2018年01月04日

青虫は一度溶けて蝶になる



書店の「読書のすすめ」へ行ったとき、気になって買った本です。「私・世界・人生のパラダイムシフト」とサブタイトルにあるように、凡夫が仏になる過程で起こるパラダイムシフトについて、またそれがどういうことで起こるのかについて、書かれた本のようです。

著者は、禅僧の藤田一照(ふじた・いっしょう)氏、社会芸術家で起業家の桜井肖典(さくらい・ゆきのり)氏、編集者で文筆家の小出瑤子(こいで・ようこ)氏の3人です。これは、月に1回行われた「仏教的人生学科 一照研究室」という学びの場の16回分の講義録を元に、何か面白い本を作ろうということになり、小出氏がピンと来たものを選んで、そこに肉付けして作られたとのこと。その学びの場では、午前中は座学で、なぜか英文の仏教書を元に藤田氏が講義し、午後はワークをしたのだそうです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

「私」と「経験」とを切り離して考えていると、なにかが起こってきたときに、「私」にはなにも問題がない、問題があるのは「経験」の方、だから「経験」をいじれば問題が消えるはずだ……という路線での思考に陥ってしまうんですよ。これって、「私」をいじらないためのトリックですよね。」(p.39)

つまり、「私」が「経験」の外側にいて、「経験」を持っているんじゃなくて、「経験」のなかに「私」が生まれているということです。」(p.41)

非常にわかりにくい言い回しですね。ご本人もわかりにくいとは思うと言われてます。ただ、ここがすべての基礎になるから、ついてくるようにと。しかし、もうちょっとわかりやすく表現できないものですかね。

そのあと、桜井氏が「やりがいのある仕事」と「私」との関係で説明していますが、こちらの方はまだわかりやすいです。つまり、「やりがいのある仕事」というものがどこか外にあるのではないということです。「仕事」のなかにやりがいを感じない「私」が生まれているのだと。

「神との対話」などでは、「経験」という言葉ではなく、「出来事」とか「状況」という言葉で説明しています。いずれにせよ言葉には制約があるので、なかなか共有しづらい面があるのだと思います。


たとえば誰かが必死になってお金を稼いでいるとしますよね。でも、その人は、実はそういう努力のうちで「家」や「故郷」を探しているんですね。本人はそのことに自覚的じゃないでしょうけど。恋愛だってそうですよ。誰かを好きになって、一緒に生きたいという願いを持っているとして、その根っこには、実は「家」や「故郷」を求める気持ちがあるんです。
 でも、現代に生きる僕たちは、「家に帰りたい」という心の奥底にある願いにきちんと向き合っていないから、どうしても、家の代用物みたいなものを自分の目標にしてしまうんですね。
」(p.52)

これは古代から言われていることですね。人間は、本来の居場所へ帰ろうとしているのだと。その潜在的な欲求を満たそうとして、そのためにお金を稼いだり、人気を得ようとしたり、パートナーから愛されようとする。そういうものなのです。


この「無限」というのが、つまりは僕たちの<家>というふうに言った方がいいかもしれないね。家に帰るというのは、有限が無限との不可分のつながりに落ち着くこと。「有限」と「無限」が横並びに対立しているのではなくて、「無限」に根差して「有限」があるという縦の関係にある。つまり、「有限」を通して「無限」に触れているんです。」(p.59)

有限の波と無限の海というたとえで説明しています。あるときふっと立ち上がっては消えていく波は、海を離れては存在しません。それと同様に、個々人である私たちも、この世では有限な存在ですが、実は無限の世界とつながっていて、そこへ帰ろうとしているのだと。


OSがチェンジする前は、思考も言葉も動作も、みんな「分離」の方向に使っていた。自分を守るためにね。それが、全部、反対の方向に切り替わるんですよ。今度は、思考や言葉や動作を「つながり」の方向で使っていく。なぜなら、つながっているのが自然なことだというヴィジョンを得たから。「つながり」こそが、ほんとうの生き方だという洞察を得たから。」(p.89)

「神との対話」などでも、分離から統合へという話があります。それと同じことを言っていると思いますが、それを「OS I」から「OS We」へのアップデートで説明しています。

私は、IT関連の仕事をしていましたし、パソコンやスマホもよく使っています。OSとアプリの違いもわかります。ですが、そういう私でさえ、このたとえはわかりづらい。具体的なイメージとまったく結びつきませんでした。言っていることは何となくわかるけど、心に沁みてこない感じですね。


僕たちに絶対的に必要なのは、なにが起きてもそれらすべてを自分のworkとして、ありがたく受け取り、誠実に取り組んでいこう、と主体的に決めてしまうこと。それと同時に、今目の前にあるものをしっかりappreciateできる繊細な感受性なり、受け取る能力なりを、ちゃんと訓練して育てていくこと。まあ、それ自体がworkになる、と言ってもいいかもしれないね。」(p.110)

英語の仏教書が元になっているからかどうかわかりませんが、このようにやたらと英語表記が出てきます。もちろん、その言葉の説明はありますが、言われてすぐに身につくものでもなく、この文章だけ読み返しても、何のことやらさっぱりわからなくなります。appreciateというのは「理解する」「鑑賞する」「感謝する」という意味だそうです。普通に「理解し、受け入れ、感謝する」というように、日本語で説明してくれればわかりやすいと思うのですけどね。

workもそうですが、具体的にいったい何を指しているのか、心に残りません。その前の章で、「どんなものでもworkにできる」という意味で、workableという言葉を説明しています。なぜなら諸行無常だからだと。つまり、すべては変わりゆくものだから、「すべてのものはworkable」だと言います。だからすべてをworkにできるのだと。そのことからするとworkとは、自分が取り組むべき課題、のような意味になるのでしょうかね。


「あたらしい世界」を実現していくのは、なにも難しいことじゃないんですよ。当たり前の日常の中で十分実現していけます。具体的に言えば、この旅の中で何度も言ってきたけれど、「分断」ではなくて「つながり」のヴィジョンを持って生きていくこと。それをあなたの人生というフィールドで、あなただけのやり方でやっていくことです。」(p.187)

「神との対話」などで言われるように、本質的にはすべては「ひとつのもの」です。ですから「分離」ではなく「統合」へと方向を変えることが重要になるのだと思います。


途中で書きましたが、やたらと英語が出てくるため、私にはとてもわかりづらいです。言葉が沁みてこないのです。もちろん、日本語では上手く説明できない概念があるケースもあるでしょう。しかし、この本では、そうでない言葉までも英語で書かれている部分が多数ありました。どうしてわざわざ英語で言うんだろう? 英語が話せることを自慢したいのかなあ? と思ったくらいです。

その理由は、最後に書かれていてわかりました。教科書が英語の仏教書なのですね。なぜかはわかりませんが。おそらく英語ができる人のための講座でもあったのでしょう。私のように英語がほとんどできない人もいれば、逆に普通に英語ができるよという人もいるので、このことの良し悪しは論じないことにします。

書かれている内容は、「神との対話」などで言われているようなことなので、何となくこういうことが言いたいんだろうなと理解できました。おそらく、こういう感性の方がわかりやすいという人もいるのだろうと思います。私には合いませんでしたが。

青虫は一度溶けて蝶になる
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:15 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月02日

起業家



誰だったか忘れましたが、「これ、面白いよ」と勧められて買った本だと思います。これもずっと積読(つんどく)してました。(笑) アマゾンのリンク先は文庫本になってますが、私が購入したのは単行本です。2013年の発行ですから、3年くらいは読まずにいたのかもしれません。

著者は有名な藤田晋(ふじた・すすむ)氏とのことですが、申し訳ありませんが聞いたことがありません。どうやら、ホリエモンさんと同時期に活躍された若手起業家のようです。あのころ、ヒルズ族とか話題になりましたが、あまり興味がなかったので。

藤田さんは、起業家の中では憧れの的のような存在だったようです。サイバーエージェントという会社の社長。サイバーエージェントなんて聞いたことないなぁと思っていたのですが、読み進めるうちに気が付きました。アメブロを提供している会社なのですね。それで俄然興味が湧いて、あっと言う間に読み終えました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

クライアントや業界づきあいなど、企業を相手に仕事をしてきた我々に対して、秋元さんはひたすら視聴者、ユーザーと向き合って、面白いことや心を掴むことをやろうとしていました。
 仮にもメディアを創ろうという会社の社長がこれではいけない−−。
 私もそう考えるようになり、「千枚CD」の試みが転換点となって、仕事上でつきあう人の業種が少しずつ変わり始めたのです。
」(p.43)

サイバーエージェントは、元々インターネット広告の分野で大きくなった会社です。しかし藤田氏は、メディアを創るという目標を持っていました。それがいつしか、既存の取り引きの中に埋没するようになっていたのですね。そんな時にネットと連動した音楽番組「千枚CD」を秋元康さんと行ったことで、秋元さんの生き方(つきあう人のジャンル)に気付かされたのだそうです。

私も、IT関連の仕事をしていて、似たようなことを考えたことがありました。仕事は大型汎用機の仕事でしたが、ワープロ、パソコン、インターネット、ブログ、スマホと、なるべく新しいものに手を出すようにしてきました。それは、「SEたるもの、ITの基本的なことは知っておかなければならない」という気持ちからです。それが直接仕事で役立ったかどうかは何とも言えませんが、こうしてブログを書いたりメルマガを出したりすることが、まったく苦労なくできています。


大型買収はやらないという方針が決まると、大物人材を外部から採用しないということも同時に決まりました。
 時間を金で買う買収が、事業をじっくりそだてている当社に合わないならば、時間を金で買うような採用も、人材をじっくり育てている当社には合わないと考えたのです。
」(p.80)

