2023年10月27日
私が見た未来 完全版
これもSNSで知った本だと思います。ひょっとしたら広告だったかもしれません。基本的にこういう予言の類は読まないのですが、この本のことを知った後に、ペンキ画家ショーゲンさんの話を知って、そこにも2025年7月5日とあったなぁと気づいて、それで買ってみることにしたのです。
著者は漫画家の竜樹諒(たつき・りょう)さん。本書ではたつき諒と、平仮名になっています。
たつきさんは以前、3.11を予言したとして有名になったのだそうです。ぜんぜん知りませんでした。1999年、世間がノストラダムスの大予言で盛り上がっている最中に「私が見た未来」という漫画本を出版されたのだそうです。表紙には「大災害は2011年3月」と書かれていたとか。その後、たつきさんは漫画家を引退されたそうです。
その出版から12年後、実際に東日本大震災が起こり、その漫画本が注目されることになったのです。
本書は、たつきさんが再び世に警告を発するために出版された漫画本とのことです。それは、「本当の大災害は2025年7月にやってくる」ということだそうです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
とは言え、これはマンガが主体の本です。たつきさんが予知夢を見るようになった経緯とか、予知夢の意味とか、関係のない過去の作品も収録されています。なので、その辺はすっとばして、予言に関係する部分のみを引用します。
「本当は「1999年の災害は小規模に、そして大災害は2011年3月に」と書くつもりでした。この具体的な日付である「2011年3月」という年号は、『私が見た未来』の単行本の〆切の日に「夢」で見ました。
この日付が漫画に描いた大津波の夢と関係があるのかどうか、そのときにはわかりません。でも、これはとても重要な日付だと思い、急遽、年月だけを付け加えたのです。」(p.54)
前作の「私が見た未来」の表紙に3.11を予言するかのような年月が入れられた理由を、このように言われています。
「1999年の災害」が何を指しているのかわかりません。ノストラダムスの大予言は不発でしたし、記憶に残るような災害はありませんでしたから。
それに、何だか不自然です。夢で年月だけ見たなら、それを本の表紙に入れようとは思わないでしょうし、仮に重要な年月だと感じたとしても、「大災害は2011年3月」とは書かないでしょう。何かまだ正直に語っていない感じがしてしまいます。後で「大災害」という言葉も見たと言われていますが、なぜその本に書こうと思われたかは不明ですね。
「この夢が東日本大震災の津波の予知夢だったのかどうか、私にはわかりません。それはあくまでも皆さんがあとで解釈してくださったことであって、少なくとも私自身には、そういう自覚はありませんでした。
東日本大震災は冬でしたが、夢の中の私は半袖姿の夏服です。そして、夢で見た津波の高さは、東日本大震災のそれよりも、もっと巨大でした。
ですから、この夢は、このあとに見た ”2025年7月” に関わる予知夢だったのではないか、と今になって思います。」(p.74)
「インドに行っているときに、これから起こる大災難の夢を見ました。
たとえるなら、ドロドロのスープが煮えたったとき、ボコンとなるように、日本列島の南に位置する太平洋の水が盛り上がる−−そんなビジョンが見えたのです。海底火山なのか、爆弾なのか、そこまではわかりませんが。そのとき宿で一緒にいた女性にも話していました。
そしてつい最近、また同じ夢を見ました。今度は日付もしっかりと。
その災難が起こるのは、2025年7月です。
私は空からの目線で地球を見ていて、Google Earthと同じといえばわかりやすいかと思います。突然、日本とフィリピンの中間あたりの海底がボコンと破裂(噴火)したのです。
その結果、海面では大きな波が四方八方に広がって、太平洋周辺の国に大津波が押し寄せました。その津波の高さは、東日本大震災の3倍はあろうかというほどの巨大な波です。
その波の衝撃で陸が押されて盛り上がって、香港から台湾、そしてフィリピンまでが地続きになるような感じに見えたのです。」(p.82)
文章には、年月までしか書かれていません。夢のことを書いた日記には、その日時を「2021年7月5日 4:18AM」と書かれています。これまでにも、夢を見た日と現実になった日が同じことから、2025年7月5日に起こるのではないか、と思われているようです。
日記には、竜が出てきたとか、「森林伐採なんかするから防波堤の役目なくなっちゃったじゃんか!」という言葉も書かれています。でも、東日本大震災以上の津波だとすると、森林の防波堤の役目も限定的だと思われますがね。
「大切なのは、準備すること。災難の後の生き方を考えて、今から準備・行動しておくことの重要さを改めて認識してほしいのです。」(p.87)
では、具体的にどう備えるのでしょう? この文の後に、リモートワークとか地下の飲み屋を避けるとか、3.11後の行動傾向が書かれていますが、それがどれほどの役に立つのでしょう? はなはだ疑問に感じます。
この本の影響かどうかわかりませんが、スピリチュアリストと思われる人たちがさかんに2025年7月の大災害について語るようになりました。「不安を煽るつもりはありませんが…」と前置きしながら、カセットコンロを買いたくなって買ったとか、備蓄の話をします。いやいや、津波が来て避難しなければならなくなったら、そんなもの役に立たないでしょう。
それに、仮にそういう備蓄品が役立つような状況になったとして、備蓄してない大勢の人がいたらどうするんですか? 分け与えるために備蓄してるんですか? どうもそういう問題ではない、という思いが込み上げてきます。
もちろん、備蓄しておくことはリスク管理の観点から重要でしょう。しかし、それはふつうにやっておくべきことであって、2025年7月に津波があるから、ではないと思うのです。
「そうなると気になるのは、2025年7月に起こる大津波の後の世界についてですが、私には、ものすごく輝かしい未来が見えています。
大地震による災害は、とても悲惨でつらいものです。でも、地球自体がマグマという熱エネルギーを抱えて生きているわけですから、どうしても避けられないものなのでしょう。それを覚悟した上でみんなが協力し合えれば、必ず生きていくことができます。
しかもそれは、明るくてきれいな未来です。」(p.88)
これも現実的には違和感があります。では3.11の後、被災地の人たちの未来、つまり今の状況は明るいものになっているでしょうか?
もちろん、たつきさんを責めたいわけではありません。たつきさんにも理由ははっきりしないけど、明るい未来が夢で見えてしまったのでしょうから。
それに、ショーゲンさんがブンジュ村で聞いた話も、明るい未来が予言されてるようです。(まだ本を読んでないので、実際はどうかわかりませんが。)
この明るい未来の夢は、2001年1月1日に見たとありました。そこには、「大災難後の明るい未来」と見えたようです。たつきさんは、「2011年3月」を見た時は「大災害」という言葉が見えたけれど、「2025年7月」は「大災難」と見えたのだそうです。なので、自然災害ではなく人災かもしれない、ということを書かれています。
人災であれば、可能性は事故か事件。事故でそんな規模は難しいので事件だとすれば戦争でしょうね。あるいは津波は象徴で、瞬く間に世界中に広がる人為的なウイルスによる感染症かも。
とまあ、そんなことをいろいろ考えてみるのですが、たつきさんは備えてほしいから本書を出版したと言います。でも、思うのです。何をどう備えるの?
実際、3.11の前だって、それなりに備えていたのです。けれども想定外のことが起こった。だから大変なことになったのです。
今度は確実に想定内でしょうか? そうだとすれば、津波を防波堤で防げない以上、低地から避難する他ありません。どこからどこへ避難すればいいのでしょう? 引越さなければならないのでしょうか? どこへ? そのために何ができるでしょう? お金のない人はどうしたらいい?
結局、人は、何もできないのです。具体的にわからなければ、つまり想定内でなければ、ほとんど対処できません。せいぜい「そういう可能性もある」と意識するくらいのものです。
たつきさんには申し訳ないが、単に不安(恐れ)を煽るための材料として使われるだけではないかと思っています。
2年くらい前でしょうか、備蓄しろと不安(恐れ)を煽った有名人が何人かいらっしゃいましたよね。どうなりました? 備蓄が必要な状況になりましたか? 「そういう状況にならなかったなら良かったじゃないか」と言うかもしれませんが、備蓄した人たちは不安に駆られたのです。不安を煽る人がいて、不安を煽られた人がいた。スピリチュアル的には、不安の集合意識が大きくなっただけではないでしょうか。
お勧めしている「神との対話」では、不安は愛の対極だと言っています。つまり不安は、愛ではないものです。愛を広めるのと、愛ではないものを広めるのと、どっちが良いのでしょうか?
被害者意識のままでいれば、不安(恐れ)はなくなりません。もし、私たち自身が創造者であり、だから「引き寄せの法則」によって現実を創造するのだとするなら、恐れ(不安)を動機とした恐れの世界を創造したいのでしょうか? それとも愛の思考による愛の世界を創造したいのでしょうか?
私は、問われているのは私たちが主体性を持つかどうかだと考えています。災害が起こる必然性があるなら起こるでしょう。でも、それだけのことです。起こることはすべて最善であり、必然であり、完璧である。なぜなら、存在するのは「存在のすべて」だけだから。それが傷ついたり、消滅する(死ぬ)ことはないから。その認識に至ることだけが、災厄を避ける唯一の方法であり、良寛さんが示された方法だと思っています。
2023年10月23日
敵とのコラボレーション
Twitter(現在はX)の投稿で紹介されていた本です。
SNS上、特にTwitterでは、投稿やコメントで激しくやり合うことが多いように思います。それはもう議論ではなく、叩き合いの様相を呈しています。そういう中で、この本を参考にしているというツイート(現在はポスト)があり、興味を持ったのです。
著者はアダム・カヘン氏。職業はよくわからないのですが、ファシリテーターということでしょうか。大学で研究もされているようだし、企業で代表もしていたとか。
本書はサブタイトルにもあるように、「賛同できない人、好きではない人、信頼できない人と共同する方法」ということがテーマのようです。私はサラリーマンでしたから、企業内ではこういうことがあるなぁと思いました。つまり職場に気に入らない上司、同僚、部下がいて、彼らと一緒に仕事をしなければならないという状況。そういう時、どうやって仕事を遂行すればいいのかという問題に、本書は答えを与えてくれるものと思ったのです。
ただ、読み終えてから思うのは、ちょっと違うなぁという感想です。言わんとするところは何となくわかるのですが、何だかしっくりきません。
でも、そのいわんとする部分に役立ちそうだと思える点もあったので、ここで紹介することにしました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「本書は、特に関係者が互いに賛同できない、好きではない、信頼できないような問題において、その問題のあらゆる党派を一つの部屋に招き入れることによって、不可能に思われる未来を創造しうる考え方と行動を指摘する。」(p.4-5)
「もう一つ、背景にあるのは、この世界の対象的な二つの潮流だ。一つ目の潮流は、ネットワーク化が進み、より多くの声が共有されるようになったことで、特定の人が自分の望むことを無理やり一方的に進めるのが、難しくなってきたというものだ。これは本書で述べる取り組みへの追い風と言えるだろう。しかし同時に、世界の多くの場所で逆の潮流が高まっている。トップダウン型、いわば独裁的な体制がさまざまな文脈において台頭しているのだ。私は一つ目の潮流を後押しするため、そして、二つ目の潮流と闘う人を支援し励ますためのツールを提供するものとして、本書を執筆した。」(p.14)
つまり、敵対関係の人々が問題を解決するための方法に、対話によってみんなで決めるやり方と、圧倒的なリーダーの支配で独裁的に物事を推し進めるやり方の2つがあり、カヘン氏は、独裁の台頭を押さえ、民主主義的な話し合いによる解決方法を推し進めるために、本書で示すやり方が役立つと言っているのですね。
「それぞれ自分が重大だと思うことをどうにかしようとする。どうにかするには、他者と協力する必要がある。この他者には賛同できない人、好きではない人、信頼できない人も含まれる。だから私たちは悩む。この手の人たちとも協力しなければならないと考えると同時に、協力なんてとんでもないと考えるのだ。」(p.24)
「しかし、この従来の想定は間違っている。複雑な状況で多様な人々と一緒に仕事をする場合、コラボレーションはコントロールできるものではないし、そうする必要もない。
非従来型のコラボレーションの方法、ストレッチ・コラボレーションは、コントロールという想定を捨て去るのだ。調和、確実性、従順という非現実的な幻想をあきらめ、不協和音、試行錯誤、協創という混乱した現実を受け入れるのだ。」(p.24-25)
カヘン氏が示す新しい方法はストレッチ・コラボレーションと名付けられています。ここには従来のコラボレーションの概念を引き伸ばし、根本的に変える3つのストレッチがあると言います。
「第一に、他の協働者(コラボレーター)との関係について、チーム内の共有目標と調和を重視するという狭い範囲に集中することから抜け出し、チーム内外の対立とつながりの両方を受け入れる方向に広げていかなければならない。」(p.25)
共通目標を持たないのであれば、企業のプロジェクトのような場面とはまったく違います。プロジェクトを完遂するという共通目標があるから、好きじゃない人や意見が異なる人がチーム内にいても、何とかしてまとまっていこうとするのです。それを否定するのがストレッチ・コラボレーションということになりますね。
「第二に、取り組みの進め方について、問題、解決策、計画に対する明確な合意があるべきと固執することから抜け出し、さまざまな観点や可能性を踏まえて体系的に実験する方向に広げていかなければならない。
第三に、状況にどう関与するか、すなわち私たち自身が果たす役割について、他者の行動を変えようとすることから抜け出し、自分も問題の一員であるという意識で状況に取り組み、自身を変えることを厭わない方向に広げていかなければならない。自分自身がゲームに足を踏み入れるのだ。
この三つのストレッチはいずれも、当たり前と思われることの反対の行動を要求するゆえに、ストレッチ・コラボレーションはハードルが高い。複雑さに後ずさりするのではなく、複雑さに飛び込む。人がたいてい違和感や恐怖を覚えることだ。」(p.25-26)
たしかに当たり前ではないし、複雑でよくわからないというのが私の感想です。あれ? 目的は何? 問題を解決することじゃないの? 解決することばかりか、その問題さえも共有せず、いったい何を目指すのでしょう?
