2022年08月31日

ただしさに殺されないために



Twitterで紹介されていて、面白そうだと感じたので買ってみました。
「正しい」を根拠に他人を叩く人が多いのが今の世の中です。私は「正しさ」は人それぞれだと考えていますが、この本はどういう観点でこの問題に斬り込んでいるのか。そこが興味のある点でした。

著者は御田寺圭(みたでら・けい)さん。おそらく本名は違うと思います。ネットの世界では、白饅頭という名前も使用しているとか。Wikipediaによれば、会社員の傍ら執筆活動などをしている方のようです。

読み始めて思ったのは、文章が魅力的だということ。おしゃれな文を書かれる方のようです。
私のように、単刀直入に無骨な論理をぶつけるタイプとは、まったく違いますね。でも、こういう文章を書ける能力が素晴らしいと思いました。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

最初の本書の構成を説明しておくと、5つの章があって、各章には6つの話題があります。つまり合計で30の話題を提供しています。
それぞれつながりがないものもありますが、全体として1つのテーマを追っている。そのことが、読んでいる間にも何となくわかりますが、最後まで読むと、それがはっきりとわかるようになっています。


●まずは序章で、「私はごく普通の白人男性で、現在28歳だ」から引用します。2019年3月にニュージーランドのモスクで起きた100人近くが死傷する銃撃事件を取り上げた話題です。
少し長くなりますが、この話題は本全体を貫いているテーマでもあるので引用しました。

彼が生まれてからいままで慣れ親しんできた西洋文明は、イスラム文明とあまりにも文化的な差異がありすぎた。西洋文明は信仰の自由を擁護するがゆえに、イスラム教を信仰する移民に対して「文化的同化」を一定の強制力をもって呼びかけることが事実上不可能になっていること、そしてなによりムスリムの人びとが概して多産であることによって、意図的かどうかは別として、少子化傾向にある白人社会の秩序体型や文化・文明を相対的に破壊する侵略者となってしまうことが、彼の問題意識として列挙されていた。白人や西洋文明をこれらの問題から積極的に防衛せねばならないという信念こそが、今回の襲撃に至った動機であると述べられていた。」(p.20)

統計的にはこのままのbirth-rate(出生率)をたどっていけば、数世代後には、白人の国の多くで白人はむしろ少数派になり、中東にルーツを持つムスリム系の人びとがマジョリティとなることは必至なのである。西洋社会でいま宗教と民族の人口バランスが崩れようとしているが、この問題を議論しようとする者には「差別主義者」のレッテルが貼られてしまう。それを恐れるあまり、だれも口を開こうとしながった。」(p.21)

今回の銃撃犯のような人間が、この世界に「分断」の種をばら撒いたのだろうか?

 いや、そもそも世界は、お互いが見えないくらいの距離にはじめから引き離されていたのではないだろうか。

 かつてのように別々の国で分断されて暮らしていればそれで大きな軋轢は生じえなかった人びと−−換言すれば人種だけでなく宗教も文化も価値観も規範も秩序も異なるがゆえにけっして交われず相容れない人びと−−の分断を解消し、無理やりに隣人としてしまったことで、「憎悪と殺意」が喚起されてしまったのではないだろうか。
」(p.22)

この事件のような最悪の結末を、西洋各国のリーダーや有識者たちは「多様性への無理解が引き起こした事件」であると口々に指摘するが、はたして本当にそうだろうか。「多様性がもたらす軋(きし)みへの無理解が引き起こした事件」と称するのがより適切であるだろう。今日における西洋文明を共有する白人社会の、ありとあらゆる場所で生じている「小さな軋み」の堆積が、最悪の形で噴出した事例のひとつにすぎないのではないだろうか。」(p.27)

価値観や倫理観の違う人びとが、自分たちの規範においてとても大切に心を寄せている人やものを踏みつけにしているのを見たとき、私たちはどのような思いを抱くだろうか。機関銃(アサルトライフル)を手にして暴力的な解決策に訴え出ようとすることはきわめて稀かもしれないが、しかし少なくとも「郷に入っては郷に従え」をスローガンにする政党、あるいは「さもなくばこの国から出ていけ」と訴える候補者をひそかに支持したくなったとしても不思議ではない。」(p.31)

西洋諸国で起こっている移民問題と政治の右傾化をとらえて、御田寺さんはこのように分析しています。
銃撃犯が行ったことは犯罪として処罰されるべきですが、それが起こった原因に対処しなければ、同じことが繰り返されるだけでしょう。
個人の特異性に原因を限定してしまうと、本質的な解決にはならないのです。


●第1章は「ただしい世界」です。第1話は「文明の衝突」で、2020年10月にフランスで起こった事件が話題です。
ある歴史教師がイスラム教の開祖、預言者ムハンマドの風刺画を授業で見せたことがSNSで拡散され、それを見た無関係のイスラム原理主義者によって殺されたというもの。

自分の個人的な人生の幸福を大切にでき、多様なライフスタイルのあり方が許容され肯定されるがゆえに進む少子化によってゆるやかな自死を選ぶ西欧文明を尻目に、ムスリム系の人びとは、次世代を安定的に維持するための人口再生産性を、西欧文明が築いた安全で快適な街の中でせっせと確保してゆけばよい。ただそれだけで、「文明の衝突」における最終的な勝利が約束されている。」(p.39)

西欧人たちは、かれらに恭順や同化を強くは求めず、自らの理想を示すことに酔い、寛大に住む場所を与えてきた。結果として、西欧人だけが人権思想の存在ゆえに、人権思想を支持しない人びとまでも扶養しなければならないという、高貴で片務的な倫理的責務を課せられた。

 この片務性に対する現地の西欧人たちの負担感と、高貴な責務を果たしたところで相手は自分たちの価値体系に恭順しないという徒労感が、西欧人たちの怒りや不満を蓄積させている。
」(p.41)

これも西洋文明で起こっている移民問題に関連する話題ですね。前提となる文化が違う人たちが隣人となった時、どういう対応が取れるのでしょうか?
日本は、移民を増やさない方針ですが、逆にそれが批判されたりもしています。しかし、移民を増やすとなった場合は、こういう問題が増えてくることも考えておかなければならないと思います。


次は第2話「アルティメット・フェアネス」で、コロナ感染の話題です。

周知の事実となっているが、新型コロナウイルス感染症は高齢者ほど重症化・死亡リスクが高い。若者だからといってリスクが一切ないわけではないが、しかし高齢者層のそれと比較すれば軽微であることは事実である。若者にとってみれば、不安定な雇用、回復の兆しの見えない景気低迷、悪化の一途をたどる気候変動、脆弱化に歯止めがかからない社会保障の先細りなどの方が、未知のウイルスによるパンデミックよりもはるかに人生に暗い影を落としている。
 パンデミックが浮き彫りにした「若者VS.高齢者」という対立構造は、さらにそのスケールを拡大させて「資本主義ルールの敗者VS.資本主義ルールの勝者」という構造にまで波及していく可能性を内包していた。
」(p.48)

