんだ。それでしか生きていけないんだ」と言うと、彼はさらに泣き出しました。
」(p.190)

バス停でホームレスが岩本さんに、座る場所を教えたことがあったそうです。岩本さんは素直にその助言に従い、移動して座ろうとした時、そのホームレスは、自分のことを信じてくれたんだ、と話し出したのだそうです。
たしかに、その見知らぬホームレスが言うことが正しいとは限りませんからね。しかし、信頼しなければ生きていけない現実がある。けれども、それは仕方ないとは言え、強制的にでも人を信頼して生きる生き方をさせてくれているとも言えるのですね。

信頼することに何の補償もありません。信じれば益があるという保証がないからこそ、本当の意味での信頼だと私は思っています。
「信頼する」とは、「愛すること」です。愛は無条件ですから、無条件で、つまり何の見返りもなく信頼するのです。


クジラがぶつかって、最初は、
『何で俺の夢を邪魔するんだ』
『どうして俺なんだ』
 と目が見えなくなった時と同じように思いました。ですが、今では、天なのか神なのかそれは人それぞれ違うと思いますが、そういった力が働いたのではないか。都合が良いかもしれませんが、より強いインスピレーションをもっと多くの人に私が与えられるようにするために、クジラが私たちのヨットにぶつかるよう作用したのではないか、と思っています。広い太平洋でエオラスとぶつかったクジラに文句を言っても何の解決にもならない。むしろ、そのことは必然だったのではないかとさえ思うのです。
」(p.194-195)

辛坊治郎さんと挑戦したエオラス号での太平洋横断は、悪天化で突然、クジラに衝突されて浸水するという事故により、失敗に終わりました。よりにもよって、あのただっぴろい太平洋での衝突事故。それを偶然と見るのか、必然と見るのか。その見方は自由に選べますが、その選択によって、自分の生き方が影響されるのです。


相手に対して不満を持っているあなたの顔は引きつってはいませんか?
 どうぞ、そんな時だからこそ、自分を誉め、自分を愛して、鏡の前で笑ってみた後に、相手のことを考えてみましょう。そうすることで何か人間関係を良くする糸口が見えてくるかもしれません。
」(p.203)

これは私が「鏡のワーク」でお勧めしているのと同じことですね。
ありのままの自分を受け入れ、認め、誉めること。そうすれば、その安心感の中にあれば、他人を責めずに受け入れることができるようになります。


岩本さんは、ヨットの冒険家として知られていますが、指鍼(ゆびばり)術セラピストやコーチングによって生活の糧を得ておられるようです。そのため、幸せになるための考え方が散りばめられた本になっていました。
この本が出版された後、岩本さんは太平洋横断に成功されています。2019年4月のことです。(致知出版社の記事より)もし、その挑戦が失敗に終わっていたとしたら、この本の評価はどうだったでしょうか?

私はそれでも、この本は価値あるものだったと思っています。それは挑戦者の記録であり、挑戦とは結果ではなく過程(行為)そのものだと思うからです。そしてその行為、つまり経験こそが何よりも大切なものだと思うのです。

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タグ:岩本光弘
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2023年07月01日

おかげで、死ぬのが楽しみになった



Facebookでフォローしている比田井美恵さんの投稿を読んで、これは面白そうだと思って買った本になります。
比田井さんは上田情報ビジネス専門学校(通称ウエジョビ)の校長をされていますが、知ったきっかけは、日本講演新聞で紹介されていた夫の比田井和孝さんの本、「私が一番受けたいココロの授業」を読んだことです。

比田井さんと縁のある元我武者羅應援團総監督の武藤正幸さんが、小説家デビューしたペンネームが遠未真幸(とおみ・まさき)さんで、本書の著者になります。
比田井さんによると遠未さんは、6年半かけて本書を書き上げたのだそうです。その間に、たくさんのストーリーを考え、検討し、最適なものを求めた。そのために時間がかかり、その集大成が本書なのだそうです。
そんな紹介をされたら、もう読むしかないでしょ。と言うことで、買った本になります。
そして読んでみて、買って正解だったなぁと思いました。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
とは言え、これは小説なので、ネタバレしないようにしたいと思います。特にタイトルがなぜこうなのかは、ぜひ本書を読んで楽しんでいただきたいと思います。

まずストーリーの概略と構成を書きます。
高校の時の応援団の1人が亡くなり、その葬式に他の3人のメンバーが集まるところから物語が始まります。高校の同級生も、すでに70歳です。
そこで孫から遺言が渡されます。そこには、応援団を再結成してくれと書かれていました。何のために? 誰を応援するのか?
わからないけど、ともかく仲間の最後の望みであるならと、残ったメンバーの3人は応援団を再結成します。

そこからは、それぞれのメンバーを主人公にした物語が展開します。そして、そこに協力することになった孫の物語も。
それぞれの物語やキーワードが関連し合い、全体の物語が展開していきます。その中には、応援すること、生きるということなど、深遠なテーマに関するメッセージがちりばめられています。


和訳すると、口もとのゆるみを愛して進め。応援団での3年間がそうだったみたいに、思わずニヤニヤしちゃう方へ進んでさえ入れば、人生はオールハッピーになる」
 のほほんとした、それでいて一点の曇りもない声色だった。
「この先、世界が敵に回ったとしても、オレがオレの味方でいてやればいいってわけよ」巣立は私たちの顔を見つめ、「オレにはオレがついている。だからオレは一人じゃないんだなー」としみじみつぶやいていた。
」(p.17)

亡くなった巣立の座右の銘が、「ラブ・ニヤニヤ」なのだとか。ふと口元が緩んでニヤついてしまうようなことを選択して生きる。それが人生の極意だと言うのです。


「選手を後押ししてるつもりだったけど、こっちが力をもらってたのかもな」
 板垣のつぶやきに、長年解けなかった方程式の解が降りてきたかのように、はっとした。応援は、する側からされる側への一方通行の行為ではない。

 私たちは支えることで、すでに受け取っていたのだ。
」(p.86)

応援される側が応援する側から一方的に恩恵を受けているわけではないのです。応援する側は応援することによって、応援される側がいてくれることによって、受け取っているものがあるのですね。


才能もなく、試合に出られる希望もない。身の程をわきまえない努力は、惨めさを生むだけだ。
 彼は構えたバットをゆっくり下ろした。顔を上げ、私の目をまっすぐに見る。
「父さんと約束したんです。『笑われても、歩いてでも、走れ』って」
「なんですか、それは?」
「口癖です。父さんの」周くんの目に力が宿る。「速く走れるかは人によって違う。でも走るかどうかは自分次第。だから、笑われても、歩いてでも、走れ」
」(p.103-104)

才能もなく、バッターボックスに立たせてさえもらえない周くんは、それでもお父さんからのメッセージを忠実に守って、ひたむきに練習に打ち込みます。結果がどうかじゃない。誰かから評価されるかどうかじゃない。ただ自分が自分を諦めないかどうかだけが重要なのです。


「自分のために貫いたことは、意外と誰かのためになったりする」
「何それ、自分勝手に生きれば良かったってこと?」
 結婚生活の苦労を否定された気がして、いらっとしてしまう。
「自分勝手上等」巣立は頷き、「ただ自分のために生きるってのも、案外、楽じゃないけどなー」と独り言のようにこぼした。
」(p.192)

他の誰かのために何かをするんじゃなく、他の人はどうでもいいから自分のために何かをする。それが結果的に他人のためになることがある。

要は、結果を求めない生き方だと思いました。とかく他人のためにという生き方は、他人からの評価を得たいという動機によるものです。つまり、他人のためのようで、実は自分のためなのです。
そうであれば、むしろ他人の評価など気にせず、自分の望みを追求すればいい。自分らしい生き方を追求すればいい。自分が愛であるなら、自分らしく生きることは、誰かのためになるのです。


あの頃の私に、現在の自分が一矢報いることができるとしたら、勇気の使用量かもしれないって。だって、高校時代に比べたら、病気も怖いし、鏡に映る老いた自分を見るのも怖いし、家に一人でいるのすら怖い。もちろん、死ぬのもどんどん怖くなる。昔よりも、生きるために使う勇気の燃費は、同じ一歩でも、必要な勇気の量は桁違いだろうよ。だからこそ、何も考えずに踏み出せてしまったあの頃より、震えながらも踏み出す今の一歩の方が、よっぽど勇ましい気がしないか?」(p.320-321)

若いころは無謀なこともできますが、年を取れば取るほど冒険できなくなるものです。そうであればこそ、老人の無謀な一歩には意味があるし、大きな勇気を使ったと言えるのですね。
私もそう思って、小さなバンジーを飛び続けようと思います。そういう生き様が、誰かのお役に立てるかもしれないと思ってね。


「そもそも、がんばっていない人に『ガンバルナ』とは言わないもん。必死で努力しているのを知っているから、限界まで踏ん張ってきたのをわかっているから、『今は自分を守るために、がんばらない道を選んでいいんだ』ってことでしょ」
「『ガンバルナ』とあえて背中を引き止めることで、休むことも、あきらめることも、逃げ出すことさえ受け入れる。否定形なのに、相手の存在を丸ごと肯定する言葉。苦しみの底にいる相手にふさわしいエールじゃないか」と引間が感心したようにつぶやいた。
」(p.331)

東日本大震災の時、多くの人がネットで「がんばれ」とメッセージを発信しました。それに対して被災者側から、自分たちはもう十分にがんばってるのに、さらに頑張れと言うのか!? というような反発もありましたね。これは、うつ病の人に対して「がんばれ」と言ってはいけないとされるのと、同じことだと思います。
私は、「がんばれ」じゃなく「がんばろう」と言ってきました。それは、がんばるのはあなただけじゃなく、私も一緒にがんばるよ、という意味を込めていました。一緒に頑張ろうよという誘いかけです。
言葉のニュアンスがどれほど伝わるかはわかりませんが、十分に頑張っている(と思っている)人に対しては、「がんばるな」というメッセージが伝わるのかもしれないなぁと思いました。

そもそも頑張っても頑張らなくても、どっちでもいいんだと思います。何かをするから価値があるんじゃなくて、存在そのものに価値があると思うからです。


自信に根拠なんてねえよ。根拠がないから、自信の出番なんじゃねえか。根拠があったら、ただの確認作業だろ」(p.421)

私も「根拠のない自信」こそが本物の自信だと言ってきました。根拠のある自信は、所詮、不安の上に築き上げた楼閣に過ぎないのです。


ここでは紹介できませんが、それぞれの物語の登場人物やメッセージが、密接に絡み合っています。「そうか、ここでそうつながるのか!」と驚き、感心することが多々ありました。
読み物として純粋に楽しめます。そして、たくさんのメッセージを受け取れます。

こんな素敵な小説を、著者が6年半かけて創り上げた物語を、たった2千円弱で読めるって、本当にありがたいことだなぁって思いました。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:28 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年06月30日

仕事で大切なことはすべて尼崎の小さな本屋で学んだ



これも日本講演新聞の記事で知った本だと思いますが、尼崎にある小さな書店(小林書店まいぷれのWEBページ)が舞台の物語です。実話ではなく、店主の小林由美子(こばやし・ゆみこ)さんが体験されたことを元に、コピーライターで著者の小林徹也(こばやし・てつや)さんがフィクションに仕立てたものになります。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。とは言え、小説なのでなるべくネタバレしないようにしたいと思います。
物語は、書籍の取次会社大手「大販」に就職した主人公の大森理香が、尼崎の小林書店の店主、由美子さんから影響を受けながら成長していくというストーリーになっています。
その中にある由美子さんの実際のエピソードも含まれていて、ピンチの時に傘を売ったという話には、由美子さんの人柄が感じられました。

まずは、仕事のことでも会社のことでもまわりの人のことでも、ひとつずつでもええから、ええところを探して好きになってみ。そしたら自然ともっと知りたくなってくるもんや。何でもええやん。せっかく縁あって大販に入ってんから、仕事のことも会社のこともまわりの人のことも、好きにならんともったいない」(p.93)

なぜか大阪支社の営業に配属された理香は、慣れない大阪での一人暮らしに参っていました。そんな時、由美子さんからかけられた言葉です。
最初にまず好きになってかかる。そう決めてかかる。そういう考え方が、自分の未来を明るくしてくれるのです。


由美子さんが薦めてくれたのは、『百年文庫』というシリーズだった。
『百年文庫』とは、一冊ごとに漢字一文字でテーマを決め、日本と海外を分け隔てることなく短編3篇を集めたアンソロジー。何と全100巻あるとのこと。
」(p.96)

こういう小説の集め方があったんですね。面白そうだと思って調べてみたのですが、すでに販売されていない本が多いようです。もし、気に入ったものがあれば、私も読んでみようかと思いました。


「えー、私なんて何もないですよ。薄っぺらで」
「理香さん、ひとつだけ忠告してもええ?」
「何でしょう?」
「自分を卑下するような言葉を使ってたら、ほんとに薄っぺらくなるよ」
「はい。でも私なんて」
「ほら、また『私なんて』」
「ゴメンナサイ」
「謝ることやないけど、何で理香さんはそうやって自分を低くするん? もっと自信持ってええやん」
」(p.119-120)

私もそうでしたが、無意識に自己卑下するんですよね。そしてそれを「謙虚」なことだと思っている。自分が低くあることによって、他人を喜ばせ、それによって他人から評価してもらえる、つまり愛されると思っているんですね。


「理香さんが仕事していく上で一番の弱みは何?」
「読んだ本の量が圧倒的に少ないことです」
「だとしたらそれが強みやないかな」
」(p.151)

「この業界、本好きの人が多い。でも世間を見渡したら、本好きは圧倒的に少数派や」
「確かに」
「だとしたら理香さんは多数派の人たちの気持ちがわかるってことやろ?」
」(p.152)

当たり前だが、読書量が圧倒的に少ない私に何か気の利いたフェアを考えることはできない。できることは本を読まない人の気持ちになって、どんなフェアが実施されていたら手に取ってみたくなるかを考えることだ。」(p.153)

だとしたら店が薦めるのではなく、お客さんがお客さんに薦めるのはどうだろう?
 考えてみたら、私たちは普段から他のお客さんの意見を参考にすることが多い。
」(p.153)

