2022年10月10日

ベーシックインカムは究極の社会保障か



これもTwitterで紹介されていて興味を持った本だと思います。
しかし、実際に手にしてみると、思っていたような内容ではありませんでした。とは言え、それはそれでまた別の見方もできます。そういう意味では、読んでみる価値はあったかと。

この本は、2010年9月に出版された「POSSE vol.8」(NPO法人POSSE)の特集「マジでベーシックインカム!?」に掲載された論文の再構成という体裁になっています。9人の論者が、それぞれの立場で意見を述べています。
そういう意味では、自分と違う考え方の人が、どういう論拠を持っているのかを知るという意味で役立つかと思います。

執筆している論者の名前は、萱野稔人(かやの・としひと)氏、坂倉昇平(さかくら・しょうへい)氏、小沢修司(おざわ・しゅうじ)氏、東浩紀(あずま・ひろき)氏、飯田泰之(いいだ・やすゆき)氏、竹信三恵子(たけのぶ・みえこ)氏、後藤道夫(ごとう・みちお)氏、佐々木隆治(ささき・りゅうじ)氏、斉藤幸平(さいとう・こうへい)氏です。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

すべての人に均しく一律に、仕事をしてなくても生きていけるだけの最低限のお金を−−現金で−−給付すること。ここにベーシックインカムの基本的な特徴がある。
 ベーシックインカムがあれば、たとえ仕事がなくなっても−−あるいはあえて仕事をしなくても−−何とか生きていくことができる。長時間労働や過酷なストレスのもと「うつ」になるまで働いたり、危険と隣り合わせの職場で働いたりする必要もなくなるだろう。ベーシックインカムがあればつらい仕事は誰もやらなくなるだろうから、社会全体の労働条件も向上するにちがいない。さらに、生活保護や年金といった社会保障の各制度をベーシックインカムに一本化して、福祉行政を効率化することだってできるかもしれない。
」(p.4-5)

ベーシックインカムは、こういうメリットが考えられます。しかし、なぜお金持ちにまで与えるのか、という疑問を持つ人もいますね。

「たとえば、働かなくてもぎりぎり生きていけるだけの所得が保障されるのなら、最低賃金のルールは必要なくなる。働くことで生活を支える必要がなくなるからだ。
 もちろん最低賃金制度の撤廃に対しては反対も賛成もありうるだろう。とはいえここで重要なのは、ベーシックインカムは働くということそのものの概念をも変えるような潜在力をもっている、ということだ。なぜならそれによって、生きるために働くということをしなくてもよくなるからである。ベーシックインカムによって労働が生活と切り離される。同じように、一律・無条件給付を求めるベーシックインカムは行政のあり方や政府の役割についても根本的な変更を迫るだろう。
 ベーシックインカムは新しい社会への構想力をかきたてる。この点で、ベーシックインカムはすぐれて生産的な概念装置なのである。
」(p.6-7)

たしかに、そういう一面があるかと思います。生きるために労働は必要なのか? 必要なら、働かざる者食うべからず、ということになるのか? この命題は、つねにつきまとっています。

両者の違いは、給付付き税額控除では、低所得層は所得が増えるほど多くの給付金を受け取ることができる、という点にあらわれている。がんばって働くほど低所得者は多くの給付金を手にすることができるのだ。これに対してベーシックインカムでは、働いても働かなくても給付される金額は変わらない。
 要するに、働くことを制度の根幹に据えるかどうかで、ベーシックインカムと給付付き税額控除はまったく異なっているのだ。両者では制度設計の「理念」が大きく異なる、といってもいい。働くことを社会の基盤として重視するのかしないのか、という違いである。
」(p.11-12)

私は、生命はそれだけで生存する価値があると思っています。労働するかしないかに関わらず。そうであればこそ、ベーシックインカムを実現すべきだという立場です。


まずは坂倉昇平氏の論説からです。

また、BIによって最低額の所得を保障することで、すべての人に平等な機会が与えられ、そのことで人間は本当に「自由」になるのだという考え方もあります。
 さらに、BIによって働かなくても生きていけるようになれば、人々が貧困や失業への恐怖から労働に駆り立てられることもなくなり、労働者は劣悪な労働を拒否できるため、劣悪な労働条件の雇用は人気がなくなり、経営者は労働者の雇用を確保するために労働条件を改善していくのではないかという期待もされています。
」(p.21)

