もう1年以上前に買って、読み始めていた本ですが、途中で興味を失ってしまったこともあり、今日まで読み終えずに来ました。
退職と転居の時期が近づいたこともあり、この本も読み終えて置いていこうと思ったので、再び読み始めたという感じです。
著者は野口整体の野口晴哉(のぐち・はるちか)さんです。野口さんの本は、以前に「風邪の効用」を紹介しています。
この本は、私が生まれる前の昭和36年(1961年)7月に書き終えられたようです。そんな古い本でもあり、また、かなり専門的と言うか、整体を実践している人向けのガイダンス的な内容でもあり、一般の人には「難しい」と感じられるような内容です。実際、Amazonのレビューを見ても、そういう感想が多々ありました。
それでも、12種類の傾きや捻じれなどの身体的な特徴から、人の特徴を記して、それをどう扱うのが良いかを示したということは、整体を考える上で有益なことだろうと思います。
素人的には、すべてを把握することは困難だと思いますが、生まれつきの身体的な特徴によって性格とか考え方まで決まってくるということがあるのだ、というように受け入れれば、たとえ理解できないとしても、理解できないままに違いを受け入れられるようになるのではないかと思いました。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「しかし人間もまた動物である以上、環境に適応してその機能形態を変化する自然の能力を有していることに変わりはない。そのため改善した環境に住めばその改善された環境に適応し、その機能形態を変えることは当然である。それ故消化しやすいように煮焼きしたものを食べておればそうしないと食えなくなり、丁寧に噛めば消化がよいことを知ってこれを実行しておれば、丁寧に噛まないと消化不良を起こすようになる。栄養物を選りどって食べておれば、栄養食品からでないと栄養が吸収できなくなる。」(p.22-23)
たとえば細菌などが体に害悪を与えるとして除菌が進めば、免疫力が弱くなって、ちょっとした細菌に接するだけで感染するようになるようなものです。
栄養豊富な食べ物ばかり食べていれば健康によいかと言われれば、必ずしもそうではないという面があるということですね。
「エネルギーの圧縮、凝固が病気を体に作りだし、自己を破壊に導くこともしばしばある。次々に生ずる欲求のため、実現が遅く感じ、欲求不満が生じ、また中には自分でもどんな欲求か判らないのに欲求不満だけを感じ、その実現の見当がつかぬため自分へ八つ当たりしている慢性病も少なくない。若い女房をもった亭主の喘息、嫌いな亭主をもった女房の婦人病、親の注意を求むるための寝小便等々、数え上げればいくらでもある。病気は体の故障だと考えている人も多いが、体以前の動きにすでに病気があることを注視すべきである。」(p.33)
病気は、精神的な偏りによって作られることがあります。そういうことがわかれば、病気を未然に防ぐことも可能になるのでしょうね。
「環境改善も天敵一掃も体の実質を丈夫にするための方法ではなかった。却ってその目的達成は自壊現象の誘導に通じる。我々はいかにしたら体を丈夫にし得るか慎重に考えざるを得ない。
体が丈夫ならば、食べ旨く、働いて快く、眠って愉しい。空の蒼く晴れていることも美しいし、太陽の輝くことも心を明るくする。花咲き、鳥歌うも欣(よろこ)びである。作られた楽しさを追い求め、汲々として苦しんでいる如きは、生くることそのものが欣びであることを体で感じられないからである。苦しんで鍛えて丈夫になれるつもりの人もいるが、それは違う。何もしなくても健康であり丈夫であるように人間はできている。楽しく快く生きることこそ人間の丈夫になる自然の道である。守られ庇(かば)われ、やりたいことをやれず、言いたいことを言えず、動きたいののに動かないで暮らしていることは決して健康への道ではない。
健康に至るにはどうしたらよいか。簡単である。全力を出しきって行動し、ぐっすり眠ることである。自発的に動かねば全力は出しきれない。」(p.34-35)
病気の原因をなくせば健康になるかと言うと、必ずしもそうではないということですね。体を過保護にすれば、それによって体が弱くなり、病気になることもある。
だからそういう不安を動機とした原因の排除に心をとらわれるのではなく、主体的に生きて、それでいて自分の人生を肯定して喜ぶこと、楽しむことが、健康の秘訣なのですね。
「同じ人間でもいろいろの運動習性があるが、そのどれももとを探ってゆけば体構造差にある。牛が草を食するのもその気が温和(おとな)しいからではない。虎が肉を食うのもその性が荒(すさ)んでいるからではない。各々の体構造によるのであって、人間各人の行動もまたもとをただせば各人の体構造のもたらす運動習性に他ならなぬ。」(p.39)
「一体、人間は何を主張しようとするのか、一言に言えば「我ここに在り」というのである。いろいろの言い回しはあるが、その端的は「オギャー」である。何故そんなことにワザワザ大声をあげるのかといえば、それは男であり女であるからに他ならぬ。全ての主張はその意味では性に連なると言えよう。