ワクチンの完成をだれよりも望んでいたのは、比較的年長の者がその席のほとんどを占める「富める者たち」であった。かれらは、富を持ったまま死ぬことができないゆえに、いま死ぬことに大きな未練を抱えている。自分の命は、その辺の人びとよりずっと重要なのだと確信している。」(p.49)

オーストリア出身の歴史学者であるウォルター・シャイデルは、著書『暴力と不平等の人類史』の中で、疫病の流行によって富裕層や特権階級は(自らの優位性を担保してくれている既存社会を安定的に維持・更新するため)再分配に協力的になると述べた。今回の事態は、この法則が現代においても有効である可能性を示唆しているように見えた。」(p.51)

パンデミックによって露見してしまったのは、「すべての人命を守る戦い」の建前のもとで、これまでひた隠しにされてきた「格差」が、とうとう既存の社会を破壊しようと牙を剥き、それをエスタブリッシュメントが必死に抑え込もうとしている構図だった。」(p.52)

このコロナ禍で、世界の富裕層が富を増やしたことが知られています。極端な富の格差があることは知られていますが、格差が広がれば、全体としての不安定要因となります。


次は第3話「人権のミサイル」で、2021年11月にベラルーシが、自国の難民を他国へ送り込むという戦略を打ち出したという話題です。

ようするに人間(難民)そのものを、西欧各国が共有する道徳律である「人権」によってコーティングして他国に向けて打ち込む、いうなれば人間ミサイル兵器として活用する方法を考案し、実際にやってみせたのである。」(p.55)

アメリカのトランプ前大統領が当時の安倍首相に、メキシコ人2500万人を日本に送れば政権を転覆させられると言ったとか。これはジョークでしたが、実際にやれば大変な驚異となるでしょう。

2010年代までの世界を顧みれば、主に欧米(西欧)先進国は世界に覇権を拡大するための口実として「人権」を振りかざしてきた。国民に対して基本的人権を尊重しない国や指導者を、人道にもとる「悪」として、かれらに経済的な制裁を科すばかりか、ときにミサイルを打ち込むことをさえ正当化してきた。」(p.57)

これまでの時代においては、絶対的な正義や自明の真実とされてきた事柄が、猛烈な勢いで相対化され、その玉座から引きずり降ろされていく。
「人類にとって普遍的な基本的道徳律」としての栄冠に長らく輝き、欧米各国の覇道を支えてきた人権思想は、非人権国家の独裁者たちによって地上をゆっくりと歩いて国境を渡るミサイルとして転用され、国のリソースを削り社会不安を増大させる兵器となった。共産主義や社会主義を打倒し、世界を統治し支配してきた人権思想にはいま−−あまりに皮肉なことだが−−さらなる高潔さを目指して先鋭化してきた人権思想自身によって大きな綻(ほころ)びと動揺が生じている。
」(p.59-60)

人権を重視することは絶対的に正しいと思われがちです。それだけに反論できず、西欧に屈服するしかなかった。けれども、その人権を逆手に取って西欧を屈服させられる方法があったのですね。
これも難民問題が抱えているものと言ってよいでしょう。人権を重視するなら、移民を拒否できない。そこに西欧の弱点があるのです。


次は第4話「両面性テストの時代」で、イスラエルのコロナ対策が秀逸だったことが話題です。

これらは端的に人権侵害である。だがこうした人権侵害的な側面を多分に含む「新型コロナ感染対策」は、少なくともパンデミックの初期における被害状況を踏まえれば効果的であったと認めなければならないだろう。逆に、パンデミックの中心地となり、人命にも社会経済にも深刻な打撃を受けたのは主として、イスラエルとは対象的に民主主義的で、自由主義的で、人権主義的な手続きや社会制度を尊重し、これをどうにか維持しようと努める西欧文明圏の国々であったことはけっして偶然ではない。」(p.63)

パンデミックの端緒とされていた中国が早々に「コロナ禍」の最悪の状況を抜け出したのもイスラエルと同様の理由だった。かれらはいざというときには人民の私的権利の制限になんの躊躇(ちゅうちょ)もない。というより、普段からしていることを、今回の災禍においても行った−−ただそれだけである。かれらは西欧各国よりもずっと人権侵害に慣れている。なぜなら人権への重みづけが西欧各国よりはるかに軽いからだ。だからこそ、中国やイスラエルは「危機管理」において、他の先進各国を凌駕した。」(p.64)

ロックダウンのような強制は、人権を無視しなければできない側面がありますからね。

ハンガリーの首相であるヴィクトル・オルパンは、少子化の解決に向けて社会的リソースを猛烈な勢いで注入している。」GDPの4.7%に相当する巨額の社会投資を行い、正真正銘「本気」の少子化対策を行っている。」(p.66)

OECD加盟国の平均はGDPの2.55%で、日本は約0.8%だとか。ハンガリーは人口減に歯止めがかかってきたそうですが、日本はさらに加速しているようです。

オルパンがこうした政治的意思決定を断行できるのは、彼が民主主義的な手続きを簡略化または省略し、国民の権利を制限することに対してためらうところがないからであり、また移民を追い出したいという、多様性や寛容性のかけらもない国家主義的な野望を持ち合わせているからだ。」(p.48)

極端な政策を断行できるのも、他人の意見を考慮する必要性を感じない専制主義だからとも言えますね。

これまで絶対的に善であり素晴らしいものだと信じてきた価値基準には、陰の表情があることを突き付けられた。一方で、論ずるまでもなく悪であると軽蔑されてやまなかった価値基準にも、前者よりすぐれていると評価するべき側面があることを知らされた。」(p.70)

絶対的な「善悪」「正邪」というものはなく、すべては相対的です。


次は第5話「共鳴するラディカリズム」で、反原発とか反差別のような過激な思想や運動には共鳴性があるという話題です。

こうした思想に傾倒している人のふるまいや言動を見つめていると、ある種の共通点が見えてくる。すなわち、共鳴するラディカリズムに深入りしていく人のほとんどは、「生きづらさ」「被害者意識」「抑圧経験」を強く抱えているという点だ。心身共に弱っている人ほど、自分がこれまで抱えてきたそれらの機序と責任の所在をわかりやすく説明してくれるような物語に対して脆弱となる。
 生きていく中で、社会からさまざまな「被害」を受けて弱っている人は、人間社会で顕在化するありとあらゆる事象が普遍的に備えている「複雑性」を細かく解きほぐして消化していくような、根気を要する作業に耐えうる認知的リソースがない。
」(p.72)

