2024年1月20日(土)、田端にある小さな映画館「CINEMA Chupki TABATA(シネマ・チュプキ・タバタ)」で映画を観ました。この映画が素晴らしかったとFacebookの友人が投稿していたので、上映しているところを探してみたところ、意外に近くでやっていたので、すぐに予約したのです。
タイトルは「ミッション・ジョイ 〜困難な時に幸せを見出す方法〜」で、ダライ・ラマ法王とデズモンド・ツツ大主教の2人が「喜び」について語るというものです。2人ともノーベル平和賞を受賞しておられるのですね。ダライ・ラマ法王の80歳の誕生日を祝うために、ツツ大主教がインドのダラムサラを訪れ、1週間ほど過ごした時のドキュメンタリーでした。
内容もよくわからず観始めたのですが、すぐに引き込まれました。そして、ずっと泣きっぱなしでした。悲しいからではなく、嬉しかったから、感動したからです。
映画館の受付で、この本が売られてました。上映室から出るとすぐに受付へ行き、この本を買いました。この感動を、もっと深く心に染み渡らせたかったのです。
著者は、対談を行ったダライ・ラマ法王とデズモンド・ツツ大主教、そして作家で編集者のダグラス・エイブラムス氏です。ダグラス氏は、特にツツ大主教と長年の付き合いがあるようです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「「冷たいことを言うようですが、たとえ多くの喜びを発見したとしても」と降下が始まったとき、大主教が言った。「困難や辛苦から逃れる術はありません。事実、私たちはもっと簡単に泣いたり、笑ったりしてもいいかもしれません。そうすればたぶん、もっと生き生きとするでしょう。けれども、より多くの喜びを発見すれば、苦い思いをするのではなく、成長できるような方法で、苦しみと向き合うことができます。窮地に追い込まれることなく困難と向き合い、胸がはり裂けることなく悲嘆を味わうのです」」(p.22)
ツツ大主教ほどの聖人でも、出来事を完全にコントロールすることはできないのです。苦しみながら、悲しみながら、その中に喜びを持つ。安岡正篤氏が言われた「喜神を含む」という言葉が思い出されます。
また、孔子も進退窮まったことがありました。「君子固窮(「君子困窮」とも)」という話です。小人も君子も困窮することはあるが、うろたえて自分を見失うのが小人、泰然自若としているのが君子、という内容です。
「物質的な価値は心の平和をもたらすことができません。だから、私たちの真の人間性である内的な価値に焦点を当てる必要があるのです。そうすることによってのみ、心の平和が得られますし、世界をもっと平和にできます。戦争や暴力といった私たちが直面している多くの問題は、私たち自身が作り出したものです。自然災害と違い、これらの問題は人間自身によって生み出されているのです。」(p.39)
ダライ・ラマ法王は、人類の問題は内的な問題だと言います。つまり、頭と心の問題だと。
「私が語りたいのも幸福についてではありません。喜びについて語りたいのです。喜びは幸福を含んでいます。幸福よりもずっと偉大なものなのです。出産間際の母親のことを考えてください。ほぼすべての人が痛みから逃れたいと願いますが、母親は出産に強烈な痛みが伴うと知っていても、それを受け入れる。出産の苦しみを味わった後でも、赤ん坊が生まれるや、喜びに包まれます。」(p.41)
お勧めしている「神との対話」シリーズでも「痛みと幸福は両立しないものではない」と語られていますが、痛みが苦しみに直結するわけではないという例ですね。ツツ大主教は、幸福よりも広い概念として「喜び」があると言います。
「ダライ・ラマが指摘しているのは、痛みや苦しみを否定することではなく、他にも苦しんでいる人がいるのを見ることで、自分自身から他者へ、苦悩から思いやりへと視点を転換することの大切さだった。注目すべきなのは、他人の苦しみを認め、苦しんでいるのは私たちだけではないことに気づくと、苦痛が和らぐとしている点だ。
