2023年08月05日

錯覚する脳



もう随分と前になりますが、「人生を変える幸せの腰痛学校」の著者、伊藤かよこさんがお勧めしておられたので買った本になります。やっと読むことができました。

サブタイトルに「「おいしい」も「痛い」も幻想だった」とあるように、私たちが何気なく事実だと思って感じているものが、実は脳が創り出した幻想に過ぎない、というような内容です。伊藤さんは腰痛に関していろいろと思われるところがあり、腰痛は何らかの原因があって生じているだけではない、ということをおっしゃられていました。だから、無理に原因を何とかしようとするより、別のアプローチの方が効果的だということですね。

著者は前野隆司(まえの・たかし)教授。研究分野は広そうですが、脳がどう機能しているのか、という観点で研究されているようです。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

自分で言うのも厚かましいが、衝撃的な本だ。死んだ皮膚の表面に痛みを感じるという衝撃、音が音源のところから聞こえるという衝撃、色という、この物理世界にはないものを人は感じてしまうという衝撃、ねたみや恨みや畏れや優越感や幸福感という、世界のどこにもないものを人は感じてしまうという衝撃。あたりまえに世界に存在すると私たちが思い込んでいる様々なものごとが、簡単で誰もが知っている科学からの演繹によって、実は、幻想、イリュージョンとでも呼ばなければ説明のできない事柄なのだとわかった時の衝撃。そんな、かつて私も感じた衝撃を、読者の皆さんにも共有して頂けたならうれしく思う。」(p.11-12)

心は幻想で錯覚でイリュージョンというところからスタートすれば、「心の哲学」など不要で、心への疑問は、すーっと腑に落ちる納得感とともに解消されるはずだ。それに気づかずに問題を難問だと言い続ける「心の哲学」は不毛であるばかりか、人類を無駄に悩ませ続けているのではないか。心は所詮、幻想で錯覚でイリュージョンだということを、現代の人々にもっと分かり易く伝えるべきではないのか。
 このようなモチベーションが、本書の原動力となっている。
」(p.13)

文庫版のまえがきに、前野教授はこのように書いています。つまり、私たちの心(意識)というものは脳の派生物であり、イリュージョンだという主張です。そうすれば、心の問題は難しい問題ではなく、単にイリュージョンなんだからと軽く考えられるということのようです。


できれば、いろいろな方が、読み終えた後で、確かに心ははかない幻想だなあ、でも、それって単にむなしいだけの絶望感とは違い、すばらしく幸せな考え方なんだなあ、と実感してくださるならば幸いである。」(p.19-20)

プロローグにはこう書かれています。つまり、心はイリュージョンであるからこそ、幸せになれるという考え方を、本書で示そうとされているのです。


私は、幼いころから、できることならばこの私というもの(霊魂としての私)が不滅の存在であってほしいと思っていた。しかし、残念ながら最近はどうしてもそうは思えない。
 今の私は、私たち人間は虫けらと同じ単なる生物に過ぎないと思う。この豊かな感受性と豊かな心の質感を持つ私たちの心というものさえも、虫けらの脳にちょっと付け加えられた機能に過ぎないと思っている。
」(p.23)

一方、目的論的機能主義からみると、物質の振舞いとは独立な現象的意識が進化的に生じるとは極めて考えにくい。私は、そうではなく、心身一元論に立脚し、脳のニューラルネットワークによって、意識の現象的な側面が(あくまでイリュージョンとして)作られていると考える。
 心身一元論に立脚するか、二元論に立脚するかは、先ほども述べたように、一種の信念だ。神を信じるか否か、あるいは自由主義と共産主義はいずれが本質的と考えるか、と問うのと似て、個人個人の過去の深く長い経験から帰納して、どちらが直感的に妥当だと考えるかを選択するしか、残念ながら形而上の議論にピリオドを打つ方法はない。
」(p.48-49)

このように前野教授は、自分の直感からして脳がイリュージョンとして心を生み出しているだけであり、脳(身体)とは別に意識(心、魂)が存在するという二元論には賛同できないと言われています。


つまり、物理的にさすることも重要だが、人が触ると思うことによる精神的な安心感が重要らしい。
 したがって、大人も子供も、「痛いの痛いの……」とおまじないをいって、さすったり他のことに注意を向けさせたりすれば、痛みを和らげることができるのだ。
」(p.96-97)

痛みを緩和させる具体的な方法として、さすればいいと前野教授は言います。これは、他の刺激によって痛みの刺激を忘れさせる(分散させる)という効果と、他の人に何かをしてもらったという精神的な作用があると考えられるのだそうです。
私も、レイキは痛みに強い(効果がある)と実感しているのですが、そういうことがあるのかもしれませんね。


