Twitter(現在はX)の投稿で紹介されていた本です。
SNS上、特にTwitterでは、投稿やコメントで激しくやり合うことが多いように思います。それはもう議論ではなく、叩き合いの様相を呈しています。そういう中で、この本を参考にしているというツイート(現在はポスト)があり、興味を持ったのです。
著者はアダム・カヘン氏。職業はよくわからないのですが、ファシリテーターということでしょうか。大学で研究もされているようだし、企業で代表もしていたとか。
本書はサブタイトルにもあるように、「賛同できない人、好きではない人、信頼できない人と共同する方法」ということがテーマのようです。私はサラリーマンでしたから、企業内ではこういうことがあるなぁと思いました。つまり職場に気に入らない上司、同僚、部下がいて、彼らと一緒に仕事をしなければならないという状況。そういう時、どうやって仕事を遂行すればいいのかという問題に、本書は答えを与えてくれるものと思ったのです。
ただ、読み終えてから思うのは、ちょっと違うなぁという感想です。言わんとするところは何となくわかるのですが、何だかしっくりきません。
でも、そのいわんとする部分に役立ちそうだと思える点もあったので、ここで紹介することにしました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「本書は、特に関係者が互いに賛同できない、好きではない、信頼できないような問題において、その問題のあらゆる党派を一つの部屋に招き入れることによって、不可能に思われる未来を創造しうる考え方と行動を指摘する。」(p.4-5)
「もう一つ、背景にあるのは、この世界の対象的な二つの潮流だ。一つ目の潮流は、ネットワーク化が進み、より多くの声が共有されるようになったことで、特定の人が自分の望むことを無理やり一方的に進めるのが、難しくなってきたというものだ。これは本書で述べる取り組みへの追い風と言えるだろう。しかし同時に、世界の多くの場所で逆の潮流が高まっている。トップダウン型、いわば独裁的な体制がさまざまな文脈において台頭しているのだ。私は一つ目の潮流を後押しするため、そして、二つ目の潮流と闘う人を支援し励ますためのツールを提供するものとして、本書を執筆した。」(p.14)
つまり、敵対関係の人々が問題を解決するための方法に、対話によってみんなで決めるやり方と、圧倒的なリーダーの支配で独裁的に物事を推し進めるやり方の2つがあり、カヘン氏は、独裁の台頭を押さえ、民主主義的な話し合いによる解決方法を推し進めるために、本書で示すやり方が役立つと言っているのですね。
「それぞれ自分が重大だと思うことをどうにかしようとする。どうにかするには、他者と協力する必要がある。この他者には賛同できない人、好きではない人、信頼できない人も含まれる。だから私たちは悩む。この手の人たちとも協力しなければならないと考えると同時に、協力なんてとんでもないと考えるのだ。」(p.24)
「しかし、この従来の想定は間違っている。複雑な状況で多様な人々と一緒に仕事をする場合、コラボレーションはコントロールできるものではないし、そうする必要もない。
非従来型のコラボレーションの方法、ストレッチ・コラボレーションは、コントロールという想定を捨て去るのだ。調和、確実性、従順という非現実的な幻想をあきらめ、不協和音、試行錯誤、協創という混乱した現実を受け入れるのだ。」(p.24-25)
カヘン氏が示す新しい方法はストレッチ・コラボレーションと名付けられています。ここには従来のコラボレーションの概念を引き伸ばし、根本的に変える3つのストレッチがあると言います。
「第一に、他の協働者(コラボレーター)との関係について、チーム内の共有目標と調和を重視するという狭い範囲に集中することから抜け出し、チーム内外の対立とつながりの両方を受け入れる方向に広げていかなければならない。」(p.25)
共通目標を持たないのであれば、企業のプロジェクトのような場面とはまったく違います。プロジェクトを完遂するという共通目標があるから、好きじゃない人や意見が異なる人がチーム内にいても、何とかしてまとまっていこうとするのです。それを否定するのがストレッチ・コラボレーションということになりますね。
「第二に、取り組みの進め方について、問題、解決策、計画に対する明確な合意があるべきと固執することから抜け出し、さまざまな観点や可能性を踏まえて体系的に実験する方向に広げていかなければならない。
第三に、状況にどう関与するか、すなわち私たち自身が果たす役割について、他者の行動を変えようとすることから抜け出し、自分も問題の一員であるという意識で状況に取り組み、自身を変えることを厭わない方向に広げていかなければならない。自分自身がゲームに足を踏み入れるのだ。
この三つのストレッチはいずれも、当たり前と思われることの反対の行動を要求するゆえに、ストレッチ・コラボレーションはハードルが高い。複雑さに後ずさりするのではなく、複雑さに飛び込む。人がたいてい違和感や恐怖を覚えることだ。」(p.25-26)
たしかに当たり前ではないし、複雑でよくわからないというのが私の感想です。あれ? 目的は何? 問題を解決することじゃないの? 解決することばかりか、その問題さえも共有せず、いったい何を目指すのでしょう?
