2025年01月01日
今日、誰のために生きる?2
今日、誰のために生きる?2 [ ひすいこたろう ] - 楽天ブックス
SHOGENさんの2冊目の本が出版されると聞いて、すぐに予約した本が届いたので読みました。2024年12月26日の出版ですが、すぐに届いて、この年末年始で読み終えましたよ。
著者はSHOGENさんの他、1冊目の本でも一緒に書かれたひすいこたろうさん、そして今回は、はせくらみゆきさんと藤堂ヒロミ(とうどう・ひろみ)さんも加わっています。
はせくらさんと藤堂さんは、ブンジュ村の村長がSHOGENさんを助けてくれる2人の女性として予言されてた方のようです。導きによって2人と出会われたことで、SHOGENさんが伝えたかったこと、ブンジュ村の村長が遺言として1人でも多くの日本人に伝えてくれと言われたことが、さらに強力に広まっていくように思います。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「ショーゲンは、いつも無駄を省いて、効率よく生きようとしているけれど、
無駄とか、しょうもないことの中に、
幸せっていうのがあるのに、もったいないなあ……。
効率よく考えるのであれば、生まれてすぐ死ねばいい。
人はいかに無駄な時間を楽しむのかっていうテーマで生きてるんだよ。
お前の心のゆとりはどこにあるんだ?
ショーゲンの幸せはいったいどこにいったんだ?」(p.16)
SHOGENさんがブンジュ村で暮らしていた時、3歳のザイちゃんが流れ星をつかまえに行きたいと言うと、お父さんは一緒に探しに行ったのだそうです。それを見たSHOGENさんが無駄なことだと言うと、お父さんはつかまえに行ったこともない人から言われたくないと言って、このように話したのでした。
人は何のために生きるのか? ただ効率を求めるのであれば、どうせ死ぬのだからさっさと死んだらいいとも言えるわけですね。
日本の古い歌に「遊びをせんとや生まれけむ 戯れせんとや生まれけん」(梁塵秘抄」)というのがあります。大河ドラマ「平清盛」の挿入歌としても使われていました。人生とは遊びであり、経験を楽しむもの。だから効率よりも道草を楽しんだらいいと私も思うのです。
「畑から野菜を収穫する人は、その野菜がどんな思いで育てられたのか、まず野菜を育てている人からわざわざ聞きます。料理する人は野菜を収穫した人から、この野菜を育てた人がどんな思いで育てたか、そして、どういう思いで収穫してきたのかを聞くのです。だから、食事にありつけるのに、すごく時間がかかるんです(笑)。
村長は、「”物語” を食べるということがすごく大事なことなんだよ。それは昔、日本でもやっていたことなんだよ」といっていました。」(p.19-20)
一つひとつの行動が単なる作業ではなく、その前の物語を聞いて味わうことなんですね。そして自分自身もまた物語を作っている。時間がかかる、非効率、たしかにそうかもしれないけど、それは映画を観るのに時間がかかるのと同じなんですね。
「僕らも真似てみませんか?
子どもにこういってあげませんか?
「今日学校に行ったら、まず誰に声をかける? なんて声をかける?」
その問いかけが、人に対しての思いやりを育てます。挨拶って、本来、そういうものだったようです。」(p.32)
ブンジュ村では、その日に出会う人にどんな言葉をかけてあげようかと事前に考えて、その言葉をかけてあげていたそうです。それがブンジュ村の挨拶であり、形式張ったものとか、とりあえず声を交わすというものではなかったようです。
「「ショーゲンが感じたこと、学んだことを、1人でも多くの日本人に伝えてほしい」
僕は村長から、そういわれました。
村長は日本人がもっと心に余裕を持ち、豊かな五感を使って自然を愛し、自分を愛することができたなら、世界が変わると信じていたからです。
「世界の中でいちばん、空を見上げる余裕を持っていたのが日本人なんだ。
取り戻してくれ、今すぐに」
そういわれました。」(p.37)
村長からこのように言われて、SHOGENさんは多くの日本人に伝えようと、誰かと出会えばすぐにブンジュ村のことを話すようになったのです。
そして村長から、自然破壊をしてしまうような人間が生かされている理由、この大自然の中での人間の存在理由を、次のように聞かされたそうです。
「それはね、どれだけお花がかわいくても、夕焼けが美しくても、
満月がきれいでも、『かわいいね』『美しいね』『きれいだね』と
いってあげる存在がいないと、そのものたちが浮かばれないでしょ?