私たちは普通にものを見ていると思っているが、そうではない。色や明るさは目と脳が作り出したものであり、本来世界には存在しない。だから、目の前にこんなに鮮やかで巨大な空間が存在しているように見えているということは、ものすごいイリュージョンなのだとしか言いようがないのだ。」(p.137)

「見える」というのは、目に飛び込んでくる様々な電磁波の中から光と呼ばれる特定範囲の電磁波を、その周波数や強度や方向に応じて脳内にマッピングして描きあげたイリュージョンなのだと言います。たしかにそうですね。
たとえば犬は色がわからず白黒の世界を見ていると言われますが、要は周波数を区別していないということなのでしょう。人間は、周波数を「色」という概念で置き換えてイメージしている、ということですね。

物とエネルギーだけは存在するといったが、五感なしには、物とエネルギーの概念を定義することも理解することもできない。したがって、物とかエネルギーという名前を付けることもできない、物とかエネルギーとは呼べない、なんでもない何かしか存在しないということになる。
 感覚がなければ、宇宙など、ないも同然だ。もちろん、名前の付けようもない「それ」は存在しているのだが、もはや存在しないのと大差ない。
」(p.148)

この部分を読んで、実に「神との対話」で言われていることと似ているなぁと思いました。神は絶対的な存在であり、したがって神が何かという定義ができないのです。「あってあるもの」「存在のすべて」と便宜上は言ってみるもものの、「それ」でもかまわないのです。
なぜ定義できるようになるかと言えば、この相対的な世界においてだけなのです。相対的だから「これ」と「あれ」を区別することができ、それに名前を付けることが可能になります。したがって、相対的な世界と、それを感じられる私たちの感覚(五感)というものは、密接不可分のものだと思います。

天国があったとして、その世界にいる人は、身体がない。感覚器官もない。だから、感覚はないはずだ。逆に、死後も視覚などの感覚があるのだとしたら、生きている人の視神経や脳が視覚情報を作る必要はないことになる。なぜなら、死後の感覚というような便利なものがあるのなら、わざわざ脳というハードウエアでそれを実現する必要がないというものだ。死後に感覚があるのだったら、この現実に存在している感覚器官は何のためにあるのか、ということになってしまう。」(p.150)

つまり、五感を持った身体があるということが、死後も生前と同様にいろいろ感じられる心や魂が存在しないことの強力な証拠になっているということですね。
もちろんこれでは完全な証明ではないのですが、一理あります。けれども私は、「神との対話」の立場からすると、魂はエネルギーを直接的に感じ取る、五感とはまた別の感覚器官によって、身体を持つ私たちが感じるのと似たような何かを感じているのではないかと思っています。

そもそもすべてがエネルギーによって創られているのだとすれば、わざわざ視覚、聴覚、触覚、味覚のように別々の感覚器官を使わなくても、直接そのエネルギーを感じ取ればいいだけです。それができるのであれば。
しかし相対的な世界で神ではないものとして生きるという経験をしたかった私たちは、そういう便利な機能を封印し、わざわざ不便な別々の感覚器官を使うようにしている。そう考えることもできると思っています。


話がそれたが、「価値」はイリュージョンだ。絶対に。私はそう思う。
 もちろん、基本的な価値といわれる「真善美」だって、イリュージョンだ。
 絶対的な「真」なんてない。たとえば、物的一元論と心的一元論はどちらが正しいか、という問いには答えは出せない。
 絶対的な「善」だってない。ある立場における善が、他の立場ではそうでないことは、よくあることだ。たとえば、戦争中に敵を殺す事は、その国においては善だ。
 絶対的な「美」もない。文化が異なると、美の解釈も異なる。西洋的な顔が美人というのは最近の事であって、鎖国時代の美人は浮世絵の顔だったのだ。
 もちろん、絶対的な真善美などないと言ったら、近代哲学者カントは納得しないのだろうが、その後、構造主義からポストモダンへと発展する現代哲学は、明らかにニヒリズムへと向かう。したがって、すべてがイリュージョンだという考え方は、現代哲学の主流から見ると、むしろ当然といってもいいのかも知れない。
 愛だってイリュージョンだ。
 愛は、かけがえのないものであるように感じられるけれども、マズローの欲求の段階説の中では下の方に位置する。「生理的欲求」「安全欲求」の次が、「所属・愛情欲求」だ。また、愛する事の生物的な役割は子孫繁栄だから、「生理的欲求」に関与するといってもいい。
」(p.226-227)

