痛みの迷路を抜け出したい! 読んで治す慢性痛の「認知行動療法」小説 / 伊藤かよこ 【本】 - HMV&BOOKS online 1号店
伊藤かよこ(いとう・かよこ)さんの新刊が出たということで、ネットで注文しました。前回の「人生を変える幸せの腰痛学校」と似たような感じの、「痛み」に対する考え方を理解するための小説であり、また理解することによって痛みに対処できるという内容になっています。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。ただし、これは小説なので、ネタバレにならない程度にポイントを引用したいと思います。
「わたし自身、入院や手術を経験した慢性痛の患者でした。自身の痛みをきっかけに鍼灸師となり、痛みについての探求をして二十五年。臨床の現場で確信したのは、慢性痛の改善に最も必要なのは「知識」だということです。実際、考え方や行動を変える「認知行動療法」は、科学的にも慢性痛の改善に効果があるとガイドラインで推奨されています。
この本は、「痛みの迷路」に迷い込んだ主人公の物語を通して、認知再構成(リフレーミング)を体験できる、読んで治す「認知行動療法」小説です。本書を読み終える頃には、次のような変化を感じられるでしょう。
・痛みについての「考え方」が変わり、恐れや不安に振り回されなくなる。
・視野が広がり、別の視点から物事を見ることで「深刻さ」から解放される。
・緊張、警戒、恐れの世界から、安心、リラックス、くつろぎの世界へ。
・病院や治療院探しをやめ、通院にかかる時間とお金を節約できる。」(p.4)
「はじめに」で伊藤さんは、本書のことをこのように説明されています。実際、読んでみて、まさにここで示されたようなことが理解できました。
「「怖いことは、細かく分けて小さな一歩から始めればいいんです。これをベビーステップといいます」
なるほど−−。わたしはこれまで「パートに復帰するか、しないか」という二択しか考えられなかった。けれど、『前まで行ってみる』という方法もあるのだ。そんな小さな一歩でいいんだ……。」(p.42)
これはいろいろなことで使われる手法ですね。たとえばランニングの習慣を身につけるためには、いきなり毎日10km走ろうと目標を立てると、ハードルが高すぎて挫折しがちです。なので、まずは玄関でランニングシューズを履いたらOKというように、目標を低く設定するやり方です。
あるいは、海外旅行へ行きたいけどお金がない場合は、まずはパンフレットを集めて、どこへ行ってどんな旅行にするか計画を考えてみよう、みたいに、今できる範囲でやり始めるというやり方ですね。
私は、小さなバンジーを繰り返し飛ぶことをお勧めしています。いきなり高い目標を掲げるのではなく、ちょっとがんばればできること、ちょっと勇気を出せば一歩を踏み出せること、そんなことをやることで、自分の殻を破っていく方法です。
「「もうひとつが慢性痛です。こちらは単純に『身体の異常』だけでは説明できません。痛い場所からの信号に、記憶や感情、思考や意味づけが重なり合い、痛みの感じ方が過敏になっている状態です」
先生は少し声を落とした。
「慢性痛には、薬も手術も決定的な効果を示しません。必要なのは、運動を含めた生活習慣の見直しや、痛みに対する考え方の変化です。つまり−−患者さん自身が学び、行動を変えるしかないんです」」(p.46)
痛みには急性痛と慢性痛の2種類があり、急性痛は薬で抑えることができますが、慢性痛は抑えられないと言います。手術も意味がないと。
よく椎間板ヘルニアによる腰痛は、手術しないと神経の痛みが取れないと思われがちですが、伊藤さんはここで明確にその考え方を否定しておられます。
「「複数の要因の中でも、痛みと特に関係が深いのが不安と恐怖です。痛いと不安になりますよね。その不安が強まると恐怖に変わり、『動いたらもっと痛くなる』と思って身体を動かすのを避けてしまう」
「……はい」
「けれど、じっとしていると今度は動き始めに余計痛くなる」
「そうなんです。朝、身体を起こすときが一番つらいんです」
「すると、『やっぱり動くと痛い』と脳が学習し、さらに回避する。この痛み−不安−恐怖−回避−痛みの悪循環を、専門的には恐怖回避モデルと呼びます」」(p.65)
お勧めしている「神との対話」でも不安や恐れを人類の敵だとまで言っていますが、痛みや、状態がもっとひどくなるんじゃないかという不安や恐れから動かないでいる(萎縮している)ことが、さらに状況を悪くしてしまうのです。
「そもそも医療は不完全なものなんです。患者さんは期待しすぎです。まあ、怒りがあるのはわかりますよ。私もそうでしたから。でも、怒りを持ち続けることで、痛みを抱え続けるとしたら……バカバカしいでしょう?」(p.68)
