2025年11月01日

神さまがきっとどうにかしてくれる

神さまがきっとどうにかしてくれる 成功法則を手放す生き方 [ Jin 佐伯 仁志 ] - 楽天ブックス
神さまがきっとどうにかしてくれる 成功法則を手放す生き方 [ Jin 佐伯 仁志 ] - 楽天ブックス

心屋仁之助さんが、沈黙を破って本を出版されると聞いたので購入した本です。今は心屋さんではなく、Jin佐伯仁志(じん さえき ひとし)さんですね。
タイトルからも内容をだいたい想像できましたが、まさにそういう内容でした。何を選択しても失敗することはないし、とんでもないことにはならない。だから安心していればいい。神様に任せておけばいい。大丈夫、何とかなるから。と言うことですね。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

「神さま」という言葉は、この自分が含まれている無限の宇宙や、自分の体のなかにあるミクロな宇宙、途方もなく広大で、人間の想像を超えたマクロな宇宙という存在を表現にするために使っています(だから、この世をぜんぶひっくるめた「神さま」です)。」(p.7)

JINさんは「はじめに」で、タイトルに付けた「神さま」の定義をこう語られています。でも、これってすごいことなんですよね。
特に一神教のキリスト教、イスラム教、ユダヤ教という世界の人口の大半の人が信仰している宗教観からすると、とんでもないことなんです。神と自分が同じものだなんて、不敬にもほどがあるってものです。
でも、私がお勧めしている「神との対話」では、神とは「存在のすべて」だと言っています。JINさんが、なぜか最初からそういう観点だということがわかっただけで、なんだか嬉しくなりました。


そんな体を張った実験の結果、僕のなかで生まれた新しい法則が、「うまくいくときは、うまくいく。うまくいかないときは、なにをやってもうまくいかない」でした。
 だから、やりたいことを、やりたいようにやればいいと思うのです。
」(p.35)

つまり、すべてを手にできているに越したことはないけれど、そうでなくても「うまくいってる」「幸せ」ということです。」(p.36)

JINさんは、欲しいものがあるなら、まずは手放さなければならないという考え方を持っていたようです。しかし、心屋仁之助をやめてから4年半のの中で、「やること」と「その結果」に因果関係はないのかもしれないと気づかれたようです。
そして、今この状態が、バランスが取れてる上手くいっている状態なんじゃないかと思えてきたようです。これはまさに、「神との対話」で言っていることですね。


好奇心があっても踏み出せないという人は、たくさんいます。
 やりたいことのはずなのに、怖かったり、勇気が出なかったり、人間はそう簡単に動けるものではないことも、よく知っています。
 でも、僕の頭のどこかには、いつの頃からか、いつも「なんとかなる」という気持ちがずっとあるようになった。
 僕は、もともと心配性の面があるので、不安にならないように、事前に細かく準備するタイプです。
 でも、いろいろ準備しても、「準備してよかった」というよりは、「準備しなくてもよかった」ということのほうが多いから不思議。
」(p.41)

私も心配性で、「石橋を叩いても渡らない」と自称したくらいです。なので、ある面、JINさんと似ていますが、JINさんのように、「なんとかなる」とはずっと思えなかった。似ているようで微妙に違う。そういうのはありますね。

「大丈夫」と思えるのは、ただここまで生きてこられたし、なんとかなってきたからです。」(p.43)

喫茶店に入ってみて、席が空いているときもあれば、空いていないときもある。
 どこかへ行くとき、タクシーがつかまるときもあれば、つかまらないときもある。
 結果的にうまくいくときもあるし、結果的にうまくいかないこともある。
 結果というものは、思い描いても仕方がないもの。

 ただし、嫌な思いをしたり、つらい思いをしたり、苦労したりする覚悟だけしておけば、実際にそうなったとしても、それは想定通りであって、別に不満もなにもない普通のことになるはずです。
」(p.45)

たしかにこれまでの人生を通じて、結果をコントロールしようとして上手くいったこともあれば、上手くいかなかったこともある。だから、行為と結果に関連性がないと思っておけば、気楽に生きられますよね。

つまり、人生が「ただ楽しくなる」というのは、世間の評価など関係なく、「自分が」幸せを感じて生きられるということなのです。」(p.48)

