X(旧Twitter)を見ていて、コロナ対策に関して私と同じような考えをお持ちの医師がおられたので、フォローしました。それが著者の
森田洋之(もりた・ひろゆき)医師です。事実と論理に基づいて、堂々とコロナ対策のおかしさを主張されていました。特に、マスクやワクチンの押し付けに反対されたり、医療施設や老人介護施設における面会禁止措置のおかしさを指摘されるなど、素晴らしいご意見をお持ちだなぁと思いました。
その森田医師が夕張市で働いておられたことを知って、俄然興味が湧いたのです。財政破綻によって市立病院が大幅に縮小された夕張市。しかし、それにもかかわらずと言うか、それがあったからこそと言うべきか、夕張市の医療費は削減され、住民の健康状態も特に悪化もしなかったのです。そのことを知っていたので、森田医師の本を読んでみたいと思い、この本を買いました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「
2019年に始まった新型コロナウイルス騒動。
医療業界をはじめ行政やメディアに先導されたこの騒動は、残念ながら「経済を壊し」「人々の絆を断ち切り」「自殺数を増加」させてしまった。
私は経済学部出身の医師という立場から、このような過剰な感染対策によるデメリットを憂いていた。だが、この「過剰にコロナを恐れてしまう風潮」は2022年になっても依然として継続している。」(p.2)
「
今後もこのような風潮が続くのであれば、それこそ「新しい生活様式」となって社会に定着し文化になってしまうのだろう。
私はそんな「家畜」のような生活を、感染を恐れて人との絆や接触を断ち切るような社会を、絶対に子どもたちに遺したくない。」(p.3)
高校のサッカー部で、部員の一部にコロナ感染者が出たと言うだけで、みんなが楽しみにしていた大会に参加できないなんて事態も発生しました。コロナの健康被害は非常に小さいとわかってきたにもかかわらず、人々は恐れから過剰に反応してしまっている。その過剰な反応によって、これまでの正常な社会生活が壊されているのです。
森田医師は、これが本書を書こうとした動機だと言います。愛する子どもたちに、このような社会を遺したくない。その強い思いが、あえて世の流れに抵抗させるのですね。
「
交通事故で3千人〜5千人、インフルエンザで1万人、自殺で2万〜3万人の日本人が毎年毎年死んでいるのである。ちなみにこれだけ大騒ぎしている新型コロナ肺炎は、この世に登場してから通算でまだ100人しか日本人を殺していない(注:数字は2020年4月現在のもの。ちなみに新型コロナ死は2020年が約3千人、2021年が約1万5千人)。」(p.13)
これは私も早い段階から主張していました。「交通事故を恐れて車をなくせ!と主張するのですか?」と。しかし、多くの人は論理では納得しません。マスコミから不安を煽られ、怖がる大衆に対して政府がこびて、その悪循環で無意味で無駄な対策がどんどんとられていった。私もそう感じています。
「
こうして高齢者は入院・入所した途端に行動を制限され寝たきりになっていく。
多くの高齢者の願いは、「自宅で好きなものを食べて、自分らしく生活したい」という至極単純なものだ。それなのに、世間や医療のゼロリスク神話はいともたやすく高齢者の生活を奪ってしまう。リスクを恐れるあまり、多くの高齢者は今「かごの鳥」になっているのだ。」(p.18)
私も高齢者施設で働いていましたから、このことはよくわかります。ただ、恐れているのは医療関係者や家族だけではありません。当のお年寄り自身も恐れているのです。だから、関係者がみんな恐れて、恐れの相互作用によって、ゼロリスクを求める結果になっていると思っています。
「
自動車の製造を止めれば、交通事故で死ぬ年間100万人の命を救えたはずだ。でも僕らは歴史上決してその選択肢をとらなかった。意識するかしないかにかかわらず、我々はリスクと共存し、それを許容して生きてきたのだ。」(p.20-21)
理屈で言えば、まさにその通りなのです。けれどもほとんどの人は理屈で考えて選択しているわけではありません。恐れによって萎縮してしまっている。だから、論理的な選択ができないのです。
「
