もう1年前になりますが、友人から紹介されて購入した本になります。それから1年、ずっと積読状態でした。やっと読んでみようかという気持ちになり、読んでみました。
著者はスピリチュアル的なことを研究しておられるデヴィッド・R・ホーキンズ氏。翻訳はエハン・デラヴィ氏と妻の愛知ソニア氏です。
はっきり言って、けっこう難しいです。一応読み終えましたが、詳細部分はよくわからないので、常に本質は何かという視点でのみ読み勧めました。
要は、キネシオロジー(Oリングなどで知られる)を使うことによって、知覚できない真実を知ることができ、それによれば、この世はこうなっているよというような話かと思います。
ただ、私の知識に照らしても、ここで語られていることは深い真理だなぁと思いました。なので、安易にはお勧めしませんが、良い本だと感じました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「『各々の人間の心は、巨大なデータベースに永遠に接続されているコンピュータ端末のようなものである。そのデータベースは人間の意識そのものであり、そこで起きる我々自身の認識は、単なる個別の表現にすぎない。しかし、そのルーツには、全人類が共有する意識の源がある。このデータベースこそ「天才」の領域に属していて、人間であるということがこのデータベースに参加していることである。よって、生まれながらにして人間は「天才」にアクセスできる能力を持ち合わせているということである。そのデータベースには無限の情報が含まれており、誰もが、いつ、どこでも容易にアクセスできるものである。これは実に驚くべき発見であり、個人レベルであれ、集団レベルであれ、アクセスできる情報であり、今までまったく予期できなかった、人生を変えるだけのパワーを生み出すものである』」(p.26-27)
改定前の本書の序文からです。ホーキンズ氏は、本書の重要なメッセージはこれだとして、事前に綴っておられます。
簡単に言えば、人であるというだけで全知全能の神にアクセスできるということです。
「この本の目的は、あなたが読み終わった最後に「私は常にそれを知っていた!」とうなづけることです。そうであればこの本は成功したといえるでしょう。ここに含まれている内容は、あなたがすでに知っていることを反映しているだけなのですが、あなたはそれを自分が知っているとは知りません。そこで私がやりたいと思ったのは、今まで隠れていた絵のパズルのピースが点々と現れて、互いを結びつけることでした。」(p.28)
全知にアクセスできる人間ですから、すべてのことを知っているはずなのです。けれども私たちは、私たちがそういう存在だということを忘れています。本書は、それを思い出させるものだと言っているのですね。
「『パワーか、フォースか』は、人間の精神的進化のもっとも低い表現(恥)からもっとも高い(悟り)レベルにいたるすべての層を、論理的に説得力のある意識の分析として示したものです。本書は、目に見えるものと目に見えないもの、人間、非人間なども含めた存在するすべてのエネルギー的な本質を明らかにすることによって、すべての創造物の一体性を浮き彫りにしています。」(p.39)
本書では、人の意識レベルを数値で表しています。それを論理的に説得力のある分析を行っていると、新しいまえがきでは語っています。
「人間は自分がコントロールできるフォースによって生きていると思っていますが、実際には隠されている源からの制御不能なパワーに左右されています。」(p.60)
タイトルにあるパワーとフォースですが、日本語に訳せばどちらも力になります。では何が違うのか?
