「言ってはいけない」という本の紹介をYoutube動画で見て、興味を持ちました。本を探してみると、すでに続編が出ている様子。なので、その続編となる本書を買ってみました。
著者は橘玲(たちばな・あきら)氏。科学者なのかと思ったら、作家さんなのですね。知りませんでした。
読み始めた時点では、紹介されていた内容をすっかり忘れていました。本の内容と言うか、動画の内容ですね。
何を「言ってはいけない」のかということが、読み始めてやっとわかりました。つまり、努力でどうにかなるのではなく、科学的(統計的)には遺伝で決まっていることが明らかだ、ということを「言ってはいけない」ということのようです。
遺伝で決まるという話は以前、「生まれが9割の世界をどう生きるか」という本を紹介しましたが、そちらでも語られていました。
そこですでに遺伝で多くのことが決まるとわかっていたのですが、あえて本書を買おうと思った理由は何だったのか? 思い出せないままに、読み始めました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「知能は遺伝する、精神疾患は遺伝する、犯罪は遺伝する……と話すと、ほとんどのひとから「ほんとうかもしれないけどそんな本はぜったいに出せない」「そんなことを書いたらたいへんなことになる」と警告された。だが実際には、『言ってはいけない』を読んだ方からは、「救われた」「ほっとした」との多くの感想が寄せられた。
「遺伝決定論」を批判するひとたちは、どのような困難も本人の努力や親の子育て、あるいは周囲の大人たちの善意で乗り越えていけるはずだとの頑強な信念をもっている。そしてこの美しい物語を否定する者を、「差別主義者」のレッテルを貼って葬り去ろうとする。」(p.3-4)
「日本のメディアではいまだにこれは「言ってはいけない」ことにされているが、欧米では一般読者向けの啓蒙書にも「統合失調症は遺伝的な影響を強く受けている」とふつうに書いてあるし、それが差別かどうかの議論にもなっていない。遺伝の影響をいっさい認めない日本の現状が異常だ。」(p.5)
まえがきにこのように書いてありました。つまり、知能レベルも精神疾患も、遺伝でほとんどが決まっているという研究結果は、日本の社会においては不都合な真実だということですね。
日本人の多くは、努力によってどうにでもなるというドラマが好きなのです。しかし、そうなると、子どもが非行に走ったら親の子育てが悪いからだという短絡的な因果論が正当化される。でも、それはどうにもならなかったと感じている本人や親などを責めて、苦しめることにもなるのです。
「この結果をわかりやすくいうと、次のようになる。
@日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない。
A日本人の3分の1以上が小学校3〜4年生の数的思考力しかない。
Bパソコンを使った基本的な仕事ができる日本人は1割以下しかいない。
C65歳以下の日本の労働力人口のうち、3人に1人がそもそもパソコンを使えない。」(p.23-24)
「しかし、驚きはこれにとどまらない。こんな悲惨な成績なのに、日本はOECDに加盟する先進諸国のなかで、ほぼすべての分野で1位なのだ。だとすれば、他の国はいったいどうなっているのだろうか。」(p.24)
プロローグで、PIAAC(ピアック)というOECDの成人に対する読解力、数的思考力、ITを活用した問題解決能力のスキル習熟度の2013年の調査結果を取り上げて、このように橘氏は解説しています。
つまり、事実を述べることと差別することは違うということを言いたいようですね。たとえば「日本人」という1つのグループの中にも、様々な人がいます。日本語が読める人もいれば、読めない人もいる。読めると自分では思っていても、計測してみれば「読めない」という分類になる人もいる。それが事実です。
その割合がどれだけかということと、一人ひとりがどうかということは、また別のことです。1人の人の能力を取り上げて、「やっぱり日本人は・・・」とレッテルを貼ることは偏見であり、差別になるでしょう。しかし、日本人というグループの傾向がこうだという統計的な事実そのものは重視すべきであり、差別とは違うということなのです。
