2022年08月20日

刑務所しか居場所がない人たち



何で知った本だったか忘れてしまいましたが、読み始めてすぐに、これは良い本を買ったなぁと思いました。
子ども向けに書かれた本のようで、漢字にはほとんどふりがなが振られており、文章も非常にわかりやすいです。読みやすく、あっという間に読めてしまいました。

著者の山本譲司(やまもと・じょうじ)さんは、元衆議院議員ですが、2000年に秘書給与詐取事件を起こして服役されています。そのことによって刑務所の中の知的障害者問題に気づき、出所後は障害のある受刑者の社会復帰支援に取り組まれているようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

それまで抱いていた刑務所のイメージは180度変わった。悪いやつらを閉じこめて、罪を償わせる場だと思っていたのに、まるで福祉施設みたいな世界が広がっているんだから。
 刑務所の周囲にそびえるあの塀を、僕は誤解していた。あの塀が守っているのは僕たちの安全じゃない。本来は助けが必要なのに、冷たい社会の中で生きづらさをかかえた人、そんな人たちを受け入れて、守ってやっていたんだ。
」(p.9-10)

山本さんが衆議院議員だった2000年9月、秘書給与流用事件で有罪判決を受け、栃木県の黒羽刑務所で服役したそうです。そこで見たものは、悪党だらけの世界ではなく、認知症のお年寄りや障害を抱えた人たちが多く暮らす世界だったそうです。
トイレや風呂ばかりか食事にさえ介助が必要な人たち。そこはまるで福祉施設のようだったと言います。

だれだって、罪を犯したいわけじゃない。
 知的障害のある人が犯行に走った理由は「生活苦」がいちばん多い。障害があるとなかなか仕事に就くことができないから、生活が困窮しがちだ。身近に頼れる人も、行く場所もなくて、ホームレスのような生活を続けたすえ、空腹に耐えかねて万引きをしたり、食い逃げをしたりするのが典型的なパターンだ。
 あるいは、やけに親しげに声をかけてくる人がいて、「友だちになった!」と思っていたら、じつは相手がヤクザで、いいように使われることだってある。
」(p.19)

知的障害のある人の犯罪は、いわゆる軽犯罪が多いのです。ともかく自分が生きていくためのことをしようとして、それでついつい犯してしまうような犯罪です。

実際、犯罪そのものが昔と比べて減っているし、殺人などの凶悪事件は激減していると言います。なので、刑務所に入っている殺人犯は、実に少ないそうです。

答えは……1%。
 2016年、新しく刑務所に入ってきた受刑者約2万500人のうち、殺人犯は218人だった。刑務所の中でも、殺人犯と会うことはめったにない。
」(p.21)

少年犯罪の検挙者数も、2016年は3万1516人で、10年前の1/4に過ぎないのだとか。少年鑑別所はガラガラ状態だそうです。

犯罪が減っているのに、治安が悪いような気がすることを「体感治安の悪化」なんて言うけれど、マスコミの報道がそうさせている面もあると思う。たぶん、視聴率や発行部数を稼げるからだろう。」(p.22)

さもありなん、ですね。

一方で、あまり減っていないのが知的障害のある人の犯罪だ。ほとんどが窃盗や無銭飲食、無賃乗車とかの軽い罪。スーパーで売り物のアジフライを一口かじっただけで、実刑判決を受けた人もいる。
 僕が思うに、もしかしたら裁判官は、「彼らのため」と思って実刑判決を出している面もあるのかもしれない。執行猶予がついて社会の中に戻ると、きっとまたいじめられたり、ホームレス状態になったりする。だから、緊急避難の意味あいで、実刑にするのかもしれない。
」(p.23)

そういう穿った見方をしたくなるほど、知的障害者の軽微な犯罪での実刑判決が多いのでしょうね。


たとえば、自閉スペクトラム症という発達障害のある人は、人とのコミュニケーションが苦手だったり、かたくなにルールを守ろうとしたりする。周囲からは「空気が読めない」と言われ、いじめの対象になることも多い。子どものころからずっとしいたげられてきて、いやな思い出ばかりかかえているんだ。そのつらさが、なんらかの刺激によって表に出て、犯罪に結びついてしまうことがある。」(p.30)

想像してみてほしい。どんな受刑者でも、生まれたときはかわいい赤ちゃんで、一生けんめいに成長してきた。それが、大人になってだれも支えてくれない日々をすごし、さらに年をとって生活に困る。やむをえず、万引きや無銭飲食に手を出して刑務所に入れられ、そこで死んでしまう。
 だれだって、こういう死にかたを望んだわけじゃない。家族や仲間に囲まれて、惜しまれながら息を引き取りたいと願っていたに違いない。だけど、それを許してくれないのがいまの社会なんだ。
」(p.38)

刑務所には、無縁仏となった遺骨がたくさん眠っているそうです。死んでも遺骨の引き取り手がない。社会の誰からも受け入れてもらえず、見捨てられた人たちが大勢いるのです。


気合を入れて、ぞうきんとバケツを持ってきてそうじをした。マスクや手袋なんかは支給されないから、もちろん素手だ。爪のあいだにうんちが入りこむ。最初は「自分の子どものうんちみたいなもの……」と思うようにしていたけれど、気がついたら慣れていたな。」(p.42-43)

山本さんは刑務所で、他の受刑者の部屋の掃除をさせられることがあったそうです。ゴミだらけ、糞尿だらけの部屋だとか。
本来なら、介護が必要な受刑者なのでしょうね。山本さんは、自然と介護士のようなことをされたようです。


寮内工場を担当する刑務官のほとんどが、受刑者たちを罰しているというよりは、保護している感覚で接していた。「弱肉強食のシャバの中で大変だっただろう。ここでは食事も寝床も与えるし、満期までは自分たちが守ってやる」。そんな気持ちでいることが、はた目から見てもよくわかる。
 夜中、独房で泣く受刑者に、刑務官が優しく子守唄を歌うすがたを見たこともある。
」(p.46)

若い刑務官には、しゃくし定規に受刑者をどなったりする人もいるけれど、それは受刑者がまだ怖いから。寮内工場にいるのは、暴力をふるいそうもない受刑者なんだけど、「受刑者=極悪人」というイメージが抜けないみたい。」(p.47)

日本の場合は服役とは懲役刑なので、何らかの刑務作業をさせられます。家具を作ったりする仕事ですね。しかし、そういう作業ができない人たちもいるわけで、そういう人たちが集められるのが「寮内工場」だとか。呼び名は、刑務所によっていろいろあるようです。
そこは、刑務所と言うより福祉施設のようなところだとか。ただ、ただでさえ安い刑務作業の報酬よりももっと安いようで、刑期を終えても蓄えがほとんど作れない。それもまたシャバに戻ってからの生活に困る原因にもなっているようです。

家族もいなくて家もない、お金もない。そんな、ないないづくしの状態は長く続けられない。満期出所者の半数近くは、5年以内に再犯をして刑務所に戻ってきている。だって、そうするしか身の安全を確保できないんだもの。
 再犯せずにいる人たちだって、まともな暮らしをしているとはかぎらない。やむをえず路上生活を続けたり、ヤクザの世界に足を踏み入れたり、最悪の場合は自殺しちゃう人もいる。
」(p.55)

刑期を終えても、問題が解決するわけではないのです。


また、知的障害者の軽微な犯罪に関する裁判の問題もあると山本さんは指摘します。

残念なことだけど、裁判官の知的障害に関する理解は決して十分とはいえない。真顔で「その障害って、薬で治らないの?」「いつから知的障害になったの?」なんて、とんでもない質問をしてくる裁判官もいる。」(p.60)

この程度の理解しかないから供述調書に対しても、知的障害があればこう理路整然とは説明できないだろうという想像が働かない。これも裁判の問題になっていると山本さんは言います。

前にも言ったように、知的障害者の犯罪は、罪名と実際にしたことのギャップが大きい傾向がある。車にあった30円を盗んだ「窃盗罪」とか、知りあいとケンカして、つい手に持った刃物が相手の首にちょっとふれて「殺人未遂罪」とか、罪名を聞いて想像するより被害が小さいことが多い。
 日本の司法制度には、被告人の知的障害を配慮するしくみがないことが、関係しているんじゃないかな。
」(p.61-62)

母親が賽銭箱に1000円を入れて、「いつか助けてもらえることがある」という話をしたことを覚えていて、困窮した時にその賽銭箱から300円を盗んだ知的障害者もいたそうです。裁判では、「まだ700円預けてある」と言うので、反省していないと受け止められたのだとか。

アメリカには、知的障害のある被告人のための特別な制度がある。IQ(知能指数)が50以下の被告人は「アンフィット」といって、ふつうの裁判を受けられる状態ではない人と判断される。知的障害についてよく理解した裁判官、検察官、弁護士のもと、裁判を受けることになる。要は、被告人の障害特性を考慮して刑を決めるんだ。イギリスやオーストラリアでも、同じような制度があるよ。」(p.62)

本来、刑罰を与える対象ではないのです。福祉によって守るべき対象。そういう認識が、日本にはまだないようです。

重大な事件なら、裁判の途中で弁護士が「本鑑定をすべき」と主張して、しっかり鑑定を受けることもあるけど、非常にまれなケースだ。知的障害者の被告人によくある、カップ酒を1本盗んだような軽い罪は、弁護士もそこまでやらない。」(p.66)

知的障害の有無は、せいぜい1〜2時間ほどの簡易鑑定によって判断されます。しかも、検察官お抱えの鑑定医が、ざっと資料を読んで、わずか数問の質問をするだけで。最初から責任能力ありという見方なのです。

そもそも、知的障害のある被告人は身元引受人がいないことが多くて、執行猶予つきの判決はほぼ無理だ。仮に、責任能力の有無を裁判であらそおうとすれば、弁護士が自腹を切って精神鑑定を依頼することになるだろう。裁判官は、軽い罪に、税金で精神鑑定をかけることを認めないからね。」(p.69)

検察は国の組織だから、やろうと思えばいつでも税金で捜査や精神鑑定ができるけれど、弁護士はそうじゃない。自分で弁護士事務所を経営するか、そういう事務所に雇われている弁護士がふつうだ。つまり、中小企業の社長か従業員みたいなものだから、経営のことを考えると、報酬の安い仕事はできないのかもしれない。」(p.71)

窃盗や無銭飲食をしてしまうくらいですから、被告側にはお金がなく、どうしても国選弁護人を選ぶことになります。そうなればなおのこと、不利な裁判になってしまうのですね。


知的障害者の問題については、裁判(司法)にも問題がありますが、それを受け入れてこなかった福祉関係にもあると山本さんは指摘します。
福祉関係者の多くが、知的障害者の犯罪に対して冷淡な態度を取るのだとか。知的障害者であっても、罪を犯したなら司法が担当すべきだと。

だけど、ほんとうにそうなのかな? くりかえすけれど、罪を犯した知的障害者は加害者になる前に、長いあいだ被害者として生きてきた人が多い。身寄りがなく、お金もなく、だれの助けもないなかで、やむにやまれず無銭飲食や無賃乗車などをしてしまった。罪を犯さざるをえないほど困っている人たちなんだから、本質的には福祉の問題だと僕は思う。」(p.83)


福祉の問題で言うと、知的障害者の障害認定の問題があると山本さんは言います。
知的障害者がもらう「療育手帳」ですが、自治体によってその名称も異なるし、判定基準もバラバラなのだとか。それでは、他の自治体へ転居しても、これまでの手帳が意味をなしません。そういう実態があったとは、知らなかっただけに驚きました。

また、判定基準は、財政に余裕のある自治体ほど、基準が緩やかだという傾向があるそうです。つまり、予算をどれだけ使うかが判定基準になっているのですね。

だから、日本は障害者の人数が異様に少ないことになっている。
 国は、「障害者手帳の発行数=障害者の人数」としてカウントしている。厚生労働省の発表(2018年)によれば、身体障害者・知的障害者・精神障害者を合わせて、日本の全人口の7.4%だ。
 それに対し、WHO(世界保健機関)と世界銀行が発表した『障がいについての世界報告書』(2010年)では、世界人口の15%がなんらかの障害があるとしている。この地球上の6〜7人に1人は障害者なんだ。
 日本だけが障害者が少ない? そんなはずはないよね。6〜7人に1人っていったら、もはやマイノリティ(少数派)ともいえない。この人たちが不自由なく暮らせるようにするのは、国の責任だ。そんな根本的なことができていないから、福祉につながらず、刑務所に来てしまう障害者があとをたたないんだよ。
」(p.85-86)

たしかに、こうして比較してみると日本の異常さが目立ちます。


ただ、療育手帳をもらえればそれで解決かと言うと、そうではないと山本さんは指摘します。
療育手帳をもらえたことで知的障害者という偏見で見られるようになり、いじめられることにもつながるからです。そういう社会的な疎外によって、反社会的な方向へ流れてしまうこともあります。

ヤクザは、知的障害者のコンプレックスにつけこんで犯罪行為へと引きずりこむ。福祉関係者には「ヤクザから彼らをとり戻す!」ってくらい言ってほしいところだけど、たいていは現実から目をそらしている。」(p.91)

僕が言いたいのは、知的障害者全員に療育手帳を発行しろということじゃない。手帳を持っているか持っていないかではなく、「いま現在、何かに困っているかどうか」で福祉サービスを提供してほしいということだ。
 障害以外にも難病とか貧困とか、困っている人はおおぜいいるよね。そうした人たちが困った状態じゃなくなるように、一人ひとりに応じた支援をするのが本来の福祉だと思うんだ。
」(p.91)

福祉のあり方について、考えさせられます。


日本の障害者福祉予算は年間約1兆円。GDP(国内総生産)に占める障害者福祉予算の割合でいえば、スウェーデンの約9分の1、ドイツの約5分の1、イギリスやフランスの約4分の1、そして、社会保障制度が不十分だといわれているアメリカと比べても、2分の1以下になっている。先進国の中で、障害者福祉にこんなにお金を使っていない国はないよ。国として障害者福祉を軽視しているといわざるをえない。」(p.95-96)

これは私も驚きでした。こうやって数字で示されると、いかに日本の障害者福祉が貧しいものかがわかります。

「福祉に行ったら無期懲役だ」
 こんなふうに言う人が、ものすごく多い。
 そこまで福祉は信用されていないのか、と最初はショックだったよ。でも、彼らの言いぶんには納得できるところもある。福祉施設に入所すると、起きる時間も寝る時間も、お風呂も食事も、ぜんぶルールが決まっている。ちょっとコンビニに行きたくたって、自由に外出できない。何度かルールを破ると”むずかしい人”と決めつけられ、つらく当たられる。
」(p.103)

