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健康の分かれ道 死ねない時代に老いる (角川新書) [ 久坂部 羊 ] - 楽天ブックス
Youtube動画で著者の久坂部羊(くさかべ・よう)さんの本の紹介を観て、なかなかいいことを言われているなと思い、その本ではなかったのですが、久坂部さんの本を買ってみました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介したいと思います。
「老いればますます健康が必要になるのに、老いればますます健康の維持がむずかしくなる。老いて健康を追い求めるのは、どんどん足が速くなる動物を追いかけるようなものです。無理に追いかけると、じっとしている人より早くへばってしまいます。
漫然と健康を求めるのではなく、具体的かつ分析的に考えながら、健康と上手に付き合っていく方法を、みなさんといっしょに考えたいと思います。」(p.13)
「はじめに」で、このように本書の意義を説いておられます。
「健康であるにもかかわらず、自分の健康データ、健康環境などが気になる人は、健康の「入口」に吸い込まれた人です。自分が何らかの病気を経験したために、健康に留意するようになるのはまっとうですが、流言飛語に惑わされて健康の「入口」をくぐってしまうと、そこから長期にわたって健康という「迷路」をさまようことになります。」(p.17)
「早期発見・早期治療を ”錦の御旗” のように掲げて、安心安全を保証するのは、念仏を唱えれば極楽往生できるというのに近い幻想性があります。」(p.19)
久坂部氏はこのように言って、頭でっかちの健康意識を否定しています。早期発見早期治療で健康が得られるわけではないのです。
「医学が進歩すれば、安心が増大するはずなのに、逆に不安ばかりが増えています。がんの心配、認知症の心配、うつ病の心配、寝たきりの心配、手遅れの心配。
それに対して、医療の側はより安全に、より安心にとお為ごかしを装いながら、人々の不安を煽り、検査や治療を勧めています。無用な心配を作り出して、安心を提供するのは、マッチポンプもいいところです。」p.35)
「医療というのはパラドキシカルな業界で、病気を治すことを目的としながら、病気が治ると収益が減るというアンビバレントな状況にあります。だから、医療が発展して患者が少なくなると、困るという痛しかゆしの側面があります。」(p.64)
医療は、一方で人々を救って存在意義を増しながら、もう一方では不健康な人を増やすことで儲けている立場でもあるのですね。だから予防医療に対しても、本当に病人を減らすことが目的なのか、病人が減っても儲けるためなのか、よく考えてみる必要があると思います。
「すなわち、対象者の半分以上がメタボ健診を受けない場合や、保健指導の対象者の一〇パーセント以上が指導を受けないと、その自治体や企業の健康保険組合への後期高齢者支援金を、最大で一〇パーセントカットするというのです。だから、該当者(四〇歳から七四歳)は、メタボ健診を受けるよう指導されますし、メタボ該当者や予備軍は特定保健指導を受けるよう無言の圧力がかかります。」(p.78)
「だから、メタボ健診で重症化を予防すれば、将来の医療費の削減につながるというのが、厚労省の論理です。
しかし、その将来の削減額がいくらになるのかは、だれにもわかりません。かたや特定健診は自己負担はゼロですが、決してタダではなく、保険者や事業主が負担しています。この額より将来の削減額が大きい場合のみ、効果ありということになります。
医療費削減の効果をねらってはじめたけれど、削減になるかどうかはわからず、わかっているのは健診業界に先払いで経費が支払われているということです。」(p.82-83)
予防医療というのもまやかしで、そこに健康効果がどれだけあるのか精査されていません。そういう精査をせずに、健診などを増やすことによって、未病の人からも医療費を取ろうとしている。そういうことが言えるのではないかと思いますね。