私も、この点にベーシックインカムのメリットを見出しています。


続いて小沢修司氏の論説からです。

今日の資本主義社会における生活原理は、生活するのに必要な所得を労働することによって、つまり稼ぐことによって得ることで生活していくというものです。だから、社会保障制度も、生活に必要な所得を働くことによって得て、その所得をもって生活するという生活原理をベースにして設計されています。ところが、そうした生活原理がいま、いたるところで機能しなくなり、社会保障制度の機能不全がいたるところで生じているわけです。となると、そもそも資本主義社会における生活原理そのものを根本から問い直す必要性が高まってくる。これが労働と所得を切り離すという本質的特徴をもつBIが登場した一番の背景です。」(p.39)

肝心なのは、現金給付部分はこれだけ、現物給付つまり社会サービスで対応しなければならない部分はこれだけ、というふうに現金給付と現物給付のバランスを見据えた政策をあくまでも取っていくことです。BIの金額水準の設定もそういう両方の区別をした上で議論がなされるべきでしょう。」(p.43)

私も小沢氏の考えには賛同します。ベーシックインカムで給付しているのだから、あとは自己責任でと言うのは無茶です。一人ひとり、生存の条件が異なるからです。一人で生活ができる人と、誰かの助けがなければ生活できない人と、まったく同じではないでしょう。子どもと大人でも違います。
そういう個々の違う部分に関しては、別の対応が必要だと思います。ベーシックインカムは、あくまでもすべての人に共通する最低限のセーフティーネットを保障するだけです。個々の条件には、また別途、対応が必要なのは当然だと思います。


次は東浩紀氏の論説からです。

僕はベーシックインカム(以下、BI)を支持しているわけですが、それはBIが労働と生存、いいかえれば承認と生存を切り離せるからです。労働と承認は非常に密接な関係にあります。よく、承認されないと人間は死んでしまう、それが本当の「生きづらさ」なんだって議論がありますよね。でも、そこまで国家でケアしようとするのは、嫌な言い方をすれば大変コストが高いわけですし、原理的にも無理です。
 国家が一人ひとりの生き方に承認を与えるとします。でも、それは日本という国に忠誠を誓えという運動に限りなく近くなります。いわゆる「公」に忠誠を誓い、承認を与えられる臣民たちの集まりですね。だから僕は、国家は生存のみを保障し、承認は保障すべきではないと考えます。
」(p.57)

BIは究極の自己責任制で、君たちの生存を保障する、あとは君たちで自由な生活を送りなさいという原理だといえます。その「生存」とはいったい何か。もちろん難病や障害を抱えた人や、多様な生のあり方があるときに、単に一律に現金を給付すればそれでいいというわけにはいきません。それは自明です。むしろ重要なのは、BIによって、承認ではなく、生存だけを国家が保障するということです。承認を国家から切り離すことが大事だと考えます。」(p.58)

私も東氏の意見に賛同です。国家は無条件に国民の生存を保障すべきだと考えます。

それぞれの人間に応じて、それぞれの人間の生存を保障するためには、大量の個人の生活情報が公開され、しかもそれをみんながチェックできる必要があります。BIも税金からでているわけだから、その税金を何に使っているのか、説明責任が発生します。
 プライバシーはちゃんと確保するという前提のうえで、BIの使い道について、正規の請求があったら情報公開をして、ある程度匿名化の加工をしたうえで、政策立案に使うことも考えられるでしょう。
」(p.58-59)

財源のために、ビッグデータの収集に協力しろという点は、私も依存はありません。しかしこの後で、やや踏み込んだことを言われています。つまり、ベーシックインカムで給付されるお金は暗号通貨にして、使い道を制限させるようなことです。これでは現行の生活保護で、パチンコなどギャンブルをするのはとんでもない、という考えと同じではありませんか。
この点においては、私は東氏の考えには賛同できません。

