Youtubeでたまたま動画を観て、そこに著者のSHOGEN(ショーゲン)さんと、ひすいこたろうさんが出演されていました。ショーゲンさんがアフリカのブンジュ村で聞いたり体験した話が興味深く、出版されたら読んでみようと思って予約してこの本を買いました。
非常に話題性があったためか、発売当初は品薄で、プレミアム価格で売る転売業者も多数ありました。私も最初は転売ヤーから買おうとしたのですが、入荷の予定がないままの見込み販売だったようでキャンセルし、沈静化してから通常価格で買いました。
ショーゲンさんの話は、Youtubeの動画を何本か観て、だいたいわかっていました。
100年以上前にブンジュ村のシャーマンが、縄文時代の日本人の魂から生き方を学び、それをブンジュ村に広めて、今はその生き方が村全体に定着していた。そこにショーゲンさんがやってきたが、最初は伝え聞いていた日本人のイメージとまったく異なるため、本当に日本人かと疑われる始末。しかし、本来の日本人らしさを日本人が取り戻すことが世界の希望だとわかっていたので、ショーゲンさんにそのメッセージを広めてもらおうとした。
このメッセージが本書にも書かれていました。
ただ1つ、動画にあったあるメッセージには触れられていませんでした。それは、2025年7月の話です。
動画では、2025年7月に何かが起こるというより、それ以降に世界が変化していくという話でした。津波とか大災厄の話はありません。
そのメッセージを本書でどう語っているのかが気になったのですが、まったく触れられていませんでした。つまり著者のお二人は、読者を不安がらせたり恐れさせるようなことはしない、という考え方なのでしょう。
不安を煽るのは偽物のスピリチュアルだと思いますから、少なくともお二人は、偽物のスピリチュアルとは一線を画しておられるのでしょう。書かれてなくて正解だと思いました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「効率よく考えるのであれば、生まれてすぐ死ねばいい。
人はいかに無駄な時間を楽しむのかっていうテーマで生きてるんだよ。
お前の心のゆとりはどこにあるんだ?
お前の幸せはいったいどこに行ったんだ?」(p.7)
ブンジュ村の友だちで3歳のザイちゃんがお父さんに「流れ星をつかまえに行きたい」と言った時、お父さんは当たり前のように一緒に行って、1時間半くらい探して帰ってきたそうです。さらに翌日もまた行くと言うのでやめさせようとすると、お父さんはショーゲンさんに、「お前は流れ星をつかまえに行ったことがあるのか?」と問うたそうです。行ったこともないのに最初からできるはずがないと決めつけ、無駄なことをしようとしない。そういうショーゲンさんの態度を見て、お父さんはゆとりがないと指摘したのです。
たしかに、私たちは何のために生きているのでしょう? タイ語では、人生はしょせん「ギン、キー、ピー、ノーン(食って、糞して、やって、寝るだけ)」だと言います。それにいったい何の意味があるのでしょう?
ただ効率だけを考えるなら、生まれてもさっさと死んだ方が無駄がない。いや、生まれる必要すらない。私たちは、無駄をするために生まれてきたという逆説が考えられるのではないか。そんな気がします。
「その絵を見た瞬間に「これだ! これで生きていこう」と僕は思い、また絵からも「あなたも描けるよ、絶対できるよ」って応援されているように感じたんです。
そんなことは初めての感覚。心揺さぶられるものに出会ってしまった、という感じでした。
「もうアフリカに行くしかない!」
これを逃したら、二度とこんな衝撃には出会えないと思ったので、その日の夕方にアフリカ行きの航空券を買い、その翌日には会社に退職届を出し、僕は「この絵を描く」と覚悟を決めました。」(p.22-23)
こうして6年以上勤めた化粧品会社を辞めて、アフリカに渡ったのだそうです。たしかに衝撃的な出来事だったのかもしれませんが、素直に直感に従う姿勢、そして決断して行動するまでの素早さが、素晴らしいと思いました。
日本では昔から「思い立ったが吉日」と言っています。できるかどうかではなく、やるかどうか。やりたいかどうかだけなのですね。
「そして、最後に村長の奥さんが、僕にこう聞いてきました。
「この世の中からお金というものがなくなったとしたら、あなたは生きていける人間ですか?」」(p.32)
ショーゲンさんがブンジュ村で生活するにあたり、村長さんからは3つのことを尋ねられたそうです。それはブンジュ村に伝わる「幸せの3か条」で、「食事に感謝できるか」「日常的に挨拶を交わせる家族や仲間がいるか」「人の温もりがわかるか」の3つだそうです。
それに加えて奥さんからは、お金がなくなっても生きていける、つまり、仲間と助け合えるかどうかを尋ねられたのです。
それぞれ別の言い方ではありますが、要は他の人たちを愛せるか、愛し合えるか、ということだと思います。ブンジュ村で暮らすには、そういう人間であろうとする思いが必要なのですね。
「「おはよう。今日、誰のために生きる?
