2025年07月24日

社会保障が国を亡ぼす

社会保障が国を亡ぼす: 社会保険料を下げて手取りを30%増やす! - 石川雅俊
社会保障が国を亡ぼす: 社会保険料を下げて手取りを30%増やす! - 石川雅俊

X(旧Twitter)で政治関係のやり取りをよくやっているのですが、その中で私は、20年以上前から内政の喫緊の課題は社会保障費問題だと言ってきました。人口構成が高齢者に偏り、超高齢化社会になることで、現役世代が高齢世代を支えきれなくなる問題です。
その問題に対して、これまで与党も野党も正面から取り組もうとしてきませんでした。それがここ最近、そういうことを訴える声が上がってきて、2025年の参院選では、ついに音喜多駿さんが政策として取り上げるに至りました。もちろんそれまで、年金問題を河野太郎さんが取り上げたりもしてきました。少しずつ少しずつ、社会保障費の増大をどうするのかという問題に向き合わなければならないことが、より多くの人に知れ渡ってきたような気がします。

そんな中で、Xで知り合ったのが石川雅俊(いしかわ・まさとし)さんです。石川さんは医師であると同時に東京医療保健大学の特任教授を務め、さらに厚生労働省でも医療法改正などに関わってこられたという経歴があります。そんな石川さんが本を出版されたと知って、買ったのが本書になります。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

本来、社会保障とは「最低限の生活の保障」のはずでした。ところが、戦後日本は福祉国家という理想のもと、制度を拡大させ続け、気がつけば多くの国民が「もらえるのが当たり前」「誰かが支えてくれるはず」と考える社会ができあがってしまいました。いわば、支え合いの美名の下に、自立心と自由が奪われた社会主義的構造が温存されているのです。」(p.3)

序章でまずこのように言われています。私たちは本来、自分で自分を支えるしか仕方がなかった。でもそれは無理なので、お互い様の精神で、家族親族で支え合い、地域で支え合って暮らしてきました。これは世界的に見てもそうです。
しかし、戦後の高度成長時代に入った日本は、国家が国民を支えるという仕組みを導入していき、さらにそれを大きくしていきました。その中で、支えられる側は、支える側の顔が見えなくなっていったのです。

これを社会主義とか「大きな政府」と私は表現しています。「ゆりかごから墓場まで」と言ったのはかつてのイギリス労働党でしたが、それによってイギリスが没落していったことは歴史が示す通りです。日本も同じ道を歩もうとしている。そのことが懸念されているのです。


日本の社会保障給付費は年々増加し続けており、厚生労働省の発表によれば、2024年には137.8兆円(対GDP比22.4%)に達し、一般会計予算を上回る水準にまで膨れ上がりました。公共事業費(6.1兆円)や防衛費(8.6兆円)と比べると、その規模がいかに大きいかが分かります。過去30年間、社会保障にかける費用が急増する一方で、その他の予算は、防衛費を除いて、軒並み減らされてきました。」(p.16)

私たちがマスコミを通じて耳にする政府予算は、たいてい一般会計であり、社会保障費を扱う特別会計ではありません。だから、社会保障費が約140兆円もあることに気づかないでいるのです。

本当の原因は、高齢者に対する優遇措置が過剰に広がってきたことであります。たとえば、かつて行われた高齢者の医療費無料化などに象徴されるように、政治が高齢者の声を優先する「シルバー民主主義」が進んだ結果、医療・年金・介護といった社会保障の給付が次々と拡大されてきたのです。そしてその負担は、現役世代やこれから生まれる将来世代に押しつけられているのが現実です。」(p.18)

先ほど見たように、手取りが増えない要因は、企業が給与を上げない点も大きいですが、税金よりも社会保険料が高く、その社会保険料がどんどん引き上げられてきた事も大きな要因です。」(p.19)

税金の引き上げには国会審議と採決が必要です。だからマスコミでもよく取り上げられます。しかし、制度的にすでに決まっている社会保険料の引き上げは、必要なら厚生労働省の一存で決められます。だからマスコミでもあまり取り上げられず、国民の多くもよく知らないのです。
そもそも国民の多くは、給与明細をよく見ようともしません。差し引かれているものが何なのか、どういう仕組なのか、自分の頭で考えようともしません。そういう情弱な国民の低い知能につけ込んで、好き勝手に社会保険料として国民から奪い取ることができる仕組みが、今の社会保障制度なのです。


公費も入れると、1990年から2024年の約30年で約2倍、1970年から2024年の約50年で約3〜4倍の負担になっていることがわかります。高齢者等への莫大な仕送りが増える一方で、現役世代の手取りはその分激減しているのです。まさに現役世代は財産権を侵害されているといえるでしょう。」(p.22-23)