それにしても、この結果には驚きました。しかし、よくよく考えると納得できます。たしかに、「さっきからそう言ってるじゃないの!」と言いたくなることが多々あります。言葉を聞いても、内容を理解してくれないのです。老人介護の職場では申し送り簿でコミュニケーションを図ろうとしますが、伝わらないことが多いですね。
そして、若い人でもPCを使えない人が多い。おそらく今の職場でまともにPCが使えるのは、私を含めて2〜3人しかいないのではないかと。
そう考えてみると、私はけっこう知的なスキルが高いんじゃないかと思えてきました。もちろん、だから「優れている」わけではないことは、本書の最後にも書かれていますけどね。
「世界を「俺たち(善)」と「奴ら(悪)」に分割し、善悪二元論で理解しようとするのは、それがいちばんわかりやすいからだ。古代ギリシアの叙情詩からハリウッド映画まで、人類はえんえんと善が悪を征伐する物語を紡いできた。
世界を複雑なものとして受け入れることや、自分が「悪」で相手が「善」かもしれない可能性を疑うことは、この単純な世界観をはげしく動揺させる。それは、陳腐で平板な世界でしか生きられないひとたちにとってものすごく不安なことなのだろう。」(p.36-37)
私もよく指摘しますが、勧善懲悪という視点からは、本当の姿が見えてこないのです。正義はそれぞれの人にあるのであって、単純に善悪、正邪で割り切れはしません。
そして橘氏が指摘するように、そうやって相手を悪として糾弾したがるのは、その人に不安(恐れ)があるからなのです。
「それは(男に対する)性的魅力をつくる役割を担っているのだ。だからこそ、ゲイ遺伝子をもつ男性は同性愛者になり、同じ遺伝子をもつ女性は周囲の男性にもてることでたくさんの子どもを産む。これを差し引きすれば、平均的な(たいしてもてない)男女よりも効率的に遺伝子を複製できるのだ。」(p.52)
「だが現代の遺伝学は、同性愛が「生産性」が低いのではなく、「魅力的な男性と女性」を生み出す合理的な進化のメカニズムであることを着々と証明しつつある。」(p.53)
同性愛者(特にゲイ)の結婚を、「生産性が低い」という理由で認めるべきでないと主張する人がいます。しかし遺伝学的に言うと、性的指向(ゲイなど)の遺伝子というものがあって、それがあるから先天的にゲイであることが決まっていることになるのだそうです。
では、なぜそんな生産性のない遺伝子が駆逐されずに残っているのか? この疑問を、ゲイの男性の姉妹には多産が多いという統計的事実から紐解きます。
つまり、この遺伝子は、男性をゲイにする可能性があるが、一方で女性を多産にしている。これはゲイにする遺伝子というより、「男性からモテる遺伝子」ではないかと推測するのですね。男性からモテる女性なら、多産になることはあるでしょう。そして男性からモテる男性ならゲイです。
したがって、この遺伝子を受け継いだ男女の兄弟は、男性の一部がゲイになって生産性はゼロになるかもしれないけれども、それ以外の兄弟が平均以上に子孫を残すことで、全体としては子孫が増える、つまり生産性が高まるということになるのです。
この話を読んだ時、かっこちゃんこと山元加津子さんの「1/4の奇跡」という本を思い出しました。
この本では、1/4の子どもは障害を持って生まれるけれど、そのお陰で残りの3/4の子どもはマラリアで死なない遺伝子があるという話がされていました。つまり、障害者の子どもは、残りの子どもを救うために、あえて障害を引き受けて生まれてきたのだと。
同じことが言えるのだとすれば、先天的にゲイであることを運命づけられた男性は、他の兄弟姉妹によって人類の子孫を反映させるために、あえてその役割を引き受けたとも言えるのではないでしょうか。
もちろん、これが真実かどうかは何とも言えません。1つの考え方に過ぎません。しかし、その可能性はあるということです。
「分子遺伝学者は、他の人類から分かれアフリカにはじめて登場したサピエンスの人数を6000人から1万人ほどと推計しており、もっとも大胆な予測ではわずか700人だ。このきわめて小さな集団が共通祖先なのだから、人種のちがいにかかわらず私たちは遺伝的にとてもよく似ている。」(p.119)