たしかに、こういうことはありますね。老人介護施設で働いている私ですが、このことはよくわかります。なので私も、老人介護施設には入りたくないと思っていますから。


善意は、ときとしてだれかを排除する力をもっている。
 自治体のメール配信も、親どうしの不審者情報の交換も、みんな「よかれ」と思っての行動だよね。自分たちを守ろうとしているだけだ。でもその陰で、本来は福祉につながるべき人たちが、刑務所に入れられている場合があることを、君に覚えておいてほしい。
」(p.111)

変な人、よくわからない人を排除することで自分たちの安全を図ろうとすると、その行為によって不審者とされた知的障害者が犯罪者になってしまうことがある。警戒され、排除されれば、誰でも抵抗したくなるものですから。


精神や知的に障害がある人が出所する時は、自治体に通知するようになっているそうです。それは、医療や福祉につないでもらうためです。
しかし、それに対して自治体が適切に対応しないという問題があるそうです。

ちなみに2016年は、刑務所全体として、全出所者2万2947人のうち3675人について自治体への通知をおこなっている。でも、自治体がきちんと対応してくれたのは、たったの66人にすぎない。」(p.114-115)

ここにも変な人は排除したいという不安や怖れに支えられた行動があるのですね。

だから僕は、反対運動をしている人たちも含め、周辺の住民を集めてもらって、直接話しをすることにした。そのときのようすは、地域のケーブルテレビでも流され、10回以上にわたって放送されることになった。
 そしたら、わかってくれたよ。反対していた住民のひとりがこう言った。
「要するに、累犯障害者は、地域の中で孤立し、排除されて刑務所に行っていたんですね。まさに、わたしたちのような人が累犯障害者を生み出していたんですね。もう反対はしません」
 障害のある人のことを何も知らなければ、身がまえてしまうかもしれない。だけど、どんな人たちなのかを理解すれば、彼らと共生することへの抵抗感は少なくなる。それを象徴しているようなできごとだった。
」(p.116)

知的障害者のためのグループホームを建てようとした自治体で、反対運動が起こった時の話だそうです。
人は、わからないものに対して警戒し、不安や怖れから抵抗してしまうものです。だから、対話を重ねることで理解を進め、信頼してもらうことが大切なのですね。


なにか事件が起きたとき、マスメディアは犯人が逮捕されるところや、裁判であらそうところまではこぞって報道するから、検察や警察、裁判所は華やかに見える。だけど、裁判が終わればパッタリ報道されなくなって、そのあとの刑務所のことは忘れられがちだ。
 罪を犯した本人にとってみれば、”生き直し”をスタートさせる刑務所こそ重要なところ。出所して、社会に戻るときに支援する更生保護は、刑事司法の総仕上げだ。これらにもう少し予算をかければ、再犯を大幅に減らせるんじゃないかって僕は考えている。
」(p.120)

本来ならば福祉が支援すべき対象でも、いまの社会はそれをせず、”臭いものにふた”のように刑務所に入れてしまう。そのために使われる税金が、一人あたり年間500万円と考えると、たしかに高いよ。
「犯罪者にお金をかけるのはもったいない」って言えば言うほど、再犯は減らないし、刑務所にかかるお金だって増えていく。
」(p.121)

今の司法のあり方も、メディアの取り上げ方も、悪いやつを捕まえて排除すれば終わり、ということになっている。だから問題が解決しないと私も思います。


犯罪をした人も、電車の中でわめき声をあげる人も、ゴミ屋敷を作る人もそう、僕らと同じ人間だ。困ったときにとる行動が、ちょっと違うだけだ。いつの時代も、生まれながらにそういう人が一定の割合でいる。
 障害者ってどんな人? そう疑問に感じたら、自分と違うところじゃなくて、同じところを探してみよう。おのずと答えが見えてくるから。
」(p.130)

日本で障害者の地域移行が始まったのは、ほんの10年くらい前のことだ。障害のある人はずっと施設に隔離されていて、最近になって少しずつ地域に戻ってきた。だから、大人たちも、どう接したらいいのかわからない。
 大人が身がまえると子どもも身がまえる。すると、障害のある人だって身がまえて、心を閉ざしてしまう。
」(p.133-134)

障害のある人を理解するっていうのは、腫れもののようにあつかうことでも、むやみに親切にすることでもない。自分と同じ目線で接し、彼らの立場になって考えてみることだ。
 周囲の人と気持ちが共有できた経験は、障害のある人にとって、たいせつな成功体験になる。そうやって、障害のある人に優しい社会、つまり、君も含めてみんなを優しく包みこむ社会が築かれていくんじゃないかな。
」(p.136)

私たちは、それぞれに違いがあるのが当然です。けれども、同じ人間です。雪の結晶がそれぞれ違いながら、全体としては同じ雪であるように。
そうであれば、最初から敵視し、分離分断を進めるべきではなく、安心し、信頼し、受け入れていく方がいいのではないでしょうか。
そのためにも、まずは自分の中から不安や怖れを取り除くことですね。


本人の世界を否定するんじゃなくて、そっと寄りそう。それができれば、障害があっても公の福祉に頼ることなく、暮らし続けられる。」(p.150-151)

出口支援は整いつつあるけれど、同時に、障害のある出所者に対する社会の意識も変わらなくちゃ、せっかくの支援策も生きてこない。管理や隔離をするのではなく、ふつうに暮らせる社会をめざさなくちゃ。」(p.161)

幻覚によるものを現実だと主張する人がいたら、その思いを汲み取って否定しないこと。その人にはそれが見えているんだから、否定しても無意味なんです。老人介護の現場でも、そういうことはありますね。
前にも引用したように、重要なのは知的障害者を出所後に施設に入所させることではありません。集団で暮せば、どうしても管理して自由を奪わなければならない面が出てきますから。
それよりも、地域において誰もが、障害者を対等な人間として見られるようになることが大事ですね。


ほんとうだったら、刑法そのものが変わる必要があると僕は思っている。刑法で定められた刑罰には、死刑、懲役、禁錮、罰金などといくつかあるけれど、累犯障害者が受けるのは、ほとんど懲役刑だ。もっと、罪を犯した人の背景に応じた償いかたがあってもいいんじゃないだろうか。たとえば、社会にいて、必要な支援を受けながら奉仕活動をするとかね。
 たいせつなのは、罪を償って二度と再犯しないことであって、刑務所に入れることではないんだから。
」(p.155)

たしかアメリカでは、軽微な犯罪に対してボランティア活動などをすることで出所できる制度があったように思います。日本にも、そういう制度と、それを支える団体や仕組みができるといいですね。


さて、だれもが安心して暮らせる社会って、どんな社会だろうか。
 キーワードは「ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)」だ。包摂っていうのは、何かを包みこむという意味。ソーシャルインクルージョンは、社会から排除されているすべての人を、ふたたび社会に受け入れ、彼らが人間らしい暮らしができるようにしよう、という考えかただ。
 罪を犯した障害者は、それまでの人生のほとんどを被害者として生きてきた。結果として、前科というものを背負ったがために、「障害者」「前科者」と二重の差別を受けて、いちばん排除されやすい存在になっている。
 いちばん排除されやすい人たちを包みこめば、だれも排除されない社会になるよね。
」(p.164)

もっとも受け入れがたい人を受け入れる、排除しやすい人を排除しない。そうすることは、日本全体を良くすることにつながる。
だから、今、障害者の犯罪について、深く考えて見る必要がある。私もそう感じました。


この本は、私の目を開かせてくれたように思います。
知ってるようで知らなかったことがたくさんありました。そして、ここに日本の、つまり私たちの重要な問題があると気づいたからです。

私たちは、不安や怖れから、分離分断や排除という行動に走りがちです。しかし、いくらそうやっても問題は解決しません。もういい加減に、そのことに気づく時がきたのではないかと思います。
不安や怖れを排して、安心と信頼を心に抱くこと。つまり、愛を動機とすること。私たち一人ひとりが、それを始めなければならないと思いました。

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タグ:山本譲司
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 08:44 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年08月17日

高齢者風俗嬢



ひょんなことでTwitterで知った著者の中山美里(なかやま・みさと)さん。お勧めのご著書を尋ねたところ、この本だとおっしゃるので、さっそく買ってみました。
風俗については私も関心がある方ですが、70歳代でも風俗嬢として働いているし、そういう風俗嬢を望む男性客がそれなりにいるということが驚きでした。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

結婚に失敗したりダンナが早死にしたら、風俗で一生懸命働けば子ども3人を育てていける。ダンナが浮気して私を振り向いてくれなくなってもきっと彼氏ができる……という人生の選択肢があることは、大きな救いとなった。
 不安も迷いも恐れも、全部自分の思い込みが作り出しているだけだった。
 それを教えてくれたのが、”超熟”と呼ばれるジャンルで活躍する風俗嬢やAV女優たちだった。
」(p.5)

著者自身が未婚のシングルマザーとして生きてきただけに、人生に対する不安がつきまとっていたようです。その不安をふっとばしてくれたのが超高齢の風俗嬢たちなのですね。


ソープランドやAV、ピンサロのようなグレーの職種、ストリップのような公然わいせつ罪が適用される危険がある職種でも、被害者がいるわけではない。世間に迷惑をかけている仕事ではなく、彼女がいなくて寂しい思いをしている人、奥さんとセックスレスで満たされていない人、奥さんに先立たれてしまった人、障害のある人……さまざまな男性がサービスを利用することで対価を払い、心身を満たしてくれる接客業であり、エンターテインメント産業である。」(p.10)

私も、性産業の中に非合法なものがあるとしても、「誰にも迷惑をかけていない」という視点は大事だと思っています。むしろ、それが喜ばれて役立つ、つまり需要があるからこそ、成り立っているのです。

そもそも私のスタンスとして、風俗の仕事は、学歴のない女性、結婚などによって職歴が途切れてしまっている女性、就職に失敗した女性、一家の大黒柱として稼がなければならないシングルマザーなど、まとまった収入を普通の職業や仕事で得ることが難しい女性にとっては、救済的な側面がある職業だと思っている。」(p.21)

社会の現状は、残念ながら女性に対して不利なものです。そういう中にあって、たとえ学歴やキャリアがなくても普通以上に稼ぐことができる仕事。風俗にはそういう一面があることも確かです。


中山さんが取材した中に、70歳代のAV女優のKさんがいます。彼女は還暦を過ぎてから性に対してもタガが外れて、付き合っていた彼氏の勧めもあってAVに出演したのだとか。

AVが発売されると、彼氏とラブホテルに行き、その作品を一緒に観た。もちろん彼氏は嫉妬に燃え上がる。そして、「負けないぞ」といつも以上に頑張るのだそうだ。そんな彼氏とセックスをするのが楽しいのだとKさんは話していた。」(p.49)

性的な興奮もあるのでしょうけど、私にはKさんが、「自由」を得て幸せを感じているように思えます。


風俗は、若さと美しさをウリにしていると思われているが、それだけでは客は同じ女性に何度も金−−しかも安くはない−−を落とさない。
 もてなしのきめ細やかさ、客を思いやる心、熟練したテクニックなど、さまざまな技術や経験によって、癒されたり、楽しい時間を過ごせたり、恋愛に近い気持ちを味わえる−−だからこそ、客は財布を開く。
 風俗嬢とは、私に言わせれば、れっきとした専門職、技術職だ。
」(p.111)

風俗業界では、見た目のいい派手な女性よりも、地味でパッとしない女性が本指名を返す真のトップランカーであることが多いとよく言われている。
 男性が、決して安くはないプレイ料金を支払う対価として求めているのは、見た目のいい女性にヌイてもらうことではなく、優しく癒してくれるエッチな女性とどんな時間を過ごせるか−−なのだ。
」(p.127-128)

たしかに若さや美しさにはアドバンテージがあるけれど、それだけで上手くいくものでもありません。そして、そういうアドバンテージがないならないで、工夫次第で何とかなるもの。
風俗に限らず、仕事はすべてそういうものだし、仕事だけでなく人生すべてが、そういうものではないでしょうかね。


風俗には、障害者にサービスを提供するところがあります。(「セックス・ヘルパーの尋常ならざる情熱」でも紹介しています。)障害者を専門にしているところもあれば、風俗嬢によって障害者もOKとなるところもあるようです。

働く女性たちは、「社会の役に立ちたい」「普通の風俗では働く気はない。障がい者風俗だからやりたいと思った」など、高い志や優しさをもった女性が大半だが、ちょっと変わったところでは障がい者フェチの女性もいるという。」(p.135)

動機も好みも人それぞれだということですね。


超熟女を求める客は、意外にも若い男性が多いと言います。そして、その多くはプレイ中にマグロなのだとか。つまり、何もせずに寝転がっているだけ。

−−責めたりするのが、面倒なんですかね?
「そうみたいですよ。プライベートでは若い女性と付き合っているんじゃないかと思うんですが、そこでは愛撫してあげたり、気持ちいいかどうか気をつかったりしているんだと思うんですよ。でも、若い女の子ってわがままだし、気も強いじゃない? そういうのが疲れて熟女風俗に来るんじゃないかなって気がしています」
」(p.139)

あと、男の人には失敗しちゃいけないってプレッシャーがあるでしょう? ここぞというところで勃起して、女のコをイカせてからじゃないと発射しちゃいけないみたいな。そのプレッシャーを感じなくていいのが、熟女風俗なのかなと思うんですよね」(p.139-141)

そういう鎧を脱ぎ捨て、素をさらけ出し、わがままを受け入れてくれる懐の深い女性に甘えることができる。
 それが、超熟女風俗の魅力なのかもしれない……。
」(p.141)

男性には男性の不安(恐れ)があり、それがプレッシャーとなっている、ということはあると思います。私自身も、そういうプレッシャーは感じましたから。
そういう不安(恐れ)があるからこそ、安心して甘えられる性風俗が求められるのかもしれませんね。


とにかくすぐ離婚しなければ……という状態で子どもを連れて家を出たとき、風俗という職業はとても優しく女性を迎え入れてくれる。
 寮があったり、提携の託児所があったりするほか、待機室に子どもを連れてきてもいい(教育的にどうかという意見もあるかと思うが)という店もある。
 さらには、新人期間だと優先的にフリーの客を回してもらえて、しっかり稼がせてくれる。新人期間が過ぎた後は本人の努力次第だが、入店して3ヵ月はある程度収入の目処が立つ。毎日8時間ほど待機していれば、安い店でも流行っていれば、1日3万円程度は稼げる。
 はたして、行政がここまでしてくれるだろうか。民間の支援団体がここまでしてくれるだろうか……と思うのだ。
」(p.149)