「一〇〇歳とか九〇歳とか答える人は、老いの現実を知らないか、あまり深く考えていない人だと思います。漠然とその年齢になっても元気なままでいられると思っているからそう答えるのです。私のように長生きの不如意と悲惨さを知っている者は、せいぜい七〇歳くらいでいいとか、六〇歳で十分と答えるでしょう。長生きをしすぎると、自分もつらいし、家族や周囲にも負担をかけることがわかっているからです。」(p.167)
「しかし、ピンピンと元気に老いるためには、若いうちから身体を鍛えたり、食べ物に注意したりして、健康増進に努めなければなりません。そんなふうに頑張った人はコロリとは死ねません。コロリと死ぬのは不摂生をした人です。」(p.174)
長生きしたい、自分は100歳まで生きたいと思う人が大勢いますが、久坂部さんは、それは老いの現実がわかっていないからだと言います。ピンピンコロリが理想だと言われますが、コロリと死ぬには不健康でなければならないのだと、逆説的な現実があるのですね。
「そもそも誤嚥性肺炎を繰り返すようになるのは、嚥下機能が低下するほど高齢になっているということで、人生の終わりに近づいているのはまちがいありません。いったん治療で回復しても、また繰り返します。そんな状況で延命にすがるより、そこに至るまでに十分満足できる人生を送っておくべきです。いつかは最期が来るのだから、早くからそのことを意識し、いつ ”その日” が来てもいいように心がけておけば、下手な道(治療にすがって尊厳のない延命治療になる)を選んで、あとで悔やむこともないと思います。」(p.181)
「どうせ死ぬのだから、最後は好きなことをやって死にたいと思っている人は、よほど事前に心の準備をしておかないと、最後に生への執着が出て、好きなことどころではなくなるでしょう。
いつまでも健康に執着して、生にしがみついているとロクなことはありません。死が迫ってきたとき、慌てずうろたえず、上手に最後の時をすごすためには、やはり早めに死に対して冷静でいられる心の準備が必要だと思います。」(p.184)
誰しも必ず死にます。そうであれば、いつまでも生や健康であることに執着して今をおろそかにすることこそ、人生の貴重な瞬間、つまり今を、無駄にすることになる。私もそう思います。
「認知症を予防しようと、脳トレやクイズ、さまざまな運動などをさせるのもよくありません。効果が不確かな上、楽しくないし、させられる感も強いので、ストレスを高めるだけです。」(p.185-186)
「高齢になれば、認知症でなくてもおかしなことをすることもあるし、そもそも病院に連れていったところで、どんな治療があるというのでしょう。先に書いた通り、新しく承認された薬でさえ、高額な割に二七パーセント進行を遅らせる(進行を止めるではありません)という薄味のもので、それも何年か後にはやっぱり効いてませんと承認を取り消される可能性も否定できないのです。」(p.186)
老後の重要な問題はガンより認知症だと私は思っていますが、その認知症でさえ、治す手立てがない現状においては、心配しすぎる方が弊害があると言えるのですね。
「長年、高齢者医療に携わっていると、ふつうに歩けること、話せること、飲み込めること、排泄できること、入浴できること、立ち上がれること、ぐっすり眠れることなどのありがたみが身にしみます。最近は老眼が進み、耳も聞こえにくくなってきましたが、それでも新聞や文庫本が読め、音楽や落語が聴けることにいつも感謝しています。そして、これがいつまでも続かないことも覚悟しています。すると、今の状態がこの上もなくありがたいと思えてきます。
「感謝」と「足るを知る心」は、欲望と執着の対極にあるものです。それが苦を取り除く近道だということは、すでに二六〇〇年ほど前にお釈迦さんや老子が唱えていることです。」(p.191)
老化して始めて、当たり前のことが当たり前ではなく、実は有り難いこと、つまり奇跡だったと気づけるのですね。そこに気づくから、心から感謝できるようになるのです。
「さらに驚くべきことに、死が近づいてくると、身体の動きだけでなく、精神の働きも弱って、死に対する恐怖が鈍ってくるのだそうです。死に対する恐怖や忌避感は、元気だからこそ感じるもので、死を受け入れ、時の流れに身を任せていると、恐怖心も自然と薄れてくるというのです。これは朗報ではないでしょうか。死ぬのが怖くて仕方ない人も、実際に死が近づいてくると、さほど怖くなくなるというのですから。」(p.196)
