2024年01月30日

未来を変えた島の学校

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誰の紹介で興味を持ったのかは忘れましたが、私のふるさと島根県のことだったので興味を持ちました。隠岐の島という過疎化の進む島で、もう廃校になりそうなほど生徒が減った島前(どうぜん)高校の改革によって人を増やし、地域社会が活性化していったという話になります。
この話を聞いて、まず、「教育改革で島を活性化するって、どういうこと?」と思ったのです。その理由が知りたくて読んだのですが、実に素晴らしい内容でした。

著者は、この改革に携わった「隠岐島前高等学校の魅力化と永遠(とわ)の発展の会」初代会長の山内道雄(やまうち・みちお)さん、ソニーを退職後に島前の教育に関わることになった推進役の岩本悠(いわもと・ゆう)さん、そして新聞記者の時代から島前を追ってきた島根県立大学准教授の田中輝美(たなか・てるみ)さんです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

「よそもの」と言われようが、誰よりも当事者意識や問題意識をもって、率先して行動で示してくれていた。「この島には宝が眠ってますよ」と、私たちには見えなかった島の宝を探し、見い出し、光らせてくれました。私のような年寄りがすべきことは、「よそもの」「ばかもの」「わかもの」と呼ばれる彼らから学び、彼らを活かし、彼らが挑戦できる舞台づくりをすることだと考え、実践してきました。
 この八年間で、廃校寸前だった島前高校は、海外からも入学希望者が来る、選ばれる高校に変わりました。無視だけでなく敵視さえされていたかもかもしれない県の教育委員会の雰囲気も一変し、今では離島中山間地の高校の魅力化事業を県が推進するようになりました。そして、特区を申請しても門前払いであった国も省庁が連携し、超党派による議員立法により、高校の教職員定数に関する法律を改正するまでに至りました。
」(p.F)

ただ、私自身は能力も無いですが、ふるさとを守るために、ずっと大切にしてきたことがあります。それは「気合い」です。気合いの気は、元気、勇気、やる気の気ですが、特に、大事にしているのが「本気」です。本気度の高さが物事の成否を決めます。本気度は、どんな人間でも自分の意志で高めることができるものですし、周囲にも伝播していきます。そして、こうした一人ひとりの「気を合わせる」ことが肝要です。チームとして、それぞれの気を一つにつなぎ、大きな流れが生みだせれば、壁は突破できます。そして、この気を合わせるために必要なのが、やはり「愛」です。地域やふるさとへの愛、自分を育んできた人や自然、文化に対する感謝と敬愛です。愛するもののためだからこそ、人は本気になれますし、一人ひとりの異なる気を合わせていくことができます。」(p.G‐H)

島前(どうぜん)三町村の西ノ島町、海士(あま)町、知夫(ちぶ)村は、平成大合併の頃に合併するかどうかの話がありました。当時、海士町の町長だった山内道雄さんは、人口が減っていく海士町だけでなく、島前地域全体が衰退していくことを危惧していました。その象徴が、島前高校でもあったわけですね。
人口が減るのは、進学校に子どもを入れるには松江など本土に渡る必要があり、それを機に家族全員が移住するという傾向があったからです。もし島前高校が廃校になれば、隠岐の島の別の高校に通うにも船に乗る必要があり、それならいっそのこと本土へという流れが加速することは明らかです。
そこで山内さんは、島前高校を改革して、本土へ行かなくても島の高校で十分だと思ってもらえるようにすることが重要だと考えたようです。その時にスカウトしたのが岩本悠さんなど県外の若者たち。地元意識が強い田舎ではどこも同じですが、よそ者に対して冷たくあたります。若者の言うことなど聞きません。そんな中で改革を推し進めていったことが、この文章から読み取れます。


フェリーから、遠く離れていく島影をずっと眺めていると、この小さな離島が「日本の箱庭」であり、「社会の縮図」のように思えてきた。この島が直面している人口減少、少子高齢化、雇用縮小、財政難という悪循環は、多くの地方が抱える共通の問題であり、この先、日本全体が直面していく課題である。学校の存続問題一つとっても、今後少子化が進む社会全体の課題になる。そう考えると、この島はサキモリとして、日本に押し迫ってきている難題を相手に戦う「最前線」であり、未来への「最先端」のように見えた。また島が守り継いでいこうとする、人と自然、文化、産業が調和した循環型の暮らしや、食とエネルギー、人の自給自足を目指す持続可能な地域づくりは、世界の重要なテーマでもある。この島の課題に挑戦し、小さくても成功モデルを作ることは、この島だけでなく、他の地域や、日本、世界にもつながっていく。「一燈照隅、万燈照国」。小さくても、まずこの島が一隅を照らす光を燈(とも)す。そして、その一燈が万に広がり、社会全体が明るくなっていく。そんな「妄想」が岩本の頭に広がっていった。」(p.18)

