論語と将軍 徳川将軍15人と江戸時代を創った帝王学 [ 堀口 茉純 ] - 楽天ブックス
Youtube動画で江戸地代に関する情報を楽しく紹介してくれる「ほーりーとお江戸、いいね!」というチャンネルがあり、最近よく観ています。お江戸ル(アイドルをもじったもの)のほーりーこと堀口茉純(ほりぐち・ますみ)さんが、実に詳しくいろいろなことをご存知で、知的好奇心を満たしてくれる動画なのです。
その堀口さんが本を出版されると聞いて、買ってみたのがこの本です。堀口さんって実はとっても有名な方で、元々は女優でテレビにも出演されてた方なのですね。知りませんでした。ご著書も何冊かあるようです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「しかし家康は違います。彼が征夷大将軍となって幕府を開いて以降、十五代にわたって子孫が権力の最高峰に君臨し続け、265年にわたる驚異的な長期政権を実現させました。」(p.2)
「たとえば「上下定分の理」の解釈は、林羅山が記した『春鑑抄(しゅんかんしょう)』の以下の部分を論拠に展開されるのが定石です。
天ハ尊ク地ハ卑シ、天ハ高ク地ハ低シ。上下差別アルゴトク、人ニモ又君ハ尊ク、臣ハ卑シキゾ
(天は尊く地は卑しい、天は高くて地は低い。こうした上下の差や分別があるように、人間社会においても主君の身分は尊(高)く家臣の身分や卑し(低)い)
確かにこの部分だけ読めば、天と地の上下があるように、人の身分の上下関係も不変的で絶対のものであるという主張のように感じられます。ですが、この文章を読み進めると、
君モ臣ヲツカウニ礼儀ガナクンバ、国ハ治マルマイゾ。必ズ乱レンゾ。乱ルレバ滅ブルゾ
(主君が家臣に対する礼儀が無ければ国は治まらず、必ず乱れるぞ。乱れれば滅びるぞ)
とあります。つまり羅山の主張の本質は、単に「下は上に対して従順であるべき」というような一方的なものではありません。むしろ「上(主君)が下(家臣)をないがしろにすれば、国は必ず乱れ、滅びる」とまで言っているのです。「大パワハラ時代」とは真逆!」(p.3-4)
徳川家康に始まる江戸時代が長く続いたことはよく知られていて、その重要な要素として儒学、特に朱子学があったとされています。その朱子学においては長幼の序と言われるように、上下を分けて守ることが重要とされています。これを、身分社会であり、上が下を奴隷のように扱ったと解釈するのは誤りだとほーりーさんは言われるのですね。
「しかし家康の儒学重視の姿勢を鑑(かんが)みれば、かなり強い意思をもって”徳”の字を名字に戴(いただ)いたとも考えるのではないか。四書を座右の書とし、とりわけ『孟子』を愛した家康は、三河一国の主になった時に自身が”徳治”の王者たらんと決意した。その志を名に刻むべく、”得”川ではなく”徳”川を名乗ったのではないかと、私には思えてならないのだ。」(p.19)
家康が名字を松平から徳川に改名したのは、三河統一を成し遂げた25歳の時だったそうです。松平は清和源氏の名門、新田(にった)家の末流の得川義季(とくがわ・よしすえ)の子孫であると自称していたので、それにあやかって付けたとされています。そうであるなら得川で良さそうなものですが、あえて徳川としたのはなぜか? 理由は解明されていませんが、ほーりーさんは、家康がそもそも徳治政治を目指していたと考えるのですね。
「奇しくも家康は次の言葉を自身の旗印としていた。
厭離穢土(おんりえど) 欣求浄土(ごんぐじょうど)
これは穢土を厭(いと)い浄土を求めるという仏教用語だ。家康は19歳の時に松平家の菩提寺の大樹寺で自殺しようとしたところ、住職からこの言葉を授かって思いを改め「戦国乱世で荒れ果てた現世を穢土から浄土に変える」という意味で、自身の旗印としたと伝わっている。」(p.21)
家康は仏教に傾倒し、現世に浄土を築くことを生き甲斐として、執念を燃やしたのかもしれません。
「仏教への信仰心は人々の大きな心の拠り所となる反面、依存状態になった信者が過激化する危険性を常にはらんでいたのだ。
しかし乱世が終われば戦死することも戦(いくさ)に駆り出されることもなくなり、生活は格段に安定する。人々は死後の世界よりも現世に目を向けるようになるだろう。いや、向けさせなくてはならない。
必然的に仏教、つまり宗教とはまた別の、現世をより充実させるための新しい考え方が必要になる。それは何か。当時の知識人たちが注目したのが儒学だった。」(p.22)
仏教は宗教である以上、理屈を超えた信仰が重視されがちです。そのため、わけもわからず信じることが求められ、人々は依存症になり、命令されるがままに動くようになってしまうのです。