「敵化は現実の差異を理解し、処理する方法の一つではある。圧倒されるほど複雑で多彩な現実を単純化して白黒はっきりつけてくれる。現在の状況がはっきりし、それに対処することにエネルギーを総動員できる。しかし、ジャーナリストのH・L・メンケンが言うように、「人間のどの問題にも安易な解決策は常にある−−ただし、それは格好よくて、もっともらしいが、誤っている解決策」なのだ。敵化すれば、気持ちが高ぶり、満足感があるし、正義や英雄気分さえ感じるものだが、たいていは直面している課題の現実を明らかにするのではなく、むしろ曖昧にしてしまう。敵化は対立を増強し、問題解決と創造性の余地を狭めてしまう。そして、決定的な勝利という実現不可能な夢をもたせて、実行すべき現実的な取り組みから気をそらせてしまう。」(p.36)
私たちはすぐに善悪二元論にまとめようとします。ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナ(ハマス)など。そして、自分の支持する側を「正義」とか「正しい」と主張し、対立する相手を「悪」とか「間違っている」と決めつけます。こうして、互いの支持者も含めて激論を戦わせますが、解決する方向へは進みません。どんなに力で相手をねじ伏せようとしても、仮にそれが上手くいったように見えても、恨みの炎はくすぶっているのです。
SNS上で日常的に繰り広げられていることですが、こんなやり方では上手くいきません。おそらく、多くの人がわかっていると思います。だからフラストレーションを溜めているのです。しかし、多くの人はまだ、この「敵化」というやり方を捨てられずにいます。そこに固執してしまっているのです。
「私がタイで理解するに至ったことは、問題の複合する状況に直面しているときは常に、政治でも仕事でも家庭でも、四通りの反応、すなわちコラボレーション、強制、適応、離脱の選択肢があるということだ(タイのチームは、国内から変化をもたらすことに主眼をおいていたので離脱については検討しなかった)。四つすべての選択肢がとりうる状況にあるとは限らない。たとえば、強制を採用する手段はないこともある。しかし、常にこの四つの選択肢から選ぶ必要はあるのだ。」(p.53)
タイでは、タクシン派と反タクシン派による抗争が長く続きました。その間に2度もクーデターが起こりました。ここでいう強制ですね。私はそのころタイで暮らしていて、この状況を部外者として眺めていました。
そういうこともあり、カヘン氏と同じ空気を吸っていたのだと思うと、何だか親しみを覚えました。なので、ちょっと冗長な感じで結論がなかなか出てこない文章を、何とか最後まで読むことができたという感じです。
「他者と−−仲間や友人はもちろん、おそらくは反対者や敵対者とも−−協力して、より効果的な打開策を見つけ、今の状況にできるかぎり大きく、持続的な影響を及ぼすならば、コラボレーションは好機となる。しかし、コラボレーションは特効薬ではない。そのリスクは、実り少なく、遅々として進まないということだ。大幅に妥協する、相手側に取り込まれる、自分たちにとって最も重要なことを裏切るという結果になるリスクがあるのだ。」(p.54)
事態に関与する人々が協力し合うことを望むなら、コラボレーションは役立つでしょう。けれども、そう望まないのであれば、コラボレーションは役立たないばかりか、害悪にさえなるのですね。
「コラボレーションは唯一の選択ではないのだから、与えられた状況で、コラボレーションを選ぶのか、それとも強制か、適応か、離脱か、意識的に考える必要がある。」(p.59)
まずは、4つの選択肢のどれを選ぶかという問題があります。その中でコラボレーションを選択肢た場合にのみ、本書のストレッチ・コラボレーションという方法が役立つというわけです。
「ストレッチの第一の要素は、協働する相手との関わり方、つまりチームに関してである。従来型コラボレーションでは、チームの調和を達成すること、およびチーム全体としての利益と目的に焦点を定め、それがぶれないように人々をコントロールし、制限していく。しかし、複雑でコントロールされていない状況では、焦点を維持することは不可能だ。なぜなら、チームメンバーの考え方、所属関係、利害が著しく異なり、それに基づいてメンバーが自由に行動するからだ。だから、ストレッチしてチーム内外に存在する対立とつながりに関する先入観を捨て、受け入れ、対処しなければならない。
