不道徳な経済学 転売屋は社会に役立つ (ハヤカワ文庫NF) [ ウォルター・ブロック ] - 楽天ブックス
これはX(旧Twitter)のポストで紹介されていて、面白そうだと感じて読んだ本になります。
私は、「自由」こそが最も重要な価値観であると考えており、経済においても自由主義経済を推進したいと思っています。そういう思いから最近、リバタリアンと呼ばれる自由主義的考え方に傾倒しています。
本書は、そのリバタリアン的な考え方を面白おかしく紹介する内容になっているとのこと。著者はウォルター・ブロック教授。その著書で「Defending the Undefendable(擁護できないものを擁護する)」を作家の橘玲(たちばな・あきら)さんが超訳したのが本書となります。原本の趣旨を現代の日本の文化に合わせて理解しやすく訳したものとのことです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「功利主義は十八世紀末のイギリスの思想家ジェレミ・ベンサムが創始し、「最大多数の最大幸福」を掲げる。共同体主義はいわゆる保守主義で、伝統や文化、道徳(美徳)に高い価値を置く。リベラリズムとリバタリアニズムはともに「自由主義」のことだが、リベラリストは日本では「進歩派」と呼ばれ、人権を守り、自由で平等な世の中を目指している。
それに対してリバタリアンは、「自由」を至上のものとし、結果の平等を否定する(機会の平等は重視する)「自由原理主義者」で、国家の機能を可能な限り縮小して市場原理による社会の運営を理想とする。それは私たちが考える「自由主義(リベラリズム)」とはまったく別のものだ。」(p.6)
「リベラルは、ある原因(ヘイトスピーチ)によって傷ついたひとの人権は最大限守られるべきだが、別の原因(従軍慰安婦像)によって傷ついたひとの人権は無視してもかまわないと主張している。だとしたら、この分割線は誰がどこに引くのか。あなたが傷ついたと感じたとき、人権が守られるかどうかはどのようにして知ることができるのか。
これがどれほどやっかいな問題か気づいたら、本書を手に取る価値がある。」(p.7‐8)
「本書の魅力は、なんといっても、次々と繰り出される荒唐無稽な登場人物の数々と、彼ら(たとえば「満員の映画館で『火事だ!』と叫ぶ奴」)を擁護する手品師顔負けのレトリック(というか「論理のトリック」)にある。そしてハイエクのいうように、「そんな馬鹿な」と思いつつ、いつのまにか説得されている自分に気づくのだ。
一般の読者にとって、本書のなかでとくに目を引くのは、ドラッグや売春の全面自由化を求める過激な主張だろう。著者は彼ら、「不道徳」の烙印を押された者たちを「ヒーロー」と呼び、リバタリアンの立場から、これまで誰も評価しなかったその功績を讃える。」(p.8‐9)
冒頭で哲学者のマイケル・サンデル氏の政治的立場の分類を紹介しています。それが、功利主義、共同体主義、リベラリズム、リバタリアニズムの4つです。日本では単純に右翼と左翼、保守と革新のように二分しがちですが、実はもっと重要な分類基準があるという提示です。
たしかに、保守だからと言って右翼とは限らないし、リベラリストが必ずしも左翼とも言い切れません。私も、保守的とは思いますが、右翼とは距離をおいており、右翼全体主義には絶対反対の立場です。
「自由を至高のものとし、国家(権力)こそが個人の自由を抑圧する元凶だと考え、国家の暴力行使である徴税に反対し、国家権力のもっともグロテスクな姿である社会主義・共産主義などの「全体主義的な集産制」を拒否するのはリバタリアンの思想そのものだ。」(p.21)
私も、個人の自由をむやみやたらと奪う全体主義には反対の立場です。国民負担率が5割という今の日本は、まさに全体主義国家と言えるでしょう。
「政治思想(主義=イズム)の対立を理解するうえでの出発点は、「すべての理想を同時に実現することはできない」というトレードオフだ。誰もが、自由で平等で共同体の絆のある社会で暮らしたいと願うだろうが、これは机上の空論で原理的に実現不可能だ。
自由な市場で競争すれば富は一部の個人に集中し、必然的に格差が広がっていく。それを平等にしようとすれば、国家が徴税などの ”暴力” によって市場に介入するしかない。自由を犠牲にしない平等/平等を犠牲にしない自由はあり得ない。」(p.32‐33)
たしかに、自由と平等のどちらに重きを置くのか、という究極の選択がありそうですね。
「この「まえがき」においてわたしがいちばん強調したいこと−−それはわたしの立場の中核でもある−−は、人をいきなり殴りつけることと、暴力的な権利の侵害をともなわない行為(それはときにわたしたちをものすごく不愉快にさせるかもしれない)には決定的なちがいがあるということである。原初の暴力をともなう行為のみが、人々の権利を侵害する。したがって、こうした暴力を抑制することが、社会を支える基本的な法の役割になるはずだ。
本書に登場する人々は社会の、”良識ある人々” から罵られ、いつもいつも悪口雑言を浴びせかけられているが、それでも彼らはだれの権利も侵害しているわけではなく、法的な制裁を受けるいわれもない。
彼らはスケープゴート(生贄(いけにえ)の山羊)なのだ。なにしろ目立つし、叩きやすい。この世に正義があるのなら、彼らこそが弁護されるべきである。」(p.61)
お互いの自由がぶつかり合うことはあります。その時、どういう基準で互いの権利を調整するかという視点が重要になります。本書では、いきなり殴りつけるような暴力行為は規制すべきだが、それ以外は自由にさせるべきだと言うのですね。
「売春禁止に熱心なのは、この取引には直接の関係がない「第三者」である。時と場合によって売春に反対する理由は異なるだろうが、そのすべてに共通するのは彼らが部外者だということだ。」(p.68‐69)
「男性は映画やディナーや花束などに金を支払うことが期待され、女性は性的サービスの提供で報いることが期待されている。結婚についても、夫が経済的側面を担い、妻がセックスと家事労働を担当するのであれば、売春モデルとなんのちがいもない。
わたしがここで言いたいのは、恋愛から学問にいたるまで、人間同士の自発的な関係はすべて取引だということだ。」(p.71‐72)
私も、売春を規制する理由がよくわかりません。単に取引だと思うからです。夫婦間で取引するのが問題ないのであれば、売春だって問題ないはずですよね。部外者が余計なお節介をするな! と思います。
「この世に不届き者の一人もいない職業などあるだろうか?