その人にとって主観的な経験として耐えがたい苦しみが存在していることは否定しえない事実であるだろう。一方でその主観的事実の存在によって世界のすべてが説明されるわけではない。ある女性にとっての苦しみがあることは、世界がその女性を苦しめるものとして存在していることを断じるものではない。」(p.73-74)

傷つき弱った人に刺さった棘−−そうなったのはあなた自身の努力不足、または性格や人格などの問題によって生じた結果だという声−−をやさしく抜きながら、「あなたを傷つけたのはあいつだ。一緒に戦おう」と寄り添ってくれる思想体系が、多くの人を魅了するのは当然だ。」(p.74)

被害者意識があるから加害者を責めたくなるのです。敵を作り出し、それを打倒すれば自分は救われる、幸せになれると思い込む。
しかし、そこに本当の幸せはないのですけどね。

今日、世界の各所で台頭するラディカルな思想運動は、その党派性にかかわらず、複数の「ただしさ」を提示することで社会的統合を目指す「多様性」の反動として生まれたものだ。」(p.79)

つまり、主観的な苦しみが癒やされない人にとって、「多様性」という考え方は役に立たないのです。むしろ、それによって移民が増えるなどして苦しみが増している。そう考えるから、「多様性」を否定し、自分の「正しさ」を絶対的なものと決めつけることで救われようとするのです。


次は第6話「リベラリズムの奇形的進化」で、自他の自由を尊重し、差別や不平等を許さないリベラリズムが、異様な姿に変貌を遂げようとしているという話題です。

今日「リベラル」を標榜する人びとは往々にして、原理原則的な自由の重要性を謳いながら、その実、自分にとって都合のよくない類の自由に対してはきわめて否定的もしくは抑圧的である。」(p.79-80)

自分が共感できる対象にだけ偏重して強く共感する人びとは、逆に自分の感受性に響かない対象には著しく攻撃的で排他的にふるまう。自分にとって共感できるかできないかが、そのまま社会的善悪の判断に直結する。共感できるものはただしく、共感できないものは間違っていると。」(p.82)

「共感性」の高い人びとは、現代のリベラルな社会的風潮の躍進の立役者であることは間違いない。しかしながら、持ち前の共感性の高さゆえに、リベラリズムの基本的な理念である「普遍性」「平等性」に耐えることができない。これはパラドックスを構成している。」(p.82)

前のラディカルな思想と関連しますが、自分の正義を押し付けながら、自分をリベラルだと信じているのですね。
シー・シェパードの活動も、まさにそうでした。自分たちが正しいと思えば、他人を傷つけ苦しめても、その正しさを遂行しようとする。


●次は第2章「差別と生きる私たち」です。第1話は「キャンセル・カルチャー」で、人種差別発言をした人をネット上で糾弾するなどして、その人を社会的に抹消しようとする風潮が話題です。

リベラル・メディアが旗振り役になり、ある人が過去に行ったルール違反を見つけ出しては記事を書き、「ここに悪人がいる」と焚きつける。するとSNSでそれらの記事は一気にシェアされ、怒りの声が集まる。ラディカルな意見が共鳴していく。サイバー空間で大きく盛り上がった抗議の声明を、さらにメディアが記事化してSNSに還元する。再び火の手は強まる。「キャンセル・カルチャー」の渦の中心にいる人物は窮地に立たされる。これまで築き上げてきた名誉や信頼、現在の仕事や人間関係、そして将来のキャリア、ひいては人生そのものを一瞬にして失うことになる。」(p.95)

ある表現や言論について、もし現代的な人権感覚に整合的でなかったとしても、それを規制したり禁止したりすることは、本来的にはリベラリズムの価値観や精神性とは相容れないものだ。人権感覚の遅れを感じさせる、当世においては不穏当または不適切なものであれ、それを言明すること自体は「表現の自由」によって保障されており、なんらかの介入を行うこと自体が基本的人権と整合的でないからだ。ましてや超法規的な手続きによって制約を科すなどありえない。

 これはある種のパラドックスを構成する。リベラリストでありながら、なんらかの表現の規制を望む者は「人権感覚のコードに違反している表現は制限されるべきだ」とはいわない。「人権感覚のコードに違反したものはそもそも表現や言論にはあたらないので、これを制限したり成約したりするのは、表現の自由と矛盾しない」というロジックを採用する。もっとも、そのようなレトリックの内部的な整合性を担保したからといって、外形的には人権概念を自分に都合よく恣意的に運用、あるいは制限していることには変わりないのだが。
」(p.96-97)

人権に反する言動をみんなで寄ってたかって罰するという風潮は、まったく衰えるところがありません。法の裁きを待たずに、自分が「悪い」と思い込んだという理由で、超法規的に処罰することが「正しい」と信じて疑わない人が多いからでしょう。
これは中世の魔女狩りと同じで、集団イジメです。本書では、東京オリンピック前に起こった出来事を例として取り上げていますが、今、行われている統一教会に対するバッシングもまた、同じものだと思います。


次は第2話「NIMBY」で、これは「Not In My BackYard(私の裏庭にはつくらないで)」の略語だそうですが、要はごみ焼却場など必要性は認めるものの、それを自分の近くに作られると困るという考え方が話題です。

育ちのわるい人間に来てほしくないとか、障害者が暮らすコミュニティは自分の街にできてほしくないといった考えは、まぎれもなく差別である。差別であるが、そうした言動をためらいなく表出させ、ときに正当化するのは「(社会に必要だからという建前によって)私たちの安全・安心な暮らしが蔑ろにされている」というある種の被害者意識である。私たちは、差別や排除に積極的に手を染めているわけではない。そうではなく、国や自治体が、私たちが安心して暮らす権利を守ってくれないから、やむをえず自力救済しているのだ−−という良心がそこには少なからず含まれている。」(p.106)

「多様性」「人権」「寛容性」「包摂」−−といった、現代社会における先進的な規範意識とのコンフリクトを慎重に回避しながら、自分の近くに現れたハイリスクな人間を拒絶するためのロジックが必要となる。それこそが「私は被害者」である。」(p.107)

港区に子ども家庭支援センターを作ろうとした時、ハイソな地域に貧しい子の支援センターは必要ないとか、それによってハイソでない人が出入りするようになって地価が下がるなどと言って、反対運動が起こりました。
それに限らず、障害者支援施設を作る時も、どこでも反対運動が起こります。原発も、ゴミ処理場も、火葬場も同じです。すべて、自分が被害者になるという恐れ(不安)から、排除することに正当性があると主張しているのです。