それまで出入りの激しい会社だったそうです。しかし、日本の伝統的な終身雇用を行うと決めたことで、会社の中が落ち着き、愛社精神が芽生えてきたと言います。

時は、M&Aが盛んだった時代です。良きライバルだったホリエモンさんは、ライブドアを買収したり、有用な人材をスカウトするなどして、どんどん会社を大きくしていきました。藤田氏とは対極的な手法です。それだけに焦ったり、迷ったりすることも多々あったとか。それでも、自分はこのやり方でいくと決め、それを貫かれたようです。

どっちが正解かではなく、自分のやり方を崩さないことが重要なのだろうと思います。とは言え、自分のやり方に固執するのもよくない。この相矛盾した感覚の中で、どちらを選ぶかは難しいことです。経営者というのは、つねにそうした矛盾を抱え、それでも決断しなければならない存在なのです。


しかし、アメーバ事業部の中では本部長の渡辺すらもほとんど自分のブログを更新していませんでした。そこで働く社員たちがアメーバに対する愛情も誇りもない状況であることに、今さらながら気づかされることになったのです。
 しかも、社長である私も外様扱いで、現場は私の指示を素直に聞くような状態ではありませんでした。
 この現場の現状を思い知ったとき、それまでの自分が間違っていたことに気がつきました。

 (このままではいけない……)
 (自分を変えなければ、会社は変わらない……)
」(p.211)

やっと見つけたメディアの種。それがブログだった言います。しかし、藤田氏の熱い思いとは裏腹に、現場は本社ビルからも離れ、なかば見捨てられた状況だったのです。それまで、現場を信頼して任せる方針だった藤田氏ですが、ここにきて方針を転換します。

まずは、自らが陣頭指揮に立つよう体制を変更したこと。これまでの幹部クラスは更迭したそうです。そして、2年間の期限を切り、黒字化できなければ退陣すると宣言し、背水の陣を敷きました。さらに、売り上げを無視してPV(ページビュー)だけを意識するよう社員の頭に刷り込むようにしました。目標を絞り、明確化したのです。

ともかくユーザーの使いやすさ、使った時の楽しさを追求する。そうすればPVは自然に大きくなる。そういう方針のもと、ページを増やして姑息にPVを上げることを禁じたり、芸能人にブログを書いてもらうよう働きかけたりして、改革を進めたのです。

そして2年後、見事にアメーバ事業部は黒字化しました。現在でこそブログの中でもっとも知られたアメブロですが、ライブドアブログなどが有名で、事業としては後発でした。しかし、各社が伸び悩む中で、アメブロだけがどんどん事業を伸ばしていったのです。


結果的に、「何がアメーバの転換点になったのか?」と尋ねられれば、幹部3人を更迭したことでした。
 しかし、3人は3人とも優秀でした。ではいったい何が問題だったのでしょうか。

 本当の理由は、幻冬舎の見城社長から聞いた言葉で気づかされました。
 「全ての創造はたった一人の「熱狂」から始まる」
 「新しいことを生み出すのは、一人の孤独な「熱狂」である」
」(p.287)

ブログこそがメディアだ。そう信じた藤田氏の「熱狂」が、孤独に押しつぶされることなく赤々と燃えた。それが成功につながったと言うのですね。

メディアなんか作らなくても、広告事業でそこそこの成果を残せば、それで一生安泰かもしれません。しかし藤田氏は、そういう生き方を潔しとしませんでした。その思いが、この本のタイトルに表れています。自分は起業家である。起業家として生きる。それは、無から有を創り上げる喜びです。


六本木ヒルズで暮らし、派手な生き方をしているようなイメージがある青年実業家ですが、意外としっかりとした堅実な生き方をしているのだと気づかされました。それはある意味で当たり前かもしれません。本当に成功する人は、成功するなりの理由があるのです。もちろん運の良さもあるでしょうけど、それだけではありません。生き方に芯があるように思います。

私は、経営者としてはそれほど上手くいきませんでした。最初は、この事業は上手くいくはずだと信じ、日本の会社に戻るという道を捨てて、タイに残ったのです。それがいつしか現状に甘んじてしまって、「熱狂」がなくなっていたように思います。「熱狂」こそが重要なのだと、改めて気づかせてもらいました。

起業家
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 15:32 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月29日

親鸞聖人を学ぶ



これは随分前に、何かで親鸞聖人の話があったので、関連本を読みたいと思って買った本です。これまたずっと積読(つんどく)状態だったのですが、やっと読む順番が回ってきました。(笑)

著者は、哲学者の伊藤健太郎氏と真宗史学研究所研究員の仙波芳一氏。けっこう分厚くてしっかりした本ですが、値段はそれほど高くありません。読み始めてみてわかったのですが、とても読みやすく、かつわかりやすく書かれています。しかも、その内容はかなり深いものがあります。これなら、親鸞聖人のことを知るのに、入門書としては最適ではないかと思いました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

人は死ねばどうなるのか。この世が終わったら、どこへ旅立つのか。後生(ごしょう)(来世)は有るのか、無いのか、どうなっているのやら、さっぱり分からない。未来は真っ暗がりだった。この「死んだらどうなるか分からない心」を、「後生暗い心」という。
 この「後生暗い心」を解決し、この世から永遠の幸福になることこそ、仏教の目的なのである。
」(p.30 - 31)

親鸞聖人は、比較的に豊かな家に生まれ、両親の愛情を受けて育ったようです。しかし4歳で父と死別し、8歳で母とも死別します。次は自分の番だと思った時、死んだらどうなるのかという不安に襲われ、9歳で仏門に入ったのです。

出家がやっと認められましたが、得度の式が翌日になると聞いた親鸞聖人は、次の歌を詠んで、すぐにも得度したいと訴えました。

明日(あす)ありと 思う心の あだ桜(ざくら) 夜半(よわ)に嵐の 吹かぬものかは」(p.32)

これが9歳で詠んだ歌ですからね。元々の教養の高さと、道を求める強い気持ちを持っていたのです。


比叡山にこもって修行していた親鸞聖人が26歳の時、妙齢の女性との出会いがあったそうです。そのころ比叡山は女人禁制の山でした。しかしその女性は、自分には深い悩みがあってそれを何とかしたいので、山に連れて行ってくれと言うのです。断る親鸞聖人に対し、その女性はこう言ったそうです。

伝教大師ほどの方が、「涅槃経(ねはんきょう)」を読まれたことがなかったのでしょうか。「涅槃経」には「山川草木(やまかわそうもく) 悉有仏性(しつうぶっしょう)」と、説かれていると聞いております。全ての者に仏になれる可能性があると、お釈迦さまはおっしゃっているではありませんか。」(p.41)

親鸞さま。女が汚れているから、といわれるのなら、汚れている、罪の重いものほど余計、哀れみたもうのが、仏さまの慈悲と聞いております。」(p.42)

こう理詰めで迫られては、親鸞聖人もたじたじだったのではないでしょうか。しかし、この女性の言うことは道理に合っています。人間ですらできの悪い子ほどかわいいと言うのに、仏ができの悪い人間をかわいがらないはずがない。この女性とのやり取りは、後の浄土真宗の考え方につながって行きます。
女性はまたさらに、こう言います。

親鸞さま。このお山には、鳥や獣のメスはいないのでしょうか。汚れたメスが入ると、山が汚れるといわれるならば、すでに鳥や獣のメスで、この山は汚れています。」(p.42)

これにはぐうの音も出ませんね。動物のメスが入っている山に、どうして人間のメスだけ入れないのか? 比叡山は、仏法の精神に反しているとしか言えません。女性は親鸞聖人に、いつか真の仏法を開いてくれとお願いして、その場を立ち去ったそうです。

この話は親鸞聖人が、これまでの仏教がいかに間違ったものであるかを端的に示すために作った、作り話かもしれません。いずれにせよ、この女性の指摘は考えさせられるものです。


だから仏教では、「殺るよりも 劣らぬものは 思う罪」といわれて、実際に体で殺すより、「あいつ死んでくれたら」と心で殺す罪のほうが、もっと重いと教えられる。」(p.46)

仏教では、口(言葉)、体(行為)、心(思い)の3つで人間を評価するそうです。しかし、口や体は心の命令なしには動かないので、心を最重視するのだと。たとえば、判断力のない少年がそそのかされて誰かを殺したら、実際に殺した少年よりもそそのかした人の方が罪が重い。そういうふうに考えるそうです。

「神との対話」では、人は思考、言葉、行為の3つで創造すると言っています。創造の大本は思考なのです。またキリスト教でもイエスが、情欲の思いで女を見たものは姦淫をしたのと同じだと言っています。心が大本だという仏教の考え方は、それらと同じようなことだと思います。


阿弥陀仏は、僧侶も在家(ざいけ)の人も、男も女も、老いも若きも、一切の差別なく救うと誓われている。全ての人が、ありのままの姿で救われる「弥陀の本願」こそ、真実の仏法であることを明らかにするために、親鸞聖人は肉食妻帯(にくじきさいたい)をあえて決行されたのである。」(p.60 - 61)

これまでの仏教では、僧侶は女性に触れてはならないとされていました。ましてや結婚などあり得ません。そういった戒めを親鸞聖人は堂々と破り、自力ではなく他力(阿弥陀仏の力)でしか救われないという仏法を示したのです。


親鸞聖人が主著『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』に、「それ真実の教を顕(あらわ)さば、すなわち『大無量寿経(だいむりょうじゅきょう)』これなり」と道破された根拠は幾つもあるが、まず釈迦が自ら『大無量寿経』を説く時に、
「私がこの世に生まれ出た目的は、一切の人々を絶対の幸福に導く、この経を説くためであったのだ」
と明言しているからである。
 そして最後に釈迦は、
「この教は、一切の経典が滅する時が来ても残り、全ての人が真実の幸福に救済されるであろう」
と予言されている。
」(p.70)