町長の山内さんの指示で動き出したのは、財政課長の吉元操(よしもと・みさお)さん。吉元さんは、まずは東京の日本語教育の学校の縁で外国人に入学してもらおうと考えたものの、断られて挫折します。次に一橋大学との関係で学生に相談したところ、一流講師を呼んで進学のための授業をする案が出てきたので、すぐに30人ほどの学生と社会人を島に呼びました。その中に、ソニーで人材育成に携わっていた岩本さんがいたのです。

岩本さんは、進学だけでなく、社会で活躍できる人材を育てたり、その後、島に戻ってきて地域に貢献する人材を養成することを目指すことが重要ではないかという意見を述べました。吉元さんは気に入って、岩本さんに島に来ないかと軽く誘ったのです。行きがかり上、それはいいと意気投合したのが、それが岩本さんの運命を変えることになったようです。

それにしても「一燈照隅」という言葉をご存知なのですね。天台宗の最澄の言葉だと言われています。私も比叡山に行ったときに、入り口にこの碑が立っていたので知りました。安岡正篤氏も同じことを言われていたと思ったのですが、安岡氏は「一燈照隅 萬燈遍照」と言われているようです。


「高校に魅力があれば、生徒は自然に集まる。存続、存続というのはかえってマイナスだ」と。魅力化とは、生徒にとって「行きたい」、保護者にとって「行かせたい」、地域住民にとって「活かしたい」、教員にとって「赴任したい」と思う、魅力ある学校になることであって、その結果として「存続」がついてくる。目指すべきは、高校の存続ではなく、魅力ある高校づくりなのだ。しかも、その魅力化は、一過性でなく、永遠に発展し続けるものであるべきだ、との想いが込められていた。」(p.24)

島前高校の存続のために、島前高校の後援会に呼びかけて、高校の存続問題に取り組むことが決まったそうです。その際、後援会に新しい名称をつけようということになり、校長の田中さんがつけたのが「隠岐島前高等学校の魅力化と永遠(とわ)の発展の会」という名前だったそうです。
過疎化が問題だからと言って、嫌がる人々を嫌がるままに地域に縛り付けても意味がありません。地域が魅力的なものであれば、自ずとそこで暮らしたい人は増えていきます。そして、そうでなければ意味がないのです。


否定的な声や、冷淡な態度を思い出しては、「あんたたちの島や学校の問題なんだから、あんたたちがもっとやるべきだろ。なんで、この島やこの学校に縁もゆかりもないヨソモノの自分が、一人でこんなことやってんだよ」と空しくなった。
 アイデアがあっても自分で何一つ決められず、何一つ動かせない状況がもどかしかった。成果が出ないところで時間とエネルギーを浪費しているのではないか。同じ時間とエネルギーをかけるなら、もっと人の役に立てる役割があるかもしれないのに。ここから大きく変えていけるのか。この高校に未来なんてあるのか。島に来て、本当によかったのか。疑問が腹の底に沈殿していた。
」(p.32-33)

「今までのシステムを変えようとするとき、新たな道を切り拓こうとするとき、必ず反発やコンフリクトがあるものだ。だからこそやる意味がある」。そして、「リーダーシップは苦難や修羅場の中で磨かれる。今はまさにその試練のときだ。ありがたい」。そんなふうに考えることで、岩本は自分自身を支えていた。」(p.33-34)

笛吹けども踊らず。人はなかなか動かないものです。当たり前と言えばそうですが、岩本さんにも苦悩の時期があったのです。
けれども、そこで諦める人ではなかったようです。逆境をバネにして、むしろ好機と捉え、前進し続けたのですね。


