何の紹介だったか忘れましたが、面白そうだと感じたので買ってみました。
著者は鮫島純子(さめじま・すみこ)さんと言います。でも、そう言うよりも渋沢栄一氏のお孫さん、と言った方が興味深く感じるでしょうか。実は私も、気になっている渋沢翁のお孫さんだから興味を持ったのです。
また、タイトルにある「97歳」という年齢も興味を持った理由の1つです。老人介護施設で働いていることもあり、高齢のお年寄りがどういう考え方で生きておられるのか、とても興味深く思ったのです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「長い人生を生きていれば、プラスのことばかりではありません。マイナスに思えることも当然起きます。
「自分の思っているとおりにならない」と悩むときは、その原因を他人や社会のせいにしたり、あるいは自分はダメなんだ、と自分自身を否定し、責めたりします。誰でもそうなりがちらしいのです。
けれども、「魂は何度も生まれ変わり、今生きている人生だけではない。魂は永遠に生き続け、学びながら浄化成長していく……」。私はそんな”宇宙のルール”ともいうべき「人生のしくみ」を知ったことで、受け入れがたいツラい出来事も、不安、恐れもすべて、自分の心の浄化成長のために自分の魂が選んだ経験だったと考えられるようになりました。そして、それぞれの問題を乗り越えることで、また少し成長できたと喜べるようになりました。」(p.2-3)
素晴らしいですね。まさにこのとおり。もう、これだけで十分だと感じるくらい、本書の内容がまとめられています。
「あのとき「人間は、こんなにも長生きできるのか」と、祖父の崇高な死に顔を、畏敬の思いで眺めた記憶がありますが、そんな私も今や97歳。祖父の年齢をも超えてしまったことに驚いています。」(p.3)
鮫島さんは、新1万円札の顔に決まったことで話題になっている渋沢栄一氏のお孫さんです。そういう関係があるからこそ、鮫島さんの話を聞きたいという人が多いのでしょう。
「人は誰もが、大自然のエネルギーを与えられ、生かしていただいています。「人生のしくみ」を心にとめ、「ありがとう」という言葉を口にすれば、いつも幸せ感に満たされます。それが、私のいちばんお伝えしたいことです。
「感謝の習慣」を身につけた者は、地上に天国を創る者です。
たとえ、口先だけであったとしても、「ありがとう」という言葉は毎日がとても穏やかで楽しくなる魔法の言霊です。」(p.6)
「以前は、「ありがとう」の言葉を、何か物をいただいたり、自分にいいことをしてくださった「人」に対する感謝という意味で使っていましたが、今、感謝の対象は、宇宙の創造主、大いなるものへの感謝になりました。「大自然」といっても「神様」といってもいいと思います。
これは後述しますが、「はじめに」でもふれた”宇宙のルール”にのっとっていることで、イヤな人に会っても、イヤな目に遭っても、「神様が自分を磨いてくださる方に会わせてくださった」「自分を磨く機会を与えてくださった」と感謝の気持ちが湧きます。悪いことが起きても、いつもの習慣で「ありがとう」という言葉が、すぐ口をついて出るようになりました。」(p.17)
「詐欺に遭ったと気づき、すぐ警察署に届けましたが、犯人が憎い、悔しいという思いよりも、こんなふうに人を騙して大金を奪う犯人の、暗転するであろうこの先の人生や、親御さんの心情に心を寄せる自分がいました。
取り調べに当たった警察官には、「詐欺に遭って犯人の人生を心配する被害者なんて、初めてですよ」とあきれられました。」(p.24)
振り込め詐欺にあったことがあるそうですが、その時も身についた思考の習慣が自然と出てしまったようです。こうなると、もう最強ですね。
「そうしているうちに、「ありがとう」という感謝の言葉を声に出すと、宇宙の創造主の意志、すなわち「愛と調和」「世界人類の平和」を願う波動と同周波になり、心が穏やかになっていく自分に気づきました。
「ありがとう」の言葉には、過去世から引きずってきたマイナスの事象を、プラスに変えていく力があるのだと自覚できるようになりました。」(p.40-41)
いわゆる「カルマ」を解消するポイントも、「ありがとう」という言葉にある、ということですね。