オレは自分のために生きるから。それではまた」
大人も子どもも、そう言います。
「今日も、自分の人生を生きられた?」
「今日は、どんないいことがあった?」
と聞きます。」(p.48)
「挨拶は「とりあえず言うもの」ではないんです。相手の顔をちゃんと見て、その人の状態を感じて声をかけるんです。
「ショーゲン、空を見上げている?」
僕はブンジュ村に来た当初、朝も昼も、こう挨拶されていました。それはカンビリさん家族だけではなく、通りすがりの人からも、です。
ここでは「空を見上げる心の余裕」を大事にしています。
「なんでショーゲンは、そんなに心に余裕がないの?」
と、よく言われました。」(p.48-49)
挨拶は、とりあえず言うものではなく、相手のことをよく観て、心から慮って言うもの。ブンジュ村では、実際にそうしていたし、だからショーゲンさんは心に余裕がないと見られて、空を見上げているかと尋ねる挨拶をされたのですね。
そのうちショーゲンさんにも余裕が出てくると、村人たちの挨拶が変わってきたそうです。村人同士がするのと同じように、「誰のために生きる?」という挨拶になったのですね。
「また、朝、仕事に行く途中、知り合いに会って、ついつい立ち話が長くなってしまったという時。
「仕事の時間だから、もう行かなくちゃ」
とは誰も言いません。話をちゃんとし終わってから、仕事に行きます。
みんな仕事に誇りを持っているけれど、それよりも今、目の前にいる人をとても大事にしているのです。それで仕事に遅刻したとしても、文句を言う人もいないのです。」(p.53)
バシャールの話を思い出しました。今のワクワクに従うなら、仕事だからという理由だけで自分を制限したりしないはずだと。ブンジュ村の人たちは、そういう考え方が染み付いているのでしょうね。
「失敗やヘマをすることは、恥ずかしいことじゃない。人間らしい行為であり、かわいい行為だって言うんです。
不完全であるからこそ、愛される存在だということ。だから、失敗した時は、この村では「そんな私って、かわいくない?」ってみんな言います。
そして、そんな様子をそのまま子どもに見せることで、子どもは「完璧じゃなくてもいいんだ」と自分を肯定できるようになるんです。」(p.62)
失敗やヘマを悪いことだと思わないばかりか、それが魅力的なのだと信じている。素晴らしいなぁと思います。
「「自分が、自分の一番のファンでありなさい」ということは、自分に愛を吹き込む行為です。
ある時、村長が言いました。
「愛が注がれたものからしか、愛は与えられないんだよ」
自分自身を愛で満たしていれば、自分の行為のすべてに愛が宿る、というのです。」(p.75)
まずは自分を全肯定して、素晴らしいと称賛する。それが自分を愛することですね。そして自分が愛で満たされたからこそ、他人を愛することができる。
私も昔、考えたことがありました。自分が満たされないから、他人を愛せないのだと。ただそのころは、その自分を満たす愛を他人に求めていました。だから愛の取引きをしてしまったのです。私があなたを愛するから、あなたは私を愛してくれ。私が愛した1/10でいいから愛してくれ。愛に飢えていたのです。
本当はただ自分で自分を愛すれば良かっただけ。自分が自分を愛さないから、自分を憎み、他人を恨んだのです。
「外に干してある洗濯物だって、着たい人が着ていいんです。家族かどうかは関係ありません。お気に入りの服を干していて、誰かがそれを着て行ってしまったとしても、この村では「着てくれたんだ」と思うだけ。「自分の物」という感覚が薄いので、問題にならないのです。」(p.80)
ブンジュ村ではシェアするのが当たり前だったそうです。包丁すら数家族でシェアしていて、どこの家にあるかをみんなが知っていたとか。もしジャガイモを切りたくなったら、ジャガイモを包丁がある家に持って行って、一緒に切ってもらえばいい。そういう考え方なのだそうです。
「カンビリさんは、さらに熱く語りました。
「感謝の気持ちを伝えたいって思う時の心は、どういう状態だと思う?