第3話は「排除アート」で、公共空間にアートを造ることで、浮浪者が居着くことを防ぐという、排除という顔を見せずに実は排除しているという話題です。

自分たちには悪意などなく、差別心もなければ不寛容でもないことを丁寧に保証してもらいながら、行政には適切に対応してもらいたいのだ。図々しく厚かましいわがままに応じるために考案されたのが「排除アート」である。あくまで善意によって街を美しく整えた結果、どういうわけだかわからないが、ついでにホームレスも一緒にいなくなった。一挙両得。めでたしめでたし−−という、もっともらしい物語を、そのゴツゴツとしたオブジェは提供してくれる。」(p.116)

ベンチに間仕切りのように設えられた肘掛けも、実はそこで寝転がることを防ぐためなのだそうです。たしかに、寝転がりたかった時、不便だなぁと感じました。
それにしても、この「自分は悪いことはしてないよ」という顔をしながら他人を排除するという考えが、なんだかとってもいやらしく感じます。


次は第4話「植松聖の置き土産」で、障害者施設で19人を殺害した死刑囚に関する話題です。

「生産性のない者は、生かしていても社会の役に立たない。この社会には『無駄飯』を食わせる余裕などないのだから、犠牲となる者の家族や親族には申し訳ないが、生かすのではなく、死なせるのが、世の中全体のためである」−−とする植松の主張は、インターネットでは俗に「植松理論」と呼ばれている。」(p.118-119)

植松は、障害者の世話をしながら、社会に役立たない人間の世話をするという無益なことをやっている自分もまた、社会に役立たない人間だと考えたそうです。だから、そういう役立たない人間を死なせることは、逆に社会に役立つことになる。つまり、殺害することで社会の役に立つ人間、存在意義のある人間になりたかったのです。

しかし、現代社会を生きるわれわれは、建前の上では「生産性が人権に優越するわけではなく、人権の多寡に影響するわけでもなく、人としての存在意義を問うものではない」としながらも、現実的あるいは実務的なレベルにおいては−−植松のような常軌を逸した手段に訴え出ることはありえないにしても−−「植松理論」がいまこの社会に一片たりとも存在せず、また今後も決して存在する余地などないと、力強く断言することはできない。なぜなら「植松理論」に激しく憤り、この理論を断固として否定した人びとであっても、いざ自分の目の前に無能な健常者が現れてしまえば、その言動は植松よりはるかに穏当なものであったとしても、同じ延長線上の論理を振りかざしてしまうからだ。」(p.122)

常日頃は他人を「役立つかどうか」の軸で明らかに「選別」しておきながら−−結果的にその選別によって社会的に追放され、あるいは生活が立ち行かなくなり、死に追いやられた人すらいるにもかかわらず−−いざ植松が障害者に対して刃を向け、社会が構築している「選別」をよりラディカルに、そしてグロテスクな方法によって代替的に実践したときにだけ、そのような思想は自分たちの社会にはまったく相容れないもので、事実として一片たりとも存在していないし、今後も許容される余地は微塵もないと「殊勝」な態度を示す人々の姿は、社会の実情に対してあまりに鈍感か、あるいは欺瞞的にさえ映る。」(p.123)

たとえば仕事をするとき、無能と断じた部下や同僚を怒鳴りつけたり、バカにしたりして、排除しようとしてないだろうか? 「死ね」とまでは言わなくても、「私の目の前からいなくなってくれたらいいのに」と思ってないだろうか? 少なくとも私は、そういう人を多々見かけます。

植松が刑の執行を待つ身となったいま、どうしてもこのことに触れなければならない。すなわち「植松が死刑に処されることによって、植松の主張は完結する」と。

「生きる価値のない人間は殺してしまえばよい」という植松の主張を否定しながら、しかしこの社会は植松に対して「お前は生きるに値しない人間である」と断じている。植松の思想や行為を強く否定しながら、同時に植松の思想や行為と同じ帰結によって彼を裁いている。どんな人間でも、たとえ生産的でなくても、生きる価値がある。生きてもよい。社会は植松の凶行に対してそう応じた。だが植松はその連帯の「例外」となった。生きる価値がなく、死ぬべき存在として。
」(p.125)

これはもう最大の皮肉ですね。植松を弾劾して死刑にすべきだと言った人が鏡に自分の姿を映せば、そこに植松の姿を見るのです。


●第5話6話は飛ばして、次は第3章「自由と道徳の神話」です。第3話の「健やかで不自由な世界」では、アメリカで人気のレシピサイトが、牛肉を「世界最悪の気候犯罪者」だと断定して、今後は牛肉を用いたレシピを掲載しないと決めたことが話題です。

食肉文化も喫煙習慣も、それは単に個人的な好みや楽しみの問題として見逃されなくなる。いずれも「それは社会の健全性や道徳性の観点から認められるべきか」というまなざしを避けられない。この流れは牛肉やタバコだけにとどまるはずがない。社会的には必ずしも益はない、むしろ健康や経済などの観点からすれば有害ですらある一方で、しかし個人的な幸福をもたらすものとして愛好されてきたものは、そのすべてがターゲットになりうる。アルコール、カフェイン、糖質、脂質、なんでもそうだ。

 2020年代は、個人的な営為があくまで「個人的なもの」のままで完結するような余白がさらに失われていくことになる。「健康で健全な個人が集まる社会」を目指すことをだれも拒否できなくなる。
」(p.174-175)

不健康であることは、個人の自由ではなく、社会的に損害を与える行為とみなされるのですね。実際、タバコによる健康被害で、医療費が増大したなんていう話も聞きます。
そして、そういう社会に害悪を与える個人には、自由を与えない、自由を取り上げてもかまわないのだ、という風潮が出てきているのです。


次は第4話「自由のない国」で、2020年に成立した「香港国家安全維持法」に関わる話題です。

いやしくもリベラルを標榜する人びとが「よい多様性でないものは多様性ではない」「そんなものは自由に含まれるべきではない」−−などといいながら、本心では市民社会に抑圧的にふるまいたい政治権力・政治当局の代理人を自ら進んで引き受けている光景は笑い話にもならない。
 市民社会が権力からの介入を受けることのない本来的な自由を守るには、個人としては不快で、ともすれば反吐が出るような表現を目にしてしまう場面にしばしば遭遇するとしても、これを必要経費として引き受けていく覚悟が必要だ。
 社会的に望ましく、だれもが不快にならない存在や事象にだけ限定的に自由が付与されるべきだとする論調を好んで用いる人びとは近年ますます多くなっている。だがそれは自由ではない。中国政府がいまやろうとしていることとなんら違いはない。
」(p.180-181)