国際比較研究においても、日本の世代会計の不均衡は、世界最低の状況となっていることがわかっています。これは、世代間格差の拡大、高齢者優遇の制度設計が問題なのです。制度を変えるべく声をあげなければ、私たちの財産はこのようにどんどん奪われてしまうのです。」(p.23-24)

年金も医療も、積立方式ではなく賦課方式、つまり、必要な人に支給する一方で、その分の保険料は、納められる人からもらうという仕組みになっています。そしてその「必要な人」というのが高齢者に偏っていて、「納められる人」というのが現役世代に偏っている。つまり、高齢者世代が現役世代から搾取する仕組みになっているのです。


「私はこの老人医療費の無料化は、戦後の医療政策の中で最も問題のあるものの一つだと思います。この政策で、高齢者が必要性の低い医療サービスを受けるケースが増え、医療機関を訪れる人数が急増したのです。その結果、医療費は膨らみ、1973年以前の4倍以上に達するなど予算が急速に逼迫していきました。

 この状況は「医療機関のサロン化」と批判され、1983年に老人医療費無料化が廃止され、以後は一定の自己負担が求められるようになりました。しかし一度負担を下げてしまうと、あげることは政治的にとても難しいものです。そのためいまだに75歳以上の後期高齢者の多くは窓口1割負担(高額療養費限度額を考慮すると更に負担は小さい)となっているのです。
」(p.27-28)

後期高齢者医療制度もまた、「高齢者の負担能力に応じた設計」を目指すとされながら、実際には75歳以上は現役世代に比べて圧倒的に低い自己負担(原則1割)となっており、巨額の支援金が現役世代からの仕送りで賄われています。」(p.28)

「もらって当然」「使わないと損」という考えが社会保障制度に染みついた今、その拡張は止まりません。本来なら支援の必要がない層にまで公的給付が及び、制度は本来の目的を逸脱しています。自助・共助の精神は薄れ、社会全体が国家依存の体質に変わりつつあります。その結果、誰も制度を「支える側」になりたがらず、全員が「受け取る側」に回る−−そんな不健全な均衡が成立しつつあるのです。」(p.30-31)

この拡張主義的な社会保障制度は、自由主義の思想とは相容れるものではありません。例えば、経済学者フリードリヒ・ハイエク(Friedrich Hayek)は、福祉国家の本質が「社会主義の手段」であり、自由な市場経済を抑制し、国家が経済を統制する危険性があると指摘しています。」(p.31)

問題の本質がまさにここにあります。国家全体という一人ひとりの顔が見えない社会における支え合いにおいて、人々は自分が得をすればそれでいいという考えになってしまうのです。しかしその考え方は、意図せず自分の自由を捨てて、社会に縛られることになってしまう。そこに気づいていないことが悲劇なのです。

しかし、現役世代の負担が増え続けても足りず、公費負担も膨張しています。保険料のみで制度を維持できない時点で、現在の社会保険制度は破綻しているといっても過言ではありません。」(p.32)

そろそろ、発想を転換すべき時です。「政府が守るから安心」ではなく、「政府に取られすぎないから自由でいられる」そんな社会を目指すべきではないでしょうか。政府の過剰な支出を削減し、私たち自身の自由と選択、そして手取りを取り戻すことが、これからの社会保障改革の出発点であるべきです。」(p.33)

保険料は特別会計の収入に計上されますが、それだけでは社会保障費の支出がまかないきれません。なので政府は、一般会計、つまり税金を使ってそれを補填しています。つまり、一般会計に表れる社会保障費というのは、特別会計の補填費であり、全体の一部に過ぎないのです。その全体の一部に過ぎない一般会計の社会保障費が、国家予算(一般会計)の約1/3にもなっているのです。これで破綻していないと強弁するのはどうかと思います。


さらに問題なのは、年金制度が本来の「保険」としての性格を失いつつあることです。保険とは「自分の払った分に応じて、自分が受け取る」仕組みであるべきです。しかし、現行の年金制度は、再配分機能(所得の多い人が、少ない人を支える)を強化しており、「払った分だけ戻る」という対価性はどんどん薄れています。

 このように、現在の年金制度は、もはや「自分の老後に備える仕組み」ではなく、「誰かを支えるために取られる仕組み」になりつつあります。将来、年金を受け取る若い世代ほど、「払った分以上は戻ってこない」可能性が高く、制度がねずみ講やポンジ・スキームに似た構造だという批判も無視できません。
」(p.38-39)

年金保険と呼ばれますが、その実態は保険とは程遠いものになっているのです。この辺が国民の多くに理解されていないと言うか、うまく洗脳されていると言うか、政府の好き勝手にされているなぁと感じるところです。


低価値医療とは、医学的な効果が小さい、あるいは予後に大きな影響を与えない医療行為を指します。たとえば、風邪などの軽症に対して抗生物質を処方したり、症状が自然に回復するにもかかわらず受診が繰り返されたりするケースが挙げられます。