幸せになるために上手くいかせたい(思い通りにさせたい)と思っていましたが、上手くいかなくても幸せだと決めれば、簡単に幸せになれるってことなのです。


そうして、終わりのない理想をずっと追いかけてしまうのが「怖いからがんばる」です。怖くてはじめたものは、怖いところにしかかえってこないのです。
 怖さから逃げるためのがんばりを続けている限り、つらさやしんどさがずっと続いていくという事実を知ってください。
」(p.71-72)

「神との対話」でも言ってることですが、不安を消すには不安に飛び込むしかないのです。不安から逃げていては、いつまでたっても追いかけられるだけですから。

いまの自分で「もう十分幸せ」として、いったんがんばるのをやめるとなにが起きるのか?

「あ、大丈夫なんだ」という体験を得られます。

 理想を求めてがんばらなくても、我慢しなくても、怖がらなくても、問題を解決しなくても大丈夫なんだという領域に、一度足が着地する。そうすると、安心が増えていきます。
 僕は、幸せのひとつのかたちは安心だと考えています。
 安心というのは、怖いものがない状態ではなく、怖いものが少ない状態です。
」(p.75)

そんな「なんか大丈夫」という感覚を手にするには、不安や恐れを感じるものに対して、なんとかしようとして動き出すのをやめることです。
 なんとかするのではなく、「なにもしなくても別に大丈夫だった」という、まったく新しい体験を手に入れることが必要なのです。
 これが、僕が心屋仁之助時代からずっといってきた、「がんばらない」という言葉の真意です。
」(p.76)

不安や恐れを感じて、それを除外するから安心できるんじゃないんです。不安や恐れがある状況のままで大丈夫だと感じること。それが重要なのです。
だから、意を決して飛び込んでみる。飛び込んでみれば、「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」がわかってくるのですね。

そうして、数年にわたり我慢し続けて、ある日突然、「どうしてわたしばかり我慢しなきゃいけないの?」「わたしのいうことはなにも聞いてくれない!」といって、激ギレして、いつの間にか「我慢させられた」と、被害者の立場に変わってしまうのです。
 だから僕は、いつも「人に迷惑をかけないようにしているのがいちばん迷惑」といっています。
」(p.86-87)

我慢したければ我慢すればいいのですが、たいていは被害者ポジションをとって、我慢させられたと他人のせいにしてしまうのです。それこそ迷惑でしょ。(笑)


人間関係の問題の多くは、「あの人は〇〇だから」「この人は〇〇なよくない面があるから」と、他人を分析して裁いて、「自分は悪くない」とするところから生じます。テレビやネットの情報を見聞きしても、一般人から専門家、コメンテーターまで、みんな会ったこともない他人を見た目だけで熱心に分析し決めつけています。
 でも僕は、ある時期から、他人の言動を見て「その種が自分のなかにはないのかな?」と探すほうが面白いことに気づいたのです。
 つまり、他人分析をむしろ自分分析に使うほうが、気づきが多いということです。
」(p.106-107)

なぜなら、人間関係の悩みは、あなたがぎゅっと持っている「善悪」を教えてくれるからです。簡単にいうと、あなたが斜めに傾いた目線で人を見ていると、その相手が斜めに傾いて見えてしまい、悩みが生まれる。」(p.111)

私たちは他人を見て「間違っている」と判断して批判非難しますよね。でも、価値観は人それぞれだということがわかってくると、他人を裁いているその価値観こそが、自分が抱えている価値観だと気づくのです。そしてその価値観によって、自分が苦しんでいることに気づくことが大切なのです。


得てして、幸せな親っていうのは、子どもにあまりなにもいわないんですよね。自分が幸せでいると、人それぞれの幸せを尊重できるので、「あなたの好きにしなさい」という感じで、子どもにもいちいち口出ししないのです。
 だからこそ、まず親が、いまからでも自分勝手に好きに生きて、幸せになっていけばいい。
 そして、幸せになるということは、不安と恐れが少なくなることでもある。
」(p.127)

困っているのは「わたし」なんだ。「わたし」の恐れなんだ。それを押しつけようとしていた。」(p.128)