実際問題、シングルマザーとか貧困にあえぐ女性に救済の手を伸べてきたのは風俗産業だろうと思います。批判する人たちは、いったい何をしてあげたのでしょう? 彼女たちを本当に助けたのは風俗産業であり、その客の男性だったのです。その現実から目を逸らしているから、言っていることが観念的で、現実に役立つ考えにならないのです。


また、社会では性欲だけがなぜか蔑んでみられている。でも性欲は、食欲や睡眠欲と同じ人間の根本的な欲求だ。風俗は、レストランや居酒屋といった業種と同じジャンルに属していると私は考えている。
 食欲を満たしたいだけなら、定食屋や立ち食いそばでも充分だ。しかし、家でも味わえないような食事をしたい。友達と楽しくしゃべりながら食事をしたいということで、レストランや居酒屋を利用する。そのため、単なるサービス業というよりは、アミューズメント産業として扱われている店舗もある。
 風俗も同じだ。単純に性欲を解消するだけなら、ちょんの間やピンサロで充分かもしれない。けれども、昨今は、イチャイチャと恋人同士のように過ごす素人系のサービスや、本格的なオイルマッサージとともに性感マッサージも受けられ最後にヘルスプレイを楽しめるようなタイプの風俗が人気である。一昔前は、風俗に行かなければ味わえないマットプレイやイメクラプレイが人気だった。このように、風俗は単純に性欲を満たすだけでなく、プロのテクニックでしか味わえない快楽を得るほか、寂しい心を癒すといった役割まで担っているのである。
」(p.154)

食欲や睡眠欲が高尚で、性欲が下賤なんてことはないはずです。それぞれ身体の欲求であり、そこに精神的な欲求が絡んできて、様々なサービスが提供されているのがこの社会です。そうであれば、性欲絡みだけが否定されるべきではないと思います。


すると、「老後が不安だから」という答えが返ってきた。年金をもらえるかどうかわからないし、世の中では60歳で定年を迎える時点で、持ち家があった場合に夫婦ふたりで3千万円の貯金が必要だとも言われている。けれども、3000万円もの金額を貯められるとは思えない。その3000万円という大きな金額を用意しなければならないという強迫観念をもち、まだまだ先のことなのに老後が不安になってしまうのだという。
 そして、お金を貯めたところで、使う目的もないそうなのだ。
」(p.164)

でも、アダルト業界で働く超熟女たちを取材し始めてから、私の不安は少しずつ小さくなっていった。
 いくつになっても、元気で働ければなんらかの形で稼ぐことができ、ニコニコしながら柔軟に生きていけば求めてくれる人がいる。本当に最低限必要なのは、健康な心と身体だけなのだなと実感できるようになったからだ。
」(p.161)

風俗の仕事は、求める男性さえいれば、何歳になっても仕事がある。そして、男性の数だけ性癖があり、好みがある。それは風俗で働く女性にとって、とても救いになることではないだろうか。
 こんな自分でも必要としてくれる人がいるという実感は、そのまま「生きていてもいいんだ」という喜びにつながる。
」(p.168)

最近の若い女性は、漠然と老後に不安を抱いているのだそうです。そもそも持ち家があって、貯金が3千万円ってほとんどの人が無理でしょ。それが安心のために必要な資産なのだと言われれば、不安が煽られても仕方ありませんね。
それに対して中山さんは、性風俗が女性のセーフティーネットになると考えておられるようです。「蓼食う虫も好き好き」と言いますが、性に関する好みはそれぞれであり、だからこそすべての人に性風俗で働けるチャンスがある。そこが、安心の元になるんですね。


以前、婦人科の医師から「セックスをし続けている女性は、閉経した後も女性ホルモンが出続けている」と聞いたことがある。実はこれには続きがあって、「年をとって恋愛をすると再び出る」というのだ。そして閉経後に女性ホルモンが分泌されている人のほとんどは、配偶者以外の男性と関係をもっているのだとその医師は話していた。
 人間にとって、セックスとは心と身体にいい影響を与えるものなのだ。
」(p.169)

年をとっても恋をして、配偶者以外とも性的な関係を持つことが、女性の身体にとって良い結果をもたらしている。その事実を受け入れるべきではないでしょうか。


現場でよく聞くのが”40歳を過ぎてから開発された”というケースですね。それまでは旦那さんだけだったけれど、男の人ってどうしても年齢とともに落ち気味になるじゃないですか。仕事も忙しくなる時期だし。でも、女性は熟女になってから”性の感度が上がる”といいますよね。そこでミスマッチが起こるのか、初めて彼氏をつくる……つまり不倫をするわけです。ここで開花しちゃう人が多いように思います。残念ながら旦那さんの影響で開花するって人はあんまり聞かないかもしれません。」(p.177-178)

AVの制作スタッフの男性は、このように言います。私自身、性的に「落ち気味」を実感しているので、さもありなんと思いますよ。(笑)

介護施設なら、個室で一人ひとりお風呂に入るんじゃなく、混浴で大浴場に入ったほうがいいんじゃないですか。Hが好きな人はとにかく健康で明るいですね。よく笑うし、しゃべるし。僕も歳とって、こんなふうになれたらいいなと思います。枯れていく感じじゃなく、咲いていく感じですよね。衰えることあるのかな?」(p.178-179)

同じAV制作スタッフの言葉ですが、今、私が介護施設で働いているだけに、こういう考えもあるなぁと思いました。


人生もゴールが近い時期に、さまざまな男性から女として求められつつ、パートよりもちょっよいい金額を稼ぎ、健康な身体で毎日を過ごしている……私は、その生き方を、人間としての尊厳や自由があるものとして、「いい生き方だな」と思っている。」(p.183-184)

若くしてこの業界に入った女性は、案外その後も逞しくやっている。
 セックスワークは”堕ちる”場所ではない。
 チャンスをつかむ場所なのだ。
」(p.189)

たしかに、そういう一面があるなぁと私も思います。


そもそも、なぜ不特定多数の人とセックスしてはいけないのか? 誰にも答えられません。神が決めたから? クリスチャンなどには説得力がありますが、そうでない人、たとえば日本人には本来、説得力がありません。
古事記には天岩戸伝説があり、岩戸にお隠れになった天照大神を引き出すために、神々がストリップショーのような宴会を堪能しています。それが日本人の神話なのです。

そうであれば、まずは思い込みを捨ててみるところから始めてはどうかと思います。そういう意味でも、超熟女と呼ばれる高齢者風俗嬢が活躍する現実があることを知るのも、悪いことではないと思うのです。

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2022年08月15日

22世紀の民主主義



Twitterで紹介されていたことと、今、話題の方のようなので、読んでみることにしました。
著者は成田悠輔(なりた・ゆうすけ)さん。経済学者、データ科学者で、イェール大学助教授だそうです。

私は最初、Facebookで紹介されていたWEB記事で成田さんを知りました。ずいぶんと頭の良さそうな方だなぁとの印象を持ちました。
実はその記事の内容が、そのままにこの本の内容でした。なので、そのことに気づいてから、買わなくても良かったなぁと思った次第です。
まあでも、いろいろと考えさせてもらえる内容の記事だったので、その意味では、本を買うことでお礼をしても良かったかな、とも思っています。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

具体的には、若者しか投票・立候補できない選挙区を作り出すとか、若者が反乱を起こして一定以上の年齢の人から(被)選挙権を奪い取るといった革命である。あるいは、この国を諦めた若者が新しい独立国を建設する。そんな出来損ないの小説のような稲妻が炸裂しないと、日本の政治や社会を覆う雲が晴れることはない。」(p.7)

日本の政治は行き詰まっており、若者の投票率が少々上がったくらいでは変わらない、という成田さんの分析です。だから革命的な何かが起こる必要がある、ということですね。

これは冷笑ではない。もっと大事なことに目を向けようという呼びかけだ。何がもっと大事なのか? 選挙や政治、そして民主主義というゲームのルール自体をどう作り変えるか考えることだ。ルールを変えること、つまりちょっとした革命である。」(p.8)

投票するかしないかとか、政治家になるかならないかというレベルでは、ほとんど何も変わらないと成田さんは考えているようです。
だから、民主主義という制度そのものに疑いの目を向けて、そこを変えていく必要があるのだと。

では、重症の民主主義が再生するために何が必要なのだろうか? 三つの処方箋が考えられる。(1)民主主義との闘争、(2)民主主義からの逃走、そして(3)まだ見ぬ民主主義の構想だ。」(p.13)

闘争というのは、民主主義と愚直に向き合って、調整や改良をすることだそうです。たとえば、政治家のインセンティブを改造することで、国家百年の計を優先する政策に取り組んで実績を上げれば報酬が増えるようにする、というようなもの。
しかし、これは実現可能性がほとんどないと分析します。なぜなら、その決定をするのは現在の政治家だから。現在の政治家が、そういう改革に取り組むのは考えられない。そう成田さんは分析します。

逃走も、たとえば洋上国家のようなものを造って、日本から逃げ出すというもの。闘争と比べれば実現の可能性がありそうですが、果たしてどうか?
成田さんは、仮に逃走するとしても、それは民主主義の問題を解決したとは言えないと言います。そこで民主主義の再発明が必要だということになり、それが構想だとされています。

そんな構想として考えたいのが「無意識データ民主主義」だ。インターネットや監視カメラが捉える会議や街中・家の中での言葉、表情やリアクション、心拍数や安眠度合い……選挙に限らない無数のデータ源から人々の自然で本音な意見や価値観、民意が染み出している。「あの政策はいい」「うわぁ嫌いだ……」といった声や表情からなる民意データだ。個々の民意データ源は歪みを孕(はら)んでハックにさらされているが、無数の民意データ源を足し合わせることで歪みを打ち消しあえる。民意が立体的に見えてくる。」(p.17-18)

つまり投票による選挙で政治家を選ぶのではなく、また個々の政策を投票で選ぶのでもないのです。日常生活の様子から得られる無数のデータから民意を汲み取り、それを集計して政策を決定するというものです。
どのようなデータをどう解釈し、どう集計するのか? それがアルゴリズムであり、公開されたアルゴリズムにしたがって、自動的に政策が決定されるようになると言うのです。


政治がなにやら大事だと頭ではわかる。だが、心がどうにも動かされない。政治やそれを縛る選挙や民主主義を、放っておいても考えたり動いたりしたくなるようにできないだろうか? その難題に挑戦することがこの本の隠れた目的である。読者のためというより、正直自分のためである。」(p.24)

つまり、成田さんが今の政治に飽き飽きしていて、民主主義という構造そのものを変えるという思考ゲームをすることで、ワクワク感を得たかった。その思考ゲームの集大成がこの本だというわけですね。
そうであれば、闘争、逃走、構想という言葉遊びも理解できます。本来なら、いくら構想を練ったところで、闘争と同様に現在の政治家が変えようとしなければ変わらないことは明らか。その意味では、構想で民主主義が変わるということはありません。
ただ、民主主義を構造から変えたらどうなるか、という世界を示すことで、何かが動き始めるかもしれません。たとえば、ある民間シンクタンクがその手法で政策を作って見せて、それが多くの人の賛同を得るようなことがあれば・・・。


実直な資本主義的市場競争は、能力や運や資源の格差をさらなる格差に変換する。そんな世界は、つらい。そこに富める者がますます富む福利の魔力が組み合わされば、格差は時間とともに深まる一方で、ますますつらい。このつらさを忘れるために人が引っ張り出してきた鎮痛剤が、凡人に開かれた民主主義なのだろう。」(p.42-43)

資本主義は、優れた者に利益を与えるシステム。しかし民主主義は、愚かな大衆が社会をコントロールする仕組み。相矛盾すると成田さんは言います。
したがって民主主義を採用するということは、経済が低迷するなど、社会全体の発展を阻害することにもなりかねません。

経済低迷のリーダーはもちろん我が国だが、日本だけではない。欧米や南米の民主国家のほとんども実は目くそ鼻くそで、地球全体から見ると経済が停滞している。逆に、非民主陣営の急成長は驚異的である。爆伸びのリーダーは隣国だが、これも中国だけではない。中国に限らず、東南アジア・中東・アフリカなどの非民主国家の躍進も目覚ましい。」(p.48)

これについては、すでに伸び切って豊かになった民主国家と、これから豊かになろうとする非民主国家の比較ではないかという視点もあります。成田さんもそこを見越して、そうではないという実例を示します。
しかし、それだけで民主主義が原因とは言い切れません。成田さんも、相関と因果は別だと言われます。しかし、他の分析からも、これは因果関係だと見るのです。

しかし、どうも都合の良いデータだけを並べているような気もしますね。なぜなら、民主国家の我が国が爆伸びした時期もあったからです。成田さんもそのことを取り上げ、まだ十分に正しい理論とは言えないかもしれない、ということは認めておられます。


だが、ほとんどの政治家は知名度も権力も資産も中途半端なただの人で、人から気に入られつづけなければ立場を保てない。その残念な現実がシルバー民主主義を生んでいる。一人ひとりの政治家のビビリこそが、シルバー民主主義の実態なのだろう。」(p.94)

つまり、選挙で勝つためには大多数を占めるお年寄りの顔色をうかがわなくてはならなくなる、ということですね。
でも、大多数のお年寄りの意向を汲んで今の政治があるとするなら、大多数の人の民意をデータとして集めて自動的に政策を作り出しても、同じことになるんじゃありませんかね? このことへの的確な答えは、本書からは見つけられませんでした。


だが、今は環境が違う。政策ごとに有権者が意思表明することもできるし、その人にとって「重要じゃない」「よくわからない」と思われる政策に無駄な影響力を発揮しないように辞退したり、信頼できる人に票を委ねたりする仕組みも可能だろう。「ある政治家・政党に、すべてを任せる」という昭和な固定観念を考え直す必要がある。」(p.117)

現在の民主主義は、個々の政策への賛否とは関係なしに政治家や政党を選ばなければならない仕組みで、民意が正しく反映されているとは言えないと成田さんは言います。
特にマイノリティの民意は無視されがちだと。当人にとっては重要な課題でも、他の大多数の人にとってはどうでもいい課題。そのどうでもいいと思っている人が、マイノリティの課題を決めてしまっているのです。

意思決定アルゴリズムは不眠不休で働け、多数の論点・イシューを同時並行的に処理できる。人間が個々の論点について意識的に考えたり決めたりする必要が薄れる。「無意識」民主主義たるゆえんだ。人間の主な役割は、もはや選択したり責任を負ったりすることではない。機械・アルゴリズムによる価値判断や推薦・選択にだいたい身を委ねつつ、何かおかしい場合にそれに異議を唱え拒否する門番が人間の役割になる。政治家はソフトウェアとネコに取って代わられる。」(p.162-163)