自分で弱みだと思っていることが、見方によっては強みになるという実例です。本を読んでいなからこそ、本を読まない人の気持ちがわかる。そういうことがあるんですね。この小説では、読者が好きな本を他の人に伝えるというイベントで、新たな読者を掘り起こすことができたということになっています。
食べログなどもそうですが、今はレビューによって販売動向が左右されます。新規の顧客の開拓にも、こういう既存ユーザーのレビューが、大きな力になるのでしょう。

こういうことがあるので、すべてのことにおいて、「弱み」というのは1つの見方に過ぎず、単に「違い」なのだと思います。「違う」からこそ、他の人にない発想が可能になるし、それは「強み」とも言えるのですね。


大阪での経験で一番学んだのは、人は「熱」がある場所を「快」と感じるということだ、逆に「熱」がないところに人は集まらない。「熱」を生み出すためには、人の気持ちが乗っかる必要がある。もちろん店側のスタッフの気持ちも大切だが、お客さんの「本気」がそれに乗っかると、さらに店は熱くなる。」(p.257)

人は「熱」に引かれるという観点、たしかにそうだなぁと思いました。そうであれば、誰かが「熱」の中心になれば、他の人を引き付けることも可能になるわけです。
実際、これまでの私のわずかな人生経験においても、事態を打開していく人は「熱」のある人だったなぁと思います。可能か不可能かに関係なく、ともかくやってみる、可能性を信じてやってみる人なのです。

そうであれば、重要なことは、闇の中にあって闇を嘆くのではなく、自ら光になることだと思います。これはお勧めしている「神との対話」で言われていることですがね。


これは小説ですが、店主の由美子さんは、実にエネルギッシュな人なのだなぁと感じました。つまり「熱」のある人であり、人を引き付ける人なのです。
それだけで万事が上手くいくわけではありませんが、山あり谷ありでも、そうやってエネルギッシュに生きる人生は、楽しいものだなぁと思いました。

小林書店では、年間を通じてお勧めの本を送るというサービスもやっているようです。自分が読みたい本ではなく、由美子さんがお勧めしてくれる本が読めるというものですね。これも、面白いなぁと思いました。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:58 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年06月28日

なぜこれを知らないと日本の未来が見抜けないのか



これはたしかTwitterで誰かが紹介していた本だと思います。著者は江崎道朗(えざき・みちお)さん。以前、「コミンテルンの謀略と日本の敗戦」という本を読んでいて、この方の本なら間違いないだろうと思って買いました。
歴史や政治に関して幅広い知識と深い洞察をお持ちの方だと感じています。本書では、タイトルには出てこないのですが、「DIME(ダイム)」という視点がなければ日本の明るい未来がやってこない、というようなことが語られています。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

たとえばアメリカは、仮に米中で戦争が起こったとき、国務省を使って外交交渉をする(D)だけでなく、軍事的に中国を恫喝する(M)、財務省を使って在米の中国共産党幹部の資産を凍結する、商務省を使って中国系企業をアメリカ市場から追放する(E)、FBI(米連邦捜査局)などを使って在米の中国共産党幹部の関係者を拘束する(I)といった、外交(D)、軍事(M)、経済(E)、インテリジェンス(I)を使って対抗措置をとり、在中のアメリカ人たちを守ろうとするにちがいない。あるいは在米の中国共産党幹部の関係者を拘束するなどして、人質交換といった手段を駆使することもいとわないだろう。
 そして、アメリカ政府が自国の国民と企業を守るためにそうした手段をとることを、アメリカ国民の大半は容認、支持しているのだ。
 そもそも外国との紛争が起こることを想定して、全世界にいる自国民と自国益を守るために、アメリカ政府は、外交、インテリジェンス、軍事、そして経済の四つの面での準備を怠ることなく進めているのである。
」(p.8-9)

つまりDIMEとは、外交(Diplomacy)、情報(Intelligence)、軍事(Military)、経済(Economy)の頭文字を集めた言葉であり、この4つを有機的にリンクさせなければ、社会としての、政府としての、目的が達成できない状況があるということなのですね。


「外交は、外交官だけでやるものではない。自由な立場で動くことができる民間人だからこそ、外交、インテリジェンスの分野でできることがある。
「外交は政府・外務省がやるべきことだ」と思い込んでいた私は、またまた自分の浅はかさを思い知らされた。
」(p.43)

江崎さんは、民間シンクタンクASEANセンター代表の中島慎三郎氏に深く師事して、多くのことを学ばれたようです。花屋の経営者でありながら、福田赳夫総理らのスタッフとして東南アジア外交に関与されていた中島氏は、民間人でありながら、いや民間人だからこそ、その立場でできる日本のための外交に従事されておられたようです。

そこで中島先生は、私に「感情的に反発するだけの人間になりたいのか、それとも勝利を勝ちとる優秀な指揮官になりたいのか」と問いかけたのだ。
「どんなに情けなくても、どんなに臆病であっても、味方であるなら役立つこともある。そう考えて情けない味方を活用しようとするのが、優れた指揮官だ。戦争をよく知らない指揮官は、味方が臆病であること、情けないことを許せずに味方を斬ってしまう。その結果、味方がどんどん減って戦争に勝てなくなる。
」(p.46)

「江崎さん、政治家というものは使うものであって、なるものではないんだよ。たしかに民間人のままでは世間から脚光を浴びることはないが、大事なことは日本をよくすることであって、自分の名前を売ることではないはずだ」
「政治家を使う」という発想は、当時の私にはかなり刺激的だった。おそらく中島先生は、政治家をただ偉い人として祭り上げるのではなく、日本をよくするために政治家の力をいかにお借りするのかを考えろ、という意味でおっしゃられたのだろう。
」(p.47)

同時に、マスコミ報道などを見て、「政治家たちは何をやっているのだ」と不満をもち、親しい政治家がそれほどいるわけでもないのに、なんとなく政治家を小ばかにしている自分がいた。
 そうやって日本の政治に不平・不満を述べるだけの人生でよいのか。中島先生のように民間人でありながら、「政治家の力を借りて」日本の政治をよくしていく道をめざすべきではないか。
」(p.48)

1994年、羽田孜内閣の法務大臣に任命された永野茂門参議院議員は、南京大虐殺はでっち上げだと思うと発言し、中韓から猛烈な反発を食らい、わずか11日で辞任したということがありました。その永野元法務大臣についての論評ですが、あいつはダメだと批判して切り捨てるだけなら誰でもできます。事実、そのようなことは現在でも、SNSの世界で毎日のようにされてる言論です。
しかし中島氏は、そういう人であっても同じ同志として扱い、どこかで役立つよう考えるのが真のリーダーではないかと言われるのですね。

私も、政治に対する不平不満をSNSで吐くことが多々ありました。では、それに対して私自身がどう行動しているのか? 「お前は何をやっているんだ!?」と問われると、答えに窮するところがあります。


相手をコントロールしようとする人間は、相手のことを深く知ろうとする。アメリカや中国やロシアは、日本を含む相手の国の内情を必死で調べ、宣伝、恫喝、経済的利権、ハニートラップなどあらゆる手段を使って相手をコントロールし、自国の国益を確保しようとする。
 この相手の国をコントロールする目的で相手の内情を調べ、対策を講じることこそを、インテリジェンスと呼ぶ。
 このとき中島先生は、日本の政治の議論は属国的な発想が強いことが問題なのだとして、こう批判した。
「日本の政治、外交に関する議論で問題なのは、たとえば韓国がけしからんとして、韓国との付き合いをできるだけやめようとすることだ。それは属国の発想だ。覇権国ならば、韓国をどのようにしてコントロールするかを考え、韓国のことを徹底的に調べるべきだ。
」(p.54)

相手国がひどいと批判非難するだけなら誰でもできます。しかしそれでは属国的な発想であり、問題解決にはつながらないということですね。
外交は片手で握手しながら、もう一方の手で殴り合うようなものだ、という表現がありましたが、まさにそうだと思います。隣国と離れることなど不可能です。影響があり続けるなら、いかに自国の有利になるよう相手をコントロールするかという発想が必要なのだろうと思います。


中国人船長を釈放しないと中国で働いている日本人をスパイとして拘束し、刑務所に送るぞ、と脅したのだ。さらに、レアアースの日本への輸出を事実上、禁止とした。
 国益にかかわるならば、外国にいる自国民は、たとえ犯罪者であっても手段を選ばずに守ろうとするのが中国という国である。しかし、これは独立国家ならばある意味では当然の振る舞いで、綺麗事だけいって自国民を助けようとしない日本政府のほうが異常なのだ。
」(p.71)

2010年、中国漁船が日本の巡視船に体当りし、拿捕された事件のことです。あの時の政府の対応は、本当に酷いものでした。
そして、外国から日本人が拉致されても、不当に犯罪者扱いされても、結果的に何もできないのが日本政府だということも、よくわかってきたのではないかと思います。


この日本版NSCが、日米関係の根本を変えた。第二次安倍政権までの日本はある意味で、アメリカの国家戦略に従う国だった。前述したように、一九四五年当時の「降伏後に於ける米国初期の対日方針」に示された<米国の目的を支持すべき、平和的かつ責任ある政府を、究極において確立すること>という、アメリカの国家戦略を支持する日本政府という戦後の日米関係のあり方が続いてきたのだ。
 そこから自前の国家安全保障戦略を策定し、推進する国へと政治を根幹から変えようとしたことは、まさに劇的ともいえる変化であった。
」(p.83)

防衛省、外務省など、縦割りで考えていたら、アメリカの言いなりになってしまう。官邸が主導して、各組織を有機的に統合して、日本にとってどうするのが最も良いかを主体的に考えて実行する組織。それが日本版NSCであり、安倍政権のもとで作られたのでした。

つまりはTPPを背景に、ASEAN、インド太平洋諸国に対して軍事支援を実施し、外交関係だけなく、経済的・軍事的関係を強化する。これが「自由で開かれたインド太平洋(FOIP)」構想の実体なのだ。
 日本がアメリカに従属するだけで自分の国のことしか考えない国家から、インド太平洋諸国を牽引し、アメリカを引き込む独立国家へと変わったからこそ、トランプ大統領は安倍総理のことを重視したし、政権交代が起こっても、ジョー・バイデン政権は日本のことを引き続き重視せざるをえなくなった。
」(p.85-86)

第二次安倍政権の前後で、国際社会における日本の立ち位置はまったく異なるものになった。しかし、肝心の国民の側がそれを理解しなければ、いつか日本はまたアメリカに従う国に戻ってしまうだろう。自由と独立は自ら勝ちとるものだ。与えてもらうものではない。」(p.87)

こういうことがわかってくると、いかに重要なリーダーを失ったかがわかります。返す返すも残念なことであり、殺害した犯人は、まさに日本国家の宝を奪うテロ行為を働いたと言えるでしょう。


たとえば尖閣諸島に武装難民が上陸し、それを追い出すために自衛隊が出動しようとしたとする。それに対し、中国は沖縄を攻撃する構えを見せて脅してくるかもしれない。
 そのとき、日本はそれでも尖閣諸島の奪還をめざすのか、それとも沖縄の安全を考えて尖閣を手放すのか。あるいは中国との軍事的緊張関係がさらに進んだら、中国大陸に進出している日本企業が人質になる恐れもある。その場合にどうすればよいのか。
 これは政府だけではなく、国民一人ひとりに突きつけられている問題だ。日本は民主主義の国なので、その総意が国家戦略になる。よって<日本自身が譲ることのできない利益や価値観を戦略の中で自覚することが必要>と村野氏は説く。
 じつは、トランプ政権時のアメリカでは、中国に送り込んでいたCIA(米中央情報局)要員が数十人規模で音信不通になっているといわれている。それでもアメリカは、いまも諜報活動を続けている。アメリカの国益のために多少の犠牲はやむをえないと考えているからだ。これは国家としての優先順位の問題である。おそらくはやがて日本も、同じように覚悟を決めるときが来るだろう。
」(p.105-106)

日本人の多くは平和ボケしており、こちらが攻めなければ相手から攻められたりしないと、何の根拠もなく信じているようです。しかし、現実的にはまったく違います。
こんな平和ボケした国民に、優先順位をつけるとか、何かを犠牲にしてでも護るべきものだとか、そんなことが考えられるでしょうか? 決断できるでしょうか?