それを、ひとりの個人がどんな人生を歩もうが、最低限の生存を保障し、最低限のセーフティネットを与えるところまで一回ならすと。ならしてしまったら、この生き方が正しいんだという承認は、もう誰も与えてくれません。労働についても同じです。正社員と非正規雇用との間の格差は、みんなを正社員にするという方向ではなく、同一労働同一賃金を徹底化して、同時に雇用を流動化するということが、最も正しい解決だと思います。」(p.65)

雇用の流動化については同意見です。私は、正規雇用そのものを廃止すればいいと考えています。解雇も自由にできるようにすればいい。そうすれば流動化が進むし、流動化すれば、労働者がより適切なポジションを得やすくなるのです。

大事なのは、国家が生存を保障しながらも、個人個人が過剰に国家に依存する精神をなくすということです。さっきの特殊法人のことにしても、けしからんとよく日本人はいいますけど、そういう日本人一人ひとりが子ども手当を喜んで受け取っているのであって、基本的に上から何かふってくるのにぶら下がって生きていこう、という精神なんですよ。その精神を根本から叩き直さないと、この国は沈没しますよね。」(p.70)

ベーシックインカムだけで、十分な生活が保障されるわけではありません。あくまでも必要最低限です。それ以上を求めるなら、自分が何かを社会に提供する必要があるわけです。
私は、そういう考え方を支持します。最低限の生活ができるのですから、自分が何も提供したいと思わないのであれば、その自由も認めるべきだと思います。
そして東氏の言うように、何も提供しないくせにもっともらいたいという甘えた精神こそ、問題だと思います。


次は飯田泰之氏の論説からです。

絶対的貧困ももちろんあるわけですが、それ以上に労働環境が大幅に悪化することによる精神的なきつさ、いわゆる「生きづらさ」問題が大きい。この「生きづらさ」はどこから来るのか。第一の理由は、会社を辞められないからです。辞めてしまうと生きていけない。辞めやすい社会をつくるためには、会社から放り出されても死なない生活保障が大事です。待遇が異常に悪い会社に人が居つかなくなるような仕組みが必要です。そうすればブラック企業には人が居つかないので、経営そのものができなくなる。」(p.81)

現在のところ、生活保護法は非常に無茶な法律になっています。稼げないことが証明されれば無差別に配られる。その意味では超おいしい。ただし本当に無差別に配ってしまうと財源が間違いなく足りません。そうすると、支給するかどうか、役所側の裁量権が大きい制度にならざるをえません。
 「生活保護=もらってるやつは悪い人」というイメージは、この役所の裁量が原因です。政治的な圧力に強く依存したかたちで受給が決まってしまう。生活保護は事実上ルールではなく、裁量に基づいたシステムの運用を前提にしているのです。その結果、本当に必要な人が生活保護を受けられないという状態を生んでいます。
」(p.81)

まさに。私も飯田氏の意見に同意します。

労働者最大の味方は人手不足であることを思い出さなければいけません。日本で法制度から退職金の税制優遇、福利厚生費の拡大など労働者の権利が認められてきたのは、高度成長期にずっと人が足りなかったからです。企業側は辞められるのが怖いから、どんどん譲ってくれた。いまそういった人不足の状態をつくるには、日本で人を雇うことが有利になる必要があります。」(p.86-87)

しかし、これでは退職金を人質に取られて働いているようなものです。途中で辞めてしまうと退職金は大幅に減額されるので、人材流動化を妨げています。この退職金の優遇税制をやめると日本的退職金システム自体がなくなるでしょうね。」(p.90)

辞めても困らないという環境、雇って失敗しても取り返しがつく状況、双方にとって状況を整えてやることが人材流動化の一番のポイントです。人材の流動化は、一番実力を発揮できるところにその人を動かすことですから、実はこれは一番経済成長にとって大きなエンジンになりうるわけです。」(p.91)

まったくその通りだと思います。不安(恐れ)から、人材流動化(労働市場の柔軟化)を妨げていることが、労働者側にも企業側にも不利益をもたらしていると私も思っています。