「敵化は現実の差異を理解し、処理する方法の一つではある。圧倒されるほど複雑で多彩な現実を単純化して白黒はっきりつけてくれる。現在の状況がはっきりし、それに対処することにエネルギーを総動員できる。しかし、ジャーナリストのH・L・メンケンが言うように、「人間のどの問題にも安易な解決策は常にある−−ただし、それは格好よくて、もっともらしいが、誤っている解決策」なのだ。敵化すれば、気持ちが高ぶり、満足感があるし、正義や英雄気分さえ感じるものだが、たいていは直面している課題の現実を明らかにするのではなく、むしろ曖昧にしてしまう。敵化は対立を増強し、問題解決と創造性の余地を狭めてしまう。そして、決定的な勝利という実現不可能な夢をもたせて、実行すべき現実的な取り組みから気をそらせてしまう。」(p.36)
私たちはすぐに善悪二元論にまとめようとします。ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ(ハマス)など。そして、自分の支持する側を「正義」とか「正しい」と主張し、対立する相手を「悪」とか「間違っている」と決めつけます。こうして、互いの支持者も含めて激論を戦わせますが、解決する方向へは進みません。どんなに力で相手をねじ伏せようとしても、仮にそれが上手くいったように見えても、恨みの炎はくすぶっているのです。
SNS上で日常的に繰り広げられていることですが、こんなやり方では上手くいきません。おそらく、多くの人がわかっていると思います。だからフラストレーションを溜めているのです。しかし、多くの人はまだ、この「敵化」というやり方を捨てられずにいます。そこに固執してしまっているのです。
「私がタイで理解するに至ったことは、問題の複合する状況に直面しているときは常に、政治でも仕事でも家庭でも、四通りの反応、すなわちコラボレーション、強制、適応、離脱の選択肢があるということだ(タイのチームは、国内から変化をもたらすことに主眼をおいていたので離脱については検討しなかった)。四つすべての選択肢がとりうる状況にあるとは限らない。たとえば、強制を採用する手段はないこともある。しかし、常にこの四つの選択肢から選ぶ必要はあるのだ。」(p.53)
タイでは、タクシン派と反タクシン派による抗争が長く続きました。その間に2度もクーデターが起こりました。ここでいう強制ですね。私はそのころタイで暮らしていて、この状況を部外者として眺めていました。
そういうこともあり、カヘン氏と同じ空気を吸っていたのだと思うと、何だか親しみを覚えました。なので、ちょっと冗長な感じで結論がなかなか出てこない文章を、何とか最後まで読むことができたという感じです。
「他者と−−仲間や友人はもちろん、おそらくは反対者や敵対者とも−−協力して、より効果的な打開策を見つけ、今の状況にできるかぎり大きく、持続的な影響を及ぼすならば、コラボレーションは好機となる。しかし、コラボレーションは特効薬ではない。そのリスクは、実り少なく、遅々として進まないということだ。大幅に妥協する、相手側に取り込まれる、自分たちにとって最も重要なことを裏切るという結果になるリスクがあるのだ。」(p.54)
事態に関与する人々が協力し合うことを望むなら、コラボレーションは役立つでしょう。けれども、そう望まないのであれば、コラボレーションは役立たないばかりか、害悪にさえなるのですね。
「コラボレーションは唯一の選択ではないのだから、与えられた状況で、コラボレーションを選ぶのか、それとも強制か、適応か、離脱か、意識的に考える必要がある。」(p.59)
まずは、4つの選択肢のどれを選ぶかという問題があります。その中でコラボレーションを選択肢た場合にのみ、本書のストレッチ・コラボレーションという方法が役立つというわけです。
「ストレッチの第一の要素は、協働する相手との関わり方、つまりチームに関してである。従来型コラボレーションでは、チームの調和を達成すること、およびチーム全体としての利益と目的に焦点を定め、それがぶれないように人々をコントロールし、制限していく。しかし、複雑でコントロールされていない状況では、焦点を維持することは不可能だ。なぜなら、チームメンバーの考え方、所属関係、利害が著しく異なり、それに基づいてメンバーが自由に行動するからだ。だから、ストレッチしてチーム内外に存在する対立とつながりに関する先入観を捨て、受け入れ、対処しなければならない。
第二の要素は、チームでの取り組みの進め方である。従来型コラボレーションでは、解決しようとしている問題、その問題に対する最善の解決策、その解決策を実行するための計画、その計画の取り決めどおりの実行に関して明確な合意に達することを重視する。しかし、複雑でコントロールされていない状況では、そんな確定的な合意や予測どおりの実行を達成することは不可能だ。なぜなら、チームメンバーは互いに賛同できない。信頼できない関係であり、またチームの行動の結果は予測不能だからだ。だから、何がうまくいき、何が自分たちを前に進ませてくれるのか、一歩ずつ発見するためには、ストレッチして多くの考え方や可能性を実験、つまり実際に試してみなければならない。
第三の要素は、対処しようとしている状況に自分自身がどう関与するか、つまりどんな役割を果たすかである。従来型コラボレーションでは、計画を完全に実行できるように、いかに人に行動を変えさせるかを重視する。それはつまり暗黙のうちに、他者に行動を変えさせ、自分自身は状況の外か上に置いているということだ。しかし、複雑でコントロールされていない状況では、これはまったく不可能だ。誰にも何もさせることなどできはしない。だから、ストレッチして状況にしっかり足を踏み入れ、自分自身が行動を変えることへの抵抗を捨てなければならない。」(p.92-94)
たくさん引用しましたが、これがストレッチ・コラボレーションをまとめた部分だと思いました。
従来型のコラボレーションは、同じ目的を有している仲間のチームなら効果があっても、敵対する関係においては役立ちません。そもそも協働したいとも思っておらず、相手を叩きのめしてでも自分の目的を遂行しようとしている相手と対峙しているのですから。
そこでストレッチ・コラボレーションは役立つとカヘン氏は考えておられるのですが、私はこれを読んでも「なるほど!」とは思えませんでした。
この3つの要素ですが、1つ目は、相手は協力してくれないものと受け入れ、その上でどうしていくかを考えようということです。2つ目は、こうすれば上手くいくなんて方法はないのだから、先入観を捨てて考え得るあらゆる方法を試してみようとすることです。3つ目は、他人を動かしてどうこうすることは不可能だと理解し、その上で自分がどうするかを考え、その可能性の枠を広げるということです。
つまり、相手は思い通りに動かないことをしっかりと受け止め、効果的な方法もなければ到達点も明らかではないことを受け入れ、そこに飛び込んで可能性の枠を広げてできることをやる、ということになるかと思います。けれども、それで上手くいくのかどうか、これではまったくわかりません。ただ、上手くいく可能性はあるよね、とは言えるかと思いますが。
「この調和一辺倒のコラボレーションを採用しようとすると、たいてい失敗し、結局は「適応」か「強制」か「離脱」に戻ることになっていたのだ。
協働する場合、愛と力を交互に発揮することが必要だ。まず相手と関わる。関係が続き、濃密になると、やがて相手のなかに融合や屈服、すなわち関係を維持するために自分にとって重要なことを二の次にしたり、妥協したりせざるをえないという不快な感情が生まれる。この不快な反応もしくは感情は、相手が主張したり、強く要求したりする行動に切り替える必要があるという合図だ(アレナスやスズキが自分にとって重要なことを主張したように)。ところが、相手の主張が続き、強くなると、やがては当方に阻止、反対、抵抗の衝動が生まれる。この反応もしくは感情は、双方が関わることに戻る必要があるという合図だ」(p.116)
コラボレーションでの問題解決ができない時は、「適応」「強制」「離脱」のどれかが採用されることになるというのがカヘン氏の分析です。つまり、協働して問題解決できなくなるということです。
そうせずにコラボレーションを続けるには、「関わり」と「主張」という役割を繰り返すことが重要だと言うのですね。つまり、対立した時は無理に推し進めようとせずにただ関わってるだけの状態になり、関わりが確認できる状態であれば相手の主張をむやみに受け入れたりせずに、しっかりと主張していく。この、関係を壊さないように押したり引いたりすることが必要だとカヘン氏は言うのです。
「つまり、関わることと主張することの間を行ったり来たりするには、アンバランス(退行的な状態に入る境界を超える)を知らせるフィードバックに注意を払い、バランスを取り戻す動きをする必要があるのだ。関わることが屈服をもたらし、相手を操作する恐れがあるなら、主張を促進するときだ。主張することが抵抗をもたらし、相手に強要する恐れがあるなら、関わりを促進するときだ。大切なのは、静的なバランスの位置を保つのではなく、動的なアンバランスに気づき、それを修正することなのだ。」(p.120-121)
相手との位置関係を硬直的に決めつけるのではなく、今の状態を敏感に察して、自分の立ち位置を変化させることが重要だと言うのですね。
こちらが優位に立って、相手が屈服している状態も放置してはいけないのです。相手の中にある主張を引き出してやる。それはこちらにも言えることで、妥協して主張を封じ込めてはダメなのです。
「ストレッチ・コラボレーションは他者と協力する方法だが、従来のものとは異なり、次の三つの基本的な変化が必要になる。
第一のストレッチ、対立とつながりの受容では、力(パワー)と愛(ラブ)という補完し合う衝動を、どちらか一方だけ選ぶのではなく、両方とも使わなければならない。力は、自己実現の衝動であり、断固として主張することで表現される。愛は、再統合の衝動であり、相手と関わることで表現される。この二つの衝動を同時にではなく交互に使う必要がある。
第二のストレッチ、進むべき道の実験では、現状を強化するダウンローディングやディベートに偏るのではなく、新しい可能性を浮上させる対話(ダイアログ)とプレゼンシングを用いることが求められる。つまり、話すこと、聞くこと、特に聞くことを狭めずにオープンにしておくということだ。
第三のストレッチ、ゲームに足を踏み入れるでは、傍観したまま、他者を変えようとしかしないのではなく、活動に飛び込み、自分が変わろうとすることが求められる。
この三つのストレッチは、染みついた行動を変えなければならないものだから、ほとんどの人にとってなじみがなく、違和感のあるものだ。新しい行動を習得するには繰り返し練習あるのみ。」(p.168-169)
ストレッチ・コラボレーションを行うには、3つのストレッチが必要で、それは「対立とつながりの受容」「進むべき道の実験」「ゲームに足を踏み入れる」という言葉で表現されるものです。そしてそれは、これまでとは全く異なる思考習慣だから、練習する必要があるようです。
たしかにこれまでのように、相手を威圧したり懐柔しようとしたりして、相手を変えようとするとか、自分が妥協するだけのコラボレーションとは、まったく違う思考が必要になりそうですね。
「ストレッチを学ぶときに直面する第一の障害は、習慣的な物事のやり方の慣れ親しんだ快適さに打ち克つことだ。「こうあらねば」という平叙文から「こうもできそうだ」という仮定文に移行する必要がある。自分の意見、立場、アイデンティティへの愛着をゆるめる必要があるのだ。より大きく、自由な自己のために、小さく、窮屈な自己を犠牲にするということだ。したがって、こうしたストレッチは恐怖感と解放感の両方を与えるだろう。」(p.180)
「最も難しいと感じるような状況、すなわち、こちらの期待するように相手が動かず、いったん休止して新しい前進の道を見つけざるをえないときこそ、学びが最大になる。
そう、敵は最大の師になりうるのだ。」(p.181)
これまでやってきた方法ではないので、そこに踏み出すには恐れ(不安)を感じてしまうでしょう。しかし、その恐れ(不安)を乗り越えて一歩を踏み出せば、そこに新たな境地が開けるかもしれません。これまで考えてもみなかった何かが見つかるかもしれない。
もしそうなったら、敵対する相手は邪魔な存在ではなく、その新境地を教えてくれる師であったとも言えるのですね。
言わんとすることはわかるのですが、相手がこのストレッチ・コラボレーションを理解せず、協力しようともしないなら、果たして上手く行くでしょうか?