民主的な合意形成によって民主主義的な手続きを省略することが可能になるという−−文章にすると形容矛盾のあまり読解に難渋しそうになる−−あらゆる意味で倒錯した光景が、2020年代の先進各国の日常風景となっていく。これまで、民主主義的プロセスの省略には、ファシストや独裁者などといった汚名を含んだ、厳しい非難や批判がつきものだった。しかしながら、自分にとって許しがたい類の自由や権利を認めたくないという素朴な感情にいま全社会的に共感が集まっていることで、その潮目は大きく変化している。」(p.184)

強いリーダーシップを発揮するリーダーを求め、民主的な手続きによって独裁を可能にする。こういう風潮は、「私の自由は当然、認められるべきだが、あいつの自由は認めない」という考え方から生じているのです。


次は第5話「置き去り死」で、生後3ヶ月の女児が母親に置き去りにされて、マンションの一室で亡くなっていたという事件が話題です。

自分の望んだように自由にふるまえること、それは他者からの望まない関わりや強制を拒絶できる権利を有することと同義である。だれもが愛してやまない自由という名の権利は、この社会で自分の存在そのものを確立する大前提として肯定されてきた。
 他者からの関わりは、自分が気に入らなければ拒絶できる−−そのような自由は、とりわけ子育て世代の人びとから強く求められてきた。自分がいま育てている小さな子どもに、不審な他者からの不要な接触を受けるリスクを最小限にするためだ。
」(p.188)

迷惑な他人に煩わされない自由で快適な社会は、大勢の人びとに快適な暮らしをもたらし、ストレスフリーな人間関係を実現していった。だが、だれもが歓迎して謳歌する、自由で個人的で快適な社会で、その代償を支払ったのは、アパートの一室のトイレで産まれ落ち、そして見棄てられた子どもだった。
 置き去りにされて死んだ子どものニュースに悲嘆にくれ、私が親ならこんなひどいことは絶対にしないのに−−と涙を浮かべながらニュース映像を眺める人びとは、善人であることになんの疑いもない。しかしながら、まさか自分たちが毎日なにげなく行使しているその自由こそが、間接的に彼女たちをこのような結末に向かわせているとは想像できない。
」(p.192)

「ニュース」の中で伝えられた来歴を見るかぎり、加害者の女性には「迷惑な他人」として扱われる要素が散見されてしまう。これでは、たとえ本人が勇気をふり絞って、見知らぬ他者に窮状を訴えようと戸口を叩いても、招かざる客として追い払われてしまうのが関の山だ。
 彼女は、我が子を死なせてしまうという凄惨な結末を迎えてようやく、社会的不公正の被害者として世間の人びとからの認知を得た。だが、そのような結末を迎える前まで、彼女とその娘は社会によって意図的に不可視化された透明人間だった。透明人間になる前は「迷惑な他人」だった。
」(p.195)

自由を求めること、自由であることによって、他人を疎外することがある。たしかに、そういう一面がありますね。


次は第6話「死神のルーレット」で、日本の治安は年々良くなって世界的に見てもトップクラスだが、そんな日本の大阪市北区で起こった25人が犠牲になる放火殺人事件に関する話題です。

犯罪者がみるみる姿を消す平和で安全な社会であっても、しかし「疎外者」は生まれ続けた。だれからも包摂されることなく、存在を肯定されることもなく、世間から疎(うと)まれ、社会から遠ざけられる者が。」(p.196)

カネも身寄りもなければ、気難しく人当たりも悪い、外見的にも不潔そうで、さらにはなんらかの疾患を持っているかもしれない、粗暴な言動をとる年老いた男性が私たちのもとに助けを求めてやってきたとして、本当に彼を歓迎することができるだろうか。自分の手の届く範囲に置き、まめに面倒を見てあげて、彼と温かい縁を結び、終生の隣人として歓迎するだろうか。」(p.200)

往々にして私たちはかれらに同情せず、あるいは包摂もしない。なるべく速やかに、なおかつ穏便に、自分の近くから立ち去って貰える方法を選ぶ。

 私たちが暗黙の合意としてかれらを遠ざけることを選んだ以上、包摂されなかった疎外者の中から、ごくわずかにだが「復讐者」が現れてしまうことは、回避できない必要経費として受け入れていくほかない。
 私たちのうちのだれかが包摂すれば「復讐者」は生まれなかったかもしれない。だがそうしなかったのだ。
」(p.201)

この社会の全員が示し合わせて弱者を包摂せずに遠ざけて疎外したからといって、代償として自分が「復讐者」のターゲットになる確率はきわめて低い。統計的にはますます平和で安全になっている世の中において、かれらを包摂しないことによって支払わなければならない対価は安い。だれかを疎外するとき、そのたびに、1億2000万人をターゲットにしたルーレットが回されるとしても、自分のもとに死神がやってくる確率はどれくらいだろうか。」(p.202)

今回の事件では、あろうことか、ルーレットを回した大勢の人は難を逃れ、ルーレットを回さずに温かく迎え入れ、懸命に支えようと努めた人が殺された。

 事件の現場となり、犯人も通院していたという精神科クリニックの院長は、心身を挫(くじ)いた人とともに、けっして諦めず、親身になって少しずつ歩もうとする人格者として知られていた。院長を直接に殺(あや)めたのは犯人の男だが、その男の背後には、大勢の人が回したルーレットが連なっている。
」(p.203-204)

前話とも関係しますが、私たちが自由を求め、他者を排除することで疎外者が生まれ、その一部は復讐者となって社会を標的にするということです。
その時、犠牲になるのは、その人を疎外した張本人とは限りません。誰が標的にされるかはわかりませんが、間違いなく社会全体の犠牲で償うことになるのです。


●次は第4章「平等なき社会」です。第1話「親ガチャ」は、流行語大賞にもノミネートされた有名な言葉ですね。
子どもにとっては親を選べないから、親の当たり外れによって自分の運命が決まる。その考え方を端的に表した言葉です。

心理学者の安藤寿康は、これまで後天的な努力によって個人的に培われると世間的に信じられてきた数学や音楽などの能力が、実際にはきわめて大きな遺伝的影響を受けていることを突き止め、それを世に発表して大きな衝撃を与えた。
 安藤の研究は、体格やIQはもちろん、性格特性から才能から発達障害や反社会性まで、人間にまつわるありとあらゆる側面が、遺伝という本人の努力ではどうすることもできない「初期設定」によって、とても無視できないほど大きな影響を受けていることを示してしまった。
」(p.211-212)