「明治神宮創建の発起人である祖父・渋沢栄一も、「神には感謝のみ」といっていました。
神社というところは、一般にはご利益をお願いするところだと思われがちですが、そういったご利益祈願という幼いレベルの信仰対象ではなく、本当にただ感謝だけをお伝えすればいい場所のはずです。守護霊は、お願いするまでもなくすべてをご存じだと信じます。」(p.42-43)
特別な宗教的な信仰を持たない渋沢氏が、明治神宮の創建に関わっていたとは知りませんでした。
神社が感謝の祈りを捧げる場だという話は、他の方もされていますし、私もそう思います。
「私たち人間は、太陽の恵みを受け、空気を自由に吸うことができ、水も食料もいただくことができ、食事をすれば内蔵が働いて消化・吸収してくれ、排泄してくれます。一つひとつ思いを巡らせれば、何一つ自分がやっているのではなく、やっていただいているのであって、感謝する材料は満ち溢れています。
それなのに、つい感謝の気持ちを忘れて、当たり前のこととして過ごしてしまうのです。そして病気になったり、自然災害が起こったり、何か不自由なことがあって初めて、どれだけ恵まれた世界で生きていたのか気がつくのです。
私たちは、存在しているだけで宇宙の創造主から愛されています。それなのに、それに気がつかず、どれだけ感謝の気持ちを忘れて生きているのでしょう。
当たり前ではないから、有難い。いちばん大切なのは、「ありがとう」と思うポジティブな気持ちです。」(p.48)
要は見方次第であり、気づくかどうかなのです。
「魂は永遠に生き続けるのだということを信じられると、イヤな相手と感じられる人も意味がある、という真理を素直に受け止めることができます。今の生涯では身に覚えがないけれど、過去世での愛と調和からはずれた自分の言動を帳消しにするため、縁ある人が逆の立場を演じてくれている。これは厳然たる”宇宙のルール”であると信じられると、何事も「よし、受けて立とう」と肝が据わります。
過去世で乗り越えられなかった問題をクリアにするために、もう一度その問題と向き合って、今回の生涯で消せるよう、必要があるから被害者の立場となった、とわからせていただきました。」(p.57)
いわゆる「カルマ」に関してですが、私も同じように考えます。
「相手を責めて、相手のせいにしているうちは、まだ魂のエネルギー、波動が浄化されていない、低い状態といえましょう。
その波動は相手にも伝わり、事態は解決できません。相手を変えようとするのではなく、自分の受け止め方を変える。自分の心が穏やかで平安な状態を保てれば、その気持ちが相手に伝わり、好転していくはずです。」(p.58)
相手を変えようとしても意味がありません。自分を変えることを考えるべきですね。
「長野県の諏訪地方では、食事を終えたら「ごちそうさまでした」ではなく「いただきました」というそうです。」(p.68)
へぇ〜、そうなのですか。知りませんでした。今、そこで暮らしていますが、ぜひ近くの人に聞いてみたいと思います。
「最近のテレビの国会中継を見ていると、意を尽くして意見を述べるのは必要だと思いますが、感情、想念がまじって議論なのか喧嘩なのかわからないような低俗なやりとりに、これが私たちの選んだ議員さんなのかと、選んだ我々有権者のレベルを疑いたくなることがあります。」(p.75-76)
たしかに。私も観ていて残念で、何だかなぁという思いになります。それに、そういうレベルの低い波動を受けているのが嫌で、だんだんと観なくなりました。
「集中が5分ともたない自分に愛想をつかして、その代わりに、日常生活の中でこまめに感謝の思いで心を満たすことにしたのです。
ですから、「ありがとう」や「世界人類の平和を祈る訓練」は、瞑想代わりに絶えず高い波長をキープするための、私なりの苦肉の策でもあるのです。」(p.80)
私も瞑想は苦手なのですが、その代わりにレイキを行ったりしています。人それぞれに、自分に合った方法を工夫することですね。
「私たちは皆、神様の分身として、「地球を平和な愛の星にする」という使命のもと、肉体という波動をまとって地上に誕生させていただいているのだという認識に欠けています。
