2023年01月25日
Humankind 希望の歴史 上
私の友人がFacebookでお勧めしていたので、興味を持って買ってみました。
上下巻に分かれており、上巻だけで250ページある本です。読み終えるのにいったいどれほどかかるのかと心配しましたが、意外にもさくさく読めました。
それはこの本が、まるで小説のような体裁で書かれているからだと思います。逆に言えば、それだけ冗長だとも言えますが、つい引き込まれてしまう書き方は、まるで長編小説のようでした。
とりあえず上巻のみを買って読んだので、今回は上巻のみの紹介となります。
上巻が素晴らしかったので、読み終える前に下巻を注文しました。いずれ下巻の紹介もしたいと思います。
著者はルトガー・ブレグマン氏。オランダ出身の歴史家であり、ジャーナリストだということです。書物や論文を丹念に読み、さらにその裏取りをして、真相を明らかにしていく。そういう事実と論理を重視する姿勢は、とても好感が持てます。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「明らかにヒトラーは重要なことを忘れていたようだ。それは、少々のことでは動じないという、英国人気質である。空襲で破壊されたデパートが、「営業中。本日から入り口を拡張しました」とユーモアあふれるポスターを掲示したのは有名な話だ。また、あるパブの経営者は、空襲の日々にこんな広告を出した。「窓はなくなりましたが、当店のスピリッツ(アルコール。精神の意味もある)は一流です。中に入ってお試しください」
英国人は、列車の遅れを我慢するように、ドイツによる空襲も我慢した。確かに腹は立ったが、全体としては許容範囲だった。大空襲の間も列車はいつも通り運行し、ヒトラーの策略は英国の国内経済にほとんど影響しなかった。」(p.15)
第二次世界大戦でドイツは、ロンドンを空爆しました。その目的は、市民を震え上がらせ、パニックを起こさせ、戦意を喪失させるというものでした。
しかし、結果はこの通り。人々はパニックに陥らなかったというのです。
「この間を通じて、工場や橋などの戦略的目標を攻撃したのは、連合国空軍のごく一部だけだった。最後の数か月間、チャーチルは、戦争に勝つ最も確実な方法は、一般市民に爆弾を落として国民の戦意をくじくことだと主張し続けた。一九四四年一月、英国空軍の内部文書はこの主張を全面的に支持し、「爆弾を落とせば落とすほど、効果は確実になる」としている。」(p.18)
連合国側も、同じ考え方だったようですね。実態に学ばなかったようです。
事実、アメリカは東京大空襲によって一般市民を標的とした大殺戮を行いました。広島と長崎の原爆投下も同じです。目的は市民の殺傷であり、市民の戦意喪失でした。
これはある意味で正しい方法です。国民のほとんどが戦意を喪失したなら、その国は容易に降伏するでしょうし、相手国を降伏させることが戦争の目的なのですから。
しかし、現実的には、叩けば叩くほど、戦意は高揚したのです。意図と反する結果になったのですね。
「この残念な物語に関して、最も興味を惹かれるのは、主要なメンバーが揃って同じ罠にはまったことだ。ヒトラー、チャーチル、ルーズベルト、リンデマン。この全員が、人間の文明的な暮らしぶりは表面的なものにすぎないというギュスターヴ・ル・ボンの主張を信じた。彼らは、空襲によってこの脆い覆い(カバー)を吹き飛ばすことができると確信した。しかし、爆撃すればするほど、カバーは頑丈になった。それは薄い膜などではなく、カルス[訳注:植物の傷を癒す組織]のようなものだった
残念ながら、軍事専門家はその後も長くこのことに気づかなかった。二五年後、米軍は第二次世界大戦で投下した爆弾の三倍にあたる爆弾をベトナムに落とし、さらに壮大な規模の失敗を招いた。わたしたちは、証拠が明白でも、どうにかしてそれを否定しようとする。今でも多くの英国人は、ロンドン大空襲時に英国人が示した耐久力(レジリエンス)は、英国人の特質によるものだと信じている。