心に余裕がある時なんだ。
心に余裕がないと、誰も感謝を伝えたいなんて、思えないよね。」」(p.90)
心に余裕があれば、今あるがままの中に感謝の種を見つけることができる。ブンジュ村の人たちはそう考えるので、たとえばリュックの紐が3年切れてないだけで「すごい!」と感動し、そのメーカーに感謝の気持ちを伝えたいと思うのだそうです。
ショーゲンさんも帰国後、ライブイベントで描いた時のペンキの色が素晴らしいと感動し、すぐにペンキメーカーに感謝を伝えに行ったそうです。それが縁で、スポンサーになってもらえたとか。スポンサーになってもらおうという下心からの行動ではなく、真心からの行動だったから、そういう結果が起こったのでしょう。
私も、飛行機に乗ってCAさんの対応が素晴らしかった時、感動と感謝の手紙を航空会社に送ったことがありました。私の場合は、それで何か恩恵を得たわけではありませんが、もしそれが社内で広められて喜んでもらえたなら、それで十分だと思っています。
「村長はさらに言いました。
「虫の音がメロディーとして聞こえる、会話として聞こえる、
その素晴らしさは、当たり前じゃないからね。
なんでそういう役割を日本人が与えられたのか、ショーゲンはもう気づいているでしょ?
幸せとは何か、本当に大切なことは何か、
それがすでに日本人はわかっているからだよ。
だからそれを伝えていく役割が日本人にはあるんだ。
そのことに気づいてほしくて、ずっとずっとショーゲンに語ってきたんだよ」
そう言われて、何かのスイッチが入ったような感覚になりました。
「日本人として生きていく」
言ってみれば、そういう決意のスイッチです。」(p.112-113)
日本人は、心に余裕があって自然を豊かに感じることができる感性を持っている。だから、日々の暮らしの中で幸せを感じ、自分を愛し、他人を愛し、自然を愛して生きていける。そういう日本人の生き方を、自らがやってみせることによって、世界の人々に知らせていくのが日本人の使命。
その使命を思い出させるために、ブンジュ村の村長さんはショーゲンさんにメッセージを伝え、そしてショーゲンさんは私たちに伝えてくれているのです。
「村長がある日、僕に言いました。
「ショーゲン、なんで日本人は心のゆとりを失ったんだ?
今の日本人は、みんなそうなのか?
空も見上げられない人が多いのか?
誰かに、心のゆとりを持っていかれたのか?
本当の日本人は、そうじゃなかったんだ。
世界中で一番、空を見上げる余裕を持っていたのが日本人なんだ。
取り戻してくれ、今すぐに。
世界中の人が一番大切にしないといけないのは、日本人だとおれは言い切れる。
だから、その感性を取り戻してほしい。
日本人は、心の豊かさと、ゆるがない心の安定を持っている人であってほしい。
それが日本人の役割なんだよ」」(p.122-123)
私たちは日本人として、ブンジュ村の村長さんの期待に応えられるでしょうか? 世界の人々の希望でいられるでしょうか?
「僕の帰国が決まった時、村長は言いました。
「虫の音がメロディーとして、会話として聞こえることが、
どれだけ素晴らしいことか、日本人には改めて考えて、感じてほしい。
ショーゲン、日本人にその素晴らしさをちゃんと伝えてね。
おれは地球にはまだ希望があると思っている。
日本人は1億2千万人もいる。世界は80億人だ。
世界の80人に1人は日本人なんだ。
だから、地球にはまだまだ可能性がある。
地球のために頼むぞ日本人!
日本人こそが世界を真の幸せに導ける人たちなんだから」」(p.130-131)
ブンジュ村の村長さんは、この本が出版される前に亡くなられたそうです。村長さんの遺言を、私たちは受け止められるのでしょうか?
