前回の上巻に続き、下巻を読んでみました。著者はルトガー・ブレグマン氏です。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「その本の中でわたしは、フィリップ・ジンバルドによるスタンフォード監獄「実験」を、何の非難もせず、善人が自発的に怪物(モンスター)に変わる証拠として取り上げた。明らかに、あの実験の何かがわたしの心を捉えたのだ。」(p.12)
「こうして、トマス・ホッブズが三〇〇年前に主張したように、悪はすべての人間のすぐ内側でくすぶっていると考えられてきた。
しかし今、殺人事件と実験の書庫(アーカイブ)が開かれ、ベニヤ説が完全な間違いだったことがわかった。ジンバルドの監獄の看守は? 彼らは俳優のように演技をしていた。」(p.12)
「これらの人々のほとんどは、人助けしたかっただけのように見える。人助けできなかった人間がいるとすれば、それは科学者や編集長や、知事や刑務所長といった責任者だ。彼らは嘘をつき、操作した、怪物(レヴィアタン)だった。これらの権力者は自らのよこしまな願望から人々を守るどころか、全力を尽くして、人々を互いと敵対させたのだ。」(p.13)
ブレグマン氏は、かつての著書で、有名なスタンフォード監獄実験を肯定的に取り上げていたようです。この実験では、看守役は囚人役をサディスティックに扱い、苦しめ、それを楽しんだとされています。
しかしブレグマン氏は、この実験が操作されたものであり、自発的な行動の結果ではなかったと指摘します。つまり人の本性は、やはり誰かを助けたいというものだったと。つまり実験に参加した学生たちは、その実験を成功させるために協力したのです。
「戦争の考古学的証拠が、およそ一万年前にいきなり出現し、それが私有財産と農耕の始まりと同じ時期なのは、偶然のはずがない。もしかしたらこの時点で、人間は心と体にそぐわない生活へと進み始めたのではないだろうか。
進化心理学者はこれをミスマッチと呼ぶ。人間の身体と精神は、現代的な生活を送るための準備ができていない、という意味だ。最もよく知られる例は肥満である。狩猟採集民だった頃の人間は、贅肉がなく健康だったが、今日の世界では、飢えた人より肥満の人の方がよほど多い。わたしたちはいつも糖や脂質や塩を堪能し、体が必要とするよりはるかに多くのカロリーを摂取している。」(p.14)
日本でも、縄文時代は平和だったが、弥生時代になって農耕定住生活が始まると戦争が頻発しています。
また、血糖値を下げるホルモンは1種類(インスリン)だけなのに、血糖値を上げるホルモンは3種類(アドレナリンなど)あると言われます。空腹には強く、満腹には弱いのです。
これは身体がいまだ狩猟採集民としてのものだからだと言われています。長い人類の歴史の中で、農耕定住生活はごく最近のこと。身体や精神がまだ対応していないのです。
「戦争が始まった頃から、多くの心理学者は、軍隊の戦闘能力を決める上で、ある要素が他の要素より際立っていると固く信じていた。それはイデオロギーだ。たとえば愛国心や、自分が選んだ政党への忠誠心である。歴史を振り返っても、「自分たちは正しい側にいて、自分たちの世界観は正当だ」と確信する兵士たちは、最もよく戦った。」(p.17)
ドイツ兵が異常なほどに執念深く、諦めずによく戦い、脱走する者がほとんどいなかったのは、イデオロギーによって洗脳されていたからだと思われたのですね。
「それはナチのイデオロギーではなかった。また彼らは、ドイツは勝てるという幻想を抱いていなかった。洗脳されてもいなかった。ドイツ軍の人間ばなれした戦闘を可能にしたのは、もっと単純なものだった。
Kameradschaft
友情である。
モーリスが面談した何百人ものドイツ人、かつてはパン屋や肉屋、教師や仕立て屋で、軍に入ってからは連合軍の前進を懸命に阻んだ彼らが、武器を捨てようとしなかったのは、互いのためだった。つまり彼らが戦い続けたのは、ナチスの基本思想である「千年帝国」や「血と土」のためではなく、戦友を救うためだったのだ。」(p.19)
しかし、実態を調査してみると、ドイツ兵はごくふつうの人たちで、洗脳されてもいなかったようです。つまり、友だちを助けるために覚悟を決めたから、死にものぐるいの戦いに身を投じたのです。
言われてみると、そうだろうなぁという気がします。日本の特攻隊の最後の手紙などを読んでも、やはり愛する誰かのために、それを守るために、死ぬ決意をしたふつうの人たちなのです。
「心理学者ロイ・バウマイスターは、敵は悪意に満ちたサディストだという誤った思い込みを「純粋悪という神話」と呼ぶ。実のところ、敵はわたしたちと何も変わらないのである。
これは、テロリストにさえ当てはまる。
彼らもわたしたちと同じだと専門家は強調する。もちろん、自爆テロ犯は極悪人に違いないと、わたしたちは思いたくなる。彼らは心理的にも生理学的にも神経学的にも崩壊しきっている。彼らは精神病質者(サイコパス)にちがいない。学校に行ったことがないか、絶望的な貧困の中で育ったか、平均的な人間とは大いに異なる何らかの理由があるはずだ、と。
そうではない、と社会学者たちは言う。これらの勤勉なデータ科学者たちは、何マイル分ものエクセルシートを、自爆した人々の性格特徴で埋めたが、結局、「平均的なテロリスト」などいない、と結論せざるを得なかった。」(p.23)
テロリストといえども、ふつうの人なのです。テロリストになりやすい特徴などなかったということですね。