意識的に何かを選択するということは、限られた一部のことなら可能ですが、無数にある選択肢に対して適用することは無理だというわけですね。だから、その部分はコンピュータが担当するのだと。
コンピュータがはじき出した政策が、何かおかしいとするなら、それはアルゴリズムがおかしいということです。だから、アルゴリズムを見直すということになります。
そういう社会になれば、もはや政治家は不要であり、イメージキャラとしてのネコがいればいいだけです。

まあかなり極論だと思いますけどね。その門番を誰がやるのかと考えると、やはり選挙で政治家を選ばなくてはならなくなるのではないか、とも思えるので。


民主主義とはデータの変換である。そんなひどく乱暴な断言からはじめたい。民主主義とはつまるところ、みんなの民意を表す何らかのデータを入力し、何らかの社会的意思決定を出力する何らかのルール・装置であるという視点だ。民主主義のデザインとは、したがって、(1)入力される民意データ、(2)出力される社会的意思決定、(3)データから意思決定を計算するルール・アルゴリズム(計算手続き)をデザインすることに行き着く(図13(A))。」(p.164)

私も元SEなので、こういうコンピュータ的な考え方は好きです。IPO(I:インプット、P:プロセス、O:アウトプット)に分割して物事を考えます。

どこかに本当にまっさらで透明な「民意」や「一般意思」があるという幻想を捨てる必要がある。私たちにできるのは、単一の完全無欠で歪みのない民意抽出チャンネル・センサーを見つけることではない。ましてや、選挙はそのようなチャンネルではない。私たちにできるのは、むしろ選挙やTwitterや監視カメラのような個々のチャンネル・センサーへの過度の依存を避け、無数のチャンネルにちょっとずつ依存することで、特定の方向に歪みすぎるのを避けることだけだ。」(p.178-179)

ある政策に対して賛否を問うようなやり方は、真に民意を反映するものではない、ということですね。自分にとって有力な人、あるいは無関係な大多数の人の意向に影響を受けたりする。また、質問そのものに影響を受けることもある。
だから、世論調査のようなものだけを民意とすると、歪んだ民意になってしまうのです。現に、マスコミによる民意誘導(洗脳)には辟易するものがあります。

無意識民主主義アルゴリズムの学習・推定と自動実行のプロセスは公開されている必要がある。選挙のルールが公開されているのと同様だ。」(p.186)

政策を選択する過程が透明化されるべきだということです。ここを隠されてしまえば、アルゴリズムをつくる人の専制になってしまいますから、これは当然のことです。

アルゴリズムと偶然による自動化された民主主義も、無謬主義と責任追及で閉塞した社会に逃げ道をもたらしてくれるかもしれない。そして時にランダムな選択は、どんな選択がより良い成果をもたらすのかを教えてくれる社会実験となり、未来の無意識民主主義に貢献するデータを作り出してくれる。」(p.199)

たしかに、どんなに偉い人が考えても、すべて思い通りの結果を得ることになるとは限りません。そして、それで失敗したら責任追及されるという今の政治体制では、冒険(失敗)することができず、けっきょく無難な選択(何もしないという選択)しかしなくなるのです。
そうであれば、ともかく適当にでも何かをやってみて、上手く行ったかどうかの判断をして、ダメなら変えるという試行錯誤を繰り返すのも、悪いことではないという指摘ですね。

そんな現状と対比した無意識データ民主主義は、民意を読みながら政策パッケージをまとめ上げる前の段階をもっとはっきり可視化し、明示化し、ルール化する試みだとも言える。そして、ソフトウェアやアルゴリズムに体を委ねることで、パッケージ化しすぎずに無数の争点にそのまま対峙する試みとも言える。その副産物として、政党や政治家といった20世紀臭い中間団体を削減できる。」(p.202)

それぞれの政党が多くの政策をマニフェストとして掲げていますが、どこも似たりよったりで、ますます選択しづらくなっている。そういう現実と対比すると、こういうメリットがあると成田さんは言います。

確かに、ウェブ直接民主主義が技術的・物理的に可能か不可能かと言われれば、可能になりつつある。だが、たとえ実現可能でも、ウェブ直接民主主義には二つの大きな壁がある。

 第一に、選挙民主主義が抱えるのと同じ同調やハック、分断といった弱さを持つ。第二に、一定以上の数のイシュー・論点を扱うことが無理である。
」(p.203)

これは先ほど取り上げたように、1つの政策に対する賛否を直接問うやり方で、真に民意を表さないし、現実的にすべての政策について実行することが不可能だ、ということですね。


新しい民主主義の構想としては、面白いものがありました。
つまり、多くの人々が幸せを感じ、満足するという結果を追求するアルゴリズムを造って、それが政策を決定するということだろうと思いました。

ある政策に賛成か反対かという直接的な民意を集めるのではないのですね。
たとえば平和を求めるという民意があった時、だから軍拡しないのか、それともだからこそ軍拡するのか、政策はまったく違います。その政策への賛否だけを集計しても意味がないのです。重要なのは平和という結果であり、そのためにどうするかは、直接的な民意ではわからないからです。
そこで失敗してもいいからランダムにでも何かを決める。その結果、大衆がどういう反応をするのかというデータを集める。平和に近づいたと考えて満足感を得ているのか、それとも不満足で不幸になっているのか。そのデータを集めて、また政策を決定する。
そういうやり方で、真に民意を反映する制作を行っていく仕組みです。

実際問題、そんなことができるのかという疑問はあります。
また、すぐに成果が現れる課題もあれば、何十年経たないと現れないものもあります。それを、現在の人々の満足感だけで決めていいのか、という思いもありますからね。

なので、成田さんの構想に、諸手を挙げて賛成という気持ちにはなれませんでした。しかし、民主主義の構造そのものを問いただすという試みは、面白いものがありました。

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2022年08月09日

不便益のススメ



日本講演新聞に「不便益」という言葉に関する記事がありました。面白いなと感じたので、そこで紹介されていた本を買いました。
著者は大学教授の川上浩司(かわかみ・ひろし)氏です。効率を追求する工学の分野で研究をしていく中で疑問を感じるようになり、今は不便だけれども益があるという「不便益」を追求しておられるようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
なお、本書では句読点を「,(カンマ)」と「.(ピリオド)」で記してあるのですが、あまり意味があるとは思えないので、引用文ではすべて句読点に置き換えます。

スマホを忘れたことに気がついた時、反射的に「不便!」という言葉が頭をよぎり、「マズイことになったなぁ−」と思いました。そして、お腹が空いた時、評判の良い近場のお店に最短ルートで移動できないことに気づき、ガックリきました。
 でも、ちょっと待ってください。もともと散策してたはずです。最短ルートで効率的にお店に行く必要があったのでしょうか?
」(p.13)

スマホを忘れたら、誰でも不便を感じるでしょうね。しかし、最短ルートで効率的に評判のお店を探せないという不便によって、思いがけない掘り出し物のお店と出合えるかもしれないし、街のあちこちに気づけるかもしれないのです。


不便益を探していると、手間をかけるからこその益がたくさん見つかります。その時の手間は、無駄ではありません。ところが一方で、手間をかけても空回りして、手間をかけない時と何も変わらないことがあります。結果が変わらなくても過程の違いに何か意味があれば良いのですが、それすらないこともあります。それこそ、手間が無駄になっています。
 ところが私たちは普通、これらの区別を意識することはなく、手間といえばムダだと思います。手間はいつでもネガティブなもので、できるだけ避けるほうが良いと無意識に考えてしまいます。
」(p.55)

本当は、無駄な手間と無駄でない手間があるにも関わらず、私たちは「手間=無駄」と考えてしまっているという指摘です。

でも、本当にそうでしょうか?
この本を読みながら考えたのですが、何を無駄と考えるかは、その人の考え方によるのではないでしょうか。つまり、絶対的な無駄というものはないし、絶対的に無駄ではないなどということもないのです。


この事態をちょっと抽象化すると、自由度が低い(ロビーにいなければテレビが見れない)という不便も、出会い(友人となる人物と)の機会をくれて、何か試してみる(話しかけてみる)ことを後押ししてくれます。普通に考えると、自由度が低いことはチャンスを奪われることのように思えます。しかし実は、逆に別のチャンスを与えてくれるのです。」(p.74)

ロビーにしかテレビがないホテルで、どうしても観たかった番組を見るために慣れない英語を駆使してチャンネル争いをしたことがきっかけで、かけがえのない友人ができた。そういう体験をもとに、自由が少ないことが必ずしも良いわけではない、という考えを披露されています。

これを突き詰めれば、何でも良い、ということにならないでしょうか?
すべての出来事には「良い」「悪い」の両面があるだけなのです。あるいは、すべての出来事はニュートラルであり、それを「良い」「悪い」と決めているのは自分が選択した価値観だということです。

もし、チャンネル争いをして負けて、悔しくて部屋で一人で過ごすことになったらどうでしょう? それでも、ロビーにしかテレビがないという不自由(不便)が「良い」体験になったでしょうか? 「悪い」体験だったと思うかもしれませんね。

でも、そういう出来事になったとしても、「良い」と考えることもできます。一人で部屋で過ごすことで、思索を深めることができた、とか。
結局、すべては自分が選択する考え方次第だと私は思います。


「徹底的に手間を省き、頭を使わずに済ませれる先に、究極の豊かさがあるのだ」と、ここまで極論すると、みんながみんな、首をかしげます。ところが今、この極論に通じる事態を私たちは知らず知らずに受け入れてしまっているような気がしませんか?」(p.77)

「WALL・E(邦題:ウォーリー)」という映画で描かれていた近未来の話です。何もする必要がなくても生きていかれる世界。それが便利を追求した先にある。身体を動かす必要がなくなり、動かさなくなれば、身体は退化します。究極、頭と心肺機能を維持する内臓だけでよくなる。果たしてそれが幸せなのでしょうか?

・自由とは、何もしなくていいことだ
 ・自由とは、何をしてもいいことだ

さて、どちらが本当でしょうか?
 これを初めて聞いた時、私自身も迷いました。私自身は、「義務」を課せられた状態では前者、「制限」を課せられた状態では後者を、自由と呼ぶ気がします。つまり、状況に依存して自由という言葉を使い分けているのです。
」(p.79-80)

さて、不便益の立場はどうでしょうか? なんとなく想像できるかと思います。何もしなくていいことを自由と呼ぶだなんてとんでもない、という立場です。」(p.80)

たしかに、義務を課せられた時に、その義務を果たさなくて良いというのは「自由」ですよね。そして、何かをしてはならないという制限を課せられた時は、その制限を破っても良いというのが「自由」です。

私は、ここで1つの視点が忘れられているように感じます。何もしなくてもいいとなった時、人は本当に何もしないのでしょうか? 何もしなくていいけど、何かをしたがるのではないでしょうか?
そうであれば、無理に不便益によって無理やり何かをせざるを得ない状況に追い込まなくても、私は自由にさせていいのではないかとも思うのです。

つまり、義務も制約もないのが「自由」であり、「自由」であれば、そこで何をするかは、その人の「自由」なのです。


手間がかかったり頭を使わねばならなかったりする。そしてそれだからこその益がユーザーにもたらされる。そのようなモノゴトを「不便益システム」と呼んでいます。そして、そのようなシステムのデザインを「不便益デザイン」と呼びましょう。」(p.109)

あえて手間がかかるようにする。そのことによって、不便だけれども益があるということを楽しんでもらうデザインということですね。
たとえば、周囲が消えていくナビとかがあるようです。強制的に自分の頭(記憶力や推考力)を使わされる仕組みです。


しかし、携帯電話やスマホを持つという便利な状態を経験したことがないので、比べようがなく、ピンときません。便利/不便というのは、比較の問題だったようです。」(p.137)

便利や不便、益や害(不益)も、すべて相対的なことですよ。つまり、自分が選んだ価値基準によって、どちらにでもなるのです。
だから私は、不便益ということそのものも相対的だから、それを絶対視するとおかしなことになると思うのです。


あちこちにあるコンビニ・自動販売機・夜遅くまで開いているお店に違和感があり、生きづらいと感じる。その理由を二人で考えてみたところ、便利が前提になっている社会は個人が不便益を得ることを許してくれないからではないかと結論しました。」(p.159)

たしかに、安価に編み物のセーターが買える社会で暮らしていたら、わざわざ羊の毛を刈って毛糸に紡いでセーターを編もうなどとは考えないでしょう。そうする自由を奪われている社会とも言えます。
でもね、それでもあえてやるという選択もできるんじゃありませんかね? その選択をしないことを、社会環境のせいにするのもどうかと思いますよ。


ただ、装備なくしての山登りは危険です。山登りで不便の益(達成感)を得るためには、「信頼できる装備」という便利が必要です。そして価値工学は、装備の機能を高めコストを抑えるという仕事で、不便益と協働することができるのです。」(p.161)

山登りというのは不便益だと言います。たしかに、山頂に登ることだけが目的であれば、わざわざ歩いて登らなくても、ヘリコプターで運んでもらえばいいのです。
その不便益である登山を支えるためにも、安全性や快適性を高める装備が必要になってくる。つまり、不便益を安易に享受するためのテクノロジーは、必要とも言えるわけですね。

でも、これも考え方次第だと思います。たとえば、エベレストは酸素ボンベを持っていけば比較的に安易に登頂できます。だからこそ、あえて酸素ボンベを持たない登頂(無酸素登頂)に挑戦する意義があります。
この考え方でいけば、冬山でも夏の装備での登頂とかも、挑戦の対象になりますよね。つまり、機能を高めた装備すら不要になるのですよ。


最初は興味深く読み始めたのですが、途中からは、なんかどうでもいいなぁという気がしてきました。
たしかに「不便益」という考え方は面白いと思います。そう思いますが、絶対的な「不便益」という価値観があるわけではないのです。
その人が選択する価値観によって、便利で役立つ(益がある)もあれば、不便だけれども、不便だからこそ役立つ、ということもあるのです。
そうであれば、ものごとはすべてニュートラル(中立)であり、そこに益を見出すかどうかは自分次第だということになります。

不便を楽しんでもいいし、便利を楽しんでもいい。ともかく、それを楽しんだらいいんじゃありませんかね。

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2022年08月05日

結局、すべて大丈夫。



バリ島の兄貴こと丸尾孝俊さんのご縁で知った電子書籍(Kindle版)を読みました。著者は菅沼日菜子(すがぬま・ひなこ)さん

兄貴は、たくさんの人を応援されていますが、それがすべて私も応援したくなる人とは限りません。では何故、この本を買ってみようと思ったか? それは、この本のタイトルが気に入ったからです。
私がいつも言っているのは、そのままで大丈夫だから、ということです。それととてもマッチしている気がして、買ってみることにしたのです。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

どう し たら 人 は 幸せ に なる ん だろ う?
 心から やり たい こと を やっ て い たら、 幸せ を 感じる ん じゃ ない のかな?
 じゃあ、 みんな 心から やり たい こと を やっ て い ない って こと なのかな?

