2022年11月16日

真・かんながら



久しぶりに阿部敏郎(あべ・としろう)さんの本が出版されると聞いて、予約して買いました。
今回の本は小説ですが、あとがきを読むと、1999年に書いたとあります。Wikipediaによれば、阿部さんは1953年生まれで、特異体験をした後の1989年に芸能界を引退し、奈良県にある天河大弁財天社に奉公したようです。

実はこの小説は私小説で、阿部さん自身をAとして描いています。事実に基づいて書いたとあとがきにもあるので、おそらくこういうことがあったのでしょう。
小説は、天河神社に導かれ、そこでバグワンの弟子たちと出会い、導かれるようにインドへ行くことが描かれています。バグワンとはOsho(おしょう)のことです。
私がOshoのことを知ったのはタイに行ってからですが、まさにお勧めしている「神との対話」のようなことを言われる方だなぁと思いました。

阿部さんについては、なるほどと思うこともあれば、これはちょっと違うんじゃないのと感じることもあり、最近はあまり注目していませんでした。しかし、この小説を読むと、阿部さんもまた「神との対話」に書かれているようなことに気づかれ、そのように生きておられるのだなぁと感じました。

ちなみに、これまで紹介した阿部さんの本は、対談や講演録も含めて「一瞬で幸せになる方法」「降参のススメ」「招き猫カワヒラくんが教えてくれた幸運の流れに乗る生き方」「不死のしくみ」「99%の人が知らない死の秘密」などがあります。
また、Oshoの関連本としては、「Joy」「Courage」の2冊を紹介しています。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
ただしこれは小説なので、あまりネタバレにならないよう引用したいと思います。あらすじは、冒頭にも書いたように、阿部さんことAが、天河神社に導かれ、インドに導かれ、悟りを得ていくという展開になっています。

しかし恐れから生じた制度が万民を幸福にすることはない。
 恐れの氣がお金に宿るからだ。
」(p.39)

このような世界を一変し、誰もが幸せに暮らせる道が一つだけある。
 それは人類規模で存在の真実に目覚めることだ。
 国や人種といった表面的な違いを見るのではなく、その奥に共有している同じ一つの命に目覚めるのだ。
 それがわかれば地上のあらゆる問題は解決する。
」(p.40)

これは私も賛同します。「神との対話」でも言うように、すべては「愛」か「不安(恐れ)」のどちらの動機によるものかで違ってくるのです。そして、真の地上の平和をもたらすには、みんなが覚醒するしかないと思います。


あなた方は全員、時間と空間という幻想の中で夢を見ている。
 実際には全体から分離した個別の命は存在せず、いつも全体としての命がいまここで新しい何かを表現しているだけだ。
 この全体への目覚めだけが人類を苦しみから解放し、恐怖が作った世界支配を終わらせるのだ。
 まずは日ノ本が目覚めなければならない。
」(p.58-59)

世界はユダヤによって支配されていると言われますが、それは恐れ(不安)を動機としたものです。その世界を変えるには、ユダヤと同じ根を持つ日本人が、愛を動機としてユダヤの支配を打ち破らなければならない。
たしかに、こういうことがあるのかもしれないなぁということは、これまで読んだ他の本にもあったので、私も薄々感じているところです。

我々の命を左右する核の問題も、環境問題も、それらを作り出した人たちには解決できないだろう。それを解決するのはいままでの価値観を超越した新しい人類だよ。まさにいま地球意識が発動して新しい人類を誕生させようとしている。」(p.84)

最近の若い人の中には、生まれながらに覚醒しているのではと思われる人が多くいます。意識レベルが格段に高く、選択の判断基準がぜんぜん違うのです。そういう人たちを見ると、地球全体で覚醒しようとしていると感じます。

いまや世界は覚醒した多くの人々を必要としている。
 幻想から真実に、怖れから愛に目覚めた人々だ。
 そこに最も近いのが日本のあなたたちだという自覚を持ちなさい。
 しかし同時にあなたたち日本人は、世界で最も常識や社会通念に縛られやすい性格を持っている。
 必要以上に他者の目を気にし、新しい生き方に踏み出す勇気を持てずにいるのだ。
 いまこそその殻を破って前に踏み出すときだ。
」(p.102)

たしかに、日本人の同調圧力には辟易するものがありますね。


時の政権を担っていた徳川幕府には優秀な人材がいなかったのか。彼ら以上に地方の下級武士のほうが優れていたのか。少し考えればナンセンスな話でも、繰り返し教えられればそうかと思ってしまう。
 歴史は勝った側が創作することを忘れてはいけない。薩摩や長州に幕府を転覆させるだけの資金と武力を提供したのは誰なのか。何のために。答えは簡単だ。明治維新とは日本を国際金融システムに組み入れるために仕組んだドラマだったのだから。
」(p.122)

言われてみればたしかにそううで、幕末にはなぜ、こんなに優秀な人々が雨後の筍とのように次々と出現したのだろう? と驚いた記憶があります。しかし、その背後に、ユダヤによる国際金融資本の陰謀があったとまでは考えませんでした。
これが本当かどうかは何とも言えません。もちろん、そういう策謀をした人もいたでしょうけど、人というのは、そう簡単に操られるものでもないからです。幕末の志士たちには彼らなりの思いがあったであろうし、実際に優秀な人も多かった。そして、語られないだけで、幕府側にも優秀な多くの人がいたのではないかと思っています。彼らの思いが実現しなかったとしても。


その世界は一人ずつの創作であり、同じものは二つとしてない。なのに人々は、みんなが同じ世界に住んでいると思っている。だから毎日のように関係に軋轢が生じるのだ。」(p.211)