「「ほぼすべての乳児が、親切な人形に手を伸ばした」。乳児が世界をどう見ているかについては、何世紀にもわたって考察されてきたが、ここに人間は生まれながらに道徳性を備えており、ホモ・パピーは白紙状態(タブラ・ラサ)ではないことを示唆する堅牢な証拠が見つかったのだ。わたしたちは生まれながら善を好む。それがわたしたちの本質なのだ。」(p.26)
「驚くほどのことではないが、大多数は、自分と同じ嗜好を持つ人形を選んだ。しかし、驚くべきは、この好みが、親切な人形か意地悪な人形かの好みより優先されたことだ。ハムリンの同僚は次のように述べた。「何度も目の当たりにしたのは、乳児は、親切だが自分と好みが違う人形より、意地悪でも自分と同じ好みの人形を選ぶということです」」(p.26-27)
乳児の選択基準を研究した結果です。人は生来、善を好むものですが、それよりも仲間を好むということですね。
「おとなが全員を平等に扱い、肌の色や外見や貧富の差がないかのように振る舞っても、子どもは違いを感じとる。わたしたちは生まれつき脳内に同族意識の芽を備えているらしい。」(p.30)
「彼によると、共感は、世界を照らす情け深い太陽ではない。それはスポットライトだ。サーチライトなのだ。共感は、あなたの人生に関わりのある特定の人や集団だけに光をあてる。そして、あなたは、その光に照らされた人や集団の感情を吸いとるのに忙しくなり、世界の他の部分が見えなくなる。」(p.32)
よく心臓病の子どもの手術のために、アメリカへの渡航費などを含めて多額の支援金を集める話がありますが、まさにこのことですね。
その子の物語を知って共感し、助けたくなるのです。しかし、同様の子どもは他にも多数いるし、その子が心臓の手術を受けられるということは、そのために受けられなくなる子どもが1人生まれることにもなります。同様の他の子どもに対しては、共感の光は届かないのです。
「ブルームの本を読むと、共感は何よりもニュースに似ていることに気づく。第1章では、ニュースがスポットライトのように機能することを述べた。共感が、特別な人か何かにズームインしてわたしたちを騙すように、ニュースは例外的な何かにズームインして、わたしたちを欺く。
一つ確かなことがある。それは、より良い世界は、より多くの共感から始まるわけではないということだ。むしろ、共感はわたしたちの寛大さを損なう。なぜなら、犠牲者に共感するほど、敵をひとまとめに「敵」と見なすようになるからだ。選ばれた少数に明るいスポットライトをあてることで、わたしたちは敵の観点に立つことができなくなる。少数を注視すると、その他大勢は視野に入らなくなる。」(p.34)
仲間に対する共感が強ければ強いほど、敵を憎むようになります。敵もまた同じ人間だと思えなくなるのです。
「その問題とは、人間は根本的に暴力を嫌悪することだ。相手の目を見ながら、その人を殺すことは、事実上不可能だ。わたしたちの大半は、牛肉を食べるには自分で牛を殺さなければならないとしたら、即座に菜食主義になるだろう。同様に、多くの兵士は、敵に近づきすぎると、良心的兵役拒否者になる。」(p.37)
戦闘による死者の多くは、地雷や爆弾など、離れた場所の敵兵を殺したものだそうです。銃で撃ち抜くとか、まして銃剣で刺し殺すような、TVや映画でよくある戦闘による殺傷シーンは、滅多になかったということです。
「権力を握る人々にも、同じ傾向が見られる。彼らは脳を損傷した人のような行動をとる。普通の人より衝動的で自己中心的で落ち着きがなく、横柄で無礼。浮気する可能性が高く、他人にもその気持ちにもあまり関心がない。加えて彼らは厚かましく、人間を霊長類の中で特別な存在にしている。顔の現象を往々にして喪失している。
つまり彼らは赤面しないのだ。」(p.44)
「ケルトナーはこれを「権力のパラドクス」と呼ぶ。数十の研究によると、わたしたちは、最も控えめで優しい人をリーダーに選ぶ。しかし頂点に立って権力を手にすると、その人はのぼせあがって、結局、リーダーの座を追われることになるのだ。」(p.46)
権力者というのは、恥知らずなのだということですね。ただ、これは誰にでもある傾向で、成り上がりという言葉があるように、人は分不相応の権力や財力を手にすると、こういう一面が出てくるようです。
「狩猟採集民の世界では、リーダーは一時的な存在にすぎず、重要なことは皆で話し合って決める。後にマキュアヴェリが述べたような愚かな行動をとる人は、命を危険にさらすことになる。利己的な人間や強欲な人間は部族から追い出され、飢餓に直面する。結局のところ、食料を独り占めしようとする人とは、誰も食料を分かち合いたいとは思わないのだ。」(p.49)
少人数の部族であれば、つけあがったリーダーは追い出されたのですね。部族にとって役立たないからです。
「すなわち、仲間意識に駆り立てられ、冷血なリーダーに洗脳されて、人間は互いに対して残忍極まりないことをするのだ。
これが数千年にわたる人間の苦境である。文明の歴史は、史上最大の過ちに抗する壮大な闘争と見なすこともできる。」(p.64)
「人間には、そうした欠点を補って余りある天与の才があり、それが他の動物との大きな違いだ、と彼らは主張した。わたしたちが一縷の望みを託せるのは、この天与の才だ。
すなわち、理性である。