私もこれまで何度も医療にかかってきましたが、効果があったと感じて満足できたものは、ほとんどありませんでした。たいていは原因がわからず、あれこれ試して「様子を見ましょう」となるだけ。時間と金の無駄だと感じたことは数知れません。それでも不安があったから、つい医療に頼ってしまっていました。
でも、自分が勝手に期待して、期待に応えてくれなかったと怒るのも、お門違いだという気がします。怒って何かいいことがあるなら別ですがね。
「「どんなに大ケガでも? 痛みはそこにはないんですか?」
「ええ、そうです。ケガの場所で起きているのは『信号』−−身体が『何か起きた』と知らせているだけです。それ自体はまだ痛みではありません。『痛み』として感じるのは、脳がつくるクオリアなんです」(p.70)
「ええ、実体としての痛みはどこにもありません。身体のどこに現れる痛みも仕組みは同じです。悲しみにたとえるとわかりやすいでしょう。大切な人を失ったら胸が張り裂けそうに悲しい。でも『悲しみ』は実体としては存在せず、身体から取り出すことはできませんよね。痛みもそれと同じ、体験として脳が生み出しているんです」(p.70-71)
「痛み」は「悲しみ」と同様に、クオリア(ありありと感じる主観的な体験)であり、脳が創り出しているものだと言います。たしかに、「悲しみ」の例で考えるとわかります。「痛み」とは、神経を通じて伝わる電気信号を、脳がどう解釈するかによって「感じている」だけのものなんですよね。
「脳が『熱い』と『冷たい』という矛盾する信号を同時に受け取り、混乱してしまう。その結果、それを『痛み』としてまとめてしまうんです。つまり、痛みとは刺激そのものではなく、脳の統合と解釈によって生まれる体験だということ。この実験がそれをはっきり示しています」(p.71)
これは「サーマルグリル・イリュージョン」という実験で、温かい棒と冷たい棒を交互に並べて皮膚に当てると、どちらも安全な温度なのに痛みとして感じるのだそうです。
また「幻肢痛」という、すでに失った手や足が痛いという現象も、「痛み」は脳が創り出していることを示していますね。
「「脳のことを考えてみてください。わずか一.五キログラムほどのたんぱく質の塊の中で、数え切れない神経細胞が絶え間なくやりとりをしている。そこで色も、音も、味も生まれる。記憶も、思考も、感情も−−。私たちが『現実』だと思っている世界そのものを、脳がつくり出しているんです。……途方もない奇跡だと思いませんか?」
−−奇跡、か。
「慢性痛を『脳の不具合』と呼ぶ人もいます。けれど、本当にこの精妙な脳が間違えるでしょうか。『今のままではいけないよ』と警告を発している、と考えられませんか?」
なにか大切なことに触れた気がする。−−けれど、それがなにかはまだわからない。
「身体や脳のすばらしさを知り、信頼できれば『待つ』ことができます。なにもせずに待つのではありません。辛坊さんの『治る力』を妨げているもの−−生活の習慣や環境、思考のクセ。まずは、自分を観察することから始めましょう」」(p.82)
たしかに科学的に考えれば、この世にあるのは振動(波動)だけです。それを目から入った光の振動を脳が色や形に解釈しています。耳から入った空気の振動を脳が音に解釈しています。そういった感覚器官から入った振動を解釈して、そこに実態があるかのように脳は描き出す。さらにその脳が描き出したものを脳が解釈して、感情を生み出している。まさに奇跡的なことですね。
では、「慢性痛」によって脳は、何を描き出しているのでしょうか? 何かの警告でしょうか? 伊藤さんは、ただ反射的に不安がり、恐れるのではなく、まずはじっくりと自分を観察してみることだと言います。そのためにも、脳や身体を信頼することが大切ですね。信頼は、不安や恐れの対極にあるものですから。
「「思い込みは、その人にとっては真実ですから。外から無理に変えることはできません。本人が求めて、初めて変わる。−−辛坊さんもそうだったでしょう?」
胸の奥にズシリと響く。確かに、わたしもそうだった。
先生は続けた。
「だから他人のことは放っておいていいんです。他人を変えようと頑張ったり、勝手に期待してがっかりしたり……。人間は余計なことをしてストレスを増やしています。そのエネルギーを−−責めることではなく、愛することに使いたいですよね」」(p.117)
不安や恐れから、あるいは愛するが故に良かれと思って、私たちは他人のことに介入しがちです。しかし、他人のことは他人に任せるべきなんですよね。アドラー心理学ではこれを「課題の分離」と呼んでいました。
そういう余計なことをしてしまうことによって、自分がストレスを感じるのだとすれば、それこそ本末転倒でしょう。相手を変えようとするエネルギーを、相手を愛するエネルギーに、つまり相手を自由にさせるエネルギーに使いたいものです。
