伊与原新さんの「月まで三キロ」という小説を読んだ時、この本の著者の新田次郎(にった・じろう)さんのことに触れられていました。お名前は存じ上げているのに本を読んだことがない。これは一度読んでみなければと思い立ち、ネットで探して選んだ本になります。
選ぶ時に意識したかどうか覚えていませんが、この小説の舞台はここ長野県です。読んでみると、そもそも新田さん自身が諏訪の出身なのですね。本書は木曽駒ヶ岳で実際にあった遭難事件のドキュメンタリーでもあり、ノンフィクション小説でもあります。
本書には本編の前に序文のような文章があります。「彼」が木曽駒ヶ岳に登山し、そこで遭難記念碑に対峙する。なぜ慰霊碑ではなく記念碑なのか? その疑問が、この小説の中で解かれていきます。
本編は3つの章に分かれていて、第一章「遠い山」で、登山に至るまでの経緯が描かれています。内在する問題について触れられており、それらが遭難事故によって顕在化していくのです。
第二章「死の山」は、中箕輪(なかみのわ)尋常小学校の修学旅行として行われた駒ケ岳登山において、遭難事故が発生する様が描かれます。第三章「その後の山」では、遭難記念碑が建立されるまでが描かれています。
本編の後に、「取材記・筆を執るまで」というあとがきがあり、新田さんがどういう思いでこの小説を書こうとされていったかが詳細に語られています。
本編ではないものの、これを読むことで本編に描かれている内容が、より生き生きと伝わってくる気がします。
ではさっそく一部を引用しながら、本の内容を紹介しましょう。ただしこれは小説ですから、なるべくネタバレにならないようにしなければなりません。けれども、どうしてもここは引用したいという部分があるので、少しネタバレになりますがご容赦ください。
「信玄は頼親に対して、心配するな。私は人の命を欲しいとは思わぬ。無駄な殺生は嫌いだし、なにがなんでもこの信玄に従えとも云いたくない。信玄に従いたいと思う者があれば、今までどおりの処遇を与えるばかりでなく、今後は、働き次第で恩賞は限りなく与えられるであろう。また、この信玄に従うのが嫌な者は、何処へでも行くがいい。とがめはしないし、この城を見捨てて松本へ逃げ帰った小笠原長時に従いたいと思う者があれば、直ちに去るがよい。追い打ちなどはしない。」(p.23)
「この地方では武田信玄のことをあまりよく云わないけれど、私は信玄こそ偉大なる武将だと思っている。敗戦に際して、敵兵にそれぞれの考え方によって生きるようにとその道を示したところに彼の偉大さがある。」(p.24)
教師の樋口裕一が生徒に対して、箕輪の福与城が落ちた時の逸話を語った部分です。地図を見れば、箕輪の東に甲斐駒ヶ岳があり、その先は甲斐の国。武田信玄の領地でしたね。
この信玄のセリフから、信玄の人間性が見えてきます。実際にこうだったかどうかは知りませんが、新田さんはそのように見ていたのでしょう。そして、新田さんはこういう信玄の考え方に共感していたのだと思います。
私も同感です。勝てば官軍とばかりに負けた側を奴隷のように扱うのではなく、自由な人間として尊重する。そういう姿勢を立派だと思うし、そうありたいものだと思うのです。
「今回の遭難はまことに不幸なことでした。しかし、修学旅行中のこの事故を、単に不幸なことだとして終わらせずに、この事件を永遠に忘れないようにすることによって、登山の意味を価値あらしめたいと思います。私は遭難慰霊碑でも、遭難殉難碑でもなく、遭難記念碑−−つまり遭難そのものを忘れないための碑を造りたいと思います。それこそ赤羽先生及び亡くなったこどもたちの霊に報いることではないでしょうか」(p.319)
「有賀は遭難記念碑が建つことにより赤羽長重の実践主義教育が永遠に亡びることなく続くことを確信していた。一人の白樺派の教師の感傷的妥協でも、ましてや変節でもなく、こどもたちを真に愛し導くためには登山こそ最高の教科目だと考えたから、身を犠牲にして建碑運動をしたのだった。」(p.340)
教師の有賀喜一は、赤羽校長の教師としての生き様を人々の心の中に残すことで、将来の箕輪の、長野の、発展のために寄与したいと願ったのです。そうしなければ死が無駄になる。そういう思いから記念碑としたのだということを語っています。
そしてこの話の背景には、白樺派の理想教育と、旧来の実践主義教育とのぶつかり合いがありました。双方の主張は異なれど、目指す目的は同じ。子どもたちの健全な成長に寄与すること。記念碑の建立は、長野における真の教育の起点ともなるものでした。
「駒ケ岳に当時としては立派な山小屋が建ち、遭難記念碑ができ上がると共に、上伊那郡の諸校の修学旅行登山が盛んに行われるようになった。
「これで赤羽校長の初志は貫徹された」
と上伊那郡教育会を形成する多くの教育者たちは喜んだ。しかし中箕輪村にはこれとは異った見解を持つものがあった。問題になったのは遭難記念碑の文章である。」(p.347)
「この碑文を読んだ遭難児童の父兄たちが、