「遺伝」と「代々にわたって再生産され継承されてきた豊かな社会的・経済的環境」は、個人的な努力や情熱とは比較にならないほど、その人の社会的地位や経済的成功の可能性を大きく支配する。この身も蓋もない事実が、確度の高いエビデンスとともに、それこそ暴力的ともいえるくらいはっきりと白日の下にさらされている状況が、2020年代という時代の前提となっている。

 若者たちにとっては「努力すれば報われる」という、ひと昔前までであれば多くの人から素朴に信じられ肯定されてきたような美しい物語を、真っ向から否定し叩き壊す「不都合な真実(ネタバレ)」があまりにも数多く提供されすぎてしまったのである。
」(p.212-213)

「親ガチャ」という言葉の突然のブームは、「あなたの人生は、あなたの努力で動かせる部分はとても少ない」−−という不都合な真実がひたすら堆積してきた時代のひとつの結果でしかない。」(p.215)

「親ガチャ」というワードの流行は「努力=能力」という神話によって構築されてきた欺瞞的な社会構造に対するシニカルな異議申し立てでもある。」(p.216)

そんなに遺伝的影響が大きいのかと思ったので、この安藤氏の著書「生まれが9割の世界をどう生きるか 遺伝と環境による不平等な現実を生き抜く処方箋」を買って、読んでみることにしました。
ただ、仮にそうだとしても、それは宿命であるという見方もできます。私がこの時代、日本という国に生まれたのも宿命です。ある人がポルポト政権下のカンボジアに生まれたとしたなら、それもまた宿命です。自分(の精神)では如何ともし難い。
つまりそれは人生の前提条件であり、この相対的な世界では必ず何らかの前提条件が与えられているに過ぎないのです。その前提条件の上で、今生をどう生きるかは、私たち自身に託されているとも言えるわけです。


第2話は「子育てをめぐる分断」で、前の話題と同様に、地域の人びとが子育てに参画しなくなってきたことに関する話題です。

子どもたちには、ともに暮らす家族や親族のほか、近隣に暮らす他者からの温かい視線が向けられていた。子どもはその家族にとってだけでなく、地域共同体にとっても宝のように大切にされてきた。

 しかしながら今日においては、子どもはその共同体の未来をつなぐ象徴ではなく、個人的優位性の象徴となりつつある。子どもを持つためには、経済的にも、社会的にも、人間関係的にも優位であることが前提条件となってきているからだ。子どものいないカップルの多くは、自分たちが子どもを持たない理由に経済力の乏しさを挙げる。子どもは、生活に余裕がある人びとにだけ与えられるぜいたく品へとその位置づけが変わろうとしている。
」(p.217)

「子どもたちのために」という建前は、政治的不公平感を納得させるための方便として、さまざまな場面で用いられてきた。今回の新型コロナウイルスでの経済支援でも、やはり「子どもたちのために」という文言は説得力を持っているかのように思えた。

 しかしながら、世の中の声を観察してみると、必ずしもそうではないことが見えてくる。というのも、子どもがいる世帯への支援それ自体が「逆差別的ではないのか」という声も、無視できないほど大きなボリュームで聞こえていたからだ。
」(p.219)

いまこの時代は、女性との縁がない、いわゆるモテない独身男性からの抗議の声を、世間が真に受けず、まともな批判として検討することもなく、ただの妬(ねた)み僻(ひが)みとして一蹴してしまえる最後の時期となるだろう。なぜなら、「恋愛や結婚ができる人」が多数派ではなくなり、「結婚どころか恋愛経験すらない人びと」が現役世代の多数派になる時代が近い将来やってきてしまうからだ。」(p.221−222)

子どもがいる、結婚している、恋人がいる、ということが贅沢なことと位置づけられ、少数派になってくるのですね。
自由恋愛が進んだことで、社会の人口の再生産能力が低下し、社会の維持が懸念され始めた昨今、個人の自由とはいったい何かということが、改めて問われるのかもしれません。


第3話は「能力主義」で、あらゆる差別に反対するとしている大学が、平気で能力で差別していることを取り上げた話題です。

「すべての人に開かれた組織であること」と「知的能力や学力に劣っている人を受け入れないこと」とは、はたして両立する論理なのだろうか。

「これは差別ではなく区別」「組織側にも選ぶ自由がある」といった建前があることは事実だ。しかしながら、建前がどのようなものであれ、能力で人を選別することは差別には当たらないのだろうか。
」(p.226)

無能への差別を完全になくしてしまえば、この社会を運営するためになくてはならない「だれもやりたがらないが、しかしだれかにやってもらわなければならない役割・仕事」をだれにも割り当てられなくなってしまうからだ。だれかがその役割を引き受けなければ社会の維持が困難になってしまうそれらの仕事を、独裁国家のように強制動員によってまかなうのではなく、ごく自然な選択の結果として演出しながら個人に引き受けさせるには「能力による序列化」が不可欠だ。」(p.228)

「容姿への差別は許さないが、学力による差別は公平である」は、いま多くの称賛を浴びる公平の定義であるが、あらゆる人にとって公平であるとは言い難い。学力試験が得意な人間にとってあまりにも有利に定義された「公平」であることは明白だ。」(p.231)

高い学歴や知的能力を持つジェンダー論者や社会学者が唱える「ミスコン廃止論」は、容姿によって女性を評価するコンテストが、女性から主体性を奪い、男性に奉仕する道具として見せるものだと批判する。この論旨はたしかに理にかなった側面を有している。だが、学力の高い自分たちにとって有利なルールを、あたかも万人にとって「公平」であるかのように主張するのはいささか誠実性に欠けている。」(p.233)

体力や腕力に自信のある人が相手を殴りつければいうまでもなく犯罪だ。しかし知的能力に自信のある人びとが知識社会でますます優位性を発揮し、知的能力に劣った人を暴力的に追いつめてしまっても−−それで間接的に死に追いやってしまっても−−明確な詐欺行為などがないかぎりは合法であり、罪に問われることはない。」(p.237)

私は「違い」は単に「違い」だと思うので、ミスコンも否定しません。それを否定するなら、100m競争だって否定しなきゃおかしいからです。
それぞれに得意とするものがあるだろうし、不得手なものもある。そういう「違い」を前提にしてみんなが仲間だという考えがあれば、「違う」から差別することにはならないからです。


第4話は「低賃金カルテル」で、社会にとって必要だけれども誰でもできるような仕事には、低賃金しか支払われないという問題についての話題です。

世間の人びとは、このパンデミックに際して「介護士はプロ、保育士は専門職、スーパーのレジ係は市民社会のインフラ、ゴミ収集に従事する皆さん、いつもありがとう」などと讃える。しかし「プロフェッショナル」にふさわしい対価を支払う役になった途端、急に共感的な声は鳴りやむ。だれもかれらに「プロ」としてふさわしい対価を支払おうとはしない。かれらを「プロ」であると同時に専門的な技術や技能や経験を持つ存在ではなく、やろうと思えばだれでもやれる仕事に就いている人びとと考えているからだ。」(p.244-245)