子どもに「かくあるべし」を押しつけようとすること、躾を徹底しようとすること、親が敷いた線路の上を走らせようとすることはすべて、親自信の問題を子に押し付けているんですよ。
同じことが夫婦間でも言えます。特に夫が妻に対して行動を規制するのは、夫が不幸だからです。自分が幸せなら、妻の自由にさせられますよ。

私は、結婚する前から「あなたは自由だからね」と言ってきました。浮気しても自由だし、本気になったらいつでも別れてあげられる。そのくらい、妻の自由を受け入れてきました。それは、妻を自由にさせることが、私の幸せであるとも言えるからなのです。おそらく多くの人が、これが理解できないんだと思います。


端的にいうと、わたしたちは自分を責め過ぎているんですよ。
 だから「反省」もしなくていいんですよ。
」(p.154)

これは「神との対話」でも言われていました。私たちは自分に厳しすぎると。
「かくあるべし」を押し付けているんです。本来の自分は、時々刻々、考え方が変わる存在です。それなのに変わることを許さない。何なら数世代前からの価値観を変えることすら許さない。そういう思いこそが、自分責めであり、今の自分を大切にしない行為なのです。


むしろ、お金を使うのはまだ少し怖くて、それでも「使ってみようかな」と思い、物の金額よりも、なるべく「欲しいという気持ち」を優先していただけでした。
 そうして気持ちよくお金を使えば、当然そのぶんは減りますが、ワクワクした気持ちになれるのだからそれで十分と感じていました。
 すると、結果的にお金がどんどん増えていったのです。
」(p.203)

私たちは、どうしてもお金にとらわれて、どうしたら稼げるんだろう、どうしたらもっと多くを持てるんだろうと考えがちです。JINさんも、そういうことを考えなかったわけではないのですが、やりたいことをやって、「お金は使えば使うほど増える」と思っていたころは、まさにその通りになっていたと言います。

好きなことをして、好きなことにお金を使っていると、結果としてお金が増えることがある。でも、好きなことをして、好きなことにお金を使っても、そのぶんお金が減っていくだけのときもある。
 では、どうすればいいのかというと、もう好きなことをして、好きなものや体験を手に入れたのなら、「あーよかった、楽しかった」でいい。
」(p.204)

だからこそ、大事なのは、なにが起きても「まぁいいか」とあきらめることなんです。買い物でいうなら、結果的にお金が減っただけだとしても、それを手に入れたときのワクワク感や楽しみがきっとあったに違いありません。それを、存分に味わうことです。
 お金は結果的に増えたり減ったりするものだから、その都度「これでよかったんだ」と思えたら、きっとあなたはすでに幸せになっているはずです。
」(p.205)

これまでに言ったように、思い通りにはならないのです。つまり、行為と結果には因果関係がない。それを受け入れること。
それができれば、行為が結果から解放されます。ただそうしたいからそうする。そのようになり、行為をしただけで幸せになれるのです。

結果はコントロールできない神さまの領域だと思うので、わたしたちは人間として自分がコントロールできることだけをやればいい。自分ができることだけをやっていく。そんな大切なことを、お金はわたしたちに教えてくれているのかもしれません。
 だから、「わたしはこれを手に入れたら楽しそう!」という、シンプルな気持ちでお金を使っていけばいいと考えます。
「これがなんの役に立つ」とか「結果はどうなる」といったことを考えて使っていても、どんどんしんどくなるばかり。お金を使ったあとの結果のことは、それこそ、神さまに任せてしまいましょう。
」(P.206 )

だから、あるときから、「まぁ、大丈夫だろう」と思い直し、毎日を気持ちよく過ごしていたら、お客さんもお金も戻りはしませんが、平気度が増しました。」(p.209)

結果は手放すのです。私たちは、行為そのものを楽しめばいいのです。現実が変わらなくてもいいのです。自分の思い、自分の満足度、自分の幸福度が変われば、それで十分なのですよ。


むしろ、本当のお金持ちは、自分にとって大事なものにはお金を使いますが、そうでないものには1円たりとも払いたくない人たちです。その意味では、本当のお金持ちって、ある意味ケチともいえるし、お金を大事にしているともいえる。ケチといわれても気にしない。」(p.223-224)

