自由主義憲法 草案と義解/倉山満【1000円以上送料無料】 - bookfan 2号店 楽天市場店
NHK党の浜田聡(はまだ・さとし)議員が、憲法に関する本を出版されたと聞いて、買ってみた本になります。実際は、憲政史研究科の倉山満(くらやま・みつる)氏が書かれた本であり、その作成に浜田議員も関与されたということのようです。
浜田議員は、独自の憲法草案を持っておきたいと思われて、倉山氏に草案作りを依頼されたようです。その時の条件は、「自由主義の憲法であること」だったとか。浜田議員の日頃の情報発信を見ていると、自由主義を第一に掲げておられるように感じていました。なので、そういう意図での憲法草案であれば、読んでみる価値があると思って買ってみたのです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の紹介をしていきましょう。
「真の憲法論議とは何かは、本文をお読みいただくとして、出発点として拘った二つの要諦があります。
一つは、自由とは何かを政府が提示して国民に強制することのない、真に自由を保障する憲法であること。政府が「これが自由の定義です」と提示、それに国民を縛り付けて自由主義憲法を名乗るなど、滑稽です。自由とは何かを考える自由が、国民の一人ひとりに無ければ、どこにも自由は存在しません。
もう一つは、自由の最大の危機である国家の有事には、自由を守るべく国民が一丸となって協力する憲法であることです。もちろん、有事だからと政府が好き勝手をやっても良いわけではありません。いざと言う時だからこそ、国民が一時的な不自由を我慢して協力するのだから、なおさら政府が暴走してはならないのです。そんな政府を許せば、これも自由主義ではないでしょう。」(p.2-3)
つまり、自由主義憲法の「自由」の定義を、国民それぞれが定める(選択する)自由がなければならない、ということですね。
さらに、非常事態においても、一時的に政府が主導して自由の制限を行うとしても、それは必ず後に検証されなければならない。そこまで定めていなければ、自由主義憲法とは言えない、ということですね。
「本来、憲法典とは、憲法の中で確認する部分なのです。この「確認」が大事です。憲法の一部にすぎない日本国憲法の条文を、誤植も含めて一文字も変えられずにきたのが、日本国の改憲論議なのです。」(p.37)
「昔は、国家の最高法を形成する歴史、文化、伝統のことを「国体」と言いました。国家体制の略語で「国体」です。「国体」といった略語は右翼的だからイヤだと考える人は「国制」の言葉を使う人もいます。「国体」も「国制」も同じです。これが本来の「憲法」です。
それに対して、文字に書かれた大日本帝国憲法や日本国憲法を、つまりは憲法典を「憲法」とも呼ぶので、「憲法」をどちらの意味で使っているのか、ややこしいわけです。」(p.38)
憲法を論議する前置きとして、まずは「憲法」とは何かを定めておく必要があると倉山氏は言います。憲法典と憲法は別物であり、憲法を条文化したものが憲法典であり、より重要なのは憲法そのものだということですね。
「帝国憲法第十条に「天皇は文武官を任命す」とあるので、総理大臣の任命は天皇の大権です。ですから、議会の多数派を総理大臣にしなくても合憲です。しかし、民意を反映していない最高権力者の決定が憲法の精神の則っているのか。だから、天皇は総選挙によって示された民意により第一党党首を総理大臣に任命する慣例を積み重ねるのが立憲ではないか、との論理が示され、実現しました。大正末から昭和初期までの「憲政の常道」です。」(p.50)
「イギリスには、「憲法典の条文があって、それを守っておけば良い」とする考えはありません。あるのは、とにかく「責任を取るための政治をやりなさい」とする立憲主義です。それを支えるのが憲法習律という、憲法体系に組み込まれた慣例です。」(p.51‐52)
憲法を守るという時、重視すべきは憲法典の条文ではなく、慣例(運用してきた実績)であり、それを「憲政の常道」と呼んで重んじてきたのですね。つまり、その慣例に従うことこそが立憲主義ということになります。
「憲法には「政治のルール」という側面があります。
ならば、「これ以上やってはいけないというところ」と「ここまではやっていい」というところの両方がなければルールとして成立しないわけです。これを芦部の憲法の言葉でいうと「制限規範」と「授権規範」です。憲法学の最初の頃に習う言葉です。憲法は権力を縛るものなのだけれども、それだけではありません。縛ること自体が目的であれば、ほぼ意味がありません。」(p.56)