もちろん、これまでのコラボレーション手法で上手くいかないのなら同じことではないか、とも言えるわけです。試してみない理由にはなりません。
ただ、もうちょっと上手にわかりやすく書いてほしいなぁ、という思いが残ります。外国人の著者に多いのですが、まるで小説のように自分の歩んだ道を書かれています。そういう文を読まされても、それが知りたいことではないし、後で役立つ情報かと思って読み進めても、まったく関係がなかったりします。
どうせ書くのであれば、ストレッチ・コラボレーションによって、当初想定していた解決策とは違う方法がどういう展開で見つかり、結果としてどううまく行ったのかという実例を書いてほしいものです。書かれていたタイの対立も、結果的に何の成果も残していないようです。
本書を読んで、「これで上手くいく!」とは感じませんでした。ただ、少なくとも自分がコラボレーションの必要性を感じているのであれば、その可能性を感情的になって捨てるような愚を犯さないために、役立つかもしれないな、とは思いました。
2023年10月15日
女子大生、オナホを売る
おそらくX(旧Twitter)で何かのポスト(旧ツイート)を見て、面白そうだと思って買った本だと思います。タイトルもよくわからず、「女子大生」が何かをしたのか、そういう設定での話なのか、それすらよくわからずに買ったのです。(以前、女子マネージャーがドラッカーを読んだら・・・みたいな設定の本もありましたよね。)
そんなよくわからない状態で読み始めたのですが、内容はいたって真面目なマーケティング手法に関する本でした。ただ、著者の神山理子(かみやま・りこ)さん(通称:リコピン)が、かなり面白い人だということはよくわかりました。
ちなみに「オナホ」と言うのはオナニーホールの略で、男性用のオナニー補助器具のことを言うのだそうです。そういう方面にはあまり興味がなかったので、まったく知りませんでした。(存在は知ってましたけどね。)
リコピンさんは、そもそも下ネタが苦手。それなのに、自分でオナホを作って売るというD2C(Direct to Consumer:企業が自ら企画・製造した商品を、小売店などを通さず自社ECサイトで直接、顧客に販売する方法)をやって成功させたことが注目されているのです。それだけでなく、いくつかの事業を立ち上げては起動に乗せて売却するということをされているようです。
どうしたらそんなことができたのか、どういう思考回路だとそんなことが可能になるのか。とても興味深く感じました。
リコピンさんは、マグロ漁船に乗ってみたり、ひよこの仕分けをするなど、一般的な人があまりやらないようなことを積極的にされています。また高校生の時は、学校に七輪を持ち込んで魚を焼いたことで火災警報を鳴らし、スプリンクラーを起動させてしまい、停学処分も受けたことがあるようです。
こうしたことからも、一般的な人とは、そもそもの思考回路が違うのではないかと感じました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「事業を成功させるには、良いコンセプトが必須です。
これはtoBだろうがtoCだろうが、有形商材だろうが無形商材だろうが、例外はありません。
良いコンセプトとは、「良いインサイトに突き刺している」ということです。
そして「良いインサイトの発掘」とは、簡単にいえば「顧客の気持ちを、顧客以上に理解して、彼らすらも気づいていない悩みを代わりに見つけてあげること」です。
そして、彼らすら気づいていない悩みに対して、「先回りして解決策を提供する」のがコンセプトであり、事業です。」(p.48)
まぁ、これがビジネスの王道だと言えますね。簡単に言えば、顧客満足度に訴求するということですから。
ただ、リコピンさんも言われるように、顧客が不満を感じていても、何にどう不満なのか理解していないこともあるのです。そういう顧客に対して、「これが不満に感じるポイントですよね。そうでしたらこれによって解決できませんか?」というアプローチをする。単に顧客の声を聞くというレベルではないのです。
この点に関してリコピンさんは、徹底的にインタビューなどをしてリサーチしています。それも様々な観点から。具体的な手法に関しては、ぜひ本書をお読みください。
「人が「面白い」と言ったものを、全力で楽しみ、相手の世界観に没入してみましょう。
なぜなら、「面白い」と思われるものには、必ず理由があるからです。
その理由を集め続けると、人が面白いと思うものを作るための手札となります。
私はよく、出会った人に「最近、面白かったものは?」「今、ハマってるものは?」と聞きます。
映画、アニメ、趣味、様々なことを聞いて、自分も見たりやったりするようにします。
そのときの心構えとして重要なのは、試してみるという感覚ではなく、「心の底からそれを ”面白いもの” と捉えて全力で楽しむことで、相手の世界観に没入する」こと。
すると不思議と、それの何が面白いのかがじわじわと理解できるようになり、新たなニーズが見えます。」
(p.134-135)
自分の興味の範囲には限界があります。それでは新たなビジネスを生み出すことは難しいでしょう。自分がまったく興味がなくても、他の誰かが興味があると言っているなら、そこに飛び込んで、同じように感じるまで味わってみる。そういう姿勢が重要だとリコピンさんは言います。
でも、それはリコピンさんの才能だなぁと思いました。リコピンさんは、ビジネスを成功させるためにイヤイヤそれをやったとは思えないからです。そもそも、そうやって他人のことを詳しく知ることが好きなのだと思います。
そしてこのことは、人間関係において非常に重要な視点だと思いました。つまり、人はそれぞれ違うのですから、相手のことを理解できないことが前提なのです。そうであれば、同質を求めたり、同質を押し付けたりするより、異質を面白がる視点が重要ではないかと思うのです。
「自分が買うもの一つひとつに対して、「なぜこの商品を買ったのか」と自問自答を繰り返します。
「どこでその商品を知ったのか」「なぜ他の商品を買わなかったのか」「今、持っているものではなぜ満足できないのか」「それを購入することでどうなりたいのか」など、”「どうして?」責め” を繰り返していきます。
「欲しい理由」をきちんと言語化できるようになると、思わぬインサイトに気づけるようになったり、キャッチコピー力が上がったり、PR戦略を思いつけるようになったりするなど、全般的なマーケティングスキルが上がります。」(p.138-139)
リコピンさんは、単に興味を持つとか関心を寄せるだけでなく、それを言語化することを勧めています。
これは私も同感です。レイキの練習において、感じたことを言語化することで感性を育むことができると思っていたからです。言語化するとは、無意識を意識するということです。意識してこそ、自分の無意識を変えることも可能です。
ぱっと見た目はセンセーショナルな感じがする本書ですが、内容はいたってまじめなマーケティング手法に関する指南書でした。
そういう意味では、私としては少し残念であり、読んでいる途中で興味を失ったりもしました。けれども最後まで読んでみると、著者のリコピンさんそのものが、実に興味深い対象だなぁという気がしました。
なので、この本の紹介記事は書くまいと思っていたのですが、読み終えた後で急遽、紹介記事を書くことにした次第です。
マーケティングに興味がある人にも役立つと思いますが、私のような感性の人も、リコピンさんに興味を持たれるのではないでしょうか。
2023年10月09日
人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?
X(旧Twitter)を見ていて、コロナ対策に関して私と同じような考えをお持ちの医師がおられたので、フォローしました。それが著者の森田洋之(もりた・ひろゆき)医師です。事実と論理に基づいて、堂々とコロナ対策のおかしさを主張されていました。特に、マスクやワクチンの押し付けに反対されたり、医療施設や老人介護施設における面会禁止措置のおかしさを指摘されるなど、素晴らしいご意見をお持ちだなぁと思いました。
その森田医師が夕張市で働いておられたことを知って、俄然興味が湧いたのです。財政破綻によって市立病院が大幅に縮小された夕張市。しかし、それにもかかわらずと言うか、それがあったからこそと言うべきか、夕張市の医療費は削減され、住民の健康状態も特に悪化もしなかったのです。そのことを知っていたので、森田医師の本を読んでみたいと思い、この本を買いました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「2019年に始まった新型コロナウイルス騒動。
医療業界をはじめ行政やメディアに先導されたこの騒動は、残念ながら「経済を壊し」「人々の絆を断ち切り」「自殺数を増加」させてしまった。
私は経済学部出身の医師という立場から、このような過剰な感染対策によるデメリットを憂いていた。だが、この「過剰にコロナを恐れてしまう風潮」は2022年になっても依然として継続している。」(p.2)
「今後もこのような風潮が続くのであれば、それこそ「新しい生活様式」となって社会に定着し文化になってしまうのだろう。
私はそんな「家畜」のような生活を、感染を恐れて人との絆や接触を断ち切るような社会を、絶対に子どもたちに遺したくない。」(p.3)
高校のサッカー部で、部員の一部にコロナ感染者が出たと言うだけで、みんなが楽しみにしていた大会に参加できないなんて事態も発生しました。コロナの健康被害は非常に小さいとわかってきたにもかかわらず、人々は恐れから過剰に反応してしまっている。その過剰な反応によって、これまでの正常な社会生活が壊されているのです。
森田医師は、これが本書を書こうとした動機だと言います。愛する子どもたちに、このような社会を遺したくない。その強い思いが、あえて世の流れに抵抗させるのですね。
「交通事故で3千人〜5千人、インフルエンザで1万人、自殺で2万〜3万人の日本人が毎年毎年死んでいるのである。ちなみにこれだけ大騒ぎしている新型コロナ肺炎は、この世に登場してから通算でまだ100人しか日本人を殺していない(注:数字は2020年4月現在のもの。ちなみに新型コロナ死は2020年が約3千人、2021年が約1万5千人)。」(p.13)
これは私も早い段階から主張していました。「交通事故を恐れて車をなくせ!と主張するのですか?」と。しかし、多くの人は論理では納得しません。マスコミから不安を煽られ、怖がる大衆に対して政府がこびて、その悪循環で無意味で無駄な対策がどんどんとられていった。私もそう感じています。
「こうして高齢者は入院・入所した途端に行動を制限され寝たきりになっていく。
多くの高齢者の願いは、「自宅で好きなものを食べて、自分らしく生活したい」という至極単純なものだ。それなのに、世間や医療のゼロリスク神話はいともたやすく高齢者の生活を奪ってしまう。リスクを恐れるあまり、多くの高齢者は今「かごの鳥」になっているのだ。」(p.18)
私も高齢者施設で働いていましたから、このことはよくわかります。ただ、恐れているのは医療関係者や家族だけではありません。当のお年寄り自身も恐れているのです。だから、関係者がみんな恐れて、恐れの相互作用によって、ゼロリスクを求める結果になっていると思っています。
「自動車の製造を止めれば、交通事故で死ぬ年間100万人の命を救えたはずだ。でも僕らは歴史上決してその選択肢をとらなかった。意識するかしないかにかかわらず、我々はリスクと共存し、それを許容して生きてきたのだ。」(p.20-21)
理屈で言えば、まさにその通りなのです。けれどもほとんどの人は理屈で考えて選択しているわけではありません。恐れによって萎縮してしまっている。だから、論理的な選択ができないのです。
「もちろん新型コロナにかからないことで健康を保つことも大事だが、過度の自粛や行動規制で親しい人たちとの交流が減ってしまって本当の健康が得られるのか?という視点はもっともっと大事だ。健康とは体の話だけでなく、心の健康も、社会的な健康(絆を紡ぐことで生まれる良好な人間関係・コミュニティーとしての健康)も含まれるのだから。」(p.23-24)
人も社会も総合的なものです。比べ得ないものを比べて、選択しなければならないのです。それなのに、感染しない、重症化しない、ということだけに特化した選択がなされてきた。この思考のいびつさには、本当に腹立たしく感じました。
「マスクがよい、ワクチンが効く、人との接触を減らせば感染リスクが下がる、手洗い・消毒は基本だ。そんな話はすべて、事実の半分に過ぎない。マスクをしてもしなくても、人と接触してもしなくても、変異株ごとに効果が薄れてゆくワクチンを打とうが打つまいが、新型コロナにはかかるかもしれないし、かからないかもしれない。統計的に差があったとしても、自分で実感できるほどの差ではない。それよりも長年にわたってマスクをし、人との接触を避け、ワクチンを打ち続けるほうが負担の方がはるかに大きい。にもかかわらず、都合のよい面だけを取り上げれば、あたかも世のため人のために役立つ知識のように見えてしまう。」(p.26)
テレビを中心とするマスコミは、連日朝から晩まで同じことを繰り返し、国民を「恐れ」で洗脳してきました。一部の事実だけを切り取ることで、それだけが事実の全てであるかのように錯覚させる手法で洗脳したのです。もちろん、簡単に洗脳されてしまう国民がそのレベルだというだけのことですがね。
「なぜ日本の医療業界は縦の機動性も、横の機動性も乏しいのか。それは、日本の病院の8割が民間で、基本的にお互いがライバルであること、そして国の指揮命令系統が及びにくいということが大きく影響しているのだ。ちなみに、先進国の病院は多くが公立もしくは公的病院で、純粋な民間病院は僅かである。」(p.39)
日本はコロナ病床が十分あったにもかかわらず、病院同士の連携が取れないなどで、一部で医療逼迫が生じた。つまり、病床数の問題ではなく、機動性の問題なのだと森田医師は分析します。そして、その元凶は市場経済による競争にある、と指摘されています。
この点に関しては異論があります。私はそうは思いません。このことは、また後で書きます。
「合計特殊出生率日本一の鹿児島県・徳之島の伊仙町で子育てをするママさんは言う、
「地域のどこに行っても子どもたちが名前を呼ばれて可愛がられる。安心して地域の人間関係に子どもを任せられる徳之島での子育ては、都会での子育てとは雲泥の差」と。
私の前任地・北海道の夕張市では、頻回に徘徊する100歳で重度認知症のおばあちゃんもアパートで一人暮らしをされていた。近所の人たちの何気ない見守りなどの「地域住民の絆」は、通常病院や施設でしか対処できないだろうと思われる高齢者の医療・介護需要を、いとも簡単に吸収してしまっていた。それはまるで、豊かな土壌が降り注ぐ雨を吸い込むようだった。」(p.41-42)
私が住んでいたタイでも、暮らしている多くの日本人、特に女性から、子育てがしやすいという声が聞かれました。どこに連れて行っても、タイ人が子どもを歓迎し、大事にしてくれるからです。親が子どもを見ていなくても、お店の従業員が見ていてくれる。親が責められることがない。だから楽なのです。
お勧めしている「神との対話」でも、進んだ文明では小さなコミュニティで暮らすと言っています。大都会では隣人の顔も知らなければ、どんな人が住んでいるかもわからないことが多々あります。そんな状態では、健全なコミュニティを作ることは難しいのです。
ただ、タイ人の妻を日本に連れてきた時、言われたことがありました。「人がいない」と。家はあるのに、車は走っているのに、人の姿を目にしないのです。田舎であってもそうです。人はそれぞれの家にこもり、または街に出かけていて、集落に人影がありません。タイでは、どこへ行っても人の姿があるのに。
昔のような縁側で夕涼みなんて文化も廃れました。人がいるのかどうかすらわからない家の中で、エアコンを効かせて、それぞれが孤立して存在している。それが今の日本のような気がします。そんな日本で、かつてのようなコミュニティは復活するのでしょうか?