つまり、お金があるということは、高いものが買えることではなく、「自由度が高まる」ことを意味するのです。あるのが善、ないのが悪ではないということです。
 お金に対してもっと普通に接していれば、悲愴感がなくなっていきます。
」(p.226)

いずれにせよ、本書で繰り返し書いていることと重なるけれど、「お金を大事に扱うとお金が増える(=うまくいく)」わけではないと知ることが大切です。」(p.228)

それよりも、お金を使うときのワクワクする気持ちや、お金に対する「感」にフォーカスして、なるべく「減った感」や「増えた感」にこだわらないようにすることが大事なのでしょう。」(p.228)

お金儲けということに関しても、結果を重視せずに行為を楽しむことが重要だ。それがJINさんの考えなのだろうと思います。

大変なときこそ、心のなかに余裕を持つことがやはり大切なのです(そう簡単にはできませんが)。
 そして、この余裕の正体が、「まぁ、大丈夫だろう」「なんとかなる」という楽天的な大丈夫です。実際は大丈夫ではないかもしれないけれど……それでも「まぁ、大丈夫だろう」と思えるくらいの安心感を心のなかに持つ、持ってみる、やってみる、声に出してみるんです。
 安心感をとても持てないときでさえも、そこはがんばって安心してみる。
 確かに、凄く、凄く勇気はいります(がんばれ)。

 でも、どれだけ雨が降り続いても、いつかは晴れるよ(たぶん)。
」(p.232)

これこそ「神との対話」の真髄だと思いました。怖いけどやってみるんです。不安だけど大丈夫だと決めるんです。
そして、それを経験し、実際どうだったかを検証すればいいんです。検証する段階で、その不安だったことは、どうなっているでしょうか?
不安は、飛び込まなければ乗り越えられません。不安から逃げている限り、不安は追いかけてきます。だからいつまでたっても、大丈夫の境地に至れないのです。
そして、このことをわかりやすく経験させてくれるのが、お金がなくなる不安、経済的な不安だと思います。私も体験させられました。いや、まだ体験している途中と言えるかもしれませんがね。(笑)


いろいろな「正しさ」や「損得」や「しがらみ」などのこだわりを捨てて、ただ流されて生きていくこと。
 それがこの、「心が風になる」という生き方です。
」(p.237)

しがらみは「柵」と書き、垣根や囲いを表します。
 しがらみがあると、守られているので安全。でも、そのしがらみのために「せざるを得ない」「しないわけにいかない」と、心や思考の自由を犠牲にしていくのが、しがらみの生き方です。
 しがらみを捨てるというのは、安全や安定を捨てるということです。
 そのためには、「なにがあっても大丈夫」「愛されている」と信じることが必要。でも、きっとそれは鶏と卵の関係であり、どっちが先かは問題ではないのです。
 ならば先に、「わたしはなにがあっても大丈夫」「わたしはあいされている」という「てい」で、行動を起こしてみること。
 現実があとから変わりはじめますよ。
」(p.238-239)

まずは「大丈夫だ」と決めることなんですよ。何の根拠もなくね。


しかも、遺伝子によってプログラムされたそれらの細胞が自律的に動き、有機的につながり、古くなった細胞を分裂して体の外へ排出し、新しい細胞を生成し、酸素や栄養素を取り込み、循環させている。
 そんな信じがたいことが、わたしたちの体の外側と内側で、ごく当然のように自動で行われていることを思うと、(僕にとっては)そうした存在のすべてをひっくるめた全体を、もう「神さま」と表現するほかないと感じるのです。
」(p.243)

つまり、神さまにとってわたしたち人間は、ある意味では取るに足らない、どうでもいい存在であるということになる。でも、わたしたちは、ごく微小ながら神さまの一部でもある。
 だとすると、神さまは、自分の細胞が悪くなるようなことは絶対にしないと思うのです。
」(p.244)

神様が「存在のすべて」であるなら、その「存在のすべて」の一部である人間、つまり私が不幸であって、それで神様が幸せであるはずがない。JINさんはそう考えますが、私も同感です。