一向一揆に見られるように、宗教的な集団心理による破壊活動は現世の平和を乱すことがあります。(かつての十字軍、オーム真理教の事件など、宗教がらみの殺戮は枚挙に暇がありません。)そういうことが起こらないように、現世の平和と秩序を守るために、儒教が取り入れられたとほーりーさんは言います。
「この部分は湯王と武王の故事に由来するため湯武放伐論(とうぶほうばつろん)とも呼ばれている。このように『孟子』は、主人が ”仁” ”義” といった徳のない暴君である場合には、それを討って新政権を打ち立てること=革命を是認しているのだ。」(p.26)
湯(とう)王が桀(けつ)王を追放し、武(ぶ)王が紂(ちゅう)王を討伐したことを、本当にあったことだと説明する孟子の一文から、家康は仁のない主君なら討伐しても良いと考え、羽柴家を討伐したということですね。
この考えは革命(テロリズム)を肯定するものであり、危険性をはらんでいます。しかし家康は、天下泰平という理想を実現するために、ここに踏み込まざるを得なかったのでしょう。
「後日、家康が「関ヶ原の合戦を経て、自分の息子達の中で徳川家の家督を継ぐのにふさわしいのは誰かを改めて家臣に問うたところ、武勇に優れた秀忠(ひでただ)の兄・秀康(ひでやす)や、弟の忠吉(ひでよし)を推す声が上がった。
しかし、秀忠付きの家老である大久保忠隣(おおくぼ・ただちか)は「乱世であれば武勇に優れた人が適任であるが、これから先、天下が治まれば文徳(学問で人々を導く徳)がある人でなければそれを維持してゆくことはできない。中納言(秀忠のこと)は常に控えめで孝行心が強く、文徳と智勇を兼ね備えている。どうして守文(守成のこと)の主にしないのか」と意見した。これを聞いた家康は納得し、秀忠に家督を継がせる決心を固めたという。」(p.38)
戦国時代までの跡目相続では、必ずしも長子相続ではありませんでした。才能を見て決めたのです。しかし、そのことによって世継ぎ争いが勃発し、内覧に発展することがありました。この時の家康は、まだ長子相続を決めていなかったのです。
「人が自分の姿を見るのに鏡を必要とするように、主君が自分の過ちを知ろうとするならそれを述べる忠臣が必要だ。主君が自分を賢いと思って諌めを聞かず、家臣がこびへつらって従うようでは、国は亡びる。要するに「諫言を重視せよ」ということである。
秀忠もこれに倣(なら)って諫言重視の姿勢を踏襲した。そのことが表れているのが山王祭と神田祭の山車(だし)の”諫鼓鶏(かんこどり)”だ。古代中国で理想とされる王は「諫言があれば太鼓で知らせよ」と城門の外に諫言のための太鼓=諫鼓を設置した。しかし王の政治は立派だったため天下泰平となり、打たれることのない諫鼓の上には鶏が乗って遊んだ、という故事がある。
秀忠は、江戸城に山車が入ることが許された山王祭と神田祭で曳(ひ)かれる山車の、一番先頭をこの”諫鼓鶏”にするよう命じた。これは「徳川将軍家は天下泰平を第一に考え、そのために諫言を重視している」というメッセージに他ならない。」(p.40)
戦乱の世が終わったように見えても、徳川家による天下統一はけっして安泰ではありませんでした。家康のみならず、二代将軍の秀忠の守成もまた、非凡なものがあったのですね。
「ただ、この法令群の根本理念である弱者救済自体を否定したわけではなく、「捨て子禁止令」などは継続することとした。
「捨て子禁止令」は、世界で初めての子どもの人権を守る法令である。」(p.96)
犬公方と称された徳川綱吉は、生類憐みの令を発しましたが、それは必ずしも評判が良くはありませんでした。それで続く6代将軍家宣は、新井白石の教えもあり、不評なこの生類憐みの令を廃止していったのです。けれでもすべてを廃したわけではなく、本当に意味のある規則は残したということですね。
「当時流通していた元禄金銀および宝永金銀は、勘定奉行・荻原重秀の貨幣改鋳により鋳造されたものだった(p97)。
金貨や銀貨に不純物を混ぜて、金と銀の含有量を大幅に減らした品質の低い貨幣だが、一枚の貨幣に使う金と銀は少なく済み、その分製造枚数を増やすことができる。こうして得られる益金(出目)で、幕府の財政収入を補填していた。
貨幣の価値が下がった分インフレになったが、商業も急成長していたため経済政策としてはおおむね上手くいっていたと現代では評価されている。
しかし、白石はそうは思わなかった。」(p.108)
「その後に白石が行ったのが、貨幣の質を荻原重秀の貨幣改鋳前に戻すこと。金銀をたっぷり使った良質な貨幣・正徳金銀の鋳造である。しかし肝心の金・銀の産出量が枯渇していたため発行できる貨幣の量が減り、経済成長もストップ。深刻なデフレに陥った。」(p.109)