 こうした医療行為は、患者にとって大きな健康効果をもたらすわけではありませんが、医療機関にとっては診療報酬が発生するため提供され続けます。結果として、年間数兆円規模の医療費が「ほぼ効果のない医療」に使われており、本当に必要な患者に十分な資源が届かない事態を招いています。
」(p.40-41)

もう一つの深刻な問題は、「本人の意思確認もないままの延命治療」です。高齢者や認知症患者などが、胃ろうや人工栄養、心臓マッサージ、気管挿管といった高度な医療行為によって ❝生かされ続ける❞ 現状があります。延命治療は、医学的に生命を延ばす効果があるとしても、必ずしも「生きる質(QOL)」を高めるものではありません。

 むしろ、多くの高齢者は「自分らしく死にたい」「苦しまずに最期を迎えたい」と望んでいるにもかかわらず、法制度の未整備や医療現場の慣習により、延命治療が自動的に行われています。このような行為は、本人の尊厳を無視した「制度による人権侵害」であり、海外では制度的虐待と見なされることすらあります。
」(p.41-42)

自由主義の立場から見れば、医療は必要な人が、必要な時に、必要な分だけ受けるべきものであり、それに応じた負担(=応益負担)を行うのが公正です。現行制度のように、必要性に関係なく医療を広く薄く無償で提供する仕組みは、モラルハザードを誘発し、限られた財源を食い潰す構造を助長しています。」(p.42)

現行制度は応益負担より応能負担が大きくなっており、医療を使わなきゃ損だというモラルハザードが起こっていますね。


このように、社会保障の過度な充実が、家族の責任感や地域の助け合いの精神を結果的に弱めてしまうという側面は見過ごせません。支援が必要な人に必要なサービスを届けることは大切ですが、それと同時に、「すべてを国に委ねる社会」は、長期的には家庭や地域社会のレジリエンス(回復力)を奪ってしまうリスクも孕んでいるのです。」(p.58)

介護保険制度が始まる前は、家族が年寄りの面倒を見るのが当たり前でした。大家族制が当然で、年寄が独立して生活するなんて発想がなかったのです。なので、もし身寄りのないお年寄りがいたら、地域社会が支えていました。
しかし、核家族化が進んだ現在、高齢者のお一人様もふつうになってきました。そう考えると、昔のような大家族制に戻せと言っているようにも感じる石川さんの主張は、ちょっと無理があるなぁと感じます。

ただ、だから国がすべてを支えるべきというのは違うと思います。それぞれの人生は、それぞれの自由なのです。自分が老後に備えてこなかったのであれば、助けてもらえない現実を受け入れるべきだと私は思います。その上で、国は必要最小限の生活保障をすればいい。おそらく石川さんも、そこに行き着くのだろうと思います。


社会保障制度において重要なのは、給付と負担の関係において健全なインセンティブ構造が確立されているかどうかです。ところが現行制度では、「使った者勝ち」「長く生きた者勝ち」「保険料を納めた者より受給者が得をする」といったゆがんだ構図が見られます。これが、労働意欲や自助努力を削ぎ、制度への過度な依存を助長する一因となっています。」(p.68)

このような事態を防ぐには、国家が一律に設計した制度を押しつけるのではなく、社会保障の多くを市場に委ねる方向への転換が必要です。たとえば、健康に配慮した生活を送ることで保険料が割引される民間保険商品が普及すれば、人々は自己管理の努力を経済的に報われる形で受け取れます。公的制度による一律給付ではなく、民間の競争環境の中で最適なプランを選ぶという仕組みが、持続性と効率性の両立につながるのです。

 本来、国家の役割は「最低限の保障」にとどめるべきです。個人の日常的なリスク管理、生活設計、老後対策といった分野は、民間の知恵と競争によってより質の高いサービスを提供できる領域です。自由な選択肢がある社会こそが、国民の自立と創意工夫を支え、健全な市場型社会保障を可能にするのです。
」(p.69)

私も同感です。健康を意識して努力している人と、努力せずに怠惰な生活をしている人の健康保険料が同じというのはおかしいのです。それでいて、怠惰な人の方が病気になりやすく、医療費として保障をたくさん受けられる。これをおかしいと思わない社会がおかしいのです。


こうした構造の中で、年金保険料は名目上こそ ❝保険❞ ですが、実態としては税に近い特徴を備えています。その共通点は以下のとおりです:

@強制徴収である点
」(p.78)

以下、「所得比例である点」「給付の不確実性」があげられています。つまり、保険料と言いながら、サラリーマンや年金受給者は天引きされるし、自営業者でも納付が義務となっていて、払わなければ差し押さえされることもあります。また、保険料は受け取る年金額によって決まる(応益負担)と言うより、納められるだけ納める(応能負担)に偏っていて、どれだけ受け取れるかはその時の社会情勢によって変動します。こういったことからも、民間保険ではあり得ない制度設計になっているのです。