たとえなんとかならずに死んだとしても、死んでしまうこと自体が「なんとかなった」ということかもしれない。それこそ筆舌に尽くし難いような生きる苦しみがあったなら、死によってその苦しみから解放されるように−−。
 さすがに不謹慎だと怒られるかもしれない。でも僕は、もう死ぬことさえ「なんとかなる」ことだと思うようになってしまいました。
」(p.248)

つまり「死」というものでさえ、私たちがこれまで抱いていたような絶望的な状況とは違うのではないか、という考え方があると思うのです。

伝えたいのは、そうした変化のきっかけを、神さまは適切なときと適切な場所に、きちんと用意してくれているということ。しかも何度も。チャンスの女神は毛だらけです。」(p.260)

チャンスの女神の前髪をつかまなければとんでもないことになる。そういう不安こそが幻想なのですね。


先に紹介したように、待ち合わせに遅刻したり、人との約束を破ってみたりする。賽銭箱に1万円を入れる神社ミッションを思い切ってやってみる。
 そうしてはじめて、「怖い!」「これをしたらさすがにやばい!」という壁の向こう側に、「大丈夫」という巨大なクッションがあることに気づけます。
 自分が悪だとしていることを、やる。
 自分が善だとしていることを、やめる。
 犯罪を犯さない範囲においてですが、自分が悪だとしていることにチャレンジし、自分が善だとしていることを断ち切ると、最終的には「どっちでも大丈夫なんだから、もうどっちでもええんや」という「大丈夫の土台」ができあがります。
」(p.262)

本当はどうでもいいことにこだわって、苦しんで、つまり幸せになれずに、私たちは生きてきました。だからこそ、今、その生き方そのものを問い直してみるべきなのです。

安心があるというのは、それだけで大きな幸せなのです。
 そして、この「安心という幸せ」を土台にして、その上に一過性の幸せが積み上がっていきます。
」(p.264)

まずはベースに、何があっても大丈夫だ、を置くこと。何を選択しても、しょせんはお釈迦様の掌の上で右往左往しているだけなのだという認識を持つこと。そうすれば、より自分らしい選択ができるようになりますね。


安心という幸せは、いわば「大丈夫の幸せ」です。
「やっても、やらなくても怒られない」
「別に怒られても、大丈夫」
「これをやっても嫌われない」
「別に嫌われても、大丈夫」
「できたら幸せ」
「別にできなくても、大丈夫」

 僕は幸せの土台になるのは、「大丈夫」しかないと信じています。
」(p.266)

これしか、絶対安心の境地には至れないと思うんですよね。「安心立命」の境地。禅の悟りの境地とも言われますし、靈氣創設者の臼井甕男氏が到達した境地とも言われますが、これは、「何があっても大丈夫だ」ということなのだと思います。

それは、あなたの勝手な「思い通り」のストーリーにはならないかもしれないけれど、神さまからすれば、あなたにとっての最良の結果になるということ。
 神さまは最良のかたちで「ええように」はからってくれるから、これまで大事に抱えてきたあなたの怒りや不安を、もう捨ててしまうときが訪れたということです。
」(p.278)

私は常々、「起こることはすべて最善であり、必然であり、完璧だ。」と言っています。だから、「大丈夫だ。何とかなる!」とも。
これは、「神との対話」を始めとする多くの書籍などから学んだ私の叡智です。そして、心屋仁之助さんことJINさんも、その境地に至っておられるのだなぁと感じました。


まぁ、そうは言っても、日々の出来事の中では、つい反応してしまうことも多々あります。そのたびに反省し、次こそは自分らしく考え、自分らしい選択をしようと誓うのです。なかなかできませんがね。(笑)
でも、そういう同じようなことの繰り返しこそが人生であり、ひだを舐め尽くすようにすべてを体験するためにあるのだと理解しています。だから、一足飛びに成長しなくていい、道草しながら人生を楽しめばいいとも思っています。

book20251101.jpg
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:12 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

●コメントを書く前に、こちらのコメント掲載の指針をお読みください。

ランキングに登録しています。面白かったらボタンをポチッと押してね。
↓↓↓↓
にほんブログ村 ライフスタイルブログ 自分らしさへ