もう1年以上前になりますが、私が老人介護施設で働く中で「拘束」という問題がありました。つまり、利用者様の自由を奪い、抑制することです。単に「縛る」と言った方がわかりやすいでしょうか。
私は自由を愛する考え方なので、できれば拘束せずに介護したいと思っていました。それで、そういうことに関する本を買ったというわけです。
読まずに積読(つんどく)だけで1年が過ぎてしまいましたが、やっと読むことができました。
ただ、この本を読み終えた今、これによってすべてが解決したとは思えません。当たり前と言えば当たり前なのですが、考え方は人それぞれです。ある人にとっては、これで上手くいくと思えることが、他の人にはそう思えないということもあるのです。
ただ、その考え方の違いに、どういう視点があるかということは見えてきました。そういう意味で、ためになる本だったと思っています。
著者は、上川病院で理事長になられた吉岡充(よしおか・みつる)医師とそこで婦長を勤められた田中とも江(たなか・ともえ)看護師です。当時は看護婦と呼んでいた時代でしょうか。1999年発行の本ですが、本書では看護婦という言葉が使われています。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。なお、本書では本来は句点(、)となるところがカンマ(,)になっています。横書きのため、そうなっているのかもしれません。引用では句点に置き換えます。
「多くのスタッフが、
「縛らないと患者さんが危ないから、抑制は患者さんのためだ」
「縛らないと仕事が大変になるといわれたから」
「こんな少ないスタッフ数じゃあ患者さんを縛らなければとてもやってられない」
頭ではそんなふうに考えている。しかし、実際に縛るときは、
「かわいそうだと思うこともあった。仕事だからしかたがないという気持ち」
自分のときは他の人にくらべて少しゆるめに縛っていた」
「患者さんを縛るのはつらかった。子どもが大きくなるまで辛抱して勤めて、そこの職場からサヨナラしようと考えていた」
こんなぐあいに大部分のスタッフが、程度の差はあれ、”かわいそう”とか、”自分はいけないことをしている”という、うしろめたい気持ちを感じた経験があった。抑制に慣れることができずに、違和感をずっと感じつづけながら縛っていたというスタッフも多かった。」(p.3)
「抑制は患者さんのこころと身体を著しく傷つける。苦痛であるだけではなくて、食欲の低下や褥瘡(じょくそう)、関節の拘縮(こうしゅく)、心肺機能の低下、感染症への抵抗力の低下、痴呆の進行など、さまざまな不利益を確実に患者さんにもたらす。それは患者さんに無惨な死をもたらすことにもつながる危険な行為である。この弊害に比して患者さんにもたらされる利益は皆無に等しい。」(p.4)
田中看護師は、冒頭でこう語ります。つまり、「抑制」という行為はデメリットばかりでメリットはないのだと言い切っておられるのです。
それなのに、多くの医療関係者が疑うことなく抑制をしている。あたかもそれにメリットがあると信じて。
私は、2年間ほど老人介護の仕事をしてきましたが、田中看護師の考えには賛同できませんでした。抑制にメリットもあると感じているからです。
なお、ここで「痴呆」という言葉が使われていますが、現在では「認知症」という言葉が使われます。おそらく当時は「痴呆」が使われていたのでしょう。
「ベッドから落ちてしまう患者さんであれば、ベッドの枠を外して、床にマットレスを敷いてやすんでもらえばいい。病院だからといってベッドである必要はないのだ。」(p.12)
このように、やり方次第で抑制しなくても済む方法があると田中看護師は言います。しかし、それは1つの例にすぎないと思います。
ベッドから落ちて怪我を防ぐことだけが目的なら、この方法で対処できます。実際、私が勤める老人介護施設でもそうしています。しかし、立って歩いてしまう患者ならどうでしょうか? マットレスがないところで転倒するかもしれません。転倒した際、打ち所が悪ければ骨折とか脳挫傷とか、重症を負う危険性もあると思います。
「老人医療と、かつて私がたずさわった精神科医療は、患者さんが差別を受け、見捨てられやすいという点で似ている。抑制の問題も、かつての精神科医療の乱脈な歴史を背景に生じていると思う。そしてそのなかでの看護婦の扱われ方も患者さんたちと同様、利用され、差別され、見捨てられてきた。私にはそんなふうに感じられるのである。」(p.16)