暮らしを便利にする発明は、人類への大いなる貢献でしたが、利用する私たちが、感謝をおろそかにして、動物的な本能のままにそれらを操ってしまうようでは、大事な地球を破滅の方向に導いてしまいかねません。」(p.96)
「今、年寄りの肉体維持のために税金を使いすぎではないかと思います。永遠の生命という考え方に立てば、そうしたことは不自然だということが自明の理なのです。
むやみに医療技術で死をおしとどめるより、「死は次のステップへの誕生」だという認識を若い頃から促すほうが、年輩者への本当の愛だと思います。」(p.97)
文明の利器は暮らしを便利にしてくれますが、それらによって傲慢になり、自然の理に反することを考えるようになっている。私も、そう感じる点がありますね。
それに、老人の不安や恐れに迎合した過剰な医療も、私は不要のものだと思います。そういうポピュリズムによって、かえってお年寄りを虐待しているとさえ感じています。
「つまり、怒りの思いでイライラしていると血液の流れが滞り、「嬉しい」「楽しい」快い気分のときは血液もサラサラ流れ、疲れのモトをつくりません。」(p.113-114)
身体の健康も心の持ちようから。そうわかれば、イライラを感じたら、思考を変えるというふうに自分を変えていけるでしょう。
「食事についても、いたってシンプル。一日3度の食事配分は、朝3、昼2、夜1の比率で、比較的少食に、腹八分を心がけています。
そして、夜8時以降は何も口にしないようにしています。」(p.116)
健康のためには日々の食事に気を使うことも大切ですね。鮫島さんの食事法が、すべての人にとって「正しい」とは思いません。それぞれに、自分に合う方法を工夫してみればよいかと。
「「世界が平和でなければみんなの幸せはなく、みんなが幸せにならなければ自分も幸せになれない」と祖父が考えていたことは、言動からもわかります。
そういったことを、直接、祖父と話したわけではありませんが、私も自然と同じような想いを持って生きてきたつもりです。」(p.132)
渋沢氏の生き方は、「公に尽くす」ということだったのだろうなぁと私も思います。
「孫の私たちがお転婆なことをすると、祖母は「おじい様がご心配なさるからおやめなさい」とたしなめるのですが、祖父が私たちを叱るということはありませんでした。
今から思い返すと、失敗もまた学びの経験ということだったと思います。体験することを「よし」として、叱られたり注意をされた覚えがありません。ですから私たちは、祖父を大変尊敬しておりました。」(p.144)
叱って思い通りにさせるのではなく、体験の中に気付かせようとした。人が成長するというのは、自分が体験することによってのみですからね。
「物もお金も名誉も、あの世にはもっていけないのです。
もっていけるのは「想いの習慣」だけ。
ですから、あるがままにその状態を受け止められたのは、よかったと思っています。」(p.158-159)
嫌な経験、辛い経験も、すべては自分が気づきを得るため。そして、そういう状況において、自分らしさを発揮するため。表現するため。それがわかれば、どんな経験もありがたく感じられますね。
「死というものは、それぞれ自分にとって経験しなくてはならないことを学んだのち、この世を卒業して次の段階へ移っていくもの。そう認識した上で、日々置かれた環境の中で愛の練習を重ね、少しでも心をグレードアップさせてこの世への執着もなく天寿を全うする。それが、いちばん望ましい「自然死」といえましょう。」(p.179)
死は卒業だということは、私もそう思っています。だからこそ、むやみに死を恐れるのではなく、むしろその時をワクワクと喜びながら迎えたい。そう思うのです。
鮫島さんの考え方には、共感する部分が多々ありました。私も、こんなふうに歳をとっていきたいなぁと感じます。
今、働いている老人介護施設の利用者様には、いろいろな方がおられます。日々、不平不満を口にされる人。自分を押し殺したように何も言わない人。しかし、鮫島さんのように明るく感謝して生きておられる方は、少ないように思います。「ありがとう」という言葉をよく言われても、すぐに不平不満や文句が出てくる。まあそれも、修行の一段階なのでしょうね。
他人のことはさておき、私自身、私の人生での修行をさらに深めていこう。改めて、そういうことを考えました。

【本の紹介の最新記事】