価値観が相対的であり、絶対的でないというのは、その通りだと思います。それぞれがどう考えるか、その見方次第です。だから、それをイリュージョンと呼ぶのもわかります。
しかし最後の「愛」に関しては、ちょっと考察が足りないようにも思います。「愛」が「生理的欲求」であり、子孫繁栄の潜在的な欲求だとすれば、同性愛はどうなのでしょう? 子どもを必要としない異性愛、閉経後の老齢者の恋愛はどうなのでしょう? それに「愛」は、パートナーに対するものだけでなく、親子関係はもちろんのこと、友だち関係もあれば、広く普遍的な博愛もありますよ。


幸福感のクオリアなんて、気の持ちかたに依存して、勝手に湧きあがってくるイリュージョンに過ぎない。だから、金持ちになったってしょうがないし、貧しさを悲観する事もないのだ。
 むしろ、生きている事が「儲けもの」だと思えば、それだけで幸せだと感じられないだろうか。
」(p.223)

まさにおっしゃる通り! 私たちがどういう思考(考え方、見方)をするかによって、幸せにもなれれば不幸にもなれるのです。
そして重要なのは、その「気の持ち方」を私たちは自由に選択できる、ということです。たまたま選んだ「気の持ち方」でも感情が湧いてきますが、自分が意図して選んだ「気の持ち方」でも同様です。つまり、幸せは自分の意思で選べるということだと思います。

そうであれば、幸せがイリュージョンだとしても、それを私たちは意図的に創り出せるということです。イリュージョンだと知って創り出せるのが脳の機能だとすると、脳はなぜそんな機能を持っているのでしょうね? 虫や動物のように、本能で生きているだけで十分なはずなのに、なぜ人は、そんな機能を脳に持つようになったのでしょう?
エントロピーの法則からしても、勝手にそう進化したというのは科学的に矛盾します。そう進化することが生存において優位であるからという理由でもなければ、進化の正当性を説明できないと思うのです。

心のクオリアが確固として存在すると考えようとするから、死ぬのはいや、という気持ちになるのだ。そうではなく、もともと何もないのだし、たまたま、意識というイリュージョンを堪能できる、人間という生物の意識として生まれでてきたことに感謝しようではないか。イリュージョンを感じられるうちに大いに楽しもう。所詮はかないイリュージョンなのだから、脳が停止したらイリュージョンも停止するのは仕方がない。また、何もない状態に戻るだけだ。眠るのと大差ない。「永眠」とはよくいったものだ。」(p.238)

「どうせ無に帰すのだからむなしい、と感じられる方もおられるかもしれないが、もともと無だったところに新たなデザインをしてみるささやかな楽しみだ、と思えばクリエイティブだ。
 はかない人生なのだから、やりたいようにやるしかない。
 といっても、自暴自棄はいけない。
 人生のデザインは、数十年間陳腐化せずに持続するものであるべきだろう。ささやかとはいえ、死ぬまで数十年というそれなりの期間、ハッピーでいるに越したことはないので、現在と未来をハッピーにするようなデザインであったほうがいい。
」(p.238-239)

前野教授は、人間として生まれて幸せを感じることができる脳を持ったのだから、せっかくだからそれを楽しんで生きたらいいと言います。無神論で生きることの意義を考えると、こうなるのでしょうかね。
ただ、どうしてもニヒリズム感が漂います。どうせ無ならと自暴自棄になるのはもったいないと言うことでしょうか。しかし、自分の考え方をどうしても変えられないと感じている人からすると、どうせ無ならと自暴自棄になることも大したことではないじゃないか、と言われそうです。そう言われたら、反論ができませんね。せいぜい、幸せに生きた方がいいじゃないか、と言えるだけで。

それに、精神を失うから死を恐れるとしたら、無神論の方が恐れるのではないでしょうか。有神論なら、死後も精神が残ると考えることもできるので、そうであればむしろ、死を恐れない可能性が高くなります。
無神論で死を恐れないのは、どうせそもそも価値がないものだから、ということに帰結します。そして、そもそも価値がないのであれば、自死も他殺も、どうでもいいじゃないかとも言え、それこそ自暴自棄になりやすいことになります。
前野教授も、そのことを無意識に怖れて、こういうことを書かれたのではないかと思います。


まあそれはさておき、無神論(魂が存在しない)という立場で考えてみても、有神論と似てくる部分があるなぁと感じました。結局この世は相対的だという認識においては、一致していると思うからです。
では、そこに生まれてくることに何か意味や意義があるのか、という点で、無神論は何もないとしか言いようがなく、有神論はそこに神の意図があったと言える。その違いかなと感じました。

脳が心を創り出しているという考察は面白いものがありましたが、脳が心(精神)の受信機だという説を否定するものではないと感じました。
ただ、その脳によって、本来の現実とは違うものを私たちは五感で感じ、脳の中に幻想を創り出しているという考えは、たしかにそうだなぁと思いました。

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タグ:前野隆司
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:42 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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