田中看護師は、看護師は誰でもできる仕事だと低く見られて、差別されていた時代を経験されています。その自分たちが差別されてきたことへの反発が、同じように差別されていると感じる精神病患者や老人患者にシンパシーを感じる理由になっているようです。
実際、精神病患者に対する非人道的な扱いは、目を覆いたくなるものがありました。ひょっとしたら今もなおあるかもしれません。
本人の主張はまったく受け入れられず、抵抗すれば叩かれ、縛られ、薬によっておとなしくさせられる。そんな時代があったのは事実です。
それと、老人に対する医療も同じ面があると田中看護師は見ています。たしかに、そういう一面があるなぁと私も思います。
「老人病院では多くの場合、患者が点滴や経管栄養の管を抜く、ベッドから落ちる、オムツをはずす、などの理由で老人を縛っている。しかしそれが「治療」に名をかりた医療者の「手抜き」となり、漫然とした抑制となっていることが多い。痴呆があり体力の弱った老人を縛れば、ますます痴呆がすすみ体力が衰え、自立から遠のくことは自明のことだ。医療者は抑制という”技術”によって、みずから「手のかかる」老人をつくりだしているという悪循環を断ち切らなければならない。」(p.20)
これは骨折による入院で、身体的にも精神的にもレベル低下してしまうのと同じことですね。動かせないようにすれば、あっと言う間にレベル低下してしまう。それが高齢者なのです。
「また、転倒防止のためと称して抑制することも多くみかける。しかしその転倒しやすい状況こそ、病院で患者さんを寝かせきりにしたケアをおこない、足腰を弱らせ、歩行を不安定にした結果生じたことである。それを転倒防止というのはおこがましい。本末転倒というべきであろう。」(p.6)
たしかに、安静にさせるから体力が落ちて歩けなくなってしまうことはあります。けれども、ほとんどの病院が、骨折の治療は行っても、元の体力に戻るまでのリハビリはしてくれませんよ。同じことではないでしょうか。
さらに言えば、安静にさせることだけが足腰が弱る原因ではありません。動き回っているお年寄りでも、足腰が弱ってくることがあるのです。そんなお年寄りに、もっと動け! とばかりにさらに運動させることが、足腰を弱らせないことになるのでしょうか? 私にはそうは思えません。
「抑制はなぜいけないのか。動きたい患者さんを止めるからだけではない。たんに法律に書いてあることに違反するからではない。患者さんを縛りつづけることで、患者さんの関節は拘縮し、褥瘡ができ、感染症が頻発し、衰弱をもたらす。場合によっては抑制したことが決定的に患者さんの死期を早める。つまりそれは患者さんを殺したと言うに等しいことである。」(p.27-28)
「ある病院では廊下を徘徊する患者さんを全員抑制する。看護補助者はおむつをしてまわり、看護婦は褥瘡処置をして歩く。それで「忙しくて大変だ、人手が足りない」などという。しかし、その褥瘡の原因である寝かせきりのケアや抑制をやめれば褥瘡が減るということは考えない。」(p.28)
たしかにそういう面はあるかと思います。過剰な抑制によって、かえって患者のレベル低下を招き、看護者の仕事が増える。
けれども、現実的には抑制によって看護者(介護者)の仕事が減るということもあります。それは、私が実際に仕事をしているのでわかるのです。
田中看護師は一方的に抑制を悪だと決めつけ、攻撃的な物言いをされていますが、どうも客観性がないように感じます。
「一般にいわれている”問題”とされる”行動”には、必ずその人なりの意味や理由がある。
第一にまず「不快だから」という理由、第二に「その人なりの世界のなかで必然性がある」という理由である。前者にたいしてはその不快なことを取り除くことがケアの要諦になるし、後者にたいしては、行動自体が問題になることは少ないので、その行動によっておこりうる危険や問題のほうに対応する。」(p.30)
どんな人であっても、その人の世界観に照らして間違ったことはしない。それが、お勧めしている「神との対話」で言われていることです。行動には必ず、その人なりのまっとうな理由があります。
だからその行動そのものを制限(抑制)するのではなく、その理由にアプローチしたり、行動の結果をサポートすればよい。この点は、まさに言われるとおりだと思います。
ただ、それが実際にできるかどうかは、また別の問題だと思います。オムツはずしや弄便(ろうべん)が、その患者さんの不快感が動機だとして、何ができるでしょう? オムツを着けなければいいのでしょうか? オムツを頻繁に交換すればいいのでしょうか?