レンガ積み職人や配管工のなかにも、音楽家や聖職者や医師のなかにも、親愛なる隣人の権利を蹂躙(じゅうりん)する者はいる。だがこうした一部の不届き者の存在によって、彼らの職業それ自体が世間の批判を浴びることはない。
ポン引きという職業にしても事情はまったく同じである。」(p.74)
ポン引きというのは、要は売春という取引の斡旋業者であり、ブローカーです。売春婦にとっても買春客にとっても、役立つ存在だと言えるでしょう。
そうであれば、そもそも売春が誰にも迷惑をかけない個人同士の取引であるなら、ポン引きというブローカーだって社会(部外者)にとって邪魔な存在ではないはずですよね。
「レイプ被害者に対する扱いを見てもわかるように、国家は女性に対する暴力行為を暗黙のうちに容認している。国家による女性差別はレイプだけでなく、売春の禁止にも表れている。
先に述べたように、売春禁止法は大人同士の合意のもとでの取引を禁じ、売春婦が正当に日々の糧を得ることを妨げているのだから、明らかに女性差別の法律である。」(p.82)
私も、レイプを重大な犯罪だと認識しない社会はおかしいと思っています。そう言うと、現行法でも強姦は殺人と同じくらい罪が重いと主張する人がいるかもしれません。たしかにそういう法律はありますが、実態はどうでしょうか?
たとえば夫からセックスを強要される妻を守れるでしょうか? 妻の自由は、人権は、いったいどこにあるのでしょう? 最近やっと、性行為の強要を禁止する法律が施行されました。夫婦間であれ、セックスの強要はレイプだという認識が広まればいいと思います。
「道を歩く女性に口笛を吹いたり、いやらしい目つきで眺めたり、卑猥な言葉を投げつけたり、嫌がる相手に言い寄ったり(とはいえ、相手が嫌がるかどうかあらかじめ知るのは、しばしば非常に困難である)することを指すのだろうが、こうした行為は、言葉の厳格な意味で、暴力による権利の侵害をともなってはいない。
ところがたいていの人は、とくに「女性の権利を守る」と称する人たちは、こうしたセクハラとレイプのような暴力的な権利の侵害を区別しない。もちろん、どちらも女性にとっては不愉快きわまりない出来事であろう。だが、そのちがいは決定的である。」(p.86)
私も、近年の行き過ぎたセクハラ犯罪説には疑問を感じます。嫌なら嫌と言えばいいのです。重要なのは、何らかの規制があって、言いたいことが言えない環境であることが問題の本質ではないか、という視点だと思っています。そして、嫌なら自らその環境を変える(たとえば離職するとか)という選択をすればいい。で、同じことですが、そういう選択が容易ではない規制があることが、重大な問題だと思うのです。
「じめじめとした地下室ではたらく労働者を雇うためには、経営者は相応の補填格差を埋め合わせるための金銭をこの人に支払わなければならない。同様に、セクハラ上司の下ではたらく女性社員にも、この補填格差は発生する。セクハラが常態化している企業が、女性社員に快適な職場を提供している企業と同等の優秀な人材を確保しようと思うならば、かなりの額の給料を上乗せしなければならないだろう(キャバクラ嬢のような女性社員を高給で雇う、とか)。」(p.88‐89)
自由経済市場が機能していれば、理不尽に不利益を与えて甘受してもらうには、それ相応の対価が必要になり、その上で、どちらを選択するかをそれぞれに選んでもらえばいいだけなのです。
「そして彼女たちが、形式的には平等であるにもかかわらず、実際には稼ぎ出す利益の総額で男性社員に後れをとっているとするならば、男女雇用機会均等法ははたらく女性の人生に破壊的な影響を及ぼすことになる。
自由な市場は、同じ生産性を持つ社員に平等な報酬を支払うよう経営者に強い圧力をかける。その結果、男女の生産性が明らかに異なっているにもかかわらず法によって同一の賃金を支払うことを強制されている社会では、先ほどのケースとはまったく逆に、経営者は女性社員をクビにし、男性社員を雇うよう動機づけられることになってしまう。」(p.93)
法律による強制が、いかに問題を引き起こしているかわかります。
「「差別」という言葉は、いまの世の中では忌み嫌われているが、考えてみれば人間の行動というのはすべて差別−−複数の選択肢のなかから自分の気に入ったものをひとつ選んで取り出すこと−−なのである。この定義に反するような人間の行動は、ひとつとして存在しない。
