2025年05月17日

スピノザ

スピノザ 人間の自由の哲学 (講談社現代新書) [ 吉田 量彦 ] - 楽天ブックス
スピノザ 人間の自由の哲学 (講談社現代新書) [ 吉田 量彦 ] - 楽天ブックス

Youtube動画で哲学者スピノザの考え方を知りました。名前は知っていましたが、具体的にどのような思想だったのか知りませんでした。
もともとユダヤ教徒で、カトリックに改宗せざるを得ない時期があったり、その思想のために危険人物と見なされユダヤ教徒社会からも追放されたスピノザ。彼が唱えたのは、それまでの人格神ではなく遍く存在する神、つまり汎神論。そして、人間が本質的に自由であること。漠然とそういうことがわかって興味を抱き、何か読んでみようと思って買ったのがこの本でした。

著者はスピノザを研究する大学教授の吉田量彦(よしだ・かずひこ)氏。文庫本で400ページあり、難しい哲学書だったら嫌だなぁと思ったのですが、懇切丁寧に解説してくれる大学の授業のようなスタイルの内容で、とても興味深く読むことができました。


ではさっそく一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

前回確認したように、スピノザが『神学・政治論』を世に問う時期のオランダでは、何一つ悪事を働いていない人でも、思想を理由にして命を奪われかねないのが実情でした。」(p.154)

『神学・政治論』でスピノザが繰り返し訴えかけたメッセージは、単純化を恐れず一言に集約するなら、「哲学する自由 libertas philosophandi」の大切さです。逆に言えば、この「哲学する自由」という中核の思想にさまざまな角度から膨大な肉付けを施したものこそ『神学・政治論』という書物に他ならないのです。」(p.154-155)

思想によって命を奪われかねない時代と場所、それがスピノザが生きた世界でした。宗教の力が絶大で、逆らうことは死を意味したのです。これは、ガリレオが「それでも地球は回っている」と言ったという逸話にも表れていますね。


知とか知恵とか言いますが、そもそも知恵があるとはどういう状態を指すのでしょうか。いろいろな説明の仕方があるでしょうが、わたしなりに表現するなら、知恵がある人とは「何が本当で何が嘘か分かっている人」のことだと思います。逆に言えば、知恵がない、あるいは足りない人とは、本当のことと嘘の見分けがつけられない人のことになるでしょう。そうすると、知を愛し求めること=哲学とは、要するに、何が本当で何が嘘なのか知ろうとすることに他なりません。」(p.157)

ただし、スピノザはさらにもう一歩先を行っています。彼は哲学する自由を、「考えたいことを考える」だけでなく「考えたことを言う自由」だと語っているからです。」(p.157)

哲学(フィロソフィー)は愛知、つまり知を愛することですが、その知とは何が本当かを知っていることであり、それを追い求めることが哲学です。その哲学する自由だけでなく、追い求めた結果を言葉にして表現する自由も含めて「哲学する自由」とスピノザは言っています。ところが、そういう自由がない社会にスピノザは生きていたのですね。

もし、二一世紀の日本社会に(たとえば並外れた愛国心をお持ちの国会議員さんあたりに)ホッブズが生れかわって「公式行事の場で君が代を歌うよう求められても、その求めはあなたの内申の自由まで侵すものではないのだから、安心して歌いなさい」と言ってきたら、皆さんはどう思いますか。ナアマンの自由を、そしてナアマンの自由だけを認めるということは、裏返しに言えば、「考えたいことを考える自由」つまり心の中で好き勝手なことを思いめぐらす自由以外の自由を、何一つ認めないということなのです。こう見てくると、スピノザが「考えたことを言う自由」へのこだわりを繰り返し示していることにも、ある程度納得していただけるのではないでしょうか。」(p.161)

内心の自由だけではダメなのです。表現の自由があってこそ、健全に内心の自由も守られます。日本国憲法も、この要諦を押さえて作られているのですね。

それではなぜ、「哲学する自由」を踏みにじってはいけないのでしょうか。スピノザの用意した答えを、細かい議論を後回しにして最初に提示しておくなら、それは「無理だから」です。「哲学する自由」を踏みにじろうとする国家体制、言いかえればそこに暮らす人たちの思想・言論・表現をできるだけ厳格に取り締まろうとする国家体制は、単に一人一人の人間に無理なことを求めているだけでなく、最終的には一人一人の人間から成り立っている社会体制・国家体制そのものに無理をかけ、自滅に向かわせるというのです。
 この結論を、スピノザは親切にも、『神学・政治論』巻頭ではっきり表明してくれています。
」(p.162)