そうしたら、失禁したり、トイレ以外の場所で排便したりするかもしれません。頻繁にトイレに案内したり、オムツの様子を見て交換したりするなら、それは作業の増加を意味しますよね。
「そういった面ではスタッフはそれほどストレスと考えず、その患者さん特有のかかわり、個別的看護ができる場だと理解してケアにあたることがよい。
「また脱いでる」「またどうせ脱ぐから着せなくてもいいや」と考えず、「風邪をひきますよ」「みんなみていて恥ずかしいですよ」などと話しながら、すなわちコミュニケーションの場だととらえなおして対処してはどうだろうか。」(p.50)
私が勤める老人介護施設でも、脱衣行為をする利用者様が何人かおられます。その都度着させるのですが、いい加減にしてくれと言いたくなります。
その人にはその人なりの理由があり、脱ぐことを恥ずかしいことだとは思っていないのです。したがって、風邪をひくとか恥ずかしいとか、そんなことを言っても無意味なのです。そういう声かけではコミュニケーションが成り立ちません。まともに理解できない方たちなのですから。
その人が脱ぎたいのであれば、脱がせてあげればいいではないか。そういう考えも一理あると思うのです。抑制しないとは、そういうことではありませんか。
一方で抑制するなといいながら、もう一方では自分の価値観を押し付けて抑制しよう(=服を着せよう)とする。これは矛盾だと感じるのです。
社会で暮らす以上、いくら自分がそうしたいということがあっても、許されないことはあります。許されないことをしようとすれば、罰を受けたり、拘束されて自由を奪われたりします。その狭間で、できるだけそれぞれの自由を尊重したいと思う。思うけれども認められないこともある。
そうであれば、介護や看護の現場においても、抑制が必ずしも悪とは言えないとも思えるのです。
「そもそも理解力が低下している痴呆性老人が、入院の目的や治療の必要性をどこまで理解できるであろうか。そのような混乱状態に身体抑制が加えられれば、さらなる混乱状態に陥り幻覚や妄想が出現しやすくなるのは当然のことだ。
抑制され、制限された生活のなかで活動性は低下し、廃用性症候群は進行していく。この「つくられた廃用性症候群」はさらなる転倒しやすい状況をつくりだし、抑制がなかなか外せなくなる。身体・精神機能は着実に低下し、いずれ「転倒もできない」状態となる。つまり、不可逆的な寝たきり状態となっていくのである(図4)。」(p.77)
たしかにそういうことが言えると思います。
ただそのことと、ではどこまで自由にさせるのかということは、また別の問題があると思います。何でもかんでも自由にさせられないことは明らかです。
私も、自由の過剰な制限には反対です。意識がしっかりしているなら、そういう制限は受けたくありません。たとえ寿命を縮めるとしても、自分の自由にさせてほしいと思います。
けれども、意識がしっかりしていない人に対して、関わる人はどうすればいいでしょうか? 相手の自由を、どこまで奪っていいのでしょうか? 抑制の問題の本質は、そこにあると思うのです。
「しっかりと排泄をすませた痴呆性老人が、トイレへ行こうとするであろうか。不快な刺激を除去し全身状態をしっかり管理していれば、車いすベルトを使用しなくても、寝かせきりにせず、座位をとらせることはできる。」(p.93)
ある程度は管理できることには同意しますが、完全に管理することは不可能だと思います。
実際、自分自身でも、1日に何回、いつ排便するのか、その時にならなければわからないからです。一度済ませたから、その日はもう二度としない、なんてことはありませんよ。それに、毎朝決まった時間にしか排便しないなんてこともありません。
また、急に立ち上がって、不安定だから転倒するという人もいます。誰かがずっと付き添っているなら、立ち上がった時にフォローすることもできるでしょう。でもそれは、介護者や看護者の手間が増えることになりますよね。
「そこには「働いてやっている」という意識があったように思う。看護婦不足の時代には、「自分の資格でこの病院は成り立っている」という意識ばかりがあって、その病院で働いていることの幸福感、ハッピーさがない。」(p.102)
「「年寄りとはそういうものだ」「老人は日々、病院で時間をつぶしているだけだ」と考えるようになるのである。