これが民主主義国家の弱点かもしれませんね。けれども私たちは、こういう弱点を受け入れつつも、何とか日本という国を護っていかなければならないのだろうなぁと思います。


注目すべきは、「経済安全保障推進会議」の設置だろう。安全保障に関して、全大臣が出席する会議はこれが初めてだ。経済安全保障はすべての省庁がかかわるということで、それも総理がトップダウンで指示を出すのではなく、各省庁がそれぞれの立場でどのような問題に取り組むか、自分たちに何ができるかを考えさせて発表させる。
 安全保障の問題となると、とかく日本政府は消極的だ、アメリカのいいなりだという批判がなされる。しかし、岸田政権が本腰を入れて取り組んだことは間違いない。内閣に経済安全保障担当大臣を置いた国も、じつは世界で日本が初めてだ。
」(p.163-164)

検討ばかりと思っていた岸田政権ですが、実は安全保障に関して本腰で取り組んでおられたようです。


この戦争でまずはっきりしたのは、原則として核をもつ国同士は戦争をしないということだ。戦場は、核兵器をもたず(正確にいえば核兵器を放棄した)、NATOにも加盟していないウクライナ領内に限定され、アメリカをはじめとするNATO加盟国が戦火にさらされることは、いまのところ起こっていない。
 さらに、戦争の優劣は軍事力だけでは決まらない。ポイントは「DIME」の総合力だ。軍事力で圧倒的に劣るウクライナが簡単に屈しないのは、米英をはじめとする自由主義陣営から、軍事面、財政面、インテリジェンス面での支援を受けているからである。つまり「DIME」の観点で見れば、ウクライナはロシアと同等、あるいはそれ以上の力を有しているのだ。
」(p.189)

核兵器の保有がいかに戦争抑止に有効かということは、今回のウクライナ戦争を見ても明らかですね。
そして戦争は、単に軍事力だけではなく、総合戦になるということです。金融や貿易の停止による経済戦争、プロパガンダを駆使して味方を増やし、敵の戦意を削ぐインテリジェンス戦争、そして味方の国を増やす外交戦争もあるのです。
そういう意味では、弱小国のウクライナがよく検討しているという見方もできますが、私は逆に、ロシアが米英を相手に善戦していると見ることもできるなぁと感じています。
いずれにせよ、核保有国内で戦闘が起こらないということであれば、ロシアを追い返すことができたとしても、敗北させることはできないということになります。

だが一方で、首都キーウの様子は意外にも平穏だ。ときどきミサイル攻撃を受け、電気やガス、水道といったインフラも一部は破壊されたが、市民は普通に出歩き、自動車の往来も多い。インターネットや携帯電話も使えるし、スーパーマーケットでは食料品が売られ、マクドナルドやスターバックスなども営業している。さまざまな支障はあるにしても、多くの方が通常の生活を送っている。
 見方を変えれば、国家が戦争状態に入っても、支障さえなければ民間企業は通常の業務を続けられるということだ。モノをつくり、または輸入し、流通させ、販売している。戦争が始まったからといって、すべての人々の日常が途切れるわけではない。
 むしろ、そうでなければ戦争を継続できないのである。
」(p.189-190)

国家全体が臨戦態勢に入ってしまえば、戦争の継続はできなくなるということですね。しっかりと日常生活を送ってくれる大多数の国民があって、経済が回ることが重要なのです。
このことからもわかるように、東日本大震災やコロナ禍において、不要な自粛を求める考え方がはびこりました。あれなどは、国家を上げて戦うことをさせないようにするための、日本弱体化工作ではなかったかと感じます。


だが、こうした一連の改革について、メディアはこぞって「総理大臣による独裁政治が始まる」と批判した。これはあまりに筋が悪い。民主的な選挙で選ばれた与党のリーダーが、方針を示して官僚に指示を出すのは当たり前だ。むしろリーダーの与(あずか)かり知らぬところで官僚が勝手に決めてしまうほうが、国家としてよほど危うい。
 だいたい森総理は、メディアからひどく叩かれるリーダーだった。私の経験上、叩かれる総理ほど真っ当な仕事をしている傾向がある。
」(p.212)

これまでの閣議は、首相が主催するものの、議題は各省庁が時間給会議によって決められるというものでした。それを総理主導に切り替えたのが森首相だったのだそうです。
森元総理は、東京五輪の招致においてもメディアから随分と叩かれましたね。功績のある人を素直に認めようとしないのが、今の日本人のレベルなのでしょう。


末次先生がこうして政府要人同士の会談にこだわったのは、戦前の反省によるものだ。先に述べたとおり、インテリジェンスの現場がどれほど優秀でも、中枢がそれを理解しなければ意味がない。
 トップの戦略に基づいて現場が細かい戦術を駆使し、その成果をトップの戦略に昇華させるという循環ができて初めて、大きな問題を動かせる。
」(p.242)

中野学校OBの末次一郎氏は、戦後、各国に収容されていたBC級戦犯の釈放運動に取り組み、次は沖縄返還運動に取り組まれたそうです。末次氏は民間人のまま、各国の要人と会い、コミュニケーションを図ることで信頼関係を作り、事を進めようとしたのです。
ただ、こうした現場の活動と、政府中枢の思惑が一致していないと、チグハグな対応となってしまい、DIMEの効果を発揮できないと江崎さんは言います。当然のことでしょうね。


「江崎君、思想というものは豊かなものだよ。君の話を聞いていると心がギスギスしてくる。心がギスギスするような話をしている人間のいうことに耳を傾ける人がいると思うかい」
「いや、だって、でも政府・自民党はおかしいではないですか」
「だから、自民党がけしからんといって、いまの状況は是正できるのかい。できないだろう。ほんとうに自民党を含めて外交を立て直そうと思えば、それは人生を懸けてのことだ。そのためには、外交はどうしたらよいのか、なぜ自民党はこうなってしまったのか、中国は何を狙っているのか、なぜ韓国に対して日本は弱腰なのか、そもそも先の戦争についてどう考えたらよいのか、君はそういうことについてどれだけ知っているのか」
 たしかに当時、私は何も知らなかった。小柳先生は「何も知らなくて自民党はけしからんといって世の中は変わるのか。そんな暇があるのならば、きちんと勉強したまえ」と、どうしたらよいかということまで丁寧に話してくれたのだ。
」(p.250-251)

江崎さんが九州大学の時、講師で来られていた九州造形短期大学の小柳陽太郎教授から、大事なものの見方を学ばれたようです。
この時は、1982年のいわゆる教科書誤報事件で、「侵略」を「進出」に書き換えさせたという新聞の誤報を元に、反発する中韓に対して宮澤喜一官房長官が謝罪し、中韓の意向を汲んで教科書を作ると発言したことに対し、江崎さんは怒って小柳教授に訴えたのだそうです。
けれども小柳教授は、批判非難して良くならそうすればいいけど、そうならないのであれば、それは意味がないと諭したのです。それよりももっと事情を知ることだと。


けっきょく国も人も、それぞれの事情があるのです。その事情を知らずして、単に批判非難したところで、事態は変わりません。
ではどうするのか? その答えがこの本にあるとあると思いました。つまり、相手の事情を知ろうとすることです。相手には相手の、そうせざるを得ない事情がある。それを前提に、知ろうとすることが重要なのです。
それはつまり、相手の立場を慮ることであり、相手を信頼することにもなります。そういう信頼関係を築き、コミュニケーションを図ることによって、相手もこちらの事情を斟酌してくれるようになるのです。
それが真に平和的な外交というものではないかと思います。もちろん、相手を暴力に訴えさせないための武力を持つことは、つまり抑止力としての武力を持つことは重要です。なぜなら、相手を愛らしくない行動に踏み切らせないようにするためです。

知らないから怒りが湧くのだと思います。だから批判非難したくなる。
だから、知ることが大切です。わからなくても、知ろうとすること。仮にそれでもわからなくても、信頼することはできます。きっと相手には相手の事情があるんだろうなぁ、と。
その上での決断であれば、相手を闇雲に追い込むようなことはしないでしょう。だって、事情があってそうせざるを得ない立場の相手なのですから。愛すべき相手なのですから。

昨今の中国、韓国、北朝鮮、ロシアといった隣国との関係を考える時、こういう視点は大事だなぁと思いました。
こういう視点を持っていなければ、日本は孤立したり暴走したりして、かえって国益を損ねる結果を招きかねませんからね。

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2023年06月24日

あやうく一生懸命生きるところだった



この本は、Facebookで友だちが紹介していたので、興味をいだいて買った本です。
この本を、成分献血をしながら読んでいたら、スタッフの方から「私もこの本を読みましたよ。読みやすくて、とてもためになる内容でした。」と声をかけられました。ベストセラーになっただけに、知っている人も多そうです。

実はそのスタッフの方から、「今度、馬の絵本を読もうと思っているんです。ちょっとページ数があるのですが、大人も楽しめるということなので。タイトルは忘れちゃいました。」と言われて検索してみました。おそらく、「ぼく モグラ キツネ 馬」ではないかと思うのですが、どうでしょうか?

この本の著者は韓国人のハ・ワンさん。売れないイラストレーターをしながら会社勤務もするという二足のわらじを履いておられたようですが、ある時、思い立って会社を辞めてしまったのだそうです。
私と同じわけではありませんが、何か似ている部分もあるなぁと感じて、興味を持って読み進めました。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

でも、もう疲れた。気力も体力も底をついた。チクショウ、もう限界だ。

 そう、40歳はターニングポイントだ。そんな理由から、決心した。

 今日から必死に生きないようにしよう、と。
」(p.9)

誰しも必死に頑張ろうとする世の中で、一生懸命やらないなんて正気の沙汰ではない。
 でも、自分自身にチャンスを与えたかった。違った生き方を送るチャンスを。自らに捧げる40歳のバースデープレゼントでも言おうか。

 正直なところ、この選択がどんな結果を生むのかはわからない。「頑張らない人生」なんて初めてだ。だからこれは、人生を賭けた実験だ。
」(p.9)

ただこれまでとは違う生き方をしようと思って、どうなるかという結果を考えずに会社を辞めた。そんなハ・ワンさんの生き様が、このエッセイには書かれています。


だからといって、一生懸命努力する人を否定するつもりも、適当に生きたほうがいいと言うつもりもない。落ち着いて聞いてほしい。
 努力は、必ず報われるわけじゃない。
 ただ、それだけの話だ。
」(p.32)

自分が ”こんなにも” 努力したのだから、必ず ”これくらい” の見返りがあるべきだという思考こそが苦悩の始まりだ。
 見返りとは、いつだって努力の量と比例して得られるものではない。むしろ努力の量よりも少ないか、またはより多いものである。時には見返りがないことすらある。残念ながら真実だ。
」(p.33-34)

ハ・ワンさんは日本の小説や漫画もたくさん読まれているようで、随所にそういう話が出てきます。ここでは村上春樹氏のデビュー作「嵐の歌を聴け」という本の内容が紹介されていました。
太平洋のど真ん中で遭難した男女がいて、男はここで救助を待つと言うのに対し、女は島がありそうな方へ泳いでみると言って別れた。女は必死で泳いでなんとか島にたどり着き、救助された。一方の男は、そこで何もせずに待っていたら救助された。この2人が後日再会した時、女は努力しなかった男も、救助されるという同じ見返りを得たことに理不尽さを覚えたという話です。


みんなと同じように生きないという選択は、あらゆる面で疲れる。ひょっとして、みんなも疲れるから他人に合わせて生きているのだろうか。
 もちろん僕も、いつも他人の視線を気にしてきたし、誰に見られても恥ずかしくない人生を送ろうと努力してきた。たとえ、それがうまくいかなくても。正直、「人生マニュアル」に合わせて生きてみたかったけど、簡単ではなかったんだ。

 でも、本当に恥ずべきは、この年で何も持ち合わせていないことではなく、自分なりのポリシーや方向性を持たずに生きてきたという事実のほうかもしれない。
 これまでほしがってきたものは全部、他人が提示したものだった。
 みんなによく見られようとしていた。それが恥ずかしい。
」(p.46)

「いい年して、まだ結婚していないの。」なんてセリフ、よく聞かれますね。結婚して、子どもを作って、家を買って、良い親になる。それが当たり前。そう言い聞かされて、そのように生きようとしてきた。たしかに、そういう面がありますね。


そこでようやく認めることができた。自分にはお金を稼ぐ能力が決定的に不足していることを。
 そして気づいた。
「どうすれば金持ちになれるか」だけを考えすぎるあまり、本当に大事なものを見落としてきたことに。
 だから、金持ちになることはあきらめることにした。これまで辛酸(しんさん)を舐(な)めてきたが、やみくもに金持ちを目指すのは正しくない。
」(p.52)

これ、私も到達した結論なんですよね。私も金持ちになりたかったけど、いろいろやっても上手く行かなかったのです。だから、もう金儲けしようとすることそのものをやめようと思いました。
私に金儲けの才能がないのは、その才能がない(=他の才能がある)人生を歩むことが、私らしく生きる道だと思ったからです。


あきらめとは「卑屈な失敗」だと教わってきたが、実のところそうではない。
 賢明な人生を生きるうえでは、あきらめる技術も必要だ。
 僕らは、忍耐や努力する技術については幾度となく体にたたき込まれてきたが、あきらめる技術は教わらなかった。いや、むしろあきらめてはいけないと習った。
」(p.65)

賢明なあきらめには ”勇気” が必要だ。
 失敗を認める勇気。
 努力と時間が実を結ばなかったら、潔く振っ切る勇気。
 失敗しても、新たなことにチャレンジする勇気。
」(p.66)

実際、やったことがすべて成功するなんてことはないわけで、株式投資などにおいても損切りが必要なことがあります。もうこれ以上は続けないという見極めこそが、あきらめる技術なのだと思います。
人生において重要なことは、思いついたいろいろなことをともかくやってみて、上手く行かないなら自分には合わないのだと見極めて、それをやめることだと思います。そのために重要なのが、あきらめる技術なのでしょう。


そう、結果は誰にもわからないものだ。
 だから、眉間にシワを寄せて「どれを選べばいいか?」「正解はどれか?」と思い悩み、自分を苦しめる必要なんてまったくない。
 人生のすべてをコントロールしようと考えてはいけない。
 だって、そもそも不可能なのだから。
」(p.73)

上手く行くのか行かないのか、結果はやってみなければわからないもの。そしてその結果でさえ、「悪い」と思っていたことが、見方が変わると「良い」になったりもする。
そうであれば、何を選択しようとどうでもいいってことになりませんかね。


では一体、どうして答えのない問題に挑み続けるのか?
 それはきっと、楽しいからに違いない。なぞなぞの本質は楽しさにある。
 そうだ。本来、楽しむことが目的のなぞなぞに、僕らはあまりにも死に物狂いで挑んでいるのではないか?
 答えを探すことにだけ集中し、問題を解く楽しさを忘れてはいないだろうか?
 なぞなぞは、必ずしも正解しなくていい。間違えても楽しいのだ。
 しかも、このなぞなぞには、どうせ正解なんでない。
」(p.80)

人生はなぞなぞのようなものだと、著者のハ・ワンさんは言います。私は、人生はゲームだと言っていますが、同じようなことだと思います。
上手く行こうと上手く行くまいと、ただそれを楽しめばいいだけのもの。それを上手く行かなければならないという執着心にとらわれるから、苦しんでいるだけのように思います。


結局、再びお金を稼がざるをえない。お金からは完全に自由にはなれないようだ。
 しかし、以前とは大きな違いがある。
 以前は、未来のために我慢してお金を稼いでいた。
「お金を稼ぐ」イコール「我慢して耐える」だったが、今は、現在の自由と喜びを維持するためにお金を稼ぐ。我慢するのではなく、喜びを少し味わうための能動的な行動だ。
 今の生活が維持できるくらいに稼げればいいので、多くを稼ぐ必要はない。よりつつましい暮らしでもよければ、仕事をもっと軽くすることもできる。
」(p.196)