「薬を飲んでも無駄と言っているのではない。119人に1人でも、かけがえのない命を救えるのならそれは非常に大きな効果である。しかし、その1人に入れるのかどうかが「確率論」であるということに変わりはない。「それならは、副作用も考えて私は飲まない」という選択肢だって、間違いではないのである。」(p.51)
日本は画一的であり、同質を求められます。いや、同質を強要される文化があります。だから、個人の自由が往々にして侵害され、その侵害を当然とみなすのです。
タバコやアルコールの健康被害も同様です。たしかに統計数値には表れていますが、個人に現れるかどうかは確率的なもの。だからこそ、そのリスクを知った上で個人の自由に任せるというスタンスが重要だと思います。
自由に自分らしく生きること。それこそが、何よりも尊ばれるべきものだと思うからです。
「つまり、少なくとも我々が頑張った「ソーシャルディスタンス・マスク・手洗い・消毒」などの感染対策は、客観的事実としてRSウイルスやその他ウイルスの感染拡大の防止にはあまり効果がなかった、ということだ。」(p.54)
コロナ対策として国民全体がマスクなどの対策を強要されたにもかかわらず、RSウイルスなどの感染症が多発したという事実があります。そういう事実を無視して、自称専門家がマスクを強要する。そしてそれをメディアが拡散し、政府が後押しする。まったく科学的ではない対策が、さも正当であるかのように堂々と行われ、押し付けられる。本当に愚かなことです。
「アメリカの北部に隣接するこの2つの州は、全く違う感染対策を実施しているのだ。ノースダコタはマスクを義務化し、経済規制も強固に実施した。一方サウスダコタはマスク義務なし、経済規制もほぼ無し、いわゆるノーガードに近い非常にゆるい感染対策だった。その両者の感染者数を比較してみると、ほとんど一緒、きれいに同じ曲線を描いていることがわかる。」(p.57)
こういう事実の指摘は、SNS上でも多数見られました。しかし、メディアも政府も、そしてほとんどの国民も、恐れを捨てることはありませんでした。
「ただ、日本の医療崩壊について言えば、世界一の病床数を誇っていながら、2年経ってもまだ全病床の2.5%しかコロナ対策に回せなかった。つまり医師会含め医療業界全体は新型コロナに対して一丸となって対処できなかったのだ。これではいくらピークを後にずらしても、いつまで経っても医療の受け入れ体制は微増しかないだろう。」(p.58-59)
今回のコロナ禍では、日本医師会がガンだということもよくわかりました。硬直した全体主義的な組織だからだと思います。まったく自由がなく、それぞれの医師が日本医師会に反して対策に立ち上がるということもなかった。
森田医師は、病院のほとんどが国公立なら、政府の鶴の一声で連携できたと思われているのでしょう。たしかに、そういうことが可能かもしれません。実際に諸外国がそうしているのですから。しかし、国公立ばかりの状態による弊害もあります。計画経済と同じですから、非効率で上手くいきません。保育園の経営を見れば明らかではありませんか。
私はこういう問題は、むしろ個々が自由に考えて行動できるようにすることによって、その時にふさわしいリーダーが現れ、やり方が出てくると思っています。問題なのは硬直した全体主義的組織であり、その解決策としては自由の推進しかないと思っています。
「実は、私がいままで
「大事なのは重々わかるんだけど、今ちょっと忙しいから…」
と後回しにしていたコミュニケーション術のキーワードがそこにあったのだ。
つまり、
「へ〜」=傾聴
「そうだよね〜」=共感
「わかる〜!」=承認
今までコミュニケーションスキルの講演などで散々聞いてきた「傾聴」・「共感」・「承認」って、これなのか!と。」(p.108-109)
ファミレスで若い女性が、延々とこういう会話をしていたのだそうです。話題は日常の些細なこと。それに対して必ず「へ〜」「そうたよね〜」「わかる〜!」と繰り返し相槌を打つ。そこにコミュニケーション術の極意を見出されたのだそうです。
これはたしかにそうですね。特に男性は解決策を示そうとしたり、どうでもいい話題だと面倒くさがって無視しがちです。私もそうなので耳が痛いです。(笑)
けれども女性のこの共感的な会話は、相手を否定せずにありのままに受け入れています。何も解決策を示さないから無意味なように見えて、実は問題解決になっているのです。
それは、問題というのは、その人が問題だと思うから問題なだけだからです。受け入れてもらうことで心が軽くなるということは、問題視しなくなっているということ。つまり、問題が解消しているのです。
「徘徊するから鍵をかける。おむつの中の便をいじるからツナギを着せる、夜中に暴れるから睡眠薬を飲ませる…。こんなことさせられたら心のやさしい介護職ほど真っ先に辞めていきます。ウチでは介護のゴールは『信頼関係の構築』とスタッフに言っています。そのためには何をしてもいいと。施設に鍵をかける、というのは、爺ちゃん婆ちゃんを信用していないということ。だからウチでは鍵はかけない。外から鍵をかけられた、監獄のような場所にいて気持ちのいい人がいますか?そんなところで信頼関係が生まれますか?徘徊するなら、とことん付き合う。信頼関係ができれば、ここが居場所として落ち着ける場所になったら、徘徊という周辺症状は消えていきます。居たくない場所だから徘徊するんです。」(p.123-124)
この拘束の問題は、老人介護だけでなく障害者介護においても同様ですね。私は老人介護施設で働いていたので、拘束されるお年寄りを見てきました。だから、私自身は老人介護施設に入りたくないし、家族を入れたくもないと思っています。
けれども、本当にここにあるように拘束せずに上手くいくのか? という疑問はあります。この引用した文は、神奈川県の郊外で介護施設を経営する加藤忠相氏の言葉だそうです。信頼関係を作れば拘束は要らなくなるとのこと。
でも、意思の疎通さえできないお年寄りに対して、どうすればいいのでしょう? 徘徊すればずっと付き添うって、いったい誰が付き添うのでしょう? その介護士にも生活があるし、仕事の割当もあるのではありませんか?
この方以外にも、拘束は不要だと主張される方はいらっしゃいます。しかし、現場を経験した私には、それが可能だとはなかなか思えないのです。機会があれば、その拘束しない介護を体験させていただきたいものだなぁとは思いますが。
実際に繰り返し便いじりをするお年寄りの布団や衣服を洗い、ベッドや床をきれいに拭き、手を洗って爪に入った便を取り除いてあげるということを、毎日のようにやってみてください。それも暇な時間にするのではなく、食事前の忙しい時間にすると考えてみてください。どんなに心優しい介護士だって嫌になるでしょう。便いじりできないようにツナギを着せたり、ミトンをはめたくなってしまうのです。そういう介護士のつらい思いも、わかってほしいなぁと思います。
「でも、よく考えてみれば「何かあるに決まっているのが人生」。特に高齢の方々にとって人生はそんなに長い時間が残されておらず、その短い余生の最後に「何か」があって人生が終わるわけである。
その「何か」が何になるのか、何にするのか…。その人生の選択は本人の課題であって我々医療者の課題ではないのではないだろうか。
そう、実は「何かあったら困る」のは患者にもまして医者のほうなのである。」(p.128)
これは医療者だけでなく、介護者にも言えますね。家族もそう。つまり、周囲の人にとって、その人に何かあることが受け入れられないのです。自分たちの責任にされてしまうから。
では、その責任を押し付けているのは誰か? それは本人と言うよりも世間であることが多いように思います。何かあったら、まったく関係のない人たちから責任を問われる。日本にはそういう同調圧力があるのです。
そういう同調圧力があるから、医者が対処しなければ世間も家族もその医者を叩きます。だから医者はリスクを負えない。
では誰がリスクを負うのか? 本人しかいません。しかし、それが認知症になっているお年寄りとなると、どうでしょうか? 本人が責任を負うことにできますか?
わかっているのです。本当は本人の自由にさせてあげたい。でも、それを許さない空気がある。その空気に抵抗するのは難しいのです。
けれども、この風潮を変えていかない限り、私たちはみんなが誰かに押し付けられて自由を奪われる運命にあるのです。
「しかし、問題はどちらの立場に立つかではない。後述するように、どちらの立場に立っても本質は同じ、「他者の多様性を受け入れてあげられること」と「それでも味方でいてあげられること」だと私は思っている。」(p.131)
森田医師はコロナのワクチンを受けない考えですが、奥様は受けられたそうです。それを公開された時、批判するコメントも多々あったようです。奥様を説得すべきではないかとか、放置しておいてそれで愛と言えるのか、などなど。
私は、森田医師の考えに賛同します。なぜなら、愛は無条件だからです。無条件とは、相手がどうするかは相手に任せる、相手の自由にさせるということです。相手がどうであれ、それを受け入れるのが無条件の愛ではありませんか。
「もしかしたら、彼も孤独に一人で悩んでいたのかもしれません。患者さんの行動変容も、若手医師の行動変容も一緒なんですね。人の心を動かすのって「味方になる」ことからしか始まらないのかも…。」(p.144)
タバコをやめようとせず、糖尿と血圧の薬を出せという患者に、どう向き合えば良いかと悩む若い医師に対して、森田医師は「味方になること」をアドバイスしたのだそうです。つまり、まずは信頼関係を築くってことですね。信頼関係がない状態で上から目線で命令されても、誰も従おうとはしませんから。
そして、この若手医師に対するアドバイスも同様で、上から目線で正論を吐くのではなく、まずは受け入れて、味方になることが重要だと森田医師は思われたようです。
ただ、それがテクニックであっては意味がないと思います。目的が患者を変えることであるなら、味方になることがテクニック(方法)になってしまいがちです。
先ほどのワクチンの話でもあるように、目的が「味方になること」でなければならないと思います。つまり、愛することです。相手を完全に受け入れて、相手を信頼して、完全に味方になることです。ただ、自分がどう考えるかは正直に伝える。たとえ嫌われたり、反発されたりしようと。自分に正直であることです。
その結果、相手が変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。でも、その結果はどうでもいいのです。目的は、味方でいることですから。
「もちろん、国全体で集団免疫を得るためには若者のワクチン接種も必要、という議論はあるだろう。
ただ、リスクが限りなくゼロに近い若者に対して、
「国全体の利益のためなのだから、妊娠・出産などへの長期的な副作用のリスクには目を瞑れ」
という全体主義的な論調には大いなる違和感を感じる。強く反対の意を表しておきたい。」(p.154-155)
重症化しやすいお年寄りの命を守るために、ほとんど重症化しない若者もワクチンを打つべきだ、という主張も多々ありましたね。「(高齢者の)命と経済とどっちが重要なんだ!?」と迫る人もいました。
私も森田医師の考えに賛同します。リスクというのは、全体を見る必要があるのです。もちろん、考え方は人それぞれでしょう。だからこそ、一方的に押し付けてはならないと思います。
「病院は「治療の場」です。そこでは安全・安心が基本です。
「ノドにご飯を詰まらせたら大変!」と絶飲食、「転んで骨折したら大変!」とベッドの上で安静に。
病院でなにかあったら大変ですからこれは当然です。
でも古川さんは安全・安心を得た代わりに「生活」を奪われて寝たきりになってしまった。
「生活の場」に戻っただけで元気になって、昔の教え子にも会えるようになった。」(p.187)
末期の肺がんと認知症で入院していた古川さんは、寝たきりで話すことも食べることもできなくなっていたそうです。それが宮崎県の「かあさんの家」に入居したら、1ヶ月で自分でご飯をモリモリ食べるようになり、昔の教え子が訪ねてくれば昔話をして楽しむようにもなったのだとか。
これは、刺激のないただじっとしているだけの病院から、生活の場に戻ったことによる変化でもあるのでしょう。あるいは、ここには書かれていませんが、薬の影響もあるのではないかと思います。末期のお年寄りに対しても、たくさんの薬を飲ませる医者はいます。
本当に守るべきは命なのでしょうか? それとも、人間らしく生きることなのでしょうか? まさに、この本のタイトルで問われていることですね。
「今、夕張市では病院がなくなった代わりに、24時間対応の在宅診療、24時間対応の訪問看護がすべて揃っているんです。
夜中でも馴染みの医師・看護師が見に来てくれて、診察してくれて、家で点滴までしてくれる。」(p.192-193)
財政破綻した夕張市は、市民病院を1/10に縮小したそうです。ただし、在宅医療にシフトすることで、その穴を埋めようとした。それが功を奏したということのようですね。
豊かになった日本では、何が何でも大病院で最先端の医療を受けたい、と考える人が多いようです。けれども、そうすることが必ずしも生活の質に寄与するわけではないということが、この夕張市の実例からわかる気がします。
「これは少なくとも、経済学的な最適な状態=「限りある医療資源が全国民に適切な量だけ分配されている状態」とは言えないだろう。各都道府県によって医療の提供量がこれだけ違うのだから言い訳のしようがない。まさしく「市場の失敗」と言っていい。」(p.210)
県別に人口あたりの病床数と1人あたりの入院医療費を見てみると、相関関係があることがわかったそうです。つまり、病床数が多い県ほど、1人あたりの入院医療費が高くなっている。
その理由はいくつか考えられますが、病床があるのだから埋めてしまおうという考えが広まっている、ということだろうと思います。医療者は、入院した方が安全だし、その分、病院も儲かると考えるし、患者も入院した方が安全だと考える。そしてそれを容易にしているのが国民皆保険制度です。懐があまり傷まないのですから、安易に入院を選択するでしょう。
「こんな状況で、我々日本国民は「医療を自由競争・市場原理に任せてきてよかった」と言えるのだろうか。
もう一度言う。医療はビジネスには馴染まない。」(p.215)
森田医師は、医療がビジネスとして行われているからこういう問題が起こるのだと考えておられるようです。
しかし、私はそれは違うと思っています。医療界に自由競争なんてありませんよ。自由競争というのは、他の誰かの指示に従うのではなく、事業者が自分で考えて価格やサービスを決められるから成り立つのです。国民皆保険制度によって医療のサービスや単価を政府に決められている状態で、どうやって自由競争が行えるのでしょう?
これは保育もそうです。介護もそうです。政府が事業に関与し、売値を決めてしまっている。だから事業者は、その売上の中でコストを考えなければならない。だから保育士や介護士の報酬を上げることもできず、人手不足になっているのではありませんか。
医療もそうです。コロナで病床の増減に機動性を欠いたり、病床や医療スタッフの貸し借りもスムーズにできなかったのは、自由競争が邪魔したわけではありません。逆に、自由競争じゃないからできなかったのだと思います。
もし、サービスと単価を事業者が自由に決められたらどうですか? 病床が足りない県があれば、隣県の病院が「うちで引き受けるけど10%増しでどう?」というような取引もできたはずです。患者に対しても、「10%増しならすぐに入院できるけど、そうでないならしばらく待たないといけない。どっちを選びますか?」と、それこそ患者の自由意思を尊重できたはずです。
また、政府や自治体が運営するから、無用に病院を作って病床を増やし、医療費を増加させていたと言えるのではありませんか? 儲からなければ削減するという市場原理が働けば、病床数も適正に維持される。そのことを夕張市は示したのではありませんか?