しかし、自由主義が浸透する現代社会では、個人が自分の将来を自分で設計できる制度こそふさわしいのではないでしょうか。国家が一律の給付を約束するよりも、最低限のセーフティネットを確保した上で、それ以外は個人の裁量に委ねる社会といえます。

 現在の政府や官僚機構は、「制度を守ること」に強く執着しています。しかし、国民が本当に求めているのは、生活を守れる制度です。この乖離が放置され続ければ、制度は形式上破綻しないまま、経済は停滞するという深刻な事態を招きかねません。
」(p.97)

制度がすでに破綻しているから、政府は、年金支給年齢を遅らせたり、厚生年金加入者を増やしたり、小手先の変更で今は何とか維持できるという状態を続けようとしています。しかし、制度設計がすでに破綻しているのですから、いつまでも続けられるはずがありません。


この構造の中で象徴的なのが、「寝たきり大黒柱」とでも呼ぶべき現象です。医療費よりも年金の方が多く支払われているがために、家計維持のために意識のない高齢者の延命が行われる。このような状況が日本社会に静かに広がっているのです。もはや医療制度が「人を助ける手段」ではなく、「収入を得る手段」になってしまっている世帯もあるという現実は、制度の本質を問い直す大きな警鐘です。」(p.108)

私も老人介護施設で働いていましたが、まさにこの「寝たきり大黒柱」なんだろうなぁと感じるケースがありました。胃ろうをして意識のないお年寄り。家族は面会にもやってきません。けれども、「何とか100歳までは生きてほしい」と希望を伝えているのだとか。本当にその方を大事だと思うのなら、頻繁に会いに来るべきではありませんか? 会いにも来ず、ただ生きながらえていさえすればいい。私には、その感覚は理解できません。


国民全体が保険に強制加入させられ、原則として医療機関を自由に選べ、かつ自己負担は原則3割、多くの高齢者は1〜2割に抑えられている。こうした ❝至れり尽くせり❞ の仕組みは、一見すると理想的に見えますが、結果として受診の過剰、医療資源の浪費、そして財政圧迫を引き起こしています。

 特に問題なのは、制度の財政構造が非常に見えにくい点です。
」(p.113)

自己負担が少ないから、サービスを受けた方が得だと考えるのです。もし民間保険のように、医療を受けなければ保険料が下がるというのであれば、結果は違うと思います。どうせ無条件に奪い取られるのだから、せめてたくさん利用してもとを取ろうというインセンティブが働くのは、ある意味で仕方がないことかと思います。


まず指摘すべきは、日本の病院数と病床数の多さです。2025年3月末時点で日本には8,047の病院が存在し、これはOECD諸国の中で最も多いです。たとえばアメリカでは病院数が6,000台、ドイツでは3,000台であり、人口比で見れば日本の医療施設の過密ぶりは際立っています。病床数においても日本は人口1,000人あたり約12床という世界最多水準にあるため不必要な入院が多く、他方で、医師や看護師が比較的少なく、医療資源が分散して、非効率な医療提供体制となっているのです。」(p.124)

また、日本の医療提供体制は「診療報酬制度」(いわゆる公定価格)と強く結びついています。診療報酬は国の中央社会保険医療協議会(中医協)が2年ごとに見直しを行い、医療行為ごとの価格を決定します。これにより、各医療機関は ❝定められた単価❞ で医療を提供せざるを得ず、自由な価格設定ができません。結果として、医療機関は単価が低く設定されている診療報酬を回数で稼ぐ「薄利多売」に依存せざるを得ず、過剰な検査や処方を繰り返す誘因が生まれています。」(p.126)

さらに医療界には、こうした問題を是正しようとする動きに対して抵抗する利害関係者も存在します。特に日本医師会は、規制緩和や診療報酬の見直しに対して強く反対する傾向があり、医療の生産性向上や無駄の削減が進まない要因の一つとなっています。たとえば、株式会社の医療法人参入や、混合診療の解禁といった改革案に対しては「医療の営利禍を招く」として一貫して反対姿勢をとってきました。」(p.127)

このように日本の医療は非効率で無駄が多く、それを改革しようという自浄作用すらありません。完全に社会主義的な業界になってしまっているのです。


高齢化が進行する中で、日本の医療制度が直面している最大の倫理的・財政的課題の一つが「終末期医療」のあり方です。多くの人が、人生の最終段階において自分らしい形で尊厳を保ちながら生きたいと願っていますが、現行の制度はその希望を支えるどころか、むしろ逆行するような構造になっています。