共感でも、感情でも、信念でもなく、理性。啓蒙主義の思想家が唯一信頼したのは、冷静、つまり、合理的な思考だった。人間は自らの生来の利己性を考慮に入れた知的な制度を設計できると、彼らは信じた。人間は自らの暗い本能を啓蒙的な層で覆うことができる、より正確に言えば、自らの悪い性質を利用して、公益に奉仕することができる、と彼らは信じたのである。」(p.65)
たしかに人類の歴史は闘争の歴史とも言えます。しかし、多くの人は戦争に嫌気が差しています。むやみに戦争をする時代は過去のものとなろうとしている。そういう見方もできますね。
ただこれは、性悪説に立った見方にもなります。人間の本性は邪悪だから、理性の力で封じ込めなければならないのだと。私も昔はそう考えていました。理性に従えない自分を弱いと感じていました。
でも今、「神との対話」を読んで、考え方が変わりました。人は本来「愛」そのものです。それを、「不安(恐れ)」が覆い隠して、本来の自分として生きることを邪魔してしまうのです。
「ある声明は特にわたしの心に残っている。一九五九年、BBCはラッセルに、将来の世代のためのアドバイスを求めた。彼はこう答えた。
「哲学について学んだり考えたりする時には、何が事実で、その事実が裏づける真実は何であるかだけを自分に問いなさい。自分が信じたいと思うもの、あるいはそれを信じたら社会に良い影響があると思えるものに惹かれることなく、事実だけを見なさい」
この言葉にわたしは大いに影響された。」(p.74)
「とはいえ、再びラッセルの言葉を引用すれば、「わたしたちの信念はいずれも完全な真実ではない。どれにも曖昧さや、いくらかの誤りがある」。したがって、できる限り真実に近づきたいのであれば、断定を避け、一歩進むごとに自問しなければならない。「疑う意思(The Will to Doubt)」、ラッセルはこのアプローチをそう呼んだ。」(p.75)
人は、自分が信じたいと思うものを信じようとして、その証拠だけを集めたがるものです。「結論ありき」の考え方ですね。世の中には、そういう言論が溢れています。
私もブレグマン氏のように、ラッセル氏のこういう考えを常に頭の隅に置いておきたいと思っています。
「人は、心の中ではこれらの行為を非難しながら、孤立することを恐れて、大勢に従おうとする。結局のところ、「ホモ・パピー」に苦手なことが一つあるとしたら、それは集団に抵抗することだ。わたしたちは、どれほど惨めな思いをしてでも、恥をかくことや、社会で居心地の悪い思いをすることを避けようとする。
これを知ってわたしはこう考えた。人間の本性についてのネガティブな見方は、多元的無知の一形態ではないのだろうか。ほとんどの人は利己的で強欲だという考え方は、他の人はそう考えているはずだという仮定から生まれたのではないだろうか。もしそうだとしたら、わたしたちは冷笑的な考え方を採用しながらも、心の奥底では、より優しく連帯感のある生活を求めているのではないだろうか。」(p.83)
私たちは他人に同調しがちです。他人と同じであることに安心感を抱きます。しかしそれは、自分の本心を裏切ることでもあるのです。
その葛藤の中で私たちは、同調的な他人も、無理をして合わせているだけに違いないと思うのですね。親切そうに見えて、実は利己的なのだと。
「資本主義者も共産主義者も、人を行動させるには二つの方法しかない、それはニンジンと棍棒だ、と語る。資本主義者がニンジン(つまり、金)に頼る一方、共産主義者は主に棍棒(つまり、罰)に頼った。両者はあらゆる点で異なったが、同意できる一つの基本的前提があった。人は放っておくと、やる気にならない、というものだ。」(p.88)
いわゆる「アメとムチ」ですね。人は怠けるものとという前提で作業効率を高めさせるには、アメとムチが有効なのだという考えはあります。
「従業員を責任感の強い信頼できる人として扱えば、彼らはそうなるのだ。彼はそれについて著書まで出したが、その副題はL'entreprise qui croit que l'homme est bon' 翻訳すると「人を信じる企業は上手くいく」である。」(p.101)
非常にうまく行っているヘルスケアを経営するデ・ブローク氏は、ほぼすべてを従業員に任せることが成功の秘訣だと言っているそうです。
こういう話は、他にも多くあります。私も何冊か本を読みました。ただ、ものごとはそう簡単ではなく、信頼して任せたらぐちゃぐちゃになるということもあるのです。
ここが難しいところで、私もまだ明確な答えがありません。
「確かに、一〇〇年前に比べると、わたしたちは子どもにかなり甘い。学校は一九世紀には刑務所のようだったが、今は違う。行儀の悪い子どもは叩かれるのではなく、薬を飲まされる。学校は価値観を叩き込むようなことはしなくなった。もっとも、教師はかつてないほど多様なカリキュラムを組み、子どもたちが将来、「知識経済」において高給の仕事を見つけられるよう、できる限り多くの知識を伝えている。
教育は耐えるものになった。成果主義社会のルールを内在化している新しい世代が生まれつつある。彼らは出世競争を走ることを学んでおり、勝敗の主な基準になるのは、履歴書と給与だ。彼らは、あえて既成概念を破ろうとはせず、夢を見たり、冒険したり、大胆な行動をとったりもしない。要するに、遊び方を忘れた世代なのだ。」(p.110)
たしかにこういう一面はありますね。何でも買い与えられるから、自分で工夫して遊ぶということをしなくなりました。三無主義とか指示待ち族なんて言葉もありました。