エッセンシャル・ワーカーはやろうと思えばだれでもできる仕事であり、なおかつだれもがあえてやりたがらない仕事だと見なされている。ここにエッセンシャル・ワーカーの多くが低賃金のままに置かれる理由がある。」(p.245)

対比的に藤井五冠のことが取り上げられています。いなくなっても誰も困らないようなことをやっていながら、大金を稼いでいるという存在ですから。これはプロ野球選手も同様でしょう。
でもこのことは、対価と役割のアンバランスとして、多くの仕事にあります。教師や聖職者の報酬は低く抑えられ、一方で風俗嬢は高い収入を得る。これは、お勧めしている「神との対話」で指摘されていることです。

私は、第1に政府が事業をしているために、報酬が低く抑えられていると思っています。要は、より安い価格で庶民にサービスを提供しなければならないという政府の考え方が、この賃金に反映されているのです。
もし、自由競争に任せるなら、需要と供給の関係で適切なところでバランスが取られるでしょう。やる人が少なければ給料は上がるし、増えれば下がるのです。


第5話は「キラキラと輝く私の人生のために」で、卵子凍結による代理母出産で、キャリアを捨てないで子どもを持つという女性の選択に関する話題です。

街中の公共空間に進出する性的なイラストや広告などに「女性を性的オブジェクトとして消費する搾取である」と激しく批判を向ける一方で、グローバル経済や能力主義のヒエラルキーにおいて下位に位置する女性を安価な労働力として市場に供給させ、エリート女性たちのトレードオフの解消のために利用する。別の女性の機会獲得のためにポートフォリオとして消費される立場にある女性が、グローバルな経済格差を背景にしていまだ多く存在することについて、その責任を負うどころか、「女性はいまも男性とくらべて所得格差がある。差別を受けいてる」などと、自説に都合よく援用すらしてしまう。」(p.254-255)

エリート女性がキャリアのために、卵子凍結で代理母出産をする時、彼女の代わりに「産む」という仕事をすることになる代理母は、たいてい低賃金の国の女性だという一面があります。タイは、法律によって代理出産を禁じましたが、今度はそれをウクライナが引き受けていたのだとか。

人権思想がカバーする権利や自由が拡大し充実するほど、「人権が行き届いた社会」を維持するために必要なリソースが膨大になる。結果として、一部の人びとには自身の権利や自由を返上してもらう必要が生じる。この矛盾を−−社会的な不公平や差別ではないと丁寧に印象付けながら−−解消するためにこそ、能力主義が求められた。」(p.255-256)

あらゆる差別を撤廃するべく日々邁進する先進社会でも、最後まで「能力による差別」は肯定される。なぜなら、能力による差別こそが、維持コストが膨大にかさむ人権思想を持続させるための心臓そのものだからである。能力主義はあらゆる差別が駆逐されてもなお生き残る、いわば差別の王である。」(p.256-257)

能力が高い人は、それだけ自由の恩恵を受けられ、その自由のために、能力の低い人の自由が妨げられることは当然だ、という価値観ですね。


次は第6話「平等の克服」で、戦争や革命、疫病による社会秩序の混乱や瓦解が、その後の世界に富の平等をもたらすという話題です。

これまで、大規模な破壊や秩序崩壊の後に訪れていた富裕層課税への社会的合意は、富裕層自身が大衆社会に対して抱く恐怖心が大なり小なりその原動力となっていた側面がある。」(p.264)

社会が安定していればこそ、富裕層は富裕層として安全と豊かさを享受できた。だからこそ、その安定が脅かされる事態になった時、不安定要因の貧困層を慰撫する目的での再配分を行うことで、安定を守ろうとする動きが生じるわけですね。

富裕層や知的労働者たちが地理的にも物理的にも大衆とは隔絶された安全な場所に生活の拠点を移し、大衆社会の怒りや不満のエネルギーに直接あてられる恐怖を感じることもなく、モニタースクリーン越しに表示されるグローバル市場のチャートを眺めながら、政治的・経済的情勢を冷静に見極め、このパンデミックを危機ではなくチャンスとして活用する。」(p.265-266)

しかし現代のネット社会、グローバル社会においては、富裕層はいくらでも簡単に現実社会から逃げ出すことができるし、姿を見せずに操作することが可能です。

人間社会の高度化によって、平等すらも克服してしまえば、今度こそ「富の再分配」は懐かしい過去の遺物となる。」(p.266)

つまり、格差はますます開いていくと嘆息されるのですね。
私は、また別の見方をしています。ここで詳しくは書きませんが、人は少しずつ変わっていくものだと思っていますので。


●次は第5章「不可視化された献身」です。第1話は「子どもおじさん」で、立派な大人が親と同居し、子ども部屋を与えられて生活しているような、子どものような大人のことが話題です。
「子どもおじさん」は、「こどおじ」と略されることもあるとか。もちろん「こどおば(子どもおばさん)」も存在するそうです。

しかしながら、「こどおじ」の流行は、当人の主観的認識はどうあれ、「ちゃんとした暮らしができない男性には、他者(とくに女性)との人間関係を得る資格などない」とする風潮を全社会的に肯定し、経済的・社会的に弱い立場にある男性たちを人間関係から排除してきた結果として生じたものである。
 世の多くの人が、経済的・社会的・コミュニケーション能力的に劣った男性の排除に大なり小なり加担しておきながら、かれらが「自分は自発的に『まっとうな大人』の輪の中から退場した」と都合よく認識してくれていることによって、責任の所在をうやむやにすることができている。そればかりか、かれらのことを「こどおじ」などと呼び、小ばかにすることさえできた。
」(p.272)

急増している「こどおじ」は、少子高齢化や、孤独死と同じく無縁社会に連なる社会問題の文脈で語られる。
 これを社会問題として捉え、実際に解決しようと望むのであれば、この社会のメンバー全員が、自分たちの視界の外側に「こどおじ」を生み出すことによって得てきた人間関係の快適性を部分的に返還する必要がある。しかしながら、社会は本当にその条件を受け入れるのだろうか。
」(p.276)

つまり、社会不適合者が自発的に社会から隠れているのではなく、他の人びとが無言の圧力で社会から追い出しているのではないか、という指摘です。


第2話は「暗い祈り」で、コロナ禍による経済的な影響が顕在化しつつある問題についての話題です。

「時代の犠牲者」はいついかなるときも生まれてしまう。しかしいつの時代も、世間の人びとは犠牲となったかれらに感謝や謝罪の意を表さない。それどころか「本人の努力が足りないからそうなったまで」「自己責任だ」などといった冷酷な言葉によってかれらの苦しみを都合よく要約し、あっさりと総括してしまう。」(p.285)