働かなくて、お金を稼がなくて、生活ができるかと言えば、そうではないことは明らかです。ただ、他人が示す理想的な生活のために、あるいは他人と比較して同じくらいの生活のためにと、無理をしてお金を稼がなくても、自分が満足する程度に稼ぐという生き方はあると思います。
以前、「減速して生きる ダウンシフターズ」「年収90万円で東京ハッピーライフ」という本を紹介しました。こちらでも、それほどお金を使わなくても生きられるという考え方が紹介されていましたね。

ただ、この本もそうですが、老後についてまだ真剣に向き合っていない気がします。多くの人は、自分が働けなくなった老後に対して、もっとも強い不安を感じているのではないでしょうか。今が大丈夫だから将来も大丈夫、とは言い切れない気持ちがあるのです。
これについては、日本では年金があれば助かるという面があるのは事実です。しかし、そもそも年金の受給額が低い人もいます。そういう人も、生活保護があるから大丈夫、というのが日本の建前です。しかし、現実的には様々な条件や規制があり、生活保護を受けられない人もいるし、受けられても自由がなくなる人もいるのです。
本書は、そういう点に言及するものではないので触れられていませんが、やはりそこに踏み込まないと、本当の意味で「安心して働かない」という選択はできないのだろうなぁと思います。


けれど、ここ数年は幸せを感じる瞬間が増えた。状況が好転したからではない。
 ありのままの自分から目をそらして苦労し続けることをやめ、今の自分を好きになろう、認めようと決めたからだ。
 自分の人生だって、なかなか悪くはないと認めてからは、不思議とささいなことにも幸せを感じられるようになった。
 こんなことにまで幸せを感じられるのかってほどに。
」(p.215)

今の自分のままではダメだと否定している限り、幸せを感じることはできません。まずは、今のありのままの自分でOKだと受け入れることですね。


そう、人生の大半はつまらない。
 だから、もしかすると満足できる生き方とは、人生の大部分を占めるこんな普通のつまらない瞬間を幸せに過ごすことにあるのではないか?
」(p.232)

何も事件が起こらない。何も達成しない。特別なものを何も得ない。それが人生の大半だと言うのですね。
実際、そうかもしれませんね。そんな何もない日常に幸せを感じられるかどうかが、人生を幸せに生きる鍵のように思います。


逆に期待しなければ、基準がないから心も寛大になる。
 少しでも良ければ満足につながる。
 つまり、期待しなければ、良いことが起きる確率が上がるということだ。
 ほんのちっぽけなラッキーでも、想定外の出来事なら十分に満足できる。
 もし人生を期待せずに生きられたら、毎日がラッキーの連続、すべてがサプライズプレゼントみたいに感じられるのかもしれない。
」(p.274)

お勧めしている「神との対話」でも、「期待なしに生きる」ということを言っています。それが神性であり、自由なのだと言っているのです。
これは、悪い結果を恐れて、わざと悪い結果を予想するのとは違います。「どうせ上手く行かないよ」という考え方がそうなのですが、それは期待しないことではなく、実は期待しているからこそ傷つかないためにそうしているのです。
本当の意味での期待せずに生きるというのは、結果がどうでもいい、結果を重要視しない、という生き方だと思います。良い結果なら儲けもの、悪い結果でも良い経験ができたと思える生き方ですね。


それほど期待せずに読み始めたのですが、とても読みやすいし、案外深い内容が書かれていて驚きました。
こういう本がベストセラーになるということは、多くの人が、こういう生き方を求めているということでしょうか。もしそうなら、それは人類にとって良い傾向だなぁと思いました。

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2023年06月18日

体癖



もう1年以上前に買って、読み始めていた本ですが、途中で興味を失ってしまったこともあり、今日まで読み終えずに来ました。
退職と転居の時期が近づいたこともあり、この本も読み終えて置いていこうと思ったので、再び読み始めたという感じです。

著者は野口整体の野口晴哉(のぐち・はるちか)さんです。野口さんの本は、以前に「風邪の効用」を紹介しています。

この本は、私が生まれる前の昭和36年(1961年)7月に書き終えられたようです。そんな古い本でもあり、また、かなり専門的と言うか、整体を実践している人向けのガイダンス的な内容でもあり、一般の人には「難しい」と感じられるような内容です。実際、Amazonのレビューを見ても、そういう感想が多々ありました。
それでも、12種類の傾きや捻じれなどの身体的な特徴から、人の特徴を記して、それをどう扱うのが良いかを示したということは、整体を考える上で有益なことだろうと思います。
素人的には、すべてを把握することは困難だと思いますが、生まれつきの身体的な特徴によって性格とか考え方まで決まってくるということがあるのだ、というように受け入れれば、たとえ理解できないとしても、理解できないままに違いを受け入れられるようになるのではないかと思いました。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

しかし人間もまた動物である以上、環境に適応してその機能形態を変化する自然の能力を有していることに変わりはない。そのため改善した環境に住めばその改善された環境に適応し、その機能形態を変えることは当然である。それ故消化しやすいように煮焼きしたものを食べておればそうしないと食えなくなり、丁寧に噛めば消化がよいことを知ってこれを実行しておれば、丁寧に噛まないと消化不良を起こすようになる。栄養物を選りどって食べておれば、栄養食品からでないと栄養が吸収できなくなる。」(p.22-23)

たとえば細菌などが体に害悪を与えるとして除菌が進めば、免疫力が弱くなって、ちょっとした細菌に接するだけで感染するようになるようなものです。
栄養豊富な食べ物ばかり食べていれば健康によいかと言われれば、必ずしもそうではないという面があるということですね。


エネルギーの圧縮、凝固が病気を体に作りだし、自己を破壊に導くこともしばしばある。次々に生ずる欲求のため、実現が遅く感じ、欲求不満が生じ、また中には自分でもどんな欲求か判らないのに欲求不満だけを感じ、その実現の見当がつかぬため自分へ八つ当たりしている慢性病も少なくない。若い女房をもった亭主の喘息、嫌いな亭主をもった女房の婦人病、親の注意を求むるための寝小便等々、数え上げればいくらでもある。病気は体の故障だと考えている人も多いが、体以前の動きにすでに病気があることを注視すべきである。」(p.33)

病気は、精神的な偏りによって作られることがあります。そういうことがわかれば、病気を未然に防ぐことも可能になるのでしょうね。


環境改善も天敵一掃も体の実質を丈夫にするための方法ではなかった。却ってその目的達成は自壊現象の誘導に通じる。我々はいかにしたら体を丈夫にし得るか慎重に考えざるを得ない。
 体が丈夫ならば、食べ旨く、働いて快く、眠って愉しい。空の蒼く晴れていることも美しいし、太陽の輝くことも心を明るくする。花咲き、鳥歌うも欣(よろこ)びである。作られた楽しさを追い求め、汲々として苦しんでいる如きは、生くることそのものが欣びであることを体で感じられないからである。苦しんで鍛えて丈夫になれるつもりの人もいるが、それは違う。何もしなくても健康であり丈夫であるように人間はできている。楽しく快く生きることこそ人間の丈夫になる自然の道である。守られ庇(かば)われ、やりたいことをやれず、言いたいことを言えず、動きたいののに動かないで暮らしていることは決して健康への道ではない。
 健康に至るにはどうしたらよいか。簡単である。全力を出しきって行動し、ぐっすり眠ることである。自発的に動かねば全力は出しきれない。
」(p.34-35)

病気の原因をなくせば健康になるかと言うと、必ずしもそうではないということですね。体を過保護にすれば、それによって体が弱くなり、病気になることもある。
だからそういう不安を動機とした原因の排除に心をとらわれるのではなく、主体的に生きて、それでいて自分の人生を肯定して喜ぶこと、楽しむことが、健康の秘訣なのですね。


同じ人間でもいろいろの運動習性があるが、そのどれももとを探ってゆけば体構造差にある。牛が草を食するのもその気が温和(おとな)しいからではない。虎が肉を食うのもその性が荒(すさ)んでいるからではない。各々の体構造によるのであって、人間各人の行動もまたもとをただせば各人の体構造のもたらす運動習性に他ならなぬ。」(p.39)

一体、人間は何を主張しようとするのか、一言に言えば「我ここに在り」というのである。いろいろの言い回しはあるが、その端的は「オギャー」である。何故そんなことにワザワザ大声をあげるのかといえば、それは男であり女であるからに他ならぬ。全ての主張はその意味では性に連なると言えよう。
 要求の第一は食べることである。動くことである。その身を保とうとすることである。何故食べたいのか、生きていたいからである。しかし何故生きていたいのかは判らない。生きていたいから生きていたい、というより他ない。ただ裡(うち)にある生の要求によって、食べたくなり、飲みたくなり、動きたくなり、眠りたくなる。その要求によって、一個の精子が万物を凝集して人体を作ったのであるから、いわば体構造以前の問題であろう。
 それ故、主張も、要求も含めて要求といえる。一は個体存続の要求であり、一はいつまでも生きていたい要求の現われとしての種族保存の願いに他ならない。ここに人間の一切の動きのもとがある。人間に限らず、動物の動くのは体の動く前に動くものが裡に生じ、裡の動きの現われとして体が動くのである。それ故、動くことのすべては要求の現われに他ならぬ。一切の体の動きの背後に構造以前の要求がある。
」(p.44-45)

しかし、それでも鬱散(うっさん)してしまえばすぐ落ち着くのであるが、内攻して体の中で鬱滞したままでいると醗酵(はっこう)して育ち、後になって妙なところで爆発するのだから難しい。明日の天気予報ができるようになっても、宇宙船を飛ばせても、明日の奥さんの機嫌は予想もつかない。いや自分のだって判らない。その理由は何かといえば、体のエネルギーの集注、分散の平衡を保とうとするはたらきがいつも行われているからである。この平衡作用の働いていることを知らず、ただ目前に現われたことだけしか見なかったら、人間の生活というものは奇々怪々である。」(p.49-50)

しかし、丁寧に一人一人を観ていると、それぞれに鬱散の習性があって、鬱滞すると怒鳴る人もおれば、愚痴を言い出す人もある。歩き回る人もおれば、茶碗を割る人もいる。」(p.51)

咄嗟(とっさ)の時に出る動作は人によっていろいろあるが、同じ人はともすると同じことを繰り返す。そういう方向に動きやすい体構造をしているからであろう。錐体外路系運動の習性とでもいえようか。そのために鬱散の手段に癖があるので、その奥さんの街路系習性を心得ていたからこそ、この御亭主は身をかわし得たのだろう。」(p.51-52)

野口氏の人体の理解は、このように人間存在そのものに根ざしたもののようです。
人間の欲求が元になって、いろいろな動きとなって現れる。その現れ方は、体構造によって違いがあるということですね。


この如く体癖素質は噴出方向によって十二種に分類しただけでは不十分で、さらにこの習性、また周期律、許容量等によって分類を進めねばならぬ。体の波による分類には「類」という名称を用いる。四十八類に分かつ。」(p.73)

12種の体癖分類だけでも素人には手におえませんが、専門的には48類に分類するのだそうです。

どんな動作をしてもその固有の運動の焦点が反応するのですから、疲労の中心もここにあるといって差し支えありません。従って無意的にとる休息姿勢も、その偏り運動の焦点に起こっている不随意的緊張を弛緩させるような姿勢をとるのです。」(p.93)

無意識的に休息する姿勢もまた、身体の偏り、つまり体癖に起因していると言えるのですね。


三種の人が好きと嫌いで何でも処理してしまうといっても、そうできているのだから当たり前なのです。それを五種のように、好きであっても嫌いであっても、まず計算してから返事しろと言われても、三種にはできない。人間は各々のそういう宿命というか、体癖によって生きているのですから、お互いにそれを理解し合っていけば、もう少し人間社会の中のゴタゴタは少なくなると思うのです。」(p.164)

つまり、「なんでこれができないの!?」と言いたくなるようなことがあっても、体癖が異っているとできないことがあるのです。
それだけ人は「違う」のですから、「違う」ということを前提にすれば、世の中は平和になると思います。


肋骨を折った時などは、息をするのも苦しく、歩くとゴボゴボ音がする。しようがないので操法が終わると映画館に行って、片手で肋骨を押えながら見ている間は痛いのを忘れている。そうしているうちに治ってしまいましたが、病気になって床に臥して心を患い、気を患っているというのは馬鹿だなあと思う。そういう痛いところや、苦しいことがあったら、そのまま面白い漫画でも見ていたら、見ているうちに治ってしまう。歯が痛いといって一生懸命そこを押えている人があるが、注意が集まるほど感覚は敏感になるのだから、それはつまらない。」(p.258)

不安になって気にしていると、かえってその不調が持続するということがあるのです。それよりもさっさと忘れてしまった方がいい。その方が治りが早いということがあるんですね。
ここで「片手で肋骨を押えながら」とあるのは、まさにレイキですね。野口整体では「愉気(ゆき)」と言うのですが、要は「手当て」であり、本質的には同じものだと思います。


専門的過ぎるので、この本に書かれた概要的な情報では、12種の体癖さえ完全に知ることは不可能ではないかと思います。事実、私自身がどの種に入るのか、まったくわかりませんでした。
なので、この本で素人が理解すべきなのは、自分の意志ではどうにもならない体癖というものがあって、それは人それぞれ違うし、その違いによって、性格や行動、考え方も影響を受けるということを理解すればよいかと思いました。

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2023年06月15日

京都祇園もも吉庵のあまから帖



久しぶりに志賀内泰弘(しがない・やすひろ)さんの本を読んでみたくなって、この本を買いました。
志賀内さんの本はこれまでに、「5分で涙があふれて止まらないお話」「気象予報士のテラさんと、ぶち猫のテル」を読んで紹介しています。いずれも、ホロッと涙がこぼれるような、感動的な話が満載の本です。今回の本も、またそういう本でした。
どうやらシリーズ本のようですね。京都祇園の一見さんお断りのもも吉庵を舞台とした、ホロリとするような短編小説集となっています。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。とは言え、これは小説ですから、ネタバレにならないよう注意しながら、私が感動した部分を紹介したいと思います。