 …… あれ、 じゃあ 私 は どう だろ う。
」 (p.7-8)

就職した菅沼さんは、ため息をつきながら仕事をする社員たちの姿を見て疑問を感じます。そこから「幸せ」を探究する旅が始まるのです。


「今 の まま じゃ ダメ だ」 という 未来 の 自分 への 不安 感 と、 現状 の 自分 への 焦り。
「変わら なきゃ」 という『 恐れ』 を ベース に し た その 想い から、 次 の 行き先 も 決め ず に 現状 を 飛び出す 決意 を し まし た。
 大好き だっ た 会社 を 辞める という 決断 を し た の です。
」 (p.13)

現状に不満があったわけでもないのに、ただ今のままじゃダメだという思いに突き動かされて、手放すという決断をされたのですね。


誰 もが 抱える あらゆる 恐れ の 中 で、 私 が 一番 恐れ て い た こと。
 それ は、『 私 が 私 を 生き られ ない こと』 でし た。

 それ は、 死 への 恐怖 すら も 超え て、 絶対 に 嫌 だ と 強烈 に 意識 し て い た こと。
」 (p.18)

人生において、恐れる(不安になる)ことはいろいろあります。たとえば、お金がなくなるとか、病気になるとか、最愛の人と別れることになるとか。
しかし菅沼さんは、それよりも自分が自分として生きられないことが最大の恐れだと気づかれたようです。


どんな 状態 でも、 その 人 が「 幸せ だ」 と 感じ たら、 それ が「 幸せ」 です。

『幸せ の 定義 に 正解 は ない』
」(p.41-42)

なぜなら、 幸せ という のは「 現実 の 状態」 では なく、「 心 の 状態」 だ と 思う から です。」(p.42)

探究の結果、たどり着いた答えがこれだったのですね。幸せとは、外的な条件によるものではないのです。


タイ が 好き な 3つ の 理由 で、 それぞれ 深 掘り し て わかっ た こと。
 それ は、 私 は タイ に 行く こと で「 気持ちいい」「 心地 いい」「 心 が あたたかく なる」 という『 開放 感』 と『 安心感』 を 求め て い た という こと です。
」(p.46)

菅沼さんは、タイでボランティア活動に参加されたことがあったそうです。私もタイで「自由」を感じたのですが、菅沼さんも同じような感覚を得られたのかもしれません。
菅沼さんとは場所の縁があるようで、タイ、長野、広島、宮古島という、なぜか私と関連する土地のつながりがありました。


幸せ を 感じる うえ で 大切 なのは『 何 かを する こと』 では なく『 味わう こと』 なの です。」(p.47)

幸せとは、行為(Doing)や所有(Having)の結果として得られるものではなく、存在(Being)そのものなのですね。


「はたして、 自分 の 感覚 に 従っ て いっ たら、 人生 は どう 変わっ て いく ん だろ う?」

「頭 で 出し た 答え」 を 優先 する 人生 から、「 自分 の 感覚」 を 優先 する 人生 への シフト。
 それ は、 自分 の 人生 を かけ た 壮大 な「 実験」 でし た。
」(p.52)

自分 の 直感、 感覚 を 信じる 勇気。
 それ を 行動 し て みる 勇気。
 その 勇気 さえ あれ ば、 人生 は 想像 も つか ない 方 へ、 未知 なる 世界 へ 展開 し て いき ます。
」(p.62)

理性よりも大事なのは直観。自分の感性を信じること。菅沼さんは、自分の人生において何が真実かを実証しようとされたようです。


満点 の 星空 を 見上げ た とき、 息 を 飲み、 言葉 が 出 なく なる 感覚 になり ませ ん か。

 それ は すべて「 純粋 な もの」 に 触れ た こと で、 あなた が、 あなた の 中 に ある「 純粋 さ」 を 思い出し た から です。

 だから、 安心 し て いい の です。
 私 たち の 中 に「 純粋 な こころ」 は かならず あり ます。
」(p.63)

たった 100 年 きり の 人生 を、 心から 豊か さを 感じ て 生きる ため に 必要 な もの。
 それ は、 自分 という 存在 への 絶対的 な 安心感。 そして、 湧き 上がる 好奇心 を 止める こと なく、 チャレンジ し て いく こと だ と 思っ て い ます。
」(p.68)

そうして 1 回 きり の 人生 を 全う し て いく こと を、 未来 の 自分 への メッセージ として、 ここ に 記さ せ て いただき ます。

「結局、 すべて 大丈夫。 だ と し たら あなた は、 本当は どんな ふう に 生き て いき たい です か?」
」(p.70)

自分の人生を信頼して、絶対に大丈夫だという安心感の中で生きることによって、本当の自分を生きることができる。そういうことを、菅沼さんは感じられたのだろうと思います。


とても短い本で、サクサクと読めてしまいます。ある意味では物足りなく感じるかもしれませんが、この値段の電子書籍であれば、これで十分だとも思いました。無用に長くする必要はないので。

それにしても感じたのは、若い人たちの可能性です。こういう感覚をいとも簡単に得られるのが、今の若い人たちなんですね。私はそのことに人類の希望を感じます。
 
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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:56 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年08月01日

神仕組み令和の日本と世界



友人から「日月神示(ひつきしんじ)」というものがあると紹介され、本を探してみて、読みやすそうなものを買ってみました。

著者は中矢伸一(なかや・しんいち)氏。英会話講師などをされながら、神道系の歴史などを独自に研究されておられるようです。
サブタイトルに「日月神示が予言する超覚醒時代」とあるように、本書は予言とされる日月神示について書かれたものです。
私は友人に聞くまでは、まったく知りませんでした。そもそも予言はノストラダムスで懲りているので、もう十分かなという思いもありましたが、友人の勧めに従ってみることにしました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

終戦を迎える前年の昭和19年6月、天性の画家であり神道研究科だった岡本天明(てんめい)氏が、千葉県成田市台方にある麻賀多(まかた)神社に参拝した際、突然、勝手に右手が動き出し、「自動書記」という形で書記が始まりました。この啓示は最終的に昭和36年頃まで断続的に続き、全37巻、補巻1巻という形で今日に残されました。」(p.5)

これが「日月神示」と呼ばれるものになるのですが、自動書記という点では「神との対話」と同じような感じですね。

これを素直に受け入れて実践していくことにより、個人だけでなく社会、日本だけでなく世界全体が良い方向に変わっていく。大きな難が小さな難で済む。そんな力を秘めているのが日月神示なのです。

 その日月神示によれば、やがては日本の「てんし様(天皇)」を中心とし、世界が一つにまとまる時代がやって来ます。戦前に言われた八紘一宇(はっこういちう)、四海同胞(しかいどうほう)の実現であり、本当の意味での恒久平和と繁栄の時代がもうすぐやってくるというのです。
 ただし、その時代を迎えるまでに、人類は、今まで積もり積もったメグリ(悪行)を清算しなければなりません。いわば通過儀礼としての”禊(みそ)ぎ祓(はら)い”です。それは、天変地異、戦争、経済の崩壊、病の蔓延(まんえん)といった様々な形で起こることになるでしょう。一気にそうした現象が出てしまうとほとんどの人は生き残れないから、一刻も早く「まこと心」に立ち戻り、今から準備して、行動に移すようにと警告しているのです。
」(p.6-7)

この本で書かれていることをコンパクトにまとめると、こういうことになるようです。
これについては、私としては違和感ありありなのですが、そのことは最後に書くことにしましょう。


「物、自分のものと思うは天の賊ぞ、皆てんし様のものざと、くどう申してあるのにまだわからんか」(『キの巻』第7帖)
「てんし様拝みてくれよ。てんし様は神と申して知らしてあろがな、まだわからんか」(『水の巻』(第1帖)
」(p.20)

すべてこの世は神が所有しているのであって、私たちが何かを所有できる、所有しているという概念が間違っているのですね。そしてその神が具体的なお姿として現れているのが天皇だと中矢氏は言います。したがって、天皇を神と信じて、自分を空しくすることを求めているのです。


村山先生によれば、このたびの文明交代期は、2000年から2100年の100年間かけて起きるということになりますが、1600年前の交代期が西暦400年から500年にあたるところ、実際には西暦375年のフン族の大移動に端を発していることから、今回の交代期は1975年から2075年までに起こるだろう、としています。」(p.62)

これは日月神示とは関係ないのですが、歴史を見ると800年周期、1600年周期というものがあるという説を、村山節(みさお)氏が説いているそうです。
この説によれば、文明の大転換が1600年周期で起こっていて、その発端は民族の大移動にあるのだとか。だから今また大きな大転換期に差し掛かっているが、民族の大移動による世界的な大混乱が起こると予想されているのですね。

人類の歴史は周期的な興亡をずっと繰り返してきていますが、次は日本が世界の主役になるということは、もう間違いないのです。
 それは、800年とか1600年に一度のスケールで来る波ではなく、今、シュメール文明から始まる人類6000年の歴史が、終わりを告げようとしているということです。
 これまでの6000年、あるいは6400年の歴史は、”男性”原理が主体の歴史でありました。男性原理が主体の世では、ピラミッド構造をなす支配型の社会になります。強い者と弱い者の差が顕著にあらわれ、他人を蹴落としてでも這い上がろうとする競争社会が実現します。
 そしてこれから始まる新しい波は、フラットな構造の、上も下もない、対等な関係の社会になります。そんな地球社会の中心には「丶」という核があり、丶を中心として皆がまとまるのです。この丶にあたるのが日本であり、天皇陛下(てんし様)ということです。
 これは女性原理が強く打ち出される世の中ですが、けっして女性原理が男性原理より優位に立つというものではなく、男性原理と女性原理が融合する、バランスの取れた理想的な社会になると予測します。つまり、イザナギ(男性原理)とイザナミ(女性原理)の結びです。これが「ミロクの世」と表現されるものです。
 日月神示に示されているのは、もうすぐそういう世の中に転換するから、準備するようにというアドバイスであり、警告です。
」(p.92-93)

中矢氏はこのように言いますが、特に根拠は示されていません。男性原理と女性原理の分類の根拠もないし、なぜそう転換するかもわかりません。それに、男性原理から女性原理へと転換するならまだしも、どうして統合された社会になると言えるのか。まったくもって不明です。
ひょっとしたら、日月神示にはそういう記述があるのかもしれませんが、少なくともこの本にはそういうことは書かれていませんでした。あえて書かない理由はないので、おそらく書かれていないのでしょう。

中矢氏は、日月神示には、大混乱の後に「ミロクの世」と言われる平和な社会が訪れると言います。したがって、いかにこの大混乱を乗り切るかが重要であり、そのための準備をせよと警告しているのが日月神示だと言うのです。


おそらく2020年の東京オリンピックの後には、中国経済の崩壊は顕著になってくるのではないかと思われます。
 経済の崩壊と同時に来るのは共産党一党独裁体制の終焉であり、代わって台頭してくるのが軍閥です。中国は内乱状態になり、分裂するかもしれません。これが、民族移動に拍車をかけるのではないかと思われます。
」(p.115)

フン族の大移動に匹敵するものは、中国人民の大移動だと予測しているのですね。それをきっかけに、世界は大混乱に陥るのだと。
しかし残念ながら、今現在、そういう兆候は現れていないようです。


また、日月神示は「てんし様を中心に世界が一つにまとまる」世の中を理想とするもので、それは八紘一宇(はっこういちう)とか四海同胞(しかいどうほう)という戦前の思想に通じるものではありますが、もう一つ注目しなければならないこととして、日月神示はその系譜から、「大アジア主義」の流れを汲むものであるということがあります。
 日月神示は本来、大本(教)に降りるはずでしたが、大本が当局により弾圧されてしまったため、仕組みが変わり、一時は大元信者であった岡本天明さんに伝達されたと言われています。
 その大本ですが、戦前は右翼ともつながりの深いものがありました。右翼といっても、今のような偏狭な国粋主義者の集まりではありません。当時の右翼というのは、大アジア主義を掲げ、清朝打倒を掲げる中国の革命家たちと共闘しており、日本の軍部とは対立関係にあったのです。玄洋社の頭山満(とうやまみつる)や黒龍会の内田良平は、大本教主の出口王仁三郎(でぐちおにさぶろう)とは同じ理想のもと、しっかりと結びついていました。
」(p.187-188)

現在の中国は、中華人民共和国と中華民国(台湾)の二つに分かれていますが、いずれしても、その基礎を作ったのは孫文であり、孫文のもとでは一つになれるのです。その孫文を命がけで護り、共に闘ったのは、日本の右翼たちだったということです。」(p.189)

つまり、大アジア主義というのは、神のみ心に適うものだということなのでしょうね。
しかしそれにしても、神の計画であった大本教を、人間が弾圧して潰してしまった、という発想も面白いですね。何とひ弱な神様なのでしょうか。

また、満州には「五族」に限らず、ユダヤ人を大量に入植させるという計画もありました。現在のイスラエルが建国される前の1930年代、ヨーロッパで迫害を受けていたユダヤ人を満州国に受け入れ、定住させようと画策したのです。」(p.191)

これは「フグ計画」と呼ばれ、日産コンツェルンの鮎川義介(あゆかわよしすけ)が提唱したのだとか。ユダヤ系アメリカ資本の誘致を行うことが目的のようで、満州を多民族が協和した強国にしようとする計画だったようです。
その目的には、ロシアからの防波堤としての役割を満州国に担わせることでもあったようです。


こういうことを踏まえて、次に起こるであろう中国の分裂と民族大移動に備えて、中矢氏は次のようなプランを提示します。

民族移動への対応だけでなく、新満州国を、新時代を開くモデル国家と位置付け、東アジアのみならず人類の未来を開くフラグシップとすることです。
 なお、今は戦争する時代ではありませんので、アメリカやロシアをもこの一大プロジェクトに引き込み、皆で発展していけばいいのです。
 本来こうした役割は新満州ではなく、日本が担うべきなのですが、自浄能力もないし自立することすらできない今の日本ではとても無理なので、日本以外のところに、こうした雛形を作るのです。
」(p.202)

大アジア主義を満州の地に実現することで、大混乱機を乗り切ろうとする考えのようです。
あまりに理想論に過ぎる気がしますが、いかがなものでしょうかね。まだウクライナ戦争が起こる前に書かれたものなので、仕方ないかもしれませんが。


『水の巻』第2帖には、
「ひふみ、よいむなや、こともちろらね、しきる、ゆゐつわぬ、そをたはくめか、うおえ、にさりへて、のますあせゑほれけ。一二三祝詞(ひふみのりと)であるぞ」
 と出てきますが、私はこの「ひふみ祝詞」こそが、日月神示の根幹であると思っています。
」(p.203)

これと同様のものが物部氏の史書である『先代旧事本紀』の「天神本紀」にあるそうです。「ひふみよいむなやこと」というのは、数字の「一」から「十」を読んだものです。

私はとくに意味など考えずに奏上するべきだと言っていますが、前章でも出てきた在日朝鮮人の先生によると、「ひふみ祝詞」というのは、朝鮮語で解釈すると、日本と朝鮮、そして中国東北部を含めた「アジアの連帯、あるいは和合」の意味があるというのです。」(p.205)


読み物としては面白いと思いますが、私の正直な感想は、ノストラダムスと同じだというものです。
こういうことは、大昔から言われてきています。聖書でも黙示録のように、大惨事が起こった後に神の世が出現するとありますよね。

そして、こういう人を脅すような警告の多くに共通しているのが、具体的な対策を何も示していないということです。
本書を読みながら、具体的にどうせよと言っているのかを知ろうとしました。第5章は「私たちが目指すべき未来」とあるので、ここで日月神示に書かれている対策が披露されているのかと思いました。しかし、そういうことは何も書かれていませんでした。
東アジア共同体構想としての新満州国建設は、中矢氏の妄想であり、日月神示に書かれているものではありません。それに、仮に新満州国建設が対策だとして、いったいどうやって造るのでしょう?