わたしたちはいつも差別している。」(p.95‐96)
「差別」をどう定義するかにもよりますが、要は選択することによって他人に不快感を与えること、と言えるのではないでしょうか。そして、それを不快と感じるかどうかは人それぞれであり、選択することは日常茶飯であることを合わせれば、私たちは常に差別していると言えるのです。
そうなると、そもそも差別すること自体が悪いことなのか? という疑問が出てきます。リバタリアニズムによれば、暴力的に相手の自由を奪うのでなければ、あらゆる差別は問題ないと言えるかと思います。
たしかに、言葉狩りのようなことは、差別をなくすのに何の役にも立たないばかりか、かえって多くの人に不自由を強いているだけですからね。
「法による覚せい剤の禁止は、「天文学的」としか形容するほかない水準までその末端価格を引き上げる破壊的な効果を持つ。
もしもキュウリが違法化されたらどうなるか、考えてみてほしい。種を蒔いたり、肥料をやったり、収穫したり、市場に運搬したり、販売したりする費用に加え、法から巧みに逃れるコストや、不法栽培が発覚したときに科せられる罰金の支払いも、キュウリの価格に上乗せされるにちがいない。」(p.100‐101)
「こうした被害は、覚醒剤による中毒のためではなく法によって覚醒剤を禁止した結果だということは、どれほど強調してもしすぎることはない。シャブの末端価格を容易に手が届かないところにまで引き上げ、中毒者たちを自分か被害者の死をもって終りを迎えるほかない犯罪者人生に駆り立てるものこそ、覚醒剤取締法なのである。」(p.103)
「覚醒剤が依存症の唯一の対象ならば、それは絶対的な悪になりうるかもしれない。そうであれば、シャブの邪悪さを広く伝えようとする努力はひたすら賞賛されるべきであろう。
しかしながら、人はアルコールやギャンブルやセックスなど、違法とはみなされないさまざまな依存症を患うこともある。そのなかで覚醒剤など一部の麻薬のみを対象とする禁止は、なんら有益な目的を提供しないばかりか、耐えられないほどの苦しみや大きな社会的混乱の原因になってきた。
この悪法を維持するために警察当局はたえず覚醒剤の価格を引き上げ、さらなる悲劇を招いている。そのなかでシャブの売人だけが、個人的なリスクを負って末端価格を引き下げることで中毒者や犯罪被害者の生命を守り、いくばくかの悲劇を防いでいるのである。」(p.107)
「覚醒剤中毒は、それ自体が悪なのではない。もしも覚醒剤が合法化されれば、酒やタバコと同様に使用者自身の健康を害することはあっても、他者に危害を加えることはなくなる。
ドラッグに反対し、薬物の危険を教育し、新聞やテレビで「人間やめますか」と宣伝する人たちをわたしは否定しない。それは彼らの言論の自由だ。しかし覚醒剤を法で禁止することは、シャブを打ちたいと願う個人の権利を明らかに侵害しているのである。」(p.116)
たしかに依存症というのは、依存対象が原因ではなく、縁(きっかけ)に過ぎないと私も思っています。なので、依存対象の覚醒剤を禁止したところで効果も少なく、意味がないと思います。むしろ禁止することによって価格が上がり、その代金を得るために犯罪に走るという構図があると言えるでしょう。
覚醒剤によって酩酊して殺人など犯罪を犯すというのは本当ではない、ということも言われています。犯罪を犯す人には、そもそも犯す原因がその人の中にあるのです。覚醒剤はきっかけに過ぎません。したがって、そういうきっかけである覚醒剤を禁止したところで、そもそも犯罪はなくならないのです。
依存症は治療すべきものであり、処罰するものではありません。私は大麻の合法化に賛成する立場ですが、医師が麻酔薬中毒になりながらも医師として仕事ができているという実態からも、覚醒剤を安易に禁止して処罰対象にすることは反対ですね。
「人類の長い歴史において、多数派の意見はたいていの場合、間違っていた。
もしもあなたが多数派に同意していたら、その意見に反対する者を喜んで迎え入れるべきである。ジョン・スチュワート・ミル(イギリスの思想家・功利主義者)は、真理に到達するもっともよい方法は異なる意見を持つ者の話を聞くことであるとして、次のように語った。
「あなたの立場を疑いにさらし、その疑問にこたえよ」」(p.110)
私も常に、自分の意見が必ずしも正しいわけではない、という考えを頭の片隅に置くようにしています。同意できないからと言って、絶対的に間違っているわけではないのです。