しかし、それは英国人だけのものではない。人間の特質なのだ。」(p.20)
冒頭でこのように、人々は容易にパニックに陥ると信じられていることに、疑義を呈しています。そういう事例があっても、それはたまたまだったとか、その民族性だとか決めつけている。
しかし、本当は「人」というものがそういう存在なのだとブレグマン氏は言います。人を侮ってはいけないのだと。
「人間は本質的に利己的で攻撃的で、すぐパニックを起こす、という根強い神話がある。オランダ生まれの生物学者フランス・ドゥ・ヴァールはこの神話を「ベニヤ説」と呼んで批判している。「人間の道徳性は、薄いベニヤ板のようなものであり、少々の衝撃で容易に破れる」という考え方だ。真実は、逆である。災難が降りかかった時、つまり爆弾が落ちてきたり、船が沈みそうになったりした時こそ、人は最高の自分になるのだ。」(p.24)
2005年8月のハリケーン・カトリーナの被害を受けたニューオリンズで、人々が商店から略奪する姿がTVで放映されました。そういう非常事態に、人々は利己的になる。人とはそういうものだ。私も、そう思いました。
しかし、ブレグマン氏は、それは事実ではないと言います。多くの場合、警察の指導の元に、生活に必要な物資を得ようとした行為だったのだと。
「人間が災害にどのように反応するかについて、科学が発見していたことを裏づけた。デラウェア大学の災害研究センターは一九六三年以降、七〇〇件近くのフィールドワークを行い、映画でよく描かれるのとは逆に、災害時に大規模な混乱は起きないことを明らかにした。自分勝手な行動は起きない。総じて、殺人や強盗やレイプなどの犯罪は減る。人はショック状態に陥ることなく、落ち着いて、とるべき行動をとる。」(p.26)
東日本大震災の時、日本の被災地での整然とした様子が世界で称賛されたと報道されました。私はそれを、日本人の民族性によるものと単純に信じたのですが、どうやらそれは疑ってみなければならないことのようです。
「ほとんどの人間は信用できない、とあなたが思うのであれば、互いに対してそのような態度を取り、誰もに不利益をもたらすだろう。他者をどう見るかは、何よりも強力にこの世界を形作っていく。なぜなら、結局、人は予想した通りの結果を得るからだ。地球温暖化から、互いへの不信感の高まりまで、現代が抱える難問に立ち向かおうとするのであれば、人間の本性についての考え方を見直すところから始めるべきだろう。」(p.30-31)
自分が「人間とはこういうものだ」と信じていることが、現実社会を創っているという指摘です。
もしそれがネガティブなものであれば、その恐れによって、社会は不利益を被ることになる。たしかに、そう言えると思います。
「人間はなぜ、ニュースが伝える破滅や憂鬱さに影響されやすいのだろう。それには二つの理由がある。一つは、心理学者が「ネガティビティ・バイアス」と呼ぶものだ。わたしたちは良いことよりも悪いことのほうに敏感だ。狩猟採集の時代に戻れば、クモやヘビを一〇〇回怖がったほうが、一回しか怖がらないより身のためになった。人は、怖がりすぎても死なないが、恐れ知らずだと死ぬ可能性が高くなる。
二つ目の理由は、アベイラビリティ・バイアス、つまり、手に入りやすい(アベイラブル)情報だけをもとに意思決定する傾向である。何らかの情報を思い出しやすいと、それはよく起きることだと、わたしたちは思い込む。」(p.37)
それでも私たちがネガティブな情報を信じやすいのは、恐れることが生存に役立つということと、滅多に起こらないネガティブなことをメディアが繰り返し報道するため、そういうことがよく起こっていると誤認してしまうからだと言います。
たしかに、そういう傾向はありますね。だから人は、不安を煽られると容易に信じてしまうし、何度も繰り返して言われると、簡単に洗脳されてしまうのです。
「ホッブズが自らそうして出した答えは、実に希望のないものだった。