「ヒトゲノム計画によって全人類の遺伝子が99.9%は同じで、ヒトには、別の集団にはない遺伝子をもつ特別な集団は存在せず、集団間よりも集団内の方が遺伝的多様性が大きいことが明らかになった。ヒトの種内の遺伝的多様性は、チンパンジーやゴリラ、オランウータンより圧倒的に小さいこともわかっている。生まれた場所や肌の色がちがっても、私たちはお互いにとてもよく似ている。」(p.126)
たしかに人種による見た目の違いはあるし、個人間の違い(個性)もありますが、ゴリラなど他の種族との違いに比べれば大したことではない。特にヒトという種族の中の遺伝的な多様性は小さいということですね。
ここで言う「集団」とは、白人とか黒人、アングロサクソンやモンゴロイドみたいな集団でしょう。その集団内の遺伝的な多様性の方が、他の集団との違いよりも大きいということのようです。
「認知心理学では、政治的にリベラルなひとは保守的なひとに比べて知能が高いことが繰り返し確認されている。子どものときの知能で成人後の政治的立場を予測できるとか、政治的立場はある程度生得的に決まっているとの研究もある。これについては別の本で詳述したので繰り返さないが、リベラルと保守を分けるのは言語的知能と新規なものへの好みにある。
言語的知能が低いと(いわゆる口べただと)、世界を脅威として感じるようになる。なんらかのトラブルに巻き込まれたときに、自分の行動を相手にうまく説明できないからだ。」(p.173)
これは面白い視点ですね。日本ではよく「全共闘かぶれ」と言ったりしますが、流行りの学生運動にうつつを抜かしてまっとうな就職ができなかった人たちが、当時はまだメジャーではなかったメディア関連に就職したので、今のメディアはリベラル派が多いという分析があります。この説明よりも、そもそも大学に進学するほど知能が高いからリベラルになるという説明の方が、説得力があるように思います。
もちろん今では、大卒だから知能が高いとは言えません。大卒の相対的な知能の優位は、日本ではすでに低下してしまっていますから。
けれども、知能が高ければ知的な好奇心も旺盛で、新奇なものを検討したり、取り入れようという気持ちも大きいと思います。だからリベラルですね。
一方の保守は、新奇なものに対する恐れ(不安)が根底にあります。検討した上での保守ではなく、検討すらしたくないから保守なのです。
なお、保守=右、リベラル=左ではないと私は考えています。私自身はリベラル(自由主義)ですが、左派の考え方には同意できないことが多いですから。
「もうおわかりのように、これはドミニカの日本人移民と同じ話だ。東南アジア社会で生き延びなくてはならなかった極貧の中国人の子どもたちは、現地の友だち集団のなかで優位なものをなにももっていなかった−−唯一、東アジア系の高い知能を除いては。
そんな子どもたちが、生き延びるために、遺伝的なわずかなちがいに自らの可能性のすべてを賭けた。そう考えれば、数世代で巨大財閥をつくりあげたとしても不思議ではないだろう。」(p.187-188)
本書には各国別のIQ一覧(p.137-139)が載っています。イギリスの認知心理学者リチャード・リン氏の「Race Differences In Intelligence(知能における人種的ちがい)」という著書からの引用だそうです。各国で行われた知能テストのデータを収集したりしてまとめたものだとか。
これを見ると実に興味深いのですが、IQ100以上となっているのは、ほとんどが白人国家です。特にヨーロッパの北部。アメリカは白人国家ですが、有色人種も多いため、平均的に下がっていますが、白人だけのデータだと高くなるようです。
それに比べると、黒人国家のIQは有意に低いことが示されています。環境の要因も考えられますが、遺伝的な側面があることは間違いないという話でした。
そしてなお驚くべきは、東アジアの国は総じて100以上という高レベルなのです。なぜなのか明確な理由はわかりませんが、中国も韓国も日本も、すべて100以上です。
このことから、IQが低い集団の中にいる一部の高いメンバーは、他の面で不利だとしても、いや不利だからこそ、その高い知能を生かした生存戦略を取ると考えられるのです。
それが、戦後、南米への移民で苦労した日本人入植者の子孫が、現地で高い社会的地位に就いていることが多いという現実に現れていると言うのですね。