日月神示にあるのは、神を信じよ、「てんし様」が神だと受け入れ崇めよ、というようなことばかりです。
一部に「型」だけでよいという記述もありましたが、その「型」が何なのかもわからないし、その解説もありませんでした。
聖書でも、神を信じよとしか言っていませんよね。その結果、ユダヤ教が始まってから4000年(一説には6000年とも)とか、キリスト教が始まってから2000年になりますが、歴史はどういう答えを出しているでしょうか?

私は、「神との対話」は絶賛していますが、それは非常に論理的に示されているからです。そして、不安(恐れ)は愛の対極であることも示されています。これも理屈として納得がいくものです。
したがって、こういう不安を煽るだけのものを、私は真実だと受け入れることはできません。もちろん、他の人が何を真実と受け入れるかは、その人の自由だと思っていますよ。

仮に本当に大混乱が起こって、人類がほとんど死に絶えるとして、だからどうなのでしょう? 魂が私たちの本質であるとするなら、いったい何が問題なのでしょうか?
不安を煽るものは、魂のことを語りながら、必ずどこかで都合よく魂を無視します。そういう一貫性がないのが特徴的ですね。

と言うことで、読み物としては面白いかもしれないので、読んでみたい方はどうぞ。

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タグ:中矢伸一
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2022年07月27日

自分を好きになれない君へ



私の大学(広島大学)の後輩でもある野口嘉則(のぐち・よしのり)さんが、また新しい本を出版されたと言うので、予約して買いました。野口さんの本なら間違いありませんからね。
まあ、野口さんの方がはるかに活躍されているので、私の方が先輩なんだぁというところでしか優越感を満たせないので、そう言ってみただけです。実際は、キャンパスで出会ったこともありません。出会っておけば良かったなぁ〜とは思うんですがね。(笑)


それはさておき、この本は、精神的に苦しんでいる若者向けに、野口さんのメソッドをピンポイントでわかりやすく解説したものになっています。
なぜそうなのかという理屈もわかりやすいし、どうすれば良いのかという実践の手引きもわかりやすく書かれています。9月1日は学生や生徒の自殺が多いということを踏まえて、それまでに1人でも多くの必要とする人に届けばいいなぁと思っています。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

お悩みはさまざま多岐にわたりますが、その内容を丁寧に解きほぐしていくと、一つの根本的な原因に突き当たるケースが多いことに気づきます。
 その根本的な原因とは、「自分を好きになれない」ということです。
 多くの人が抱えている悩みや問題の多くが、自分を好きになれないことから生じているのです。逆に言えば、自分を好きになっていくことによって、多くの人の悩みや問題は解決に向かっていきます。
」(p.3)

カウンセラーとして多くの人の悩みを聞く中で、要は「自分を好きになれない」ことから派生している悩みがほとんどだと気づかれたのだそうです。


野口さん自身、対人恐怖症として過ごした高校から大学1年までの4年間があったそうです。その中でもがき苦しんだ中で、書物から哲学や心理学などを学び、実践することで克服してきた。この経験が今の野口さんを支えています。

私は、頑張っているときの自分も頑張れないときの自分も、結果を出したときの自分も結果を出せないときの自分も、どんな自分をも受け入れて愛せるようになっていきました。そして自分に自信を持てるようになり、人間関係も心から楽しめるようになったのです。」(p.6-7)

そんな野口さんが、若者向けにわかりやすく、かつ実践しやすく解説したのが本書になります。


なぜ、自分との関係が最も重要なのかというと、主な理由は2つあります。
 1つは、最も長い時間を一緒に過ごす相手が自分自身だからです。
」(p.15)

続いて、自分との関係がもっとも重要である理由の2つめは、自分との関係が他のすべての人間関係のひな型になるからです。」(p.16)

このように野口さんは言って、まず自分との関係を良くしましょう、それが大前提ですと言うのです。
自分との関係を良くするとは、すなわち自分を好きになることですよね。

実は私、自己卑下することはあっても、自己嫌悪に陥ったことがありません。内向的で自信もなかったし、目上の人に違う意見を述べようとすればチック症状が出たりもしましたが、なぜか自己嫌悪だけはしなかったのです。
この辺のことは野口さんの本には書かれていませんが、おそらく対人恐怖症になるようなレベルではなかったということなのだろうと思っています。


自己受容ができると、人は自己肯定感が高まります。
 自己肯定感とは、どのような自分にも価値があるという、無条件に自分を受け入れる感覚です。
 調子の良いときの自分、周囲に認められている自分だけではありません。落ち込んでいるときの自分、不安を感じているときの自分、結果を出せないときの自分、どんな状態であっても自分には価値があるのだと感じられる。自分が自分であることの確かな感覚です。

 自己肯定感は自己受容によって育ちます。自己受容のポイントは、自分が感じていることを自分で受容することです。
」(p.32-33)

まず重要なのは、「自己受容」することですね。その結果として「自己肯定感」が生じるのだ、ということです。
この順番も重要だし、この違いも重要なのです。「できる」自分だけを肯定するのではなく、「できない」自分も受け入れる。それが自己受容なのです。

ちょっと紛らわしいのですが、自己肯定感は、自己肯定ではなく自己受容によって育まれます。
 自分の良いところを一生懸命に見つけて「だから自分は素晴らしい」と肯定しようとするのが自己肯定です。
 それに対して、自己受容は、自分には良い悪いの判断をくださず、どんなときの自分をも「これが自分なんだ」と受け入れることです。そしてこの自己受容によって自己肯定感が育つのです。
」(p.38)

ダメな自分をダメなままに、「それでいいよ」と受け入れる。それが自己受容であり、もっとも重要なことです。

私はこれまで、「根拠のある自信」はもろく崩れやすいが、「根拠のない自信」なら崩れないから、「根拠のない自信」を持つべきだと言ってきました。「根拠のある自信」とは、野口さんの言うところの、自己肯定によって得られる自信ですね。一方の「根拠のない自信」とは、自己受容によって得られる自信だと思います。


自己受容できるようになると、どんなことが起こるのでしょうか。

 まず、他人に対して優しさを持てるようになります。
 自分を受け入れることができる人ほど、他人を受け入れることもできるからです。
 つまり自己受容と他者受容は正比例するのです。
」(p.41)

まず自分を愛せよ! と言うことですね。自分すら愛せないなら、他人を愛することはできないのです。


doingやhavingを肯定することは、「条件付きの肯定」だからです。
 努力しているから、自分は素晴らしい。美人で才能に恵まれているから、素晴らしい。こんなふうに条件付きで自分を肯定している限り、条件を満たさない場面では、自分を受け入れることができなくなってしまいます。その結果、条件を満たすことに駆り立てられる人生になってしまうのです。
 それに対してbeingを肯定することは、ありのままを受け入れることです。
 持っているものをすべてなくしてしまったとしても、これまで取り組んできたことに挫折してしまったとしても、自分の価値に何ら変わりはありません。
」(p.48-49)

よく使われる「Doing(行為)」「Having(所有)」「Being(存在)」という3つのワードでの説明ですが、愛が無条件であるなら、行為や所有に限定されることはありません。だって無条件ですから。ただ存在していると言うだけで、最高の価値があると認めている。それが「愛」なのです。


子どもは自分がネガティブな感情を感じたり、失敗したり、傷つくことを受け入れられなくなってしまいます。
 親を安心させられる自分でなければ価値がない。
 失敗や挫折をするような自分では価値がない。
 無意識のうちに、そう思い込んでしまって、ありのままの自分を受け入れられない。自己受容することができず、自己肯定感が低くなってしまうのです。
」(p.62)

わが子が失敗する姿、痛い目に遭う姿、傷つく姿も見守ってあげる。受け入れてあげる。そのことによって、子どもの自己肯定感は育ちます。」(p.62)

過保護や過干渉というのは、「失敗してはいけない」というメッセージになるのですね。本当は、失敗や挫折を通じて成長するのですが、それを許さないのですから、成長を阻害することになってしまう。そのことに気づいていない親が多いのです。
落ち込んだなら、「落ち込んでいるんだね」と受容してあげること。今はそれでいいと受け入れること。それが本当の親のあり方だと思います。

子どもに対して過保護・過干渉になってしまう親は、子ども時代、自分自身が過保護・過干渉な親に育てられていることが多いのです。」(p.63)

ある意味で「遺伝」のような現象ですが、心理学的にはこういうことがあります。DV被害を受けた親は、子にDVをしてしまいがちです。過食や拒食も、子に伝わることがよくあります。心理的な遺伝なのです。


このように、もっとも重要なのは「自己受容」だと野口さんは言います。
では、その「自己受容」をするにはどうすればいいのか? そのアプローチに3つあると言います。それが「マインドフルネス」「禁止令を解く」「安全基地を作る」になります。

ここから、それぞれについて詳細に説明されています。どうすればそれができるのかも、本書で語られています。


まずは「マインドフルネス」からです。

私たちは、感情や思考などの内面にあるものは、自分の力でコントロールできると考えがちです。でも実際は、意識すればするほど、コントロールできず、余計に混乱してしまうということになりがちです。
 自分の中に沸き起こってくる感情や思考に良い悪いの判断をくだして「これは悪い思考だ」「考えてはいけない」と思うほど、その思考に囚われてしまい、そのことばかり考えてしまう。かえって思考や感情の存在感を高めてしまう。
」(p.86)

たとえば、「カレーライスのことを考えないでください」と言われると、ついついカレーライスのことを考えてしまう。これが人間の脳の特徴です。
ですから、「これは嫌だ」ということに気持ちを集中してしまうと、それを考えてしまうことになるのです。

ではどうすればいいのか? その答えが「マインドフルネス」だと言います。つまり、心に浮かんだことを浮かんだままに観察することです。
方法はいろいろあります。瞑想の中のヴィパッサナー瞑想というのも1つの方法ですね。本書にも、いくつかの方法があります。


次に「禁止令を解く」ことです。禁止令と言うのは、してはならないという自分への命令です。特に、感情を感じてはならないという命令が、大きな影響があると野口さんは言います。

相手が自分の思いどおりにならないとき、こちらの期待に反する行動をしたときも同じです。
 そんなとき、私たちの心の中に最初に湧いてくる感情は「がっかり」「残念」「不安」といった感情だと思います。
 けれども十分に自己受容できていない段階では、そうした感情は自分自身が受け入れることができません。そこで怒りという攻撃的な第二感情にすり替えて表に出すのです。
」(p.110)

心理学的には「怒り」は「第二感情」であり、「第一感情」を感じようとせずに抑圧するために生じる感情だと言われています。
そのことがわかれば、怒りっぽい人は「禁止令が強い」人だとわかります。何らかの「第一感情」を抑圧しているために、「怒り」が噴出してしまうのです。


禁止令は他にもあります。「子どもであるな」「重要であるな」「生存するな」などなど。
こういう禁止令は、多くの場合、親から否定されることによって生じます。親が「もうお兄ちゃんなんだから」と言ってありのままを否定すると、ありのままの「子ども」であることが許されないと感じ、「子どもであるな」という禁止令として心の底に植えつけられることがあるのです。

そのままの自分で否定されるくらいなら、自分で禁止してしまえば、人から傷つけられなくて済みます。受容されなかったために、自分自身がつくり出したルールが禁止令なのです。」(p.118)

禁止令を解くには、許可証を出すのがいいとされています。
 心理学では、禁止令のことをストッパー、許可証のことをアロワーといいます。禁止令に縛られていた自分に対して、許可を与えるメッセージをたくさん出してあげるといいのです。
」(p.119)

無意識に「○○するな」という禁止令を出していたのですから、今度は意識的に「○○してもいいよ」という許可証を出すのですね。
アファメーションとも言えますが、自己洗脳とも言えるかと思います。無意識の自己をコントロールすることは難しいのですが、意識的なアプローチが、少しずつ無意識の自己に浸透していくことはあると思います。


最後、3つ目は「安全基地を作る」ということです。これは、自分を侵害してくる他者との境界をしっかりと作り、それ以上は侵害させないように抵抗することで、ここから内側は安全なのだという確固たる認識に至るということです。

人生、思いどおりにならないこともあるけれども、基本的に何とかなるものだ。世界は基本的に安全なところだから、何があっても大丈夫。そんな感覚を基本的安心感といいます。」(p.133)

では、基本的安心感というのは何によってできているのでしょうか。
 それは自分の心の中の安全基地がどのくらいしっかりと丈夫にできているかどうかによって決まります。
」(p.134)

心の中にしっかりした安全基地が確立されていると、基本的な安心感を持って行きていくことができます。そして、基本的な安心感が育つほど、私たちは、失敗を怖れすぎることなく、何かに果敢にチャレンジしたり、好奇心を持ってさまざまなことにトライしてみたり、他人の目を気にしすぎることなく、自分の気持ちや考えを表現したりすることができるようになります。」(p.134-135)

強固な安全基地があれば、失敗を怖れないし、他人の目を気にせず、自分らしく生きられるのですね。


心の安全基地を強化するためには、まず他者との間にしっかりした境界線を持つことです。」(p.136)

自分がいやだと思うことに対して率直に「ノー」と言うことで、自分にとって受け入れられるもの、受け入れられないものの間に境界線を引くことができます。それは自分と他者との間に境界線を引くことでもあります。」(p.137)