今はさらに変化してきたようです。時代とともに、教育に対する考え方が変わり、子どもたちも変わってきているのでしょう。
「このような遊び場に対して、大人は必ず二つの異議を唱える。一つは、「見苦しい」というものだ。正直なところ、目障りではある。しかし、大人には乱雑に見えても、子どもはそこに可能性を見つける。大人は不潔さに耐えられないが、子どもは退屈に耐えられないのだ。
二つ目の意義は、廃品で作った遊び場は危険だ、というものだ。過保護な親は、エムドロプ式の公園では、骨折や脳挫傷が多く起きるのではないかと恐れた。しかし、一年間で最悪のけがに必要とされたのは、ばんそうこうだけだった。」(p.112)
子どもは本性的に、ガラクタを好むものなのですね。その子どもの本性を封じているのは、大人の考え方です。
「アゴラの生徒たちの目的意識の強さには驚いたが、連帯感の強さにはもっと驚いた。
わたしが話をした生徒のうち何人かは、わたしが通った学校にいたらおそらくいじめられていただろう。しかし、アゴラでは、いじめられている生徒は皆無で、わたしと話した誰もがそう言っていた。「わたしたちは互いをありのままに受け入れています」と、一四歳のミルウは言った。」(p.116)
アゴラというのは、オランダにある学校で、学習計画は生徒自身が立てているそうです。つまり、生徒自身が学びたいものを学べるように、教師(コーチ)がそれぞれの学習方法を手伝っているのです。
当然、教師が知らないことを学んでいる生徒も多いとのこと。中には天才的なプログラマーもいるそうです。
こういう学校のことは、時々耳にします。日本にも、こういう学校が増えてほしいなぁと思うのですけどね。
「市民参加型の予算編成を始めた時、ポルト・アレグレは信頼の砦ではなかった。実のところ、ブラジルほど国民が互いを信頼しない国はまれだ。したがって、ほとんどの専門家は、ポルト・アレグレの民主化の試みは十中八九失敗に終わると見ていた。それを成功させるには、まず市民が団結し、差別などの問題解決に取り組まなければならない。そうやって初めて、民主主義が根づくための地固めができる、と彼らは考えた。
ポルト・アレグレは、この方程式を逆転させた。行政が参加型予算を立ち上げた後に、人々の間に信頼が育ち始めた。」(p.128)
ブラジルのポルト・アレグレ市で、予算の1/4を市民に決めさせるという施策を実行に移したのだそうです。予算決定に関わりたい市民は誰でも会議に参加して、自分の意見を表明できる。
でも、どうやってその意見をまとめるのでしょう? 実際にやっているのでしょうから、上手く行っている事例だとは思いますが、いざやろうとすれば、いろいろな懸念が出てきます。
「長年にわたってポルト・アレグレを調査してきたブラジル人の社会学者によれば、市民参加型方式は、賄賂を贈るという昔ながらの文化を徐々に衰えさせた。人々が市の財政を詳しく知るようになったせいで、政治家は、賄賂をもらって仕事を与えるのが難しくなったのだ。」(p.131)
たしかに参加型の仕組みによって、市政に関心を持つ市民が増えたことは間違いないでしょう。そういう厳しい視線があれば、恣意的な支出も浪費もできなくなる。そういう面はあるでしょうね。
「では、わたしたちはなぜ、これほどまでに、自分の内なる共産主義に気づかないのだろう。それはおそらく、人と共有しているものを、大したものではないと考えているからだ。わたしたちはそれらを共有することを当たり前だと思っている。セントラルパークでの散歩が気持ちいいことは、印刷して配らなくても誰もが知っている。きれいな空気は、それを吸いなさいと指示する必要はない。そしてあなたは、空気やリラックスできる砂浜や、あなたが物語るおとぎ話が、誰かのものだとは思わない。
それらが誰かのものになるのは、誰かがその空気を貸し出すことにしたり、その砂浜を専有したり、おとぎ話の著作権を主張したりする時だけだ。そうなると、あなたは思う。ちょっと待って、これは皆のものではなかったのか、と。」(p.137-138)
かつては私有財産というものはほとんどなかった。少なくとも狩猟採集生活の間は。それが農耕定住生活になることにより、土地は誰かの所有物となり、分け合っていた食料も私有財産となっていったのです。
こうして所有という概念が当たり前となり、共有するという概念が希薄になっていったのですね。しかし、私たちは本質的に、共有する概念を持ち続けているのです。
「そういうわけで、デ・モーアは、自らが「制度敵多様性」と呼ぶものを提唱する。それは、市場という形式や国家による管理が最善となる場合もあるが、それらすべてを支えるのは、協力的な市民による共同体的な強い基盤だ、という考えだ。」(p.144)
資本主義の台頭によって、かつてないほど経済的に繁栄したことは間違いありません。けれども、それぞれの共同体ごとの助け合い精神に基づいたつながりが、その繁栄の基盤にあったとブレグマン氏は言います。
「しかし、別の選択肢があった。それは、アラスカ州の全住民の銀行口座に、毎年、配当金を振り込むというもので、一九八二年から始まり、多い年には一人当たり三〇〇〇ドルにもなった。」(p.146)
巨大油脈の利権で得られるお金を、アラスカ州は全住民に配る(永久基金配当金:PFD)ことにしたのですね。共同体の共有物だという認識です。
これはベーシック・インカムのようなものだと私は思いました。
「当然ながら中には、アラスカ人は配当金をアルコールやドラッグに浪費するだろうと冷笑的(シニカル)な見方をする人もいた。しかし、現実を見る限り、そんなことは起きていない。