廃用性症候群をつくる悪循環に目が行かないかぎりは、「ぐあいが悪くなって治療している結果おきたのだから、それはその人の寿命である」と患者さんを投げやりにみるようになってしまう。それは、「治療した結果こうなったのだから自分のせいではない」、ひいては「患者さんが悪い」という論理に容易にすりかわってしまう。」(p.103)
私には、ハッピーさがないのは田中看護師ではないかと感じます。看護師としての自分が差別されてきたことへの恨みがあるように思うのです。
同じように差別されていると感じた患者さんたちに寄り添うことで、自分自身を救おうとしている。そんな気がします。
たしかに、廃用性症候群を作ってしまうことがあるかもしれません。けれども、どうするのが正解かなど、一概には言えないと思うのです。
たとえば抑制しなかったことによって転倒して骨折し、廃用性症候群になって亡くなってしまったなら、それは死期を早めたことにならないのでしょうか? 抑制しなかったことによって死期を早める。そういうこともあり得ると思うのです。
「総婦長として私は「抑制をするな」といったが、スタッフは「はい、わかりました」と素直に返答しながら、隠れて抑制していた。「抑制しないでケアなどできるはずがない」「夜勤をするのは自分たちで、総婦長は理想論をいっているだけだ」などと陰で批判した。
これらの抵抗にたいして、吉岡充副院長(当時)が、「抑制したらかならずカルテに『縛った』と記録せよ」という命令をだした。」(p.107)
看護師たちも抑制には罪悪感を感じています。だって、他の人の自由を奪うことですから。その思いを利用して脅して実行したということですね。
「抑制帯の廃棄と管理者命令といった強硬手段によって抑制を「できなくする」一方で、昼間のケアを徹底することで、夜間に抑制を「しなくてすむ」よう努力もした。夜によく眠れるように昼間に起こす、夜に点滴をしないですむように昼間にご飯を食べさせる、というように、生活行為の多くを昼間に集中してある程度疲れさせるようにしたのである。すると、夜間の徘徊などが減ってきた。」(p.107)
こういう工夫によって、患者さんたちを管理した。その管理によって、抑制を減らしていけた。でもこれって、患者さんたちの自由を奪っていることと同じではないのでしょうか? それまで、昼間に食べたくなかったから食べなかったのでしょう。それに対して、無理やり食べさせるんですよね。
これに加えて、眠剤などで患者さんたちの精神性まで管理して、夜間の徘徊などを防ぐことがされています。それは、患者さんたちが望んでいることでしょうか? 薬によって自由を制限するなら、それもまた抑制ではないかと思うのです。
「私は病院に泊まり込んだ。これが、抑制しないと決めた私なりの責任のとり方だった。紐をなくしたことで患者さんに事故をおこしてはいけない。いや、抑制をしてもしなくても事故というものはおこるときにはおこるのだが、「抑制帯があればこういう事故にならなかったのに」といういいわけをさせたくなかったのである。同時に、「いままで抑制をせずに看護をした経験のない人に自分のやり方をみせる必要がある」とも思っていた。」(p.108)
「しかし、それでも心の底からは安心できないものである。そこで、私が病院にいないときは、「いつ電話をかけても、いつ呼び出してよい」ということにしておいた。」(p.109)
リーダーとして、自分の信念を部下に押し付けようとするなら、これくらいの率先垂範と自己犠牲が必要だということなのでしょう。
私は、田中看護師の方針が間違っているとは思いません。1つの方法だと思います。ただ、そうは思わないという人もいるわけで、そういう人たちを従わせようとするなら、こういう強権発動とフォロー(つまりリーダーシップ)は必要なのだろうなと思います。
しかし、患者の事故を防ぐためではなく、抑制しないから事故が起こるという言い訳(反論)をさせたくないから、という理由が何とも。田中看護師の思いの背景を物語っている気がしました。
「縛らない看護を実践するためのもっとも重要な条件は、強い信念をもったリーダーシップである。これは組織変革において不可欠だ。次に、スタッフの質である。必要ならスタッフの入れ替えもおこなわなければいけない。」(p.112-113)
リーダーシップが必要なのは言うまでもありませんが、従わない部下を切ることも必要だと言われるのですね。たしかに、そういう面もあるのかなぁと思います。