これは本当でしょうか? 私は確認していないので何とも言えないのですが、これが本当なら、もはや何も迷うことがありません。しかし、それならばなぜ、法華経が最高だという考え方が広まっていたのでしょう? その疑問に、この本は答えていません。

※「大無量寿経」の現代語訳は、こちらにあります。「現代語 無量寿経 (巻上)」「現代語 無量寿経 (巻下)」
 「上」にある「法蔵菩薩の48とおりの願い」の中の第18が、いわゆる「弥陀の本願」と呼ばれるものです。
 これを読むと、「五逆」の罪を犯したり、仏の教えを謗(そし)る者は除かれるとありますね。このことからすると、「すべての人を救う」というのは間違った解釈のように思います。
 「下」に、その「五逆」とされる罪が書かれています。また、念仏による往生もありました。
 解釈するのは難解で、他にも様々な解釈が可能かもしれません。



今、溺れて苦しんでいる人に、溺死したら助けるという者はない。今、腹痛で苦しんでいる人に、死んだら治すという医者もいないだろう。ましていわんや大慈悲心の阿弥陀仏が、「この世の苦悩はどうにもできぬ、苦しくても我慢しなさい。死んだら助けよう」と誓われる道理がないのだ。」(p.75)

親鸞聖人は34歳の時、法然門下の法友と大論争を3度やっているそうです。これを「三大じょう論」(※「じょう」は淨のサンズイがゴンベンの漢字)と呼ぶのだとか。その1つ目で、救われるのは生きている時か、それとも死後かという論争がありました。親鸞聖人は生きている時と主張し、師の法然もそれを支持したのです。


「三大じょう論」の2つ目は、信心は人によって同じか、違うかという論争です。これも同じと主張する親鸞聖人が勝ちました。信心は自力で得るものではなく、他力で与えられるものだからです。

3つ目は、念仏で救われるのか、それとも信心一つで救われるのか、という論争でした。これも信心一つで救われるとした親鸞聖人が、師の法然から支持されました。念仏で救われるという考え方は、自力になってしまうのですね。他力で与えられるのが信心なら、それだけで救われるのです。

このように親鸞聖人は、ことごとく論争に勝ったことで、法友たちからは妬まれ、恨みを買ったようです。後に法然の後を引き継いだ弟子は、親鸞を浄土宗の仲間と認めずに妨害を続けました。なので、親鸞一門が浄土真宗と名乗ることができたのは、明治になってからのことだそうです。


釈迦が仏教を説かれた目的は、弥陀の本願一つを教えるためであったが、その真意が分からず、『大無量寿経』以外の経典に基づいて立てられたのが、聖道仏教(しょうどうぶっきょう)の各宗派である。
 例えば天台宗は『法華経』を、真言宗は『大日経』や『金剛頂経(こんごうちょうきょう)』、法相宗(ほっそうしゅう)は『解深密経(げじんみっきょう)』、華厳宗は『華厳経』を最高の経典としている。
」(p.95)

法然上人は、聖道諸宗の学者といずれが優れた経典かという論争をして、論破したことがあったそうです。ただしその説を押しつけるようなことはせず、自分は優れていないから自力で悟ることができず、他力にすがる他ないのだと述べたとか。


これは一切の諸仏は、最後は、阿弥陀仏のお力によって仏になったということである。諸仏でさえそうなのだから、全ての人は、阿弥陀仏によらねば絶対、救われない。だから釈迦は『大無量寿経』の結論として、
「無量寿仏(阿弥陀仏)に一向専念(いっこうせんねん)せよ」(阿弥陀仏のみを信じよ)と教えられたのである。
」(p.102)

これほど明確に釈迦が言ったと経典にあるなら、先ほどと同様に、何の問題も起きないと思うのですけどね。本当に、どうして迷いが生じてしまったのか、そちらの方が不思議です。


親鸞聖人の教えの特徴の一つは、祈祷の仏教を、無祈祷の仏教にしたことである。」(p.163)

空海の真言宗はもちろん、最澄の天台宗でも、やはり加持祈祷によって病気を治すなど、現世利益をもたらすことが普通に行なわれました。これは、時の貴族たちがこぞってそれを求めたからでもありますが。そういったこれまでの仏教を否定し、悟りを求めることこそが仏教の真髄であるとしたのです。


天台・真言宗などは、「日本の著名な神は、実は仏が神の姿となって現れたものだ」と主張した。経典には、「仏は衆生(しゅじょう)を救うために、一時、いろいろなものに姿を変えて現れる」と説かれており、これを「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」という。この本地垂迹を都合よく解釈した、「神社の神も元は仏であり、神も仏も一体だ」という説が、天台・真言によって広められ、社会の常識となったのである。
 仏典には、神を拝んではならないと、厳しく教えられている。だが仏教は日本で骨抜きにされて他宗教と化し、僧侶が平気で神を礼拝するようになった。
 そこへ法然上人と親鸞聖人が現れ、「一向専念無量寿仏(いっこうせんねんむりょうじゅぶつ)」を強調し、阿弥陀仏以外の仏・菩薩・神を捨てよと説かれたのである。
」(p.170)

神仏の融合が、天台宗や真言宗から始まったのですね。そして、浄土宗や浄土真宗の教えは、神を拝むなと言うだけでなく、他の仏や菩薩も拝むなと言っています。これはある意味、とても厳しい教えだと思います。


親鸞聖人は、浄土仏教には「真の浄土仏教」と「仮の浄土仏教」があるから、気をつけなさいよ、と教えられている。証空(しょうくう)のように、”念仏さえ称(とな)えていれば、死んだら極楽へ往(ゆ)ける”と教えるのは「仮の浄土仏教」であり、速やかに捨てなければ助からない。」(p.175 - 176)

親鸞聖人は、まず仏教以外の一切の宗教を捨てること、次に仏教の中でも聖道仏教を捨てて浄土仏教を信じるよう言っています。さらに、浄土仏教の中でも仮の浄土仏教(自力)を捨てよと言うのですね。

このように親鸞聖人の教えは一切の妥協を排し、徹頭徹尾あらゆる不純物を払いのけ、釈迦の真意を明らかにされる、冷厳無比な廃立(はいりゅう)の教えである。」(p.177)

しかし、私には疑問があります。どうして他力で救われるのに、真の浄土仏教を信じなければならないのでしょう? 阿弥陀仏の本願で無条件に救われるのであれば、そこに条件は不要ではないでしょうか? 仮に他の宗教を信じていても救われる。それが完全な他力だと思います。このことについて、この本には答えがありませんでした。


この世で弥陀の本願に救い摂られた人は、たとえ、どんな死に様であろうとも、必ず弥陀の浄土に生まれられる。だからこそ、平生、明らかに救い摂られること(信心獲得(しんじんぎゃくとく))こそが、最も大事なのである。
 親鸞聖人は常に、「私が死んだら、鴨川へ捨てて、魚に与えよ」と言われ、墓や葬式など、全く問題にされていなかった。それは、焼けば灰になる肉体の後始末より、魂の解決(信心獲得)こそ急がねばならぬという教誡(きょうかい)である。
」(p.243 - 244)

大勢に見守られて死ぬとか、死に顔が穏やかだとか、そんなことは関係がないと言われるのですね。それよりも生きているうちに信心を得ることが重要なのだと。

しかし、その信心は阿弥陀仏に与えられるものであり、自力で得るものではないと言っていますよね? では、どうすれば信心が得られるのでしょう? 間接的に読み取れるのは、法話を聞くことだったり、念仏を唱えることだったりするようですが、でも、それによって信心が得られるのではおかしくなります。それらは自力ですから。このあたりも、この本には答えがありません。

また、他の本で、浄土真宗など新興宗教が広まったのは、葬式を行うようになったからだとありました。親鸞聖人がこういう考え方なのに、葬式を行ったのでしょうか? それとも、それは後の時代からでしょうか? もしそうだとすると、親鸞聖人の考え方から外れているようにも思います。


仏教では特に、私たちが最も知りたい、幸福の原因と結果の関係が詳しく説かれている。それを釈迦は、「善因善果、悪因悪果、自因自果」と教えている。」(p.259)

良いも悪いも、すべて自分が作ったもの。これは「神との対話」などでも言われている通りです。しかし、この本ではあまり詳しく書かれていないので、これだけだと疑問が生じます。様々な妨害を受け、流罪にまでなったのは、親鸞聖人の悪因悪果でしょうか? 息子に裏切られて勘当までするハメになったのも、自業自得でしょうか? この答えとも思える部分は、他に書かれています。


死は一〇〇パーセント確実な未来である。一〇〇パーセント墜落する飛行機に乗る者はいないが、全ての人間は、生まれた時に、そんな飛行機に乗り込むのである。
 自分の乗っている飛行機が墜落すると分かったら、どうなるか。食事も喉を通らないし、映画どころではない。恐怖のあまり泣き叫ぶだろう。
」(p.274)

これは面白いたとえですね。それに的を射ています。最初にあった「後生暗い心」というのは、まさにこういうことなのでしょう。


仏法では幸福を「相対の幸福」と「絶対の幸福」の二つに分ける。相対の幸福とは、一時的な喜びや満足をいい、やがては必ず壊れたり、悲しみや苦しみに変わったりする幸福をいう。」(p.281)

好きな人と結婚できたなどというのは、「相対の幸福」なのです。それで幸せになれたように見えても、次の瞬間にはその幸せは消えます。これは、幸せに条件があるという考え方ですね。何かを手に入れたり、何かを成し遂げることによる幸せ。そういう幸せを追い求めると、翻弄されてしまうのです。