ほとんどのアラスカ人は配当金を教育や子育てに使った。二人のアメリカ人経済学者が行った綿密な分析により、PFDは雇用に有害な影響を及ぼさず、貧困を大幅に解消したことが明らかになった。」(p.166)
ベーシックインカムに対しても、怠け者が増えるだけだとの懸念が聞かれます。しかし、人はそんな怠惰な存在ではない。私もそう思います。
「わたしが先に述べたように、たいていの場合、わたしたちは互いを映し出す鏡になる。誰かがあなたを褒めてくれたら、あなたはお返しにすぐその人を褒めるだろう。誰かに不愉快なことを言われたら、仕返しに嫌味の一つも言ってやりたくなる。」(p.151-152)
「優しくしてくれる人に優しくするのは簡単だ。だが、それだけでは不十分だ。再びイエスの言葉を引用すると、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあるだろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあるだろうか」。
問題は、さらに一歩進めるか、ということだ。自分の子ども、同僚、近隣の人だけでなく、敵に対しても最善を尽くしたらどうなるだろう? そうするのはかなり難しく、直感に反するように思える。」(p.152)
たしかに、優しくしてくれる人に対して、優しくしたくなりますね。それを、優しくしてくれない人に対しても優しくするのは、なかなか難しいものです。
けれども、どちらかが先に優しくすれば、優しさの輪が広がる可能性は高まるのです。
しっぽを振って近寄ってくる犬を蹴飛ばす人もいるでしょう。けれども、「窮鳥懐に入れば猟師も殺さず」と言うように、信頼するなら、信頼で応えてくれることが多いのです。
「ノルウェーでは、刑務所は悪い行動を防ぐところではなく、悪意を防ぐところなのだ。看守は、受刑者が正常な生活を送れるよう、最善を尽くすのが自分たちの義務だと考えている。この「正常の原理」によると、壁の中の生活は、外の生活とできるだけ近いものであるべきなのだ。」(p.155)
ノルウェーの刑務所では、受刑者に個室が与えられ、包丁もあって自分で料理することもできるそうです。その施設から出られないだけで、かなりの自由が与えられ、文化的な生活を享受できる。
なぜ、受刑者にそんなにお金をかけるのか? そうすることで、トータル的な社会コストが低下するからです。実際、この取組みは成功しているようです。
「彼らは再犯率に着目した。チームの計算によると、ハルデンとバストイのような刑務所の受刑者の再犯率は、地域社会への奉仕や罰金を言い渡された犯罪者より約五〇パーセント低かった。」(p.156-157)
日本では、懲役受刑者の再犯率が高いことが知られています。軍隊のように規則を押し付けられ、自由を奪われ、いじめがはびこる刑務所では、受刑者は真に更生はしないのです。
「ウィルソンはこう考えた−−たいていの人は、犯罪は割にあうかどうかという単純な損得勘定をしている。もし警察が寛容で、刑務所が過度に快適なら、より多くの人が犯罪者の道を選ぶだろう。犯罪率が上昇しているのなら、その解決策は同様に単純だ。より高い罰金、より長い刑期、より厳しい執行といった外発的動機づけによって正せばよいのだ。犯罪の「コスト」は上がり、その需要はすぐ減るだろう−−。」(p.164-165)
「奇跡的に、この新たな戦略はうまくいっているように見えた。犯罪率は急落した。殺人率は? 一九九〇年から二〇〇〇年までの間に六三パーセント減少した。強盗は? 六四パーセント減少。車泥棒は? 七一パーセント減少。割れ窓理論は、かつてはジャーナリストに嘲笑されたが、天才的な名案だったのだ。」(p.166)
軽犯罪を徹底的に取り締まれば重犯罪が減ることになる。これが「割れ窓理論」です。これをニューヨークで実施した結果だそうです。
「たとえば、ブラットンとその熱烈な支持者による「革新的」な取り締まりは、ニューヨーク市の犯罪率の低下の原因ではなかった。その低下は、取り締まりのはるか以前から始まっていて、他の都市でも同様だった。」(p.167)
実は、割れ窓理論による軽犯罪の徹底的な取り締まりによって、重犯罪が減ったのではなかったようです。
「数字だけ見れば、目覚ましい成果があがっていた。犯罪の数は激減し、逮捕者は激増した。ブラットン本部長はニューヨークのヒーローだった。しかし、現実には、数千人もの無実の人々が容疑者にされる反面、犯罪者は自由に歩き回っていた。」(p.169)
軽犯罪取り締まりのノルマを達成するために、警察官はちょっとしたことですぐに逮捕したのです。そこに力を注ぐのですから、重犯罪への対応がおろそかになります。中には、重犯罪が発生したことをもみ消す事例もあったとか。
私自身、「割れ窓理論」を知って、すごいなぁと感心したことがあったので、これが虚構だったと言われて驚いています。
「左の頬を向けるという原則を、さらに推し進めることはできるだろうか? とんでもない問いのように聞こえるかもしれないが、わたしはこう思わずにいられない。非相補的戦略はテロとの戦争でも機能するだろうか、と。」(p.172)
イエスは、目には目をではなく、右の頬を打たれた左の頬を差し出せと言いました。相手を信頼して優しくするなら、相手もそれに応えてくれる。その方法は、本当に機能するのでしょうか?