私たちはしばしば他人の悲劇について聞き、自分の状況がそこまでひどくないことにほっと胸を撫でおろす。ダライ・ラマが行なっていたことはそれとはまったく異なる。彼は自らの状況を他人のそれと比較したりしない。自分の状況を他人のそれと融合させ、自分のアイデンティティを広げ、自分とチベットの人々が苦しみにおいて一人ではないことを見つめるのだ。」(p.46-47)
「私たちは自分の国を失い、難民になりましたが、その経験がより多くのものを見る新たな機会をもたらしてくれました。私個人に関して言えば、あなたのようなさまざまな霊的実践者や科学者と会う機会を得たのは、難民になったからです。」(p.47)
ダライ・ラマ法王は、自分の苦しみに浸って自分だけが災難を被っているかのような見方をしません。苦しみを感じた時、他の苦しんでいる人たちに思いを馳せるのです。その時、あの人たちよりマシだと比較して安堵するのではなく、あの人たちも同じように苦しんでいると共感し、助けになってあげたいと思われるのです。
「苦悩や悲しみは多くの点で、制御することができません。それらは自然に生じます。誰かに殴られたとしましょう。痛みはあなたの中に苦悩や怒りを生み出します。あなたは仕返ししたくなるかもしれません。でも、仏教徒であれクリスチャンであれ、またその他の宗教的な伝統に属していようと、霊的な成長を遂げれば、自分の身に起こることはどんなことでも受け入れられるようになります。罪があるから受け入れるのではありません。起こってしまったことだから受け入れるのです。人生はそうやって織りなされていきます。好むと好まざるとにかかわらず、起こることは起きます。人生にはフラストレーションがつきものです。問題は、いかに逃れるかではありません。いかにしてそれを肯定的なものとして活用できるかなのです。」(p.48-49)
ダライ・ラマ法王は、出来事はコントロールできないし、それによって苦悩や悲しみにさいなまれることはどうしようもないと言います。しかし、それを怒りに変えて誰かを傷つけようとするかどうかは、見方次第だと言います。どんな出来事に対しても、肯定的な意味を与えることができるのです。
「いや、二七年は必要だったのだ、と私が言えば、人々は驚くでしょう。しかし、不純物を取り除くためにはそれだけの時間が必要だったのです。刑務所内での苦しみによって、彼は包容力を増して、相手の話を進んで聞くようになりました。彼が敵とみなしていた人々もまた恐れや期待を持っている人間であることを発見するためにも、時間が必要だったのです。彼らは社会によって作られたのです。二七年という歳月がなかったら、慈悲心や雅量の豊かさ、他人の立場に立って考える能力を持ったネルソン・マンデラを見ることはなかったでしょう」(p.52)
アパルトヘイト政策を実施していた政権を打ち倒そうとして投獄されたマンデラ氏は、27年間の獄中生活によって精神が鍛えられ、次代を担う指導者として成長したのでしょう。敵もまた同じ人間だ。その共感力は、理不尽に苦しめられた経験が育てたのです。
そのことを思うと、孟子の教えを思い出します。「天の将に大任を是の人に降さんとするや、必ず先づ其の心志を苦しめ、・・・」という言葉は、まさにこのことを語っていますね。天はマンデラ氏を必要とし、鍛え、働かせたとも言えるのです。
「病院への道すがら、ずっとこの老人のことを考え、彼の苦しみを感じていました。そのおかげで、自分自身の痛みのことをすっかり忘れていました。自分への注意を他者に切り替えるだけで、自分自身の痛みが薄れたわけです。これが慈悲の性質なのです。身体レベルで慈悲が働く仕組みなのです。」(p.55)
ダライ・ラマ法王が急な腹痛に襲われて車で病院へ移動していた時、苦しみながらも車の窓から地面に横たわっていた老人が見えたそうです。病気のようで、汚い身なりをして、誰も面倒を見ようとはしていませんでした。その老人のことを考えていたら、自分の痛みを忘れていたと言われるのですね。
