2023年08月01日

すべては今のためにあったこと



Facebookで伊勢修養団の中山靖雄(なかやま・やすお)氏の本が出版されると知って、すぐに注文した本になります。
伊勢修養団のことは知っていて、中山氏ではありませんが、寺岡賢(てらおか・まさる)氏の講演を聞いたこともあります。

本書の著者は中山氏だけでなく、その奥様の中山緑(なかやま・みどり)氏と、映画監督の入江富美子(いりえ・ふみこ)氏も名を連ねています。入江氏は、映画「1/4の奇跡」の監督だったのですね。(私は本で「1/4の奇跡」を読みました。)

どうやらこの本は新装版(改訂版)のようで、前作に緑氏と入江氏の対談を加えたような体裁になっていたようです。
実は最初は新装版だと気づいていなかったのですが、読み勧めていると、どうも読んだ記憶があるなぁという気がしてきて、私のブログを検索してみたのです。すると、ありました。2013年に発行された「すべては今のためにあったこと」を2020年6月に読んでいました。
なので、改めて紹介する必要もないかとも思ったのですが、当時とはまた違う気づきがあったのではないかと思い、紹介記事を書くことにしました。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

私たちは、ついつい事柄を良し悪しにしてしまうものです。健康は良くて、病気が悪い。若いほうが良くて、年を取ることが悪い。生きていることは良くて、死ぬことは悪いなど、そんなふうに二者択一にしてしまいます。
 よく考えてみれば、病気がなければ、健康もないのです。年を取らなければ、若さというのもありません。死ぬという世界がなければ、生きるという世界は成り立ちません。ところが私たちは、どうしてもこれが良くてこれが悪いという二極の世界を生きてしまうわけです。
 本来、「良し」「悪し」というのは、一対の岸だと思うのですね。その両岸の間をどう流れるかということが大事です。
「よしあしの 中を流れて 清水かな」という句があります。これは、掛詞(かけことば)で「よし(葦)・あし(葦)」と「良し悪し」を掛けています。よし(良し)あし(悪し)にぶつかり、その中を流れながら清められていくということです。
」(p.31)

私がお勧めしている「神との対話」でも、この世は二極(相対的)であり、片方がもう一方を支えているという話があります。どちらか一方だけでは存在できないのです。
ですから、一方を毛嫌いするのではなく、そういう世界なのだと達観して生きることが重要なのだと思います。


私の講演が始まる頃になると、母が家内を呼び、
「公演が始まる時間だから、悪いけどベッド半分起こして」
 と言って、ベッドの前の神棚に向かってじーっと手を合わせて、拝むのです。
 寝たきりですから、きちんとは座れないので、腰に枕と毛布を当ててなんとか座れるようにして、じーっと手を合わせている。
「講演が終わる時間になったらまた来てね」と母が言うので、一時間半くらい経ってから家内が行くと、まだ母が同じような状態でじーっと祈っているのだそうです。
」(p.66)

82歳で脳梗塞となり、寝たきりになられたお母様は、中山氏が講演に出かける時に挨拶をすると、必ず「どこへ行くのか?」「何時から何時まで講演するのか?」と尋ねられたのだそうです。中山氏は、そんなことを聞いても意味がないだろうと思い、冷たい物言いをしてきたのだとか。
お母様が亡くなられた後、その話になった時、奥様の緑氏は、絶対に言うなと言われていたけど時効だからと言って、この話を中山氏に聞かせたそうです。

親というのは、こういうものなのですね。直接は言わなくても影で祈っている。私の母親も、おそらくそうだったのではないかと思うのです。


「天が喜ぶ生き方」は「目に見えない世界」の中に見出すことができます。
 私たちは、普段「目に見える世界」を中心に生きています。「目に見える世界」では、何かが「できる」「できない」、「うまい」「下手」などが、はっきりわかります。ですから、目に見えたことだけを見て、ついつい「正しい」「正しくない」とか、「いい」「悪い」と言ってしまいます。
 しかし、人の心の中は見えません。見えないからよくわかりません。自分の心のことですらわからないことがありますね。人の心のように「見えない世界」はわからないし、感じにくいものです。しかし、「見えない世界」を大切にして生きていくことが、天が喜ぶ人生にはとても大事なことなのです。
」(p.75)