では、「絶対の幸福」とは何か? ここに先ほどの答えと思えることが書かれていました。越後流刑になった親鸞聖人は、そのことに対して激怒されたそうです。しかし後になって、次のように思われたとか。

同時に親鸞聖人は、「法然上人が流刑に遭われなかったら、親鸞も流罪にならなかった。もし私が流刑に遭わなければ、越後の人々に弥陀の本願を伝えられなかったに違いない。全ては法然上人のおかげである」と感謝されている。
 このように、苦悩がそのまま喜びと転じ変わる世界が、本願の不思議に救い摂られた世界なのである。
」(p.285)

これは「神との対話」で言っているように、出来事そのものに「良い」「悪い」はないということです。その出来事を「悪い」と考えていれば、怒りや恨みが生じます。でも、見方を変えることで「良い」と考えれば、感謝の思いが出てくるのです。

このように、出来事に翻弄されないことが「絶対の幸福」だと思います。そして、その境地に至れば、すべては自分のために起こっており、そこに仏の慈悲を感じるのではないでしょうか? そうなれば、「善因善果」となり、「自因自果」を受け入れられるのです。


阿弥陀仏の本願は、生きている時は絶対の幸福に救い摂り(不体失往生(ふたいしつおうじょう))、死んだ後は極楽へ生まれさせて、未来永遠の幸福に生かし切る(体失往生)という誓願である。」(p.288)

往生には、現在の往生と、死んでからの往生と二つあるが、現在ただ今、往生できている人だけが、死んで往生できるので、親鸞聖人は「生きている時の往生を急げ」と叫び続けられたのである。」(p.288)

これは法友と論争した時の話ですね。生きている時に往生(絶対の幸福を得る)していなければ、死んでから阿弥陀仏の浄土へ行く(往生する)こともできないと言います。そうなると、先ほども書いた疑問ですが、どうやったら生きている時に往生できるのか? ということになります。いくら急げと言われても、他力によるのであれば、どうしようもないように思います。


なお、ここまで「無明の闇(むみょうのやみ)」を「後生暗い心」と説明してきたが、これは言い換えれば「自力」であり、「弥陀の本願を疑っている心」にほかならない。この自力の心こそが、過去幾億兆年より我々を苦しめている元凶だから、親鸞聖人の教えは「自力を捨てよ」で一貫されているのである。」(p.295)

あまり詳しく解説されていないのですが、ここに先ほどの疑問のヒントがあります。つまり、自力とは、自分で何とかしなければという焦りであり、不安からくるものです。そしてその不安があるのは、他力を疑っているからですね。阿弥陀仏の本願により救われると信じていれば、不安は消えるはずです。

その信心さえ、他力で与えられるものというのは、完全に自力を捨て去らなければ得られないからでしょう。つまり、こうすれば信心が得られると考えている間は、何か条件をつけて成し遂げようとしているのですから、成し遂げられない可能性が残るのです。

こういうことは、「神との対話」などを読んでいるから理解できることです。この本には、そこまで詳しいことは書かれていません。まあ入門書ですからね。


親鸞聖人は念仏を、称える心の違いによって、三とおりに分けられた。「万行随一(まんぎょうずいいち)の念仏」「万行超過(まんぎょうちょうか)の念仏」「自然法爾(じねんほうに)の念仏」の三つである。」(p.296)

「万行随一の念仏」とは、念仏は尊いものだから、唱えていれば悪いことが起こらないという考えで行う念仏です。「万行超過の念仏」とは、念仏には素晴らしい功徳があるから、念仏さえ唱えていれば救われると考えて行う念仏です。この2つは、自力の念仏だと言います。

最後の「自然法爾の念仏」は、阿弥陀仏を信じることで絶対の幸福に救われた人が、そのご恩にどうやって報いようかと吹き上がる喜びから唱える念仏、つまり感謝の念仏です。これが他力の念仏で、これこそが真の念仏だと言います。

つまり、念仏を唱えるから救われるのではないのです。他力で救われると信じることで、自然と念仏を唱えたくなる。そういうものなのですね。

これは「神との対話」で、先に在り方を決めるという話と似ています。先に幸せであれば、あらゆることに感謝の気持ちが湧いてきます。自分が決めた在り方から思考が沸き起こり、言葉となり、行為となって、現実が創造されるのです。


これまで、多少は知っていたつもりの浄土真宗の思想でしたが、この本を読むことで、もっと深いものがあったのだとわかりました。なんだか親鸞聖人のこと、法然上人のことに、とても興味が湧いてきました。

親鸞聖人を学ぶ
 
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2017年12月27日

課長のルール



メンターの吉江勝(よしえ・まさる)さんの本を読みました。吉江さんの本は、これまでに「どんな人にも1つや2つ儲けのネタはある!」「人生を好転させるたった2つのこと」を紹介しています。マーケティングのコンサルタントなのですが、起業支援もされています。

今回の本は、何かの景品としていただいた本だったと思います。もう課長は関係ないかなと思って、ずっと積読(つんどく)状態でした。(汗) さすがに放置もできないので、読んでみました。これから課長になる方、あるいは今、課長をされてる方に、仕事の進め方や心構えなど、101の項目(ルール)に分けて解説しておられます。


ではさっそく、一部を引用して内容を紹介しましょう。
とは言え、この幸せ実践塾で課長の作法を紹介しても仕方がないので、幸せに通じるような考え方の部分を紹介しますね。

出世にこだわらない姿勢が出世を呼ぶ」(p.216)

これは「課長のルール94」のタイトルです。ここでは、出世したいという気持ちがあっても、それを前面に出すのではなく、その気持を忘れたかのように目の前の業務遂行に全力を尽くす方が、結果的には出世が早いという話題を取り上げています。

これは、まさに私がいつも言っていることですね。「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」結果に執着せず、放り出した方が良い結果に結びつくのです。


その悩みは自分をもっと上のステージに導いてくれる宝物だと認識して、問題が起こったら喜ぶくらいのポジティブさが課長には必要です。」(p.219)

問題が起こらないことが良いのではありません。起こった方がむしろ良いのだと吉江さんは言います。なぜなら、それによって自分も会社も成長できるからだと。

そこで、何か起きた時に唱えるおまじないを2つ紹介しています。それは、「これでいいのだ」「なるようになる」だそうです。何が起ころうとも「これでいいのだ」と言い、あとは「なるようになる」と腹をくくって対処する。そうすれば、結果はついてくるのですね。


私はこの現実社会の理不尽こそ、神様があなたと遊びたくて繰り出すゲームなんだと思うのです。」(p.231)

神様とのゲームですから、もし自分が真剣に取り組めば、神様も楽しいでしょう。そうなれば、神様が幸運とか成長とかのプレゼントをくれると吉江さんは言います。

神様のご厚意による恩恵はどうかと思いますが、現実はゲームだという考え方はわかりやすいと思います。ですからどんな困難なことも、ゲームの中の山場に過ぎないのです。最高に面白いところですから、それは真剣に取り組まないともったいないというものです。

そして、問題に真剣に取り組み、果敢に挑戦していれば、自然と成長が促されます。そして、そういう前向きさが、幸運な現実を引き寄せるのだと思います。


この本には、具体的な仕事の仕方などの話もたくさん載っています。したがって、実際に課長をされてる方は、そちらも参考になると思います。これから課長を目指す方は、予習にいいかもしれません。そして、その上に行かれた方は、後輩への贈り物としてどうでしょうか。

メンターの本ですから、一応宣伝しておかないとね。(笑) まあそれは冗談ですが、生き方そのものに言及された部分もあり、大いに役立つ本だと思います。

課長のルール

吉江勝さんのサイン
 
タグ:吉江勝
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2017年12月23日

〈新装版〉心配症をなおす本



森田療法の本を読みました。サブタイトルには「よく分かる森田療法・森田理論」とあります。著者は森田療法の研究の第一人者、青木薫久(あおき・しげひさ)氏です。この本はおそらく、Facebookで「人生を変える幸せの腰痛学校」伊藤かよこさんが紹介されていて、それで買ったのではないかと思います。

私自身、森田療法という名前は知っていましたが、詳しいことは知りませんでした。紹介文を読んで興味深く感じたので、買ってみたのです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

「たえずあらわれてくる不安ととらわれはしかたのないものだから、これにさからわないようにし、不安・苦悩のまっただ中にあっても、当面はなすべきことをなしていく」という吉沢さんがとっている態度を、わたしたちは”あるがままの態度”といっています。
 この”あるがままの態度”は悪循環を断ち切り、不安やとらわれをのりこえていく一つのバネになるのです。
」(p.19)

森田療法で心配症が改善した吉沢さんの例を取り上げ、その本質が「あるがままの態度」を取ることだと言っています。つまり、不安を感じちゃいけないと、自分のマイナス感情を否定することがダメなのですね。湧き上がる感情はそのままに認める。それを受けいれながら、為すべきことは為す。

「神との対話」などでも、感情を抑圧することは良くないと言っています。そして不安を乗り越えるには、それをしっかりと見つめることと、最後は一歩を踏み出す勇気なのです。森田療法も、同じようなことを言っているのだなぁと思いました。

”あるがままの態度”で社会生活上の問題を一つ一つ解決していけば、あなたの心は軽くなり、不安やとらわれは少しずつうすらいでくるでしょう。そうなれば、あなたの行動にはずみがついてきて、心にも張りが生まれ、よりいっそう仕事にはげむようになりますし、不安やとらわれにたいする硬直した態度はなくなってくるでしょう。」(p.30)

この過程では、不安や恐怖に飛び込むような感じ(恐怖突入)や、不安と一緒に行動するような感じ(不安共存)を感じるでしょうけど、為すべきことなのですから仕方なく為すしかないのです。諦めのような気持ちでしょうか。開き直りと言う方がふさわしいかもしれません。