「恐喝は、取引の申し出である。より正確には、「なにかあるもの(通常は沈黙)と、ほかのなにか価値あるもの(通常は金)の取引の提示」と定義できる。もしこの申し出が受け入れられれば、恐喝者は沈黙を守り、恐喝された者は合意した代金を支払う。もしこの申し出が拒否されれば、恐喝者は「言論の自由」を行使して秘密を公表する。
この取引には、なんら不都合なところはない。彼らのあいだで起きたことは、沈黙の対価としていくばくかの金を請求する商談である。もしこの取引が成立しなくても、恐喝者は合法的に言論の自由を行使する以上のことをするわけではない。」(p.118‐119)
「脅しの内容が暴力的なものであるとき、その脅しを非難するのは正当である。なんびとも、他人をいきなり殴りつける権利を持ってはいない。
しかし恐喝では、脅しの内容は、恐喝者がそれをする権利を持っているなにかなのである−−言論の自由を行使することであろうと、ナイキのスニーカーを買わないことであろうと、あるいはほかの人にもそうするよう説得することであろうと、そして脅しの内容が違法ではないとき、当然ながら、その脅しを「非合法」と呼ぶことはできない。」(p.121)
「卑劣な恐喝の被害にあった同性愛者はそのことで苦しみ、とてもそれが「利益」だなどとは考えられないだろう。しかし同性愛者全体の利益を考えるならば、恐喝による強制的なカミングアウトは、一般社会が同性愛者の存在を知り、共存する術(すべ)を学ぶことを促す。」(p.124)
このように恐喝者こそヒーローだと言います。たしかに、恐喝される側からすればたまったものじゃないという気持ちはするでしょう。けれどもそれは、その人が隠そうとするから恐喝されるのです。もしすべてをオープンにするなら、そもそも恐喝はできません。
もちろん、暴力を示唆する脅迫は許されるべきではありません。しかし、単に秘密をバラすという意味での恐喝は、それを犯罪とする根拠は希薄だと私も思います。
もちろん、だからと言って私はがアウティングを推奨するわけじゃありませんよ。不必要に他人の秘密をバラしたりはしません。ただそれは、秘密をバラすことが悪いからではなく、その必要性を感じないからです。
「もしも誹謗中傷が合法化されれば、大衆はそう簡単に信じなくなるだろう。名声や評判を傷つける記事が洪水のように垂れ流されれば、どれが本当でどれがデタラメか」わからなくなり、消費者団体や信用格付け会社のような民間組織が記事や投稿の信用度を調査するために設立されるかもしれない。
このようにして、人々はすぐに誹謗中傷を話半分に聞く術(すべ)を身につけるだろう。もしも誹謗中傷が自由化されたなら、「ツイッタラー」はもはや人々の名声や評判を片っ端から叩き壊すような力を持ちはしないのである。」(p.131)
SNSなど匿名で他人を誹謗中傷する事例が多々ありますが、それさえ自由化すればいずれ意味をなさなくなると言うのですね。
まぁたしかに、そうとも言えます。「狼が来たぞ〜!」と叫ぶ少年の逸話と同じです。ただ、そこに至るまでに多くの人が誹謗中傷されて傷つくという現実は生じるかもしれません。私は、もっとソフトランディングするやり方のほうがいいなぁと思います。
「第一に、「火事だ!」と叫ぶ者によって引き起こされるであろう市民の健康と安全への脅威を取り除くのに、市場の契約システムは政府による包括的な禁止政策よりも有効である。競争原理によって、劇場主は互いに観客を混乱に陥れるような突発的な出来事を回避しようと努めるだろう。彼らは、顧客に安全で快適な空間を提供するよう強く動機づけられている。それに対して国家はこうした動機をなにひとつ持たず、映画館の秩序維持に失敗したとしても、政府内のだれかが責任をとることもない。
政府による法的禁止よりも市場にまかせたほうがより大きな成功が期待できる理由として、市場の柔軟性を挙げることもできる。政府はたったひとつの包括的なルールしかつくることができない。どんなにがんばっても例外が一つか二つ認められる程度だ。市場にそのような制限はない。」(p.141)
「法律による禁止のもとでは、彼らが熱望する「至上の快感」を手にする可能性はあらかじめ失われている。だが柔軟な市場経済であれば、需要のあるところに供給が生まれる。満員の映画館で「火事だ!」と叫んでみたいというサディストやマゾヒストの需要があるのなら、企業家は十分な対価を得て、必要なサービスを提供しようと考えるだろう。」(p.142)