本来、人は自然破壊とか環境汚染するためではなく、
生きとし生けるすべてのいのちに対して、祝福の言葉をかけ続けるために
生まれてきたんだよ。
そして、それをいつも心においてできていたのは、
日本列島に住んでいた、あなたたちだったんだよ。
当時の日本列島に住んでいた人たちは、
生きとし生けるすべてのいのちに対して、祝福の言葉をかけ続けていた。
日本のみなさんが虫の音をメロディとして聞こえるのは、
ご先祖さまたちが、生きとし生けるものすべてに祝福の言葉を
かけ続けていたからなんだよ」(p.38-39)
すべての生命、すべての自然に祝福の言葉をかける。見て、触って、聞いて、味わって、「素晴らしい」「素敵だ」「かわいい」「美しい」「最高だね」「美味しい」などと祝福する。それが人間の存在意義であり、その祝福こそが祈りなのですね。
「実際、僕は変わりました。
いちばん変わったことは、心に余裕を持てるようになったことです。
村長が日本のみなさんへのラブレターだといっていた本は『今日、誰のために生きる?』というタイトルですが、この答えは「自分のために生きる」です。
いつだって「自分のために生きること」です。」(p.44-45)
村長から言われて、ブンジュ村のことを日本人に伝えてきたSHOGENさんは、そのことで自分が変わったと言います。伝えるということは他人のためではなく、自分のためになっているんですね。
そのことがわかってくると、伝えようとして聞いてくれないことがあっても、落ち込んだり恨んだりせずにその行動を続けられるし、逆にその行動を続けていれば、そのことがわかるようになるのだと思います。
「漠然とした不安が消え、心配が消え、深い深い安心感に包まれる。
その安心感をあなたにプレゼントするのが、この本の目的です。
安心感の中で生きられたら、心から満たされます。
本当の意味で自分を生きられるようになります。
すると人生は勝手にうまくいくようになります。
そして、それが平和(大調和)のはじまりとなります。」(p.48)
このようにひすいさんは本書の目指すところを語ります。
私も、何があろうと「大丈夫だ、何とかなる」という絶対的な安心感を持つことが重要だと考えています。それがあれば、不安や恐れから自分らしくない生き方を選択する必要がなくなるからです。
「あと、日本でいうお手当。それはもう、めちゃくちゃやっていました。撫(な)でてあげたり、さすってあげたり。自然のエネルギーを取り込んでいる人ほど健康なので、そういう人にお手当をしてもらうと、どこか悪い人がいても身体本来の力を取り戻せるといっていました。ちなみに親指よりも小指のほうが自然意識に近いから、自然のエネルギーを送るときには、小指から触ってあげるといっていました。」(p.63)
ブンジュ村ではレイキのようなことを意図的にやっていたようですね。
「丁寧にゆっくりするということは、気にかけるということです。私たちも気にかけてもらうと嬉しいですよね。それと同じで、気にかけるとは、愛なのです。それは、いのちを愛でていくということ。究極、いのちそのものが自然だから、自然を愛でていくところに繋がっていくのだろうと思うんですよね。」(p.64)
ヒロミさんが言われるように、レイキは時間がかかります。チャッチャッとやって終わりじゃなく、傍に寄り添って時間をかけてゆっくりと気にかけてあげます。それが愛すること。人に対しての所作もそうですが、モノに対する所作でもゆっくりと丁寧に心を込めてやる。日本の茶道とか舞踊とかの文化に、そういう点が見て取れますね。
「言葉を通して祝う、祝福するという意味ですね。漢字では、「寿ぎ」とも書くようですが。一種の予祝(前祝い)のことでもあります。村長さんのお話とかぶると思いますけれども、私たちは祝い合うために、喜び合うために、言葉という道具を与えられたと考えています。」(p.122-123)
「言祝(ことほ)ぎ」という言葉について、はせくらさんが説明した部分です。
ひすいさんは「前祝いの法則」という本で、日本の文化は予祝だったと言われていました。私たちが言葉を操れるのは、互いに祝い合うため、愛で合うため。そういう言葉を使っていきたいですね。