いずれにせよ、そうやって不安があっても否定せずに、ただやるべきことをやっていく、というのが森田療法なのです。


”治そうとする態度”と”治そうとはしない態度”が相互に矛盾しながら”あるがままの態度”のなかにふくまれているのです。そして”治そうとする態度”と”治そうとはしない態度”の矛盾のなかで、前進がみられ、しだいに吃音をのりこえていくのです。
 このように、運動・発達する事物のなかに相対立する二つの側面の矛盾・葛藤をみることを、森田療法では「両面観」といっています。
」(p.131 - 132)

吃音に悩む人たちの全国組織で、吃音者宣言というのを作ったそうです。そこには、どもることを恐れず、どもるままに社会人として行動する、というようなことが書かれています。これに対して、治療の放棄だという反対意見があったのだとか。

この矛盾が、森田療法の中では統合されるのだと言います。つまり、治療を放棄したのではなく、治療のためにこそ、治療されなくてもかまわないという態度が必要だということです。治療にこだわることが、かえって治療を遅らせてしまう。そういう矛盾があるのですね。


よく「神経質は内向的だ」といわれますが、一方の気持ちは「強い欲求」によって外に向かっています。つまり「神経質は外交的だ」ということもできるわけで、このように人間の性格は矛盾しているからこそ、運動し発展していくものだ、ということができます。
 このように、運動・変化していく事物のなかには、かならず矛盾があるもので、これを「矛盾の普遍性」とよんでいます。
」(p.135)

神経質な人は失敗を恐れ、内向的だと言われます。けれども心にはものすごい葛藤があって、その強い欲求が治療の困難に立ち向かわせます。このように、相矛盾するものがあるのですね。そして、だからこそ運動し発展すると言います。弁証法もそうですが、矛盾こそが変化を生み出し、変化は発展につながるのです。


しかし、ここで注意しなければならないことがあります。それは、自分が悩みをのりこえ、自信をもちはじめると、他人の悩みも同じことだと軽々しく判断して、自分の体験がいちばんだと押しつけることです。人の心はさまざまです。だから悩みもさまざまで、人にはそれぞれ独自の悩みがあります。つまり、「世の中の事物には一般と特殊、つまり共通する性質とそのもの独自の性質の矛盾がある」ことをわきまえないと、この「平等観のとらわれ」となってしまうのです。」(p.144)

やや難しく語り過ぎているきらいはあります。そう何でも「矛盾」にする必要はないとは思いますが、森田理論としては「矛盾」で統一したいのでしょう。要は、一般的に言えることもあれば、個別にしか言えないこともあるよ、ということです。

当たり前と言えば当たり前なのですが、猫好きな人がいるからと言って、すべての人が猫好きではありません。猫を飼ったら気が紛れて病気治療にいいよというようなアドバイスは、猫好きの人の中では一般的であっても、そうでない人には役に立たないアドバイスですから。


このことは、奉仕も「客観的事実」の正しい分析と、それにもとづいた正しい方針なくしては、かえってアダになることすらある、ということを、はっきりと示しています。
 そして、「現実に根ざした奉仕」の重要な意味が、おわかりいただけることでしょう。つまり、奉仕のポイントは「客観的現実にあったものでなくてはならない」ということです。
」(p.230)

ここは、とても違和感を感じた部分なので、あえて紹介しました。シュバイツァー博士を例にして、世界的にはその業績が讃えられているものの、現地の評判は散々だということが書かれていました。だから、奉仕をするなら客観的事実を正しく分析し、正しい方針を選択せよと言っているのですね。

でも、「客観的」とは何でしょうか? 現地の評判が散々だとしても、現地の人でシュバイツァー博士に感謝している人は1人もいないのでしょうか? 先ほど、すべてに矛盾があると言っているのに、ここにきて、絶対的な正しさがあるとするなら、それこそ矛盾でしょう。

このあと、客観的な現実にあった奉仕の例として、家の掃除や皿洗いをあげています。それをされて怒る人は、よほどの変人だとこきおろします。そうでしょうか? たとえば、台所を自分の縄張りだと感じている妻がいるのに、お姑さんが勝手に皿洗いをしたら、どうでしょうか? 表面上は感謝して見せるかもしれませんが、内心は腸が煮えくり返る思いかもしれません。

ですから、客観的事実などというものは存在しないのです。それが何かを分析することより、個々人がどう感じるかという主観を尋ねる方が重要だと思います。もちろん、自分がそれをされたら助かるなあという感覚で、どんな奉仕をするかを選ぶことも良いでしょう。けれども、他人が同じように感じるなどと決めつけないことです。

やや本の内容を否定してしまいますが、この部分は私が納得できなかった部分ですので、あえて書いておきます。


事例も豊富に載っていて、森田療法の理論もわかりやすく書かれています。
理屈っぽく頭でっかちになるのではなく、現実の事実に即して行動するという実践を重んじています。不安や恐怖が沸き起こっても、それをそのままにやるべきことをやる。その行動の積み重ねによって、治療がなされるのですね。

また世の中は、一面的にとらえることはできず、必ず矛盾があるし、両面性があるものです。ですから決めつけをせずに、丸ごと受け入れる、ありのままに受け入れることが重要だと。それができないとらわれ(執着心)こそが、病気の原因になっているようにも思います。

〈新装版〉心配症をなおす本
 
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2017年12月19日

99.9%は仮説


野口嘉則さんのオンライン講座の課題図書を読みました。サブタイトルに「思いこみで判断しないための考え方」とあるように、常識を疑うということがテーマです。著者は科学作家の竹内薫(たけうち・かおる)さんです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

科学は絶対的なものごとの基準ではありません。あくまでも、ひとつの見方にすぎないのです。
 よく「科学的根拠」がないものは無視されたりしますが、それはまったくナンセンスです。
 なぜなら、科学はぜんぶ「仮説にすぎない」からです。」(p.32 - 33)

ここまでに、飛行機が飛ぶ原理が解明されてないことなど、いくつかの驚くべき事実が書かれています。その上で、科学はすべて仮説だと言うのです。にわかには信じられなかったのですが、この本を読み終えた時には、その通りだと思えるようになりました。


つまり、常識というやつは意外にもろいのです。常識はくつがえるものなのです。
 ですから、この本では、そういった常識のことも「仮説」と呼ぶことにしたいと思います。常識は仮説にすぎないのです。」(p.57)

科学だけでなく、常識もまた仮説だと言います。真実ではないということですね。ここの前にガリレオの望遠鏡の話、コペルニクスの地動説の話などがあるのですが、当時の人が常識として信じてきたことが覆されてきた歴史がありました。


「タブーに挑戦し、あらゆる仮説に触れてみよ」

 とにかく、いろいろな仮説にじかに触れてみることが大切だ、というのです。
 ガリレオの望遠鏡を否定した教授たちは、自分たちの仮説をおびやかす代替案に耳を傾けることを拒否しました。それは、社会でタブーと呼ばれるものです。
 ファイヤアーベントは、あえてタブーに挑戦し、あらゆる仮説に触れることにより、知的な「免疫力」をつけろ、というのです。」(p.95 - 96)

自分の中にこびりついている仮説に気づき、本当はそうではないかもしれないと思えるようになるために、このようにアドバイスをしています。頭から否定するのではなく、タブーと思われていることこそ、それもあるかもと思って触れてみることが重要なのです。


結果的には、ロボトミー手術というのは、とりかえしのつかない治療法だったということになります。世論が一八〇度変わってしまったわけです。
 そして、一九七〇年代以降、この手術はもうほとんどおこなわれなくなりました。
 この世には「正しいこと」などなにもない。
 世界一権威のあるノーベル賞といえども、まちがえることはあります。」(p.108 - 109)

これはまったく知らなかったのですが、精神疾患の治療法として、脳の一部を切除するロボトミー手術というものがあり、それを人体に適用して広めたモニスという医師は、ノーベル賞を受賞しているのです。しかし後に、それがとんでもないひどい手術だったとわかったのですね。

このように、どんな権威が認めたことでも、それが間違っているということはあり得ると竹内さんは言います。ただ、今の常識を当てはめてモニス医師が悪いと断罪する必要はありません。当時はそれが正しかった。けれども今は正しくない。それだけのことなのです。


人間が作りだす世界は言語がもとになっています。そういう意味では、文化のすべてが仮説だといっても過言ではありません。
 でも、その仮説には、白から黒までの幅広いグラデーションがあり、また、専門家と素人で、その濃淡の感じ方も大きく変わることがあるのです。」(p.126)

その時代の大部分の専門家が正しいと認める仮説を白い仮説、大部分が認めない仮説を黒い仮説と呼ぶそうです。しかし仮説には、白と黒だけがあるのではなく、その中間のグレーもあり、グレーの濃淡も様々なのですね。


ようするに、歴史も文化である以上、「裸の史実」など存在しないのです。
 だって、日本史の一級資料であっても、その書き手がホントのホントに事実をそのまま書き写したと検証できますか?
 つまり、歴史はあくまでも仮説の集まりであり、真実ではないのです。」(p.156)

指摘されてみればそうですね。今、目の前で見られない以上、確認のしようがありません。再現することもできませんから。そうなると歴史は、伝聞か、伝聞の伝聞か、ということになってしまいます。真実ではなく、仮説だということです。

だからこそ、歴史を疑う姿勢が必要なのですが、多くの人は真実だと錯覚します。そしてプロパガンダに騙され、判断を誤ってしまうのです。そういう意味では、騙されないことも重要ですが、プロパガンダを放っておかないことも大事だと思います。それがいつしか、真実として語られるようになるからです。