日本では、何でも同一サービス同一料金が当然だ、という考え方が広がっていますが、世界ではそんなことはありません。タイでは、同じ路線のバスであっても、乗車賃が違います。サービス内容に違いがあるからです。乗客は、どのバスに乗るかを自分で選ぶことができます。日本には、そういう自由がないのです。
だから、タクシー業界を守るためにライドシェアが解禁されません。海外で利用した人なら、その便利さがわかります。けれども、利用したことがない人が、恐れ(不安)から反対しています。
自分が怖いなら、自分が利用しなければいいだけのことです。これまで通りにタクシーを利用すればいいではありませんか。それなのに、他人がライドシェアを望んでいるのに反対し、他人の自由を奪おうとする。
こういう自由がないのが日本の社会なのです。だから選択的夫婦別姓制度や同性婚制度の導入にも、関係のない人が反対する。ただ怖いから、不安だから反対して、それを願う人々の自由を制限しようとする。ぜんぶ同じ構図じゃありませんか。
そして、医療界も同様です。自由がない。規制ばかり。不安や恐れを背景に、政府がコントロールしようとする。どこにも自由競争なんかありませんよ。森田医師は、そこを正しく理解していないと感じました。
私は、この本で述べられている森田医師の基本的な考えには賛同します。ゼロリスクはないし、比較が困難なものを比較して何かを選択しなければならないなら、それは本人が決めるべきなのです。
だから私も、自由を奪われてまで長生きしたいとは思いません。ただ生きながらえるだけの人生はお断りします。
けれども、そういう自由が多くの場面で奪われているのが、今の日本社会なのです。ぜひ、そういうことを考えてみてもらえたらいいなぁと思います。
そして本書は、そういうことを考えるきっかけを与えてくれるものだと思います。
2023年09月21日
死を力に。
何を見て興味を持ったか忘れましたが、おそらく最近、SNSで発売を知って買った本ではないかと思います。
著者は、亡くなられた竹田和平さんの一番弟子と自称しておられる山本時嗣(やまもと・ときおみ)さんです。和平さんには他にもお弟子さんがおられて、Facebookでフォローしてたりするので、そういうところで縁があったのではないかと思います。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「この本は、
「死の恐怖」から解放されて
「死を力に」変えることで
「絶対幸福」を手に入れる本です。」(p.2)
まず冒頭にこう書かれていました。
私も、「愛の対極が不安や恐れだが、その最たるものは「死の恐怖」だ」と考えています。なので、どうやって死の不安や恐れを乗り越えるかについて、あれこれ考えてきました。そういう意味でも、この本に興味が湧きました。
「そんな中で、自分なりに20年以上、死についての研究を進め、理解と実体験を深めていった結果、ある結論に至ったのです。
それは、人は死んでも意識は残るということ。
また、大切な人の死は、強く生きる力に変えることができるということ。
そして、亡くなった人は、残される側の人たちにたった一つの「願い」を遺しているということ。
その願いとは、あなたが幸せであることです。」(p.5-6)
私もいろいろ考えてきて、今はこの考え方に納得できますね。
「あるとき、「お姉ちゃんたちは素晴らしい子だったから、仏さんのそばに行ったんだよ」とお坊さんに言われたことで、新たな疑問が湧いてきます。
「素晴らしい人はさらわれるの? 私はお姉ちゃんたちと違ってやんちゃな子だから取り残されたの?」
自分が生きていることへの罪悪感が芽生えた瞬間です。
ただ一人、高齢の住職さんだけは死への疑問に対し、「それはな〜ワシもわからんわ」と答えてくれました。このときが一番癒やされたのを覚えています。」(p.30-31)
どちらの気持ちもわかります。お坊さんは、慰めたくてそう言ったんですよね。死を悲惨なものではなく、もっと肯定的に捉えてくれれば、心が安らぐと思ったからです。けれどもそれを聞いた側は、その裏側を見てしまう。そのために落ち込む。
ただ、何を言われたとしても、捉え方(見方)はいろいろあるなぁと思いますがね。どう言うのが正解、ではないのですよ。
「和平さんは数多くの著作や講演でメッセージを残していますが、それらすべてに共通する「人生成功の奥義は何か?」と尋ねたとしたら、
「まろアップすればいいんだがね」
と答えてくれると思います。
では、具体的に「まろアップ」するにはどうしたらいいのでしょうか。
僕が和平さんに出逢った当時は、人生のドン底で苦しんでいるときでした。
そんな僕の困窮話から、親父の死、うまくいかないパートナーシップの話まで苦しい心境を正直に吐き出すと、和平さんはこう教えてくれました。
「君は『ありがとう100万遍』をしたほうがいいがね」
どういうことかというと、人生がうまくいかない人は「ありがとう」が圧倒的に足りていない。だから、「ありがとう」を1年間に100万回言うと、人生が自然にどんどん良くなるというのです。」(p.80-81)
小林正観さんも同じようなことを言われてますね。ちなみに1日3千回ほど「ありがとう」を言うと、1年で100万回以上になるそうです。1日10時間ほど意識して言えるとすれば、1時間に300回、1分に5回ですね。正観さんは期限を区切らず5万回だったと思います。いずれにせよ、最初は気持ちを込めなくていいから「ありがとう」といい続けるという行(ぎょう)ですね。
「では、僕たちが天へ意識を向けるには、具体的にどうすればいいのでしょうか?
それは、大切な故人の幸せを想いながら「祈り」と「感謝」をするだけで充分。
祈りと感謝で、僕たちの意識が瞬時に天とつながることによって、不安や苦しみ、絶望などさまざまなネガティブな感情を愛の意識で受け入れ、人生を肯定できるようになります。」(p.138)
逆に言えば、何があろうとも人生を肯定し、愛を選択すればいいってことですよね。
山本さんもそうですが、出来事は悲惨なことだったり理不尽なことだったり、ネガティブに思えることが起こるのです。しかし、そこでどういう見方を選択するかは、その人の自由です。ですから自分で、自分にとって都合の良い見方、感謝したくなる見方、愛を感じる見方を選択すればいいのです。
「もうそろそろ、神様と人間は同じ志を成し遂げるためのパートナーとして「フラットな関係性」で付き合ったほうがいいと思っています。
なぜなら、神様意識で生きる人は、お互い相思相愛になって、神様の志や願いを肉体がある人間が代わりに叶えるという、持ちつ持たれつの間柄になれるからです。」(p.177-178)
ここで言う神様とは、日本の神様で、いわゆる八百万の神々です。和平さんはえびす様をメンターとし、あるいは生まれ変わりと思って生きておられたのだとか。山本さんも、それを受け継いでいると言われています。
日本の神様は、だらしないところがあったり、失敗したりと、どこか憎めない親しみやすいものがありますからね。そういう意味では友だちになるのも容易だし、近づきやすい存在かもしれません。
私がおすすめする「神との対話」でも、そのシリーズに「神との友情」という本があるように、神と友情を結べるとあります。対等な関係なのです。ただこっちは一神教ですから、よりハードルが高いかもしれませんがね。
でも私は、そもそも神と我とは一体だという観点に立つなら、この世のことはすべて神との共同作業とも言えるわけで、そもそも神とは友だち関係であるという見方もあると思っています。
「彼らは最期、家族と日本を守ることに少しでも役立ちたいという思いをもって、未来の日本の幸せを願い、自ら志願して逝ったことがわかりました。
だからこそ、彼らが遺した最後の写真(遺影)は、みんな爽やかな笑顔なのです。あの笑顔は、僕たちの幸せな未来を願っての笑顔だと僕は信じます。
英霊の想いを知って、僕は強く気づかされました。
「僕たちは幸せに生きなければいけないんだ。彼らが本当は生きたかったように、幸せに豊かに生きることが、僕たちの ”義務” なんだ」と。」(p.198-199)
私も知覧へ行ったことがありますが、山本さんはこのように思われたそうです。
ただ私は、幸せに生きる義務があるとまでは思いません。「義務」という言葉は、何だか重くのしかかるんですよね。私たちは本来「自由」ですから、その自由な意思で、幸せや豊かさを選べばいいと思います。私は、もっと軽やかに生きることが大事だと思うのです。
「これだけ読むと、「何を言っているんだ! 不謹慎な!」と思われるかもしれませんが、ここでお伝えしたい重要なことは、
「亡くなった肉親が、実は ”家系のカルマ” を、死をもってすべて解消してくれた」という可能性があり、そうとらえることができるということです。」(p.200)
山本さんは、自殺や非業の死も、家系のカルマを解消することだから感謝できると言われます。
う〜ん、こう言っちゃうと重くなるし、矛盾が生じるんだよなぁ、というのが私の正直な感想です。だって、自殺でカルマを作るとも言ってるじゃありませんか。どっちなの? もし、正しく生きた人が理不尽に追い込まれて自殺すればカルマを解消できると言うなら、カルマの解消は自殺じゃなく、理不尽な目に遭っても正しく生きるってことじゃありませんかね? では、「正しく生きる」とはどういうことでしょう? 世間の言う「正しさ」に従うことですか? それとも、それに反しても自分の生き方を追求することですか?
まあ、考え方はいろいろあるので、家系のカルマを解消したんだと信じられて、それで気持ちが軽くなって感謝できるのなら、それでもいいのだろうと思います。でも、そうであれば重要なのは、自分の気持が軽くなる見方を選ぶことであり、何があろうとも感謝して生きるってことになりませんかね?
スピリチュアル的なことがまだよくわかっていない人にとっては、こういう山本さんのような言い方の方がわかりやすく腑に落ちやすいのかもしれませんね。そういう意味では、私も同感です。
ただ、今の私からすると、ちょっと物足りない。もっと本質に切り込んでほしいなぁと思ってしまいます。より本質的なメッセージを発する人が増えれば増えるほど、全体の意識が変わっていきやすくなるからです。
なので、まだ死が怖いと本気で怯えているような人、自殺したくなるようなうつ症状がたまにあるような人は、こういう本を読んだらいいんじゃないかと思います。
2023年09月12日
古事記転生
どこで見たのか忘れましたが、面白そうだと買った本です。
著者はYoutuberのサム(アライコウヨウ)さんです。Youtubeのチャンネルは、TOLAND VLOGで、神話系のYoutuberとして有名な方だそうです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
ただしこの本は小説ですので、なるべくネタバレにならないよう引用を少なめにしたいと思います。
まずは物語のあらすじですが、主人公は著者と同じ名前のサム。兄と一緒にバーを経営しています。ある日、常連客のワタリさんにナイフで刺されて、そこから神話の世界に転生することになります。転生したのはナムチと呼ばれる神様。すぐにわかりますが、後の大国主命(オオクニヌシノミコト)です。
転生したサムは、ナムチそして大国主として生きる中で様々な気づきを得て成長していくのです。
「この世界の大原則を一つ教えとくわ。それは、”自分で気づく”ってことやねん。どっかのすごい人に答えっぽいことを教えてもらってわかった気になってもな、ホンマは全く意味がないねん。自分が体感して、心から気づく。これしか次のステップに進む方法はないねん。そんで、そこをクリアしないと人生の中で何回も似たようなピンチが起こるんやで。」(p.43)
ナムチに転生したサムの頭の中で、タマちゃんと名付けた指導霊のような存在からの声が聞こえたのです。
「「身近にある例でいうと、サムみたいに恋人からフラれるパターンが何回も続いたとするやんか?」
「おい、そのたとえ話やめろよ! 傷つくぞ!」
「酷な話やけど、毎回フラれるとか浮気されるってことは、サム自身にも何かしらの問題があるわけやん?」(p.115)
これはまさにこの通りですね。私も、失恋という同じような体験を繰り返しましたから、よ〜くわかりますよ。(笑)
「人々は当たり前のように自然に感謝し、自然を畏れ、自然の一部として生きている。必要以上のものは取らず、食べず、所有しない。
人々は日々のコミュニケーションを楽しみ、食べ物や物資のやり取りを純粋なギブの精神で循環させている。
病気や出産などで命を落とすことも多いが、死も一つのサイクルとして受け入れられている。」(p.188)
「それにしてもどうして、何一つとして現代人が知らないことばかりなんだろう?
これだけ世界が豊かなことを知っていれば、日常の些細な比較で一喜一憂しなくても幸せに生きられるはずなのに……。日本人はいつ ”この感覚” を失ってしまったんだろう。」(p.188)
大国主は、息子のスクナヒコと一緒に全国を回りながら、国造りとして人々に豊かに幸せに生きる術を教えていました。その当時の人々の様子を見ると、現代人のサムの視点からは、何もないように見えて実は非常に豊かだと思えるのですね。
「目とは視点とも言い換えられます。目が一つしかない人は、人のいいところを一つしか見つけられない。例えば、頭がいいとか、家を建てるのが上手とか。頭がいいという目しか持っていない人は、自分の思う頭のいい人しか褒めないし、認めない。目が少ないと、その目に入る人しか褒めないし、認めないし、それ以外の人との交流を避けるようになります。それは心が貧しい証拠だから、目をたくさん増やせって教えてくれました。目が増えれば増えるほど、人のいいところがいっぱい見つかるから人生が豊かになるって」(p.191-192)
息子のスクナヒコは、父の大国主から教わったことだと言って、このようなことを話しました。
「豊か」か「貧しい」かということも、見方次第なのです。見方とは視点でもあるし、価値観とか価値基準とも言えます。どこに基準を置くかによって、同じ状況が「豊か」にもなれば「貧しい」にもなるのです。それが「相対的」ということですね。
視点が増えれば、どんな人を見てもすべての人の中に素晴らしいと言える点を探せるでしょう。人はそれぞれ「違う」だけであり、その「違い」をどの視点から眺めるかによって、それは「素晴らしい」とも言えるし、そうでないとも言えるのですから。
このようにしてサムは、様々な気づきを得ていきます。そして再び現代に戻ったサムは、今生の自分の課題と向き合うことになるのです。
書かれている内容は、実に本質的です。著者はいったいどんな人なのかと思ってYoutubeチャンネルを見ると、ほんとどこにでもいるような現代の若者なのですね。
最近は、こういう若者が増えてきているように思います。もう最初から悟っていると言うか、わかっちゃってるという感じの若者。だから私は、日本の未来は安泰だなぁと思うのです。
それに、この名前がいい。「アライコウヨウ」さんですか。この名前で私が反応したのは、タイ語の「アライコダーイ」や「アライコヨーム」に似ていたからです。
「アライコダーイ」は「何でもいい」という意味です。そして「アライコヨーム」は「何でも許す」という意味。どちらの言葉も、実に本質的だなぁと、改めて思います。そう思いませんか?