彼はこう書いた。−−遠い昔、わたしたちは自由だった。好きなことは何でもできたが、その結果は恐ろしいものだった。自然状態における人間の生活は、「孤独で、哀れで、おぞましく、野蛮で、短い」ものだった。彼は理由を説明する。−−なぜなら、人間は恐怖によって動かされるからだ。他者への恐怖、死への恐怖、人間は安全を切望し、「永続的で止むことのない、力での欲求に翻弄される。その欲求は死ぬまで続く」。
その結果は? ホッブズによれば、「万人の万人に対する闘争」、ラテン語で言えば、Bellume omnium in omnes である。
だが、心配しなくていい、とホッブズは直ちに保証する。混乱を抑制し、平和な社会を築くことは可能だ。わたしたち全員が、自由を放棄すればよいのだ。すなわち、体と心を、ただ一人の君主に委ねるのである。ホッブズはこの独裁者を、聖書に登場する海の怪獣にちなんで「リヴァイアサン」と名づけた。」(p.71)
何度か聞いたことがあるホッブズの理論ですが、すっかり忘れていました。こうやってまとめられると、大変わかりやすいですね。
ホッブズは性悪説なのだとブレグマン氏は言います。放っておけばろくなことにはならない。だから、たがをはめる君主(規制)が必要だということですね。
「ルソーの考えは、ある主張に哲学的論拠を提供した。その主張は、後世の無政府主義者、政治運動家、自由人、煽動家が、数千回、いや、数百万回も繰り返すことになる。
「わたしたちに自由を与えよ。さもなければ、すべてを失うことになる」と。」(p.73)
ホッブズの性悪説に対して、ルソーは性善説を唱えたのだとブレグマン氏は言います。
ルソーは売れない音楽家だったようですが、リヴァイアサンから100年後、懸賞論文に応募したことがきっかけとなり、哲学者として名を馳せた人のようです。
土地に囲いをして、「これは俺のものだ」と主張すれば、人々はそれを信じるようになった。それが私有財産の始まりであり、そういう価値観の文明社会によって、幸せな「自然状態」が破壊され、人々は不幸になったのだとルソーは言っています。
「野生のキツネは生後約八週間でかなり攻撃的になるが、トルートが選択交配したキツネは、いつまでたっても子どもっぽく、一日中、遊ぶことしか考えていないように見えた。「飼いならされたキツネは、成長せよという命令に抵抗しているように見えた」と、後にトルートは書いている。」(p.91-92)
他の本で知っていましたが、これは野生のキツネの家畜化の実験です。私たちの祖先が狼を家畜化して犬を創り出したように、キツネを家畜化したのです。方法は、人懐っこい個体同士をかけ合わせていくという単純なもの。
この結果、人に懐こうともしない野生のキツネは、まるで子犬のように見た目が可愛らしくなり、人間に対してしっぽを振り、名前を呼ばれると応えるようになったのだとか。
「「キツネに起きた変化はすべて、ホルモンに関係があると、わたしは考えています」と彼は言った。「ひと懐っこいキツネほど、ストレス・ホルモンの分泌が少なく、セロトニン(幸せホルモン)とオキシトシン(愛情ホルモン)の分泌が多いのです」
そしてこう言って締めくくった。「これは、キツネだけに言えることではありません。もちろん、人間にもあてはまります」」(p.93)
「突き詰めれば、ドミトリー・ベリャーエフは、人間は飼いならされた類人猿だと言っているのだ。数万年の間、良い人ほど、多くの子どもを残した。人間の進化は、「フレンドリーな人ほど生き残りやすい」というルールの上に成り立っていた、というのが彼の主張だ。」(p.93)
なぜガタイが良くて脳も大きいネアンデルタール人が滅び、華奢で脳も小さいホモサピエンスが生き残ったのか? その問の答えを、人間の家畜化にあるとブレグマン氏は考えています。
キツネと同じように、私たちの祖先ははフレンドリーになることによって、個体としては優れた能力を持ったネアンデルタール人でさえ生き残れなかった環境を生き抜いた。だから人間は本来、フレンドリーであり、他者を気遣うDNAを持った種なのであると。
