2022年08月20日
刑務所しか居場所がない人たち
何で知った本だったか忘れてしまいましたが、読み始めてすぐに、これは良い本を買ったなぁと思いました。
子ども向けに書かれた本のようで、漢字にはほとんどふりがなが振られており、文章も非常にわかりやすいです。読みやすく、あっという間に読めてしまいました。
著者の山本譲司(やまもと・じょうじ)さんは、元衆議院議員ですが、2000年に秘書給与詐取事件を起こして服役されています。そのことによって刑務所の中の知的障害者問題に気づき、出所後は障害のある受刑者の社会復帰支援に取り組まれているようです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「それまで抱いていた刑務所のイメージは180度変わった。悪いやつらを閉じこめて、罪を償わせる場だと思っていたのに、まるで福祉施設みたいな世界が広がっているんだから。
刑務所の周囲にそびえるあの塀を、僕は誤解していた。あの塀が守っているのは僕たちの安全じゃない。本来は助けが必要なのに、冷たい社会の中で生きづらさをかかえた人、そんな人たちを受け入れて、守ってやっていたんだ。」(p.9-10)
山本さんが衆議院議員だった2000年9月、秘書給与流用事件で有罪判決を受け、栃木県の黒羽刑務所で服役したそうです。そこで見たものは、悪党だらけの世界ではなく、認知症のお年寄りや障害を抱えた人たちが多く暮らす世界だったそうです。
トイレや風呂ばかりか食事にさえ介助が必要な人たち。そこはまるで福祉施設のようだったと言います。
「だれだって、罪を犯したいわけじゃない。
知的障害のある人が犯行に走った理由は「生活苦」がいちばん多い。障害があるとなかなか仕事に就くことができないから、生活が困窮しがちだ。身近に頼れる人も、行く場所もなくて、ホームレスのような生活を続けたすえ、空腹に耐えかねて万引きをしたり、食い逃げをしたりするのが典型的なパターンだ。
あるいは、やけに親しげに声をかけてくる人がいて、「友だちになった!」と思っていたら、じつは相手がヤクザで、いいように使われることだってある。」(p.19)
知的障害のある人の犯罪は、いわゆる軽犯罪が多いのです。ともかく自分が生きていくためのことをしようとして、それでついつい犯してしまうような犯罪です。
実際、犯罪そのものが昔と比べて減っているし、殺人などの凶悪事件は激減していると言います。なので、刑務所に入っている殺人犯は、実に少ないそうです。
「答えは……1%。
2016年、新しく刑務所に入ってきた受刑者約2万500人のうち、殺人犯は218人だった。刑務所の中でも、殺人犯と会うことはめったにない。」(p.21)
少年犯罪の検挙者数も、2016年は3万1516人で、10年前の1/4に過ぎないのだとか。少年鑑別所はガラガラ状態だそうです。
「犯罪が減っているのに、治安が悪いような気がすることを「体感治安の悪化」なんて言うけれど、マスコミの報道がそうさせている面もあると思う。たぶん、視聴率や発行部数を稼げるからだろう。」(p.22)
さもありなん、ですね。
「一方で、あまり減っていないのが知的障害のある人の犯罪だ。ほとんどが窃盗や無銭飲食、無賃乗車とかの軽い罪。スーパーで売り物のアジフライを一口かじっただけで、実刑判決を受けた人もいる。
僕が思うに、もしかしたら裁判官は、「彼らのため」と思って実刑判決を出している面もあるのかもしれない。執行猶予がついて社会の中に戻ると、きっとまたいじめられたり、ホームレス状態になったりする。だから、緊急避難の意味あいで、実刑にするのかもしれない。」(p.23)
そういう穿った見方をしたくなるほど、知的障害者の軽微な犯罪での実刑判決が多いのでしょうね。
「たとえば、自閉スペクトラム症という発達障害のある人は、人とのコミュニケーションが苦手だったり、かたくなにルールを守ろうとしたりする。周囲からは「空気が読めない」と言われ、いじめの対象になることも多い。子どものころからずっとしいたげられてきて、いやな思い出ばかりかかえているんだ。そのつらさが、なんらかの刺激によって表に出て、犯罪に結びついてしまうことがある。」(p.30)
「想像してみてほしい。どんな受刑者でも、生まれたときはかわいい赤ちゃんで、一生けんめいに成長してきた。それが、大人になってだれも支えてくれない日々をすごし、さらに年をとって生活に困る。やむをえず、万引きや無銭飲食に手を出して刑務所に入れられ、そこで死んでしまう。
だれだって、こういう死にかたを望んだわけじゃない。家族や仲間に囲まれて、惜しまれながら息を引き取りたいと願っていたに違いない。だけど、それを許してくれないのがいまの社会なんだ。」(p.38)