第二の要素は、チームでの取り組みの進め方である。従来型コラボレーションでは、解決しようとしている問題、その問題に対する最善の解決策、その解決策を実行するための計画、その計画の取り決めどおりの実行に関して明確な合意に達することを重視する。しかし、複雑でコントロールされていない状況では、そんな確定的な合意や予測どおりの実行を達成することは不可能だ。なぜなら、チームメンバーは互いに賛同できない。信頼できない関係であり、またチームの行動の結果は予測不能だからだ。だから、何がうまくいき、何が自分たちを前に進ませてくれるのか、一歩ずつ発見するためには、ストレッチして多くの考え方や可能性を実験、つまり実際に試してみなければならない。
第三の要素は、対処しようとしている状況に自分自身がどう関与するか、つまりどんな役割を果たすかである。従来型コラボレーションでは、計画を完全に実行できるように、いかに人に行動を変えさせるかを重視する。それはつまり暗黙のうちに、他者に行動を変えさせ、自分自身は状況の外か上に置いているということだ。しかし、複雑でコントロールされていない状況では、これはまったく不可能だ。誰にも何もさせることなどできはしない。だから、ストレッチして状況にしっかり足を踏み入れ、自分自身が行動を変えることへの抵抗を捨てなければならない。」(p.92-94)
たくさん引用しましたが、これがストレッチ・コラボレーションをまとめた部分だと思いました。
従来型のコラボレーションは、同じ目的を有している仲間のチームなら効果があっても、敵対する関係においては役立ちません。そもそも協働したいとも思っておらず、相手を叩きのめしてでも自分の目的を遂行しようとしている相手と対峙しているのですから。
そこでストレッチ・コラボレーションは役立つとカヘン氏は考えておられるのですが、私はこれを読んでも「なるほど!」とは思えませんでした。
この3つの要素ですが、1つ目は、相手は協力してくれないものと受け入れ、その上でどうしていくかを考えようということです。2つ目は、こうすれば上手くいくなんて方法はないのだから、先入観を捨てて考え得るあらゆる方法を試してみようとすることです。3つ目は、他人を動かしてどうこうすることは不可能だと理解し、その上で自分がどうするかを考え、その可能性の枠を広げるということです。
つまり、相手は思い通りに動かないことをしっかりと受け止め、効果的な方法もなければ到達点も明らかではないことを受け入れ、そこに飛び込んで可能性の枠を広げてできることをやる、ということになるかと思います。けれども、それで上手くいくのかどうか、これではまったくわかりません。ただ、上手くいく可能性はあるよね、とは言えるかと思いますが。
「この調和一辺倒のコラボレーションを採用しようとすると、たいてい失敗し、結局は「適応」か「強制」か「離脱」に戻ることになっていたのだ。
協働する場合、愛と力を交互に発揮することが必要だ。まず相手と関わる。関係が続き、濃密になると、やがて相手のなかに融合や屈服、すなわち関係を維持するために自分にとって重要なことを二の次にしたり、妥協したりせざるをえないという不快な感情が生まれる。この不快な反応もしくは感情は、相手が主張したり、強く要求したりする行動に切り替える必要があるという合図だ(アレナスやスズキが自分にとって重要なことを主張したように)。ところが、相手の主張が続き、強くなると、やがては当方に阻止、反対、抵抗の衝動が生まれる。この反応もしくは感情は、双方が関わることに戻る必要があるという合図だ」(p.116)
コラボレーションでの問題解決ができない時は、「適応」「強制」「離脱」のどれかが採用されることになるというのがカヘン氏の分析です。つまり、協働して問題解決できなくなるということです。
そうせずにコラボレーションを続けるには、「関わり」と「主張」という役割を繰り返すことが重要だと言うのですね。つまり、対立した時は無理に推し進めようとせずにただ関わってるだけの状態になり、関わりが確認できる状態であれば相手の主張をむやみに受け入れたりせずに、しっかりと主張していく。この、関係を壊さないように押したり引いたりすることが必要だとカヘン氏は言うのです。
「つまり、関わることと主張することの間を行ったり来たりするには、アンバランス(退行的な状態に入る境界を超える)を知らせるフィードバックに注意を払い、バランスを取り戻す動きをする必要があるのだ。関わることが屈服をもたらし、相手を操作する恐れがあるなら、主張を促進するときだ。主張することが抵抗をもたらし、相手に強要する恐れがあるなら、関わりを促進するときだ。大切なのは、静的なバランスの位置を保つのではなく、動的なアンバランスに気づき、それを修正することなのだ。」(p.120-121)