これは、本書を読んでいかないとわかりづらいのですが、要はエゴ(顕在意識、理性)によって「◯◯しよう」としてすること、その行為とかエネルギーがフォースであり、そういうものによらずに勝手に起こってくることがパワーと言えるのではないかと思います。
意識のマップ(p.101)というのがあり、「恥」(20)のレベルから「悟り」(700〜1000)のレベルまで、意識のレベルを表しています。このレベルがパワーのレベルとも言えるのでしょう。
「自分自身の知覚によって生じた結果に対して責任を取るにつれ、「自分を打ち負かすものは、外の世界には何もない」という理解が生まれ、他者に責任をなすりつける精神を超越できます。人生で起こる出来事に対して、自分がどう反応し、どういう態度をとるかによって、それらの出来事が人生にポジティブな影響を及ぼすか、それともネガティブな影響を与えるのかを決定します。その経験は、チャンスにもなれば、ストレスにもなるのです。」(p.104-105)
現実の状況や出来事の責任がすべて自分にあると考えれば、現実の犠牲者にはなり得ません。そうであれば、何かをするための前提条件、つまりチャンスでしかないのです。
「歴史全体を見ると、法的措置、戦争、相場操作、法律、規制などの社会問題は、いずれもフォースの力によって、改善しようと試みてきたということに気づきます。しかし、これらの問題をいくら処理しても、同じことがしつこく繰り返されるだけです。個人にしても政府にしても、フォースに基づいた近視眼的な方法では、これらの問題は解決できません。」(p.106)
なぜそういう問題が現実に起こってくるのかということについて、本質的な原因を見極めない限り、対処療法では本質的には解決しないのです。
「測定が示す数字は十進算ではなく、対数を表しているということをよく覚えておいてください。よってレベル300は、150の2倍の範囲を意味するのではなく、10の300乗(10300)のパワーを示しています。ですから、ほんの数ポイント上がるだけでも、パワーは大きな増加を表しています。」(p.108)
「怒り」のレベルは150ですが、そのパワーを倍にしても300にはならないのです。それくらいこの意識のマップに示されたパワーのレベルは、数値が少し上がるだけで大きな違いがあるということですね。
「私たちの社会で、人を操ったり罰したりするためによく使われるのが、「罪悪感」です。」(p.111)
「罪悪感にとらわれてしまうと、結果として「罪」の意識に支配されてしまいます。それは誰に対しても「許さない」という態度をもたらします。また、この感情は、宗教扇動者によって、強制や支配に利用されることがあります。」(p.111)
お勧めしている「神との対話」では、不安と罪悪感は人類の敵だと言っています。他人をコントロールする手段であり、愛の真逆のものなのです。
「200レベルにおいて、初めて「フォース」から「パワー」に切り替わります。
200以下のエネルギーレベルに陥っている被験者をテストすると、すべての反応が弱くなるのが簡単に確かめられます。ところが200以上の生命を支えるフィールドでは、誰もが強く反応します。
これは生きることに対してポジティブか、それともネガティブな影響を与えるのかを識別できる臨界点です。」(p.120)
その人がどのくらいのエネルギーレベルかも、キネシオロジーで知ることができるようです。そしてエネルギーレベルが200というのは、「勇気」という言葉で表されるものだそうです。
「「中立」のレベルでは、「さて、この仕事が得られないのなら、また別の仕事でも探そうかな」と言うことができます。これは、内なる自信の始まりを意味します。自分のパワーが感じられると、人は簡単におじけづいたりしませんし、他人に認めてもらう必要もありません。」(p.122)
エネルギーレベル250が「中立」です。他人からどう思われようと、自分を信じ、人生を信頼できるのですね。
「それはここでいう「愛」ではなく、むしろ依存的で感傷的な類のものといえます。そのような関係性には本当の愛はおそらく存在せず、プライドによる憎しみから生じているのでしょう。
500レベルは、無条件かつ不変で永久的な愛の発展によって特徴づけられます。その源泉は外部の要因に依存していないので、決して揺らぎません。
愛することとは、心の在り方です。世界に対して許し、養う、サポート的な在り方です。」(p.128-129)
「愛」のエネルギーレベルは500だそうです。そしてその「愛」とは、多くの人が勘違いしているものとはまったく違うものなのです。
「各々の意識の到達レベルが高ければ高いほど、その人の人生をすべてを変えてしまうほど、もたらすパワーは大きくなります。非常に意識の高い状態を一瞬経験するだけで、目標や価値観も同様に、人生の方向性を完全に変えることができます。今までと同じ人間ではなくなり、その経験と共に新たな人間が誕生すると言えるでしょう。困難な道ではありますが、これこそがスピリチュアルな進化のメカニズムです。」(p.147)
先に示した意識のマップのエネルギーレベルを上げていくこと。それがスピリチュアルな進化なのです。
「テクニックが即座に偽りと真実を区別するので、たとえば加害者は誰かとか、行方不明の人の居場所なども、実際に解決につなげることができます。大きなニュースの出来事に隠されている真実を明らかにすることも可能です。」(p.162)