 象徴的なのが「胃ろう」の問題です。日本には胃ろうを通じて栄養を摂取する高齢者が約40万人いるとされますが、その中には、本人が意識を失っており、回復の見込みが乏しい状態であるにもかかわらず、延命措置が継続されているケースが少なくありません。背景には、「医療は命を延ばすためにある」という考え方が制度的に強く根付いており、たとえ本人が延命を望んでいなかったとしても、制度上は延命が ❝正解❞ として処理されてしまう構造があります。
」(p.129)

私たちは「生きる権利」と同様に、「死ぬ権利」も真剣に議論すべき時期に来ているのではないでしょうか。現行制度では ❝死なせてくれない社会❞ が形成されつつあり、それは医療の倫理や財政のみならず、人間としての尊厳に深く関わる問題です。

 制度としては、@延命医療に対する保険給付の見直し、AACPの法制化と義務化、B本人の意志を尊重する意思表示ツールの整備(リビング・ウィル、デジタル署名など)を進める必要があります。さらに、C一定の条件下での緩和的な尊厳死や安楽死の選択肢についても、冷静かつ公正な議論を開始すべきです。
」(p.131 )

私も高齢者の介護施設で働いたので、この問題はよくわかります。自分の意志も示せずただ生きながらえさせられているお年寄り。私自身は、ああいうのは嫌だなと思います。


自己負担率を原則5割とすれば、受診行動に自然な節度が生まれ、医療の質と効率も高まります。もちろん、低所得層への配慮として一定の減免制度は必要ですが、基本ルールとして一律5割負担を設定することが、制度の公平性を保つ出発点となります。

 現在は政治的な背景から自己負担率は1〜3割となっていますが、皆保険制度が始まった1961年時点では5割でした。その後、老人医療費無料化といった誤った政策により、自己負担が少ない事が当たり前になってしまったのです。今こそ、制度を作った時に立ち返るときでしょう。
」(p.134)

正確には、当初の被保険者(まだ皆保険ではない)の自己負担はゼロだったようです。被保険者の被扶養者が5割ですね。それが1973年に被扶養者の負担が3割に引き下げられ、1984年には被保険者も1割負担になったようです。まぁ要は、様々な変遷がありながら今の形になっているのですが、少なくとも現在、3割負担すらしていない高齢者によるモラルハザードが問題になっていることは明らかです。
では、いくらの負担が適正なのか? これは、いろいろ意見があるかと思います。私は、少なくとも、病院がサロン状態になっているなら、自己負担が少なすぎると思います。

なお、低所得者に対して減免措置が必要だと石川さんは言われますが、私はこれには反対です。複雑であり、適正に所得(つまり資産も含めて自分が使えるお金)を把握できないからです。そして、そんなことの把握にコストを使うのはナンセンスだと思っています。だから私は、最低限の生活保障としてのベーシック・インカムを推奨しているのですがね。


負担のあり方を見直すと同時に、次に問うべきは「給付のあり方」です。つまり、公的保険でどこまで支え、何を対象外とすべきかという線引きの問題です。現行制度は、給付範囲が広すぎることによって、限られた財源が非効率に使われ、制度全体のパフォーマンスを著しく低下させています。

 特に見直しが必要なのは、軽症・延命・非エビデンス医療に対する給付です。たとえば、湿布、風邪薬、ビタミン剤、花粉症の抗アレルギー薬といった軽微な治療に対しても、保険給付がなされています。こうしたものは、市販薬でも十分に対応可能であり、あえて公費を投入する必要性は極めて薄いと言えます。

 また、延命医療の分野でも、明確な意思表示や回復可能性のない場合の手術・処置に対して無条件に給付される現状は、制度の持続性という観点からも再考すべきです。医療費の効率的活用のためには、「何でも保険で」という発想から脱却し、「必要な医療に限定して支える」という選択と集中が求められます。
」(p.137)

健康保険を皆保険とするなら、なるべく必要最小限に絞ることが重要だと思いますね。

社会保障制度のゴールは、すべてをカバーする万能制度ではなく、 ❝自由に選べる最低限❞ を保障することにあります。個々の価値観やライフスタイルが多様化する中で、医療もまた「万人にとって同じであるべき」という前提を捨て、選択肢のある社会を目指すべきです。

 制度を守ることが目的化した社会から、制度を選び直せる社会へ。
 それが、次の医療制度の本当の出発点です。
」(p.144-145)

本質的なことを考えると、こういうことだと思います。価値観は人それぞれなのです。そのそれぞれの価値観を尊重するなら、全体でカバーすべきは必要最小限にして、残りはそれぞれの人々に任せるべき。つまり、保健医療であれば、民間保険に任せたらいいのです。


一方で、制度の利用者側の自己負担は極めて軽いのが現状です。原則として65歳以上がサービスを受けることができますが、多くの人が自己負担1割のまま利用しており、2015年の制度改正で一部に2割・3割負担が導入されたとはいえ、全体としては「実質9割引き」で介護サービスが受けられる仕組みになっています。