本書は、哲学する自由を認めても道徳心や国の平和は損なわれないどころではなく、むしろこの自由を踏みにじれば国の平和や道徳心も必ず損なわれてしまう、ということを示したさまざまな論考からできている(光文社版、上巻二五ページ)。」(p.163)

内心の自由や表現の自由を否定しようとしても否定できない。なぜなら無理だから。否定しようとした国家体制は崩壊する。そうスピノザは言っています。
このことは、歴史を見れば明らかでしょう。独裁体制や右や左の全体主義は、いずれ崩壊する運命なのです。


聖書の言葉を利用して、社会の中に憎しみや対立や殺し合いをばらまこうとする人たちは昔も今も後を絶ちませんが、そうした人たちはスピノザに言わせるなら、聖書という書物の本質からして根本的に倒錯したことを行っているのです。
 愛とか正義とか、そんな当たり前のメッセージなら、わざわざ聖書から学び取らなくてもいいじゃないかと思うでしょう。実際、そうなのです。聖書に込められた道徳的メッセージは、聖書を読まないと身につかないような特別なものではありません。
」(p.190)

しかし、もし聖書に込められたメッセージが認知的な真理ではなく道徳的な命令に他ならないならば、話は大きく違ってくるでしょう。その場合、ピエスタ=敬虔の有無は、その人たちが何を(認知的な真理として)信じているかではなく、何を(道徳的な命令として)実践しているかに左右されることになるからです。具体的には、隣人たちと仲良く(愛)、しかも越えてはならない一線を踏み越えることなく(正義)暮らしている人は、たとえどんなに理屈の合わないことを信じていようとも「敬虔」であり、反対に微細な教義の違いから隣人を憎み、ののしり、傷つけ、殺して喜んでいるような人は、たとえその教義をどれだけ一心不乱に信じていようとも「敬虔」ではないことになります。」(p.193)

聖書は第一義的にはひとびとを道徳的に教化しようとする書物であり、真理を理詰めで検証しようとする書物ではない、という『神学・政治論』前半部の結論は、神学と哲学の「すみわけ」を避けがたいものにします。神学(宗教)の本領は道徳的教化であり、哲学のそれは真理の合理的探求である以上、「考えたいことを考え、考えたことを言う自由」を行使する哲学に「不敬虔」のレッテルを貼ろうとする宗教も、逆に道徳教育に勤しむ宗教に「不合理」のレッテルを貼ろうとする哲学も、等しく越権行為を犯していることになるからです(もちろん、宗教の側が自分たちの管轄領域を本当に道徳教育の問題に限定していれば、という条件がつきますが)。」(p.194)

宗教が絶大な力を握っていた当時、宗教は単なる道徳心の教化のためにあるのではなく、宗教そのものが真理だったのだと思います。道徳や倫理であると同時に、科学でもあったのです。だから、聖書の解釈が重要視され、その解釈の違いに命をかけることもあったのです。
たとえば、キリスト教(聖書)が愛の教えなら、なぜゲイというだけでなぶり殺しにするようなことをするのでしょうか? それは聖書がゲイを否定しいる(ように解釈できる)から、それが真理なら、そういう存在は否定されてしかるべきと考えるからでしょう。真理を世に広めることこそが愛であり、そのためにゲイの人の命を奪うことは大したことではないと考えているのです。けれど、それは本当に愛でしょうか?


これまで見てきたような社会で迫害を逃れようと思ったら、最終的には二つの道しか残されていません。何も考えずに本能的な行動パターンだけで生きていくか、スピノザの言い回しを使うなら「野獣」か「自動人形」になることです。しかしもうお分かりでしょうが、じつはどちらの道も人間には閉ざされています。本能的な行動パターンを進化の途上でほぼなくしてしまったヒトという生物が、今さら本能だけで生きていく野獣になろうとしてもなれるものではありません(そもそも野獣に「なろう」と思う時点で既にどうしようもなく野獣っぽくありません)し、またどうしたら便利な「自動人間」として権力の持ち主たちに気に入ってもらえるかごちゃごちゃ考えてしまう時点で、それはもう何も考えないで動く自動人形ではないからです。
 社会の支配機構としての国家は「むしろ反対に、ひとびとの心と体がそのさまざまな機能を確実に発揮して、彼らが自由な理性を行使できるようになるために、そして憎しみや怒りや騙し合いのために争ったり、敵意をつのらせ合ったりしないためにある」とスピノザは主張し、そしてここから「だとすると、国というものは、実は自由のためにあるのである」という有名な結論を導き出します(第二〇章六節)。
」(p.218-219)