「ノルウェーでも同様の取り組みがなされた。ノルウェーの人々は自国史上最悪の攻撃を受けた後も、冷静さを保とうとした。二〇一一年のことだ。右翼過激派アンネシュ・ブレイビクの襲撃によって七七人が犠牲になった。しかし同国首相はこう宣言した。「わたしたちは、より民主的に、よりオープンに、より人道的に対処しよう」」(p.174-175)
恫喝や恐怖によって悪意をくじこうとするのではなく、温かさで包むことによって善意を引き出そうとする。「北風と太陽」の寓話を思い出します。
「交流である。それ以上でも、それ以下でもない。オールポートは、偏見、憎しみ、人種差別は、交流の欠如から生まれる、と考えた。わたしたちが見知らぬ人をぞんざいに扱うのは、その人のことをよく知らないからだ。したがって、治療法は明らかだ。より多く交流することだ。」(p.183)
「結局のところ、わたしたちが愛せるのは、自分が知っている人だけなのだ。
これがいわゆる「接触仮説」だ。」(p.184)
私たちは、相手のことをよく知らないから、悪いやつだと決めつけたりしてひどい仕打ちができるのです。逆に言えば、よく知っているなら、仲間なら、友だちなら、善い隣人であろうとするのです。
実際、障害者やLGBTQの人たちに対する偏見や差別も、よく知らない(目にしない)から起こるのだと思います。私自身、そういう偏見があったのですが、タイで暮らして、そういう人たちを日常的によく見るようになって、徐々に偏見がなくなっていきました。
「交流はより多くの信頼、連帯、思いやりを生み出す。交流は、あなたが他者の目を通して世界を見ることを助ける。さらに、交流はあなたの人間性を変える。なぜなら、多様な友人を持つと、知らない人に対して、より寛容になれるからだ。」(p.192)
「当初、このことはペティグルーと同僚を悩ませた。嫌な経験の方が、記憶に深く刻まれるのだとしたら、なぜ交流によって他者により近づくことができるのだろう。やがてわかった答えは単純だった。交流を通じて不快な経験をすることもあるが、良い経験の方が、圧倒的に多いからなのだ。
悪は強い印象を残すが、善は、数の上ではるかに悪を上回る。」(p.192)
他人と交流をすれば、その違いから傷つくこともあるでしょう。悪い印象を受けることもあります。けれども、良い印象を受ける出来事の方が圧倒的に多いのだとブレグマン氏は言います。
実際、外国へ旅行へ行くとわかります。日本人だとバカにする人もいるし、騙そうとする人もいる。嫌がらせをされることもある。でも、それ以上に、親切にされたり、優しくされることが多い。だから交流が深まれば深まるほど、そこの人たちを憎めなくなるのです。
「マンデラの特別な力は、別のところにある。彼を世界史上最も偉大な指導者の一人にしたのは、ジャーナリストのジョン・カーリンによれば、「百人のうち九九人が、救いようがないと見なす人間にも、善性を見いだそうとする」ことだ。」(p.194)
アパルトヘイトの南アフリカで、黒人の人間としての権利を取り戻すために、破壊活動まで行ったマンデラ氏は、投獄されている間に心を入れ替え、看守でさえ心酔するほどの人格者になられたそうです。
その特性は、どんな人であっても相手を信頼すること。信頼することによって、敵を味方にしたのです。それがあったから、内戦を回避することができたのですね。
「あなたが隣人とめったに話さない場合、多様性は逆に偏見を強める可能性がある。移民が急増したコミュニティでは、イギリスではEU離脱賛成派、アメリカではトランプ支持者の割合が高いことが示唆されている。
こうした結果から、交流の研究者たちは、人がお互いに慣れるには時間が必要だということを強調する。交流は有効だが、すぐ効くわけではない。」(p.196)
「しかしこの言葉は、自分を変えなければならないという意味ではない。その逆だ。交流についての研究から明らかになった、最も注目すべき事の一つは、自らのアイデンティティを保持できて初めて、偏見を排除できるということだ。誰もが違っていても何の問題もないことを、わたしたちは理解しなければならない。しっかりした基盤があれば、自らのアイデンティティのための頑丈な家を建てることができる。
そうすれば、そのドアを開け放つことができる。」(p.196-197)
欧米では、急増する移民問題が起こっています。文化や価値観が違う人々がコミュニティに入ってくることで違和感を覚え、自分たちの利益が損なわれていると不安になるのです。
そして、そういう移民を排斥しようとする人々は、移民と交流しない人たちなのですね。交流しないけれども身近にいるから、ひしひしと脅威を感じているのです。
そこで重要なのは、相手に合わせる必要はないということです。むやみに相手に合わせるのではなく、違いを受け入れるのです。相手は相手のままでいいし、自分は自分のままでいい。自分を大切にできるから、同様に違う相手を相手自身が大切にすることを許容できるのです。
「ここにもまた、明らかなパターンが見られる。前線からの距離が遠くなればなるほど、憎しみは増大した。母国の行政機関、ニュース室、居間、パブでは、敵に対する憎しみはきわめて強かった。しかし塹壕では、兵士たちは相互に理解を深めた。あるイギリス兵は故郷への手紙にこう記している。「彼らと話をした後、多くの新聞記事は恐ろしく誇張されているに違いないと思いました」」(p.203-204)