経済政策は難しいものです。金貨銀貨と言う限りは、その含有量を高めなければ「正しい」とは言えません。けれど、「正しい」ことをすれば経済が失墜し、「不正」をすれば経済が好調になる。こういうことがあるのです。
これは、経済規模に見合ったマネー(通貨)が流通していないと、取引きがスムーズに行われなくなって、経済が回らなくなってしまうからです。一方で通貨は、信頼があってこそ流通するものなので、粗悪な貨幣を流通させて信用が失墜すれば、これまた経済が悪くなっていたでしょう。当時、バランスを取るという考え方はなかったのです。
「このなかで有名なのは、「父の家に在りては父に従い、夫の家に行きては夫に従い、夫死しては子に従う」という ”三従”。そして、これをやったら離縁されても仕方がないという七つの言動「@義父母に従わない A子ができない B淫乱である C嫉妬深い D悪い病気にかかった Eおしゃべりが過ぎる F盗みを働く」”七去”でしょう。”三従””七去”は儒学の”礼”に関する論文集『大戴礼記(だたいらいき)』に基づいた女子教育論です。」(p.113)
こういう価値観の時代があったのですね。ただ、こういう教えが重視されたのは、こういう教えに従わない女性が増えてきていたからだとのことです。なるほど、それもまた着眼点ですね。そういう意味では、実態はもっと自由だったのかもしれません。
「また、大塩が高名な陽明学者で”知行合一”を重視していたことから、大塩平八郎の乱は”知行合一”の体現として受け止められた節があります。このためこれ以降、陽明学を学んだ人が目的を達成するために過激なテロリズムに走る傾向が強くなりました。
まさか”知行合一”の実践としてテロリズムが肯定されるとは……。王陽明も想定していなかったことでしょう。」(p.184-185)
まさに、幕末の吉田松陰も陽明学に傾倒していて、やったことはテロリズムですからね。本来の意味は、行いに現れないのであれば、まだ本当には知っていないのだ、という意味だと私は思うんですがね。
ただ、豊臣の治世を守ろうとせずに暴力的に打倒した徳川の治世という観点からすれば、因果応報と言うこともできるかと。「正しさ(正義)」が人それぞれなら、テロリストにはテロリストの正義があるのです。
「さらに水戸徳川家は初代当主・頼房以来独自の血統を保っており、幕末には徳川宗家とはほぼ他人同然というほど、血縁関係が薄くなっていた。
つまり、水戸徳川家は将軍家や大奥から見れば、「圧倒的よそ者」だったのだ。」(p.224)
「鎖国したままであればそのままでもよかったのかもしれないが、「開国」「貿易」を行って西洋諸国との交流を決めた以上は、日本も西洋に倣った新しい政治体制を構築する時期に来ていたことは事実である。
誰かが幕府を葬る必要があった。そしてそれは、徳川将軍家にとって「圧倒的よそ者」である水戸徳川家にルーツをもつ慶喜だからこそ、できる仕事だったのだ。」(p.225-226)
「二代藩主・光圀以来、水戸藩で脈々と受け継がれてきた”尊王”思想は、幼少期から斉昭の膝下で育ち、弘道館で英才教育を受けることで、慶喜の骨身に染みわたっていた。自分が朝敵とされたことは父や先祖までをも辱(はずかし)める屈辱で、慶喜を思考停止させるのに充分な衝撃だっただろう。
幕府を葬ることはできても、朝敵の汚名を着せられることは彼の血が許さなかったのだ。」(p.228)
なるほど、この考察は面白いですね。慶喜は徳川の本流から外れた水戸家であり、水戸家は尊王の思想を大事にしていた。だからこそ、幕末の難局を乗り切るにあたって幕府を終わらせる大政奉還ができたし、錦の御旗を掲げた薩長軍を前に敵前逃亡したというわけです。たしかに、そういうことがあったのかもしれませんね。
いつもはYoutube動画で楽しませていただいているほーりーさんですが、こんなに詳しい方だとは思いもよりませんでした。思想的なものは専門ではないと書かれていますが、いやいやどうしてどうして。ほーりーさんらしい着眼点があり、これまであまり身近に感じてこなかった歴代将軍のことが、少し身近に感じられました。
NHKの大河ドラマもそうなのですが、ドラマや小説で歴史を知ると、登場人物を身近に感じられますよね。私も「篤姫」を観たので、幕末の3代の将軍のことが、こんな人だったのかもしれないなぁと感じます。本書でも改めてそういうことを思い出し、また別の一面も知ることができました。
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