もちろん新型コロナにかからないことで健康を保つことも大事だが、過度の自粛や行動規制で親しい人たちとの交流が減ってしまって本当の健康が得られるのか?という視点はもっともっと大事だ。健康とは体の話だけでなく、心の健康も、社会的な健康(絆を紡ぐことで生まれる良好な人間関係・コミュニティーとしての健康)も含まれるのだから。」(p.23-24)
人も社会も総合的なものです。比べ得ないものを比べて、選択しなければならないのです。それなのに、感染しない、重症化しない、ということだけに特化した選択がなされてきた。この思考のいびつさには、本当に腹立たしく感じました。
「
マスクがよい、ワクチンが効く、人との接触を減らせば感染リスクが下がる、手洗い・消毒は基本だ。そんな話はすべて、事実の半分に過ぎない。マスクをしてもしなくても、人と接触してもしなくても、変異株ごとに効果が薄れてゆくワクチンを打とうが打つまいが、新型コロナにはかかるかもしれないし、かからないかもしれない。統計的に差があったとしても、自分で実感できるほどの差ではない。それよりも長年にわたってマスクをし、人との接触を避け、ワクチンを打ち続けるほうが負担の方がはるかに大きい。にもかかわらず、都合のよい面だけを取り上げれば、あたかも世のため人のために役立つ知識のように見えてしまう。」(p.26)
テレビを中心とするマスコミは、連日朝から晩まで同じことを繰り返し、国民を「恐れ」で洗脳してきました。一部の事実だけを切り取ることで、それだけが事実の全てであるかのように錯覚させる手法で洗脳したのです。もちろん、簡単に洗脳されてしまう国民がそのレベルだというだけのことですがね。
「
なぜ日本の医療業界は縦の機動性も、横の機動性も乏しいのか。それは、日本の病院の8割が民間で、基本的にお互いがライバルであること、そして国の指揮命令系統が及びにくいということが大きく影響しているのだ。ちなみに、先進国の病院は多くが公立もしくは公的病院で、純粋な民間病院は僅かである。」(p.39)
日本はコロナ病床が十分あったにもかかわらず、病院同士の連携が取れないなどで、一部で医療逼迫が生じた。つまり、病床数の問題ではなく、機動性の問題なのだと森田医師は分析します。そして、その元凶は市場経済による競争にある、と指摘されています。
この点に関しては異論があります。私はそうは思いません。このことは、また後で書きます。
「
合計特殊出生率日本一の鹿児島県・徳之島の伊仙町で子育てをするママさんは言う、
「地域のどこに行っても子どもたちが名前を呼ばれて可愛がられる。安心して地域の人間関係に子どもを任せられる徳之島での子育ては、都会での子育てとは雲泥の差」と。
私の前任地・北海道の夕張市では、頻回に徘徊する100歳で重度認知症のおばあちゃんもアパートで一人暮らしをされていた。近所の人たちの何気ない見守りなどの「地域住民の絆」は、通常病院や施設でしか対処できないだろうと思われる高齢者の医療・介護需要を、いとも簡単に吸収してしまっていた。それはまるで、豊かな土壌が降り注ぐ雨を吸い込むようだった。」(p.41-42)
私が住んでいたタイでも、暮らしている多くの日本人、特に女性から、子育てがしやすいという声が聞かれました。どこに連れて行っても、タイ人が子どもを歓迎し、大事にしてくれるからです。親が子どもを見ていなくても、お店の従業員が見ていてくれる。親が責められることがない。だから楽なのです。
お勧めしている「神との対話」でも、進んだ文明では小さなコミュニティで暮らすと言っています。大都会では隣人の顔も知らなければ、どんな人が住んでいるかもわからないことが多々あります。そんな状態では、健全なコミュニティを作ることは難しいのです。
ただ、タイ人の妻を日本に連れてきた時、言われたことがありました。「人がいない」と。家はあるのに、車は走っているのに、人の姿を目にしないのです。田舎であってもそうです。人はそれぞれの家にこもり、または街に出かけていて、集落に人影がありません。タイでは、どこへ行っても人の姿があるのに。
昔のような縁側で夕涼みなんて文化も廃れました。人がいるのかどうかすらわからない家の中で、エアコンを効かせて、それぞれが孤立して存在している。それが今の日本のような気がします。そんな日本で、かつてのようなコミュニティは復活するのでしょうか?