「もしも言論の自由に「例外」が認められたなら、わたしたちの手にした権利はさらに弱まってしまう。言論の自由にいっさいの例外はない。言論の自由と、所有権のようなほんとうに重要な権利とのあいだに対立が生じることもありえない。
満員の映画館で「火事だ!」と叫ぶ人はわれわれのヒーローである。危機に瀕(ひん)している大切な権利を守るために、彼はなにが関係し、なにがなされるべきかをわたしたちに考えさせてくれるのである。」(p.144)
先の誹謗中傷と同じで、映画館で「火事だ!」と叫ぶ自由は容認されるべきかどうか、それでも言論の自由を優先すべきかどうか、という話です。
たしかにいろいろ考えさせられますね。もし完全な自由経済市場があれば、「火事だ!」と叫ぶとか、誹謗中傷するとかを容認する代わりに、他の利用者からNGを出されたら罰金を払うみたいなシステムが導入されるかもしれませんね。
何が正しいかというファクトチェックをする傾向がありますが、こんなのはあまり意味がありません。「正しさ」は人それぞれですから。それより、多数の人が「要らない」と言えば、多額の利用料を払うことになるとかのペナルティーがあればいいだけとも言えます。そのペナルティーを払えるお金持ちは、あえて楽しみのために「火事だ!」と叫ぶかもしれない。それでも、そういうこともあると理解した上で安く(あるいは無料で)利用しているのであれば、そこで文句を言うのも変です。
もちろん、「こんなのはおかしい!」と主張することも自由。それに対して、「そんな主張はやめろ!」と主張することもできる。そうやって自由に情報発信し、他の人の評価によって利用料が変動するなんてのも面白いかもしれません。もちろん、成りすましとかを防ぐために、利用者は1人1アカウントで個人特定できることが前提ですがね。
「なぜコンサートやスポーツイベントの興行主は、チケットに定価を印刷するのだろうか。なぜ、シカゴの先物市場で小麦を売るように、あるいは株式市場で株を売買するように、マーケットが決めた価格でチケットを売るようにしないのだろうか。そうすれば、ダフ屋はこの世から消滅するのに。
その理由は、チケットの値段が決まっているほうが便利だとみんなが思っているからだろう−−予算を立てるとか、休暇を計画するとか。だからこそ興行主も、チケットに定価を印刷することが自分たちの利益につながると考える。ということは、消費者の要求こそがダフ屋家業を成り立たせている、ということになる。」(p.147)
「ようするに、ダフ屋は貧しい人々に仕事を与え、忙しくて列に並ぶ時間のない中産階級のためにチケットの購入代行をしているのだ。」(p.152)
ダフ屋とか転売ヤーとか、やたらと敵視されていますが、私はこんなのを規制する必要はないと思っています。そもそも商売とは転売なのですから。そういう経済のいろはが理解できず、すべて政府の管理下で行わせるべきだと考える全体主義者が、こういう規制をしたがるのでしょう。
ダフ屋は反社の稼ぎになるという意見もありますが、それはダフ屋を禁止するからですよ。禁止しなければ、その商売が儲かるなら、多くの人が参入して、いずれ飽和するでしょう。それが自由主義的な経済です。
「賄賂を受けとるのは、論理的には、プレゼントを受けとるのとなんのちがいもない。そして、誕生日にプレゼントを受けとるのは違法ではない。
しかしながらここで、「たとえ悪法であっても法を犯すことは認められない」と反論する者が現れるにちがいない。「われわれには都合のいい法律だけを選り好みする権利はなく、すべての法にしたがわなくてはならない。法に背くことはそれ自体が悪であり、同時に、社会を混乱へと陥れる先例を残すことになる」などと言うのだ。
だが、「法に背くこと自体が悪だ」との主張には同意しかねるものがある。ナチ強制収容所の経験がわたしたちに教えてくれた事実は、それとはまったく逆だ。そこで得た教訓とは、「法そのものが邪悪であるならば、その法に従う者も邪悪である」ということだ。」(p.162)
私たちには、法に従わない自由もある、という点では賛同します。しかし、ナチ、つまりホロコーストがあったという前提での説明であれば、安易に同意はできかねますね。
ここで「法そのものが邪悪であるならば」と言っていますが、邪悪かどうかは、誰がどういう根拠で認定するのでしょう? それぞれの人がそれぞれの価値観でそう思うだけのことではありませんかね?