「また、看護職には患者の転倒にたいする恐怖感があるが、安全を配慮したら事故をおこすことはない。たとえば、転倒して事故になりやすい場所の環境を整えていく。滑りやすい廊下などは滑りにくい材質のものにする。転びやすい場所から障害物を取り除き、必要なら手すりを取り付けるなどである。転倒しやすいからといって抑制したのでは、患者のADLは低下し、ますます転倒しやすくなる。」(p.114)
たしかに転びにくくするとか、転んだ時に大怪我しないように環境を整えるとかは大切です。しかし、それで100%転ばないわけではないし、大怪我しなくなるわけでもありません。
たとえば、滑りにくくすれば、返って引っかかって転ぶかもしれません。手すりをつければ、それにつかまろうとして手を骨折したり、手すりに頭をぶつけて大怪我をすることもあります。絶対の安全などないのです。
それに、ぶつかって怪我をするようなものをすべて排除できないでしょう。椅子も机も取り除いて、壁と床だけの空間にするのですか? 不可能でしょう。
「一所懸命かかわっていることが家族の方にわかっていただけると、自分の親だけではなく他の患者さんや環境にまで目を向けるようになる。すると、「もしうちの母もこのようにしてもらえたら、たぶん転ばないだろう」とか、「これでうちの母が転んでも、治療と生活の場でこれだけの世話を受けているのだからしょうがない」というように、お互いが納得しあえる。どちらに責任があるかということではなく、お互いが納得できるかどうかが重要だ。開き直るのではない。それがほんとうの誠意だと私は思う。」(p.115)
もちろんこれも必須です。家族に納得してもらえる対応は欠かせません。
では、家族がそれで納得しなければどうしますか? 必ずわかり合えるとは言えません。それぞれ価値観が違うのですから。
他の患者のナースコールに応えている間に転倒し、それが元で状態が悪化して亡くなった患者の遺族が訴えて、病院側が敗訴した裁判がありました。ひどい裁判だと思いましたが、そういう現実はあるのです。
また、説明した一部の家族が納得したとしても、説明を受けてなかった他の家族が批判するということもあります。すべての人を納得させる方法などないのです。
「医師−看護婦それぞれの行為が越権行為ととらえられたり、お互いの不信感の増大につながるのを防ぐ方法は、やはり一緒に患者さんを中心に考えてみた結果をもちよりディスカッションしてみるしかない。そのためには医師も権威や体面を、人によっては男尊女卑の観念をすててテーブルについてほしい。」(p.142-143)
田中看護師は、看護婦だからと低く見られ、差別されてきたことが相当に堪えているようです。
私も、医師の尊大ぶった態度に辟易としたことがあります。何様のつもりだ!? と言いたくなりました。そんな医師の顔色をうかがうばかりで、患者の方を見ようともしない看護師の態度にも腹が立ちました。
やはり、みんなが対等なのだという価値観を共有することが、チームとして何かを成し遂げることにつながると思います。そのためにいちばん重要なのは、やはり権威がもっとも強い人(つまり医師)が、自ら態度を変えていくことだと思います。
「老人の患者の多くは病気であると同時に老化という自然現象であり、より長期的な視点が必要である。その病状は基本的には悪くなることはあってもなかなかよくはならない。その場合、安静やら治療的な管理よりも優先されるべき日常ケアが存在してもよいのではないか。たとえばこの患者さんは現在でも療養中であるが、もし理学療法士の意見どおりにしているといままでずっと1年以上も入浴せずに清拭くらいで過ごしてきたことになる。
悪い結果がでていたらどうするかという意見もあろう。たしかにそうであり、経験や勘やあるいは情緒だけにもとづく看護は避けるべきである。ただ、その疾患を抱えながら昨日まで入浴していたのが、診察の結果、明日から死ぬまで一生入浴できないというのも理不尽に思える。」(p.146)
「対象者の状況にあった「常識的な判断」をしてほしいということだ。その常識の判断の要素として老人の医療には、患者や家族の希望とともに、もっと看護やケアからのフィードバックが必要なのではないか。あまりにも看護婦はこれまで何もいわず、結果として老人の療養において患者の尊厳が、場合によっては人権が失われてきたのではないか。」(p.147)
これは私も同感です。医療を優先するために、治るとも思えないお年寄りの人権を損ねている気がします。