「「本来医療は、警察や消防のように公的なものであるべきです。市場に任せてしまうと、どうしても患者を増やす方向に動いてしまうから。もし警察がビジネスだったら、と考えてみてください」
−−想像してみる。町のあちこちに監視カメラが増え、肩が当たっただけで『暴行罪』、強い口調なら『恐喝罪』、そのたびに罰金が発生して売り上げになるとしたら? 世の中は犯罪者だらけ……。」(p.139)
伊藤さんは、医療がビジネスだから過剰な医療が行われ、患者から判断力を奪って依存させてしまうと言います。だから、公的なサービスにすべきだと。この考え方は、「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか?」を書かれた森田洋之さんと似ています。
しかし、私はちょっと違うと考えています。
警察や消防が公的なのは、自由競争に向かないからです。もし仮に自由競争ができたらどうでしょうか? 罰金が売上というのもおかしなことです。本来の警察の目的は、私たちが安心して暮らせる社会を維持すること。その目的の達成度合いに応じて、売上が上がるというのが自由競争です。
たとえばA警察は不親切で、道を尋ねてもまともに答えてくれなかったり、悪党を野放しにして賄賂を取っている。一方のB警察は親切で、住民にはにこやかにキビキビと対応し、悪党を逃さず不正を働かない。さて、住民はどっちの警察を支持するでしょうか? どっちの警察に税金として支払いをしたいでしょうか? これが自由競争です。
では、現実の医療はどうでしょうか?
自由競争ができていませんよね。どこの病院へ行っても同じような医療で同じような値段。病院は、患者数を増やすことでしか売上を増やせません。本来は、いかに患者の満足を増大させ、地域住民の安心を広げるかで売上が上がる仕組みがなければなりませんが、保険医療制度によって自由競争ができなくされているのです。
そして医療界も自由競争を拡大しようとはせず、政治献金によって既得権益を守るための統制を増やそうとしてきました。コロナのワクチン接種でさえ、医師以外の接種を認めようとせず、他者の参入を阻みました。自由競争から逃げまくっているのです。
本当の自由競争は、その仕事(役割)の真の目的に適う価値を提供することによって売上が上がるシステムがなければ成り立ちません。そのシステムを作るには、より自由な制限のない競争が必要なのです。それによって受益者がそれぞれの価値観で評価する。そうやって作り上げられるものなのです。
警察や消防が公的なのは、自由競争市場が作りにくい業態だからです。どうしても独占や寡占になりがちです。したがって、公的なものは、その働きを見張る機関が別途必要となります。お目付け役がないと、自浄能力を保ちづらいからです。しかし、お目付け役となあなあになる危険性はあり、どうしても腐ってしまいやすい。総務省とズブズブなNHKがいい例ですね。国民からの支持が離れてきているのに、利権だけは守ろうとしています。
一般企業であっても、独占や寡占になると腐り始めます。だから私たちは独占禁止法を作り、企業の自由競争を維持しようとしています。自由競争市場こそが、企業に健全性を保たせるからです。
もし医療が公的なものだけになり、お目付け役もおらず、医師の善意にのみ頼るものになれば、私は遅かれ早かれ腐ってしまい、人々の役に立たないものになってしまうと思っています。
「そうなんです。日本の診療報酬制度は、検査や処置をすれば収益になりますが、『話すだけ』は評価されません。制度そのものが慢性痛と相性が悪いのです」(p.142)
まさに自由主義とは真逆の統制主義の診療報酬制度なのです。だから、真に慢性痛に効く治療をしたくてもできない状況を創り出しています。
「医師も人間です。若い頃から勉強漬けで、友人の医師は、恋愛もバイトもしたことがないと言っていました。昔の研修医なんて毎日病院に泊まり込みで、睡眠もろくに取れなかった。医局に入れば上下関係に縛られ、開業すれば経営まで背負うことになります。診療報酬は上がらないのに物価や人件費は上がる一方……。ほんとに大変なお仕事だと思いますし、心労も多いのではないでしょうか?」(p.143)
「制度の改革は急務ですが、私はまず、医師にもっと幸せになってほしいと願っています」(p.144)
「そして−−もちろん、患者さんにも、もっと幸せになってほしいのです。幸せと健康は切っても切り離せません。幸せであれば心に余裕が生まれ、なんとかなると楽観的に考えられる。自分の身体を信頼し、感謝することもできる。その心のあり方こそが、慢性痛を遠ざけてくれますから」(p.144)