なぜ意味がないのか、ここには明確には書かれていませんでした。権力が憲法(つまり慣例)に反して恣意的に何かをしてはならない、ということが重要なのではないでしょうか。
「しかし、繁文憲法にしようとすれば、無限大に条文が増えていき、作業量が無駄に増えていって、結局は益がない、となりかねません。
また、人権規定を考える際に重要になってくるのですが、国家が憲法典で「国民を保護します」と謳う条文を増やすのは、実は支配権を増やすのと裏表の関係なのです。本書を読んでいただければ、おわかりいただけると思います。それでは自由主義憲法にならないのではないかと考えるので、ぜひここは簡文憲法にしたいと考えています。」(p.63)
条文として憲法典に書くと、それを根拠として国民の自由が侵害される結果となる。だから、条文は簡素にして、憲法の趣旨として国民の自由こそが最大限に保障されなければならないとし、慣例によってそれが守られる状態こそがベストだと言われているのですね。
「政治において天皇がなぜ大事なのかを理解しましょう。
政治の使命は、国家国民を守ることです。普段は、政府が政治を行う。でもその政府が暴走して国民を弾圧したり、逆に政府が力を無くして国民を守れなくなったりした場合、最終的に誰が責任を負うのか。日本国の本来の持ち主である、天皇です。
天皇の歴史上の位置づけは、「日本国の本来の持ち主」です。ただし、国民を持ち物として家畜のように扱ってはならないとしてきたのが、日本国の歴史であり、伝統であり、文化であり、掟です。「天皇と雖(いえど)も国民を家畜のように扱ってはならない」なんて紙に文字の条文で書いていませんが、当たり前すぎる掟だから書いていないだけです。」(p.69‐70)
日本の文化として、天皇を日本国の持ち主として、国民を守る存在として天皇をいただいてきた。そのことは条文には書かれていませんが、憲法としてはそれが成立するということですね。
日本では民(国民)を大御宝(おおみたから)と呼んでいました。権力者に仕える奴隷ではないのです。そういう文化を連綿と築いてきたのが日本という国なのです。
「立憲君主が「政府機能が崩壊している」と判断し、適切な統治を命令するのは、極めて高度な政治技術です。法が何の役にも立たない時に秩序を回復するために、君主は存在するのです。
昭和天皇の御聖断を憲法違反だと言った人間は、いまだ一人もいません。当たり前の話で、第一条に統治権者は天皇と書いているのですから。普段は憲法に従うのですが、その憲法自体が機能しなくなれば、天皇陛下がその憲法秩序を回復するのです。」(p.88)
「立憲君主がどのような存在なのか、比較で確認しておきます。
独裁者の君主は権限があるので、権力を振るいます。それに対して、傀儡(かいらい)は権限があるのに権力をふるわせてもらえないのです。正確に言うと、権限があろうがなかろうが、権力をふるわせてもらえない可哀想な人です。
それに対して、立憲君主とは権限があるのに、その権限を自ら臣下に委任している存在です。序章で触れた帝国憲法の御告文(ごこうもん)がまさにそれです。この「権限があるのに」が、非常に大事なところです。
ですから、あくまで臣下に預けているだけなので、本当にいざというとき、その預けた臣下の側がどうにもできなくなったときは、本来の統治権者として本来の権力を振るうべく、百年に一度あっては困るような危機に備えていただく存在が、立憲君主なのです。」(p.92)
立憲君主の位置づけは、いわゆる「お飾り」ではなく、真の統治権者だということですね。しかし国体が維持されている状態では、その権限を封印して、憲政に基づく政治に任せておく、ということです。
「帝国憲法全体の設計としては、国を守るための軍は独立しているのだけれど、同時に軍を統制する政治を前提にしています。最初に話したクーデターができるけれども、させない政軍関係を考えているのです。
そして、政府と軍が両方とも暴走して機能麻痺になったときに、最終的に国民を守るのは天皇であるとし、終戦の御聖断などは、まさにそうなったわけです。」(p.139)
クーデターを起こせる存在が軍だという話もありましたが、タイでは何度もクーデターが起こっています。しかし、国王を否定するクーデターは起こっていません。これも、立憲君主という体制になっているからとも言えますね。
「我が国には、七世紀後半から八世紀後半にかけて編まれた、現存最古の歌集『万葉集』があって、天皇陛下からホームレスまでが同じ日本語で歌を詠んで「日本人だ」との意識があります。日本のような国のほうが特殊なのです。そんな国は日本ぐらい。あったとしても滅ぼされています。