この視点は、私もつい忘れそうになります。同じ世界に生きているようで、実はそれぞれにそれぞれの世界に生きている。そして自分の世界においては、自分が創造主なのです。

目覚めた時に人が知るのは、それまでの人生に起きたあらゆることは、何一つ無駄もなく偶然もないということだ。
 ありとあらゆることは、人類の目覚めのために起きている。
」(p.214)

これも私が常々自分に言い聞かせていることですね。すべてのことは必然であり、最善であり、完璧なのだ。このことを私は「神との対話」で学び、それを自分の中に落とし込もうとしています。


お前に求められていたのは自らの目覚めであり、宝刀の使い方などではない。世の中の目覚めを先導するために必要なものは、自らの目覚め以外にはないのだ。」(p.216)

世界の人々を覚醒させるために日本人という民族があると言われると、優越感を感じてしまいます。自分が意識レベルが高いと思うと、人々を先導する立場として選ばれたのだと感じて、誇らしく思うでしょう。しかしそれは選民思想につながる考え方であり、傲慢であり、道を誤るもとなのです。
他人のことは他人に任せておく。ただただ自分のことだけを考える。そして、自分が覚醒すれば、それが人類の覚醒につながるし、寄与することになるとわかっていればいいのだと思います。

誰かが全人類を支配しているなどというのは夢の中だからこそ描けることだ。なぜなら世界は一人一人の心の中にあるからだ。
 さらにはその一人一人が自分の利益のために生き、その念が複雑に絡み合って全体のバランスを作っている。一部の人間が秘密裏に世界を意のままにできるだと言うのは、被害者意識が作り出した妄想だ。
 自分が周囲をコントロールしようとしているから、世界全体をコントロールしている誰かがいると想像するのだ。世界は自分のマインドの投影にすぎない。
」(p.218)

外界は自分の心の投影であり、鏡です。そう言われているのに、ついつい忘れてしまうんですよね。
自分がコントロールしようとしているから、誰かからコントロールされると恐れるのです。そんな私たちの恐れ(不安)が投影されているのが、今の世界なのです。


確かに物語はその当人にとっては真実だが、それを他者にも共有させようとする。そして他者がその物語を共有した時、他者の中でそれが真実になるのさ。そうやっていつの時代もどんな国でも、宗教が共同幻想として存在してきたんだ」(p.238)

マインドというものは、足りないものやうまくいっていないことを見つける名人であり、それを解決するのも自分の役目だと信じているんだ。そうやってマインドは、自分がよりよい未来に進んでいる、進まなければという夢を見る。でも実際には何処(どこ)にも進んでいない。どこに進むというのか、ここしかないと言うのに。いまここで夢見るマインドが、いまここ以外の何かを目指して生きている姿は大昔から同じだ。」(p.239)

真実は「いま、ここ」しかない。現実に見えるものはすべて、マインドが描いた夢であり、幻想なのです。その幻想世界の中で私たちは、被害者になったり加害者になったり、あるいは愛し合ったりして、物語を生きているのです。


しかし人生にはあるべき姿も、行き着くゴールもありはしない。ということは何だっていいということだ。たとえ野垂れ死んだとしても、有終の美を飾ったとしても、同じ場所にいるのさ。そのことを見抜けば、人生に対する深刻さは消えるはずだよ。
 だって深刻さとは、あるべき姿を握りしめている態度だから。あるべき姿が消えれば気楽なもんだ
」(p.241)

何が起ころうと、どうなろうと、大したことではありません。だって、それは夢なのであり、幻想なのですから。そう喝破すれば、「大丈夫だ」と思えるようになる。右を選べば右の、左を選べば左の経験が待っているだけ。だから、間違った選択(決断)というものもないのです。


誰がバチを与えるんだい? 人の世界は一人一人の思考が作り出したものだから、もし誰かが自分の世界の中にバチを与える神を作れば、何か悪いことが起きた時、きっとその人はバチが当たったと思って神を恐れるだろう。
 すべては一人一人の創作であり、何かの価値観を共有すればそれが共同幻想になって宗教にまでなる。それだけのことだ。
」(p.244)

私も、神がバチを与えるという考え方には賛同しません。神しか存在しないというのに、いったい誰が誰にバチを与えると言うのでしょう? そして、何のために与えるのでしょう? 「神との対話」にもそういうことが書かれていますが、よくよく考えればナンセンスだとわかるでしょう。


それは、かんながらの道だ。我々にできるのは、その道を邪魔しないで、思し召すまま流れのままにお任せすることだ。だから今後の予定は、あると言えばあるし、ないと言えばない。」(p.250)

「かんながら」とは、「神の思し召しのまま」という意味なのでしょうね。無為自然という老荘思想にも通じます。あるがままを信頼し、受け入れ、起こるがままに起こらせる。だから不足もなければ不満もない。ただ起こりゆくことを見て、微笑んでいられるのです。


なるべくストーリーには触れないように、阿部さんの気付きに関する部分を引用してみました。
今回の本は、私も非常に共感します。お勧めしている「神との対話」シリーズに通じる部分が多々あり、阿部さんの気付きの深さが見て取れるからです。

もちろん、そんな偉そうなことが言えるほど、私が気づいているわけではありません。私はまだまだ頭で知っているというレベルです。
けれども、その頭で知っているように生きたいと思い、生きようとしています。だから、その思考が習慣化するように、何度も何度も繰り返しているのです。これもまた、「神との対話」で示されていた方法ですけどね。

ということで、覚醒することを願っている人にはお勧めの本だと思います。わかりやすいし、小説なのでサクサク読めますよ。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 07:18 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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