「
薬を飲んでも無駄と言っているのではない。119人に1人でも、かけがえのない命を救えるのならそれは非常に大きな効果である。しかし、その1人に入れるのかどうかが「確率論」であるということに変わりはない。「それならは、副作用も考えて私は飲まない」という選択肢だって、間違いではないのである。」(p.51)
日本は画一的であり、同質を求められます。いや、同質を強要される文化があります。だから、個人の自由が往々にして侵害され、その侵害を当然とみなすのです。
タバコやアルコールの健康被害も同様です。たしかに統計数値には表れていますが、個人に現れるかどうかは確率的なもの。だからこそ、そのリスクを知った上で個人の自由に任せるというスタンスが重要だと思います。
自由に自分らしく生きること。それこそが、何よりも尊ばれるべきものだと思うからです。
「
つまり、少なくとも我々が頑張った「ソーシャルディスタンス・マスク・手洗い・消毒」などの感染対策は、客観的事実としてRSウイルスやその他ウイルスの感染拡大の防止にはあまり効果がなかった、ということだ。」(p.54)
コロナ対策として国民全体がマスクなどの対策を強要されたにもかかわらず、RSウイルスなどの感染症が多発したという事実があります。そういう事実を無視して、自称専門家がマスクを強要する。そしてそれをメディアが拡散し、政府が後押しする。まったく科学的ではない対策が、さも正当であるかのように堂々と行われ、押し付けられる。本当に愚かなことです。
「
アメリカの北部に隣接するこの2つの州は、全く違う感染対策を実施しているのだ。ノースダコタはマスクを義務化し、経済規制も強固に実施した。一方サウスダコタはマスク義務なし、経済規制もほぼ無し、いわゆるノーガードに近い非常にゆるい感染対策だった。その両者の感染者数を比較してみると、ほとんど一緒、きれいに同じ曲線を描いていることがわかる。」(p.57)
こういう事実の指摘は、SNS上でも多数見られました。しかし、メディアも政府も、そしてほとんどの国民も、恐れを捨てることはありませんでした。
「
ただ、日本の医療崩壊について言えば、世界一の病床数を誇っていながら、2年経ってもまだ全病床の2.5%しかコロナ対策に回せなかった。つまり医師会含め医療業界全体は新型コロナに対して一丸となって対処できなかったのだ。これではいくらピークを後にずらしても、いつまで経っても医療の受け入れ体制は微増しかないだろう。」(p.58-59)
今回のコロナ禍では、日本医師会がガンだということもよくわかりました。硬直した全体主義的な組織だからだと思います。まったく自由がなく、それぞれの医師が日本医師会に反して対策に立ち上がるということもなかった。
森田医師は、病院のほとんどが国公立なら、政府の鶴の一声で連携できたと思われているのでしょう。たしかに、そういうことが可能かもしれません。実際に諸外国がそうしているのですから。しかし、国公立ばかりの状態による弊害もあります。計画経済と同じですから、非効率で上手くいきません。保育園の経営を見れば明らかではありませんか。
私はこういう問題は、むしろ個々が自由に考えて行動できるようにすることによって、その時にふさわしいリーダーが現れ、やり方が出てくると思っています。問題なのは硬直した全体主義的組織であり、その解決策としては自由の推進しかないと思っています。
「
実は、私がいままで
「大事なのは重々わかるんだけど、今ちょっと忙しいから…」
と後回しにしていたコミュニケーション術のキーワードがそこにあったのだ。
つまり、
「へ〜」=傾聴
「そうだよね〜」=共感
「わかる〜!」=承認
今までコミュニケーションスキルの講演などで散々聞いてきた「傾聴」・「共感」・「承認」って、これなのか!と。」(p.108-109)
ファミレスで若い女性が、延々とこういう会話をしていたのだそうです。話題は日常の些細なこと。それに対して必ず「へ〜」「そうたよね〜」「わかる〜!」と繰り返し相槌を打つ。そこにコミュニケーション術の極意を見出されたのだそうです。