刑務所には、無縁仏となった遺骨がたくさん眠っているそうです。死んでも遺骨の引き取り手がない。社会の誰からも受け入れてもらえず、見捨てられた人たちが大勢いるのです。
「気合を入れて、ぞうきんとバケツを持ってきてそうじをした。マスクや手袋なんかは支給されないから、もちろん素手だ。爪のあいだにうんちが入りこむ。最初は「自分の子どものうんちみたいなもの……」と思うようにしていたけれど、気がついたら慣れていたな。」(p.42-43)
山本さんは刑務所で、他の受刑者の部屋の掃除をさせられることがあったそうです。ゴミだらけ、糞尿だらけの部屋だとか。
本来なら、介護が必要な受刑者なのでしょうね。山本さんは、自然と介護士のようなことをされたようです。
「寮内工場を担当する刑務官のほとんどが、受刑者たちを罰しているというよりは、保護している感覚で接していた。「弱肉強食のシャバの中で大変だっただろう。ここでは食事も寝床も与えるし、満期までは自分たちが守ってやる」。そんな気持ちでいることが、はた目から見てもよくわかる。
夜中、独房で泣く受刑者に、刑務官が優しく子守唄を歌うすがたを見たこともある。」(p.46)
「若い刑務官には、しゃくし定規に受刑者をどなったりする人もいるけれど、それは受刑者がまだ怖いから。寮内工場にいるのは、暴力をふるいそうもない受刑者なんだけど、「受刑者=極悪人」というイメージが抜けないみたい。」(p.47)
日本の場合は服役とは懲役刑なので、何らかの刑務作業をさせられます。家具を作ったりする仕事ですね。しかし、そういう作業ができない人たちもいるわけで、そういう人たちが集められるのが「寮内工場」だとか。呼び名は、刑務所によっていろいろあるようです。
そこは、刑務所と言うより福祉施設のようなところだとか。ただ、ただでさえ安い刑務作業の報酬よりももっと安いようで、刑期を終えても蓄えがほとんど作れない。それもまたシャバに戻ってからの生活に困る原因にもなっているようです。
「家族もいなくて家もない、お金もない。そんな、ないないづくしの状態は長く続けられない。満期出所者の半数近くは、5年以内に再犯をして刑務所に戻ってきている。だって、そうするしか身の安全を確保できないんだもの。
再犯せずにいる人たちだって、まともな暮らしをしているとはかぎらない。やむをえず路上生活を続けたり、ヤクザの世界に足を踏み入れたり、最悪の場合は自殺しちゃう人もいる。」(p.55)
刑期を終えても、問題が解決するわけではないのです。
また、知的障害者の軽微な犯罪に関する裁判の問題もあると山本さんは指摘します。
「残念なことだけど、裁判官の知的障害に関する理解は決して十分とはいえない。真顔で「その障害って、薬で治らないの?」「いつから知的障害になったの?」なんて、とんでもない質問をしてくる裁判官もいる。」(p.60)
この程度の理解しかないから供述調書に対しても、知的障害があればこう理路整然とは説明できないだろうという想像が働かない。これも裁判の問題になっていると山本さんは言います。
「前にも言ったように、知的障害者の犯罪は、罪名と実際にしたことのギャップが大きい傾向がある。車にあった30円を盗んだ「窃盗罪」とか、知りあいとケンカして、つい手に持った刃物が相手の首にちょっとふれて「殺人未遂罪」とか、罪名を聞いて想像するより被害が小さいことが多い。
日本の司法制度には、被告人の知的障害を配慮するしくみがないことが、関係しているんじゃないかな。」(p.61-62)
母親が賽銭箱に1000円を入れて、「いつか助けてもらえることがある」という話をしたことを覚えていて、困窮した時にその賽銭箱から300円を盗んだ知的障害者もいたそうです。裁判では、「まだ700円預けてある」と言うので、反省していないと受け止められたのだとか。
「アメリカには、知的障害のある被告人のための特別な制度がある。IQ(知能指数)が50以下の被告人は「アンフィット」といって、ふつうの裁判を受けられる状態ではない人と判断される。知的障害についてよく理解した裁判官、検察官、弁護士のもと、裁判を受けることになる。要は、被告人の障害特性を考慮して刑を決めるんだ。イギリスやオーストラリアでも、同じような制度があるよ。」(p.62)
本来、刑罰を与える対象ではないのです。福祉によって守るべき対象。そういう認識が、日本にはまだないようです。
「重大な事件なら、裁判の途中で弁護士が「本鑑定をすべき」と主張して、しっかり鑑定を受けることもあるけど、非常にまれなケースだ。知的障害者の被告人によくある、カップ酒を1本盗んだような軽い罪は、弁護士もそこまでやらない。」(p.66)