「結局のところ人間は超社会的な学習機械であり、学び、結びつき、遊ぶように生まれついているのだ。だとすれば、赤面するのが人間特有の反応なのは、それほど奇妙なことでもないだろう。顔を赤らめるのは、本質的に社会的な感情表現だ。他人の考えを気にかけていることを示し、信頼を育み、協力を可能にする。
わたしたちが互いの目を見る時にも、似たようなことが起きる。それは人間の目には白い部分があるからだ。これも人間だけに見られる特徴であり、おかげで、他者の視線の動きを追うことができる。」(p.99)
人間が社会的な種であり、常に他者の動向を気にしているから、赤面するとか、白目があるという特徴が生まれたとブレグマン氏は言います。
たしかに、社会的でなければ赤面するのは意味不明ですし、視線が把握されるということは、襲撃者に利することですから。
「はるか昔から、それは真実だった。遠い祖先たちは集団で暮らすことの重要性を知っていて、個人をむやみに崇拝することはほとんどなかった。かつては、極寒のツンドラから酷暑の砂漠まで世界のどこでも狩猟採集民は、全てはつながっていると考えていた。彼らは自分のことを何か大きなものの一部であり、他のすべての動物と植物、さらには母なる地球とつながっていると考えていた。おそらく彼らは、人間の状態を、現在のわたしたちよりもよく理解していたのだろう。」(p.104)
ネイティブ・アメリカンに伝わった教えなどを知ると、本当にそうだなぁと思います。
「しかし、その後、別の重大なニュースが届いた。二〇一〇年にアムステルダム大学の研究者たちが、オキシトシンの影響はグループ内に限られるらしいことを発見したのである。このホルモンは友人に対する愛情を高めるだけでなく、見知らぬ人に対する嫌悪を強める。つまりオキシトシンは、普遍的な友情の燃料ではなく、身内びいきの源だったのだ。」(p.106)
フレンドリーであることが人類の特徴ですが、しかし現実的には、想像を絶する残酷なこともやってしまうのが人類です。それは歴史が示しています。
その理由として、ホルモンのオキシトシンの働きを提示します。仲間にはフレンドリーですが、見知らぬ他人には逆に非情になるのだと。
「わたしは、マーシャル大佐による分析と後続の研究を読めば読むほど、人間は本質的に戦争好きだという見方に疑いを抱くようになった。何と言っても、もしホッブズが正しかったのなら、わたしたちは皆、人を殺すことに喜びを感じるはずだ。それはセックスほどには好まれないとしても、嫌悪感を抱かせたりしないはずなのだ。
逆に、もしもルソーが正しければ、狩猟採集生活を送っていた祖先たちは、大半が平和を好んだだろう。その場合、わたしたちホモ・パピーは、世界に広がっていった数万年の間に、流血に対する嫌悪感を進化させたと思われる。」(p.119)
人間は残酷な種だという研究もあれば、そうではないとするものもある。ブレグマン氏は、そういう研究の裏側を紐解きながら、人間は残酷な種ではないことを明らかにしていくのです。
「また、狩猟採集民の間で等しくタブーになっていたのは、備蓄と貯蔵である。歴史の大半を通じて、わたしたちが収集したのは、物ではなく友情だった。」(p.131)
大航海時代に先進地域のヨーロッパの人たちが未開の地を訪れると、彼らは総じてフレンドリーで、要求すれば何でも分け与えてくれたそうです。
「しかし、やがて氷期は終わり、西のナイル川と東のチグリス川にはさまれた地域は豊穣の地となった。そこでは、団結して厳しい自然に立ち向かう必要はなかった。食物が豊富にあったので、移動するよりとどまったほうが得策だった。家や神殿が建てられ、村や町が形成され、人口が増えた。
さらに重要なこととして、人々の所有物が増えていった。」(p.136)
狩猟採集から農耕へと文明が進化することで、私たちに所有の概念が生じたのですね。まさにルソーが言った通りです。
「彼女らは嫁ぎ先では、よそ者として扱われたが、男の子を産むと、ようやく家族として受け入れられた。もっとも、それは嫡出子を産んだ場合だ。この頃から女性の純血が異常なほど重視されるようなったのは、決して偶然ではなかった。狩猟採集の時代の女性は自由に行動できたが、この頃になると家に繋がれ、すっかり覆い隠された。家父長制度が誕生したのだ。」(p.140)