これはたしかにそうですね。特に男性は解決策を示そうとしたり、どうでもいい話題だと面倒くさがって無視しがちです。私もそうなので耳が痛いです。(笑)
けれども女性のこの共感的な会話は、相手を否定せずにありのままに受け入れています。何も解決策を示さないから無意味なように見えて、実は問題解決になっているのです。
それは、問題というのは、その人が問題だと思うから問題なだけだからです。受け入れてもらうことで心が軽くなるということは、問題視しなくなっているということ。つまり、問題が解消しているのです。
「
徘徊するから鍵をかける。おむつの中の便をいじるからツナギを着せる、夜中に暴れるから睡眠薬を飲ませる…。こんなことさせられたら心のやさしい介護職ほど真っ先に辞めていきます。ウチでは介護のゴールは『信頼関係の構築』とスタッフに言っています。そのためには何をしてもいいと。施設に鍵をかける、というのは、爺ちゃん婆ちゃんを信用していないということ。だからウチでは鍵はかけない。外から鍵をかけられた、監獄のような場所にいて気持ちのいい人がいますか?そんなところで信頼関係が生まれますか?徘徊するなら、とことん付き合う。信頼関係ができれば、ここが居場所として落ち着ける場所になったら、徘徊という周辺症状は消えていきます。居たくない場所だから徘徊するんです。」(p.123-124)
この拘束の問題は、老人介護だけでなく障害者介護においても同様ですね。私は老人介護施設で働いていたので、拘束されるお年寄りを見てきました。だから、私自身は老人介護施設に入りたくないし、家族を入れたくもないと思っています。
けれども、本当にここにあるように拘束せずに上手くいくのか? という疑問はあります。この引用した文は、神奈川県の郊外で介護施設を経営する加藤忠相氏の言葉だそうです。信頼関係を作れば拘束は要らなくなるとのこと。
でも、意思の疎通さえできないお年寄りに対して、どうすればいいのでしょう? 徘徊すればずっと付き添うって、いったい誰が付き添うのでしょう? その介護士にも生活があるし、仕事の割当もあるのではありませんか?
この方以外にも、拘束は不要だと主張される方はいらっしゃいます。しかし、現場を経験した私には、それが可能だとはなかなか思えないのです。機会があれば、その拘束しない介護を体験させていただきたいものだなぁとは思いますが。
実際に繰り返し便いじりをするお年寄りの布団や衣服を洗い、ベッドや床をきれいに拭き、手を洗って爪に入った便を取り除いてあげるということを、毎日のようにやってみてください。それも暇な時間にするのではなく、食事前の忙しい時間にすると考えてみてください。どんなに心優しい介護士だって嫌になるでしょう。便いじりできないようにツナギを着せたり、ミトンをはめたくなってしまうのです。そういう介護士のつらい思いも、わかってほしいなぁと思います。
「
でも、よく考えてみれば「何かあるに決まっているのが人生」。特に高齢の方々にとって人生はそんなに長い時間が残されておらず、その短い余生の最後に「何か」があって人生が終わるわけである。
その「何か」が何になるのか、何にするのか…。その人生の選択は本人の課題であって我々医療者の課題ではないのではないだろうか。
そう、実は「何かあったら困る」のは患者にもまして医者のほうなのである。」(p.128)
これは医療者だけでなく、介護者にも言えますね。家族もそう。つまり、周囲の人にとって、その人に何かあることが受け入れられないのです。自分たちの責任にされてしまうから。
では、その責任を押し付けているのは誰か? それは本人と言うよりも世間であることが多いように思います。何かあったら、まったく関係のない人たちから責任を問われる。日本にはそういう同調圧力があるのです。
そういう同調圧力があるから、医者が対処しなければ世間も家族もその医者を叩きます。だから医者はリスクを負えない。
では誰がリスクを負うのか? 本人しかいません。しかし、それが認知症になっているお年寄りとなると、どうでしょうか? 本人が責任を負うことにできますか?