そうであれば、自分がその法に従うことに価値を置かないのであれば、法を犯すことも自分の自由だ、というだけのことではないでしょうか。そういうことであれば、私も同意します。
ここでは、悪徳警察官をヒーローだと言っています。つまり、悪法を守ってしっかりと犯人を捕まえる警察官と、賄賂をもらって見逃してやる警察官との比較です。
もちろん、「おめこぼし」というものはあるかもしれません。何でもかんでも杓子定規に取り締まるというのも問題があるでしょう。ただ、それがヒーローかどうかと言われると、法の適用が不公平になる問題とか、いろいろ出てくるのではないでしょうか。難しいところでうs。
「お金の貸し借りというのは、取引の一種である。したがってほかの取引と同様に、貸し手と借り手の双方に利益をもたらす。もしそうでなければ、そもそも取引は成立しないだろう。」(p.202)
「裁判所が債権者に借金の返済を命じず、高金利の金を貸すことを禁じるならば、そこにヤクザがつけこんでくる。麻薬、ギャンブル、売春、闇金融……、一定の需要が存在するにもかかわらず国家が法で禁止した商品は、まともな会社が手を出せないのだから、非合法組織が一手に扱うしかない。」(p.204)
まさに、こういうことなんですよ。高利貸しを禁止するなんて、まったく無意味な規制です。それによって、法定金利以上を取るのは闇金融しかなくなって、さらに危ないことになってるじゃないですか。借りたいけど、その金利では貸してくれないから、庶民は困ってるんです。高い金利でいいから貸してくれと思っているのに。
ちなみに、発展途上国で広まってるマイクロファイナンスの利息は20%以上がふつうです。担保を取らない代わりに利息を高く設定して、貸し倒れに備えているのです。独占とか寡占状態の市場ならいざ知らず、自由な競争が行われている市場で、政府が規制をしてもろくなことにはなりませんよ。
もし利息が高くて返せない人が増えるというのであれば、破産すればいいんです。破産すれば損するのは貸し手。そこでどうやって利益を出すかは、貸し手が考えることです。もちろん暴力的な取り立てなどは、犯罪として取り締まればよいと思いますよ。
「しかしこれが公共の慈善となると、話が変わってくる。
公共の慈善、すなわち「福祉」には上限というものが存在しない。その悪影響が明白でも、政府の福祉予算が減額されることはめったにない。その原資は、嫌がる大衆から税金を巻き上げる国家の能力のみによって制限されているからだ。」(p.213)
「こうした ”国家−企業” 型の福祉プログラムの目的は、富裕層から貧困層へ富を再分配することではなく、労働者階級の潜在的なリーダーを買収し、彼らを「支配の構図」のなかに組み込み、知識人を動員して、なにも知らない大衆に「国家による福祉は君たちの利益になる」と吹き込むことだったのだ。
同様に、ビヴン&クロワードが『貧民の統制』で指摘しているように、社会福祉制度の主要な目的は貧困層の救済ではなく、むしろ抑圧にあった。その手口は簡単で、福祉予算は貧困層がそれを必要としているか否かに関係なく、社会が不安定化すれば増額され平穏に戻れば減額されてきた。福祉とは、大衆を支配するために権力者が用意した「パンとサーカス」であったのだ。」(p.214)
まさに現在の日本の政治そのものでしょう。国民負担率は実質的に5割を超えているとさえ言われています。それでもさらに政府支出を増やそうとしています。なぜか? そこにうま味があるからです。いわゆる「公金チューチュー」ですね。こういう利権のために、国民が利用されている。それが、高福祉国家の実態なのです。
「飢餓でひと儲けを企む商人を敵視するのは、はなはだしい正義の誤用である。そのことを理解するには、彼らの役割が利益を求めて商品を売り買いすることだと気づくだけでいい。使い古された言い方だが、商売の秘訣は「安く買って高く売る」ことにある。その結果、成功した商人は自分だけがいい思いをしたいと考え、「みんなの幸福」などどうだってよく、しかもそのことによってみんなを幸福にするのである。」(p.230)
「食料市場を安定化させる商人たちの役割を国家が肩代わりしたら、なにが起きるか考えてみてほしい。かれらもまた豊作と飢餓の微妙なバランスをとろうと、食料の貯蔵量を調整するだろう。
だがこの場合、食料政策が大失敗したとしても、無能な国家を市場から退出させる仕組みははたらかない。公務員の給料は、彼の予測が当たろうが外れようが変わらない。損するのは自分のポケットマネーではないのだから、どうだっていいのである。その結果国家の仕事は、生き残りをかけて必死で努力する商人に比べてはるかに劣ったものにならざるをえない。」(p.233)
考えてみれば当然ですが、これまで市場に関与しながら、失敗して責任を取った公務員など聞いたことがありません。たとえばあのバブル崩壊によるデフレを招いた政策を実施した公務員の誰が責任を取ったでしょうか?
だから、責任を負わない仕組みの政府に任せてはいけないのです。必ず責任を取らざるを得ない自由経済市場に任せておいた方が、確実に良くなると言えるのです。
「人はなにか買い物をするたびに、自分でそれをつくる機会を逸している。靴やズボンを買い、うどんやミカンを食べるごとに、あなたはだれかのために仕事を与え、自分の仕事を失っているのである。このようにして保護主義者の論理は、絶対的な自給自足の主張へとつながっていく。」(p.238)
昨今、また保護主義的な考えが台頭してきましたが、論理的に考えても、保護主義は全体の利益を減らします。そして歴史的にも、失敗することが明らかです。
保護主義の行き着くところは、要は自給自足なんですよ。そのことが理解できれば、保護主義がいかに生産性の低いやり方であるかがわかるでしょう。各国のお互いの生存保障のためにも、相互に自由な貿易をすることに勝るものはありません。
「もしも利潤の可能性が市場のなんらかの機能不全を意味するならば、「ボロ儲け」の可能性は、経済構造のさらなる歪みを示している。利潤の実現が市場機能の修復を暗示するならば、企業家のボロ儲けは、市場の歪みを正すために大規模な変革が行われていることとを教えてくれる。
ボロ儲けは悪徳で、適正な利潤のみが道徳的なのではない。企業家の得る利益が大きければ大きいほど、経済は豊かになる。」(p.264)
「奇妙なことに、金儲けに対して悪意ある中傷を繰り広げる人たちは、人権を熱心に擁護し、権力の集中に反対する人たちでもある。しかし「利潤」と「金儲け」を非難するかぎり、彼らは自由経済を批判し、経済分野で自由に行動する権利だけではなく、人間生活のあらゆる分野における行動そのものを攻撃していることになる。
利潤や金儲け、すなわち「利益を得る」ことすべてに対する彼らの攻撃は、彼らが独裁者の側に立つことをはっきりと示している。」(p.265‐266)
より儲けの少ない、たとえば売価が低い自転車を売るのと、売価が高い自動車を売るのと、いったいどっちが人々の役に立つと思うのでしょうかね? 「適正な」と言いますが、その「適正さ」は、いったい誰が、どういう基準で決めるのでしょう?