わかっていないことについては、わかっていないとちゃんと教えるべきなんです。その線引きを曖昧にしてはいけません。
 なにがわかっていないかということがはっきりすると、たとえば天才がでてきて、それをひっくりかえしたりします。
 でも、一〇〇パーセントわかってはいないのに、一〇〇パーセントわかったかのように強制的にみんなに教えてしまうと、だれもが先入観としてもってしまって、疑問に思う人がいなくなってしまいますよね。」(p.175)

教える側としては、まだ検証されていない仮説、定まっていない仮説は、完全にわかっているわけではないことを教える必要があると言います。複数の仮説がある場合は、それをすべて教えるのが良いとも。自分で考えさせるようにするためにも、仮説にすぎないことを教えることは、とても効果的だと思います。


そうすると、世間でいう「正しいこと」には絶対的な根拠がひとつもないことがわかってきます。
 誤解を恐れずにいうと、人殺しですらある意味では悪じゃない可能性がある。
 戦争でも、戦勝国の英雄は人殺しですが悪じゃない。でも、敗戦国の英雄は戦争犯罪人として裁かれるでしょう?」(p.199 - 200)

こういう極論は大好きです。(笑) なぜなら、真実がはっきりしますから。たしかに、人殺しさえ悪ではない現実があります。価値観次第では正義となり、殺せば殺すほど英雄になるのですから。


つまり、話が通じないのは、自分の仮説が相手に通じていないということです。また、相手の仮説を自分が理解していないということでもあるのです。」(p.226)

意見が対立し、話が噛み合わない相手というのは、お互いの仮説が違っているからだと言うのですね。たしかに、そもそも前提とする価値観が違っていれば、話は噛み合いません。

竹内さんは、そういう時は相手の仮説(価値観)を理解しようとしてみることを勧めます。それがすぐに理解できないとしても、相手には相手の仮説があるのだと思って考えてみることで、自分のキャパが広がると思います。


新書版で、ちょっと小難しそうな印象を受けましたが、いざ読んでみるとまったく違いました。とても読みやすく、すいすいと一気に読んでしまいました。

常識がいかに常識ではないか。自分がいかに特定の仮説(価値観)を真実だと思い込んで生きているか。そういうことを知るのに、最適な本だと思います。それがわかれば、対人関係でも柔軟になれますし、怒りやイライラからも解放されるでしょう。

99.9%は仮説


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2017年12月18日

無肥料栽培を実現する本



また農業関係の本を読みました。著者は岡本よりたかさん。「よりたか農法」と呼ばれる無肥料栽培を実践されています。

農業関連では、これまでに「大地がよろこぶ「ありがとう」の奇跡」「百姓が地球を救う」「自然農という生き方」「ニンジンの奇跡」などの本を読んで紹介しています。私は農業などしたことがなく、せいぜい子どものころ、祖父母の手伝いをした程度なのに、なぜか魅力を感じてしまうのです。

これは、食べ物が人工的であることに対する何とも言えない違和感から、自然な食べ物が身体のために良いと感じているからかもしれません。あるいは、「育てる」ということに、魅力を感じているからかもしれません。理由はよくわかりませんが、農業、特に人工的な農薬や化学肥料を使わない農業に関心が向くのです。

この本のサブタイトルには、「ビギナーからプロまで全ての食の安全を願う人々へ」と書かれています。岡本さんも、化学物質に過敏な人のためにということで、無農薬無肥料の野菜づくりをされてるそうです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

なぜ植物は成長するのか、なぜ成長しないのか、なぜ虫が来るのか、なぜ虫が来なくなるのか、なぜ病があり、なぜ病に勝てるのか、その答えは、全て自然界の中にあります。自然界から得られた解答は、無肥料栽培を行う上で最も大切なマニュアルなのです。」(p.6)

手順が書かれた本を読んでそれに従っているだけでは、応用が効きません。なぜそうするのかがわかっていなければ、返って良くないことをやってしまう可能性もあります。だからこそ、何をどうすれば良いかは、野菜そのものに聞くべきなのですね。


マメ科の植物には、根粒菌という菌が寄生しますが、この根粒菌も窒素固定菌の一種です。落雷によっても、空気中のチッソが土壌中に固定されると言われています。
 土壌中に取り込まれた窒素は、植物によって消費され、余った窒素の一部は空気中に消えていきます。これを「脱窒」といいます。こうして窒素は循環していきます。この窒素の循環があるからこそ、植物は無肥料で育っていけるのです。
」(p.13)

植物の重要な栄養素は、窒素、リン酸、カリと言われています。その窒素は空気中に豊富にあり、それが土壌に固定化されることで、植物の栄養となります。そして植物を形作った窒素は、また空気流に放出され、循環することになります。

自然界を見てみると、この循環が当たり前のように行なわれているのですね。どこにも滞ることなく流れていく。その流れがスムーズであればあるほど、自然は豊かなのです。


しかしよく考えてみれば、自然界は連作障害など起きてはいません。自然界では種はその場にこぼれ、翌年同じ場所で芽吹くのが当たり前だからです。つまり連作障害は人間が作り出した問題だということが推測できます。
正しいミネラルバランスがとれると、正しい微生物バランスが生まれ、連作障害を防ぐことができます。難しいようで、実は簡単なことです。
」(p.21)

農業で問題となる連作障害について岡本さんは、ミネラルバランスが崩れることが問題だと言います。そして、自然界ではそれが整うようになっているのだと。

ですから岡本さんは、「コンパニオンプランツ」と呼ばれる同じ畝(うね)で複数の野菜を育てるというやり方をしておられるのです。


雑草の種類が10種類以上見つけられるようならやせてはいないと判断します。」(p.73)

土壌改良する必要があるかどうかの判断基準として、多様な雑草が生えているかどうかを第1の基準にすると岡本さんは言います。

次には土そのものを見て、粘土質ならやせてる、腐食が多くて黒っぽくなっていれば肥えているという判断です。さらにph(ペーハー)も測って6以上(弱アルカリ)かどうかを判断します。それもOKなら、単純に作物がよく育つかどうかで判断すると。こうやって土壌改良が必要だとなった場合に、土を耕したり、緑肥を植えたりなどの特別な方法が必要になるのですね。

野菜を作る(=畑にする)ということで、すでに自然ではないのですから、何らかの人間による調整が必要になるのだと、岡本さんは言います。


雑草があるからこそ、土が豊かになり作物の成長を助けてくれるわけです。雑草が栄養を取ってしまうという考えは、土壌に肥料を与えるという行為から生まれてくる発想です。与えたから奪われたくないと考えてしまうわけですが、無肥料栽培ではその考えが全く逆転するだけです。」(p.98)

ここでも、循環が大切だということを言っています。循環がなければ、与えて消費されて終わりです。また新たにどこからか持ってきて与えなければなりません。こういう考え方をしているかぎり、永続的な農業は不可能です。そして、それは自然に反するのです。


少数の困っている人たちに、少数の僕らが作物を提供してあげればいいんです。それが僕らの使命でもあるわけです。」(p.189)

多くの人は、多少の化学物質を摂取しても問題ありません。しかし中には、微量でも強烈に反応してしまう人がいる。そういう人にとって、今の社会では食べるものがありません。岡本さんは、そういう人たちのために、ごく一部の人が無農薬無肥料で野菜をつくることが、意味のあることだと言うのです。


大上段に構えて、無農薬無肥料こそが農業の主流であるべきなどと言う必要はないのですね。ただ、それを必要としている人がいる。少々高くても、そういう野菜を食べたい人がいる。そのニーズに応えるだけだと、緩やかに構えていればいいのかもしれません。

私は、今現在、農業をしているわけではありません。しかし、この本にあるように、自然はそもそも循環によって永続できるようになっているのです。ですから、農業をする場合でも無理をせず、自然の循環の中で作物を育てればいいのではないか、という気持ちになりました。

無肥料栽培を実現する本
 

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2017年12月16日

心に残る言葉

「大丈夫 心配するな 何とかなる
It’s OK. Don’t worry. It’ll work out.」


墨筆士・小林龍人

一休禅師の遺言とも言われるこの言葉を、私の友人で世界で活躍する「侍(サムライ)書道パフォーマー」とも呼ばれる墨筆士・小林龍人 (こばやし・りゅうじん)さんに書いていただきました。

この言葉は、「幸せ実践塾」でお伝えしている数多くの教えの中の究極の一言、「安心していること」を表現するのにもっともふさわしいと思います。

この書は、小林さんが著作権フリー(改変はダメです)で提供しているものです。よろしければ、小林さんのサイトの「言霊書道」のページにアクセスしてみてください。

こちらから、私が依頼した書以外にも、多数の書を自由にダウンロードし、使うことが可能です。小林さんの筆によって、魂を込められたこの書を、どうかお役立てくださいね。私も、スマホの待ち受け画面に使ってみました。


 

一休禅師の遺言の逸話は、次の通りです。

臨終の場で一休禅師は、一通の手紙を弟子に渡し、もしどうしようもないことが寺に起こった時は、それを開けて読むようにと伝えて亡くなりました。

それから数年後、寺に存亡の危機が訪れたそうです。弟子たちは集まり、一休禅師の遺言を読むのはこの時と、開封してみたそうです。

すると、書かれていたのがこの言葉だったとか。

「大丈夫 心配するな 何とかなる」

思わず力が抜けて、みんなで大笑い。よし、大丈夫だからやるだけやってみよう。そう前向きに取り組んだところ、みごとにその危機を切り抜けられたそうです。
 

この逸話は本当ではないという説もあります。私は、これが本当かどうかは、どうでも良いと思っています。
でも、この言葉には真実があるし、この言葉が役立てば良いのです。
 