「これは慰霊碑でも殉難碑でもない。まさしく赤羽長重を称える碑である。遭難した児童たちは、単に共殪者(きょうえいしゃ)として扱われているに過ぎないではないか。これでは死んだこどもたちは浮かばれない」
と云い出した。父兄ばかりでなく、役場の内部でもこの碑の文面について反感を示す者があった。」(p.348)
希望者による登山であり、かつ当時できる限りの準備をして行われた心身鍛錬を目的とした修学旅行でしたが、実際に遭難事故が起こってしまうと、犠牲者の遺族は誰かを加害者(悪者)にしたくなってしまうのです。
その悪者中の悪者であるはずの赤羽校長が、まるで悲劇のヒーローであるかのように扱われることが我慢できなかったのでしょう。その心情は十分にわかります。
けれども一方で、この事故の教訓によって、その後のより安全な登山が可能になったとも言えます。そしてその登山によって心身を鍛える多くの子どもたちが現れてきて、長野を支える有為の人材となっていったことでしょう。ものごとにはすべて、表と裏があるのです。
「私の故郷の霧ヶ峰に立つと、甲斐駒ヶ岳も伊那駒ケ岳(西駒ヶ岳)も手の届きそうなところに見える。その伊那駒で、遭難があっておおぜいの児童が死んだという話は、小学生のころから知っていた。誰に聞いたかはっきり覚えてはいないが、一人にではなく、何人かの人を通じて、いかにその遭難が悲惨なものであったかを聞いた。私が好んで山岳を舞台にした小説を書くようになってからは、いつかは、この遭難についての報告書を読んでみたいと思っていた。小説に書く書かないは別として、調べてみたい問題だった。」(p.356)
「取材記・筆を執るまで」は、この文から始まっています。
「上伊那郡教育会によって発表された、駒ケ岳遭難記録を何度か読み返えしてみて、いったい何が遭難の原因になったかを考えたとき、まず第一に気が付くのは、内ノ萱(うちのかや)から案内人を連れて登らなかったことである。前年もその前年も案内人を連れて登ったのに、その年は予算節約のために案内人を連れて行かなかった。もし、前もって案内人を頼んでいたとしたら、その人は責任上、伊那小屋がどの程度破損しているか、くわしいことを調べて置いたに違いない。だが、案内人にたよるのは危険だから、責任者が下見登山をすべきであった。団体登山でありながらこれをしなかったのが第二の過失である。」(p.369)
たしかに後になってみれば、あれが過失だったと思えることは多々あるでしょうね。けれどもその時はその時で、それで十分と思えたのでしょう。そういうことは、よくあることだと思います。
「大正二年八月二十六日、中箕輪尋常高等小学校の少年たちが賽(さい)の河原に着いたときは、既に天気は悪くなっていた。風も吹いていたし、雨もあった。しかも少年たちは疲労困憊していた。その状態で、更に風が強いところを歩かせるのは危険だと赤羽校長は考えたに違いない。大暴風雨が来るとは予想していなかったから、多少雨があっても一夜ぐらいなら仮小屋で過ごせるものと判断して、あの処置を取ったに違いない。」(p.372)
より堅牢な木曾小屋まで行くという方法もあったのに、それをやらなかった。それも11人の犠牲を出すことにつながったと言えるでしょう。
けれども、それは後になってから言えること。当時は今ほども台風の進路を予想できなかったのです。
「私は碑文の最後に刻みこまれた、上伊那郡教育会の七文字に打たれたのである。この七文字はふてぶてしく太く深く刻みこまれていた。字の大きさは、碑文や遭難者名の三倍ほどの大きさであり、中央に大きく刻まれた遭難記念碑の五文字に次ぐものだった。遠くから見ると、遭難記念碑上伊那郡教育会と読めるように、設計されてあることは明らかであった。殉難碑でも、遭難者供養塔でも、遭難慰霊碑でもなく、遭難そのものを記念する碑であることを、碑文にも、碑題にも、強調したその常識破りの碑の在り方が、私を戸惑わせた。そして、そのすべての責任を上伊那郡教育会が負うものであると、ふんぞり返えって云い放った碑文の姿勢に私は圧倒された。
それは、将来ともに赤羽長重等十一名の死を上伊那郡教育会の面目にかけて、無駄にはしないぞと豪語しているようにも思われた。その気の強さに私は面喰らった。六十年前に、このプランを考え出した人は誰であろうか。こういうことは、誰か中心となるべき人がいなければできるものではない。」(p.380)
ここからも、序文に書かれた「彼」が新田さん自身であり、記念碑と対峙した時の驚きがこの小説のモチーフとしてあることがわかります。
新田さんは、山岳小説と呼ばれることを嫌った時があったそうです。自分が描いているのは自然ではなく人であるからと。たまたまその舞台が山岳だというだけだと。
たしかに、新田さんの関心は人にあり、その人の生き様を描きだそうとされているのだと、この小説を読んで思いました。それぞれの人に、それぞれの思いがあり、生き方がある。それを見事に描き出した小説だと感じました。
私はもうすぐで長野を去ります。2年と3ヶ月住まわせていただきました。その最後に、新田さんの小説を読むことになったのも、何か運命的なものを感じます。
【本の紹介の最新記事】