わかっているのです。本当は本人の自由にさせてあげたい。でも、それを許さない空気がある。その空気に抵抗するのは難しいのです。
けれども、この風潮を変えていかない限り、私たちはみんなが誰かに押し付けられて自由を奪われる運命にあるのです。
「
しかし、問題はどちらの立場に立つかではない。後述するように、どちらの立場に立っても本質は同じ、「他者の多様性を受け入れてあげられること」と「それでも味方でいてあげられること」だと私は思っている。」(p.131)
森田医師はコロナのワクチンを受けない考えですが、奥様は受けられたそうです。それを公開された時、批判するコメントも多々あったようです。奥様を説得すべきではないかとか、放置しておいてそれで愛と言えるのか、などなど。
私は、森田医師の考えに賛同します。なぜなら、愛は無条件だからです。無条件とは、相手がどうするかは相手に任せる、相手の自由にさせるということです。相手がどうであれ、それを受け入れるのが無条件の愛ではありませんか。
「
もしかしたら、彼も孤独に一人で悩んでいたのかもしれません。患者さんの行動変容も、若手医師の行動変容も一緒なんですね。人の心を動かすのって「味方になる」ことからしか始まらないのかも…。」(p.144)
タバコをやめようとせず、糖尿と血圧の薬を出せという患者に、どう向き合えば良いかと悩む若い医師に対して、森田医師は「味方になること」をアドバイスしたのだそうです。つまり、まずは信頼関係を築くってことですね。信頼関係がない状態で上から目線で命令されても、誰も従おうとはしませんから。
そして、この若手医師に対するアドバイスも同様で、上から目線で正論を吐くのではなく、まずは受け入れて、味方になることが重要だと森田医師は思われたようです。
ただ、それがテクニックであっては意味がないと思います。目的が患者を変えることであるなら、味方になることがテクニック(方法)になってしまいがちです。
先ほどのワクチンの話でもあるように、目的が「味方になること」でなければならないと思います。つまり、愛することです。相手を完全に受け入れて、相手を信頼して、完全に味方になることです。ただ、自分がどう考えるかは正直に伝える。たとえ嫌われたり、反発されたりしようと。自分に正直であることです。
その結果、相手が変わるかもしれないし、変わらないかもしれない。でも、その結果はどうでもいいのです。目的は、味方でいることですから。
「
もちろん、国全体で集団免疫を得るためには若者のワクチン接種も必要、という議論はあるだろう。
ただ、リスクが限りなくゼロに近い若者に対して、
「国全体の利益のためなのだから、妊娠・出産などへの長期的な副作用のリスクには目を瞑れ」
という全体主義的な論調には大いなる違和感を感じる。強く反対の意を表しておきたい。」(p.154-155)
重症化しやすいお年寄りの命を守るために、ほとんど重症化しない若者もワクチンを打つべきだ、という主張も多々ありましたね。「(高齢者の)命と経済とどっちが重要なんだ!?」と迫る人もいました。
私も森田医師の考えに賛同します。リスクというのは、全体を見る必要があるのです。もちろん、考え方は人それぞれでしょう。だからこそ、一方的に押し付けてはならないと思います。
「
病院は「治療の場」です。そこでは安全・安心が基本です。
「ノドにご飯を詰まらせたら大変!」と絶飲食、「転んで骨折したら大変!」とベッドの上で安静に。
病院でなにかあったら大変ですからこれは当然です。
でも古川さんは安全・安心を得た代わりに「生活」を奪われて寝たきりになってしまった。
「生活の場」に戻っただけで元気になって、昔の教え子にも会えるようになった。」(p.187)
末期の肺がんと認知症で入院していた古川さんは、寝たきりで話すことも食べることもできなくなっていたそうです。それが宮崎県の「かあさんの家」に入居したら、1ヶ月で自分でご飯をモリモリ食べるようになり、昔の教え子が訪ねてくれば昔話をして楽しむようにもなったのだとか。
これは、刺激のないただじっとしているだけの病院から、生活の場に戻ったことによる変化でもあるのでしょう。あるいは、ここには書かれていませんが、薬の影響もあるのではないかと思います。末期のお年寄りに対しても、たくさんの薬を飲ませる医者はいます。
本当に守るべきは命なのでしょうか? それとも、人間らしく生きることなのでしょうか? まさに、この本のタイトルで問われていることですね。
「
今、夕張市では病院がなくなった代わりに、24時間対応の在宅診療、24時間対応の訪問看護がすべて揃っているんです。
夜中でも馴染みの医師・看護師が見に来てくれて、診察してくれて、家で点滴までしてくれる。」(p.192-193)
財政破綻した夕張市は、市民病院を1/10に縮小したそうです。ただし、在宅医療にシフトすることで、その穴を埋めようとした。それが功を奏したということのようですね。