知的障害の有無は、せいぜい1〜2時間ほどの簡易鑑定によって判断されます。しかも、検察官お抱えの鑑定医が、ざっと資料を読んで、わずか数問の質問をするだけで。最初から責任能力ありという見方なのです。
「そもそも、知的障害のある被告人は身元引受人がいないことが多くて、執行猶予つきの判決はほぼ無理だ。仮に、責任能力の有無を裁判であらそおうとすれば、弁護士が自腹を切って精神鑑定を依頼することになるだろう。裁判官は、軽い罪に、税金で精神鑑定をかけることを認めないからね。」(p.69)
「検察は国の組織だから、やろうと思えばいつでも税金で捜査や精神鑑定ができるけれど、弁護士はそうじゃない。自分で弁護士事務所を経営するか、そういう事務所に雇われている弁護士がふつうだ。つまり、中小企業の社長か従業員みたいなものだから、経営のことを考えると、報酬の安い仕事はできないのかもしれない。」(p.71)
窃盗や無銭飲食をしてしまうくらいですから、被告側にはお金がなく、どうしても国選弁護人を選ぶことになります。そうなればなおのこと、不利な裁判になってしまうのですね。
知的障害者の問題については、裁判(司法)にも問題がありますが、それを受け入れてこなかった福祉関係にもあると山本さんは指摘します。
福祉関係者の多くが、知的障害者の犯罪に対して冷淡な態度を取るのだとか。知的障害者であっても、罪を犯したなら司法が担当すべきだと。
「だけど、ほんとうにそうなのかな? くりかえすけれど、罪を犯した知的障害者は加害者になる前に、長いあいだ被害者として生きてきた人が多い。身寄りがなく、お金もなく、だれの助けもないなかで、やむにやまれず無銭飲食や無賃乗車などをしてしまった。罪を犯さざるをえないほど困っている人たちなんだから、本質的には福祉の問題だと僕は思う。」(p.83)
福祉の問題で言うと、知的障害者の障害認定の問題があると山本さんは言います。
知的障害者がもらう「療育手帳」ですが、自治体によってその名称も異なるし、判定基準もバラバラなのだとか。それでは、他の自治体へ転居しても、これまでの手帳が意味をなしません。そういう実態があったとは、知らなかっただけに驚きました。
また、判定基準は、財政に余裕のある自治体ほど、基準が緩やかだという傾向があるそうです。つまり、予算をどれだけ使うかが判定基準になっているのですね。
「だから、日本は障害者の人数が異様に少ないことになっている。
国は、「障害者手帳の発行数=障害者の人数」としてカウントしている。厚生労働省の発表(2018年)によれば、身体障害者・知的障害者・精神障害者を合わせて、日本の全人口の7.4%だ。
それに対し、WHO(世界保健機関)と世界銀行が発表した『障がいについての世界報告書』(2010年)では、世界人口の15%がなんらかの障害があるとしている。この地球上の6〜7人に1人は障害者なんだ。
日本だけが障害者が少ない? そんなはずはないよね。6〜7人に1人っていったら、もはやマイノリティ(少数派)ともいえない。この人たちが不自由なく暮らせるようにするのは、国の責任だ。そんな根本的なことができていないから、福祉につながらず、刑務所に来てしまう障害者があとをたたないんだよ。」(p.85-86)
たしかに、こうして比較してみると日本の異常さが目立ちます。
ただ、療育手帳をもらえればそれで解決かと言うと、そうではないと山本さんは指摘します。
療育手帳をもらえたことで知的障害者という偏見で見られるようになり、いじめられることにもつながるからです。そういう社会的な疎外によって、反社会的な方向へ流れてしまうこともあります。
「ヤクザは、知的障害者のコンプレックスにつけこんで犯罪行為へと引きずりこむ。福祉関係者には「ヤクザから彼らをとり戻す!」ってくらい言ってほしいところだけど、たいていは現実から目をそらしている。」(p.91)
「僕が言いたいのは、知的障害者全員に療育手帳を発行しろということじゃない。手帳を持っているか持っていないかではなく、「いま現在、何かに困っているかどうか」で福祉サービスを提供してほしいということだ。
障害以外にも難病とか貧困とか、困っている人はおおぜいいるよね。そうした人たちが困った状態じゃなくなるように、一人ひとりに応じた支援をするのが本来の福祉だと思うんだ。」(p.91)
福祉のあり方について、考えさせられます。
「日本の障害者福祉予算は年間約1兆円。GDP(国内総生産)に占める障害者福祉予算の割合でいえば、スウェーデンの約9分の1、ドイツの約5分の1、イギリスやフランスの約4分の1、そして、社会保障制度が不十分だといわれているアメリカと比べても、2分の1以下になっている。先進国の中で、障害者福祉にこんなにお金を使っていない国はないよ。国として障害者福祉を軽視しているといわざるをえない。」(p.95-96)