1914年のクリスマスに、自然発生的に起こった休戦では、第一次大戦のヨーロッパ戦線で対立する両国の兵士たちが手を取り合ったのです。
もし、この時の兵士たちに決める権限があったなら、第一次大戦はそこで集結したであろうとブレグマン氏は言います。
「兵士たちの手紙を読むと、わたしの心に一つの疑問が浮かんできた。すでに一〇〇万もの人命を奪った恐ろしい戦争にはまり込んでいた彼らが、塹壕から出ることができたのに、なぜ、わたしたちは同じことができないのだろうか。
わたしたちもまた、他者への憎悪をあおる活動家や政治家によって、互いと戦うよう仕向けられている。」(p.204-205)
対立する相手との距離が近ければ、私たちは親しくすることができます。仲間になれるのです。
しかし、距離が遠ければ、容易に残酷な仕打ちができる。そして対立を煽る指導者たちは、距離が遠いところにいるのです。
「これらの作戦がすべて成功した秘訣は何だろう。ゲリラ兵は化け物のように見えるが、普通の人間だ。「わたしたちが探しているのは犯罪者ではなく子ども、ジャングルで道に迷っている子どもなのです」とファンは説明する。」(p.209)
コロンビア政府からゲリラ対策を求められた広告会社マレンロウの社員は、クリスマスツリーをジャングルに立てて、母親のもとに帰ろうというメッセージをゲリラに対して送り、功を奏したそうです。
「マレンロウの作戦は、二〇一一年に始まったFARCとの和平交渉を強力に後押しした。同社に話を持ってきた防衛大臣ファン・マヌエル・サントスは大統領になり、二〇一六年にはノーベル平和賞を受賞した。半世紀以上に及んだゲリラとの戦争はついに終わった。」(p.210)
相手を敵とみなし、殲滅しようとしている間は、互いに犠牲を増やし、対立を深めるだけだったのです。
相手を同じ人間で仲間だとみなすことで、自分たちの対応が変わり、それが相手にも伝わって、相手の対応が変わっていったのですね。
「わたしを含め、誰もが覚えておくべきは、他の人々も自分たちと変わらないということだ。テレビで怒りを爆発させている有権者も、統計上の難民も、顔写真で見る犯罪者も、すべて血の通った人間であり、もし人生の軌道が違っていたら、わたしたちの友人、家族、恋人であったかもしれない。あるイギリス兵はそれに気づいてこう言った。「彼らも、家には愛する家族がいる」
自分の塹壕に立てこもると、現実が見えなくなる。他者への憎悪を駆り立てる少数の人が、すべての人間を代表しているように思えてくる。ツイッターやフェイスブックにまかれる毒もそれと同じで、大半はほんの一握りのインターネット荒らしによるものだが、大多数の声のように思える。しかし、強い毒をまき散らすインターネット荒らしでさえ、ふだんは思慮深い友人や、愛情深い介助者かもしれないのだ。」(p.213)
すべての人が善い親であり、善い子ども、善いパートナー、善い友人なのです。そういう一面が、必ずあるのです。
「先の数章では、人間の本性についての見方を変えるだけで訪れる新しい世界を示そうとした。わたしは表面をなぞったにすぎないが、実際のところわたしたちが、大半の人は親切で寛大だと考えるようになれば、全てが変わるはずだ。そうなれば、学校、刑務所、ビジネス、民主主義の構造を全面的に考え直すことができる。そして、人生をどう生きるか、ということも。」(p.215)
他人を疑うのではなく、信頼するように自分が変われば、自分だけでなく社会を変える力にもなるのです。
「では、誰かの意図が疑わしく思えたら、どうすればいいだろう。
最も現実的なのは、善意を仮定することだ。つまり、「疑わしきは罰せず」である。たいていの場合それでうまくいく。なぜなら、ほとんどの人は善意によって動いているからだ。そして、誰かがあなたを欺こうとしている数少ないケースでは、あなたの非相補的行動が相手を変える可能性が高い。(強盗を企てた少年に夕食をごちそうしたフリオ・ディアのように)。
しかし、それでも騙された場合は、どう考えればよいのだろう。心理学者のマリア・コンニコワはプロの詐欺師に関する魅力的な著書でこの件について語っている。「常に警戒しなさい」というのがコンニコワのアドバイスだと、あなたは思うかもしれない。そうではない。彼女は詐欺やペテンの研究の第一人者だが、出した結論はそれとは大違いだ。時々は騙されるという事実を受け入れたほうがはるかに良い、と彼女は言う。なぜならそれは、他人を信じるという人生の贅沢を味わうための、小さな代償だからだ。」(p.217-218)
バリ島の兄貴こと丸尾孝俊さんは、まさにそういう人です。貸したお金を返しに来ると言った少年の言葉を信じて待ち続ける。いつまでたっても少年が戻らず、騙されたことが明らかになっても、兄貴は少年を責めませんでした。
実は私にも似たようなエピソードがあります。お金を貸してくれというタイ人に貸したことがありました。約3万円ほどですが。その人は、それっきり連絡をよこさなくなりました。