そしてこのことから、東南アジアの華僑が総じて裕福であったり、社会的に高い地位に就いていたりすることが説明できると言います。そして、なぜそういう華僑が韓国や日本にはいないのかということも説明できるのです。つまり、知能レベルの優位性が生じないからですね。
「すべてのメンバーが「大量破壊兵器」を手にした共同体で、自分の身を守りつつヒエラルキーを昇っていこうとすれば、徒党を組むことが不可欠だ。いまの政治と同じで、旧石器時代でもリーダーはもっとも大きな派閥から選ばれたはずだ。利害の異なる相手と手を結び、権力集団を維持・拡大していくためには高度な言語能力と政治的知能が必要になる。これが、人類が大きな脳を必要とし、言葉を獲得した理由ではないだろうか。」(p.209)
身体的な優位よりも知能的な優位の方が勝るようになったのは、当時では「大量破壊兵器」とも言える「石器」を手にしたからだと橘氏は言います。つまり石器があれば、不意をつくことで屈強なリーダーを殺すことが可能になったのです。
猿の集団のリーダーは、体躯が優っていることが必須です。挑戦してくるオスを力ずくでねじ伏せなければなりませんから。しかしもし猿が武器を手にするようになれば、リーダーの資質も違ってくるでしょう。
「狩猟採集生活では獲得した獲物はその場で食べるか、仲間と平等に分けるしかなかったが、貯蔵できる穀物は「所有」の概念を生み出し、自分の財産を管理するための数学的能力や、紛争を解決するための言語的能力が重視されるようになった。
その一方で、狩猟採集社会では有用だった勇敢さや獰猛(どうもう)さといった気質が人口稠密(ちょうみつ)な集住社会(ムラ社会)では嫌われるようになった。」(p.212)
そういう社会になってくると乱暴者は排除され、協調性が重視されるようになります。したがって、協調性のある知的な遺伝子が生存に優位となり、残ってきたということですね。
「これはきわめて危うい論理だが、視点を変えれば、ヨーロッパ系や東アジア系はムラ社会のなかで、それぞれの仕方で自らを「家畜化」してきたのに対し、アフリカ人やアボリジニは「家畜化」されていないということでもある。白人をダックスフント、アジア人をチワワとするならば、彼らはドーベルマンやシェパードなのだ。
チワワやダックスフントがドーベルマンより優れているとはいえないように、”家畜化という進化”を経た人種を家畜化されていない人種よりも優秀だとする根拠はない。」(p.213)
「家畜化」というのは、人間が狼を犬に変えたようなもので、わずかな期間(数世代)でその種の遺伝子を人間に従順なものに変えていけるということが証明されているそうです。
そして、人間は自らを家畜化してきた。それが石器の発見であり、続く農耕社会によるものだったと言うのですね。
したがって、自己家畜化した民族(人種)と、いまだ家畜化されていない民族との間に、遺伝的な知能の差があることは当然だと考えられるのです。そして、それがどちらが優れているかという問題ではなく、現代社会に適応しているかどうかという問題なのです。
「認知スキルと同様に性格スキルの形成にも幼年期がもっとも重要だが、性格スキルは10代以降でも伸ばせるので、青年時の矯正は性格スキルに集中すべきだというのだ。」(p.216)
「心理学では人格の「ビッグ・ファイブ」を開放性、真面目さ、外向性、協調性、精神的安定性としている。これらの性格と仕事の成果(業績)の関係をみると、すべての仕事においてもっとも影響が大きいのは真面目さで、次いで外向性、精神的安定性となっている。「真面目で明るく、落ち着いている」ひとは、どんな職場でも信頼されるのだ(図表8)。」(p.216-217)
「協調性については、日米で際立ったちがいが観察されている。日本の場合、男性では年間所得と協調性が正の相関関係なのに対し、アメリカでは男性、女性ともに負の相関関係になっているのだ。
これをわかりやすく解釈すると、アメリカでは協調性がない=個性的なほうが高い所得を得られるが、日本の会社は個性を押し殺して滅私奉公しなければ出世できず、しかもこの努力が報われるのは男だけで、女性社員がいくら組織に協調(奉公)してもムダ、ということになる。」(p.217−218)
アメリカで暮らす東アジア系の人が、比較的に高い所得を得ている理由を、遺伝的に解明してみると、知的で真面目で内向的だから、リーダーにはなれなくても専門職として高い賃金を獲得できているということのようです。