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2023年08月06日
「繊細さん」の本
これも何を見て興味を覚えて買ったのか忘れましたが、おそらく1年以上前に買った本になります。やっと読むことができました。
著者は武田友紀(たけだ・ゆき)さんで、HSP専門カウンセラーをされています。HSPというのは「Highly Sensitive Person」の略で、この本で言うところの「繊細さん」です。敏感で、他人の気持ちがビシバシ伝わってきてしまうような人。こういう人が5人に1人いるのだそうです。
そういう繊細さんが楽になって、楽しく生きられるようアドバイスをされているのが武田さんです。本書は、その武田さんの解決手法がたくさん書かれていました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「背の高い人が身長を縮めることができないように、繊細な人が「鈍感になる」「気づかずにいる」ことはできません。生まれつき繊細な人が鈍感になろうとすることは、自分自身を否定することであり、かえって自信や生きる力を失ってしまいます。
本書でお伝えする「繊細なままで生きるアプローチ」は、「鈍感になる」「心を鍛える」といった方向性とは全く逆。
繊細な人は、むしろ自分の繊細な感性をとことん大切にすることでラクになり、元気に生きていけるのです。」(p.4)
冒頭でこのように武田さんは言われています。自分を変えることなく繊細なままで楽に生きられるというのですね。
「自分にとって「いいもの」を感じるのも「痛い・つらいもの」を感じるのも、同じ繊細な感覚です。
寒さ、暑さの一方だけを感じることができないように、繊細さんの感覚もいいものだけを抜き出して感じることはできません。」(p.25)
繊細さんが敏感なのは、ネガティブなことだけではなく、ポジティブなことも同様なのだそうです。
「繊細さんに必要なのは、痛みやストレスに耐えられるよう自分を作り変えることではありません。平気なフリをすることでもありません。
繊細な感覚をコンパスに自分にとっていいもの・悪いものを見分け、自分に合う人間関係や職場環境に身をおく。
「私はこれが好き」「こうしたい」という自分の本音をどれだけ大切にできるかが勝負どころなのです。」(p.27)
ネガティブな影響に対して強くなることではなく、ポジティブになれる方へ自分を持っていくことが重要なのですね。
「意識しなくても同僚の感情や場の雰囲気を感じてしまうというNさん。人とじっくり1対1で話すのは好きな一方、職場の飲み会など大勢で盛り上がる場は苦手です。」(p.32)
そう言えば私もそうだなぁと思いました。大勢とか初対面が嫌いです。仲間内の飲み会でも、それが楽しくても、二次会まで行く気がしません。疲れてしまうのです。
「同僚が食器を並べるのを見ていて、ハラハラするんです。そんなところにお水を置いちゃうとお客様の肘が当たって落ちるんじゃないかとか、後のことを考えて、そのお皿はもう少し右側に置いたほうがいいのに、って。なんでみんながあんなに雑に仕事ができるのか、わからないんです」(p.35-36)
ある繊細さんの言葉なのですが、私の心を読まれたのかと思いましたよ。(笑)
私も、前の老人介護施設での仕事で食事の準備をする時、このように感じていました。
「繊細さんが、まわりの人よりもささいなことに取り組む傾向にあるのは確かですが、それは完璧にこなそうと思っているわけではなく、ただ「気がついたから対応しているだけ」「リスクを防ごうとしているだけ」。完璧主義とは別物なのです。」(p.37)
私自身、自分のことを完璧主義者だと以前は思っていました。でも、こう言われてみると確かに、完璧を目指したと言うより、気づいたからしょうがなく対処しようとしたとも言えますね。
繊細さんは、気づくからあれこれ考えてしまって、やることがたくさんになってパニックになることがあるそうです。では、そんな繊細さんはどうすればいいのでしょうか?
「「あれやってからこれやるのがいいんだけど、あれは今できない……とりあえずこれからやっておこう」
最初のうちは「本当はああするほうがいいのに!」と落ち着かないかもしれません。でも、何度かやるうちに「ベストじゃなくても、物事が進む」ことを実感できます。」(p.41)
私もパニックになりそうな時は、「1つずつ、1つずつ」と自分に言い聞かせ、目の前のことに集中するようにしていました。
「あれもこれもと頼まれて焦る。仕事が山積みだ。
そんなときの合言葉は「一つひとつやっていこう!」です。」(p.163)
どうせ一度に全部をやれないのなら、まずは目の前の1つに集中すること。それが終わったら、次をやること。それだけですね。
「それは、相手の感情であれ仕事の改善点であれ、「気づいたことに半自動的に対応し、振り回されている」ということです。
逆に言えば、繊細さんが元気に生きるためには、この自動応答を切ることが必要です。気づいたときにわずかでも踏みとどまって「私はどうしたいんだっけ?」と自分に問いかけ、対応するかどうか、また対応するならその方法を、自分で「選ぶ」ことが必要なのです。」(p.52-53)
気づいてしまうから何とかしなければと感じ、何とかしようとしてしまう。それが繊細さんの癖。だから苦しくなってしまうのですね。
気づいてしまうことは繊細さんの特質ですから、これを変えようとするのではなく、次の段階のどう対処するのかを考えることが大事だと武田さんは言います。
「一時的に対処しなければならないときも、感覚を閉ざすのではなく、ストレスのもとになるさまざまな刺激を「まずはモノで防ぐ」こと。そして、最終的には感覚を閉ざさずすむよう、ストレスの大きな場所や相手とは距離をおくことが必要です。」(p.62)
次に重要なのが、物理的に刺激の量をコントロールすることですね。先ほどの飲み会の例で言えば、なるべく人数の多い飲み会には参加しない。そして私のように、一次会には参加しても二次会は参加しない。そのように、自分で刺激を減らす工夫が必要なのです。
「繊細さんと非・繊細さんの感覚の違いは、繊細さんの想像をはるかに超えています。
どんな人にもどこかしら繊細なところはありますし、非・繊細さんが繊細な感覚を全く持たないというわけではありません。ただ、繊細さんはとりわけ感じる力が強いため、「相手も自分と同じように感じているはず」と思って非・繊細さんに接すると、思わぬすれ違いが生じ、誰も悪くないのに傷ついてしまうことがあるのです。」(p.92)
そう言えば私も若い頃は、ナイーブで傷つきやすい性格でしたね。(笑)
「自分の本心を抑えて相手を優先していると、「優先してもらうのが好き」な人がまわりに集まります。「相手を優先するあなた」がよしとされるので、自分の意見や感じ方に自信がなくなり、ますます自分を出せなくなってしまう。
自分を出さないようにして「殻」をかぶっていると、その「殻」に合う人が集まってきてしまうのです。」(p.97)
ネクラな自分を否定して、無理して明るくなろうとしていると、明るいことが良いことだというエネルギーを持った人が集まるため、ますます苦しくなってしまうのです。
「でも、わかるのは、怒っているな、イライラしているな、という相手の感情(機嫌)まで。「相手がなぜ今、その感情になっているのか?」という「感情の理由」を正確に当てることはできません。感情の理由は、あくまで頭で推測したものだからです。
人は自分に負い目があるとき、負い目に注目しがちです。
たとえば「自分は仕事が遅い」と思っていると、上司がイライラしているときに「自分の仕事が遅いからだ」と思ってしまう。」(p.113)
たしかにそうですね。繊細さんは、相手の感情には敏感ですが、その理由まで正確に理解しているわけではないのです。
実際、こういう面倒くさい人もいましたね。自分は嫌われると思っている人が、他人のちょっとした行動を曲解して、自分が嫌われたと思っていじけてしまう。(笑)
「非・繊細さんと上手にコミュニケーションするためには、自分の感覚をわかってもらおうとするのではなく、やってほしいことを言葉ではっきり頼む必要があります。」(p.145)
これは何も非・繊細さんに対してだけではなく、相手が繊細さんでも同じだと思います。所詮他人はわからないのです。だから、何も言わずにわかってくれという方が無理なのです。
「繊細さんどうしなら以心伝心、なんでもうまくいくのか? というと、そうではありません。
ふたりとも繊細だというご夫婦は、「察してよ、と思っていたときはうまくいかなかった。でも、言葉で伝えるようになって、どんどん仲良くなっていった」といいます。」(p.153)
感性も考え方も、人それぞれなのですよ。
「介護施設で働くKさん。夜勤もこなす彼女は、職場で休めないという悩みを抱えていました。夜勤で一緒になる同僚は「聞こえてないのかなと思うぐらい」コールに出てくれないため、いつも自分が対応しているといいます。」(p.175)
「そんな彼女に、私から「率先して動くのをやめて、職場でぼーっとしてみよう」と宿題を出しました(もちろん介護施設の利用者さんに危険のない範囲で、です)。
すると、どうなったでしょう。コールが鳴ると同時に手を伸ばしそうになるのを一瞬だけこらえることで、同僚がコールをとるようになったそうです。」(p.175-176)
この同僚は、やりたくなくて怠けていたわけではなく、自分がやろうとするタイミングよりも早くKさんがコールを取るので出番がなかっただけなのでした。
私も老人介護施設で働いていて、似たようなことがありました。わざと何もせずに放っておいて、同僚がやるよう仕向けたこともありました。
でもね、そうするのは私らしくないと感じたんですよね。だから、損か得かじゃなく、私らしく生きようと思って、同僚がどうするかに関係なく、私が私のタイミングでやったらいいじゃんと思ったのです。
もちろん、時々は怠けましたけどね。(笑)
「誰かの機嫌が悪いと気づいたら、「機嫌悪いんだなー」と思うにとどめ、あとは放っておいてください。
とはいえ、不機嫌な人のそばにいると落ち着かないもの。お手洗いに立つ、他の場所で作業するなど、できるだけ相手から離れましょう。」(p.184)
これは斎藤一人さんも言われていることですね。機嫌は自分で取るものです。他人の機嫌を取ってあげる必要はなく、取ってあげてはいけないのです。他人には、機嫌が悪くなる自由があるのですから、他人の自由に任せることですよ。
そして、前にも出てきたように、できるだけネガティブな刺激から物理的に離れることです。
「繊細さんが、自分のままで元気に生きる鍵。それは、自分の本音−−「こうしたい」という思いを、何よりも大切にすることです。」(p.221)
「こうすべき」というのは他人の思いです。そうではなく、自分が楽しくなるような「こうしたい」という思いに従うこと。
もちろん、「他の職場で働きたい」というような大きなことはすぐにはできなくても、「不機嫌な人から離れて1人になりたい」と思うなら、今すぐそうすることです。
この本を読んで、私も実は繊細さん(HSP)だったんじゃないかなぁと思いました。たしかに若い頃はナイーブで傷つきやすかったし、他人に対して過剰に期待していました。
歳を重ねることで、徐々に自分の思いで生きられるようになってきて、今は幸せに生きられています。でも、繊細な感性というのは変わっていないなぁとも思います。
もし今、自分の繊細な感性によって苦しんでいる人がいるなら、こういう本を読んでみるのもいいかなぁと思いました。
バスが来ましたよ
何を見て買おうと思ったのかすっかり忘れてしまいました。届くまで気が付かなかったのですが、これは絵本だったのですね。
「第15回MOE絵本やさん大賞第10位」と帯にあり、話題になった絵本のようです。
著者は、文が由美村嬉々(ゆみむら・きき)さん、絵が松本春野(まつもと・はるの)さんです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を・・・と思ったのですが、これは実話を元にした物語であり、また絵本という特性から文が少ないのです。なので引用はやめて、ストーリを紹介しながら、感じたことを書いてみようと思います。
主人公は、市役所に勤める男性。目の病気になり、10年後にはまったく見えなくなったのですが、それでも仕事を続けようと思い、通勤する訓練を重ねてきました。そして不安ながらもやっと、何とか1人で通勤できるまでになったのです。
そんな時、1人の少女からバス停で声をかけられます。「バスが来ましたよ」と。
その時から、通勤時の少女との交流が始まります。
私はふと、実家で一人暮らしの父のことを思いました。
父は数年前、加齢性黄斑変性症によって、ほぼ失明という状態になりました。明暗はわかるし、視点の下側に何かがあることはわかる程度の視力はあります。しかし、読むことはおろか、何があるのか視覚ではっきりと捉えることができません。
そんな父のことを心配し、妹などは一時パニック状態になっていましたが、父は「何とかなる」という思いでいたようです。
さすがに1人で外出することはできませんが、介護保険を使いつつ、近所の人の助けも借りて、日常生活ができるようになっています。
食材は買ってきてもらい、一部はお弁当という形で届けてもらっています。火を扱うのは危ないので、父が自分でする調理はレンチンだけですが、私もそうなので、それで十分だろうと思っています。
通院時には、ヘルパーさんが付き添ってくれるようです。掃除もしてもらえるし、家の中の移動は手探りで何とかなるので、入浴も排泄も1人でこなせているようです。
とは言え、見えないということは、心細くなることもあるんじゃないかと思っています。
この絵本の主人公も、1人で通勤はできるものの、バスが来たことを教えてもらったり、乗口の場所まで案内してもらうだけで、随分と助かっているようでした。
この初老の男性と少女の縁は、さらに広がっていきます。そして、いつしか男性も定年を迎え、この関係は終わるのです。
関係は終わっても、心に残るものはあります。その温かさ、豊かさが、この男性だけでなく、助けた方の少女の方にもある。そういう気がしました。
誰かを助けるという行為は、一方通行的なものではなく、双方行的なものだと思います。
与えているようで、実は与えられている。そんな風に思うのです。
こういう絵本を子どもに読んであげることで、いろいろと考えるきっかけになるといいですね。
ほっこりする物語を、ありがたく思いました。
2023年08月05日
錯覚する脳
もう随分と前になりますが、「人生を変える幸せの腰痛学校」の著者、伊藤かよこさんがお勧めしておられたので買った本になります。やっと読むことができました。
サブタイトルに「「おいしい」も「痛い」も幻想だった」とあるように、私たちが何気なく事実だと思って感じているものが、実は脳が創り出した幻想に過ぎない、というような内容です。伊藤さんは腰痛に関していろいろと思われるところがあり、腰痛は何らかの原因があって生じているだけではない、ということをおっしゃられていました。だから、無理に原因を何とかしようとするより、別のアプローチの方が効果的だということですね。