「簡単に言うと、私たちが自分の痛みを癒せば癒すほど、他者の痛みに目を向けることができるようになる。ところが、驚くべきことに、私たちが自分自身の痛みを癒す方法は、実際に他者の痛みに目を向けることによってであると大主教とダライ・ラマが主張しているのだ。それは「良循環」である。他者に目を向ければ向けるほど、私たちはより多くの喜びを味わえるようになり、喜びを味わえば味わうほど、他人を喜ばすことができるようになる。」(p.68)
このようにお二人は、出来事を変えるのではなく見方を変えることで、苦痛や悲しみを減らし、喜びを取り戻す方法を語られたのでした。
そして、自分が喜ぶことで、他人を喜ばせたくなるし、他人を喜ばせることによって、自分もさらに喜ぶことになる。愛が自然と流れ出すようになり、さらに愛しやすくなるのです。
「親たちの間にも、利己性がはびこっています。 ”私の子供、私の子供” と考えるのです。それは偏った愛です。私たちは人類全体、生きとし生けるもの全てに対する公平な愛を必要としています。あなたの敵も人間の兄弟姉妹なのですから、私たちの愛や尊敬、思いやりを受け取るに値します。それが公平な愛です。あなたは敵の行動に対抗しなければならないかもしれませんが、彼らは兄弟姉妹として愛することはできます。私たち人間だけが、知性を用いてそのようなことができるのです。人間以外の動物にはそれができません」(p.82)
ダライ・ラマ法王は、自分の子どもばかりを愛することを偏愛だと言い、それを乗り越えなければならないし、乗り越えていけると言います。ダグラス氏は、それを理想だと思いながらも、自分たちにできるかどうかと疑問に感じたようです。
最近知ったSHOGENさんはアフリカのブンジュ村で、縄文時代の日本人の教えに習って生活する人々と出会いました。彼らはほとんど私物を持たず、たとえば包丁も複数家族で共有する生活をしているそうです。そして子どもは、誰が本当の父親か明確ではないそうです。村全体で子どもを育てているような感じなのだそうです。
考えてみれば日本も昔は、そんな村社会がありました。自分の子どもでなくても悪いことをすれば他の大人が叱る。村の子どもという意識があったのでしょうね。
「その週の対話の最中、大主教は、ネガティブな思考や感情を持ったとしても自分自身を責めるべきではないと再三繰り返した。それは自然で、避けられないことであり、自分を責めれば、罪悪感や羞恥心にさいなまれるだけだ、と。人間の感情が自然なものであることにダライ・ラマは同意したが、ネガティブな感情が避けられないかどうかについては、心の免疫力がつけば避けられると主張した。」(p.88)
これは「神との対話」シリーズでも語られていますが、まず沸き起こる感情を抑圧するなと言っています。抑圧されない感情は自然なもので、抑圧しないことによって、感情がいびつになることを防げるのだと。また、罪悪感は百害あって一利なしとも言っています。
そういうことからすると、私は両者の主張は共に正しいものだと思います。私たちが成長していくに従って、ネガティブな感情は起こらなくなっていくでしょう。
「私たちはしょっちゅう自分に腹を立てます。最初からスーパーマンやスーパーウーマンであるべきだと思っているんです。ダライ・ラマの落ち着きは最初からあったわけではありません。優しさや慈悲心が育ったのは、祈りや瞑想の実践を通してです。適度に忍耐強く、受容的なのもそのためです。彼は状況をあるがまま受け入れます。不可能なことをしてむだ骨を折っても、傷つくだけだからです。」(p.94)
ツツ大主教は、このように法王のことを言います。そのように言えるのは、おそらくツツ大主教もそうだからでしょう。
「「勇気とは、恐れがないのではなく、恐れを打ち負かすことだということを私は学びました。私は思い出せないほどたくさん怖い思いをしてきましたが、それを大胆さの仮面の背後に隠していました。勇敢な人間とは、恐れを感じない人間ではなく、恐れを克服する人間なのです」。私が大主教と一緒に、『神は夢を持っている』という本に取り組んでいたとき、大主教は似たようなことを言った。「勇気とは恐怖がないのではなく、あるにもかかわらず行動できる能力を指します」と。」(p.96)