 このような制度設計では、当然ながらモラルハザードが起きます。
」(p.148-149)

医療の目的が「病気やケガを治すこと」であるのに対し、介護の目的は「老化の進行をできるだけ緩やかにし、生活の質(QOL)を保つこと」にあります。

 つまり、医療が ❝回復❞ を目指すのに対して、介護は ❝現状維持❞ が主な目標です。ここに大きな違いがあり、それゆえに「何が正しい支援か」を判断することが難しいという特徴があります。
」(p.149)

ここで改めて問い直すべきなのは、「介護」という現象そのものの性質です。そもそも老いとは、誰にでも訪れる自然現象であり、病気や事故のように「まれに起こるリスク」ではありません。
 本来、保険制度とは「万が一」に備えるための仕組みです。
」(p.150)

健康保険の問題もありますが、これからは介護保険の問題も大きくなっていくことでしょう。石川さんは、医療と介護の違いは、回復するかどうか、万が一の備えかどうか、という点で違いがあると指摘されています。私は、たしかにそういう観点はあると思うのですが、必ずしも石川さんのようには思いません。

そもそも介護保険は、それまで家庭内に隠蔽されてきた嫁に対する介護の押しつけを打破して、介護は社会全体でやるべきだというテーゼでした。そういう意味では、介護保険制度は成功したと思います。しかし、「じゃあどこまで介護するのか?」という問題が出てきただけだと思うのです。そういう意味で、私は医療も介護も同じ問題だと考えています。
たしかに老化は誰にでも訪れます。けれど、要介護という状態が人生において発生するかどうかは、誰にもわかりません。要介護という状態を経ずに死ぬことも多々あるからです。したがって、要介護状態が万一の出来事と捉えることは十分に可能だと私は考えています。
たとえば亡くなるまでの2〜4週間、寝たきりで過ごすなら介護も必要でしょう。そのくらいは介護保険で出してもいいのではないでしょうかね。


さらに問題なのは、サービス提供側、すなわち介護事業者のインセンティブ設計にもあります。介護サービスの報酬は、利用者1人あたりのサービス提供量に比例して増加します。事業者にとっては、受け入れ人数が増えれば増えるほど売上が上がり、利益も増える構造です。よほど困難なケースでない限り、「この人にはサービスは不要」と突き返す理由はなく、むしろ積極的に受け入れる方が合理的です。
 こうした背景もあって、「必要最小限の支援にとどめる」「保険財源を無駄に使わないように」といった発想は、制度運用の現場からは抜け落ちてしまいがちです。その結果として、過剰なサービス提供が常態化し、保険財政の圧迫が進んでいます。
」(p.152-153)

これがまさにモラルハザードの問題なのですよ。たとえば、こういう医療(介護)を受けたいならこれだけお金が必要ですと言われたら、自分で払えるかどうか考えますよね? それで払えるとなれば、どうせなら受けてみようかとなるわけです。この判断の境目において、実際の金額(医療介護側からすると売上)の9割引きの自己負担額で判断するのか、7割引きなのか、5割引きなのか、はたまた3割引きなのかなど、保険でいくらカバーしてくれるかによって判断が変わってくるはずです。

そして要介護度が上がれば、それに応じてサービス報酬も上がります。つまり、制度の構造上、「介護度を下げる努力」よりも「維持もしくは引き上げたほうが得になる」設計になってしまっているのです。」(p.157)

制度設計そのものに歯止めがない−−これが、介護保険制度のもっとも深刻な構造的欠陥といえるでしょう。」(p.159)

要介護度が上がれば、より多くの介護が得られる。つまり、介護を受ける側は、実態よりも介護度が高い方が望ましい。また介護サービスを提供する側は、要介護度が高くて介護サービスをたくさん受けてくれる顧客の方が望ましい。こうして両者の思惑は一致します。
これが政府による皆保険制度の構造的な欠陥です。歯止めをかける仕組みがないのです。使わない方が得だというインセンティブがどこにもない。これが大きな問題なのです。

もしこれが、民間保険だったらどうでしょうか? つまり、介護サービス提供者は、支払ってくれる金額に応じたサービス提供ができます。金持ちは自分で支払うでしょう。では貧乏人は? 民間保険に加入していれば、その保険レベルに応じて介護サービスを受けられますよね。これが健全な形ではないかと思います。


人材不足の根源的要因は、介護職の低賃金構造にあります。

 介護報酬は法定の公定価格で決まっており、事業者の判断で大幅な給与引き上げを行うことは困難です。高級有料老人ホームなど一部の例外を除けば、介護職員の給与は全国的に水準が低く抑えられており、若年層や転職希望者にとって魅力的な職場環境とは言いがたいのが現状です。
」(p.161)