目に見える世界とは、自分が知って理解できる世界のことですね。だから人は往々にして、自分の価値観で他人を裁いてしまうのです。また、他人の真価を知ることなく無視してしまうのです。


自分で人生を終わらせてしまう行為は、心である「しい」がもっとも強い状態になっている時です。自分だけしか見えていない状態です。「たま」に「しい」がしっかりついてしまい、天に戻れない。だから、自死は天に帰れなくなると言われているのです。」(p.92)

中山氏は、自殺すると魂が天に帰れない(と言われている)と言っていますが、私は違うと思います。もしそうだとすれば、魂が救われないことになってしまうではありませんか。
もちろん、安易に自殺しても良いなどと言っているわけではありません。しかし、「神との対話」でも言っているように、魂が自分で決めた時しか人は死なないと思っています。それが自殺であれ、事故であれ、病気であれ、起こることはすべて必然であり、最善であり、完璧だと思っているのです。


「役割」が「立派」なのではなく、その「役割」をどうとらえて生きるかによって、「人生の立派さ」が変わってきます。
 「役割」をいいふうにとらえて生きることができるか、できないかというのは、「自分があるか、ないか」というところに関わってきます。天から与えられた「役割」として、天に使ってもらう、という思いが大事なのですね。
」(p.116)

たとえば人間で言えば、「頭」になる細胞もあれば「足の裏」になる細胞もある。どっちが優れているとか劣っているという話ではないのですね。それに、足の裏なら最初にお風呂に入り、最後まで浸かっていられますが、頭は一生お風呂に入れない。
そんな例え話をされていますが、良いか悪いかなんて見方次第なのです。

しかし、そんな縁に会おうと思って出会えるわけではありません。
 だからこそ、今、そのような「回ってくる」ご縁に出会うためには、天から与えられている役割を喜んでさせてもらうことが大事なのです。
」(p.124)

何が自分の使命かなんて、頭で考えてもわかりません。だから使命探しのようなことをするよりも、与えられた環境を喜んで受け入れ、そこで最善を尽くすことが大事なのだと思います。


大切なのは、「こんなふうに思ってはいけない」とも、思わないことです。それも頭で考えていることだからです。
 難しいことですが、「『頭からっぽ、心なし』にしないと、ダメだ」とも思わないということなのです。ダメだと思うことも心がいっぱいの状態なのですね。
」(p.133-134)

何かの価値観に執着して判断するなら、まだ頭がからっぽになっていないということですね。「神との対話」でも、理性を黙らせるということが書かれていました。


たとえば今の配偶者と出会い、結婚したことも、いろんな出会いがあって、今があると思うのです。それは、表からは偶然に見えても、裏から考えればすべてが必然なのです。
 今の彼との出会いが本当に良かったと思えると、あの過去の破局も含めてみんな良かったのよね、となります。
」(p.143-144)

私も、フラれ続けた過去の恋愛がすべて良かったと思っています。そのお陰で今の私があると思えるからです。

私の家内のモットーは、
「済んだことはみんないいこと。これから起きることもみんないいこと。わたしに悪いことが起ころうはずがない」
 です。済んだことはみんないいことですし、これから起きることもいいこと。そういうふうに思えたら、今の人生をすべてこのままでやらせてもらうというだけになります。そうしたら、いいご縁がどんどん湧いてくるのです。
 実際は、悪いこともいっぱい起こります。しかし、その時は、そのように生きていくしかないのです。どんな出来事にあっても、自分が悪いことだと思わなかったら、それでいいのですから。
」(p.147-148)