「図表9を見ればわかるように、とりわけ日本人はLL型保有者が4%と世界でもっとも少なく、SS型の保有者は65.3%と世界でもっとも多い。日本人の96%がS型の保有者であり、3人に2人がSS型でセロトニン発現量が少なく、不安感や抑うつ傾向が強い。これが、うつを日本の「風土病」にしているのかもしれない。−−同様の傾向は中国や韓国も同じで、ここからいずれの国でもうつ病や自殺が大きな社会問題になっていることが説明できるだろう。」(p.222-223)
つまり東アジア系は、遺伝的に不安感が強い傾向があるのですね。それが真面目で内向的で几帳面で責任感が強く、周囲の目を気にして協調性があるというような特質になっているようです。
「SS型がストレスによって抑うつ状態になりやすい脆弱性をもっていることは、数々の実験で確かめられている。ところがそのSS型が、もっとも楽観的だった。なぜこのような矛盾した結果が出るのだろうか。」(p.225)
「セロトニン運搬遺伝子の発現量が低い「悲観的な脳」の持ち主は、ネガティブな画像と同様にポジティブな画像にも敏感に反応したのだ。」(p.226)
「ここから、なぜL型の遺伝子からS型が現れたのかも説明できる。それは農耕社会のなかで、閉鎖的な共同体の親密でストレスフルな人間関係(高コンテクストな文化)にうまく適応するのに役立ったからだ。これが(いち早く農耕文明に移行した)東アジア系にS型の遺伝子が多く、アフリカ系にL型遺伝子が多く残っている理由だろう。ポジティブなことにもネガティブなことにも感じやすくなるよう進化することで、相手の気持ちを素早く忖度できるようになり、狩猟採集生活ではあり得なかった人口稠密な共同体を維持することが可能になったのだ。」(p.228-229)
つまり東アジア系は、労働集約的な稲作文化が発達したので人口が増え、人口過密社会を作ることが生存のために最適だったので、そういう社会に適応した遺伝子を獲得していったのです。
日本は他の先進諸国に比べて人口密度が非常に高くなっています。そういう社会においては、いちいち言葉で相手の考えを確認し合わずに「察する」という能力が重要になってくるのですね。
「人類の第一の「革命」は石器の発明で、「誰もが誰もを殺せる社会」で生き延びるために自己家畜化が始まった。第二の「革命」は農耕の開始で、ムラ社会に適応できない遺伝子が淘汰されてさらに自己家畜化が進んだ。第三の「革命」が科学とテクノロジーだが、ヒトの遺伝子は、わずか10世代程度では知識社会化がもたらす巨大な変化にとうてい適応できない。ここに、現代社会が抱える問題が集約されているのだろう。」(p.240-241)
今は遺伝子的に考えても、大きな変革の時代と言えるようです。
人の人生は遺伝子によってほぼ決まっている、ということが本書で言わんとするところですが、どんな遺伝子だから幸せとは言えない、ということもまた言えることです。高い知能によって高い収入や社会的な地位を得たからと言って、必ずしもその人が幸せではありません。
そういうことを知った上で、私たちは与えられた遺伝子を前提に、どう生きていくかを考えていくべきなのでしょうね。
本書では、ユダヤ人が世界の金融を牛耳っているのも、おそらくその中核をなすグループの遺伝子が、知能が高いのだろうと言っています。ユダヤ人と言ってもいろいろ系統があるので、全体で計測すると凡庸なものになってしまうようです。これは、アメリカ人の知能レベルが凡庸なのと同様ですね。
それにしても、東アジアと東南アジアでこれほどの知能レベルの違いがあるということに驚きました。これはある意味で、環境が遺伝を創っているとも言えますね。揚子江流域で始まった稲作が、東アジア人の知能を高くしていったのですから。
それに対して稲作が遅れた東南アジアや南アジアでは、知能レベルが高くなっていない。しかしそれも、時代が進めばまた変化していくのかもしれません。
そして、知能レベルが高いから優れているとか、幸せだということでもないのです。だから、知能レベルが高いのは遺伝による恩恵だと思って、その恩恵を生かす生き方を自分が選択することが重要ではないかと思いました。

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