要求の第一は食べることである。動くことである。その身を保とうとすることである。何故食べたいのか、生きていたいからである。しかし何故生きていたいのかは判らない。生きていたいから生きていたい、というより他ない。ただ裡(うち)にある生の要求によって、食べたくなり、飲みたくなり、動きたくなり、眠りたくなる。その要求によって、一個の精子が万物を凝集して人体を作ったのであるから、いわば体構造以前の問題であろう。
それ故、主張も、要求も含めて要求といえる。一は個体存続の要求であり、一はいつまでも生きていたい要求の現われとしての種族保存の願いに他ならない。ここに人間の一切の動きのもとがある。人間に限らず、動物の動くのは体の動く前に動くものが裡に生じ、裡の動きの現われとして体が動くのである。それ故、動くことのすべては要求の現われに他ならぬ。一切の体の動きの背後に構造以前の要求がある。」(p.44-45)
「しかし、それでも鬱散(うっさん)してしまえばすぐ落ち着くのであるが、内攻して体の中で鬱滞したままでいると醗酵(はっこう)して育ち、後になって妙なところで爆発するのだから難しい。明日の天気予報ができるようになっても、宇宙船を飛ばせても、明日の奥さんの機嫌は予想もつかない。いや自分のだって判らない。その理由は何かといえば、体のエネルギーの集注、分散の平衡を保とうとするはたらきがいつも行われているからである。この平衡作用の働いていることを知らず、ただ目前に現われたことだけしか見なかったら、人間の生活というものは奇々怪々である。」(p.49-50)
「しかし、丁寧に一人一人を観ていると、それぞれに鬱散の習性があって、鬱滞すると怒鳴る人もおれば、愚痴を言い出す人もある。歩き回る人もおれば、茶碗を割る人もいる。」(p.51)
「咄嗟(とっさ)の時に出る動作は人によっていろいろあるが、同じ人はともすると同じことを繰り返す。そういう方向に動きやすい体構造をしているからであろう。錐体外路系運動の習性とでもいえようか。そのために鬱散の手段に癖があるので、その奥さんの街路系習性を心得ていたからこそ、この御亭主は身をかわし得たのだろう。」(p.51-52)
野口氏の人体の理解は、このように人間存在そのものに根ざしたもののようです。
人間の欲求が元になって、いろいろな動きとなって現れる。その現れ方は、体構造によって違いがあるということですね。
「この如く体癖素質は噴出方向によって十二種に分類しただけでは不十分で、さらにこの習性、また周期律、許容量等によって分類を進めねばならぬ。体の波による分類には「類」という名称を用いる。四十八類に分かつ。」(p.73)
12種の体癖分類だけでも素人には手におえませんが、専門的には48類に分類するのだそうです。
「どんな動作をしてもその固有の運動の焦点が反応するのですから、疲労の中心もここにあるといって差し支えありません。従って無意的にとる休息姿勢も、その偏り運動の焦点に起こっている不随意的緊張を弛緩させるような姿勢をとるのです。」(p.93)
無意識的に休息する姿勢もまた、身体の偏り、つまり体癖に起因していると言えるのですね。
「三種の人が好きと嫌いで何でも処理してしまうといっても、そうできているのだから当たり前なのです。それを五種のように、好きであっても嫌いであっても、まず計算してから返事しろと言われても、三種にはできない。人間は各々のそういう宿命というか、体癖によって生きているのですから、お互いにそれを理解し合っていけば、もう少し人間社会の中のゴタゴタは少なくなると思うのです。」(p.164)
つまり、「なんでこれができないの!?」と言いたくなるようなことがあっても、体癖が異っているとできないことがあるのです。
それだけ人は「違う」のですから、「違う」ということを前提にすれば、世の中は平和になると思います。
「肋骨を折った時などは、息をするのも苦しく、歩くとゴボゴボ音がする。しようがないので操法が終わると映画館に行って、片手で肋骨を押えながら見ている間は痛いのを忘れている。そうしているうちに治ってしまいましたが、病気になって床に臥して心を患い、気を患っているというのは馬鹿だなあと思う。そういう痛いところや、苦しいことがあったら、そのまま面白い漫画でも見ていたら、見ているうちに治ってしまう。歯が痛いといって一生懸命そこを押えている人があるが、注意が集まるほど感覚は敏感になるのだから、それはつまらない。」(p.258)
不安になって気にしていると、かえってその不調が持続するということがあるのです。それよりもさっさと忘れてしまった方がいい。その方が治りが早いということがあるんですね。
ここで「片手で肋骨を押えながら」とあるのは、まさにレイキですね。野口整体では「愉気(ゆき)」と言うのですが、要は「手当て」であり、本質的には同じものだと思います。
専門的過ぎるので、この本に書かれた概要的な情報では、12種の体癖さえ完全に知ることは不可能ではないかと思います。事実、私自身がどの種に入るのか、まったくわかりませんでした。
なので、この本で素人が理解すべきなのは、自分の意志ではどうにもならない体癖というものがあって、それは人それぞれ違うし、その違いによって、性格や行動、考え方も影響を受けるということを理解すればよいかと思いました。
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