ええか、今日からうちが、あんたの姉さんや。義理の姉さんいう言葉の上だけやない。ほんまもんの姉さんや。よ〜く覚えとき」

 暮れかかる茜の空に、どこかで鐘が鳴った。
 それを合図にしたかのように、奈々江の瞳から涙があふれてきた。
」(p.62)

かつてNo.1の芸妓だった美都子は、舞妓になる前の「仕込みさん」の奈々江のことがいちいち気に入らなかったのです。甘すぎると思っていました。祇園で舞妓、芸妓になるということは、並大抵のことではないのです。
だから美都子は奈々江に厳しく当たってきました。けれども、東日本大震災で家族を失って、生きる道を探して舞妓になろうとした奈々江の事情を知った時、美都子は心底応援したくなったのです。本当の家族になろうと思ったのです。

花街では、血がつながっていなくても、目上の人は『お義母さん』『お姉さん』『お父さん』『お兄さん』と呼びます。ご存じの通りや。みんな家族なんや。何よりも生きて行くんに大切なのは家族と違いますか?」(p.84)

もも吉庵の亭主、もも吉のセリフです。花街では、全体が家族。そうであれば、会社であろうと地域社会であろうと、みんなが家族だという考え方もできるはずです。

私は老人介護施設で2年間働かせていただきましたが、その中でもいろいろありました。
スタッフ同士で、「あいつは仕事が全然できてない」なんて悪口と言うか文句と言うか、日常茶飯事でした。同じ仲間なんだから、もっと受け入れたらいいのに、と思いました。けれども、そんな私でも、「何でこれができないの!?」と頭に来ることが多々あったのです。

私も、まだまだだなぁと思いました。私たちは家族だという覚悟が足りなかったのだと思います。家族であれば、もうどうしようもない。受け入れるしかない。助け合うしかない。その覚悟です。


「ほほほっレディーファーストどすか、それは降参や降参。遠慮のう座らしてもらいまひょ」
 もも吉は、青年の一言で「すくわれた」と思った。
 青年も無言で笑った。
 ここでもも吉は、ふと悪戯心(いたずらごころ)が湧いてきた。
 年甲斐もなく、彼を好きになってしまったのだ。
 それも、男はんとしてだ。
「お兄さん、それにしても粋なお人やなぁ。惚れてしまいましたがな」
「惚れて」というところを特に大きな声で言った。
」(p.223)

若く見られても還暦は過ぎていると見られるもも吉は、電車内で若者から席を譲られようとしました。その時つい、まだそんな年ではないと抵抗してしまったのです。それに対して若者が、年寄だからではなくレディーファーストだからだ、と機転を利かせて言ったのでした。
日本人の価値観の中に「粋(いき)」というものがあります。相手に恥をかかせない。それも粋なのです。昨今、徹底的に相手を論破して、上から目線でやり込める、つまりマウントを取る風潮がありますが、それは粋ではありません。相手に対する敬意とか、親しみがないのです。

私はこれを読んで、「粋」というのは、「違いはあっても、みんな家族なんだ」という考え方が根底にあるように思いました。だから、価値観が違っても大切な人として扱いたいという思いがあるのです。


恭子は、もも吉のそばに寄り添い続けた。
 何も云わない。
 ただ聴くだけ。
 泣いては愚痴を言い、泣いては捨て鉢なことを口にするもも吉に、「うんうん」とだけ答える。
」(p.261)

「人生は、どんなに気張って生きていても、自分の責任でもなんでもないのに、どうしようもな辛いことが起きる時があるて」
「……」
「でも、それは受け入れるしかないんやそうや。よく、苦労は金を出しても買え、と言うわなぁ。でも、本当にお金を出してまで苦労を買う人は一人もいない。だから、神様がときどき人に苦労を与えるんやそうや。もっと苦労して精進せえよって」
」(p.262)

ええか、もういっぺん言うで。起きたことはどうにもならん。受け入れるしかないんや。その苦労は、神様がもっと精進せえ言うて、与えてくれたもんなんや」(p.263)

私もこれまで、こういうことが多々ありました。これを「強制終了」と呼んでいるのですが、SMS1本で婚約が破談されたり、メールでリストラ通告されたり。でもね、それは受け入れるしかないんですよね。
そして、そういう状況にあって落ち込んでいる人に対しては、ただ「寄り添う」ことしかできないんですよね。「お前はダメだ」と否定することがダメなのは当然として、「もっと頑張れ」と励ますのも違う。「共感」と言っても、「そうだそうだ」という共感じゃなく、「つらいよね。わかるよ。」という共感。それが「寄り添う」ということじゃないかと思うのです。


人生、長く生きていればそれだけで、いろいろなことがあると思います。私ですらあるのですから、私以上に波乱万丈の人生を送られている方も多数いらっしゃることでしょう。
そういう経験をされてこられた方であれば、この物語を読んで、しみじみと感じることがあるのではないかと思います。

もちろん、まだ若くて、そういう経験がない人もいるでしょう。そういう人にも、ぜひ事前学習として読んでもらえたらいいなぁと思います。
単に読み物としても、感動するストーリーばかりですからね。気軽に読んでみてくださいね。

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2023年06月12日

あなたに贈る21の言葉



日本講演新聞の魂の編集長こと水谷もりひと(みずたに・もりひと)さんの新しい本が出版されると知って、予約して買いました。
水谷さんの本は、これまでに「日本一心を揺るがす新聞の社説3」「日本一心を揺るがす新聞の社説 ベストセレクション」などを紹介していますが、新聞に書かれた社説の文章が秀逸です。

日本講演新聞の関連で言うと、先日、中部支局長の山本孝弘さんが書かれた「「ありがとう」という日本語にありがとう」を読んで紹介したばかりです。
読み終えて、この2冊は合わせて読んでほしいなぁと思いました。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

理想を生きるということは、自分を好きになり、自分のために生きることです。
それはすなわち、誰かを幸せにし、
誰かの人生を応援することとイコールであることを、
私は50歳を過ぎたあたりから気が付きました。
だから、自分の人生が変わるような素敵な話を聴いて、
感動したり、感涙したりしたことは、独り占めせず誰かに伝えてきました。
」(p.4)

「はじめに」で、水谷さんはこう言われています。
この本は素晴らしい本だから、大切な人にプレゼントしてほしいと言われます。
それは、文章が素晴らしいからではなく、ネタ元の人や書籍や映画が素晴らしいからだと。

たしかに水谷さんの文章は、こういう話を聞いたとか、本で読んだ、映画で観たなど、ネタ元の紹介があります。それで私も、紹介される本を何冊も買って読んだのです。
私はこの本を、今働いている施設に寄贈するつもりです。この施設で働いておられるスタッフの方、また利用者様が手にとって、何かを感じてもらえるといいなぁと思っているのです。


人生は何で構成されているのか。
それは、ズバリ、「習慣」です。

「人生は習慣でできている」とか「習慣が変われば人生が変わる」
そんな言葉をどこかで聞いたことはありませんか。
」(p.15)

この序章にも書かれていましたが、私はマザー・テレサの「行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。」という言葉を思い出します。
他でも何度も耳にしたのでしょう。ですから今、私は、思考を変えるのも習慣によるものであり、思考の習慣が人生を創ると考えています。

まず、比較的変えやすい言葉の習慣から手を付けましょう。
つまり口癖です。
愚痴、不平不満、悪口・陰口は絶対言わないと決めましょう。
「大丈夫」「できる」「ありがとう」など、ポジティブな言葉を意識して使いましょう。
」(p.17)

これは小林正観さん斎藤一人さんなども言われてますね。
言葉を変えれば思考が変わり、行動も変わります。思考、言葉、行為は、創造のための3つのツールだと、お勧めしている「神との対話」でも言っています。


では、「02 命ある限り、この人生を輝かせよう」からです。
「1日1話、読めば心が熱くなる365人の仕事の教科書」(致知出版社)の7月31日のページに書かれた話が取り上げられています。長男を白血病で亡くし、その8年後に次男をプールでの事故で亡くした塩見志満子さんの話です。

しばらくして、同じ高校教師の夫が大泣きしながら駆け付けました。
妻の心境を察したのか、夫は志満子さんを近くの倉庫の裏に連れていって、
とんでもないことを言い出しました。
「これはつらく、悲しいことや。だけど、犯人を見つけたら、
その子の両親はこれから先ずっと
自分の子どもは友だちを殺してしまった、という罪を背負って生きていかないかん。
わしら二人が我慢しようや。うちの子は心臓まひで死んだことにしよう。
校医の先生に心臓まひで死んだという診断書を書いてもらおう。
そうしようや。そうしようや」
」(p.32)

毎年、命日になると、次男の墓前に花が飾られているそうです。もし学校を訴えていたら、お金をもらうことはできたとしても、こんな優しい人を育てることはできなかった。志満子さんは、そんなふうに考えたそうです。

志満子さんの壮絶な人生を紹介して、
「被害者は加害者をゆるしたほうがいい」とか
「ゆるすという行為は美しい」とか、
そんなことを言いたいわけではありません。
思ったことは、自分が抱えている苦悩なんて取るに足りない、
微々たるものだということです。

まだまだ自分は甘いと思ったのです。
もっともっと頑張れると思ったのです。
」(p.34)

この最後の一文に、頭をハンマーでガツンと殴られたように感じました。そして、泣けてきました。
「そうだよ、まだまだやれるよ。もっとやれるよ。これからだよ。」と、自分を叱咤激励したくなったのです。


次は「05 苦しみや悩みにこそ意味がある」からです。
この話の元ネタは「ぼくの命は言葉とともにある」(致知出版社)という本です。兵庫県尼崎市の小林書店の「本の頒布(はんぷ)会」で送られたものだそうで、これは年会費を払うことで月に1冊、店主の小林由美子さんの選書が送られてくるものだそうです。
著者は福島智さんで、原因不明の病気で視力を失い、聴力まで失うことになった。見えない、聞こえないという状況になって、生きていく意味があるのかと考えたそうです。

「今も苦悩の日々です」と福島さんは言います。
しかし彼は「苦悩にこそ意味がある」と考えています。

「何者かが自分に苦悩を与えているのだろう。
その苦悩は自分以外の誰かの命を輝かせるために
どうしても必要なものなのだろう。
それが使命なら果たさなければならない。
それが運命ならくぐらねばならない」と。
」(p.57)

「人には役割があります」というセリフを、大河ドラマ「篤姫」で聞いたことを思い出しました。「宇宙戦艦ヤマト」に感動したのも、それが自分の運命なら受けて立つしかないという覚悟を見せられたからです。
そんなことを思いながら、また泣いてしまいました。私が置かれた状況は、福島さんほどひどいものではありません。ですが、私には私の役割がある。私の人生を私らしく生きていこうと思ったのです。


次は「07 クレージーな夢を叶えることの意味」からです。
元ネタは全盲の岩本光弘さんの講演からだそうです。ブラインドセーリングで太平洋を横断することを夢見て、辛坊治郎さんと一緒に旅立ったニュースがありましたね。残念ながら失敗に終わりましたが、その時、散々に叩かれたそうです。「見えないからこそ見えた光」(ユサブル)に、詳細が書かれているとか。
その後、ヨットのことはまったくわからないダグラス・スミスさんというアメリカ人から誘われて、再び挑戦することになったそうです。そして2019年4月、その夢が叶ったのです。

「僕よりすごいのは、ヨットのことを何も知らないのに、
全盲の僕が操縦するヨットに乗り込んできたダグラスです」

「クレージー」は和訳すると放送禁止用語の日本語です。
ですが、案外そんなおかしな連中が社会を、
そして時代を変えてきたのです。
クレージーな夢を叶えるということは、
そういうことかもしれません。
」(p.74)

言われてみれば確かにそうです。ダグラスさんは、岩本さんの思いに感じるものがあったのでしょうね。あなたはヨットの操縦ができるし、私は2つの目で見ることができるから、2人が力を合わせれば夢を叶えられるなんて、なかなか言えませんから。
この話を読んで、私はドン・キホーテを思い出しました。他の人からバカにされますが、それでも自分思うがままに突き進む。それがクレージーであり、人を感動させ、時代を変えていくのだと思います。


次は「11 大丈夫、トンネルの先には光がある」からです。
つい先日、引退を表明されたように記憶していますが、卓球の石川佳純選手の話です。石川選手にも暗いトンネルの時期があったそうです。ついには世界ランキング72位の選手にすら完敗してしまった。そんな石川選手の浮き沈みのドラマが、NHKスペシャルで放映されていたそうです。

「勝ちた過ぎるとダメですね」と一言。
「勝ちた過ぎる?」、聞いたことのない日本語でした。
「『勝ちたい』『結果がほしい』ばかりだと何をやってるのか分からなくなる。
『なるようになる』という気持ちにならないと……。
次の試合がちょっとだけ楽しみになりました」と笑ったのです。
不思議なことに、次の試合から石川選手に勝ち星が戻ってきました。
」(p.99)

この話を読んで、次の格言を思い出しました。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」
結果に執着していると、かえって思い通りの結果が得られなくなるのです。動機が恐れ(不安)だから、それが現実になるのですね。
だから、結果を手放すこと。行為に情熱を燃やすこと。つまり、結果を恐れずにやってることを楽しめばいいのです。


次は「16 素敵な思い込みを上書き保存する」からです。
映画「アイ・フィール・プリティ」の内容が紹介されていて、主演のエイミー・シューマーという女性お笑い芸人が、太め体型にコンプレックスを持っているOLのレネーを演じていたそうです。
レネーはある時、頭を強打してから、自分が理想的な体型になっていると錯覚するようになりました。自己肯定感が高まり、自信たっぷりに振る舞うようになったレネー。しかし、また頭を打つことがあって、これまでの自己認識が夢であったと気づくのです。

2枚の写真をスクリーンに映し出しました。
「こっちが魔法にかかっていた時の私で、こっちが本当の私よ」と言うのですが、
会場の人たちは「どっちも同じじゃん」と反応します。
レネーがもう一度よく見てみると、確かに同じ写真です。
ということは「魔法」ではなく、「ただの思い込みだった」と気づくレネー。