次は竹信三恵子氏の論説からです。

だが、日本で起きかけている問題は、働ける仕組みを整えれば働けるはずの人たちまでもが、「働けない現実」を認めてしまい、働ける仕組みづくりから下りようとする動きが、ベーシックインカム論で後押しされているということだ。
 「家族を養うために働けるはず」とされ、無理を強いられてきた男性にとっては、働けない現実を認めることは、重要なことかもしれない。しかし、子育てや介護を理由に、「外で働けない存在」とされて家庭での労働に押し込められ、家庭の仕事をこなすために会社をすぐやめるのだから、腰掛け扱いでいいとされ「半人前」の賃金でこき使われることの多かった女性にとっては、「働けないはず」を認めてもらうことより、働ける仕組みを充実させることの方が先決ではないのか。
」(p.111)

いったいいつの時代のことを前提にして言っているのかと思ってしまいます。女性はお茶汲みで、寿退社するものという価値観は、とうの昔になくなっていますよ。もちろん、まだそういう価値観が残っている企業もありますが、だからと言って、それを廃止するためにベーシックインカムに反対するのであれば、非常にうがった見方だと感じますね。


次は萱野稔人氏の論説からです。

そのためには、働いていようが働いていなかろうが生活が保障されるだけの現金を給付するような制度に社会保障を移行させることで、労働と社会保障を切りはなすべきだ、と。これがBIの新しさであり意義とされるものです。
 しかし、ここにこそまさしくBIの問題点がある。というのもそれは「働きたいのに仕事がなくて働けない」人たちの問題を解決することができないからです。成熟社会ではどうしても労働力が余ってしまう。つまり、働きたくても仕事がなくて働けない、という人が必然的に大量に生み出されてしまう。そういった、労働市場から排除されてしまう人たちに対して、BIは現金を給付しさえすればいいと考える。しかし、「働きたいのに(仕事がなくて)働けない」人たちが欲しいのはお金ではなく仕事です。
」(p.134)

事実、多くの失業者たちが直面しているのは、もちろんお金がないという問題もありますが、同時に「自分は社会的に無力で不必要な存在かもしれない」というプレッシャーです。」(p.135)

そもそも現金を給付された人が何をしようがBIには関係のないことなのですから、それによって賃労働以外の豊かな社会関係が構築できる(かもしれない)ということを、BIの価値のなかに含めることはできないのです。
 こうした限界は、BIがパターナリズム批判をかかげる以上、避けられないものです。パターナリズム批判をするということは、人びとの生き方についてとやかくいわないということですよね。だからどれほど堕落した生活を送っていても、あるいはどれほど孤立を深めようとも、それはすべて個人の自己責任ということになる。この点でいうと、同じパターナリズム批判であっても新自由主義のほうがまだ論理的には一貫しています。
」(p.140)

要するに、BIをするぐらいの財源があるのなら、政府は公共事業をしたり、職業訓練の場を設けたり、景気対策をしたり、現物支給による社会保障の範疇を広げたりして、雇用や社会参加の場を創出すべきなのです。」(p.144)

これは要は、承認を社会(国家)に求めるべきかどうか、という東氏の意見に関連してきます。萱野氏は、それを国家が担うべきだという意見のようです。
しかし、そういうことまで国家がやるべきだとすれば、個人の自由は失われるでしょう。当たり前のことです。国家が個人に対して、「これが素晴らしいんだ!」という価値観を押し付けることになってしまうと思いますよ。

もちろん、その試みは、これまでもやってきたように上手くはいきません。なぜなら、人はそれぞれ自由であり、価値観は人それぞれだからです。
したがって、そういう全体主義的な国家が絶対的な価値観で統制しようとしても、上手くいかないのです。だからこそ、最低限の生存を保障して、あとは自由にやってというベーシックインカムが意義があるんじゃありませんかね。