人は本質的に自由であり、それを「哲学する自由」として、考えるだけでなく表現する自由がある。そうであれば、国家というものは、その自由のために存在するものだとスピノザは結論づけています。
現実には、左右の統制主義(左の共産主義、右の専制主義)に代表されるように、人は不安や恐れから国家による統制を求めることがあります。けれども、実際に統制されてみると、人間の本性を抑圧されるために、その統制に抵抗したくなる。人である限り、それが自然なことなのです。


スピノザのこの考え方を徹底させていくと、世界を構成しているさまざまな個別的存在者は、生物も無生物もあなたもわたしもそのすべてが、神である実体の様相として存在していることになります。つまり「個々のものは、神のさまざまな属性の変容した姿、つまり様態にほかならない」(第一部定理二五系)のです」(p.260)

哲学で言う「実体」とは、付加される規定とは関係なく存在するもののことです。たとえば猫は色に関係なく、動作や状態に関係なく、「猫」という実体です。「様態」というのは、猫の色や動作や状態のことを指します。しかしスピノザは、「自分自身の内にあって、自分自身を通して考えられるもの」を実体だと定義しています。この定義によれば、存在や認識に自分の外側の何かを必要としないことになり、「自分が自分の原因であるもの」のみが実体になります。つまり、「神以外にどのような実体もありえないし、考えられない」となるのです。

お勧めしている「神との対話」では、「存在するものは神だけだ」と明言しています。神とは「存在のすべて」だからです。「神との対話」では、これまで明らかにされてこなかったことは何一つないと言っていますが、たしかにこの考え方は、スピノザがすでに示していたことだったのですね。


つまり人間は、外からどんなに強制されても、それを何らかの形で納得できないと従えない、そういう精神のつくりになっているのです。しかしそもそも、人間が何かに納得するには、まずその何かについて自分で考えてみることが欠かせません。したがって、たとえば「考えずに、従え」とか「余計なことは考えるな」といった命令、つまり自分で考えること自体を否定するような命令は、人間にその存在論的特性から見て絶対に無理なことを命じていることになるのです。」(p.295-296)

こう見てくると「国というものは、じつは自由のためにある」と断言し、自由を踏みにじる国家は自らの存在理由・存立基盤を掘り崩して必ず滅びると唱えた『神学・政治論』のスピノザと、考えながら生き、生きながら考えることに一人一人の人間の「現に働いている本質」を見出した『エチカ』のスピノザは、同じ一人の人間であることがよく分かります。」(p.296)

「人間」というのは、自分の在り方を自ら考える存在である以上、それこそが人間の在り方であり、その本質を否定することは無理なのです。したがって国家がいかに無理を押し付けようとも、いずれ崩壊せざるを得ないわけですね。


この増減に伴う感情が「喜び」と「悲しみ」です。要するに、うまくいっている時の自分の力の増大感・充実感が喜びであり、うまくいっていない時の喪失感・不足感が悲しみです。「喜び」と「悲しみ」に「欲望」を加えたこの三つを、というかこの三つだけを、スピノザは「基本感情」と呼びます。つまりこれ以外の感情は、必ずこの三つのどれかを基本に変奏されたものか、この三つが複雑に絡まりあってできたものに他ならないというのです。」(p.299)

お勧めしている「神との対話」では、「愛」と「不安」が基本的な感情であり、さらに言えば「愛」だけが基本的な感情であり、他の感情はそこから派生したものだと言っています。スピノザとは分類が異なりますが、こういう基本感情と派生感情があるという考え方は、なかなかおもしろいものですね。

人間の生を支えている大本の原理を、スピノザは「自らの存在に固執しようとする力」つまりコナートゥスに見出しました。自らの存在を支えてくれる(と、その人が思っている)具体的な何かに向かうことで、人間のコナートゥスは欲望となります。欲望が首尾よく遂げられていればひとは喜び、遂げられていなければ悲しみます。欲望を遂げさせてくれる=喜ばせてくれる何か(だれか)をひとは愛し、遂げさせてくれない=悲しませる何か(だれか)をひとは憎みます。
 こうした愛と憎しみと欲望は、連想と模倣のメカニズムに即して複雑に絡まりあい、やがて人間精神の中にぼんやりとしたネットワークを形成していくことになります。
」(p.309)