著者は前野隆司(まえの・たかし)教授。研究分野は広そうですが、脳がどう機能しているのか、という観点で研究されているようです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「自分で言うのも厚かましいが、衝撃的な本だ。死んだ皮膚の表面に痛みを感じるという衝撃、音が音源のところから聞こえるという衝撃、色という、この物理世界にはないものを人は感じてしまうという衝撃、ねたみや恨みや畏れや優越感や幸福感という、世界のどこにもないものを人は感じてしまうという衝撃。あたりまえに世界に存在すると私たちが思い込んでいる様々なものごとが、簡単で誰もが知っている科学からの演繹によって、実は、幻想、イリュージョンとでも呼ばなければ説明のできない事柄なのだとわかった時の衝撃。そんな、かつて私も感じた衝撃を、読者の皆さんにも共有して頂けたならうれしく思う。」(p.11-12)
「心は幻想で錯覚でイリュージョンというところからスタートすれば、「心の哲学」など不要で、心への疑問は、すーっと腑に落ちる納得感とともに解消されるはずだ。それに気づかずに問題を難問だと言い続ける「心の哲学」は不毛であるばかりか、人類を無駄に悩ませ続けているのではないか。心は所詮、幻想で錯覚でイリュージョンだということを、現代の人々にもっと分かり易く伝えるべきではないのか。
このようなモチベーションが、本書の原動力となっている。」(p.13)
文庫版のまえがきに、前野教授はこのように書いています。つまり、私たちの心(意識)というものは脳の派生物であり、イリュージョンだという主張です。そうすれば、心の問題は難しい問題ではなく、単にイリュージョンなんだからと軽く考えられるということのようです。
「できれば、いろいろな方が、読み終えた後で、確かに心ははかない幻想だなあ、でも、それって単にむなしいだけの絶望感とは違い、すばらしく幸せな考え方なんだなあ、と実感してくださるならば幸いである。」(p.19-20)
プロローグにはこう書かれています。つまり、心はイリュージョンであるからこそ、幸せになれるという考え方を、本書で示そうとされているのです。
「私は、幼いころから、できることならばこの私というもの(霊魂としての私)が不滅の存在であってほしいと思っていた。しかし、残念ながら最近はどうしてもそうは思えない。
今の私は、私たち人間は虫けらと同じ単なる生物に過ぎないと思う。この豊かな感受性と豊かな心の質感を持つ私たちの心というものさえも、虫けらの脳にちょっと付け加えられた機能に過ぎないと思っている。」(p.23)
「一方、目的論的機能主義からみると、物質の振舞いとは独立な現象的意識が進化的に生じるとは極めて考えにくい。私は、そうではなく、心身一元論に立脚し、脳のニューラルネットワークによって、意識の現象的な側面が(あくまでイリュージョンとして)作られていると考える。
心身一元論に立脚するか、二元論に立脚するかは、先ほども述べたように、一種の信念だ。神を信じるか否か、あるいは自由主義と共産主義はいずれが本質的と考えるか、と問うのと似て、個人個人の過去の深く長い経験から帰納して、どちらが直感的に妥当だと考えるかを選択するしか、残念ながら形而上の議論にピリオドを打つ方法はない。」(p.48-49)
このように前野教授は、自分の直感からして脳がイリュージョンとして心を生み出しているだけであり、脳(身体)とは別に意識(心、魂)が存在するという二元論には賛同できないと言われています。
「つまり、物理的にさすることも重要だが、人が触ると思うことによる精神的な安心感が重要らしい。
したがって、大人も子供も、「痛いの痛いの……」とおまじないをいって、さすったり他のことに注意を向けさせたりすれば、痛みを和らげることができるのだ。」(p.96-97)
痛みを緩和させる具体的な方法として、さすればいいと前野教授は言います。これは、他の刺激によって痛みの刺激を忘れさせる(分散させる)という効果と、他の人に何かをしてもらったという精神的な作用があると考えられるのだそうです。
私も、レイキは痛みに強い(効果がある)と実感しているのですが、そういうことがあるのかもしれませんね。
「私たちは普通にものを見ていると思っているが、そうではない。色や明るさは目と脳が作り出したものであり、本来世界には存在しない。だから、目の前にこんなに鮮やかで巨大な空間が存在しているように見えているということは、ものすごいイリュージョンなのだとしか言いようがないのだ。」(p.137)
「見える」というのは、目に飛び込んでくる様々な電磁波の中から光と呼ばれる特定範囲の電磁波を、その周波数や強度や方向に応じて脳内にマッピングして描きあげたイリュージョンなのだと言います。たしかにそうですね。
たとえば犬は色がわからず白黒の世界を見ていると言われますが、要は周波数を区別していないということなのでしょう。人間は、周波数を「色」という概念で置き換えてイメージしている、ということですね。
「物とエネルギーだけは存在するといったが、五感なしには、物とエネルギーの概念を定義することも理解することもできない。したがって、物とかエネルギーという名前を付けることもできない、物とかエネルギーとは呼べない、なんでもない何かしか存在しないということになる。
感覚がなければ、宇宙など、ないも同然だ。もちろん、名前の付けようもない「それ」は存在しているのだが、もはや存在しないのと大差ない。」(p.148)
この部分を読んで、実に「神との対話」で言われていることと似ているなぁと思いました。神は絶対的な存在であり、したがって神が何かという定義ができないのです。「あってあるもの」「存在のすべて」と便宜上は言ってみるもものの、「それ」でもかまわないのです。
なぜ定義できるようになるかと言えば、この相対的な世界においてだけなのです。相対的だから「これ」と「あれ」を区別することができ、それに名前を付けることが可能になります。したがって、相対的な世界と、それを感じられる私たちの感覚(五感)というものは、密接不可分のものだと思います。
「天国があったとして、その世界にいる人は、身体がない。感覚器官もない。だから、感覚はないはずだ。逆に、死後も視覚などの感覚があるのだとしたら、生きている人の視神経や脳が視覚情報を作る必要はないことになる。なぜなら、死後の感覚というような便利なものがあるのなら、わざわざ脳というハードウエアでそれを実現する必要がないというものだ。死後に感覚があるのだったら、この現実に存在している感覚器官は何のためにあるのか、ということになってしまう。」(p.150)
つまり、五感を持った身体があるということが、死後も生前と同様にいろいろ感じられる心や魂が存在しないことの強力な証拠になっているということですね。
もちろんこれでは完全な証明ではないのですが、一理あります。けれども私は、「神との対話」の立場からすると、魂はエネルギーを直接的に感じ取る、五感とはまた別の感覚器官によって、身体を持つ私たちが感じるのと似たような何かを感じているのではないかと思っています。
そもそもすべてがエネルギーによって創られているのだとすれば、わざわざ視覚、聴覚、触覚、味覚のように別々の感覚器官を使わなくても、直接そのエネルギーを感じ取ればいいだけです。それができるのであれば。
しかし相対的な世界で神ではないものとして生きるという経験をしたかった私たちは、そういう便利な機能を封印し、わざわざ不便な別々の感覚器官を使うようにしている。そう考えることもできると思っています。
「話がそれたが、「価値」はイリュージョンだ。絶対に。私はそう思う。
もちろん、基本的な価値といわれる「真善美」だって、イリュージョンだ。
絶対的な「真」なんてない。たとえば、物的一元論と心的一元論はどちらが正しいか、という問いには答えは出せない。
絶対的な「善」だってない。ある立場における善が、他の立場ではそうでないことは、よくあることだ。たとえば、戦争中に敵を殺す事は、その国においては善だ。
絶対的な「美」もない。文化が異なると、美の解釈も異なる。西洋的な顔が美人というのは最近の事であって、鎖国時代の美人は浮世絵の顔だったのだ。
もちろん、絶対的な真善美などないと言ったら、近代哲学者カントは納得しないのだろうが、その後、構造主義からポストモダンへと発展する現代哲学は、明らかにニヒリズムへと向かう。したがって、すべてがイリュージョンだという考え方は、現代哲学の主流から見ると、むしろ当然といってもいいのかも知れない。
愛だってイリュージョンだ。
愛は、かけがえのないものであるように感じられるけれども、マズローの欲求の段階説の中では下の方に位置する。「生理的欲求」「安全欲求」の次が、「所属・愛情欲求」だ。また、愛する事の生物的な役割は子孫繁栄だから、「生理的欲求」に関与するといってもいい。」(p.226-227)
価値観が相対的であり、絶対的でないというのは、その通りだと思います。それぞれがどう考えるか、その見方次第です。だから、それをイリュージョンと呼ぶのもわかります。
しかし最後の「愛」に関しては、ちょっと考察が足りないようにも思います。「愛」が「生理的欲求」であり、子孫繁栄の潜在的な欲求だとすれば、同性愛はどうなのでしょう? 子どもを必要としない異性愛、閉経後の老齢者の恋愛はどうなのでしょう? それに「愛」は、パートナーに対するものだけでなく、親子関係はもちろんのこと、友だち関係もあれば、広く普遍的な博愛もありますよ。
「幸福感のクオリアなんて、気の持ちかたに依存して、勝手に湧きあがってくるイリュージョンに過ぎない。だから、金持ちになったってしょうがないし、貧しさを悲観する事もないのだ。
むしろ、生きている事が「儲けもの」だと思えば、それだけで幸せだと感じられないだろうか。」(p.223)
まさにおっしゃる通り! 私たちがどういう思考(考え方、見方)をするかによって、幸せにもなれれば不幸にもなれるのです。
そして重要なのは、その「気の持ち方」を私たちは自由に選択できる、ということです。たまたま選んだ「気の持ち方」でも感情が湧いてきますが、自分が意図して選んだ「気の持ち方」でも同様です。つまり、幸せは自分の意思で選べるということだと思います。
そうであれば、幸せがイリュージョンだとしても、それを私たちは意図的に創り出せるということです。イリュージョンだと知って創り出せるのが脳の機能だとすると、脳はなぜそんな機能を持っているのでしょうね? 虫や動物のように、本能で生きているだけで十分なはずなのに、なぜ人は、そんな機能を脳に持つようになったのでしょう?
エントロピーの法則からしても、勝手にそう進化したというのは科学的に矛盾します。そう進化することが生存において優位であるからという理由でもなければ、進化の正当性を説明できないと思うのです。
「心のクオリアが確固として存在すると考えようとするから、死ぬのはいや、という気持ちになるのだ。そうではなく、もともと何もないのだし、たまたま、意識というイリュージョンを堪能できる、人間という生物の意識として生まれでてきたことに感謝しようではないか。イリュージョンを感じられるうちに大いに楽しもう。所詮はかないイリュージョンなのだから、脳が停止したらイリュージョンも停止するのは仕方がない。また、何もない状態に戻るだけだ。眠るのと大差ない。「永眠」とはよくいったものだ。」(p.238)
「どうせ無に帰すのだからむなしい、と感じられる方もおられるかもしれないが、もともと無だったところに新たなデザインをしてみるささやかな楽しみだ、と思えばクリエイティブだ。
はかない人生なのだから、やりたいようにやるしかない。
といっても、自暴自棄はいけない。
人生のデザインは、数十年間陳腐化せずに持続するものであるべきだろう。ささやかとはいえ、死ぬまで数十年というそれなりの期間、ハッピーでいるに越したことはないので、現在と未来をハッピーにするようなデザインであったほうがいい。」(p.238-239)
前野教授は、人間として生まれて幸せを感じることができる脳を持ったのだから、せっかくだからそれを楽しんで生きたらいいと言います。無神論で生きることの意義を考えると、こうなるのでしょうかね。
ただ、どうしてもニヒリズム感が漂います。どうせ無ならと自暴自棄になるのはもったいないと言うことでしょうか。しかし、自分の考え方をどうしても変えられないと感じている人からすると、どうせ無ならと自暴自棄になることも大したことではないじゃないか、と言われそうです。そう言われたら、反論ができませんね。せいぜい、幸せに生きた方がいいじゃないか、と言えるだけで。
それに、精神を失うから死を恐れるとしたら、無神論の方が恐れるのではないでしょうか。有神論なら、死後も精神が残ると考えることもできるので、そうであればむしろ、死を恐れない可能性が高くなります。
無神論で死を恐れないのは、どうせそもそも価値がないものだから、ということに帰結します。そして、そもそも価値がないのであれば、自死も他殺も、どうでもいいじゃないかとも言え、それこそ自暴自棄になりやすいことになります。
前野教授も、そのことを無意識に怖れて、こういうことを書かれたのではないかと思います。
まあそれはさておき、無神論(魂が存在しない)という立場で考えてみても、有神論と似てくる部分があるなぁと感じました。結局この世は相対的だという認識においては、一致していると思うからです。
では、そこに生まれてくることに何か意味や意義があるのか、という点で、無神論は何もないとしか言いようがなく、有神論はそこに神の意図があったと言える。その違いかなと感じました。
脳が心を創り出しているという考察は面白いものがありましたが、脳が心(精神)の受信機だという説を否定するものではないと感じました。
ただ、その脳によって、本来の現実とは違うものを私たちは五感で感じ、脳の中に幻想を創り出しているという考えは、たしかにそうだなぁと思いました。
2023年08月01日
すべては今のためにあったこと
Facebookで伊勢修養団の中山靖雄(なかやま・やすお)氏の本が出版されると知って、すぐに注文した本になります。
伊勢修養団のことは知っていて、中山氏ではありませんが、寺岡賢(てらおか・まさる)氏の講演を聞いたこともあります。
本書の著者は中山氏だけでなく、その奥様の中山緑(なかやま・みどり)氏と、映画監督の入江富美子(いりえ・ふみこ)氏も名を連ねています。入江氏は、映画「1/4の奇跡」の監督だったのですね。(私は本で「1/4の奇跡」を読みました。)
どうやらこの本は新装版(改訂版)のようで、前作に緑氏と入江氏の対談を加えたような体裁になっていたようです。
実は最初は新装版だと気づいていなかったのですが、読み勧めていると、どうも読んだ記憶があるなぁという気がしてきて、私のブログを検索してみたのです。すると、ありました。2013年に発行された「すべては今のためにあったこと」を2020年6月に読んでいました。
なので、改めて紹介する必要もないかとも思ったのですが、当時とはまた違う気づきがあったのではないかと思い、紹介記事を書くことにしました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「私たちは、ついつい事柄を良し悪しにしてしまうものです。健康は良くて、病気が悪い。若いほうが良くて、年を取ることが悪い。生きていることは良くて、死ぬことは悪いなど、そんなふうに二者択一にしてしまいます。