これは私も驚きでした。こうやって数字で示されると、いかに日本の障害者福祉が貧しいものかがわかります。
「「福祉に行ったら無期懲役だ」
こんなふうに言う人が、ものすごく多い。
そこまで福祉は信用されていないのか、と最初はショックだったよ。でも、彼らの言いぶんには納得できるところもある。福祉施設に入所すると、起きる時間も寝る時間も、お風呂も食事も、ぜんぶルールが決まっている。ちょっとコンビニに行きたくたって、自由に外出できない。何度かルールを破ると”むずかしい人”と決めつけられ、つらく当たられる。」(p.103)
たしかに、こういうことはありますね。老人介護施設で働いている私ですが、このことはよくわかります。なので私も、老人介護施設には入りたくないと思っていますから。
「善意は、ときとしてだれかを排除する力をもっている。
自治体のメール配信も、親どうしの不審者情報の交換も、みんな「よかれ」と思っての行動だよね。自分たちを守ろうとしているだけだ。でもその陰で、本来は福祉につながるべき人たちが、刑務所に入れられている場合があることを、君に覚えておいてほしい。」(p.111)
変な人、よくわからない人を排除することで自分たちの安全を図ろうとすると、その行為によって不審者とされた知的障害者が犯罪者になってしまうことがある。警戒され、排除されれば、誰でも抵抗したくなるものですから。
精神や知的に障害がある人が出所する時は、自治体に通知するようになっているそうです。それは、医療や福祉につないでもらうためです。
しかし、それに対して自治体が適切に対応しないという問題があるそうです。
「ちなみに2016年は、刑務所全体として、全出所者2万2947人のうち3675人について自治体への通知をおこなっている。でも、自治体がきちんと対応してくれたのは、たったの66人にすぎない。」(p.114-115)
ここにも変な人は排除したいという不安や怖れに支えられた行動があるのですね。
「だから僕は、反対運動をしている人たちも含め、周辺の住民を集めてもらって、直接話しをすることにした。そのときのようすは、地域のケーブルテレビでも流され、10回以上にわたって放送されることになった。
そしたら、わかってくれたよ。反対していた住民のひとりがこう言った。
「要するに、累犯障害者は、地域の中で孤立し、排除されて刑務所に行っていたんですね。まさに、わたしたちのような人が累犯障害者を生み出していたんですね。もう反対はしません」
障害のある人のことを何も知らなければ、身がまえてしまうかもしれない。だけど、どんな人たちなのかを理解すれば、彼らと共生することへの抵抗感は少なくなる。それを象徴しているようなできごとだった。」(p.116)
知的障害者のためのグループホームを建てようとした自治体で、反対運動が起こった時の話だそうです。
人は、わからないものに対して警戒し、不安や怖れから抵抗してしまうものです。だから、対話を重ねることで理解を進め、信頼してもらうことが大切なのですね。
「なにか事件が起きたとき、マスメディアは犯人が逮捕されるところや、裁判であらそうところまではこぞって報道するから、検察や警察、裁判所は華やかに見える。だけど、裁判が終わればパッタリ報道されなくなって、そのあとの刑務所のことは忘れられがちだ。
罪を犯した本人にとってみれば、”生き直し”をスタートさせる刑務所こそ重要なところ。出所して、社会に戻るときに支援する更生保護は、刑事司法の総仕上げだ。これらにもう少し予算をかければ、再犯を大幅に減らせるんじゃないかって僕は考えている。」(p.120)
「本来ならば福祉が支援すべき対象でも、いまの社会はそれをせず、”臭いものにふた”のように刑務所に入れてしまう。そのために使われる税金が、一人あたり年間500万円と考えると、たしかに高いよ。
「犯罪者にお金をかけるのはもったいない」って言えば言うほど、再犯は減らないし、刑務所にかかるお金だって増えていく。」(p.121)
今の司法のあり方も、メディアの取り上げ方も、悪いやつを捕まえて排除すれば終わり、ということになっている。だから問題が解決しないと私も思います。
「犯罪をした人も、電車の中でわめき声をあげる人も、ゴミ屋敷を作る人もそう、僕らと同じ人間だ。困ったときにとる行動が、ちょっと違うだけだ。いつの時代も、生まれながらにそういう人が一定の割合でいる。