そしてこう語りだしました。
「子どもの頃、みんな自信に満ちていた。
太っていても、パンツ丸出しでも気にしなかった。
みんなどこで自信をなくしたの? いつ自分に疑問を持ち始めたの?
自分で自分を素晴らしいと思える強さを持ってもいいんじゃないの?
子どもの頃の自信を忘れないで! だって私は私なのよ」
会場は拍手喝采となりました。
みんな何かしら自分にコンプレックスを持っていたのです。
自分のことを「すごい」「できる」と思っている人もいますが、
「何をやってもだめ」「イケてない」と思っている人もいます。
どちらも間違いではありません。
その人の思い込みなのですから。
」(p.137-138)

ちょっと長かったのですが、論点がわかるよう引用しました。
自己認識というのは、自分が勝手に「自分はこうだ」と思いこんでいる、つまり勝手に信じているものなのですね。
そうであれば、自分に都合が良いように自己認識を変えればいい。「私はすごい」と決めればいいのです。

それが結論なのですが、そうは言われても簡単ではないとも言えます。だって、すでにそう信じているのですから。
そのためには訓練が必要かもしれないし、そもそも思考の習慣を変えるためにたゆまぬ努力と一定の時間が必要です。私がお勧めする「鏡のワーク」も、そのための方法の1つなのです。

私も、内向的で小心者だと思っていますが、この傾向はなかなか変わりません。今でこそ、自信があるように見えると言われることもありますが、根となる性格は、そう簡単には変わらないのです。
それでも、変えていこうとすることに意味はあると思うし、実際、ずいぶんと変わったなぁと感じます。他人からどう見えようと、私自身の中で自分の成長が確認できるなら、それでいいと思っています。


次は「17 平和とは、肯定し承認すること」からです。
作家の寮美千子さんの話です。「あふれでたのはやさしさだった」(西日本出版社)に書かれている話ですが、私も日本講演新聞の記事で知って、この本を読んで紹介しています。

彼らは幼少期から、何を言っても否定される家庭で育っていました。
常に大人から叱責され、攻撃されてきました。
だから奈良少年刑務所の教官たちは、「否定しない」「注意しない」「指導しない」
そして「ひたすら待つ」という全承認の場を作っていました。
否定されない環境の中で少しずつ心を開いていくと、
少年たちは自ら成長していくというのです。
寮さんは言います。
「マスコミで目にする凶悪な少年犯罪は、社会に表出した最悪の結果だけ」と。
」(p.147)

誰一人として、他人を苦しめたくて行動する人はいない。それでも犯罪など他人を苦しめる行動をしてしまうのは、そうせざるを得ない事情がある。私は、そう思っています。完全性善説の立場です。
なぜなら、私たちの本質は愛そのものであり、存在するのは愛しかない。それがお勧めする「神との対話」で語られていることであり、私もそうだと思っているのです。


最後は最終章で、「人生を面白がっているあなたへ」というタイトルです。
まず水谷さんが宮崎中央新聞社に入社してから、その会社の代表になる経緯について書かれています。これは、ここにもあるように、奥様の松田くるみさんが書かれた「なぜ、宮崎の小さな新聞が世界中で読まれているのか」(ごま書房新社)に詳しく書かれていましたね。

そこから、岡根芳樹さんの「セールスの絶対教科書」(HS)の話が取り上げられます。私もこれを読んで、セールスを極めることと人生を極めることは、実は同じなんだなぁと思いました。

「失敗してもいいからやってみなさい」と言う大人はいなかったと思います。
だから、挑戦することに心理的なブレーキがかかってしまうのです。
そのブレーキを外す魔法の言葉を、桑森は師匠から教えられました。
それが「面白がる」です。
断られたら、その断り文句をネタ帳に書いて面白がるのです。
そんな言葉をたくさん集めて、将来成功体験を語る時のネタにするのです。
主人公が何も挑戦しないドラマはきっとつまらないでしょう。
いつだってこの人生ドラマの主人公は自分です。
だったら面白くなりそうな道を選んでみましょう。
失敗してもいいから。
」(p.181)

私も、近々退職します。冒険です。挑戦です。詳しくは、私のYoutube動画をご覧になってくださいね。

人生は思い通りになりません。だからこそドラマは面白いとも言えるのですね。
そうであれば、「私の人生」というタイトルのドラマを、どれだけ面白いものにできるか、楽しんだらいいと思うのです。


私は、これまで20年以上、日本講演新聞(旧「みやざき中央新聞(通称:みやちゅう)」を購読してきましたが、先月いっぱいで解約しました。
これは、日本講演新聞がダメだということではありません。もちろん、ダメな点もいくつかあって、私も苦言を呈したことがありました。けれども、購読をやめる主たる理由ではありません。
そうではなくて、これまでの習慣を変えようと思ったのです。今回の退職も同様です。その退職することで生活が一変するこのタイミングで、他のこれまでの習慣を変えてみようと思ったのです。
それ以上の理由はありません。変えることで何が得られるのか、そんなことも考えていません。ただ変えてみる。強いて言えば、面白そうだからです。

日本講演新聞の購読はやめますが、これまで多くの本を紹介していただいたり、いろいろな考えを教えてくださったことには感謝しています。
そして、こういう単行本の形で出版されるものがあれば、積極的に読んでみたいと思っています。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 07:53 | Comment(2) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年06月08日

隷属なき道



前に紹介した本「Humankind 希望の歴史 上」「Humankind 希望の歴史 下」ですが、著者はオランダのジャーナリスト、ルトガー・ブレグマン氏です。この本があまりに素晴らしかったので、この著者の他の本も読んでみたくなって探してみました。すると、ベーシック・インカムに関する本を書いているようだったので、買ったみたのです。

私も以前から、ベーシック・インカムというアイデアに共感し、いろいろな機会においてベーシック・インカムを推奨しています。
「ピケティにつぐ欧州の新しい知性」と言われているらしいブレグマン氏がベーシック・インカムに関して語っているなら、ぜひ読んでみたいと思いました。

読んでみた感想ですが、全体としてはやや散漫な感じがします。ただ、様々な研究論文を基に、ベーシック・インカムの効果を明確に示している点で役立つと思いました。また、最後に書きますが、いくつかの重要なアイデアをいただきました。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
まず第一章は、「過去最大の反映の中、最大の不幸に苦しむのはなぜか?」というタイトルです。

ようこそ、良い生活へ。誰もが裕福で、安全で、健康な楽園へ。ここでは、足りないものはただ一つ、朝ベッドから起き出す理由だ。なぜなら、楽園では向上のしようがないからだ。」(p.16)

手に入れた世界以上に良い世界を思い描くことができないので、新たな夢を見ることができずにいる。実際、富裕国の人の大半は、子どもたちは親世代より悪い時代を生きることになると信じている。」(p.16)

本書は未来を予測するものではない。
 むしろ、未来への扉の鍵を開こうとするものであり、わたしたちの心の窓を開くための試みなのだ。
」(p.17)

現代は求めるものを求め尽くしてユートピアに至ってしまったがために、新たなユートピアを思い描けなくなっているとブレグマン氏は言います。そういう現代において、考え方の指針を示そうとしています。

今日、重要とされているのは、「自分らしく」あること、「自分の好きなことをやる」ことだ。自由はおそらく人間が最も重視する理想である。だが、現状のそれは、中身のない自由だ。そうなったのは、わたしたちがいかなる形であれ道徳を恐れ、公の場でそれを語ることをタブーにしてしまったからだ。」(p.21)

言論の自由をどう呼ぶにせよ、わたしたちの価値観は、企業がゴールデンタイムのコマーシャルで押し売りする価値観に怪しいほどよく似ている。」(p.21)

自由であるように見えて、実は自由ではありません。テレビなどによって洗脳され、他人の価値観を押し付けられているのです。

だが、コマーシャルの舞台は自由市場なので、わたしたちは黙認しているのだ。
 政府に残された唯一の仕事は、当面の生活の応急処置だ。おとなしく従順な市民という計画書からはみ出す人があれば、政治的権力は喜々としてその人を型にはめ込む。手段となるのは、制御、監視、抑圧である。
」(p.22)

世界保健機関(WHO)によると、現在、うつ病は一〇代の若者の最大の健康問題となっており、二〇三〇年には世界の病気の第一位になるという。
 まさに悪循環だ。かつてないほど多くの若者が精神科医にかかるようになり、また、かつてないほど多くの若者が、仕事を始めてすぐに燃え尽きてしまう。そしてかつてないほど多くの人が抗うつ剤を飲んでいる。失業、不満、うつ病といった社会全体の問題は、いつも個人の責任にされる。成功を選択できるのなら、失敗も選択の結果だ、と。
」(p.25)

日本では特に同調圧力が強く、同じような人がごろごろいます。そして反発する気力をなくし、うつ病に悩む人が増えていますね。

真の進歩は、知識を基盤とする経済には生み出せないものから始まる。それは、より良く生きるとはどういうことかという叡智である。ジョン・スチャート・ミルやバートランド・ラッセル、ジョン・メイナード・ケインズといった偉大な思想家たちがすでに一〇〇年前に主張していたことを、今、実行しなければならない。それは、手段より目的を重んじ、何かを選択する際には、有用性ではなく良いかどうかで選ぶ、ということだ。心を未来に向けよう。世論調査の結果や、連日の悪いニュースに嘆くのをやめるために。他の道を探し、新たな共同体を形成するために。そして、この閉塞的な時代に別れを告げて、誰もが理想とする世界を理解するために。」(p.25)

ただ漫然と洗脳されたままに生きるのではなく、過去の偉人達の知恵を借りて、新たなユートピアを目指そうというブレグマン氏の訴えです。


第二章は、「福祉はいらない、直接お金を与えればいい」というタイトルです。

数十年にわたってあちこち移動させられ、罰せられ、訴えられ、守られていた悪名高き浮浪者たちが、路上生活から救い出された。その費用は? ソーシャル・ワーカーの賃金を含め、年間五万ポンドほどだ。つまり、そのプロジェクトは一三人を救っただけでなく、かなりのコストを削減したのだ。『エコノミスト』誌でさえ、「ホームレス対策費の最も効率的な使用法は、彼らにそのお金を与えることだ」と結論づけた。」(p.33)

そもそもお金の使い方がうまければ、貧乏になるはずがない。彼らは新鮮な果物や本ではなく、ファストフードやソーダにお金を使うにちがいない、とわたしたちは推測する。そういうわけで、彼らを「支援」するために、あまたの事務手続きや登録制度や大勢の検査官を必要とする独創的な支援プログラムがいくつも施行されてきた。」(p.33)

2009年のロンドンで、13人のホームレスにフリーマネーとして3000ポンドが給付されたそうです。1年後に調べると、平均で1人800ポンドしか使っておらず、そのお金で身なりをきれいにしたり、住む部屋を借りたり、仕事についたりしたそうです。
それまで、その対策として毎年40万ポンドを使っていたのが、それよりも少ない支出で問題のほとんどが解決した。これがこの実験から得られたことのようです。

世界各地で行われた研究により、確たる証拠が示されている。フリーマネーは機能するのだ。
 すでに研究によって、フリーマネーの支給が犯罪、小児死亡率、栄養失調、一〇代の妊娠、無断欠席の減少につながり、学校の成績の向上、経済成長、男女平等の改善をもたらすことがわかっている。「貧乏人が貧乏である第一の理由は、十分な金を持っていないところにある」と、経済学者チャールズ・ケニーは言う。「ゆえに、彼らにお金を与えると、その状況が大いに改善されることは、驚くにあたいしない」
 マンチェスター大学の研究者らの著書、『貧者には金を与えよ(Just Give Money to the Poor)』には、フリーマネーが功を奏した事例が、無数に挙げられている。
」(p.36)

お金に関して重要なのは、自称専門家が貧しい人々にとって必要と考え用意したものではなく、当事者が自分にとって必要なものを買うためにそれを使えるということだ。貧しい人々がフリーマネーで買わなかった一群の商品がある。それは、アルコールとタバコだ。」(p.37-38)

それでも「貧しい人々は怠惰だ」という主張は、何度も持ち出される。この見方があまりにも根強いため、科学者はそれが本当かどうか調査することになった。ほんの二、三年前、一流の医学雑誌『ランセット』は、その結果を次のようにまとめた。貧しい人々は、フリーマネーを受け取ると、総じて以前より仕事に精を出すようになる、と。」(p.38)

フリーマネーの支持者は、左派から右派、新自由主義思想を牽引したフリードリヒ・ハイエクやミルトン・フリードマンにまで及ぶ。そして世界人権宣言(一九四八年)第二五条は、いつかそれが実現することを約束している。」(p.39)

世界人権宣言の第二五条は、日本国憲法の第二五条とほぼ同じで、誰もが健康で文化的な生活を送る権利があると認めるものです。それを実現することは国の使命であり、世界の使命なのです。
しかし、今はまだそれが実現していません。日本の生活保護制度は、貧しい人たちに可愛そうだからお金を恵んでやるという思想に基づいた制度であり、そのお金を自由に使わせようとはしないのです。

しかし、貧しい人だけを支援するシステムは、彼らと他の人々との間に深い溝をつくる。「貧しい人だけのための政策は、貧しい政策である」と、社会政策を専門とするイギリスの偉大な理論化リチャード・ティトマスは述べている。計画、貸し付け、所得比例給付のすべてをきっちり管理するというのは左派に浸透した考え方だ。問題は、それが逆効果であることだ。
 一九九〇年代後期に発表され、今ではよく知られるようになった論文で、二人のスウェーデンの社会学者は、幅広い層を対象とするプログラムを持つ国ほど、貧困の削減に成功していることを示した。基本的に人は、恩恵が自分にも及ぶ場合に協力的になる。その社会保障制度によって、自分や家族や友人が得る利益が大きいほど、それに貢献したいと思うのだ。従って、万人向けの無条件のベーシックインカムは、万人の支持を得るはずだ。結局のところ、皆が恩恵を受けるのだから。
」(p.48)

フリーマネーが貧困対策として効果があるのであれば、貧困者だけを特定して給付する制度よりも、全員に給付するユニバーサル・ベーシック・インカムの方が優れているのは明らかですね。