これは驚くべきことなのですが、キネシオロジーが全知にアクセスするものだという前提なら、まさにそういうことになります。
つまり、人が本当のことを言っているのか、それとも嘘を言っているのか、簡単に見抜けます。また、目撃者が誰もいなくても、そこで何があったのか知ることもできるのです。
「死の恐怖をいったん超越できれば、人生観が変わるほどの経験となります。その理由は、死という特定の恐怖は、他のあらゆる恐怖の基盤となっているからです。」(p.171)
私たちは恐れ(不安)があるから、本来の私たちではない選択を余儀なくされています。その恐れ(不安)の最たるものが死だと思います。
だから、この死の恐れ(不安)を乗り越えることが何よりも重要だと私も考えています。
「世の中の有害なものはすべて、暴露されることによって無害になります。そうであれば、何も隠されたままでいる必要はありません。あらゆる思考や行動、決断、感情は絶えず動き続ける生命のエネルギーフィールドの中で、互いに組み合わさりながら調和をとり、渦を巻き起こしながら永遠の記録として残ります。このことに私たちが気づけば、そのような発見に初めはおじけづいても、その気づきは進化を早めるための飛び込み台となるでしょう。」(p.176)
お勧めしている「神との対話」でも、すべてを見える化する、透明化することを勧めています。
「パワーは生命そのものを常に支えることに関係しています。それは、人間の気高さという性質を訴えています。「気高さ」とは、私たちが「俗っぽい」と呼ぶフォースの領域と相対しているものです。
パワーは私たちを高揚させ、威厳を与え気高くしてくれるものです。フォースは常に正当化されなければなりませんが、パワーは正当化される必要はまったくありません。フォースは部分的なものに関係しますが、パワーは全体に関係しています。」(p.180)
パワーとフォースの違いを対比した文ですが、パワーは存在する「ひとつのもの」に仕えるものだと思います。
この後も対比が続くのですが、フォースは移動しパワーはじっとしている、フォースは対立しパワーは敵対しない、のような記述があります。これは「神との対話」の不安(恐れ)と愛の対比によく似ていると感じました。
「「「フォース」は常に真実の置き換えです。「銃と警棒」は弱さの証です。ちょうど虚栄心が自尊心の不足から生じているように、他人をコントロールする必要性は「パワー」の不足から生じています。罰は暴力の一つの現われであり、「パワー」に代わる効果のない置き換えです。」(p.223)
つまりフォースは恐れ(不安)から他人をコントロールしよう、思い通りにしようと働くのに対し、パワーは愛から他人も自分もありのままで自由にさせるのです。
「どんな宗教でも、原理(根本)主義派は常に一番低く測定され、犯罪の意識と同じ水準で活動していることがわかります。その象徴は、自己中心的な極端主義と非合理性です。しかし人類の85パーセントは、200の臨界点となるレベル以下で測定されるために、間違いは容易に広まると同時に、世界中で受け入れられることになります。」(p.347)
宗教の原理主義というのは、経典に書かれている規律を何が何でも押し付けなければ気がすまないという考え方です。そういう意識レベルは、パワーではなくフォースに傾いているってことですね。
そして宗教そのものが、教祖が表れた時から比べると時代とともにエネルギーレベルが落ちていることが書かれています。こういうのは面白いですね。
「意識のレベルをもっと向上させることは、どんな人でも世界に対して与えることのできる最高の贈りものです。その上、波及効果によって、その贈りものは源に還元されます。何世紀もの間、全体としての人類の意識のレベルは危うくも190に留まり、1980年代半ばに突然204という、希望が持てるレベルまで飛躍しました。今日となって、人類は歴史上初めて上に向かって進み続ける安全な地点に到達しました。」(p.360)
これをアセンションと言うのでしょうか。人類全体のレベルとして200の臨界点を1980年代に超えたと言っています。
「一般的な知恵として、人は天を崇拝するか、地獄を崇拝するかによって、やがてはどちらかに仕える者となります。地獄とは神によって課された状態ではなく、むしろ自分自身が選択したことの必然的な結果です。絶えずネガティブを選択する最終的な結末であり、したがって愛から自分自身を遠ざけることなのです。」(p.366)
お勧めしている「神との対話」でも同様のことを言っています。神が人を地獄に落とす必要がないのだから、そういう意味での地獄は存在しません。けれども人は、その想像力によって地獄を創り出し、地獄を体験するのです。
かなり難解な内容でしたが、スピリチュアル的にはお勧めしている「神との対話」の内容とほぼ一致しているのではないかと思いました。
実際にキネシオロジーによってすべてのことが正確に測定できるのかどうか、私にはわかりません。また本書にも、それが正確だという科学的な根拠は示されていません。
なので、どう感じるかは人それぞれにお任せするしかないなぁと思いました。
かなり難解なので、安易にすべての人にお勧めしたいとは思いません。しかし、真理を探求したいと思われる人は、挑戦してみてもいいのではないかと思いました。
タグ:デヴィッド・R・ホーキンズ 本