よく考えてみれば、病気がなければ、健康もないのです。年を取らなければ、若さというのもありません。死ぬという世界がなければ、生きるという世界は成り立ちません。ところが私たちは、どうしてもこれが良くてこれが悪いという二極の世界を生きてしまうわけです。
本来、「良し」「悪し」というのは、一対の岸だと思うのですね。その両岸の間をどう流れるかということが大事です。
「よしあしの 中を流れて 清水かな」という句があります。これは、掛詞(かけことば)で「よし(葦)・あし(葦)」と「良し悪し」を掛けています。よし(良し)あし(悪し)にぶつかり、その中を流れながら清められていくということです。」(p.31)
私がお勧めしている「神との対話」でも、この世は二極(相対的)であり、片方がもう一方を支えているという話があります。どちらか一方だけでは存在できないのです。
ですから、一方を毛嫌いするのではなく、そういう世界なのだと達観して生きることが重要なのだと思います。
「私の講演が始まる頃になると、母が家内を呼び、
「公演が始まる時間だから、悪いけどベッド半分起こして」
と言って、ベッドの前の神棚に向かってじーっと手を合わせて、拝むのです。
寝たきりですから、きちんとは座れないので、腰に枕と毛布を当ててなんとか座れるようにして、じーっと手を合わせている。
「講演が終わる時間になったらまた来てね」と母が言うので、一時間半くらい経ってから家内が行くと、まだ母が同じような状態でじーっと祈っているのだそうです。」(p.66)
82歳で脳梗塞となり、寝たきりになられたお母様は、中山氏が講演に出かける時に挨拶をすると、必ず「どこへ行くのか?」「何時から何時まで講演するのか?」と尋ねられたのだそうです。中山氏は、そんなことを聞いても意味がないだろうと思い、冷たい物言いをしてきたのだとか。
お母様が亡くなられた後、その話になった時、奥様の緑氏は、絶対に言うなと言われていたけど時効だからと言って、この話を中山氏に聞かせたそうです。
親というのは、こういうものなのですね。直接は言わなくても影で祈っている。私の母親も、おそらくそうだったのではないかと思うのです。
「「天が喜ぶ生き方」は「目に見えない世界」の中に見出すことができます。
私たちは、普段「目に見える世界」を中心に生きています。「目に見える世界」では、何かが「できる」「できない」、「うまい」「下手」などが、はっきりわかります。ですから、目に見えたことだけを見て、ついつい「正しい」「正しくない」とか、「いい」「悪い」と言ってしまいます。
しかし、人の心の中は見えません。見えないからよくわかりません。自分の心のことですらわからないことがありますね。人の心のように「見えない世界」はわからないし、感じにくいものです。しかし、「見えない世界」を大切にして生きていくことが、天が喜ぶ人生にはとても大事なことなのです。」(p.75)
目に見える世界とは、自分が知って理解できる世界のことですね。だから人は往々にして、自分の価値観で他人を裁いてしまうのです。また、他人の真価を知ることなく無視してしまうのです。
「自分で人生を終わらせてしまう行為は、心である「しい」がもっとも強い状態になっている時です。自分だけしか見えていない状態です。「たま」に「しい」がしっかりついてしまい、天に戻れない。だから、自死は天に帰れなくなると言われているのです。」(p.92)
中山氏は、自殺すると魂が天に帰れない(と言われている)と言っていますが、私は違うと思います。もしそうだとすれば、魂が救われないことになってしまうではありませんか。
もちろん、安易に自殺しても良いなどと言っているわけではありません。しかし、「神との対話」でも言っているように、魂が自分で決めた時しか人は死なないと思っています。それが自殺であれ、事故であれ、病気であれ、起こることはすべて必然であり、最善であり、完璧だと思っているのです。
「「役割」が「立派」なのではなく、その「役割」をどうとらえて生きるかによって、「人生の立派さ」が変わってきます。
「役割」をいいふうにとらえて生きることができるか、できないかというのは、「自分があるか、ないか」というところに関わってきます。天から与えられた「役割」として、天に使ってもらう、という思いが大事なのですね。」(p.116)
たとえば人間で言えば、「頭」になる細胞もあれば「足の裏」になる細胞もある。どっちが優れているとか劣っているという話ではないのですね。それに、足の裏なら最初にお風呂に入り、最後まで浸かっていられますが、頭は一生お風呂に入れない。
そんな例え話をされていますが、良いか悪いかなんて見方次第なのです。
「しかし、そんな縁に会おうと思って出会えるわけではありません。
だからこそ、今、そのような「回ってくる」ご縁に出会うためには、天から与えられている役割を喜んでさせてもらうことが大事なのです。」(p.124)
何が自分の使命かなんて、頭で考えてもわかりません。だから使命探しのようなことをするよりも、与えられた環境を喜んで受け入れ、そこで最善を尽くすことが大事なのだと思います。
「大切なのは、「こんなふうに思ってはいけない」とも、思わないことです。それも頭で考えていることだからです。
難しいことですが、「『頭からっぽ、心なし』にしないと、ダメだ」とも思わないということなのです。ダメだと思うことも心がいっぱいの状態なのですね。」(p.133-134)
何かの価値観に執着して判断するなら、まだ頭がからっぽになっていないということですね。「神との対話」でも、理性を黙らせるということが書かれていました。
「たとえば今の配偶者と出会い、結婚したことも、いろんな出会いがあって、今があると思うのです。それは、表からは偶然に見えても、裏から考えればすべてが必然なのです。
今の彼との出会いが本当に良かったと思えると、あの過去の破局も含めてみんな良かったのよね、となります。」(p.143-144)
私も、フラれ続けた過去の恋愛がすべて良かったと思っています。そのお陰で今の私があると思えるからです。
「私の家内のモットーは、
「済んだことはみんないいこと。これから起きることもみんないいこと。わたしに悪いことが起ころうはずがない」
です。済んだことはみんないいことですし、これから起きることもいいこと。そういうふうに思えたら、今の人生をすべてこのままでやらせてもらうというだけになります。そうしたら、いいご縁がどんどん湧いてくるのです。
実際は、悪いこともいっぱい起こります。しかし、その時は、そのように生きていくしかないのです。どんな出来事にあっても、自分が悪いことだと思わなかったら、それでいいのですから。」(p.147-148)
私も、起こることはすべて必然であり、最善であり、完璧だと思っています。なぜなら、全知全能の私の魂(神)が導いてくれているからです。
どんなに悪いと思えるようなことが起こっても、それはそういう見方をするからであって、魂の視点からすれば良いことに違いがない。そう信じることに決めています。
だから私は、何があろうと幸せでいられるのです。引き寄せの法則を駆使して、思い通りの現実を引き寄せる必要がないのです。何としてでも思いどおりを引き寄せたい人は、その見方(価値観)に執着しているのです。
「たとえば、電車で足を一回踏まれたら、誰でも踏んだ人を責めます。二回踏まれたら、踏んだ二人目を責めますか? でも、三人目に踏まれたら、いよいよ自分で考えますね。「自分の立っている場所が悪いのだろうか」とか、「私も踏まれないように注意しなくては」と、自分のこととしてとらえるようになります。
これが常にできるようになったら、みんな少しずつ優しくなれます。」(p.153)
要はものの見方、考え方なのですね。あいつが悪い、という視点から見ている限り、優しくはなれないのです。
現実が思い通りにならない時、人はやっと内側に入っていくんですよね。でも、これが素晴らしい。だから必ず人は気づくようになり、進化成長していけるのです。
「家内は家内なりに悩んだうえで、息子が学校に行かない日を「今日子どもが学校へ行ったら交通事故に遭って死ぬ日」と、自分で決めたのです。
「学校に行きました」「交通事故に遭いました」「死体を自分の前に連れてこられました」というのと、学校に行かず、家でぐうたらして、親の言うことも聞かないし、人様から「中山先生の子なのに、いったい何なの」と言われる。どちらがあなたはいいですか? と神様に問われたらどうするか、ということを自分でかってに設定したのです。」(p.169)
他人に対して、どうして私の思いどおりにしないのだ? と文句を言いたくなることがありますが、相手には相手の理由があるのです。たとえそれが私には理解できないとしても。
そんな時は、そうなる意味を自分に都合が良いようにでっちあげろと「神との対話」でも言っています。どうせそうしているのだからと。
たしかに、子どもが登校しない理由が理解できないからと、「ズルをしているんだ、怠け者なんだ」というように意味づけするなら、それは勝手なでっちあげですよね。だって本当は理解できていないのですから。どうせでっちあげるなら、自分が幸せになるようでっちあげた方がいいと思います。
「どんな人も本性は、愛に満ちています。でもそこに欲とか心の難しさとか、前生(ぜんしょう)からもってきている難しさみたいなものがあって、愛そのものでは生きられない。
だからこそ、出来事を通して自分の中にある欲や心に気づくことができれば、本性どおり生きられる自分に変われるのです。
いろいろなことを、それぞれの役の人が代表で私たちに見せてくれています。テレビも新聞もみんなそうで、事件もみんなそうですよ。その人が代わってやってくれたことです。
聞くも因縁、見るも因縁です。何か痛ましい事件があった時は、事件を起こした人と同じ一面が自分の中にあることを感じて、お詫びして通ればいいのです。「ごめんなさい。私にもありました」と。」(p.174)
様々な出来事は、私たちに気づきを与えてくれる贈りものなのです。愛ではないものがあると気づくことで、本来の愛に戻っていけるのですね。
「この高円寺さんの五歳の娘さんが突然交通事故に遭い、亡くなってしまったのです。
その時、事故を起こした人が警察にいるということを聞いて、このご夫婦はその人に会いに行かれました。そして、どうされたかというと、このご夫婦はその事故を起こした方に向かって、土下座をして、お詫びをされたのです。
「こういう縁にあわせてしまってごめんなさい。こういう縁にあう子どもを育てたのは私の因縁です。どうぞあなたは安心して、このことを忘れて、世のため人のためになってください。本当にごめんなさい」
このように謝られたのです。」(p.177-178)
なかなか言えることではありませんが、普段からこういう思いで生きてこられたのでしょうね。
「どんなことにも、必ず賛成・反対ができます。消費税も賛成・反対ができるし、さまざまな問題に賛成・反対ができる。立場が違えば意見が違う。どうしてこんなに心を二分するようなことばかり起きるのかと思いますね。
しかし、こういうことが起こっている今、二つに分かれることで、お互いにもっと深く知り合いなさいと、天が言っているように思うのです。
「知ることの深さは愛することへの道」だからです。」(p.212)
この二極の世界では、対立することがたくさん起こります。しかし、対立すればするほど、いつかは相手を深く知ろうという思いになります。なぜなら、何をやっても解決しないからです。
そして知ることによって、知ろうとして深く思うことによって、和解への道、愛の道が始まるのですね。
ここからは、奥様の緑氏と入江氏の対談になります。
「主人の言葉にあるように、「済んだことはみんないいこと。これから起こることもみんないいこと。自分に悪いことが起こるはずがない」のです。どんな出来事だって、そこからの気づきもありますし、これから未来に起きることもそんな思いでいたら、悪いことに出会うわけがないのです。もし、ケガをするのなら、ケガをしなければならない理由があったということです。」(p.243)
このように、起こることはすべて必然であり、最善であり、完璧なのだという考え方を生きておられるのですね。
「ある方が「近所で火事があって、隣の家まで炎が燃え移り、隣の家は燃えてしまったのだけれど、自分の家までは燃えずに助かった」というような報告をおやかた様にされたことがあったそうなんです。そうしたら、おやかた様が、「あなたは、自分の家が燃えても喜べましたか?」とお答えになったそうです。これは何が言いたいかというと、喜びとは、「お参りや祈り、信仰があることで免れた」「信仰があるから幸せになれた」という「おかげ信仰」によるものではないということです。要するに、「どんな悪いことがあっても、あなたはそれを喜べますか?」ということなのです。家が燃えたら燃えた、人が死んだら死んだ、ということに意味があるのですから。」(p.254)
まさにこういうことですね。信仰を深めたから「良い」ことが起こるというのは、引き寄せの法則を駆使するのと同じことです。それでは本当の意味で神を信頼していないことになります。自分のわがままを押し通そうとしているようなものです。
神が導いてくださっているのだから、起こることはすべて最善のことだと言いきってこそ、本当の意味で信仰を持っている、神を信頼している、神を愛していると言えるのです。
「基本的に、お詫びは「ごめんなさい!」ということではあるのですが、「◯◯について、私は思い違いをしていました。ごめんなさい」というお詫びは、自分でその間違いを認識していないと言えませんね。
一方で、ありがとうは、そこがわかっていなくても「ありがとう!」ってそのまま簡単に言えます。だから先生は、「お詫びのない感謝は泥付きだ」とおっしゃっていました。」(p.270)
中山氏は、お詫びと感謝が大切だと言われています。この対談でも取り上げていますが、これはまさにホ・オポノポノのクリーニングですね。
クリーニングの言葉として、「ありがとう」「愛しています」「ごめんなさい」「許してください」の4つがあります。まさにお詫びと感謝ですね。
これについて私は以前、なぜお詫びをするのかわからないと思っていました。しかしある時、お詫びの意味がわかった気がして、「ホ・オポノポノでは、なぜ詫びるのか」という記事を書いています。
つまり、先の事例の交通事故の加害者に対して詫びた夫婦の考えですね。もし私が完全な愛、完全な神であれば、もはや気づきは不要であり、気づきのための悲しくつらい出来事も起きなかったという前提なのです。それなのに、私がまだまだこのレベルだから、こういうことが起こってしまう。
もちろん、そういう気づきがあるから愛に戻っていけるのですから、それはありがたいことなのです。また、そういう愛のない状態を体験することも、愛を体験するために必要なことなのです。けれども、そこで悲しむ人、苦しむ人が出てくる。だから詫びるのです。
以前に読んだ時の紹介記事も読み返してみました。今回も以前と同じ部分を引用したりしていますが、違う部分もありました。
きっと、読んでみて深く感じた部分に少し変化があったのでしょう。それはきっと、私が少なからず成長したということではないかと思っています。
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