ダライ・ラマ法王とツツ大主教は、「勇気」に関して同じようなことを言われています。恐れを感じないことではなく、恐れを感じていても、感じるがままに突き進むという情熱なのです。
ふと、思い出しました。初めてOSHO氏のことを知って読んだ本のタイトルが、「Joy(喜び)」と「Courage(勇気)」であったことを。そこに、「勇気」について、次のように書いてありましたね。
「勇気ある者は、あらゆる恐怖にもかかわらず、未知の世界へと進んでゆく。」(「Courage」 p.12)
「勇敢とは恐怖でいっぱいであっても、恐怖に支配されないことを意味しているのだ。」(「Courage」 p.116)
そして、恐れを排して突き進むよう励ましていました。
「心の道は勇気の道だ。それは安全ではないところで生きることだ。それは愛の中に生きること、信頼の中に生きることだ。」(「Courage」 p.19)
「簡単な練習から始めなさい。いつも覚えていなさい。選択する必要がある時は、いつも未知のもの、リスクのあるもの、危険のあるもの、不安定なものを選びなさい。そうすればあなたは何も失わないだろう。」(「Courage」 p.189)
恐れがあっても、あえて恐れていることを選択するようにと言います。なぜなら、恐れの対極が愛だからです。
「ダライ・ラマは恐れと怒りの奥にある深い微妙なつながりを指摘し、恐れがどのように怒りの下に潜んでいるかを説明した。普通、いらだちと怒りは傷つけられることから生まれる。頭を車にぶつけたドライバーが良い例である。私たちは肉体的な痛みに加え、精神的な痛みも経験する。後者のほうがありふれていると言えるかもしれない。私たちは尊敬されたり、親切にされたいと望むが、軽蔑や批判など望んでもいなかった扱いを受けることがある。ダライ・ラマが言うには、怒りの根底には、必要なものを手に入れられないのではないか、愛されないのではないか、尊敬されないのではないか、仲間に入れてもらえないのではないかといった恐れがある。
怒りから抜け出す一つの方法は、怒りを生み出している傷はなにかを自問することである。心理学者はえてして怒りを二義的な感情と呼ぶ。脅かされているという感情の防衛として生じるからだ。恐れ−−どのように脅かされているか−−を認め、表現することができれば、怒りを鎮めることができる。
だが、そのためには、自分が傷つきやすいことを進んで受け入れる必要がある。私たちは恐れや心の傷を恥ずかしく思う傾向がある。もし傷つくことがなければ、痛みを味わうこともないだろうと考えるからだ。」(p.105-106)
ここで語られている「怒り」に関する考察は、まさにその通りだと思います。私たちは、思い通りにならない時に怒りを感じるのです。思い通りにしなければならないと思っているから。思い通りにならないと、自分が傷つくと感じているから。その恐れから怒りになる。だから怒りは「第二感情」と呼ばれるのです。
怒りが第二感情であることは、「自分を好きになれない君へ」などで野口嘉則さんも語られています。
そこで怒りを感じないようにするには、まずは自然な第一感情である恥ずかしさなどを受け入れる必要があるのです。その感情を抑圧するから、第二感情の怒りが生じる。そういうメカニズムを知ることで、ダライ・ラマ法王が言われるように、心の免疫を強くしていくことができると思います。
「まず第一に、同じ人間だということを認めなければなりません。他人は私たち人間の兄弟姉妹であり、幸せな人生を送る権利と願望を持っています。これはスピリチュアルなことではありません。単なる常識です。私たちは同じ社会の一員なのです。また同じ人類の一員です。人類が幸せなら、私たちも幸せです。人類が平和なとき、私たち自身の人生は平和です。家族が幸せなら、あなたも幸せだというのと同じです。」(p.137)
仏教で言う「ムディター(共感の喜び)」を養う方法を、法王はこのように説明しました。愛する家族と同じように人類全体を考える。たしかに、それができれば、人類全体を愛せるでしょうね。
「しかし、苦しみの中に、少しでも意味や贖(あがな)いの気持ちを発見できれば、ネルソン・マンデラのように、寛大な人間として生まれ変わることができる。