「あと、当時のショーゲンはいつも効率を求めていたというけど、今は世界全体に、効率という名のモンスターがのさばっていますよね。無駄をはぶき効率を求める生き方は、「今」を未来の手段にする生き方になりがちで、意識は今ここを離れて未来(結果)に偏りすぎてしまう。その意識状態では、日本語本来の言霊の威力は発揮できなくなってしまうのかもしれないですね。」(p.125)
効率を求めるのは、今ではなく未来に生きることになってしまうと、ひすいさんは指摘します。
「今すごく理解できたことがあります。それは、村長がずっと僕に気をつけてほしいっていっていたことがあったんです。それは、日本語を話す人たち、今を生きている人たちは、発言したことが形になりやすいということ。だから「発言に気をつけて」といっていたんです。」(p.126)
今に生きることによって、言葉は創造の力を発揮しやすくなる、ということでしょうか。はせくらさんの説明を受けたSHOGENさんは、村長さんの言葉を思い出して、このように語っています。
「あと、縄文の人たちは、「自分の好きなこと」を語る時間が、とっても多かったって村長はいっていました。」(p.127)
「でもたしかに、自分の好きなことを語っているとき、エネルギーも上がって、心の状態もよくなりますよね。どちらにしろ、縄文の人は心にゆとりがあったんですね。ゆとりが生み出すのは遊び心。縄文を代表する火焔(かえん)型土器は、完全に遊び心の表れですよね。無駄を楽しんでないと絶対にあの形にはならない。効率の真逆にアートがある。」(p.127-128)
自分が好きなこととは、情熱を傾けている対象です。人それぞれに、情熱の対象が異なるもの。それが個性。だから、それぞれがそれぞれに情熱を傾けて、それを語り、表現することが重要なのだと思います。それが愛の表現であり、祝うことであり、遊ぶことになると思います。
「人間はいつもどこかで争いをしていて戦争がなくなることはありません。しかし、気づいたら、小指と親指が争っていたなんてことはありません。
身体のどこかが不調なときは、その部分がほかの部分を助けているからです。症状が現れているところは、必ずどこかを助けている結果なんです。
身体はいつだって助け合っているんです。現代人がまだ到達していない「争わずに助け合う世界」をすでに実現しているのが、あなたの身体です。
「身体」こそ100年先をいく、僕らの先生であり、「ご神体」なんです。
そして、身体こそ縄文宇宙。身体こそ100年先を行くタイムマシーンだったのです。
身体と深く繋がることこそ「宇宙WiFi」に繋がることであり、「縄文センス」を開花させ、人間の可能性の扉を開くことになるのです。
そのとき、あなたのハートに満たされるものが安心感です。そこは大調和の世界です。」(p.172-173)
たしかに身体は、各部位が争うことはありません。調和があり、助け合いがあるのです。左足を傷めれば、右足は自然と左足をかばうようになって、右足にも痛みが出たりする。文句も言わずに傷ついても左足をかばおうとする。それが身体ですね。
もし人類がその域に到達すれば、戦争など起こりようがありません。そしてそれが本来の人間の姿であれば、そこには必然的に安心感があるはず。安心感がなければ到達できないでしょう。
では、誰からそれを始めるのか? 他の誰かが先に始めるのか? ・・・考えてみればわかるように、自分から始めるしかないんですよ。
「誰の人生だって、嫌なことがあったときの帰り道は、葉っぱが揺れて「大丈夫だよ」と伝えてくれているんです。
僕らは気づいていないだけなんです。繋がっていないと思っているから、見えていないだけです。」(p.175)
身体が自然と調和が取れて助け合っているのだとすれば、自然も同じであり、自然の一部である私たちも同じはずなんですよね。みんなつながっていて、調和が取れている。だから私が困っていれば、傷ついていれば、必ず誰かが、何かが、助けようとしていてくれている。寄り添ってくれている。ただそれに気づいていなかっただけ。
では、どうすればいいのか? そう、ただ気づけばいいんですよ。そこに気づけば一体感が得られ、安心感の中で自分らしく、大自然の中の自分として生きられるようになるのです。
「ヒストリーやルーツは、いいことだけとは限りません。みんな、お金を出して映画を観に行きますが、その主人公には、いいことばかり起きるわけではないですよね?なのに、なんでお金を出してわざわざ映画を観に行き、主人公に自分を重ね合わせて観るんですか?