「村長からは、「聞いてくれた人みんなにわかってもらえなくてもいい。ただ、話し続けることが大事なんだ。話し続けることは、自分も聞き続けていることだから、ショーゲン自身も変わっていくよ」と言われました。」(p.132)
私がやっているのも、そういうことです。メッセージを発信していますが、それは誰かを変えるということよりも、自分自身が変わるためなのです。
だから、変わりたいなら表現することです。自分がメッセージを発信し続けることです。ショーゲンさんも、それによって自分が変わったと言われています。
「サティシュさんのお母さんは、さらにこう言ったそうです。
「お母さんはね、針を動かしてる時ほど、心が休まる時間はないの。
でも機械に急かされるようになったらおしまい。
それに、機械があれば仕事が減るなんていうのは、嘘だと思う。
年に1枚か2枚のショールでよかったのに、ミシンがあったら10枚のショールを作ることになって、結局はあくせく働くことになる。そうなれば、前よりもずっと多くの布が必要になってしまうわね。
時間を節約したとしても、余った時間で何をすると言うの?
仕事の喜びは、私の宝物みたいなものよ。」」(p.176)
ひすいさんのパートですが、インド生まれの思想家サティシュ・クマールさんのエピソードが書かれています。
ここにも、「生きる」とは効率ではないのだということが表れています。いくら何かを成し遂げようと、時間を生み出そうと、大したことではないのです。「生きる」とは、その一瞬一瞬を味わって、その素晴らしさを表現すること、祝福することなのです。
「「人間の役割の中でも、ほかの生き物と比べてもっとも特徴的で人間的なのは、
『愛すること』(ラブ)と『祝福すること』(セレブレーション)なんだよ」
祝福する役割とは、美しい木を見つけた時に、詩を書くとか絵に描くとか、称えたり歌ったりすることだそうです。
人間の役割とは、つまりは愛することと、感動を表現することなんです。」(p.193)
人間だけが、自然を鑑賞することができるのです。その素晴らしさを感じて、称えることができるのです。
本書の冒頭で、縄文時代の火焔型土器が取り上げられていましたが、最後にそれについてもう一度、ひすいさんは語ります。
「煮炊きに使う器としては、ベラボーです。非日常の聖なる儀式に使われるものだったとしても、ベラボーです。無駄を楽しみ、生きるのを楽しんでいることが伝わってきます。
これだけの美しい装飾を施した古代の土器は、世界にも類がない。」(p.195)
たしかに、複雑な文様を施しただけでなく、縁の部分は複雑な造形で、造るのも大変だったでしょうけど、これを普段の煮炊きに使ったというのですから驚く他ありません。何たる無駄、何たる非効率、何たる遊び。そう、人生とは壮大な無駄をする場なのです。それがわかっていたのが縄文人であり、私たちの祖先なのです。
そう考えてみれば、日本人がいかに稀有な存在であるかがわかりません。争いのない1万4千年もの長く平和な社会を造った日本人。私たちには、その血が流れているのです。
最後は、ショーゲンさんのメッセージです。
「また同時に、僕自身、日々の生活に丁寧に愛を注げる存在になりたいと思っています。だって「愛が注がれたものからしか、愛は与えられない」のですから。
そう考えると、生活そのものが、アートなんだと実感しています。
愛を持って丁寧に過ごす日々は、愛の物語であり、愛のアートになるんです。
これは僕だけではありません、誰にとってもそうなんだと思っています。
丁寧に喜びを感じて生きる。
そのためにすることはひとつ。
自分のために生きること。」(p.207-208)
私たちが、自分のために自分の人生を丁寧に生きるなら、その生き様が世界の人々へのメッセージになるのではないでしょうか。
丁寧に生きる。武田双雲さんの「丁寧道」という本にもありましたが、私たちの人生は、無駄なように思えても、無意味なように思えても、丁寧に丁寧に扱って味わい尽くし、それを表現することに尽きるのかもしれませんね。
生まれてきたなら、いずれ死ぬことは間違いありません。それが100年間だろうと50年間だろうと、あるいは1年間だろうと、その差がどれほどのものでしょうか。その間に何を得たかとか、何を成し遂げたかとか、それが何ほどのことがあるでしょうか。内村鑑三氏は、「後世への最大遺物」という講演において、そのことを示しました。私たちが真に遺せるものは、「生き様」なのだと。
そのことを、ショーゲンさんやひすいさんは改めて教えてくれています。そのメッセージをどう受け止めるのか? 問われているのは、私自身です。私は私として、そのメッセージを受け止め、どう受け止めたかを私の「生き様」で示したいと思います。それが、私の生の表現であり、私のアートなのです。
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