そこまで言えばやっとわかる人も出てくるかと思いますが、特定の誰か、つまり権力者が決めるということです。それはすなわち、独裁制を受け入れるということではありませんか。
「これら一見してなんの関係もない例に共通していることは、市場においては、どのようなポイ捨てなら許すか(あるいは許さないか)は消費者のニーズが決める、ということである。この問題はそれほど単純ではなく、「ポイ捨てを排除しろ」とだれもが叫んでいるわけではない。ここではむしろ、ゴミを集積させることと掃除することのコストと利益が、注意深く計られているのである。」(p.274)
ゴミのポイ捨て1つをとってみても、マナーとしてポイ捨てをしてはいけませんと言うことはいいとして、それを法的に禁止しようとすれば、とたんに問題が大きくなります。どれだけ規制しようと、人は、ポイ捨てすることが自己の利益になると考えれば、そうしてしまうのです。
けれども、それが公共の場であるか私有地であるかで、状況がまったく違うことが示されています。私有地であれば、いくらポイ捨てされても、それを片付けるコストを含めて入場の値段設定をすればいいだけだからです。重要なのは、そうすることで「儲かるかどうか」だけですから。
しかしここに自由市場原理を導入しなければ、ただ禁止して、挙げ句は罰則を強化し、犯人を捕まえて処罰するコストもみんなが払わなければなりません。ポイ捨てする人もしない人も、みんながストレスを抱えることになります。
ポイ捨ての掃除代が付加された入場料が高いと思うなら、行かなければいいだけのこと。そこには選択肢があります。けれども、税金で犯人を見つけて処罰する仕組みは、選択肢がありません。この違いが重要なのです。
「最低賃金法は、正確に言うならば、雇用を安定させるための法律ではない。失業促進のための法律である。その趣旨は、雇用主に対して最低賃金以上で労働者を雇うよう命じることではない。法で定められた賃金以下で労働者を「雇わない」よう強制することである。
この法律のせいで、必死になって職を探し、最低賃金以下でも喜んではたらきたいと願う労働者は仕事にありつくことができない。国家は、低賃金か失業かという選択肢に直面している労働者に、失業を選ぶよう義務づけているのだ。最低賃金法は、労働者の賃金を引き上げるのになんの役にも立たない。ただ、基準に合わない仕事を切り捨てるだけだ。」(p.296‐297)
「最低賃金法によって傷つくのはだれか? 技術や資格がなく、法で定めた賃金水準以上の生産力を持っていない労働者である。最低賃金が約一二〇〇円と世界でもっとも高いフランスは十五〜二十四歳の失業率が二三・八パーセントだ。近年の日本は「空前の人手不足」で若者の失業率は四パーセント台まで下がったが、非正規労働者は二〇〇〇万人を超え、そのなかには専門的技能をもたず最低賃金ぎりぎりで働いている者も多い。」(p.304)
「では、最低賃金法における、組織された労働者の背後にあるものはなんであろうか。
最低賃金法が最低賃金を無理やり引き上げると、価格と需要の法則がはたらいて、雇用主は熟練労働者を残し、未熟練労働者を切り捨てようとする。このようにして労働組合は、自らの雇用を守ることができる。」(p.307)
これも論理的に考えれば当然の帰結ですね。最低賃金以上で働く人に対して、賃上げの動機とはならないのですから。
つまり、最低賃金を強制して上げれば上げるほど、能力の低い人は労働市場から排除されるということです。たとえば障害者とか、能力が低い未熟練労働者とか。あるいは女性とか。(出産や生理などによる労働効率の悪さが敬遠されるため。)
論理的に考えるなら、重要なのは最低賃金を上げることではないのです。賃金が少ない人でも健康で文化的な最低限の暮らしが成り立つようにすることです。それが真のセーフティネットです。
その上で、あとは自由にさせたらいい。労働市場が柔軟化すれば、自分にあった職場を見つけやすくなります。人の才能は様々ですから、ある企業ではNGだとしても、他ではそれが良いと評価される可能性がある。そういう労働市場の柔軟化のためにも、最低限の生活報奨が常にあることが重要なのです。
「大人になるということが自分で生活の糧を得、自分の意思で決定することならば、両親にはこの選択に干渉する権利はない。親は、子どもが家を出るのを禁じることはできない。子どもが家にとどまるかぎりにおいて、子どもに対する権利と義務を持つだけだ(「この家(うち)にいる以上、親の言うことを聞きなさい」という小言はその意味で正しい)。親は子どもの巣立ちを禁じてはいけない。それは、子どもが大人へと成長する過程を侵害することだからだ。」(p.316)