ひとはこうして、本来、自分自身が生み出したものであるはずの感情に訳も分からず流され、感情のままに行動する自動人形となるのです。
 これが最初に紹介した「とらわれた状態」あるいは「受け身の状態」です。スピノザは『エチカ』後半部で、どうすればこうした状態から可能な限り脱却し、人間として可能な限り自由に生きていくことができるかという、自由になるための道のりを提示しようとします。
」(p.310)

したがってスピノザは、一人一人の人間が、ひいては人類全体が「啓蒙」によって野蛮な状態から徐々に抜け出して文明化を遂げていくといった、直線的な進歩史観に立つことも原理的にできないのです。」(p.311)

スピノザは、理性を信用していなかったようですね。だから啓蒙思想には与しなかったのでしょう。

ひとはどうすれば、前回見た「とらわれた状態」「受け身の状態」を抜け出せるのでしょうか。あらゆる感情の原型は、わたしたちがコナートゥスと呼んできた「自らの存在に固執しようとする力」なのですから、人間が生きることは感情をもつことに直結します。したがって、理性を無理矢理にでも奮い立たせて感情を抑制したり打ち消したり、というやり方は当てになりません。それは生きることそのものの否定につながりかねないという意味で、そもそも選びようがない選択肢なのです。
 では、どうするか。感情がストレートに抑制したり打ち消したりできないものであるならば、残る手立ては一つしかありません。自分をその都度動かしている感情、自分がその都度直面している感情を、一つ一つきちんと認識していくことです。
」(p.314)

お勧めしている「神との対話」でも、感情を否定せずに受け入れることを勧めています。自然な感情を抑圧することで、感情はねじ曲がった醜いものになる。そのやり方では、本来の自由を取り戻せません。

つまりひとは、Aに対する憎しみをひとまず棚上げして、自分の中にできてしまっているこのAという人物の観念を取り上げ、分析することができるのです。そしてこの分析の結果Aの観念に変化が生じれば、つまりその人がもっているAに対する考えが変われば、Aに対する憎しみにも必ず何らかの変化が生じます。ひとはこうして、感情と結びついている観念の方をまず整理することで、感情をいわば搦め手から整理することができます。そしてそこに、憎しみに対して受け身になって流されている現状から、解放される可能性も隠されているのです。」(p.317)

こうして人間精神のうちに後天的に形成される十全な観念の一大ネットワークこそ、スピノザが理性 ratio と呼ぶものであり、生き方がこのネットワークに準拠して営まれることこそ、『エチカ』後半部で何度か登場する表現を借りるなら「理性のさまざまなすすめ dictamina rationis」にしたがって生きるということです。つまりスピノザのいう理性は、最初から人間精神のうちで働いている確固とした能力ではなく、面倒で地道な作業を積み重ねた果てに精神のうちにようやくぼんやりと出来上がっていく、問題を能動的に処理するための回路なのです。」(p.323-324)

要は、見方を変えるということではないかと思います。起こった事実は変わりません。それによって、すでに感情は沸き起こっています。しかし、そこで見方を変えれば、感情を変えることが可能なのです。
たとえば、Aにひどいことを言われて傷ついたとしましょう。悲しさや憎しみといった感情が湧き上がります。しかし、Aの生い立ちを考えてみると、Aは虚勢を張っていて、他人を責めることでしか自分を守れないと思っているのではないか、という見方をしてみると、Aを憐れむ気持ちさえ湧いてきます。そこに憎しみはありませんよね。

ただ、こういう見方の変更は難しいことだとスピノザは語っているようです。たしかに、私たちは一度自分が受け入れた観念を、そう簡単には変更できないのです。


スピノザの名前はよく知っていても、実際にどういうことを言った人なのか、ほとんど知りませんでした。今回、ひょんなことでスピノザの思想に触れ、この本を読んでみようと思いました。実際に読んでみると、実に深い思想なのだなぁと思いました。完全に理解したとは言えませんが、少しでもこういう思想に触れることができて、私にとって役立つものになったと思います。

気になった方は、ぜひ読んでみてくださいね。意外にも読みやすくわかりやすい本でした。

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タグ:吉田量彦
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:35 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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