「私たちが精神の寛大さの中で成長をするには、なんらかの方法で、挫折を経験しなければならないことを、多くの事例で人は学びます」と大主教は続けた。」(p.148)
少々のことで傷つかずに寛大さを示せるようになるには、挫折する経験が必要だと言うのですね。挫折や苦しみを経験することで、共感性が向上することはたしかです。ただしひねくれなければ。
このことを思うと、3度も島流しに遭いながらひねくれず、へこたれなかった西郷隆盛氏の精神力は、本当に素晴らしいなぁと思います。
「だから、大主教とダライ・ラマが、それぞれの伝統の中で、慣習を破るのを見て驚いたのだった。
多くのキリスト教の宗派は、キリスト教徒ではない者や特定の宗派に属していない他のキリスト教徒の聖体拝領を禁じる。言い換えれば、多くの宗教的伝統と同じように、グループの一員とそうでない者をきっちりと分けるのだ。「私たち」とみなす人と「他者」とみなす人との間の障壁を取り払う、それは、人類が直面する最大の課題の一つである。最近の脳科学の研究では、人間は自己と他者を一対として理解することが示されている。他者を自分たちのグループの一員とみなさない限り、共感の回路は働かないのだ。多くの戦争がなされ、多くの不正が行なわれてきたのは、他者を自分のグループから、すなわち自分たちの関心の輪から追放したからにほかならない。」(p.174-175)
映画でも観ましたが、ツツ大主教が法王に対して聖体拝領という宗教行事を行なったのです。これはまず、行う側にも抵抗があるし、受ける側にも抵抗があるでしょう。なにせ宗教が異なるのですから。それでも、それを乗り越えてやってみせたということが、とても意義深いと思いました。
「健全な物の見方は喜びと幸福の真の基盤である。どのように世界を見るかが、どのように世界を経験するかを決めるからだ。私たちが世界の見方を変えれば、私たちの感じ方や行動の仕方が変わり、世界そのものを変えることにつながる。」(p.183)
出来事が同じでも見方が違えば経験が違ってくる。このことは、「神との対話」でも内的な経験を変えるとして語られていました。
「神を信じるか否かにかかわらず、受容は喜びに満ちた状態に入り込むことを可能にする。人生が私たちの望みどおりにならないという事実に反抗するのではなく、独自の条件で生きることを可能にするのだ。受容すればまた、時勢に逆らう必要もなくなる。ストレスや不安は、人生はこうあるべきだという私たちの期待から生じる、とダライ・ラマは語った。私たちが、こうあるべきだという人生ではなく、あるがままの人生を受け入れることができるようになると、人生を楽に過ごせるようになる。そうすれば、苦しみ、ストレス、不安、不満が渦巻く受苦(dukkha)の人生から、安らぎや気楽さ、幸福感に包まれるくつろぎ(sukha)の人生に移行する。」(p.211)
起こったことをそのままに受け入れる。その受容によって、ストレスからも解放されるのです。「神との対話」シリーズでも、期待するなということが何度も語られています。
「私たちはネルソン・マンデラを驚くべき許しの象徴として語りましたが、あなたも、あなたがたも、みな、信じられないほどの思いやりや許しを示せるかもしれません。まったく他人を許せない人がいるとは思えません。法王が指摘しているように、私たちはみな、殺人などによって自分の人間性を傷つけた人々を気の毒に思う能力を潜在的に持っています。」(p.216)
後にアパルトヘイト政策によって虐殺した人々を裁くことになった時、被害者家族の中には犯人を許し、助命嘆願した人が何人もいたそうです。そのことを実際に見てこられたから、ツツ大主教の言葉には説得力があります。
「亡命中でさえ存在する好機に感謝するダライ・ラマの能力は、深遠な視点の転換であり、自分を取り巻く現実を受け入れるだけではなく、あらゆる経験に好機を見ることを可能にした。受容とは、現実と戦わないことを意味する。感謝は現実を受け入れることを意味する。大主教が勧めるように、自分の重荷を数えることから、恵みを数えることに視点を移すのだ。それは妬みの解毒剤であると共に、自分自身の人生を評価するための秘訣でもある。」(p.226)