薬漬けにしてもそうです。ただ、医者などが脅すから、お年寄り自身も進んで薬漬けになり、自ら身体を傷つけていると見受けられる面もあります。
入浴に関しても、私はそのお年寄りの自由にさせていいと思います。入るなという強制も、逆の入れという強制も、本来はしてはならないことだと思うのです。
「この”だれでも”という共通点が、ほんとうの医療の出発点となる。ひらたくいえば、提供者側である私たちが”お互いさま”の気持ちをもって行動するということである。もっと煎じ詰めれば、「患者さんがもしあなたであるなら、そのとき、どういうふうにしてほしいと思うか、どうされたくないか」ということを念頭におくということである。この視点からでなければ、他人である患者さんに関心と思いやりとをもつことも、対等な関係、かかわりあいをもつこともできない。」(p.150)
吉岡医師のこの意識は、大変に素晴らしいと感じました。これはまさに黄金律です。
何ごとも自分がしてほしいように他人に対してしなさい。自分が望まないことは他人に対してもしないようにしなさい。これが、古くから世界中に伝わる黄金律、ゴールデンルールであり、大事なことだと思うのです。
「参考までに、Phillipsら(1993)の研究では、抑制された患者のほうが観察の時間などがふえて、人手がかかり、看護時間がふえて、ケアの費用も多くかかるとされている。であるから、スタッフが足りないから抑制するというのは、逆に人員不足に拍車をかけるということになる。」(p.185)
私の実感は真逆です。抑制することによってスタッフの労力が大幅に減ると感じています。
なぜなら、抑制すれば見守る必要がないからです。なのでここにある「観察の時間などがふえて」という意味がわかりません。見守る時間を減らすために抑制するのですから。
そうではないと言うのであれば、ずっとスタッフがつきっきりで見守ったらいいのです。それができるものなら、やってみたらいい。不可能でしょう。
こういうできもしないことを、まるで可能であるかのように言うから納得できないのです。
もちろん、工夫することによって、見守りの効率を上げることは可能です。しかし、だからと言って完全にはできません。誰かを介助していれば、他の人に対してはおろそかになります。その間に事故が起こることはあるのです。
その可能性があるなら、その間だけでも抑制するという選択肢を、最初から排除すべきではないと思うのです。
「看護職はなぜか医師モデルで行動している場合が多く見受けられる。すなわち、医師の価値観で考えて、その視点で患者をとらえる。患者を抑制してまでおこなわなければいけないのかどうか、患者の立場で考えられるのは看護職である。看護職が患者を守らずして、だれが守るのか。疾病が治療され、生命が維持される。しかし人間の命というのは長らえればいいというものではない。」(p.200)
これには私も同感です。医師の方ばかり見ている看護師が多いのは事実だと思います。
私が経験した例ですが、末期がんの患者に対して、医師が毎日の体重測定を命じたことがありました。座っているのも、動くのさえも苦しそうにされている。私は、こんなに苦しんでいるのだから、それをさらに苦しめる体重測定に何の意味があるのかと看護師に尋ねました。するとその答えは、医師に聞いてくださいとのこと。患者が苦しんでいることなど、どうでもいいのでしょうね。
正解というのはありませんが、私も、ただ生きることには意味がないと考えています。自分らしく生きられないのであれば、それはもう死んでいるのと同じこと。私はそう考えるのです。
「奥川−看護側からみると怒りがでてくるでしょう。「こんなになっても、なぜ家族や本人は”もういい”とはいわないんだ」と腹が立つでしょう。看護側がいまの老人の医療をもう少し洞察しなければいけないですよね。それは看護婦さんにできるのですか。それとも医者の責任ですか。
吉岡−たぶん医者の責任でしょう。
奥川−看護婦も医者も、私も含めてだけれども「こんな状態になってまで生きていたくない」とみんないうわけです。存在を否定しているわけです。そうまでして生きている存在とは一体何なのか。でもお仕事だからだれもそんなことは問いかけないでやっている。」(p.213)
ソーシャルワーカーの奥川幸子氏と田中医師との対談から引用しました。