【「大丈夫」という言葉について】

「大丈夫」「だいじょうぶ」と読みますが、「だいじょうふ」とも読みます。
「だいじょうふ」と読むと、それは「立派な男(一人前の大人)」のような意味になります。元々はそういう意味で、「丈夫」とは1丈(170cm強)の男の意味でした。そこに「偉大な、立派な」という意味の「大」を付けて作られた言葉です。

そこから、「あなたは大丈夫(だいじょうふ)ですよね。(だからしっかりできますね。)」とか、「はい、私は大丈夫(だいじょうふ)ですから。」という使い方から、「大丈夫(だいじょうぶ)」という言葉になったと思われます。
 
なお、小林さんに何か書を書いてほしい(有料)という方は、小林さんあてにメッセージを送ってくださいとのことです。(アメブロの小林さんのページが開きます。その最下段あたりに連絡先のリンクがあります。)言霊旦那の称号をいただけます。ちなみに私は、言霊旦那の第1号に認定されました。(笑)
 
墨筆士・小林龍人、リバース
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 00:32 | Comment(0) | ブログ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月12日

生きる職場



これはおそらく、「みやざき中央新聞」で紹介されていた本だと思います。サブタイトルに「小さなエビ工場の人を縛らない働き方」とありますが、スタッフを管理することを極力廃止したことで、返って効率が良くなったという会社があるのです。その会社はパプアニューギニア海産。その工場長である武藤北斗(むとう・ほくと)氏が、この本の著者です。

同社では、日時を定めずにいつ出社してもよく、またいつ退社してもよいというフリースケジュールという制度があります。しかも、いつ出社する、退社するということを、事前に報告してはいけないという制度です。さらに、嫌いな作業をやってはいけないという制度もあります。大きくはこの2つが特徴的です。

しかし、そんなことで会社が経営できるのでしょうか? 上手くいくはずがない。そう思われてしまいそうですが、しかし、現実に同社はそれで上手くいっています。しかも、ただ経営が成り立つばかりか、それらを導入する以前よりも低コストで効率が良いというのです。にわかには信じがたいのですが、どうしてそれができるのか、その秘密を知りたくて読んでみました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

ですから、僕は根本的に仕事というものは、楽しみではなく、生きていく手段に近いものだと考えています。
 そのうえで、「働きやすい職場」を作るというのは、従業員一人一人が仕事をどのように感じていようと関係なく、会社がひたすらに職場環境や人間関係を整え、誰もが居心地がいい状態を目指すことだと思っています。
」(p.25 - 26)

意外と現実的な方なのですね。仕事そのものは楽しいからやるのではなく、生活のために必要だからやる、少々嫌でも仕方ないからやる、という感覚がベースにあるようです。


このとき、僕は「働きやすい職場を本気で作っていきたいから、みんなを信じてルールを作っていく。だから僕のことをどうか裏切らないでほしい」と何度もミーティングで繰り返しました。」(p.34)

フリースケジュールなどの制度を導入した時、やはりサボる人はいたそうです。それで会社の方針に合わなくて辞めていく人もいたとか。このことは、単に制度だけ導入すれば上手くいくというものではない、ということを物語っていると思います。


このフリースケジュールの原型は家族経営の会社にありがちな、親族の働き方と似ています。端的に言えば、経営者の親族だけは、子育てや私生活を優先した出勤形態になっていることがままあるのです。」(p.80)

たしかに家族経営の小規模事業では、家族親族の働き方はかなり自由です。朝の家事に時間が取られれば、奥さんが仕事に入るのは遅くなります。夕方、学校の用事などあれば、早くあがることもあるでしょう。それに対していちいち目くじらを立てたりしません。

ただ、この会社のフリースケジュールは、パートタイマーの従業員にだけ適用されている点は、ポイントかと思います。時給ですから、多く働けば報酬が多くなり、少なく働けば報酬が少なくなる。そのため、基本的には極端に少ない勤務時間で満足する人が少ない、という前提があるのです。そのことにより、全体で一定の作業時間は確保できている、ということがあるかと思います。

もちろん正社員が多い職場でも、月間の最低勤務時間とか、年間の最低勤務時間を決めることで、フリースケジュールを導入することが可能になるかもしれません。あとは、どれだけ代わりが利くか、という点ですね。この会社では、パートさんがすべての仕事で代わりが利くので、誰が出てきてもかまわないという仕事形態です。どうしてもこの人に期日までにこの作業をやってもらわなければ、という環境では、難しさはあると思います。


従業員同士の関係も大事です。
 そのためには風通しのよい職場環境を作るとともに、従業員同士がお互いのことを助け合える土台のようなものを作ることが重要です。
」(p.101)

出勤した時、その日の体調を○か☓でホワイトボードに示す仕組みを作られたのだとか。これによって、いちいち「今日は頭が痛くて」などと言い訳をしなくても、緩慢な作業や集中力がない従業員がいても、その背景を思いやることができるのです。

あの人はサボってるとかズルしていると感じていると、その人の気分もよくありません。また、そう思われる方の人もつらいものです。そういう感情の行き違いをなるべくなくそうという取り組みですね。


どんなによいルールでも、経営者が一人で作ったものを次から次へと押し付けられるのは、現場にとって気持ちのよいものではありません。特に会社のルールは、経営者的な目線と従業員としての目線のバランスを取ることが必要です。だからこそ従業員は、自分たちで作ったルールであればこそ、気持ちよく守っていくことができるのではないでしょうか。」(p.107 - 108)

ルールは必要だとしても、それを経営者が勝手に作って押し付けた場合、なかなか上手く行かないようです。制約を受ける側にも入ってもらって、どう決めるのが良いか考える。言われてみれば当然のことのようにも思いますが、みんなで話し合っても紛糾して決まらないという恐れもあります。

そこをどうまとめるかが、経営者の腕の見せ所かもしれませんね。絶対的に正しいルールはないのですから、まずはこれでやってみて、ダメならまた検討する。そういう柔軟な態度が必要なのだろうと思います。


もしほかの作業でもこんなふうに好き嫌いが分かれるのであれば、先ほど出てきたような作業の遅い人が力を発揮できるような、もしくは作業の早い人がそれを率先してできるような、そんな仕組みができるのではと感じたのです。
 そこで、工場の作業工程を細かく分類し、アンケート形式で個々人の作業の好き嫌いを書いてもらうことにしました。
」(p.117)

人の好き嫌いは多様だということです。全員が全員、この作業が嫌いということはないのです。このことから、嫌いなことをやって気分を滅入らせたり、それによって作業効率が悪くなることがないよう、嫌いなことをやらないというルールができたのです。

でもそうすると、もしみんなが嫌いという作業があったらどうするのか? という疑問が出てくると思います。それに対して武藤氏は、全員で分担すると答えています。率先してやる作業ではない、というだけで、やらなくてよい作業ではないのですね。


もちろん困難を克服することで、諦めない気持ちや耐える力といったものが養われる可能性があることは否定しません。しかし、そうした困難は他人や会社に無理やり押し付けられるべきものなのでしょうか。
 自分でやると決めて、自分から立ち向かっていくからこそ乗り越えられるし、それを自分にとってプラスに捉えて、その後の人生にもよい効果をもたらしていく。他者からの強制ではなく、自分から気持ちを奮い立たせて立ち向かうことで、人ははじめて成長できるというのが僕の考えです。
」(p.122 - 123)

好きなこと、得意なことをしながら、さらに上を目指す。自分で自分にハードルを課すから、困難なことも楽しくやれる。私も、挑戦とはそういうものだと思うし、そうであってこそ成長するのだと思います。

実際この会社では、従業員が主体的に働ける環境を作ることで、離職率が大幅に下がったそうです。そのために技術(熟練度)が蓄積され、作業効率が高くなり、経費削減につながっています。嫌いなことを無理にさせて辞めていく人が多かった頃は、ストレスが溜まるばかりで作業効率が低かったのです。


こうした取り組みをすると、会社が従業員のためにと思って作った制度を悪用して、ずるずると休み続けたり、やるべき仕事をサボって会社に不利益をもたらす人が出てくるのではないかと考える人もいます。
 でも、果たして、従業員のことを親身になってくれる会社に対して、あえて会社の不利益になるようなことをする人がいるでしょうか。僕は人の気持ちによる相乗効果というものを信じています。そして、もしも前向きに取り組む中で会社に不都合なことが起きたとしても、それはそのときに考えるようにしています。
」(p.155)

まず会社が従業員のことを親身になって考えてあげれば、従業員も会社を裏切らないだろうと信頼することが重要だと言います。もちろんそこで、本当に裏切らないかどうかは別です。その従業員にとっては、会社のことより自分の生活が優先ということはあるからです。

そこで武藤氏は、その時はその時になって考えると言っています。つまり杞憂から従業員を疑い、あらゆる可能性に対処しておくという考え方は捨てているのです。それが信じるということなのでしょう。


僕が今でも印象に残っている一言があります。それは僕が彼らに「日本に来てなにが一番びっくりした?」と訊ねたときの答えなのですが、「毎日多くの人が遅刻せずに時間どおりに来ることにびっくりした」と言われたのです。
 その頃の僕はその言葉を聞いて日本人の几帳面さに得意げになっていました。
 しかし今考えると、彼が言っていたことは、僕が今まさに懸念している日本の社会に蔓延する縛る働き方への警告をしてくれていたのではないかと感じることがあります。
」(p.179 - 180)

パプアニューギニアでは資源を守るために年の3分の1は禁漁期間だそうです。それで、天然エビを獲る会社から毎年2名、1ヶ月くらい研修で働きに来てもらっているそうです。そうすることで、彼らに自分たちが獲ったエビがどのようになって消費者に届くかを知ってもらえる。そんな研修に来た青年が言った言葉です。