障害者ってどんな人? そう疑問に感じたら、自分と違うところじゃなくて、同じところを探してみよう。おのずと答えが見えてくるから。」(p.130)
「日本で障害者の地域移行が始まったのは、ほんの10年くらい前のことだ。障害のある人はずっと施設に隔離されていて、最近になって少しずつ地域に戻ってきた。だから、大人たちも、どう接したらいいのかわからない。
大人が身がまえると子どもも身がまえる。すると、障害のある人だって身がまえて、心を閉ざしてしまう。」(p.133-134)
「障害のある人を理解するっていうのは、腫れもののようにあつかうことでも、むやみに親切にすることでもない。自分と同じ目線で接し、彼らの立場になって考えてみることだ。
周囲の人と気持ちが共有できた経験は、障害のある人にとって、たいせつな成功体験になる。そうやって、障害のある人に優しい社会、つまり、君も含めてみんなを優しく包みこむ社会が築かれていくんじゃないかな。」(p.136)
私たちは、それぞれに違いがあるのが当然です。けれども、同じ人間です。雪の結晶がそれぞれ違いながら、全体としては同じ雪であるように。
そうであれば、最初から敵視し、分離分断を進めるべきではなく、安心し、信頼し、受け入れていく方がいいのではないでしょうか。
そのためにも、まずは自分の中から不安や怖れを取り除くことですね。
「本人の世界を否定するんじゃなくて、そっと寄りそう。それができれば、障害があっても公の福祉に頼ることなく、暮らし続けられる。」(p.150-151)
「出口支援は整いつつあるけれど、同時に、障害のある出所者に対する社会の意識も変わらなくちゃ、せっかくの支援策も生きてこない。管理や隔離をするのではなく、ふつうに暮らせる社会をめざさなくちゃ。」(p.161)
幻覚によるものを現実だと主張する人がいたら、その思いを汲み取って否定しないこと。その人にはそれが見えているんだから、否定しても無意味なんです。老人介護の現場でも、そういうことはありますね。
前にも引用したように、重要なのは知的障害者を出所後に施設に入所させることではありません。集団で暮せば、どうしても管理して自由を奪わなければならない面が出てきますから。
それよりも、地域において誰もが、障害者を対等な人間として見られるようになることが大事ですね。
「ほんとうだったら、刑法そのものが変わる必要があると僕は思っている。刑法で定められた刑罰には、死刑、懲役、禁錮、罰金などといくつかあるけれど、累犯障害者が受けるのは、ほとんど懲役刑だ。もっと、罪を犯した人の背景に応じた償いかたがあってもいいんじゃないだろうか。たとえば、社会にいて、必要な支援を受けながら奉仕活動をするとかね。
たいせつなのは、罪を償って二度と再犯しないことであって、刑務所に入れることではないんだから。」(p.155)
たしかアメリカでは、軽微な犯罪に対してボランティア活動などをすることで出所できる制度があったように思います。日本にも、そういう制度と、それを支える団体や仕組みができるといいですね。
「さて、だれもが安心して暮らせる社会って、どんな社会だろうか。
キーワードは「ソーシャルインクルージョン(社会的包摂)」だ。包摂っていうのは、何かを包みこむという意味。ソーシャルインクルージョンは、社会から排除されているすべての人を、ふたたび社会に受け入れ、彼らが人間らしい暮らしができるようにしよう、という考えかただ。
罪を犯した障害者は、それまでの人生のほとんどを被害者として生きてきた。結果として、前科というものを背負ったがために、「障害者」「前科者」と二重の差別を受けて、いちばん排除されやすい存在になっている。
いちばん排除されやすい人たちを包みこめば、だれも排除されない社会になるよね。」(p.164)
もっとも受け入れがたい人を受け入れる、排除しやすい人を排除しない。そうすることは、日本全体を良くすることにつながる。
だから、今、障害者の犯罪について、深く考えて見る必要がある。私もそう感じました。
この本は、私の目を開かせてくれたように思います。
知ってるようで知らなかったことがたくさんありました。そして、ここに日本の、つまり私たちの重要な問題があると気づいたからです。
私たちは、不安や怖れから、分離分断や排除という行動に走りがちです。しかし、いくらそうやっても問題は解決しません。もういい加減に、そのことに気づく時がきたのではないかと思います。
不安や怖れを排して、安心と信頼を心に抱くこと。つまり、愛を動機とすること。私たち一人ひとりが、それを始めなければならないと思いました。
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