豊かになった日本では、何が何でも大病院で最先端の医療を受けたい、と考える人が多いようです。けれども、そうすることが必ずしも生活の質に寄与するわけではないということが、この夕張市の実例からわかる気がします。
「
これは少なくとも、経済学的な最適な状態=「限りある医療資源が全国民に適切な量だけ分配されている状態」とは言えないだろう。各都道府県によって医療の提供量がこれだけ違うのだから言い訳のしようがない。まさしく「市場の失敗」と言っていい。」(p.210)
県別に人口あたりの病床数と1人あたりの入院医療費を見てみると、相関関係があることがわかったそうです。つまり、病床数が多い県ほど、1人あたりの入院医療費が高くなっている。
その理由はいくつか考えられますが、病床があるのだから埋めてしまおうという考えが広まっている、ということだろうと思います。医療者は、入院した方が安全だし、その分、病院も儲かると考えるし、患者も入院した方が安全だと考える。そしてそれを容易にしているのが国民皆保険制度です。懐があまり傷まないのですから、安易に入院を選択するでしょう。
「
こんな状況で、我々日本国民は「医療を自由競争・市場原理に任せてきてよかった」と言えるのだろうか。
もう一度言う。医療はビジネスには馴染まない。」(p.215)
森田医師は、医療がビジネスとして行われているからこういう問題が起こるのだと考えておられるようです。
しかし、私はそれは違うと思っています。医療界に自由競争なんてありませんよ。自由競争というのは、他の誰かの指示に従うのではなく、事業者が自分で考えて価格やサービスを決められるから成り立つのです。国民皆保険制度によって医療のサービスや単価を政府に決められている状態で、どうやって自由競争が行えるのでしょう?
これは保育もそうです。介護もそうです。政府が事業に関与し、売値を決めてしまっている。だから事業者は、その売上の中でコストを考えなければならない。だから保育士や介護士の報酬を上げることもできず、人手不足になっているのではありませんか。
医療もそうです。コロナで病床の増減に機動性を欠いたり、病床や医療スタッフの貸し借りもスムーズにできなかったのは、自由競争が邪魔したわけではありません。逆に、自由競争じゃないからできなかったのだと思います。
もし、サービスと単価を事業者が自由に決められたらどうですか? 病床が足りない県があれば、隣県の病院が「うちで引き受けるけど10%増しでどう?」というような取引もできたはずです。患者に対しても、「10%増しならすぐに入院できるけど、そうでないならしばらく待たないといけない。どっちを選びますか?」と、それこそ患者の自由意思を尊重できたはずです。
また、政府や自治体が運営するから、無用に病院を作って病床を増やし、医療費を増加させていたと言えるのではありませんか? 儲からなければ削減するという市場原理が働けば、病床数も適正に維持される。そのことを夕張市は示したのではありませんか?
日本では、何でも同一サービス同一料金が当然だ、という考え方が広がっていますが、世界ではそんなことはありません。タイでは、同じ路線のバスであっても、乗車賃が違います。サービス内容に違いがあるからです。乗客は、どのバスに乗るかを自分で選ぶことができます。日本には、そういう自由がないのです。
だから、タクシー業界を守るためにライドシェアが解禁されません。海外で利用した人なら、その便利さがわかります。けれども、利用したことがない人が、恐れ(不安)から反対しています。
自分が怖いなら、自分が利用しなければいいだけのことです。これまで通りにタクシーを利用すればいいではありませんか。それなのに、他人がライドシェアを望んでいるのに反対し、他人の自由を奪おうとする。
こういう自由がないのが日本の社会なのです。だから選択的夫婦別姓制度や同性婚制度の導入にも、関係のない人が反対する。ただ怖いから、不安だから反対して、それを願う人々の自由を制限しようとする。ぜんぶ同じ構図じゃありませんか。
そして、医療界も同様です。自由がない。規制ばかり。不安や恐れを背景に、政府がコントロールしようとする。どこにも自由競争なんかありませんよ。森田医師は、そこを正しく理解していないと感じました。
私は、この本で述べられている森田医師の基本的な考えには賛同します。ゼロリスクはないし、比較が困難なものを比較して何かを選択しなければならないなら、それは本人が決めるべきなのです。
だから私も、自由を奪われてまで長生きしたいとは思いません。ただ生きながらえるだけの人生はお断りします。
けれども、そういう自由が多くの場面で奪われているのが、今の日本社会なのです。ぜひ、そういうことを考えてみてもらえたらいいなぁと思います。
そして本書は、そういうことを考えるきっかけを与えてくれるものだと思います。