狩猟採集民の生活は意外にも安楽で、1週間の労働時間は30〜40時間ほどだったそうです。のんびりしていて、大いにセックスを楽しむことができ、一夫一婦という結婚制度もなかったようです。生まれた子どもは集団全体の子どもとして、大切に育てられたとか。
一方の農耕民は、穀物を育て、蓄え、調理しなければならず、日々の労働は比較すると多かったようです。そのため、女性は労働力や、労働力である子どもを産む機械のように考えられるようになったのでしょう。
「性病感染症も同様である。狩猟採集の時代にはほとんど存在しなかったが、牧畜をするようになると流行し始めた。なぜだろう? その理由はかなり恥ずかしいものだ。家畜の飼育を始めた時、人間は獣姦を思いついた。つまり、動物とのセックスだ。」(p.141)
女性が商品として扱われるようになれば、安易に手を出すことができなくなる。そうすると欲望が強くても対象がいない男は、身近な家畜を相手にセックスをして、ストレスを発散させる。それが性病の蔓延につながったということのようです。
「しかし大規模な集落が出現するようになると、信仰に劇的な変化が起きた。人間は突然降りかかる大惨事を説明するために、執念深い全能の神の存在を信じるようになった。わたしたちが何か間違ったことをすると激怒する神である。」(p.142-143)
こうして人間の罪という概念が発達したとブレグマン氏は言います。私たちが何か間違ったことをしたから神が怒っている。その神の怒りを鎮めるために、私たちは何かを犠牲にしなければならない。生贄というおぞましい慣習が生じたのは、こういう背景があると言うのですね。
「では、なぜ人間は、かつての自由気ままな生活に戻ろうとしなかったのだろう。一言でいうと、遅すぎたからだ。食べさせなければならない家族が増えすぎただけでなく、この頃になると人間は、狩猟採集のコツを忘れてしまっていた。また、荷物をまとめて、より緑豊かな草原に引っ越すこともできなかった。なぜなら、周囲の土地にもすでに人間が定住していて、侵入者は歓迎されなかったからだ。要するに、祖先たちは罠にはまったのである。」(p.145)
農耕によって定住し、所有物が増え、人口も増える。それは一見すると良いことのように見えますが、私たちの自由を失うことでもあったのです。
そして私たちは、二度と過去に戻れなくなってしまった。戻ろうとすれば、あまりに失うものが大きいように思えるから。
「植民地の開拓者が続々と未開地に逃げ込むのに対して、反対のことはほとんど起きなかった。だが、誰が彼らを責められるだろう? 先住民の中で暮らす間、彼らは植民地の農民や納税者より多くの自由を謳歌した。女性にとってその魅力はいっそう強かった。「わたしたちは好きなようにのんびり働くことができました」と、自分を「救う」ために送られてきた同国人から身を隠した女性は語った。「ここに支配者はいません」と、別の女性はフランス人の外交官に告げた。「望めば結婚できるし、離婚もしたい時にできます。あなたの街に、わたしほど自立した女性がいますか?」」(p.147-148)
私たちは文明を発展させることによって、自由を失っていったと言えるのですね。だから未開の社会に入って、その自由を再び得た時、それを失いたくないほどの大事なものと感じたのでしょう。
私たちは狩猟採集から農耕へと移行し、文明を発展させてきました。しかしその過程で自由を失い、信頼する気持ちを失っていったのかもしれません。
日本でも、縄文時代には戦争など大規模な闘争はほとんどなかったと言われてますね。弥生時代になって、農耕社会になってから、戦争が起こるようになったのです。
「あまりにも多くの環境活動家が、人間の回復力を過小評価している。彼らの暗い考えが自己成就的予言になることをわたしは恐れている。つまり、それがノセボ効果となり、わたしたちを無気力にし、温暖化をいっそう加速させるのではないかと懸念しているのだ。気候変動にも新しい現実主義が必要だ。」(p.177)