島前地域に長年続いてきた[若者流出 → 後継者不足 → 既存産業の衰退 → 地域活力低下 → 若者流出]という「悪循環」を断ち切り、[若者定住 → 継承者育成 → 産業雇用創出 → 地域活力向上 → 若者定住」という「好循環」に変えていくためには、地域のつくり手を地域で育てる必要がある。それは「田舎には何もない」「都会が良い」という偏った価値観ではなく、地域への誇りと愛着を育むこと、そして、「田舎には仕事がないから帰れない」という従来の意識ではなく「自分のまちを元気にする新しい仕事をつくりに帰りたい」といった地域起業家精神を醸成することで可能となる。そのことを踏まえると、島前地域唯一の高等学校である島前高校の存在意義は、地域の最高学府として、地域の医療や福祉、教育、文化の担い手とともに、地域でコトを起こし、地域に新たな生業や事業、産業を創り出していける、地域のつくり手の育成にあるといえる。
 とはいえ、高校卒業時に島へ残るよう無理に押し留めるようなことや、「遠くへ行って欲しくない」と近場に抑えようとすることは、生徒たちの可能性の開花を阻害するので、すべきではない。島から出る生徒は、「手の届く範囲に」などと小さいことを言わず、海外も含めて最前線へ思い切り送り出す。ブーメランと同じで、思い切り遠くへ飛ばしてあげた方が、力強く元の場所へ還ってくるだろう。
」(p.38-39)

田舎あるあるですが、地方には仕事がないから都会に出る、都会に出ればそこが快適だから戻らなくなる。太田裕美さんの「木綿のハンカチーフ」で歌われたように、そういう現象が全国にあります。それもこれも、地方が魅力的ではないからですね。


三人はそれぞれの仕事を終えて深夜に集まっては、学校や三町村で起こった問題について協議した。「できない言い訳ではなく、できる方法を考えよう」を合言葉に、現場・現実志向の浜坂、歴史・文化を重んじる吉元、理想・未来から発想する岩本、三者が心から納得できる解決策を常に探した。議論の際は、浜坂が持つ教員や生徒、学校の視点、吉元が語る保護者や、行政、地域の視点、岩本の持ち込む島外や社会、グローバルな視点など、三方それぞれにとって良い、「三方よし」を大事にしていた。」(p.43-44)

島前高校の改革プロジェクトには、さらに社会教育主事という制度を利用した浜坂健一(はまさか・けんいち)さんが加わります。浜坂さんは、西ノ島町で小学校教員をしていましたが、島前三町村の融合のため、海士町以外の町村から人材を求めていたのです。粘り強く頑張れて、新しい発想にも柔軟に対応できる人材として選ばれました。
三人寄れば文殊の知恵と言いますが、個性の違う3人が1つの目標に向けて心を1つにすることができれば、たいていのことは叶うと言われます。吉元さん、岩本さん、浜坂さんの3人は、ワーキングメンバーとしてプロジェクトを推進していったのです。


二人から「今までの実績のアピールや日本の教育を変えたいといった大きな話はせず、島の祭りや奉仕活動に参加した方がいい」と釘をさされたこともあり、地区の清掃や綱引きの練習にも熱心に取り組み、口より手足を動かし、汗をかいた。一年過ぎた頃には、言われたことの意味がわかるようになった。もう一人のスタッフである伊藤も、自分にできることをやろうと、毎日欠かさず、後鳥羽上皇に所縁(ゆかり)のある隠岐神社の境内を掃除した。こうした一つひとつの行動が、地域からの信頼を培っていった。」(p.93-94)

人材育成会社の学校事業部の責任者だった豊田庄吾(とよた・しょうご)さんもワーキンググループに加わることになりました。高校が思い通りに動かないので、塾のような課外学習のための学習センターを立ち上げ、その運営の人材を求めていたのです。
新しく入った人もまた島外の人ですから、地域住民から信頼されることが最優先なのですね。だからいきなり上から目線で新しいことを押し付けようとするのではなく、地域でやっていることに一緒に取り組み、その中で信頼されることが重要なのです。

「三方よし」の根本は、他者理解にあるからこそ、学校とはできる限りコミュニケーションをとって意思疎通することに努めた。例えば、生徒が豊田に、ある問題集の中の全文訳のコピーがほしいと言ってきた。不思議に思いすぐに学校に問い合わせると、「生徒自身に訳させ、力をつける意図で全文訳は渡していない」ということがわかった。迷わず、生徒にコピーをやめさせた。その教員は「こういう電話は助かります、ありがとうございます」と喜んだ。」(p.98)

学校が動かないから学習センターを創ったとは言え、学校は敵ではないのです。助け合い、協力し合って、同じ目標に向かって突き進む仲間です。その前提があるから、相手を立てるということができるのですね。


岩本は、島留学で高い期待を持った生徒や保護者が来て、現場でどんどん注文することで、現実を理想に引き上げていこう、という思いがあった。また、全国から多彩な「脱藩生」を募集するのだから、今までのやり方が通用しない、ある程度の軋轢(あつれき)や波乱は「あるもんだ」という前提だった。それを一つずつ克服していく過程を通して、生徒も学校も問題解決力が磨かれ、魅力が増していくと考えていた。一方、教員には、「トラブルがあったら困る」「そもそも問題は起こさないことが大切」という考え方が強くあった。」(p.102)