保育士不足医の問題もそうですが、政府(行政)が売上を制限して、補助金で経営を成り立たせるような業態では、賃金の引き上げが困難になり、人手不足が発生するのです。
この解決策は簡単で、自由化すればいいだけなのです。事業者が自由に売上(サービス提供価格)を設定し、必要な人材が集まるような賃金設定ができる。そうすれば人材不足異問題は解消します。
そこで問題になるのが、価格が高過ぎて利用したい人が利用できないという問題です。この問題への対処は、利用したい人に給付することで解決します。つまり、同じ政府(行政)が支出するのであれば、補助金などによる統制経済ではなく、自由経済にした上で、利用者が利用できるよう給付するってことです。そうすればコストも減るし利権の温床になることも防げます。


高齢者の要介護状態のなかでも、特に認知症を伴うケースは今後の社会保障財政において最大級のリスク要因のひとつです。」(p.166)

「認知症になってまで生きたくない」「家族に迷惑をかけるくらいなら…」と考える高齢者は少なくありません。とはいえ、日本では安楽死や尊厳死に対する議論は依然としてタブー視されがちです。スイスなど一部の国では法制化が進んでいますが、日本では「命がある限り生きるべきだ」という価値観が根強くあります。

 もちろん、その考えには「命への敬意」があることは否定できません。しかし一方で、重度の認知症や意思疎通が困難な状態になった本人にとって、それが本当に幸せなのかという問いは、避けて通れないテーマです。
」(p.168)

今後は、「延命措置を望まない」意思を表明する人に対して、そうした医療・介護行為を保険の対象外とする制度設計なども、選択肢として検討されるべきかもしれません。もちろん倫理的・法的な課題は山積していますが、延命を拒否する自由もまた、尊重されるべき「生き方の選択」であるはずです。」(p.169)

私も高齢者介護施設で働いたこともあって、認知症が一番の問題だと思っています。特に身体が動く認知症の人ほど、介護するのにやっかいなことはありません。
そして、どう死ぬかという問題は、どう生きるかという問題でもあり、その人らしく生きる問題にもなると思うのです。だからこそ、「尊厳死」だけでなく「安楽死」まで踏み込んで、議論することは重要だと思います。


私は、介護保険制度の廃止を視野に入れ、「応能・応益負担原則」への全面的な移行を提案したいと思います。

 具体的には:
・高齢者でも経済的能力のある人は、自費で介護サービスを購入する
・所得や資産のない人には最低限の公的支援を用意する
・介護は原則として民間保険・共助・自助によって賄う仕組みへ転換する

 この方向性こそが、社会全体の責任感と財政の持続可能性を両立させる、自由主義的で理にかなった改革なのです。
」(p.186-187)

石川さんは、このように提案されていますが、私も概ねこれに賛同しています。ただその仕組みづくりにおいて、私は「最低限の公的支援」はベーシック・インカムなど直接給付にすべきだと思っていますがね。


「次世代運動」は、現代日本の社会保障制度に対する根源的な疑問から生まれた、草の根の市民ムーブメントである。制度疲労が進行し、若者や現役世代が「支えるだけ」の存在に追いやられる中で、誰もが感じながらも声に出せなかった違和感−−それを言葉にし、発信し、共鳴する場として、インターネット空間において自発的に立ち上がった。

 2020年以降のコロナ禍を契機として、医療・介護・年金をはじめとする社会保障制度の「不公正」「不合理」が可視化され、SNSを通じて現場の声が拡散されていった。その過程で、「反・老人サロン(反サロ)」という皮肉と批判を込めた言葉が誕生し、やがてそれがより体系的な問題提起と運動体へと成長していったのが、この「次世代運動」である。
」(p.192)

2020年以降のコロナ禍は、長年日本社会に蓄積されてきた制度的歪みを一気に露呈させた。特に医療・社会保障分野においては、既得権益に守られた構造が国民の自由や公平性を損ね、現役世代に過大な負担を強いている実態が、これまでになく鮮明になった。

 この状況に強い危機感を抱いた有志たちが、インターネット空間、特にSNS「X(旧Twitter)」上に集結し、草の根のムーブメントを生み出していく。その始まりが「反サロ(反・老人サロン)」であり、そこから発展したものが「次世代運動」である。
」(p.194)

次世代運等が掲げる目標は、既存の社会保障制度における単なる修正ではない。支える側である現役世代の視点から、構造的な不均衡の根源にメスを入れようとする、抜本的な改革である。特に医療・年金・介護の制度に共通するのは、「負担と給付の逆転現象」であり、それは多くの現役世代にとって「黙して耐えるしかないもの」とされてきた。」(p.199)

さらに重要なのは、SNSという空間を越え、リアルな行動につながっている点だ。象徴的な存在が、次世代運動の代表となった北村氏による一人デモである。地方の駅前に立ち、誰に頼まれるでもなく声を上げた姿に、多くの人が共鳴した。これこそが、次世代運動の根源的な強さである。」(p.199-200)