法王は、毎朝目覚めた時、生きていて幸運だと思って感謝するのだそうです。今ある中に感謝の種(理由)を見つけ出すこと。その見方の転換によって、私たちはいつでも感謝することができます。そして、感謝するから喜んでいられるのです。
「「もし私が怒って、許さないでいたら、彼らは私の残りの人生を奪っていたでしょう」とヒントンは答えた。
許すことを頑なに拒むと、私たちは人生を楽しみ、感謝する能力を奪われる。なぜなら、怒りと恨みに満たされた過去に囚われるからだ。許しは過去を乗り越え、顔に降りかかる雨のしずくはもちろん、現在も楽しむことを可能にする。」(p.228)
自分が犯してもいない罪で死刑囚となったアンソニー・レイ・ヒントンは、30年間の収監された後、釈放されたのだそうです。そしてインタビューにこのように答え、間違って刑務所に送り込んだ人々を許したと言ったのです。
ここで思い出すのは、「ゆるしとは、相手が自分を傷つけたという誤った解釈を正すこと」だと言われたジャンポルスキー博士の言葉です。傷ついたという見方をやめて、お陰で良い結果を得たと解釈すれば、許すことは簡単であり、そのことで幸せになれます。
「たしかに私は、三〇年という長い年月、狭苦しい独房にいました。でも、刑務所で一日も、一時間も、一分も過ごしたことがないのに、幸せでない人たちがいます。”なぜだろう?” と私は自問します。なぜ彼らが幸せでないかの理由は言えませんが、私が幸せなのは、幸せであることを選んだからです」(p.229)
「「感謝しているとき、あなたは恐れていません」とスタインドル=ラスト修道士は説明した。「恐れていなければ、あなたは暴力をふるいません。感謝すると、人は足りないという感覚ではなく、満ち足りているという感覚から行動するので、喜んで持っているものを分かち合います。また特定の人々に感謝することと、誰にでも敬意を払うことの違いを楽しみます。感謝する世界は楽しい人々の世界です。感謝する人々は楽しい人々です。感謝する世界は幸せな世界なのです」」(p.229-230)
出来事が喜びを決めるのではないのです。その出来事に感謝するという意志によって、喜びが沸き起こってくるのです。
「神との対話」でも、在り方を選べと言っています。幸せでありたいなら、幸せを選べばいいのです。
「私たちが自分自身を受け入れ、自分の傷つきやすさや人間性を受け入れれば、他人の人間性を受け入れることも容易になる。自分の欠点を憐れに思うことができれば、他人の欠点も憐れみをもって捉えることができる。つまり、私たちは寛大になり、他人に喜びを与えることができるようになるのだ。」(p.258)
自分の不完全さを受け入れ、許すなら、他人の不完全さも許容できます。自分をありのままに愛することができるなら、他人もありのままに愛せます。自分に寛容であることは、他人に対する寛容さにつながるのです。
つまり、まずは自分を愛するようにということですね。自分を愛することで、ありのままの自分でいいと思えたら、その喜びは自然に流れ出し、他人を愛するようになるのです。
映画を観て感動したのは、お二人が言われるように生きておられることが伝わってきたからです。理不尽な目に合わされ、虐げられ、それでも自分自身の心と向き合ってこられた。そして今、喜びの中に生きておられる。そのお姿が感動的だったのです。
言われている内容は、たびたび書いているように「神との対話」などですでに知っていることです。ですから、特に目新しさはありません。しかし、だからこそ、実践が重要なのだと思います。
私は、「神との対話」を読んで感動し、その通りに生きてみようと決意しました。まだまだ十分にはできていないと思いますが、それでも自分を諦めずに、不安や恐れを捨てて愛に生きようと思っています。
そういう私にとって、このお二人の生き様に触れることができたということが、とてもありがたいことだと感じました。
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