第三章は、「貧困は個人のIQを一三ポイントも低下させる」というタイトルです。

カジノがオープンして間もなく、すでに大きな変化が起きていることに、コステロは気づいた。貧困から脱することができた子どもの問題行動は四〇パーセントも減少し、貧しくない子どもと同じ割合になったのだ。チェロキー族の子どもの犯罪率は下がり、薬物使用や飲酒も減った。そして学校の成績は著しく向上し、チェロキー族以外の調査対象児童と同じ水準になった。」(p.57)

1997年、ノースカロライナ州に「ハラーズ・チェロキー」という名のカジノが誕生したそうです。その経済的効果は地元を潤し、貧しかった地元の人々は裕福になり、犯罪が減り、学力も向上したのです。

しかし、最も目立った改善は、経済的に豊かになることで、親が親としての務めを果たせるようになったことだ。」(p.58)

しかし、彼らの労働時間が減ったわけではないことにコステロは気づいた。母親も父親も、働く時間の総計は、カジノがオープンする前と変わらなかったのだ。親たちが、子どもと過ごす時間が増えたと言ったのは、経済的に余裕ができて、それまで金銭的な悩みに投じていたエネルギーを、子どもに向けられるようになったからだろう、とチェロキー族のヴィッキー・L・ブラッドリーは言う。そして、そのことが「親がより良い親になることを助けているのだ」とブラッドリーは語った。」(p.58)

親が経済的に安定することによって、子どもに対して親らしく接することができるようになる。そういうことはあるだろうなと思います。

そうだとしても、「欠乏の心理」がもたらす悪影響は、そのメリットをしのぐ。欠乏はあなたの気持ちを、差し迫った不足に集中させる。五分後に始まる打ち合わせとか、翌日に迫った支払いとか。そうなると、長期的な視野は完全に失われる。「欠乏は人間を消耗させる」とシファーは言う。「他にも等しく重要なことがあるのに、そちらに気持ちを向けられなくなるのだ」」(p.61)

必要なものが足りないという意識は、正常な判断を阻害するということですね。

カリフォルニア大学ロサンゼルス校の経済学者ランダル・アキーは、チェロキー族の子どもたちに分配されるカジノの金は、最終的に支出を削減する、と予測した。アキーの控えめな見積もりによれば、貧困がなくなると、犯罪、療養施設の利用、学校での留年がすべて減り、カジノから得る収入のトータルを上回る金がもたらされるのだ。」(p.64)

何よりもまず貧困者をなくすこと。それが社会的なコストを下げることにもなるのです。

しかし、国家的規模で見れば、お金の効力には限界がある。一人当たりのGDPが年間約五〇〇〇ドルになるまでは、平均寿命は延びる一方だ。しかし、食卓に十分な食べ物が並び、屋根から雨漏りがしなくなり、清潔な水道水が飲めるようになると、経済成長率は幸福を保証するものではなくなる。その時点からは、お金より平等が幸福のより正確な予測因子になる。」(p.67)

うつ病、燃え尽き、薬物乱用、高い中退率、肥満、不幸な子ども時代、低い投票率、社会や成治への不信感、それが何であってもデータは毎回同じ原因を指し示す。不平等だ。」(p.68-69)

社会問題の発生率と1人あたりのGDPを軸にして各国を比較すると、関連性が見えてこないそうです。問題発生率が高いのは、GDPがトップのアメリカと、その半分程度のポルトガル。
しかしこれを1人あたりのGDPではなく不平等さを軸にすると、相関関係が現れます。(図p68とp69)格差が大きいアメリカやポルトガルの問題発生率が高く、格差がもっとも少ない日本の問題発生率が最低なのです。

あなたが貧しければ、あなたにとって最大の問題はお金がないことだ。あなたがホームレスなら、最大の問題は住む場所がないことだ。因みに、ヨーロッパでは、空き家は、ホームレスの数の二倍ある。アメリカでは、家のない人、一人に対して、だれも住んでいない家が五軒ある。」(p.76)

最大の問題に対して、直接的にアプローチすることですね。そのためのものはあるのですから。


第四章は、「ニクソンの大いなる撤退」というタイトルです。

一九七四年にウォーターゲート事件を受けて辞職を余儀なくされたニクソンが、一九六九年には、すべての貧困家庭に無条件に収入を保障する法律を成立させようとしていた。その法案が可決されれば、貧困との闘いは大きく前進するはずだった。それは、例えば家族四人の貧困家庭には、年一六〇〇ドル(二〇一六年の貨幣価値に換算すると約一万ドル)の収入を保障するものだった。
 だがひとりの人物が、この流れが向かう先には、お金を持つことが基本的権利と見なされる社会が待っていることに気づきはじめた。それは大統領補佐官のマーティン・アンダーソンで、彼はこの計画に猛反対した。アンダーソンが崇拝する作家のアイン・ランドは、自由市場を軸とする世界こそがユートピアだとした。そして、ベーシックインカムという概念は、ランドが描く小さな政府と個人の責任という理想に反するものだった。
」(p.85)

ニクソン大統領が、ベーシックインカムにつながる最低限の生活を保障する制度を導入しようとしていた、ということは知りませんでした。
それにしても、ニクソン大統領の政策が反対勢力によって潰されたことは、本当に残念なことでした。経緯については、本書をご覧ください。

私も小さな政府を推奨する考えですが、同時にベーシックインカムも推奨しています。これは相反しない考えだと思っています。
なぜなら、ベーシックインカムを導入すれば政府が集めるお金(税金)の総額は大きいかもしれませんが、恣意的に扱える金額は小さくなるので、政府そのものは小さくなるからです。最低限の生活を保障したなら、あとは自由にさせられるのです。

現在の複雑な官僚主義は、人々を貧困に閉じ込めるだけだ。それは実際に依存を生む。働き手は、自らの強さを示すことを期待されるいっぽうで、福祉からは自らの弱さを示すことを期待される。つまり、福祉の恩恵を受けるには、自分が罹っている病気が本当に衰弱をもたらすものであり、不況が本当に破壊的で、雇用のチャンスが本当に無いことを、何度も証明しなければならないのだ。それができなければ、給付金が減らされる。」(p.99)

弱者に限定して支援しようとするあらゆる制度は、自ら弱者になりたがる人を増やすのです。


第五章は、「GDPの大いなる詐術」というタイトルです。

精神疾患や肥満、汚染、犯罪は、GDPの観点からは、多ければ多いほどよい。そのことは、一人当たりのGDPが世界で最も高いアメリカが、社会問題でも世界のトップに立っている理由でもある。」(p.110)

とはいえ、豊穣の地を探し求める長く歴史的な航海は終わりに近づいた。ここ三〇年以上にわたって、経済成長が暮らし向きを良くすることはほとんどなく、むしろ逆の場合もあった。生活の質を向上させたいのであれば、他の手段、そしてGDPとは別の測定基準を見つけるための第一歩を、踏み出さなくてはならないだろう。」(p.112)

GDPが高いほど豊かで良い社会、幸せな社会になるというのは、ある程度までは正しくても、それ以上になると、そうは言えなくなるのです。

健康管理から教育、ジャーナリズムから金融にいたるまで、わたしたちは依然として、その「効率」と「収益」に目を向ける。あたかも社会がひとつの巨大な生産ラインであるかのように。だが、サービスを基盤とする経済では、単純な定量的目標は成り立たない。「国民総生産(GNP)は、あらゆるものを測定する。人生を価値あるものにするものを除けば」とロバート・ケネディは言った。」(p.120)

専業主婦の無償の家事や子育て、あるいは社会貢献のボランティア活動などは、GDPに計上されません。GDPが社会の豊かさを測定しているとは言い切れないのです。

本来、「価値」や「生産性」を客観的な数字で表すことはできないのだ。いくらわたしたちが、それが可能なふりをしても。」(p.125)

今、失業、不況、気候変動という危機に直面しているわたしたちもまた、新しい数字を探さなければならない。必要なのは、人生を価値あるものにするものをたどるための数々の指標を備えた計器盤(ダッシュボード)だ。その、人生を価値あるものにするものとは、まず、お金と成長。それに、社会奉仕、仕事、知識、社会的つながり。そして言うまでもなく、最も希少な「時間」だ。
「だが、そのような計器盤は、客観的にはなり得ないだろう」と、あなたは反論するかもしれない。そのとおりだ。だが、中立的な測定基準などというものはない。どの統計の背後にも、いくらかの仮定と偏見は存在するのだ。さらに、そうした数字−−そして仮定−−が、わたしたちの行動を導く。それは、GDPの真実だが、人間開発指数や地球幸福度指数にとっても等しく真実だ。わたしたちは行動を変える必要がある。ゆえに、導き手となる新たな数字が必要なのだ。
」(p.125-126)

今、わたしたちはこれらの古い問いについて再考しなければならない。成長とは何か。進歩とは何か。より基本的には、人生を真に価値あるものにするのは何なのか、と。」(p.127)

GDPという数字は、私たちを経済的に発展させるのに役立ちました。しかし、現代においてそれを追求しても、もう私たちの幸福には役立たないのです。
そういう時代の私たちを導く指標としての数字が必要だとブレグマン氏は言います。けれども、では何がふさわしいのかについて、彼はまったく言及していません。


第六章は、「ケインズが予測した週一五時間労働の時代」というタイトルです。

−−二〇三〇年までに、人類はかつて経験したことのない最大の難問に直面する。それは膨大な余暇をどう扱うかである。政治家が「(たとえば、経済危機のさなかに緊縮政策をとるというような)破滅的な間違い」を犯さない限り、一〇〇年以内に西側諸国の生活水準は、一九三〇年の生活水準の少なくとも四〇倍になるだろう、とケインズは述べた。
 その結果は? 二〇三〇年、人々の労働時間は、週にわずか一五時間になっているはずだ。
」(p.132)

人々はその決断をクレイジーだと非難したが、じきにフォードの後に続くことになった。
 フォードは根っからの資本主義者で、製造ラインの生みの親でもあったが、労働時間を短縮すれば、従業員の生産性が高くなることに気づいていた。余暇の必要性は「ビジネスにおける確かな事実だ」と彼は述べている。十分に休息をとった労働者は、生産性が高かった。また、朝から晩まで工場でせっせと働き、車で遠くまで旅をしたり近隣で車を乗り回したりする時間の余裕がない労働者は、フォードの車を買うはずもなかった。
」(p.134)

世界で初めて週休二日制を導入したのは、自動車メーカーのフォードだったのですね。
たしかに昔のように労働者がこき使われる時代は去っていきました。

まもなく、ケインズが予言した二〇三〇年が訪れる。二〇〇〇年頃にはすでに、フランス、オランダ、アメリカ合衆国などの国々は、一九三〇年の五倍、豊かになった。それでも今日のわたしたちの最大の問題は、余暇でも退屈でもなく、ストレスと不安定さなのだ。」(p.141)

時は金なり。経済成長はさらなる余暇と消費を生み出す。一八五〇年から一九八〇年まで、わたしたちはその両方を手に入れたが、その後、増えたのは主に消費だった。収入が増えず、格差が広がっても、消費の流行は続いた。しかも借金によってである。
 そしてそれこそが、労働時間の短縮は無理だという主張の根拠になってきた。わたしたちに労働時間を減らす余裕はない。余暇が増えるのは結構だが、余暇にはお金がかかる。皆がより働かなくなれば、生活レベルが格段に下がり、福祉国家は崩壊する、とその論は続く。
 だが、本当にそうだろうか?
」(p.143)

生活水準が高くなったこと、つまり豊かになったことは事実ですが、それで余暇が増えて退屈になったわけではありません。労働時間は減っていないのです。
その理由を、消費が増えたこととしています。もちろん、消費が増えるということは豊かになることでもあるので、悪いこととは言えません。けれども、必要でもない物にお金を消費させられているという部分もあるかと思います。

まずは仕事を減らすことを、成治の理念として復活させなければならない。そして政策としてお金を時間に換え、教育により投資し、退職制度をより柔軟にし、父親の育児休暇や子育てのためのシステムを整えていけば、徐々に労働時間を減らすことができるだろう。
 それはまず、動機(インセンティブ)を逆転させることから始まる。現在、雇用主にとっては、二人のパートタイム職員を雇うより、一人の社員に残業させるほうが安くすむ。なぜなら、健康保険料などの福利厚生費が、時間あたりではなく従業員一人当たりで支払われるからだ。それはまた、わたしたちが労働時間を短縮したくても、できない理由でもある。そんなことをしたら、会社での地位を失い、キャリアを積むチャンスを逃し、ついには、仕事そのものを失うかもしれない。ゆえに従業員は互いに目を光らせる。誰が最も長い時間、デスクに向かっているか。勤務時間が最も長いのは誰か、と。
」(p.150-151)

制度的な欠陥が、労働時間を減らすことを阻んでいると言えますね。
これに関して私も、もっと労働市場を柔軟化させるために、「正規雇用」を廃止して、すべてを「非正規雇用」にすべきだと考えています。他にも退職金の禁止や、解雇の自由を高めることも効果的な方法だと思っています。


第七章は、「優秀な人間が、銀行家ではなく研究者を選べば」というタイトルです。

奇妙なことに、最も高額の給料を得ているのは、富を移転するだけで、有形の価値をほとんど生み出さない職業の人々だ。実に不思議で、逆説的な状況である。社会の繁栄を支えている教師や警察官や看護師が安月給に耐えているのに、社会にとって重要でも必要でもなく、破壊的ですらある富の移転者が富み栄えるというようなことが、なぜ起こり得るのだろう?」(p.160)

冒頭で、ニューヨークで起きたゴミ回収者のストライキのことが取り上げられています。安い給料に甘んじ、多くの人から蔑まれたりもするゴミ回収者がストライキをしたら、途端に市がギブアップしたのです。
しかし、銀行が業務をボイコットしても、人々はいろいろ工夫をして対処するため、何も問題がない。実際、1970年にアイルランドで銀行員のストライキが発生した時、通貨の変わりに小切手を流通させることで、銀行なしで対処できたと書かれています。