自我というのは、他者との区別によって明確になります。そもそも人はそれぞれ違うし、違っていていいのです。それを受け入れて、違いを認めること。それが境界線になるのですね。


成長するにつれて、自分と自分を取り囲む世界の間に境界線を引くことによって、世界を客観的に見られるようになります。親との間にも境界線を引いて、親は親、自分は自分という健全な距離を持つようになります。
 けれども、たとえば幼いころに親の機嫌をとらなければならなかったり、親の期待に応えるために頑張ってきた人は、自分と親との間に明確な境界線を引くことがうまくできていません。
」(p.138)

これは多かれ少なかれ、ほとんどの人に当てはまるでしょう。私もそうでした。
親離れ、子離れという言葉があるように、それはしっかりとした境界線を引くことなのです。


境界線が弱い人は、自分の外に正解を求めてしまいがちです。けれども世の中には、絶対的な正解があるわけではありません。人の数だけ正解があるのです。
 自分にとって何が正解か、それは自分で決めればいい。
 みんな違うのがあたり前なのです。
」(p.151)

絶対的な正しさがあると信じて、自分の正しさで他人を裁く人は大勢いますね。そういう人もまた、境界線が弱いのでしょう。

実際、日本には「ノー」を言いづらい文化があると思います。日本文化は察する文化、ともいわれます。多くの人が相手の気持を察するべきであるという思い込みを共有しているのです。「忖度」「空気を読む」という言葉が使われるのも、この表れでしょう。はっきりと言わなくても、相手に察してもらって、自分の望むとおりに動いてほしいと考える人が多い。
 これは、まさに境界線の弱い人に特有の、甘えの心理です。
」(p.154-155)

悪く言えば「甘え」であり、精神的に「幼い」のです。


あなたは存在しているだけで、周囲の人にたくさんの幸せを与えてきたのです。
 そして、あなたがいま生きているということがこの世界への最大の贈り物です。あなたの存在そのものがかけがえのない贈り物です。そのことを思い出していただきたいと思います。
」(p.187)

今、悩んでいる若者に対する野口さんのメッセージです。


私も、別のアプローチではありますが、野口さんと同じようなことを言い続けてきました。
人はそれぞれ違うのだから、それを受け入れよう。そうすれば、自分らしく生きることができる。何かをやらなくても、何かを持たなくても、ただいるだけで最高の価値がある。なぜなら、人はそれぞれ違うのだから。自分でなければ経験できない人生がある。その経験のために生まれてきたのであり、だから生まれてきたというだけで価値があるのだと。

野口さんのメッセージが、一人でも多くの悩める若者に届いて、幸せになってもらえるといいなぁと思います。

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タグ:野口嘉則
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 19:31 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年07月26日

脱藩



これはTwitterか何かの投稿を見て、興味を覚えて買った本です。
幕末の歴史には興味があったし、坂本龍馬という人物への関心もありました。その龍馬が、なぜ脱藩という決断をしたのか。そのことを、龍馬の足跡を追いながら、小説として表現した本になっています。

藩の中に留まっていたら、自由に行動できない。だから脱藩した。だいたいそのように説明されますが、しかし脱藩するということは、家族親族にも大きな影響がある重罪です。どのことを考えてみると、そう簡単に決断できることではないとわかります。
龍馬がどういう影響を誰から受けて、あるいは何から受けて、脱藩しようと決断するに至ったのか。脱藩からわずか5年で暗殺された龍馬ですが、その間に大政奉還という大きな事を成し遂げたとも言えます。脱藩したからこそできたこと。本当にそうなのか?

本書は、龍馬の脱藩に至る思いを知りたくて、その足跡を訪ねながら大城戸圭一(おおきど・けいいち)氏が書き起こした「幡龍飛騰(ばんりゅうひとう)」を原作に、山田徹(やまだ・てつ)氏が読みやすく小説化したものになります。


ではさっそく一部を引用しながら、内容を紹介しましょう。と言ってもこれは小説ですから、あまりネタバレにならないように、控えめに引用します。

この物語は大城戸圭一(愛媛龍馬の会前会長)が二〇一二年に愛媛新聞サービスセンター刊で上梓した「幡龍飛騰(ばんりゅうひとう)」を原作とし、新たに加筆したものである。大城戸圭一の龍馬への深い尊崇の念と綿密な調査に基づき登場人物は実名であり、可能な限りの史実を辿るが、そこに刻まれない空白の溝を仮説・創作で埋めたものである。」(p.3)

すでに紹介したように、冒頭にこのように書かれています。


市に向かう人々や荷車を押した商人、それに百姓らが道筋を往来して忙しい。この街路市には百姓らも店を開くことが許され、古くから続く南国の生活の風景が龍馬の心を癒す。
「こういう平穏な日々こそが大事ながや」
」(p.20)

藩からの密命と、勤王党党首の武市半平太から密書を預かった龍馬は、萩の久坂玄瑞に会うために土佐を旅立ちます。その時、龍馬はこうつぶやいた。作者の山田氏は、この思いこそが龍馬の根底にあると考えたのでしょうね。


日本中の藩の多くで論が割れていた。この伊予の各藩でも藩論を一致させるために奔走している者たちと話し合った。長い幕藩体制の疲弊を感じつつも、徳川への忠誠の思いも篤い。いや、それはそうでもあるべきなのだ。しかし時代はそうもいかぬ。そうもいかぬが「人の和にしかず」は龍馬に与えられた命題でもある。」(p.152-153)

何か事を起こすには、天の時、地の利、人の和が大事だと言われます、中でも人の和が大事だと、龍馬はそう感じていたのかもしれません。
西欧諸国がこぞってアジアを植民地化していた時代。もし日本国内でまとまることができなければ、容易に植民地化されてしまう。その危機感が龍馬にはあったのではないか。だから、徹底して争いを避けようとしたのだと。


「坂本よ。お前はどうしたいのじゃ」
「わしは、この国の形を変えるなどは考えちょりません。いや変えるのはえいでしょうけんど、それだけでも藩論が割れ、妙な結社ばあ出来て、それが喧嘩の原因になっちょります。結局が血で血を洗うような抗争が起きちょります。それよりもずっと未来を見んと、政治が変わったち民の苦しさはなんちゃあ変わりませんき」
「ほう、それで」
「はい。それでとにかく船を買うて、造船技術を磨いて世界に売り込めるばあの船を作れるようにします。ほんで世界を相手に商売をしますき。いまは競ってよその国の物を買うて、日本のそう多うない富を西洋に取られちよります。なんぼ殖産興業をしたち、それを売りに行く船が無いと話にならんがです。ほんで人も運んで金を取るがです。海運、海事。日本は世界に誇る海洋国家ですき。そうすれば海軍も強う出来ます。海軍は武士のような者らでは出来ません。海軍は商売をします。それを貿易と言いますき」
「では、国はどうする」
「この国は、優秀な者らがどっさりおります。いまはあちこちで喧嘩ばあしゆうけんど、わしはこれらを仲良うさせて一つになってくれいうて頼みます。ほんで彼らに任せていたらえいでしょう」
「お前はその時どうしたいのじゃ」
「船に乗りますき。船で世界中を回って来ます。世界はまだ見んものがどっさりありますろ。それをこの国に持ち帰って女や子供たちにも見せちゃりたいと思うちょります」
」(p.179-180)

実際にあったかどうかはわかりませんが、宇和島藩の伊達宗城(だて・むねなり)と龍馬との会話です。大政奉還を成し終えた後、龍馬は政権に入ろうとはせず、世界の海援隊になると言った話は知られています。そのことからして、こういう会話があったのかもしれませんね。


お前ら三人に頼みがある。よう聞け。龍馬と児島と土居じゃ」
 児島と土居は、膝を直した。
「はい。なんなりとお申し付けください」
 児島が明瞭な声で答えた。
「ええか、お前ら三人は藩を出ろ」
「と言いますと」
 児島が低い声で訊き返した。
「脱藩せよ」
 宗城は冗談で言っているのではなかった。
」(p.192-193)

開明的な伊達宗城は、自藩の有能な下級武士の2人に対して、藩命で脱藩をさせたのではないか。そこに龍馬も連なっていたのではないか。
あくまでも仮説ですが、その後の動きを見ると、そう考えることもできるということですね。


それは結社に入ること、つまり藩の形式論と結社の思想は、合致する時は良いが、ひとたび論が割れると凄まじいことが起きる。自由が無く、その組織の論理の前に身動きが取れなくなる。
 脱藩をすれば、勤王党にも距離が置ける。いやなにも距離を置きたいという事でもないのだが、組織には組織の掟と、異論を許さないほどの激しい思想がある。誰かの思想や組織の理論に立ちすくむならば、少しも目的へは向かえまい。
」(p.216)

土佐勤王党に入った龍馬は、勤王党という結社に束縛されることを嫌ったとも考えられます。尊皇攘夷に反するなら誅殺される。そういう不自由さが、龍馬には受け入れられなかったのかもしれません。


安政六年十月、安政の大獄によって松陰は刑死した。龍馬は知る限り松陰の最後について考えた。松陰に斬首刑を言い渡した井伊直弼が敗れたのではなかったか。辞世は

 身はたとひ武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし大和魂

 これだ。これを発するため流刑ではなく斬首になるべく、いわずもがなの間部(まなべ)要撃策を自白した。それは老中首座間部詮房(まなべあきふさ)に条約破棄と攘夷を迫り、拒まれれば討ち取る、という策であり実行には至っていなかったものだ。
」(p.263-264)

吉田松陰は、その思いを残る志士たちに伝え、奮起させるために、あえて刑死の道を選んだのではないか。たしかに、そうかもしれませんね。


龍馬は、この岡本三右衛門との日々で、遂に最後の決心をした。
「これは間違いなく、藩を出て取り組むのだ。この岡本さんの考えはこれまでの誰よりも正鵠を射ておって面白い。わしは、どうあっても脱藩する。いや脱藩せにゃあいかん」
」(p.296)

瀬戸内海の海運によって富を築いた岡本は、日本を改革する若者を支援することで、自分の人生を有意義なものにしたいと思っていたのでしょうね。龍馬はその支援を受けて、脱藩を決意した。つまり、自分の人生のすべてを、将来の日本のために捧げる決意をしたのです。


実際にそうだったのか。それはわかりません。これからまた新たな事実が出てきたら、歴史は書き換えられるかもしれませんから。

しかし、幕末において倒幕でなければならないという考え方と、公武合体による佐幕と、どれほどの違いがあったのか疑問に思うことがあります。そこは、西洋列強の脅威を、どれほど感じていたかの違いなのかもしれませんね。

私は、考え方が違う相手であっても受け入れて、仲間にして、みんなで日本を豊かにしていこうという龍馬の考え方が好きです。
でも、そうでない考え方の多くの人たちも、この国を何とかしようとして立ち上がったのだと思います。だから、そういう「思い」そのものには、リスペクトしています。

今、ウクライナ戦争が起こり、コロナ騒動があり、世界はまた未曾有の激変の時代になったとも言えます。過去の歴史を振り返りながら、今、自分はどう生きるのか? 改めて考え直したいなぁと思います。
それにしても、今、平和で豊かな生活環境が与えられている日本は、龍馬のような先人たちが活躍してくれたお陰だなぁと思います。本当に、ありがたいことです。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 12:21 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年07月20日

定年後ヒーロー



日本講演新聞で紹介されていた本です。団塊の世代が老齢期に入り、高齢化が加速度的に進んでいます。ある意味で「やっかいもの」扱いされがちな定年後の団塊の世代に、勇気と希望を与える内容のようです。

著者は萩原孝一(はぎわら・こういち)さん。JICAやUNIDOで働いておられた方ですが、2012年に定年退職されて、今は桜美林大学の非常勤講師をされているようです。47歳の時に声が聞こえてスピリチュアルに目覚めたとか。
そこで肩書を「スピリチュアル系元国連職員&在日宇宙人」とされています。世界平和の実現のために、ナショナリズムを喚起するのではなく、私たちは同じ宇宙人であり、ただ日本で暮らしているだけだという立場の表明のようです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

定年後ヒーローって何? 私の肩書き「在日宇宙人」は気持ち悪すぎる!
 ごもっともです。でも意味不明なタイトルに訝しさを感じながら、この本を手にしたアナタは間違いなく「変人」です。もしかすると「変態」。失礼! でもこれ私の最大級の褒め言葉です。
 お待ちしていたのです。ア・ナ・タを。何故って、変態、つまりアナタが地球を救うからです。
」(p.4)

日本の「熟年者」が「在日宇宙人」のリーダーとして活躍し、人類存亡の危機を救うというシナリオに賭けてみませんか。」(p.13)

冒頭でこのように呼びかけています。「変態」と言えば、たまちゃん先生の話を思い出します。やはり世の中を変える人というのは、どこかおかしいのです。
もちろん私も、そのおかしい人間の一人だろうと自覚していますよ。(笑)

本書では、定年後の団塊世代の人たちに向けて、自分の人生を輝かせることで、世界を救う方法を示そうとしています。


人はなぜ死ぬのでしょうか? 答えは「生まれてしまったから」です。人はなぜ生きるのでしょうか? その答えも同じです。
 生まれることは死ぬこと。
 死ぬことは生まれること。

 本当の「命」とはそういうものです。
 死に対する考え方が変われば、もう怖いものなしです。その日が近い年長者もとても気楽に愉しく生きられるのではないでしょうか。

 愉しく生きる!