この運動の担い手たちは、「強いられて動く」のではなく、「納得して動く」。それは自己表現であり、自己尊厳の回復でもある。とりわけ医療現場で働く人々の中には、制度に従うことが自分の職業倫理や価値観と乖離していると感じる人も少なくない。東徹氏が語ったように、「自分のやっていることが本当に意味のある医療か?」という問いに向き合い続けた結果、発信に至る者も多い。」(p.203)

「次世代運動」という言葉は、どこかで聞いたような記憶はありましたが、あまり意識していませんでした。北村達哉さんのことは、Xを通じて知っていました。そして私も共感する部分が多いと思っていました。東徹さんも、Xでよくお見かけしています。
これまでの「自分が損するから変えよう」というだけでなく、「社会全体の構造がこれでいいのか?」という問いかけが、次世代運動の中にはあると感じて、共感しています。これまでの左翼、共産主義者の活動は、虐げられている労働者階級がもっとよくなるように、というものであって、「こうした方が社会全体にメリットがある」というものではありませんでしたから。


私たちはこうした現状に対して、具体的な ❝出口戦略❞ を示しました。単なる批判ではありません。次の時代に向けた「提案と設計図」−−それが、私たちが掲げるマニフェストです。

 取って配る国家から、取らずに自由な国家へ

 私たちが提起したスローガンは、たった一行で制度の本質を突きます。

「取って、配る」から「取らずに、自由に」へ。
」(p.208-209)

この状況を打開するには、徹底した改革が必要です。私たちが提案するのは、「6つのアクション」による70兆円の給付削減と、その分をすべて現役世代の可処分所得に回すという大胆な社会保障リセットです。

・厚生年金を廃止し、最低保障年金と私的年金に移行。
 250兆円以上ある積立金を活用し、全員に月7万円程度の最低年金を保証。あとは個人の選択と努力で老後を備える仕組みへ。

・医療制度を応益負担・5割負担に切り替え、混合診療・AI診断・民間参入を解禁。
 延命・風邪・湿布・低価格医療は保険外に。高額療養費制度の上限撤廃も。

・介護保険は大幅に縮小、「公助」から「共助・自助」へ。
 延命と娯楽的サービスを除外し、民間保険と地域の助け合いに誘導。

・子育て支援はバラマキでなく、手取り増で。
 現金給付よりも社会保険料負担の軽減を優先し、「家族を国家が代替する政策」を撤回。

・医療・介護の規制緩和による生産性革命。
 株式会社参入、配置要件の撤廃、医療法人の非営利制限見直しなど。

・社会保険料を引き下げ、企業負担分も賃上げに転嫁。
 年収500万円の方で、年間120万円(月10万円)の手取り像を見込める計算です。
」(p.209-211)

国が手取り足取り面倒を見るやり方は、コストが嵩むし非効率で、さらに利権の温床となっています。なので、なるべく自由化することによって効率化を図り、利権を無くす方向への改革が必要だと思います。


石川さんとは、Xのやり取りを通じて知り合い、オンラインでお話もさせていただきました。一般人の私に話を聞きたいと言われたので、それを受けただけですがね。
私と石川さんの考えが、必ずしも一致しているわけではありません。私は、最低限の生活保障は政府がやるべきだと考えていて、その方法はベーシック・インカムという究極的な給付政策だと考えています。見方によっては「大きな政府」と言えなくもありません。しかし私は、政府が関与しないのであれば、「小さな政府」と言えると思っています。

いずれにせよ、こういう「小さな政府」を主張する声が少しずつ大きくなってきたことに、社会の変革期にあるんだなぁと感じています。ただ、この問題の本質は国民のクレクレタコラ気質にあることは間違いありません。国民が変わらない限り、制度や政府が変わることはない。これが私の持論です。
国民が、「他人が損をしても自分が得をすれば嬉しい」と思っている限り、社会の制度は変わりません。「金持ちはズルをしていて、そういう奴らからはふんだくればいいんだ」というような火事場の略奪を容認する考えがある限り、社会の制度は変わりません。だから私は、まずは国民一人ひとりの意識改革が重要だと考えています。
国民の意識が変われば、自ずと政治家は変わり、社会の制度も変わる。私は、そういうものだと思っているのです。

ついでに言うと、今のような国民が「悪い」わけではないとも思っています。今の国民の思考レベルもまた重要なのです。そういう思考レベルでなければ経験できないことがあるからです。そこを乗り越えた人にはもどかしく感じるかもしれませんが、赤ちゃんがどうしようと大人が鷹揚に見守るように、ただ成長を見守っていればいいとも思うのです。

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タグ:石川雅俊
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:57 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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