「人はだれでも必ず死にます。であれば、恐れたり、嘆いたり、あがいたりするより、平安な心持ちで迎えるほうがいいに決まっています。それができるかどうかは、そのときまでにどう生きたかによるでしょう。”その日” がいつ来てもいいように、日々を送ることがポイントです(おまえはそれができているのかと問われたら、肩をすくめるしかありませんが)。」(p.196)
死が近づいて、体が徐々に弱ってくると、精神も自然と死を受け入れる体制になってくるのかもしれませんね。
「もし、自分ががんで死ぬのなら、診断はできるだけ遅いほうがいいです。知らない期間が長いほうがゆったり暮らせますから。そう考えると、がんの早期発見にやっきになる人の気持ちがわからなくなります。若いうちならまだしも、私のように七〇歳近くなったら、がんはできるだけ見つけないようにするというのも一法です。
もしがんが見つかったらどうするか。丸山氏のように治療をしない選択を取れるかどうかはわかりません。しかし、『大往生したけりゃ医療とかかわるな』(幻冬舎新書)の著者、中村仁一(なかむらじんいち)氏に、「死ぬならがん、ただし治療せずに」の言葉もあります。」(p.198)
私も中村氏のこの本を2012年に読みましたが、63歳となった今、ガンなら治療せずに受け入れようと思っています。
「そもそも食べ物も飲み物もふんだんにあるのに、食べたいと思わないのは、身体が必要としていない、あるいは摂取しても利用できない状態にあるからです。それを、食べなければ死ぬという思いで、懸命に食べさせようとする家族がいますが、それは本人に負担をかけているだけです。
欧米では食欲のない高齢者に無理に食事をさせることは、虐待とされています。
胃ろうとCVポートも同様です。患者さん自身がこれをしてくれと求めることはまずなく、たいていは家族が頼んできます。なぜ頼むかといえば、医者から「このまま栄養補給がされなければ、命の保証はありません」などと言われるからです。」(p.200)
老人介護の仕事をやってみて、無理にでも食べさせるという状況を経験してきました。食べたくないと言っているのに、無理に食べさせようとするんですね。それは、死ぬことは悪いこと、あるいはマズいことと思っているからではないかと思います。
「この人工肛門に加え、尿道カテーテル(別名バルーンカテーテル=先端に風船のついた管で、膀胱(ぼうこう)に挿入したあと、風船を膨らませて抜けないようにしたもの)を使えば、おしめは完全に不要となります。尿道カテーテルは定期的に交換する必要がありますが、排泄介護を大幅に軽減するのはまちがいありません。
私は高齢者介護に人工肛門と尿道カテーテルの使用が進めば、介護状況は一変すると思っていますが、不自然にはちがいないので、心理的に受け入れられない人が多いのも致し方ありません。それに介護のために人工肛門をつけるのは、医療保険の適応にもならないので、経費の問題もあります。
それでもこれが認められれば、介護者の心理的肉体的負担が軽減され、その分、優しい介護ができるようになると私は思います。」(p.203-204)
私も老人介護職で排泄介助をしてきたので、この提案には納得できる部分もあります。
「人は何のために生きているのか。幸福になるため、自己実現を求め、夢を追い、目標を成し遂げる。大きな仕事、社会への寄与、偉大な研究や芸術活動、経済的な成功、立身出世……。そんな立派な目的でなくても、家族を大事にするとか、納得の行く仕事をするとか、あるいはひとりで自由気ままに暮らすのでもいいでしょう。健康はそのための手段であって、目的ではないはずです。
であれば、高齢になって残り時間が減ってきたなら、いつまでも健康にとらわれているより、人生の納得や満足に気持ちを向けるほうが賢明でしょう。”その日” が迫ってきたとき、慌てたり悔やんだりしなくてもいいように、持ち時間を有意義に使うべきです。」(p.208)
健康にとらわれて、やりたいこともやらない人生は、何の意味があるのでしょうね? 健康は目的ではなく手段だという考え方は、大いに参考になります。