いいことも悪いことも織り交ぜて、体験したいテーマがあるからです。いい・悪いを超えて、見たい世界があるんです。それが「物語」というものです。」(p.180)
順風満帆の物語なんて、ちっとも面白くありませんよね。波乱万丈だからこそ面白い。小説なら読みたくなるし、映画なら観たくなります。
私たちの人生も同じことではありませんかね? 人生は遊びであり、ドラマ(物語)なのです。
「ご飯をゆっくり食べる時間を削って、家族と過ごす時間も削り、慌ただしく生きている人がたくさんいますが、幸せになることより、いったい何を優先したいのでしょうか?
とはいえ、忙しい現代人は、毎食丁寧に食べることは難しいことでしょう。ですから1日1回でいいので、よく咀嚼して、ゆったり丁寧に味わうことを心がけてください。
ブンジュ村では無駄を楽しむ心のゆとりをとても大切にしていましたが、まさにこれは、心のゆとりなくしてできないことです。
ゆっくり食べる時間を作る。このゆとりの中に、幸せが生まれるんです。」(p.195-196)
「さらに箸置きがあります。箸置きは何のためにあるかというと、箸を置いてゆっくり味わうためにあるのです。」(p.196-197)
たしかに箸置きというのは、最初に食卓に箸を並べて置くためだけにあるとしたら、何だかおかしいですよね。なるほど、食べている間も、箸を置いておけばいいし、そのためにあったんですね。
ダイエットの方法として、よく噛んでゆっくり食べるというものがあります。その具体策として、食べ物を口に入れたら箸を置いて飲み込むまでは箸を持たない、という方法がありました。そもそも箸で食べ物をつまんで食べるという食べ方からして、少量を口に入れる食べ方になり、食事に時間をかけることになります。箸や箸置きを使う日本の食文化は、食事をゆっくりと味わいながら食べることに最適なものかもしれませんね。
「虫の音に耳を傾け、自然の美しさを愛で、日々の食事を丁寧に味わう。
本音に素直になり、愛を持って言葉を語り、自分を愛する。
心に余裕を持ち、生きとし生けるものに感謝し、すべてを「かわいいね」と愛する。
僕たちのご先祖さまがずっと続けてきたこの暮らしの記憶を、1日も早く思い出していきたい。」(p.217)
SHOGENさんのこの思いを、私も共有したいと思います。だからまずは1食でもいいから、ゆっくり味わって感謝しながら食事をしましょう。そして、外を歩いている時は空を見上げて、心のゆとりを取り戻しましょう。そう思うのでした。
「あるとき、村長の奥さんであるママダマスが、僕にこういってくれたことがありました。
「村長は、ショーゲンにいろいろと教えることで、自分で腹に落としてたところもあるのよ。ショーゲンに伝え続けることで、自分も理解を深めていたのよ」
そういわれたとき、ロボットのような自分でよかったんだと思えました。」(p.218)
教える者がもっともよく学ぶ。私もそう言っていて、私がこの幸せになる考え方を広めようとしているのも、私自身がより深く理解するためでもあるのです。
そして、教える対象がいるということは、教える側にとってもありがたいことなんだなぁと改めて思いました。教えさせていただけるからこそ、自分が学ばさせていただけるのです。そういう意味では、ダメな自分という存在でも、存在意義があるってことですね。
SHOGENさんと言えば、2025年7月5日のことが気になりますが、何が起こるかはどうでもいいことだなぁと私は思っています。それより、その日を境に、世界はより良い方向へと進んでいくんじゃないかというワクワク感があります。私たちは「ひとつのもの」であり、つながっている。だから、何があろうと大丈夫だ、何とかなる。そういう気持ちになれるのです。
本書を読んで、さらにその感を強くしました。今年もきっと良い年になるでしょう。
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