どんな状態であっても生きていることが重要なのか、それとも状態によっては死を選ぶ方が重要なのか。難しい問題ではありますが、この問を常に自分の中に持ち続けなければならないと思います。
「僕にとっては信念ではなくて習慣だろうと思う。当たり前だから、そこらへんが説明しにくいし説明できない。
うちの病院でも付き添いが夜などに縛っていたことがあったわけで、それを一掃しようと動き出し、外に向かって発言し、他の病院も「縛るな」といいはじめた。外に向かって発言をしたときに、習慣ではなくて信念になった人もいる。」(p.226)
なぜ縛らないのかという問いに対しての吉岡医師の答えです。
つまり、信念からそうしたわけではなく、習慣からだと言うのですね。そうしていたからそうしただけだと。そして、そうしているうちに信念が芽生える。理由は後付けなのです。
ここが私がひかかる部分なのです。なぜ結論ありきなのか。結論ありきで自分の考えを他者に押し付けようとすれば、当然、反発されるでしょう。考え方は人それぞれですから。
しかも、その自分の結論を他人に押し付けるのに、後付けで理由を考えて提示する。だから矛盾が生じるのです。
正直に、理由はないが私は抑制したくないから縛るな、と言えばすっきりするのです。そして、権威者として集団の方向性を決めるのだから、それに従えと言えばいいのです。
「吉岡−転倒は48床で年に2例ぐらいですか。
奥川−少ないですね。
吉岡−いや、骨折までいったような大きなものだけです。」(p.227)
漫才ですか? と、吹き出しそうになりました。
やはり転倒しているのです。転倒事故を防げていないのです。あれだけ大口を叩きながら、年に2例も骨折するような大怪我をする患者を出している。
そうであれば、やはり事故は防げますみたいなことはウソであり、言うべきではないと思うのです。
「田中−「縛らない看護」というのは、自尊心をケアすることといいかえられると思います。お年寄りの尊厳を守るケアといってもいいでしょう。その人らしさを保障し、安心できる状況をつくり、ご本人もご家族も満足のいく最期を迎えられる、そのためのケアを保障するということですね。それは看護師の誇りにもつながることです。」(p.232)
「治療を優先するあまり患者さんの「思い」が無視されたり、医療者側の都合で業務が組みたてられるのは、私はがまんがなりません。」(p.234)
「宮下−思いがわかると、患者さんのことを知りたくなる。私ね、患者さんのことがせつなくなるぐらいわかれば、なんとかしたくなって、はじめて知識をつかいたくなるって思うんです。それで貢献できて喜びが生まれる。
そこで思うのは、ほんとうに患者さんのことを知りたければ、聞く相手は患者さん本人と家族しかいないわけです。」(p.240)
これは田中看護師と、聖マリアンナ医科大学横浜市西部病院救命救急センター婦長の宮下多美子氏との対談からの引用です。
吉岡医師とは違い、田中看護師は信念から縛らないことを実践されたようです。
私は、この考え方には賛同します。病気が治らないとか怪我をするとかよりも、自分らしく生きることが優先されるべきと思うからです。
しかし、ここでも問題が残ります。自分の考えを表現できない患者さんはどうしますか? 患者さん自身とその家族で、考え方が違っていたらどうしますか?
また他にも難しい問題があります。それは、他の患者(利用者)との関係です。共同生活になりますから、そこではいくら自分がやりたいと言っても、やってはならないことも出てくるからです。
自宅であれば、好き勝手にどこにでも放尿排便すればいいでしょう。誰も困らないのですから。けれども共同生活の場であれば、そうはいきません。言ってもわからない人に対して、どうすればいいのでしょうか?
「縛らない」ということは、理念的には理想だと思います。けれども、現実的には様々な問題があると思っています。
その絶対的な答えがあるのかと思って本書を読んでみたのですが、私には疑問が残っただけでした。
もちろん最初から、そうではないかと思っていたのですけどね。それだけ難しい問題であり、本質的な問題であり、これからも考え続けなければならない問題だと思います。
そういう中で、1つの考えとして、実践例として、現に実行されてる方の意見は、傾聴に値すると思いました。
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