島前高校の生徒数を手っ取り早く増やすために、全国から留学生を募集したのですね。それが刺激となって、外界を知らない島の子どもたちも活性化していく。そういう目論見があったようですが、温度差というものはどこにでもありますね。さらに応募する側も期待したものとは違うという現実も露呈し、結果的に、最初は上手くいかなかったようです。

島外からの生徒募集に関しては、離島の高校が持つ構造上の課題を隠さずに、逆にセールスポイントに変えていく広報戦略に変更した。
 「島には、コンビニ、ゲームセンター、ショッピングモール、アミューズメントパークなど、早く簡単に楽しませてくれる、便利で快適なものがない。そうした環境だからこそ、忍耐力や粘り強さが育ち、限られた資源の中で ”あるもの” をうまく活かして豊かに生きていく知恵が身につきやすい」「波が高くなれば船は欠航し、移動もままならない。だからこそ、自然への畏敬の念やどうしようもないことを受容する力だつく」。
」(p.110)

何ごとも、それ自体に「良い」も「悪い」もありません。欠点だと思われていたことが、見方を変えれば長所になります。だから隠さずに正直にすべてをさらす。それを欠点だと見たい人はそう見ればいい。けれども、「だからこそ長所だ、という見方もある」ことを提示することで、納得して島にやってくる留学生を募集したのです。
ピンチはチャンスでもあります。だからまずそのものをありのままに受け入れる。正直に語る。そういうことが、大切なことだなぁと思います。


退散しても、またアポもなしに現れる岩本と吉元。県教育委員会のある職員は、「倒しても倒しても、また立ち上がって新たな提案を持って向かってくる。こっちはファイティングポーズで構えているのに、向こうは笑顔で無防備に近づいてくる感じだった。次第に、今度はどんなのを持ってきたんだよ、と少しだけ楽しみにもなった」と言う。」(p.144)

高校そのものもそうでしたが、県教委はさらに動かない壁だったようですね。それに対しても歯向かうのではなく、味方だという前提で、諦めずに立ち向かったのです。
かつてヤコブは天使と組み討ち(相撲のようなもの)をして、負けているにも関わらず諦めずにすがりつき、祝福を勝ち取りました。旧約聖書にある物語ですが、そこから「イスラエル(勝利者)」という名前が始まったのです。ものごとを動かす力は、相手に勝つ才能ではなく、何があっても負けないと粘る根性なのです。


島がこれだけ大変な中で、町長さんは給料を半分にしていたり、批判されてもいろいろ新しいことに挑戦しているじゃないですか。悠さんみたいなIターンの人たちだって、この島と関係ないのによそから来て、何か本気で頑張ってるじゃないですか。そういう人たちの話を聴いたりその姿を見たりする中で、だんだん思うようになってきたんです。自分もなにかやりたい。この人たちと一緒に、自分もはやく戦いたいって」。
 それを聴いて理解できた。凝った教育プログラムや優れた教育ツールが彼らの想いを育てたんじゃない。結局、人が人を育てているんだと。
」(p.180)

このプロジェクトによって、高校生たちの目の輝きが変わったのです。それは、魅力的な大人たちの生き様に刺激を受けたことで、自分の内なる欲求が噴出してきたようです。
諦めない。情熱を持って挑戦し続ける。倒されても倒されても立ち上ががる。泣き言を言わない。笑顔で突き進む。そういう生き様が人々の感動を呼び、協力したいという想いを呼び覚まし、人々の心に火を灯したのですね。


こんなことが、ふるさと島根県の過疎化が進む島で起こっていたなんて、本当に知りませんでした。そして、思いました。田舎を活性化させるのは、風光明媚な景観とか人々を引き付ける施設ではなく、人そのものだということ。情熱を持ったたった1人の人から始まり、それが3人となって力を合わせることができるなら、その地域は変わる。
あとは、それを誰がやるかということだけですね。誰?・・・その答えは、常に1つしかありません。「わたし」ですね。要は、常に私がやるかどうか、それだけが問われているのです。

まぁ、私が何をやるかはさておいて、このような感動する本に出会えたことは、私にとって望外の幸せです。このような本を世に送り出してくださった方々、紹介してくださった方、本当にありがとうございました。
 
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 14:18 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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