私も、起こることはすべて必然であり、最善であり、完璧だと思っています。なぜなら、全知全能の私の魂(神)が導いてくれているからです。
どんなに悪いと思えるようなことが起こっても、それはそういう見方をするからであって、魂の視点からすれば良いことに違いがない。そう信じることに決めています。
だから私は、何があろうと幸せでいられるのです。引き寄せの法則を駆使して、思い通りの現実を引き寄せる必要がないのです。何としてでも思いどおりを引き寄せたい人は、その見方(価値観)に執着しているのです。


たとえば、電車で足を一回踏まれたら、誰でも踏んだ人を責めます。二回踏まれたら、踏んだ二人目を責めますか? でも、三人目に踏まれたら、いよいよ自分で考えますね。「自分の立っている場所が悪いのだろうか」とか、「私も踏まれないように注意しなくては」と、自分のこととしてとらえるようになります。
 これが常にできるようになったら、みんな少しずつ優しくなれます。
」(p.153)

要はものの見方、考え方なのですね。あいつが悪い、という視点から見ている限り、優しくはなれないのです。
現実が思い通りにならない時、人はやっと内側に入っていくんですよね。でも、これが素晴らしい。だから必ず人は気づくようになり、進化成長していけるのです。


家内は家内なりに悩んだうえで、息子が学校に行かない日を「今日子どもが学校へ行ったら交通事故に遭って死ぬ日」と、自分で決めたのです。
「学校に行きました」「交通事故に遭いました」「死体を自分の前に連れてこられました」というのと、学校に行かず、家でぐうたらして、親の言うことも聞かないし、人様から「中山先生の子なのに、いったい何なの」と言われる。どちらがあなたはいいですか? と神様に問われたらどうするか、ということを自分でかってに設定したのです。
」(p.169)

他人に対して、どうして私の思いどおりにしないのだ? と文句を言いたくなることがありますが、相手には相手の理由があるのです。たとえそれが私には理解できないとしても。
そんな時は、そうなる意味を自分に都合が良いようにでっちあげろと「神との対話」でも言っています。どうせそうしているのだからと。

たしかに、子どもが登校しない理由が理解できないからと、「ズルをしているんだ、怠け者なんだ」というように意味づけするなら、それは勝手なでっちあげですよね。だって本当は理解できていないのですから。どうせでっちあげるなら、自分が幸せになるようでっちあげた方がいいと思います。


どんな人も本性は、愛に満ちています。でもそこに欲とか心の難しさとか、前生(ぜんしょう)からもってきている難しさみたいなものがあって、愛そのものでは生きられない。
 だからこそ、出来事を通して自分の中にある欲や心に気づくことができれば、本性どおり生きられる自分に変われるのです。
 いろいろなことを、それぞれの役の人が代表で私たちに見せてくれています。テレビも新聞もみんなそうで、事件もみんなそうですよ。その人が代わってやってくれたことです。
 聞くも因縁、見るも因縁です。何か痛ましい事件があった時は、事件を起こした人と同じ一面が自分の中にあることを感じて、お詫びして通ればいいのです。「ごめんなさい。私にもありました」と。
」(p.174)

様々な出来事は、私たちに気づきを与えてくれる贈りものなのです。愛ではないものがあると気づくことで、本来の愛に戻っていけるのですね。

この高円寺さんの五歳の娘さんが突然交通事故に遭い、亡くなってしまったのです。
 その時、事故を起こした人が警察にいるということを聞いて、このご夫婦はその人に会いに行かれました。そして、どうされたかというと、このご夫婦はその事故を起こした方に向かって、土下座をして、お詫びをされたのです。
「こういう縁にあわせてしまってごめんなさい。こういう縁にあう子どもを育てたのは私の因縁です。どうぞあなたは安心して、このことを忘れて、世のため人のためになってください。本当にごめんなさい」
 このように謝られたのです。
」(p.177-178)