八世紀前半に成立した『古事記』『日本書紀』の時代に、人は殺してはいけません、天皇陛下であっても好き勝手に人を殺してはいけませんという価値観が、建前だけではなくて実態としてもありました。」(p.157)
たしかにこういう点は、他国、特に欧米諸国とは大きく違いますね。
「財産権は、ゼロをプラスにしていく権利ではなくて、マイナスをゼロにする十九世紀的人権です。二十世紀的人権では、そんなものは削って良いとする、社会主義者の思想が入り込んで、どんどん巻き上げて良いのだとする発想になります。改めて強調しますが、コロナ禍で財産権が軽々に扱われたのは二十世紀的人権の発想だったのです。」(p.159)
たしかに、全体のためにという名目で、科学的な根拠に基づかない経済活動に対する制限が課されました。そして、それについての反省もありません。明らかな憲法違反であり、財産権の侵害だと思いますが、「しょうがない」という気分が蔓延するのも、空気が支配する日本だからでしょうか。
「人権はその性質上、どうしても完全な自由を認められないので、どこかで制約しなければなりません。「人を殺す自由はありません」から始まって、いろいろ制約する原理があるのです。
では、誰がどうやって制約するのか。これが人権の話でもっとも難しいところなのです。」(p.162)
個人の自由があるのは当然としても、社会として一緒に暮らしていれば、自由と自由がぶつかることがあります。その制限について定める必要があります。日本国憲法の場合は、「公共の福祉」という言葉で、その制限の根拠を示しています。
「となると、立法府が大事になります。特に行政府と一体化している衆議院ではなくて、第二院である参議院のほうで対応すると考えるのが、より良いやり方ではないかと思います。
参議院不要論などと言われていますが、一院制、二院制のどちらにも問題があるわけです。そうした中、第二院がなんのために要るのかと考えたときに、この司法権との関係を、第二院である参議院が考えるのは適切なことではないでしょうか。」(p.310)
参議院の存在意義として、司法の見張り番的な役割を与えるという案ですね。かつての貴族院や枢密院のように、良識の府としての役割を参議院が担うというのは、1つの方法かと思います。
そもそも行政も司法も、国民が直接選んでいるわけではありません。なので、本来の民主主義的な観点からすれば、国民が選んだ代表が、司法も行政も見張る必要があると思います。今は、最高裁判事の任命こそ内閣(行政)が行いますが、それで十分なのでしょうか? 国民審査もありますが、あまりに形骸化されていて、意味をなさなくなっていると思いますね。
「日本国憲法は制定から約八十年、誤植も含めて一文字も変わっていません。何より、憲法典論議に終始してきました。何が問題かというと、憲法論議が行われてこなかったのです。
今回、「自由主義憲法」の草案作成作業を通じて、真の憲法論議とは何かを学ばせていただきました。これからの私の仕事は、真の憲法論議を広げていくことです。
たった一人でも、やれることはやってきました。そして数年前とは違う環境になってきました。
国民全体の議論に広がった時、日本人の多くの人が、日本とは何か、自由とは何か、生活を守るとは何か、について考えるのではないかと思います。」(p.371)
このように浜田議員は締めくくっています。
憲法典というのは、文字に書かれたものです。そうではなく、国体のあり方そのものが憲法であり、その議論がなされていないという現実を憂いておられます。
私は、もっと憲法を変えやすくしていいと思っています。国会の2/3の賛同がなければ発議すらできないというのは、あまりに変えづらく、現実にそぐわない条文が残ったままになります。法のために人が存在するのではなく、人のために法が存在するのですから、変わりゆく社会に即して、憲法典も変わっていくべきだと思うのです。
憲法を全体として学ぶ(知る)という機会は、一般の国民には滅多にないことでしょう。大学まで進学してやっと、教養講座でやっと学ぶくらいです。
しかし、憲法というのは、私たち日本国民にとって根幹となるものです。日本社会における最重要な約束事です。多くの人が、こういう読みやすい本などを通じて、憲法についての認識を深めることになればいいと思います。
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