私は、「バカだなぁ」と思いました。返しておけば、いつでも助けてくれる友だちになれたのに。私は、「I hate you(あなたを憎む)」というメッセージを送りました。返事はありませんでしたが、それでもう縁を切って決着をつけたかったのです。私は兄貴ほど、まだ人間ができていなかったようです。
「黄金律のこのバージョンは、「白金律(プラチナルール)」と呼ばれるが、ジョージ・バーナード・ショーがその本質をうまく言い当てている。「自分がしてもらいたいと思うことを他人にしてはいけない。その人の好みが自分と同じとは限らないからだ」」(p.221)
黄金律(ゴールデンルール)は、世界中にあります。それは、孔子が残した「己の欲せざる所は人に施す勿れ」という言葉のように、自分の嫌がることを他人に対してするな、という消極的なものと、聖書にあるように「自分がそうされたいと思うように他人に対してしなさい」という積極的なものがあります。
それに対して、白金律というのもあるのですね。たしかに、人の好みは違うので、自分がしてほしいことと他人がしてほしいことは違うでしょう。ただ、そもそも黄金律は、それを前提としたものだと私は思っています。
つまり、自分してほしいと思うことというのは、たとえば宿題を手伝ってほしいという具体的なことではなく、自分の助けをしてほしいということだと思うのです。何が助けになるかは、人それぞれ違いますからね。そこはその人に尋ねてみるべきなのです。
「距離は人に、インターネット上の見知らぬ人への暴言を吐かせる。距離は兵士に、暴力に対する嫌悪感を回避させる。そして距離は、奴隷制からホロコーストまで、歴史上の最も恐ろしい犯罪を可能にしてきた。
しかし、思いやりの道を選べば、自分と見知らぬ人との距離が、ごくわずかであることに気づくだろう。思いやりはあなたに境界を超えさせ、ついには、近しい人や親しい人と、世界の他の人々が、等しく重要に思えるようになる。」(p.227-228)
距離が離れている、分離しているという思いが、私たちを本性から遠ざけてしまうのです。私たちの本性とは、私は「愛」そのものだと思っています。分離しているという誤解が、自分を愛らしくない思いへと駆り立てるのです。
「わたしたちは、本当は惑星Aに住んでいて、そこにいる人々は、互いに対して善良でありたいと心の底から思っているのだ。
だから、現実主義になろう。勇気を持とう。自分の本性に忠実になり、他者を信頼しよう。白日のもとで良いことをし、自らの寛大さを恥じないようにしよう。最初のうちあなたは、騙されやすい非常識な人、と見なされるかもしれない。だが、覚えておこう。今日の非常識は明日の常識になり得るのだ。
さあ、新しい現実主義を始めよう。今こそ、人間について新しい見方をする時だ。」(p.236)
人間の本性に目覚め、そのように生きるには、ちょっとした勇気が必要なのです。大丈夫、何があろうと何とかなりますから。
最後に、翻訳された野中香方子さんのあとがきから引用します。
「そもそも、なぜ、ブレグマンは、人間の本質の探究を思い立ったのか。前作『隷属なき道』でブレグマンは、ベーシックインカムで格差社会を救うというアイデアを提示した。しかし、刊行当時、ブックツアーで彼がそれについて語ると必ず、「お金をばらまいても、人はろくな使い方をしない。なぜなら人間は本来、怠け者で、自分勝手で、不道徳な生き物だからだ。どうせ、酒や麻薬に使ってしまう」と反論された。」(p.241)
冷笑的な人間観が社会に染み付いており、その理由を知りたくなったのですね。その探究の結果が本書のようです。
それにしても、やはりブレグマン氏はベーシック・インカムを考えておられたのですね。この前作を、ぜひ読んでみたいと思いました。
「けれども、人間は有効的な一方で、監獄やガス室を作る唯一の種にもなった。なぜなのか。この問いに対してブレグマンは、人間を最も親切な種にしているメカニズムと、地球上で最も残酷な種にしているメカニズムの根っこは一つだ、と語る。それは「共感する能力」だ。「共感はわたしたちの寛大さを損なう。(中略)少数を注視すると、その他大勢は視野に入らなくなる。(中略)悲しい現実は、共感と外国人恐怖症が密接につながっていることだ。その二つはコインの表と裏なのである」」(p.244)
共感する力は、太陽光のようにすべてに降り注ぐのではなく、スポットライトのように狭いのです。その光から外れた他人は、得体の知れない怪物のようさえ感じる。だから、敵視することができるのですね。
愛の対極は不安(恐れ)です。そしてその不安(恐れ)は、愛の光が当たらない部分なのです。つまり、不安(恐れ)も愛が生み出したものと言えるのです。私はこのことを、「神との対話」によって知りました。
こういう人間の本質に切り込む内容は、とても有効なだと思いました。人がなぜそう感じるかがわかれば、つまり理解が進めば、より信頼できるようになるからです。
敵のように見えても、騙したり裏切ったりする信用できない人のように見えても、私たちは信頼することができます。ほんのちょっと勇気があれば。そしてその信頼によって、私たちは素晴らしい社会を創っていける。私は、そんな思いを強くしました。
・上下巻を並べてみました。
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