「私は子どものころ、死ぬのが恐ろしくて仕方ありませんでした。死んだらどうなるのか、もう二度と家族にも友だちにも会えなくなり、楽しいことも、嬉しいこともできなくなる。自分という存在が消えて、これまでの記憶も、存在の証も、残したかったものも、伝えたかったことも、何もかも消えてしまう。それは想像を絶する恐怖でした。
しかし、今は日常的に死の恐怖を感じることはありません。それは医者という仕事柄、若いときから多くの死を見てきたからだと思います。」(p.211)
私も同じだなぁと思いました。10歳くらいの頃に、死んだらどうなるのか考えて眠れず、枕を濡らしたこともありました。けれども今は、死の恐怖はありません。それはやはり、いくつかの他人の死を経験し、いろいろ考えてきたからだと思っています。
「多くの人は死に慣れていないので、何とかしたいという衝動に駆られます。黙っては見ておれないのです。しかし、多くの死を看取って思うのは、死ぬときには何もせずに見守るのが一番望ましいということです。
私は病院勤務と在宅医療の両方で患者さんを看取りましたが、圧倒的に在宅のほうが安らかで好ましい状況でした。」(p.218)
日常的に死に接することが減った現代、死に対して慣れてないから恐れ、恐れるから死を受け入れたくないと感じてしまうのでしょう。けれど、人は必ず死にます。そうであれば、死を受け入れている方が安らかに死ねるのだと思います。
「病院に行くべきか否かの判定は、一般の人にはむずかしいと感じるかもしれませんが、要は少しようすを見て、これはヤバイと思ったら病院に行くというのでいいでしょう。しかし、それはそれで悲惨な延命治療につながる危険性と引き換えです。どうしても悲惨な延命治療だけは避けたいというのなら、死の危険を冒してでも病院に行かない選択をしなければなりません。助かる可能性があるなら助けてほしい、でも、悲惨な延命治療にだけはしてほしくないというような都合のいい選択肢はありません。」(p.224)
私はすでに、命にかかわる状況なら病院のお世話にはならないと決めています。骨折とか、激しい痛みとかなら、その状況を改善するために医療にかかるつもりではいますけどね。
「もう十分生きた、楽しい人生だった、最後に愉快な時間をすごしたと思えたら、死を受け入れるのもさほどむずかしくはなくなるはずです。ましてや、日々、老いの不如意が増え、苦痛が深まっていくのです。この先改善する見込みもなく、さらに老いさらばえていくばかりと知れば、死はある種の解放、永遠の安らぎとさえ感じられるのではないでしょうか。
そんなふうに感じるためには、やはり自分の人生を十分に生ききることが大切です。」(p.229)
何かを成し遂げるとか、達成するとか、何かを得るとかの行為の結果ではなく、今、何をするのかという行為そのものを楽しみ、結果をお任せすること。赤ちゃんのように、ただ今を楽しんで生きること。そうすれば、いつ死がやってこようと、「あぁ、来なさったか」と受け入れられるように思います。
「健康のためによけいなことはせず、人の悪口を言わず、自慢もせず、細かいことにはこだわらず、人と比べず、足るを知り、失敗しても笑ってすませ、無駄があってもよしとし、人に何かを言われても気にせず、死が迫っても、ただ静かに笑っている。
そういう人に私はなりたいです。」(p.230)
久坂部氏は、宮沢賢治氏の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」をもじって、このように言われます。私も、こういう人生を送りたいですね。
この本を読んで思ったのは、どんなに健康に気をつけても、絶対に健康になれるわけでもないし、どんなに頑張っても老化に抗うことはできないということです。そうであれば、いずれ死ぬということを受け入れ、今、どうするかを考えて生きるだけでいいのではないかと思います。
健康というのは、生きたいように生きるための手段であり、目的ではありません。重要なのは健康であることより、生きたいように生きるということです。
健康という結果を求めても、そうならないことはあります。だから健康という結果にとらわれることなく、また人生の結果にもとらわれず、ただそうしたいからそうする、そう生きたいからそう生きる、という生き方を、私も追求したいと思いました。