なかなか言えることではありませんが、普段からこういう思いで生きてこられたのでしょうね。


どんなことにも、必ず賛成・反対ができます。消費税も賛成・反対ができるし、さまざまな問題に賛成・反対ができる。立場が違えば意見が違う。どうしてこんなに心を二分するようなことばかり起きるのかと思いますね。
 しかし、こういうことが起こっている今、二つに分かれることで、お互いにもっと深く知り合いなさいと、天が言っているように思うのです。
「知ることの深さは愛することへの道」だからです。
」(p.212)

この二極の世界では、対立することがたくさん起こります。しかし、対立すればするほど、いつかは相手を深く知ろうという思いになります。なぜなら、何をやっても解決しないからです。
そして知ることによって、知ろうとして深く思うことによって、和解への道、愛の道が始まるのですね。


ここからは、奥様の緑氏と入江氏の対談になります。

主人の言葉にあるように、「済んだことはみんないいこと。これから起こることもみんないいこと。自分に悪いことが起こるはずがない」のです。どんな出来事だって、そこからの気づきもありますし、これから未来に起きることもそんな思いでいたら、悪いことに出会うわけがないのです。もし、ケガをするのなら、ケガをしなければならない理由があったということです。」(p.243)

このように、起こることはすべて必然であり、最善であり、完璧なのだという考え方を生きておられるのですね。

ある方が「近所で火事があって、隣の家まで炎が燃え移り、隣の家は燃えてしまったのだけれど、自分の家までは燃えずに助かった」というような報告をおやかた様にされたことがあったそうなんです。そうしたら、おやかた様が、「あなたは、自分の家が燃えても喜べましたか?」とお答えになったそうです。これは何が言いたいかというと、喜びとは、「お参りや祈り、信仰があることで免れた」「信仰があるから幸せになれた」という「おかげ信仰」によるものではないということです。要するに、「どんな悪いことがあっても、あなたはそれを喜べますか?」ということなのです。家が燃えたら燃えた、人が死んだら死んだ、ということに意味があるのですから。」(p.254)

まさにこういうことですね。信仰を深めたから「良い」ことが起こるというのは、引き寄せの法則を駆使するのと同じことです。それでは本当の意味で神を信頼していないことになります。自分のわがままを押し通そうとしているようなものです。
神が導いてくださっているのだから、起こることはすべて最善のことだと言いきってこそ、本当の意味で信仰を持っている、神を信頼している、神を愛していると言えるのです。


基本的に、お詫びは「ごめんなさい!」ということではあるのですが、「◯◯について、私は思い違いをしていました。ごめんなさい」というお詫びは、自分でその間違いを認識していないと言えませんね。

一方で、ありがとうは、そこがわかっていなくても「ありがとう!」ってそのまま簡単に言えます。だから先生は、「お詫びのない感謝は泥付きだ」とおっしゃっていました。
」(p.270)

中山氏は、お詫びと感謝が大切だと言われています。この対談でも取り上げていますが、これはまさにホ・オポノポノのクリーニングですね。
クリーニングの言葉として、「ありがとう」「愛しています」「ごめんなさい」「許してください」の4つがあります。まさにお詫びと感謝ですね。

これについて私は以前、なぜお詫びをするのかわからないと思っていました。しかしある時、お詫びの意味がわかった気がして、「ホ・オポノポノでは、なぜ詫びるのか」という記事を書いています。
つまり、先の事例の交通事故の加害者に対して詫びた夫婦の考えですね。もし私が完全な愛、完全な神であれば、もはや気づきは不要であり、気づきのための悲しくつらい出来事も起きなかったという前提なのです。それなのに、私がまだまだこのレベルだから、こういうことが起こってしまう。
もちろん、そういう気づきがあるから愛に戻っていけるのですから、それはありがたいことなのです。また、そういう愛のない状態を体験することも、愛を体験するために必要なことなのです。けれども、そこで悲しむ人、苦しむ人が出てくる。だから詫びるのです。


以前に読んだ時の紹介記事も読み返してみました。今回も以前と同じ部分を引用したりしていますが、違う部分もありました。
きっと、読んでみて深く感じた部分に少し変化があったのでしょう。それはきっと、私が少なからず成長したということではないかと思っています。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 15:16 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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