努力が足りないから、やる気がないから。そうやって本人だけの責任にすることで、彼らに寄り添おうとしない多くの人々の対応に、御田寺さんは反感を覚えているようですね。


第3話は「きれいなつながり」で、東日本大震災での人びとの絆が話題です。
大変な状況下で人びとはつながりを求め、絆を結ぶことを選びました。しかし、コロナ禍では、つながることがリスクとされるようになりました。そこで、相手を選んでつながるようになったと言うのです。

これまでの世界であれば、なんでもないごく普通の隣人として、ゆるやかにつながり合えたかもしれない人びとが、これからの世界では、物理的にも心理的にもずっと距離の遠い他人のままになる。
 他者から「きれいである」「有益である」「無害である」「快適である」と認められる人でなければ、「つながり」や「絆」を結んでもらえなくなっていく。
 人間社会において、「つながり」や「絆」は希少財になっていく。
」(p.291)

市民社会の名もなき人びとが「あいつが感染者だ」「いやこいつだ」「感染者はどこだ」と自警団を結成して街の浄化に勤(いそ)しんでいるさなかに、良質なつながりを持つ人びとは、すでに次の有事を切り抜ける段取りを整えている。非公開コミュニティやメッセージグループで緊密な情報交換を行い、それぞれが持てる−−金融・政治・経済・社会・ビジネス・資産運用・キャリアなど−−ありとあらゆる知識を総動員して、不落の要塞を形成しようとしている。」(p.296)

つまり世界は一部のグローバリストによってコントロールされており、彼らはどんな状況下でもつながりあって富を増やす形を整えているということですね。今、流行の陰謀論とも関係してきそうです。
まあこれが真実かどうかは何とも言えませんが、こういう主張をする人は多いようです。


次は第4話を飛ばして第5話の「共同体のジレンマ」で、オンライン・サロンに関する話題です。

とりわけ人間関係における自由は絶対的な規範として肯定されてきた。人びとは自由に付き合う人を選ぶことができる。ある人が人生においてだれと関わりを持とうが自由であるし、逆にだれとの関わりを拒絶しようが、それもまた自由でもある。
 一見すれば、他者から煩わされることの少ない、快適な社会を実現しているようにも思える。しかしこのような快適性は、裏を返せば自分もまた他者からあっさりと−−個人的な快適性を高めるために−−拒絶される場面を感受しなければならないことも含意する。自分の快適性のために他人をためらいなく自由に切り捨てられる社会は、自分もいずれは同じ論理を他者から向けられる可能性を拒否しえない。にもかかわらず、人はいつも自分が選ぶ側、切り捨てる側に立てるものだと無邪気に信じている。
」(p.310)

個人の自由を追求するなら、他人を排除するということは、自分も排除されるということです。そして排除されて、社会から見棄てられた人の問題、それが御田寺さんの心にはずっとあったのでしょうね。
本書の最後の方に来て、やっとそのことが見えてきました。


第6話は「疎外者たちの行方」で、北九州の暴力団「工藤会」第五代総裁の野村悟に福岡地裁で死刑判決が下されたことが話題です。

たしかに、ヤクザ−−あるいは近年では「半グレ」−−とされる者たちが、一般企業向けの就職活動のように「ぜひともヤクザになりたいのですが、採用していますか!?」などとその組織の門戸を叩くわけではもちろんない。大抵の場合、ほとんど選択の余地のない強制スクロールの一本道をひたすら歩いた果てに、そのような世界が結果として待ち受けていただけだ。」(p.319)

だれかがほんの少しでも手を差し伸べていたら、違った未来があったかもしれない。だがそうしなかった。現代社会を生きる人びとの多くが、かれらに手を差し伸べるどころか、どこに暮らしていて、なにをして糧を得ていたのかを、そもそもまったく知らないのではないだろうか。へたをすれば、かれらの姿を肉眼で捉えたことがない人もそれなりにいるのではないか。」(p.320-321)

市井の人びとは、自分たちがまったく自覚することなくかれらを疎外し透明化してきたことに気づいていない。そしてその果てに彼らが「反社会勢力」になった途端、自分たちが100%被害者であるような顔をして−−近代社会の法や秩序は実際にそのように規定しているので、被害者であることはまぎれもない真実なのだが−−そして「ヤクザはいらない」と声を挙げる。」(p.321)

現代社会に生きる私たちは、自分たちの快適な暮らしを守るために、なにやら「厄介ごと」を抱えていそうな人やその子どもをほとんど無意識的に不可視化・透明化して遠ざける。
 遠ざけられたかれらは文字どおりの「疎外者」になる。その「疎外者」たちの中から−−全員ではなく、割合としてはごくわずかな例外であるといえるとしても−−社会に牙をむく者、刃を向ける者が生まれる。だとすれば、私たちがその責任の一端を担う者として、かれらと向き合わなければならない。
「ヤクザ」がひとつの」結果であるならば、当局がそのトップを捕まえて「世に仇なす極悪人」として断罪し、首尾よく絞首台に送れたところで、期待したようなハッピーエンドは訪れないだろう。
」(p.324)

「かれら」の姿を見つけること−−すべてはそこからはじめないといけない。」(p.324)

今の私たちの社会がこうなのは、今の私たちがこうだから。だからこそ、まず自分がその責任の一端を引き受けなければ変えることができない。
御田寺さんの主張は、そういうところにあるのではないでしょうか。


●終章は「物語の否定」です。
私たちは真実を見ているのではなく、その物語を見ているのだと御田寺さんは言います。物語とは、自分が都合よく組み立てた見方と言えるでしょう。

それでも、美しい物語からはじき出されたものたちを、世の多くの人が見える場所まで喚(よ)びもどすことによって、私たちがいま見ているのは「物語」であると、だれかが告げなければならなかった。この時代においてその仕事を引き受けたのが、たまたま私だった。」(p.331)

あえて真実を見ないことによって、つまり事実を自分の目から覆い隠すことによって、自分に都合よく解釈する。その都合の良い解釈によって、無視され疎外された人が苦しんでいようと、そこに気づこうともしない。
そういう現実があることを指摘することが、この本の目的だということなのでしょう。


オムニバスのように30以上の話題が繰り広げられていますが、それはそれぞれに関連性があり、最終的には1つのテーマによって貫かれていることがわかりました。
分厚い読み応えのある本ですが、惹かれながら最後まで読み終えてしまいました。そして、いろいろと考えさせられました。

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タグ:御田寺圭
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 16:01 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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