そして結論を言えば、わたしたちはみな貧しくなった。銀行が一ドル儲けるごとに経済の連鎖のどこかで六〇セントが失われている計算になる。しかし、研究者が一ドル儲けると、五ドルから、往々にしてそれをはるかに上回る額が、経済に還元されるのだ。ハーバード大学流に言えば、高額所得者に高い税金を課せば、「才能ある個人を、負の外部性をもつ職業から、正の外部生をもつ職業に再分配する」のに役立つ。
 簡単に言えば、税金を高くすれば、有益な仕事をする人が増えるのだ。
」(p.172)

これは一概にそうとも言えないと思っています。
まず、どこか1国が所得税率を上げれば、金持ちは逃げ出すでしょう。国内にいなくても、オンラインで仕事は可能なのです。
たしかに、トレーダーが高額の所得を得ているし、私もそういう富の移転だけで儲けを生むシステムは、どこかおかしいと感じています。でも、それを言うなら、どうして一部のプロ野球選手やプロサッカー選手などは高額の報酬を得ているのでしょう?
端的にファンが多いからです。つまり人気があるからです。支持され、多くの人からお金を集められるからです。
では、なぜ優秀なトレーダーが儲けられるのか? 同じことです。ファンが多いからです。儲けたいと思う多くの人が彼を支持し、お金を出すからです。
そう、教師や研究者や看護師やゴミ回収者を見捨てて安い給料に甘んじさせているのは、私たちが支持しないからです。私たちの価値観が問われている。私は、そう思っています。


第八章は、「AIとの競争には勝てない」というタイトルです。

経済学者はこの現象を「勝者が独り勝ちする社会」と呼ぶ。小さな会計事務所は税金計算ソフトによって駆逐され、地方の書店はオンラインのメガストアを相手に苦戦を強いられている。世界が小さくなっているにもかかわらず、どの業界でも、巨人がますます巨大化してきた。
 そして現在では、ほとんどすべての先進国で不平等が拡大している。アメリカでは、貧富の差はすでに、奴隷労働の上に成り立っていた古代ローマ時代より大きくなっている。
」(p.189)

単純な誰でもできる労働は、コンピュータや機械に取って代わられつつあります。金持ちはさらに富み、貧困者はさらに貧困になる。そう言えば、そういうことが聖書(マタイによる福音書13章12節)に書かれていましたね。そういう時代になったのかもしれません。

アメリカで具現化しつつある極端な不平等は、わたしたちが選べる唯一の選択肢ではない。もう一つの選択肢は、今世紀のどこかの時点で、生きていくには働かなければならないというドグマを捨てることだ。社会が経済的に豊かになればなるほど、労働市場における富の分配はうまくいかなくなる。テクノロジーの恩恵を手放したくないのであれば、残る選択肢はただ一つ、再分配である。それも、大規模な再分配だ。
 金銭(ベーシックインカム)、時間(労働時間の短縮)、課税(労働に対してではなく、資本に対して)を再分配し、もちろん、ロボットも再分配する。
」(p.202-203)

社会に富を生み出すのは、必ずしも労働ではありません。単純労働が機械によって奪われるなら、機械が社会の富を生み出してくれているのです。そうであれば、人間はその恩恵を受けるだけでいいではありませんか。
そのための単純な考え方が「再配分」なのです。どこで誰が(何が)富を生み出そうと関係なく、私たち人間が平等にそれを受け取る。それが「再配分」という考え方なのです。


第九章は、「国境を開くことで富は増大する」というタイトルです。

しかし、こうした障壁を撤廃したとしても、世界経済は数パーセントしか伸びないだろう。IMFによると、資本に対する既存の制限を解除することで自由になるのは、せいぜい六五〇億ドル程度だ。ハーバード大学の経済学者、ラント・プリチェットに言わせれば、ほんの小銭である。しかし労働の国境を開けば、富は一〇〇〇倍にも増えるはずだ。
 数字で表すと六五、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇、〇〇〇ドル。言葉で表すと六五兆ドルだ。
」(p.222)

貿易障壁を取り除いて、貿易の自由化を図ることは、現在でもかなり進められています。自由貿易によって世界中の国々が恩恵を受けられることがわかってきたからです。けれども、それすら大した額ではないと言うのですね。
それよりも大きな富をもたらすのは、労働市場の自由化。国境をなくし、人の移動や居住を自由にさせることだとブレグマン氏は言います。

数十億の人が、豊穣の地で得られるはずの賃金に比べるとほんのわずかの金で、自分の労働力を売るよう強いられているが、それはすべて国境のせいなのだ。国境は世界の歴史の全てに置いて、差別をもたらす唯一最大の原因である。同じ国に暮らす人々の格差は、別々の国に暮らす人々の格差に比べると、無いに等しい。今日、最も豊かな八パーセントの人が、世界の総所得の半分を得ており、最も豊かな一パーセントの人が、世界の富の半分以上を所有している。消費に占める割合は、最も貧しい一〇億の人々はほんの一パーセント、最も豊かな一〇億人は七二パーセントだ。」(p.223-224)

日本では格差が拡大したと騒いでいる人がいますが、世界的な格差に比べれば五十歩百歩の世界です。日本は世界的に見て最も格差が少ない社会なのです。
しかし、世界的な貧富の格差は、どう見ても差別的でしょう。これを正当化しているのは「国」という単位で人々を縛り付けているからであり、まさに「国境」こそが諸悪の根源とも言えますね。

では、現代社会が一体性に欠けるのが多様性のせいでないとしたら、原因はどこにあるのだろう。答えは簡単だ。貧困、失業、そして差別である。」(p.230)

生産力のある女性や高齢者や移民は、男性や若者や勤勉な市民の職を奪ったりはしない。むしろ、労働力が増えると、雇用の機会は増える。それは、消費が増え、需要が増え、ひいては仕事の数が増えるからだ。求人市場をどうしても椅子取りゲームに例えたいのであれば、それは、パーティ好きの人が多くの椅子を抱えて次々にやってきて参加するゲームと言えるだろう。」(p.230)

実際には、収入と仕事の状況を是正すれば、移民が受ける公的支援は減るはずだ。総じて移民は、国にとって得になる。オーストリア、アイルランド、スペイン、イギリスのような国では、一人当たりで言うと、移民は自国民より多くの税金を国にもたらしているのだ。
 それでもまだ心配なのか? であれば、国は移民に対して、政府による金銭的な支援を得る権利を認めない、少なくとも入国してから最低限の年数が経つまで、あるいは税金を五万ドル払ってからでなければ認めないと、決めればよいのだ。移民が政治的脅威になることや、社会に溶け込まないことを懸念するなら、同様の制限要因を設ければよい。言語と文化のテストを課すとか、投票権を与えないとか。そして、移民が仕事に就こうとしない場合は、母国に送還するだけのことだ。
」(p.231)

ブレグマン氏は、移民を積極的に受け入れることで豊かになると主張します。たしかに多くの懸念があり、急激に移民を増やしたヨーロッパでは様々な問題が起こっています。けれどもブレグマン氏は、そういう懸念があっても、適切に対処できる問題だと言うのです。

国境を開くことは、もちろん一晩でできることではなく、またそうすべきでもない。無秩序に移民を受け入れると、豊穣の地の社会の一体性は、確実に蝕まれるだろう。だが、あることを思い出す必要がある。この異常なまでに不平等な世界では、移住は、貧困と闘うための最も強力なツールなのだ。」(p.233)

実際、アメリカは移民によって建国され、最も発展した国になっています。ですから、移民を受け入れることは経済発展につながるのだろうと思います。
しかし、ブレグマン氏も言うように、急激な変化は社会に混乱をもたらします。ですから壮大な構想をもとに、改革は漸次行う必要があるのです。


第一〇章は、「真実を見抜く一人の声が、集団の幻想を覚ます」というタイトルです。

賢い人々は、正しい答えを得るために自分の知性を使うのではない。答えであってほしいものを得るために用いるのだと、アメリカのジャーナリスト、エズラ・クレインは結論づけている。」(p.243)

私たちは見たいものを見る、ということが、お勧めしている「神との対話」にもありました。

ユニバーサル・ベーシックインカムは時宜を得たアイデアだと、わたしは確信している。これまで広範囲にわたってその問題を調査してきたし、さまざまな証拠がその方向を指し示しているのだ。だが、正直なところ、証拠が違う方向を指していたとして、わたしはそれに気づくだろうかと、不安になることがある。わたしは、自分の意見を変えるほどの観察力を持っているだろうか? そうする勇気があるだろうか?」(p.244)

実は思っていることが間違っているかもしれない。そういう思いを常に頭の片隅に置いて忘れないようにする。それは、私も心がけていることです。

わたしたちはもう二度と、座り込んで、時計が深夜〇時を打つのを聞きながら、来るはずのない地球外からの救いを虚しく待ち続けるようなことにはならないだろう。
 アイデアは、どれほど途方のないものであっても、世界を変えてきたし、再び変えるだろう。「実際」、とケインズは記した。「アイデアの他に世界を支配するものはほとんどない」
」(p.255)

どこからか救世主がやってきて私たちを救ってくれる。そういう幻想を持っていても意味がありません。私たち自身が意図することによって、世界を変えていく他ないのです。
そのためにも、精度の高い卓越したアイデアが必要なのです。そしてそれが最善かどうかを、常に疑いながらブラッシュアップし続けること。それが、私たちみんなが幸せで豊かな社会へと変化させる方法なのだと思います。


終章は、「「負け犬の社会主義」が忘れていること」というタイトルです。

例えばテレビは基本的に、異なる意見を報道する時間やスペースを持ち合わせていない。その代わり、同じ人々が同じ意見を言う、メリーゴーランドのような場面を延々と流し続ける。
 だが、そうであっても、社会は二〇〜三〇年の間に完全に変わることができる。オヴァートンの窓は、ずらすことができるのだ。そのための古典的な戦略は、非常にショッキングで破壊的なアイデアを公表して、それ以外のアイデアを、比較的穏当で、まともに見えるようにすることだ。つまり、急進的なものを穏当に見せるには、急進性の枠を広げれば良いのである。
」(p.261)

テレビは国民を洗脳する装置だと、旧N国党の立花孝志さんは言われています。まさにその通りですね。
そんな中で国民を振り向かせるためには、超過激なアイデアを披露することで、過激なアイデアを穏当なものに見せることだとブレグマン氏は言います。

今こそ、「仕事」という概念を再定義すべき時だ。わたしは一週間の労働時間を短縮しようと呼びかけているが、長く退屈な週末を過ごせと言っているわけではない。自分にとって本当に重要なことにもっと多くの時間を費やそうと、呼びかけているのだ。」(p.266)

最大の後悔は、「他人がわたしに期待する人生ではなく、自分のための人生を生きればよかった」というもの。二番目は、「あんなに働かなければよかった」である。」(p.267)

「死ぬ瞬間の五つの後悔」という本があるそうですが、その中で上記のように言っているそうです。こういう話はよく聞きますね。
私たちは、生活のために生きるのではなく、もっと自分のために生きるべきなのだと思います。それは「神との対話」でも推奨していたことです。

この三年間、ユニバーサル・ベーシックインカム、労働時間の短縮、貧困の撲滅について訴えてきたが、幾度となく、非現実的だ、負担が大きすぎると批判され、あるいは露骨に無視された。
 少々時間がかかったが、その「非現実的だ」という批判が、わたしの理論の欠陥とはほぼ無関係であることに気づいた。「非現実的」というのはつまり、「現状を変えるつもりはない」という気持ちを手短に表現しただけなのだ。
」(p.268)

最後になったが、本書が提案したアイデアを行動に移す用意ができている全ての人に、二つのアドバイスをしたい。まず、世の中にはあなたのような人がたくさんいることを知ろう。それも大勢いるのだ。本書のアイデアを信じるようになってから、この世界が堕落した欲深い場所に見えるようになったと、無数の読者がわたしに語った。彼らに対するわたしの答えはこうだ。テレビを消して、自分の周りをよく見て、人々と連携しよう。ほとんどの人は、優しい心をもっているはずなのだ。
 そして二つめのアドバイスは、図太くなることだ。人が語る常識に流されてはいけない。世界を変えたいのであれば、わたしたちは非現実的で、無分別で、とんでもない存在になる必要がある。思い出そう。かつて、奴隷制度の廃止、女性の選挙権、同性婚の容認を求めた人々が狂人と見なされたことを。だがそれは、彼らが正しかったことを歴史が証明するまでの話だった。
」(p.269-270)

真実がいつまでも覆い隠されていることはありません。必ず表に出てきます。
真実とは、私は「愛」だと思っています。存在するのは「愛」だけ。「愛」の対極である「不安(恐れ)」がどんなに強大に見えても、所詮は幻想に過ぎないのです。
存在するのが「愛」だけであれば、私たちもまた「愛」だということです。だから、他人を信頼すれば良いと思っています。その人の本質もまた「愛」なのですから。
いつかは、「愛」が完全に現れる時がやってくる。そのことを信じて、今、どんなにバカにされようと、無視されようと、自分らしく生きて、自分が思うところを主張していく。ドン・キホーテのように、私も、そういう生き方をしようと思っています。


ベーシック・インカムは、私も完璧な制度だと思って推奨しています。なかなか受け入れてもらえませんが、けれども、そのアイデアがおかしいことを証明できる人も、これまで1人もいませんでした。
本書を読んで、他にも労働時間を短縮するというアイデアをいただきました。ベーシック・インカムによって、働き方の自由度が広がることは思っていましたが、みんなが労働時間を短縮するということは考えていなかったのです。

また、国境を取っ払って移民を増やすことで、世界の富がもっと増えるというアイデアも斬新でした。私にもまだ、移民による問題の方が大きいという気持ちがあったのです。
もちろん、私の基本的な考えは、国境をなくすことです。経済の自由化が政治の自由化を促進すると思っています。貿易の自由化は、国境の壁を低くしていく。そう考えていました。
けれども、移民による文化の衝突の問題に関しては、本書を読んでもまだ解決できるとは思えません。先日も、イスラム教徒の人が神社で狼藉を働いたという事件がありました。土葬を特例として認めよと迫る人々もいました。こういう問題は、すぐには解決できないなぁと思っています。

しかし、ここで得たアイデアは、これからより平和で豊かな時代を築いていくために、とても役立つものだと感じました。
そういう気持ちを持っている人には、ぜひ読んでいただきたい本だと思っています。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 18:07 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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