私もタイに来たとき、文化の違いに違和感を感じました。日本のように思い通りにならないことにイライラしました。日本の方が優れていると信じていたのですね。でもしばらくすると、タイはタイのやり方で上手く回っているのだと気づきました。そのことによって、必ずしも日本のやり方だけが正しいわけではないとわかったのです。

やり方は他にもある。その気付きが、私を自由にしてくれました。そして、そういう目で日本を見てみると、他人の価値観でがんじがらめになって、窮屈な閉塞感の中に沈んでいる姿が見えたのです。


最終的には、自由にすることが重要というより、自由にするための信頼関係を作る工程が重要なのだと思います。
 そして人は自分が自由になったとき、ほかの人のことを気にしなくなります。自分が幸せなときに、ほかの人を不幸にしようとは思わないのと一緒です。そう考えると、権力をもつことと、幸せになることは違うのだなと改めて感じることができます。
 さらには、この自由を継続できるように自分たちで努力し、これを崩さないようにバランスをとり始めるのです。
」(p.190)

フリースケジュールなどで従業員が自由に、自主的に仕事に取り組めるよう環境を整えていくことは、従業員と経営者の、また従業員同士の、信頼関係を構築することなのですね。その結果として個々人が自由になる。その自由が出来上がると、みんながその自由を守ろうとするようになる。

その逆に、自由が少なくて不幸だと考えていると、誰かが出し抜けすることが許せません。「なんだあいつばかり楽しやがって!」と頭に来るのです。他人が幸せになると、引きずり下ろしたくなります。そういう非生産的なことにエネルギーを注ぎたくなるのです。

ですから、お互いに自由になれるよう協力し合うための関係を構築すること、つまり相互に信頼し合うことが重要になってくるのです。そのためにはまず、経営者が従業員を信頼することなのでしょう。


先にも述べましたが、「フリースケジュール」や「嫌いな作業はやらなくてもよい」というのはあくまでも働きやすい職場へ向けての一つのパーツでしかありません。ですから、それをそのまま自分の職場に当てはめてできる、できないといった議論をするのはあまり意味がありません。
 やらなければならないのは、自分たちの業種や会社で、従業員が働きやすくなるためにはなにができるのかを、現場での経験を生かして、まずは自分たちで考えて行動することです。
」(p.204)

重要なのは手法ではない、ルールではないということですね。上記ですでに述べましたが、たとえば私がやってきたプログラム開発では、途中で誰かに変わるというのは非常に困難です。どうしてもその人が期日までにそれを成し遂げなければなりません。そういう中では、いつ働いてもいいよとは、なかなか言えません。

しかし、フリースケジュールが重要なのではなく、その仕事をする上で働きやすいルールを考えて作ることが重要なのです。たとえば、在宅勤務という選択肢もあるでしょう。でもそんなことをしたら、働かずにいるかもしれませんね。そこで必要になるのが、まずは信頼するという態度なのでしょう。


この本は、単に手法を教えてくれるものではなく、どういう態度で取り組むのかという根本的なことを教えてくれています。そういう意味で、非常に評価できる本だと思いました。

ただ残念なのは、この本の趣旨とまったく関係なく、ご自身の体験もふまえて、原発や、政府を安易に批判しておられることです。そう考えたくなる気持ちはわかりますが、本題と関係のない一方的な思い込みをこの本に含められることには、ちょっと賛同しかねます。


原発に反対なら、その分の電力を使わないのならまだわかります。でも、自分たちは同じように電力を使いながら、原発だけを批判する。原発が停止されたために、何が起こっているかをまったく考慮せず、ただ廃止すべきだと主張される。そういう偏った正義感を振り回されている部分は、ちょっとどうかなと思います。

原子力の代わりに化石燃料が使われ、大気汚染が進んでいることは、目に見えなくても調べればわかります。原発の発電量あたりの死者は、火力発電に比べれば圧倒的に少ないことも、WHOの資料で明らかです。つまり、原発を使わずに火力を使うということに賛同するということは、自分の目に見えないところで多くの人を殺すことを受け入れる、ということと同じだと思います。

少なくともそのことを知っていれば、安易に原発を批判するようなことは言えないと思います。もちろん、原発の事故による被害などもあり、そのリスクがあることも知っています。けれども、リスクはどこにでもあります。だからこそ科学的に検討し、どのリスクをとるかを冷静に判断すべきだと思うのです。安易な批判は不毛だと思います。

生きる職場
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:21 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月10日

天運の法則



なんと16,200円もする本を読みました。サイズも大きく、分厚くて、重厚な感じがします。さらに、特製の風呂敷に包まれていました。この外装の豪華さを見ても、この値段にふさわしい感じです。こんな特別な本を書かれたのは、イメージトレーニングの研究・指導のパイオニア、西田文郎(にしだ・ふみお)さんです。

西田さんの本は、これまでに「はやく六十歳になりなさい」「驚きの最強思考「赤ちゃん脳」」などを紹介しています。いずれも、脳を上手に使って素晴らしい成果を上げるという、西田さんの考え方が紹介されています。実はこの本、今年の初めごろに購入していたのですが、ずっと積読してました。なんだか読むのがもったいなくて・・・。とは言え、いつまでも置いとけないので、読んでみました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

だからこそ、私は経営者の皆さんに「社会的成功」と「人間的成功」の2つを目指すようにとお伝えしてきた。
 前項でお話した経営者に必要な3つの力に当てはめると、「社会的成功」が「知」、「人間的成功」が「徳」である。この2つの成功を同時に追い求めることが、真の成功につながる道なのである。
 そして、一流の経営者になるには、もう一つ大切な力が必要なのである。
 それが「胆力」である。胆力とは、度胸、勇気、執念、決断する力などのことである。
」(p.31)

西田さんは、幸せに成功する経営者には知力、徳力、胆力の3つの力が必要なのだと説いています。これを論語にある三徳(知、仁、勇)などと重ねて、重要性を説明しています。

そして特に必要なのが胆力なのですね。たしかに経営者をやってみると、決断する力の重要性を感じます。最後は自分の責任ですから、勇気が必要なものです。


私たちの脳を支配しているもの、その正体は「過去のあなた」である。別の言い方をすれば、あなたの脳に蓄えられた過去の記憶データなのだ。」(p.61)

私たちは、意識で「成功しよう」と思っても、過去の失敗イメージなどに支配されがちです。そして潜在意識は、私たちが本当に信じていることを実現します。私たちの記憶にある強固なイメージを変えない限り、今の意識の思い通りにはならないのです。


人間の脳には錯覚領域と確信領域がある。多くの皆さんは、この「確信思考」と「錯覚思考」の違いに気づいていない。」(p.71)

西田さんは、人間の脳の発達段階には7つの段階があると言います。最初の2つは「錯覚領域」で、「マイナス思考」「プラス思考」です。この段階でも、マイナス思考をやめてプラス思考にすれば、それだけで優秀な人になれると言います。

その次が「確信領域」の5つの段階です。「分析思考」「胆力思考」「繁栄思考」「強運思考」「天運思考」となっています。「天運思考は、ためらいがまったくない状態のこと。」と説明しています。思い通りに行っても、天の法則に適う状態のことです。


「積極的無欲」とは、物も名誉もいらないという無心の状態でありながら、「命に代えてもやる」という強い信念のある究極の状態である。つまり、「積極的無欲」こそが「純粋な動機」による天運的生き方なのである。」(p.99)

マズローの欲求5段階説では、「自己実現の欲求」が最高の欲求とされます。しかしマズローは、死ぬ前にもう1つ上の段階があると考えていたと、西田さんは言います。それを「積極的無欲」だと言います。

これは西田さんも紹介されているように、山岡鉄舟の生き方ですね。西郷隆盛は鉄舟を評してこう言いました。「生命も要らず、名も要らず、官位も金も要らぬ人は始末に困るものです。」まさに積極的無欲です。

このように、小我の欲をすべて捨て去り、天の欲求に身を捧げることを望みとする生き方が、天運思考だと言うのです。


日本人の勇気や一体感、そして規律正しい行動は、多くの外国の人々の称賛を浴びた。それはおそらく、私たち日本国民が国民性として持っている共通の特徴、すなわち大和心、「武士道」のようなものなのではないだろうか。」(p.194)

3.11の東日本大震災での出来事です。あの混乱の中で、静かに列に並んで配給を待つ人々。弱者に配給品を譲る人々。これは、過去の日本人によって培われた精神が、私たち現代の日本人の脳の奥に刻み込まれているのだと、西田さんは言います。


人間には命を賭してやらなければならないことがある。それが、真の使命である。この真の使命に気づくと、生き方が変わる。休んでなどいられないし、学びたくて、知りたくて仕方なくなるのだ。」(p.322)

いくら学んでいても、もっと上を目指そうとする。一流の人というのは、そういうものですよね。そのエネルギーがどこから湧いてくるのか? それが「天運の法則」なのだと西田さんは言います。自分の枠を越えて天の御心を知ることです。


360ページもある分厚い本ですが、実は文字がかなり大きく、行間も開いているので、それほど読むのに苦労はしません。むしろ読みやすく、あっという間に読めてしまう感じです。小さい文字では読みづらいという、私のような中年以降の人に配慮されたのではないかと思います。

西田さんの考え方の集大成ということで、これまでこの「天運の法則」は、限られた人にしか伝えてこられなかったそうです。しかし、西田さんが大病を患われたことで、この内容を多くの人に伝えるべき、残しておくべきと思われたのだとか。

表紙が分厚くて柔らかく、手にした時の感触が他の本とはまったく違います。その感触を楽しみながら、読書の喜びに浸れる本だと思います。

天運の法則
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:20 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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