医師も、ある意味では制度の犠牲者です。本当に患者に役立つ医療をしたくても、それでは自分の生活が成り立たない、売上が上がらない仕組みがある。自分の心の声に耳をふさいで、患者は金を運んでくる道具だと考えた方が儲かるし、精神的にも安定するかもしれません。
けれども、それでは幸せにはなれないんですよ。たとえどれだけお金を稼いでも、お金で得られる幸せは限られています。幸せでなければ自分らしく生きられないし、真に他人の幸せのために生きることもできませんね。
だから、まずはそこに気づくことが重要だと思っています。気づいて、幸せへの一歩を踏み出すこと。そうすれば、自分らしくない生き方への抵抗が大きくなり、後戻りできなくなるでしょう。真に人々の役に立つ医療の提供をすることに喜びを覚え、幸せな医師として生きられると思います。
そんな医師が増えれば、公的な機関だけになっても、不正が行われず、真に役立つサービスが提供されるようになるかと思います。人は幸せであれば、他人の不利益になることはしないのです。
「「そうでした。ジャッジしないでただ観察する」
「ジャッジというのは、『よい・悪い』の二項対立なんです。子どものときは、論理的思考が未発達だから、なんでも『よい・悪い』とはっきりさせたがるんです。精神的に幼いほど『病気・健康』『治った・治っていない』『痛みがまだある・痛みゼロ』と分けたがる。でも、成熟すると、日によって違うよね、両方あるよね、とあいまいさを受け入れる力が育ってきます」」(p.158)
「「慢性痛の治り方は、気がつけばいつの間にか。その日を信じて放っておく」
「信頼があれば待てる。子どもの成長と同じ」
「身体のすばらしさがわかれば、自然と待てるようになるものです」
「手放す、ゆだねる、任せる……」
「痛みは主観的な体験だから、他人にはわかってもらえない。わかってもらえない現実を受け入れること−−ここにも精神的な成熟が必要です」
「他にもたくさんありますよね。人と比べてもしょうがない−−痛みは複合的な要因で成り立つから、人によって症状も、必要なことも、治り方も全然違う。そして過去を悔やまないこと−−『あのときこうしていれば』と考えても過去は変えられない」
「今の社会では、『問題に早急に対処すること』『たくさん行動すること』『頑張ること』はよいこととされています。けれど、慢性痛の改善はその逆。『待つこと』『行動を減らすこと』『頑張らないこと』」
「常識の逆を行くわけですね」
「狭い視野や硬い頭では、慢性痛という複雑な問題は解けません。慢性痛になってしまったら、『成長の機会』だととらえるしかない。だから克服したときには、前とは全然違う自分になっていますよ。楽しみにしていてね」」(p.159-160)
慢性痛を治すことは、自分の人間性を高めることでもあるんですね。そうだとすれば、慢性痛は嫌なものではなく、むしろ喜ぶべき贈り物だと考えることもできます。
「「広い視野、高い視座で物事を見てください。それほど動じることではありません。人によって寿命が違う、ただそれだけのことです。健康的な生活をしていたとしても、病気になるときはなるし、死ぬときは死にます。病気は『悪』ではないんです」
(病気は「悪」じゃない……。どうしてもそうは思えない)
「私はむしろ『長生きはよいこと』という価値観に疑問を持っています。過度な健康志向についてお話しましたよね。その根底にあるのは生への強い執着です。昔の日本人はもっと死が身近にあり、死に覚悟をもっていたように思います」
先生はあくまで淡々と話す。
「もともと私は、命も身体も『自分のもの』とは思っていないんです。『返すべきとき』が来たら、ただ静かにお返しする。その日が近いというだけのこと」」(p.169-170)
これが伊藤さんの死生観かもしれませんね。
私も、今はもう死を恐れなくなりました。死ぬ前の痛みに対する恐れは多少ありますが。病気は、治るときは治るし、治らないときは治らないものと達観しています。人は病気や事故などで死ぬのではなく、寿命で死ぬのだと思っています。これは、お勧めしている「神との対話」などの影響ですね。
前作も素晴らしい内容でしたが、今回はより理論的な説明がなされているように思いました。知識というのは、ただ読んで理解すれば身につくものではなく、何度も何度も繰り返して腑に落ちなければ自分のものにはなりません。そういう意味では、こういう読みやすい小説形式というのは、役立つのではないかと思います。
本書では、慢性痛を治すことが人間性を高めることにつながるという視点が示されていました。本の帯にも「「痛みのとらえ方」が変われば、身体、心、人生までも変わり出す」と書かれています。まさに、人間性を高めるのに役立つ内容だと思いました。
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