相手との位置関係を硬直的に決めつけるのではなく、今の状態を敏感に察して、自分の立ち位置を変化させることが重要だと言うのですね。
こちらが優位に立って、相手が屈服している状態も放置してはいけないのです。相手の中にある主張を引き出してやる。それはこちらにも言えることで、妥協して主張を封じ込めてはダメなのです。
「ストレッチ・コラボレーションは他者と協力する方法だが、従来のものとは異なり、次の三つの基本的な変化が必要になる。
第一のストレッチ、対立とつながりの受容では、力(パワー)と愛(ラブ)という補完し合う衝動を、どちらか一方だけ選ぶのではなく、両方とも使わなければならない。力は、自己実現の衝動であり、断固として主張することで表現される。愛は、再統合の衝動であり、相手と関わることで表現される。この二つの衝動を同時にではなく交互に使う必要がある。
第二のストレッチ、進むべき道の実験では、現状を強化するダウンローディングやディベートに偏るのではなく、新しい可能性を浮上させる対話(ダイアログ)とプレゼンシングを用いることが求められる。つまり、話すこと、聞くこと、特に聞くことを狭めずにオープンにしておくということだ。
第三のストレッチ、ゲームに足を踏み入れるでは、傍観したまま、他者を変えようとしかしないのではなく、活動に飛び込み、自分が変わろうとすることが求められる。
この三つのストレッチは、染みついた行動を変えなければならないものだから、ほとんどの人にとってなじみがなく、違和感のあるものだ。新しい行動を習得するには繰り返し練習あるのみ。」(p.168-169)
ストレッチ・コラボレーションを行うには、3つのストレッチが必要で、それは「対立とつながりの受容」「進むべき道の実験」「ゲームに足を踏み入れる」という言葉で表現されるものです。そしてそれは、これまでとは全く異なる思考習慣だから、練習する必要があるようです。
たしかにこれまでのように、相手を威圧したり懐柔しようとしたりして、相手を変えようとするとか、自分が妥協するだけのコラボレーションとは、まったく違う思考が必要になりそうですね。
「ストレッチを学ぶときに直面する第一の障害は、習慣的な物事のやり方の慣れ親しんだ快適さに打ち克つことだ。「こうあらねば」という平叙文から「こうもできそうだ」という仮定文に移行する必要がある。自分の意見、立場、アイデンティティへの愛着をゆるめる必要があるのだ。より大きく、自由な自己のために、小さく、窮屈な自己を犠牲にするということだ。したがって、こうしたストレッチは恐怖感と解放感の両方を与えるだろう。」(p.180)
「最も難しいと感じるような状況、すなわち、こちらの期待するように相手が動かず、いったん休止して新しい前進の道を見つけざるをえないときこそ、学びが最大になる。
そう、敵は最大の師になりうるのだ。」(p.181)
これまでやってきた方法ではないので、そこに踏み出すには恐れ(不安)を感じてしまうでしょう。しかし、その恐れ(不安)を乗り越えて一歩を踏み出せば、そこに新たな境地が開けるかもしれません。これまで考えてもみなかった何かが見つかるかもしれない。
もしそうなったら、敵対する相手は邪魔な存在ではなく、その新境地を教えてくれる師であったとも言えるのですね。
言わんとすることはわかるのですが、相手がこのストレッチ・コラボレーションを理解せず、協力しようともしないなら、果たして上手く行くでしょうか?
もちろん、これまでのコラボレーション手法で上手くいかないのなら同じことではないか、とも言えるわけです。試してみない理由にはなりません。
ただ、もうちょっと上手にわかりやすく書いてほしいなぁ、という思いが残ります。外国人の著者に多いのですが、まるで小説のように自分の歩んだ道を書かれています。そういう文を読まされても、それが知りたいことではないし、後で役立つ情報かと思って読み進めても、まったく関係がなかったりします。
どうせ書くのであれば、ストレッチ・コラボレーションによって、当初想定していた解決策とは違う方法がどういう展開で見つかり、結果としてどううまく行ったのかという実例を書いてほしいものです。書かれていたタイの対立も、結果的に何の成果も残していないようです。
本書を読んで、「これで上手くいく!」とは感じませんでした。ただ、少なくとも自分がコラボレーションの必要性を感じているのであれば、その可能性を感情的になって捨てるような愚を犯さないために、役立つかもしれないな、とは思いました。
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