 それこそが老後を元気に生きる鍵であり、認知症撃退の最高のサプリメントです。日本の熟年者の経験、知恵、技術、財力が「年寄り」というだけで葬り去られようとするならば、それはとても野蛮なことです。
」(p.30-31)

スピリチュアル的な観点ですが、私もこういう考え方に賛同します。死の恐れがなくなれば、人は自由になれるし、幸せに生きられるし、人生を楽しめるのです。


人間の場合も、60〜65年は幼虫時代、それ以後の約25年を成虫時代と認識してみたらどうでしょうか。25年間、気が確かであれば大概のことはできます。樋口一葉、滝廉太郎、石川啄木、沖田総司などの偉人たちはみな25歳前後で没しています。
 定年までどのような仕事をしていたかに関わりなくすべて人生のリハーサルみたいなものです。本番前の少し長めのウォーミングアップと呼んでもいいでしょう。
」(p.44)

これはおもしろい観点ですね。


日本が本当の独立国を目指すためには条件があります。
 日本人がなすべくことは、「前述の神の啓示を一人ひとりが真剣に受け止め、霊性を思い出し、真我に従い、日本人の「矜持」を取り戻すことです。
」(p.116-117)

日本には役割があります。もしかするとそれは「神様との約束」かもしれません。」(p.117)

世界の中で日本は特別な存在だと言います。それは、世界で唯一、原爆の洗礼を受けたことにも表れていると。世界を戦争から救う、つまり人類から人類を救う使命が日本人にはある、というわけです。


日本には勇気を持ってオリンピック・パラリンピックを返上し、かかる経費を今後のコロナ対策に充てるという選択肢があるはずです。」(p.118)

残念ながらこれは実現しませんでしたね。本書は2020年8月発行なので、私が読んだ現時点での状況は見えていなかったのでしょう。今はむしろ逆に、勇気を持ってオリンピック・パラリンピックを実行したことが評価されています。
それに、コロナ対策は無用に恐れを煽っているだけであり、私は無意味なことだと考えています。こういう点で、この本にあることすべてに私が賛同しているわけではありません。


大切なことは、天に召されるその日まで愉しく暮らせること、そして順繰りに仲間を送るシステムを作ることです。そこでは孤独な老人を絶対につくってはいけません。昔ながらの日本の一番イイ「おせっかい文化」が大復活することが肝要です。
 日本は世界中が羨むような手本となるイイ国になれる可能性を秘めています。国造りの中心が「お金」ではなく「心」という人類の近代史において画期的なシフトを起こせるのは、日本以外にはないだろうと思うのです。
 争いのない、穏やかで、健やかで、国中が笑顔に溢れる国。もう一度生まれてきたいと思う国。坂本龍馬がかつてつくろうとした国です。日本人の大多数がそれを望んでいるはずですから、できないわけはないのです。
」(p.126-127)

昔のようなコミュニティーを復活させることが大事だと言います。その中心に、定年後ヒーローたちがなるべきなのだと。
それはお金をかけなくてもできること。ただおせっかいをやく。他人を気遣う。そういう「想い」があれば、やれることはいくらでもあるのだと。


私の提案は、日本がこの国に存在する最後の銃弾一発を放棄して完全丸腰となることです。人類史上最大のギャンブルと言っていいほど無謀な賭けです。
 失敗すれば日本国の存亡に関わります。でも日本がこの星からなくなれば人類は遠からず全滅します。座してその時を待つのも悪くはありませんが、もっと愉しいのは「七人の侍」のように誰かのために討ち死にすることです。
」(p.155)

これまでと同じことをしていたのでは、いずれ戦争によって人類は滅亡する。その観点からすれば、無謀ではあっても丸腰になることで、新たな方向性を示すことが役立つと言うのですね。
日本に与えられた使命は、そういうことなのかもしれません。けれどもそれには、多大な勇気が必要です。あるいは、私たちの本質は魂であるという実感を共有することか。

お勧めしている「神との対話」では、高度に進化した種族は、もし襲われたなら肉体を脱ぎ捨てて去るだけだとありました。つまり、殺そうとする者があるなら、好きなようにさせるということです。なぜそれができるのか? 肉体は自分が創造したものだから、また創造できる、つまり何も失うものがないとわかっているから。
いずれはそこまで進化するとしても、今の段階でそれを実行に移すのは、本当に勇気がいることだと思います。でも、もしその勇気を持てたら・・・。気持ちいいでしょうね。だって、完全に自由なのですから。


結論を先に申し上げると、新たな国連組織を日本の手でつくるということです。その役割は国連を穏やかな場に復活させることです。したがって、活動の中心は喧嘩の仲裁です。そのために腕力は絶対に使いません。あくまでも冷静に穏やかに話し合いで解決します。
 組織の名前はUNSO(United Nations Spiritual Organization 国際連合スピリチュアル機構)スピリチュアル=心の世界、心と心、魂と魂で語り合うことができれば、どのような争いも穏やかに鎮めることができるという極めてナイーブな発想です。
」(p.162)

以前、敵対する相手とも酒を酌み交わして語り合えばわかり合える、と主張した若者たちがいましたね。だったら北朝鮮や中国へ行って日本に敵対しないように説得して来いよ! などと批判されました。
理想はそうかもしれませんが、現実的には難しいということなのでしょう。萩原さんは、現地の祭りを活用して、一緒にお祭りをすることで休戦し、心を通わせることができると言います。理想はそうでも現実的には・・・という感はあります。

萩原さんは、この国連組織を作るのに1兆円必要だと試算します。そしてその費用を、世界のお金持ちに出させるのだと。そういう計画のもとに、活動されているようです。


結局、定年後ヒーローも在日宇宙人も徒党を組んだり、定期的な集まりがあるわけでもありません。会則のようなものもなしです。それぞれがそれぞれの場でそれぞれの裁量を遺憾なく発揮していただき、内なる平安、家庭の平安、職場の平安、地域の平安、国の平安、地球の平安、宇宙の平安を目指そうというわけです。
 もし定年後、やることがなくなってしまって、悶々とした日々を送っているのであれば、世の中の「平安」のために少しの汗をかくって悪くないです。
」(p.175)

大きなことを目指さなくてもいいんですね。まずは身の回りのこと。その小さなことの積み重ねが、積もり積もって大きなことへつながっていく。大学という書物にある「修身斉家治国平天下」の考えですね。
地域のごみ拾いをする。それでもいいのです。できれば、仲間を誘ってみたりする。そうやってコミュニティーを作っていくことですね。


読者の中には、定年後ヒーローや在日宇宙人が何か奇想天外な方法で宇宙平安を目指すものと期待していたかもしれませんね。ご期待に添えず申し訳ありません。でもこれ以上の方法は実はないのです。地球丸ごと静かな革命を起こすきっかけづくりは、定年後ヒーローと在日宇宙人にまずはお任せしましょう。」(p.179)

メシア(キリスト)やウルトラマンが、地球を救ってくれるのではないのです。私たち一人ひとりの小さな変革が、地球を救うのですね。
私がやっているYoutube動画配信など「幸せ実践塾」の活動も、ある意味で同じことだなぁと思いました。こんなことに何の意味があるのか? そう思われるような小さなことですが、気づきを誘発することを目的として、細々と活動を続けています。


たしかに、ある意味では期待外れの本です。理想は素晴らしいし、日本が特殊なのだということもわかります。けれども、現実的に世界平和を実現する方法論としては、説得力が乏しいように感じます。
しかし、最後に書かれていたように、そういうものかもしれませんね。もし本当に絶対に上手くいくすごい方法があるなら、とっくに誰かがやっていることでしょう。だってみんな、平和な世界を求めているはずですから。

それでも世界がいまだにこうなのは、やはり一人ひとりの中に原因があると考えざるを得ません。そこに気づいていないだけで。
それはもちろん私自身もそうです。まだまだ気づくべきことがある。その思いを忘れてしまったら、傲慢になって、進化成長が停滞するでしょう。
だからこそ、お互いに気づきを与え合うことが重要なのだと思います。その方法には、いろいろあると思いますが、要は関わり合うことです。関わり合わなければ、つまり出会わなければ、気付きという贈り物を与えることも受け取ることもできないのですから。
改めて、そんなことを考えさせてもらった本でした。

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タグ:萩原孝一
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 07:52 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年07月15日

民族と文明で読み解く大アジア史



私の友人でもある宇山卓栄(うやま・たくえい)さんの本です。
宇山さんの本は、以前に「世界史で学べ! 間違いだらけの民主主義」や「経済で読み解く世界史」を紹介しています。いずれも、歴史に関する深い知識をベースに、論理的な思考によって真実をあぶり出そうとするもので、素晴らしい内容だなぁと思っています。

今回の本は、アジアの有史以降の歴史を解明しようとする試みです。民族的にどうなのか、語族(言語)的にどうなのか、遺伝子的にどうなのかと、実に多角的に解明しようとされています。
これまでの権威的な思い込みの歴史解釈を排して、事実を基にして解明しようとされてる姿勢には共感します。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介します。

文明は民族の思考と行動の累積であり、民族の持つ世界観を表します。日本や中国、朝鮮半島などの東アジアはもちろんのこと、東南アジアやインド、中東や中央アジア、トルコに至るまで、アジア民族の足跡を幅広く辿ります。
 同じアジア民族でも何が異なり、何が同じなのか。アジア各民族の思考のパターンや習性とは。こうした問題意識とともに、アジア人やアジア文明を、つまり「我々とは何か」を、読者の皆様と考えていきます。
」(p.4)

これが本書に書かれていることであり、その目的でもあります。


中国の統一王朝で、漢字を使う漢民族が作った王朝は秦、漢、晋、明の4つしかありません。中国の主要統一王朝は「秦→漢→晋→隋→唐→宋→元→明→清」と9つ続きますが、そのうちの5つが異民族の作った王朝です(本来、北方遊牧民を「異民族」と表現すること自体が適切ではありません。遊牧民からすれば、漢民族が異民族であるからです)。秦、漢、晋、明の4つのうち、秦と晋は短命政権で、わずか漢と明の2つだけが実質的な漢民族の統一政権でした(秦の建国者のルーツはチベット系の羌(きょう)族であるとする見解もあり)。」(p.16-17)

のっけから目からうろこでした。中国の統一王朝については歴史で習いましたが、漢民族の王朝かどうかという視点すらありませんでした。
それでも、元はモンゴル族であり、清は満州族だということくらいは、何となくわかっていました。しかし、実は漢民族の王朝がわずかにしかなかったのですね。


遊牧民の共通の文化的特徴として挙げられる最大の点が実力主義です。定住生活をしない彼らは敵対部族との接触も頻繁であり、さまざまな状況に流動的に対処しなければならず、能力のある者が指導的な地位に選出されました。能力があれば、異民族でも受け入れて厚遇したのです。」(p.20)

漢民族と違って遊牧民(北方の異民族)は、実力主義という特徴があったのですね。たしかに元もそれによって国家統治をしたということを歴史の授業で習いましたよ。


日本でも、この中国式の「四大文明」が教科書のトップに記され、梁啓超の言説に依拠しただけのものに基づいて間違った歴史教育が公然となされています。
 しかし中国では、黄河文明とともに長江文明も栄えており、稲作が盛んであったことを示す遺跡が1970年代以降、浙江省余姚市の河姆渡遺跡などをはじめ、多く見つかっています。日本の稲作も長江流域から直接伝わりました。
 長江文明は黄河文明に匹敵するような豊かで巨大な文明であったにもかかわらず、教科書や一般の概説書では、ほとんど扱われていません。なぜでしょうか。
 第一に、黄河文明を擁した漢民族こそが中国唯一の文明の発現者であるとする定型的な中華思想の歴史理解の中で、長江文明の存在を教科書などで意図的に扱わなかった。あるいは扱いたくなかったということが背景としてあるでしょう。
」(p.27)

教科書や一般の概説書では、中国文明は黄河流域から発祥し、文化や人口が南方にも広がっていったと解釈されます。中心たる黄河流域に対し、長江流域は周辺であったと位置付けられていますが、この捉え方がそもそも間違っています。黄河流域と長江流域には、それぞれ独自の文明があったのです。
 紀元前2200年頃、良渚文化が洪水で衰退して、黄河流域の勢力に征服されて以降、黄河文明が優位的となりますが、それ以前は2つの文明が併存していました。
」(p.31)

日本人はさまざまな方面からの民族の雑多な混合形であるものの、文明や民族の血ということにおいて、その多くを長江人に負っていると言えます。両者の遺伝子が近似していることからも明らかです。一方、日本は畑作牧畜の黄河文明からはほとんど影響を受けていません。したがって、この時期に中国の北方から朝鮮半島を経由して渡来人が多くやって来て日本に文明をもたらしたという、教科書や概説書にいまだに書かれている従来の説は、見直されるべきでしょう。」(p.33-34)

紀元前9000年頃、稲作が行われていた痕跡を明確に示す遺跡は長江流域以外に世界中どこにもないことから、稲作のはじまりは長江流域にあると考えられます。長江の稲作文化が世界最古で、その後、中国南西部の雲南省、東南アジア、インドのアッサム地方に拡大していったと見直されています。」(p.36)

これも目からうろこの話ですね。黄河文明しか知りませんでしたが、実は同じくらい豊かな文明が長江流域にあって、稲作文化はそこから伝わってきた。これが、合理的に考えられるというのです。


かつて、弥生人の人骨が面長で、縄文人の人骨が丸顔であるとする発掘調査が報告されたことがありましたが、これも実は、部分的なサンプルだけを意図的に抽出した結果に過ぎません。全体の人骨を俯瞰すれば、弥生が面長で、縄文が丸顔などという定型的な区分ができないことは明らかであり、特定の時期に民族が入れ替わったことはないとわかります。
 文明的にも、縄文時代後期の紀元前1000年頃に稲作文化が漸次的に普及していき、弥生時代にそれが確立したのであり、その社会的変化と移行は長期に及ぶ緩やかで静的なものでした。
」(p.62)

縄文から弥生への時代の変化も、これまで歴史の授業で習ったことが、必ずしも正しくなかったと目を見開かされました。


扶南人とチャム人はヒンドゥー教などのインド文明の受容により、武力侵略的な中華文明に対抗しました。多神教のヒンドゥー教は多元的な価値を包容する文化的な寛容性を有していたのに対し、中華文明は儒教に代表されるような身分秩序を厳格に強制しながら、官僚的な社会統制を敷きました。中華文明は言わば「力の文明」であったのです。素朴で牧歌的な原初生活を営んでいた東南アジア人にとって、中華文明は受け入れがたいものでした。」(p.198-199)

中国は周辺国への侵略を繰り返していますが、一方のインドには、そういう歴史がありません。にも関わらず、ヒンドゥー教などインドの文化が周辺国にも広まっている。その理由を、このように説明しています。


トルコ人やモンゴル人は中華文明を拒絶しましたが、イスラムについては、これを受け入れたのです。周辺異民族を蛮族とみなす中華思想には、何の包容力もありませんでしたが、「アラーの前の平等」を唱えるイスラム教には、文化文明の相違を超えて多民族を同化する力があったのです。」(p.233)

イスラム教がキリスト教よりも他人種・多民族に強い訴求力を持って広がっていたのは、徹底した平等理念を掲げ、階層主義や組織主義を排したことが大きかったのです。」(p.234)

力ずくで自分たちの文明を押し付けようとしても、それはなかなか上手く行きません。それを受け入れるメリットが感じられなければ、やはり受け入れてはもらえないのですね。


この広いアジアの歴史を、それぞれの民族や国家の成り立ちから紐解くことは、実に大変なことだと思います。それをこうやって1冊の本で知ることができる。とても貴重な本だと思いました。

もちろん、宇山さんの解釈が絶対的に正しいとは思いません。けれども、事実に即して論理的に考えるというスタンスがあれば、より真実へと近づいていけると思います。
今後も、歴史の真実に迫る情報を提供してくださることを期待しています。

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タグ:宇山卓栄
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 20:13 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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