「この理論のいちばんのポイントは、もちろん「児童労働」なるものの禁止に関してである。ここでの「児童」とは、恣意的に決められた年齢よりも若い者と定義されているのだが、このような一方的禁止は、家出の決断に対する親の干渉と同様に、大人になるという「自発的な」可能性を片っ端からつぶしてしまう。
もし年齢が足りないからという理由ではたらくことを禁じられたら、家を出て自活するという選択肢は彼の前から消え去ってしまう。私有財産権を奪われた彼は、社会が「大人」と定義する年齢に達するまでひたすら待たなくてはならないのである。」(p.317)
「「親は子どもを養う義務がある」という広く流布した信念は、子どもを望む親の意思を根拠にしている。この論理が完全に破綻しているならば−−それ以外の解釈はわたしにはちょっと思いつかないが−−親の扶養義務そのものが間違っているのである。
「扶養義務がない」ということは、他人の子どもの世話をする義務がないのと同様に、あるいは血縁においても地縁においても自分とはまったく無関係な赤の他人の面倒を見る義務がないのと同様に、自分の子どもに食べさせ、服を着せ、寝場所を与える義務がないということだ。しかしこれは、親が自分の子どもを殺してもいいということではない。他人の子どもを殺す権利がないのと同様に、親には自分の子ども、彼らが生を与えた子どもを殺す権利もない。
「親の役割」というものを考えるならば、それはむしろ養育係のようなものである。もしも親が、自発的に引き受けたこの役割を放棄したいと思ったり、そもそも最初からその気がなかったならば自由にやめてしまってかまわない。自分の赤ん坊を養子に出したり、あるいは伝統的な方法として、教会や孤児院の前に置き去ることもできる。」(p.321‐322)
「もちろん、客観的に見て誤った子育てをする親はたくさんいる。しかしだからといって、彼らを国家の手にゆだねればより幸福になれるというわけではない。国家もまた、とんでもなく間違った子育てをすることがある。そして子どもにとっては、国家の権力から逃れるよりも、愚かな親から自立するほうがずっと容易なのである。
結論を述べるならば、若年層との労働契約は、それが自発的なものであるかぎりにおいて有効である。年齢にかかわらず、私有財産権を持つ者は「大人」であり、彼はほかの大人と契約を結ぶことができる。」(p.323)
児童に労働させる資本家はヒーローだと言うのですね。たしかに、児童労働の弊害はありますが、児童労働を禁止すれば問題が解決するわけではありません。
なぜ親が子どもを強制的に働かせるかと言えば、親が貧しいからです。あるいは親が働けないとか、お金がかかる家族がいるなど家計の必要から子どもを働かせなければならなくなっている。その状況を改善することなく児童労働を禁止しても、何の意味もありません。意味がないだけでなく、貧困層をさらに貧困のままにさせ、また、自立したい子どもの機会を奪うことにもなります。
またここで言っているように、私も子育てを親の義務にすることはやめた方がいいと思います。そうするから子殺しとかネグレクト、虐待などの問題がなくならないのです。ただ養育係を自発的に引き受けているだけだという価値観になれば、自分が育てられなければ養育機関に委ねればいいだけなのです。それが気楽にできるようになれば、子どもへの虐待も減るし、少子化対策にもなると思います。
「本書で取り上げられる極端な事例の数々は、読者の感受性を間違いなく逆なでするであろう。ブロック教授は、それによって条件反射的で感情的な反応を見つめ直すよう読者を促し、自由な市場の価値とはたらきについての新しく、そしてはるかに健全な知識を獲得するよう導いていく。
もしあなたが自由経済を支持しているとしても、あらためて「自由な市場」とはどのようなものかを突きつけられる覚悟をしておいたほうがいい。本書はあなたにとって、エキサイティングでショッキングな冒険の旅となるであろう。」(p.326‐327)
これは経済学者のマリー・ロスバード氏による推薦文からの引用です。まさにそういう内容かと思いました。
本書で取り上げられた内容は、ヤクの売人とか本引きなど、非合法的な商売をする人たちをヒーローだと示すことによって、これまでの価値観に疑問を持たせようとしています。私たちは、これまでの価値観を当然のものとして疑いもしないのですが、こうやって論理的に示されてみると、たしかにこうも言えるなぁと思えるのではないでしょうか。
私も「自由」が重要な価値観であり、政治や経済のみならず「自由」を広げていくことだと考えています。本書を読んで、やっぱり自由が重要なだなぁと改めて思いました。
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