次は後藤道夫氏の論説からです。

ところで、すべての人間に保障されるべき個別的支援は、一定の現金を保障して後は市場で提供される情報やサービスを買え、という形で実現できるものではない。個別的支援の要点は、クライアントの実情にていねいによりそいながら、複雑に分節化した各社会領域ごとの必要情報を収集し、それらをつきあわせ、相互に関連づけて、総合的な解決方向を示すことである。クライアントの選択の自由は、そうした総合的な解決案の作成過程に即して、つまり、支援チームとの十分な話し合いに即して保障されるべきだろう。」(p.173-174)

高福祉の大きな政府を良しとされる考え方からは、必然的にこういうことになるでしょうね。しかし、誰がこんな複雑怪奇なことを広範囲に漏らさず、しかも平等に一律的にできますか? 今の生活保護制度ですら、それができていないではありませんか。それなのに、さらにサービスの人員を増やし、練度を上げて対応すべしということなのでしょうか? いったい、どれだけの予算があれば、それができるのでしょう。そしてその財源は?

理想はわかるのですが、現実的な実現手段を示されない。
たとえば、ちょっと生活が苦しいなと感じる人は大勢いますが、その感じ方は実態がそのまま反映されるわけではありません。その人の主観による部分が大きいのです。それを懇切丁寧にヒアリングして、あなたはもっと節約をしなさいとか、あなたはこの無料サービスを利用しなさいとか、適切公正で平等な切り分けがなされると想像できるでしょうか? 私には、もう最初から「無理だ」と感じてしまいます。
だから、多くの部分はベーシックインカムで対処すべきで、残りのそれだけでは救えない人に対処するために資源を集中すべきだと考える方が合理的だと思います。


最後は佐々木隆治氏の論説からです。

生存を保障するにあたってもっとも重要なことは、人間が生きるのに最低限必要な基礎的な社会サービス(医療、住居、教育など)を市場の論理から切り離していくことである。すなわち、それらを普遍主義の原則にしたがって無償で保障することが必要となる。」(p.187)

このような貨幣の力は人間の共同性を解体していくだろう。そもそも貨幣は共同性の喪失ゆえにその力が全面化されたのであり、私的個人が行使する貨幣の力が強まれば強まるほど共同性は喪失させられていく。むろん、マルクスが強調するように、貨幣の力だけが共同体を解体へと導いたのではない。そこには組織された暴力の介在が不可欠であった。しかしながら、他方、近代国家のような自立的権力の創出においては、たとえば税の貨幣化などをつうじて、自立的な価値としての貨幣が大きな力を発揮したのである。」(p.191-192)

マルクス原理主義者なのでしょうか。貨幣経済そのものが人間らしい共同体を破壊しているから、それに乗っかってるベーシックインカムでは何も解決できないという主張のようですね。
本質的な解決は、貨幣を度外視した人間的な共同性関係を強化することによってのみ達成される。そうおっしゃりたいようです。

これもまた非現実的としか言いようがありません。いったい誰がそんな社会をコントロールできるのでしょうか? 共産党の一党独裁ならできますか? ソ連はそれを実現しましたか? 中国はどうですか? 資本主義の敵国であるアメリカが存在するために、対抗に必要な軍備に予算をかけるために、それが実現できていないのでしょうか?

盲信的なマルキストは宗教にハマっているのと同じで、現実が見えてこないのでしょう。したがって、現実的な解決策を考えるということができないのだと思われます。


この本は、ベーシックインカムを礼賛するものでも否定するものでもありません。様々な考え方を紹介することで、これまで気付かなかった視点を与えてくれたり、合意を取ることそのものについて考えさせてくれるものだと思います。
私はこれまで、論理的に話し合いをするなら、現実的な解決策としてベーシックインカムの素晴らしさは誰にでも理解できると考えてきました。しかし、そもそも客観的論理的な見方ができない人、やろうとしない人もいます。やたらと論理をこねくり回して、いかにも論理的であるかのように見せるだけの人も。そうであれば、そもそもそういう人たちを説得することが不可能なのだと思います。

このことから、そもそも反対している人は放っておいて、決めかねている人に向けて情報を発信していくだけでいいのではないかと思っています。
そういうことを改めて、この本は感じさせてくれました。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 08:30 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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