イースター島では、無人島だった島に先住民がネズミを持ち込んでしまったがために森がなくなったのですが、先住民はその環境下で最適な農業を編み出して、生産性を増やしていったそうです。
それなのに、人間はこんなダメな種なんだという思い込みを持てば、本来の可能性を見失うことになるということです。その悲観論を受け入れてしまうと、それがやる気を失わせ、その悲観的な現実を引き寄せることになる。だから、正しく現実を知ることが重要になってくるのです。
「実験を終えた被験者にミルグラムが、あなたの貢献は科学に役立つだろう、と伝えると、その多くは安堵の表情を浮かべた。」(p.216)
「そして、ここが肝心なのだが、悪事を行わせるには、それを善行であるかのように偽装しなければならない。地獄への道は、偽りの善意で舗装されているのだ。」(p.216-217)
人はどこまで残酷なことができるかという実験がなされたそうです。しかし被験者は、それは実験であり、実験に参加することが社会(他人)のために役立つ、つまり善行だと信じていたのです。
義賊と言われるように、悪事ではあっても、それは他人のために行う善いことなのだという信念があれば、人は容易に悪事を行えるものです。また、必要悪という言葉もあります。人は、本質的に善いことをしたいのでしょう。
「なぜわたしたちは、これほど熱心に自らの堕落を信じたがるのだろう。なぜベニヤ説はこうして何度も復活するのだろう。それは、その方が都合がいいからだ。奇妙なことに、自らの本質は罪深いと信じると、人は心が休まる。そう信じれば、一種の赦しが得られる。なぜなら、ほとんどの人が本質的に悪人であるなら、約束も抵抗も無駄だからだ。
また、その考え方は悪の存在をうまく説明する。憎しみや身勝手さに直面しても、「仕方がない、それが人間の本性だから」と自分に言い聞かすことができる。逆に、人間は本質的に善だと信じるのであれば、なぜ悪が存在するのかと問わなければならない。また、約束や抵抗は価値あるものとなり、そうする義務が生じてくる。」(p.222-223)
私たちは善でありたいと願いながら、なかなかそうできない自分がいることに気づくものです。それを「人間の罪(原罪)」だとすれば、安心することができます。個人の責任ではないからです。
「このメタ分析から二つの洞察がもたらされた。一つ、傍観者効果は確かに存在する。わたしたちは、時には、他の誰かにまかせた方が筋が通っていると思って、介入しない。また時には、間違った介入をして非難されることを恐れて、何もしようとしない。また時には、誰も行動を起こしていないのを見て、まずいことは起きていないと思い込む。
では、二つ目の洞察は? もしも緊急事態が(誰かが溺れているとか、襲撃されているといった)命にかかわるものであり、傍観者が互いと話せる状況にあれば(つまり、別々の部屋で孤立しているのでなければ)、逆の傍観者効果が起きる。「傍観者の数が増えると、救助の可能性は減るのではなく、増える」と論文の著者は記している。」(p.238-239)
誰かの緊急事態に、それを目にした人はどう行動するのか? 助けようとするのか? それとも、ただ傍観しているだけなのか? そして、それを分けている要因は何なのかという研究がなされているのですね。
こういう研究を通じて見えてきたことは、ほとんどの場合、人は人を助けようとする、ということだったそうです。一方でマスコミは、救助しようとしなかった面に注目し、そこばかりを強調して報じる傾向があるようですね。そして時には、それを強調したいがために、事実を報道しないことによって虚偽の事実を浮かび上がらせる。
本書は、人間とは善なるものである、という性善説の考え方を、研究論文を紐解くことで示そうとしています。
この本は上巻ですが、読んでみて興味深かったので、下巻も読んでみようと思いました。
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