日本講演新聞に「不便益」という言葉に関する記事がありました。面白いなと感じたので、そこで紹介されていた本を買いました。
著者は大学教授の川上浩司(かわかみ・ひろし)氏です。効率を追求する工学の分野で研究をしていく中で疑問を感じるようになり、今は不便だけれども益があるという「不便益」を追求しておられるようです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
なお、本書では句読点を「,(カンマ)」と「.(ピリオド)」で記してあるのですが、あまり意味があるとは思えないので、引用文ではすべて句読点に置き換えます。
「スマホを忘れたことに気がついた時、反射的に「不便!」という言葉が頭をよぎり、「マズイことになったなぁ−」と思いました。そして、お腹が空いた時、評判の良い近場のお店に最短ルートで移動できないことに気づき、ガックリきました。
でも、ちょっと待ってください。もともと散策してたはずです。最短ルートで効率的にお店に行く必要があったのでしょうか?」(p.13)
スマホを忘れたら、誰でも不便を感じるでしょうね。しかし、最短ルートで効率的に評判のお店を探せないという不便によって、思いがけない掘り出し物のお店と出合えるかもしれないし、街のあちこちに気づけるかもしれないのです。
「不便益を探していると、手間をかけるからこその益がたくさん見つかります。その時の手間は、無駄ではありません。ところが一方で、手間をかけても空回りして、手間をかけない時と何も変わらないことがあります。結果が変わらなくても過程の違いに何か意味があれば良いのですが、それすらないこともあります。それこそ、手間が無駄になっています。
ところが私たちは普通、これらの区別を意識することはなく、手間といえばムダだと思います。手間はいつでもネガティブなもので、できるだけ避けるほうが良いと無意識に考えてしまいます。」(p.55)
本当は、無駄な手間と無駄でない手間があるにも関わらず、私たちは「手間=無駄」と考えてしまっているという指摘です。
でも、本当にそうでしょうか?
この本を読みながら考えたのですが、何を無駄と考えるかは、その人の考え方によるのではないでしょうか。つまり、絶対的な無駄というものはないし、絶対的に無駄ではないなどということもないのです。
「この事態をちょっと抽象化すると、自由度が低い(ロビーにいなければテレビが見れない)という不便も、出会い(友人となる人物と)の機会をくれて、何か試してみる(話しかけてみる)ことを後押ししてくれます。普通に考えると、自由度が低いことはチャンスを奪われることのように思えます。しかし実は、逆に別のチャンスを与えてくれるのです。」(p.74)
ロビーにしかテレビがないホテルで、どうしても観たかった番組を見るために慣れない英語を駆使してチャンネル争いをしたことがきっかけで、かけがえのない友人ができた。そういう体験をもとに、自由が少ないことが必ずしも良いわけではない、という考えを披露されています。
これを突き詰めれば、何でも良い、ということにならないでしょうか?
すべての出来事には「良い」「悪い」の両面があるだけなのです。あるいは、すべての出来事はニュートラルであり、それを「良い」「悪い」と決めているのは自分が選択した価値観だということです。
もし、チャンネル争いをして負けて、悔しくて部屋で一人で過ごすことになったらどうでしょう? それでも、ロビーにしかテレビがないという不自由(不便)が「良い」体験になったでしょうか? 「悪い」体験だったと思うかもしれませんね。
でも、そういう出来事になったとしても、「良い」と考えることもできます。一人で部屋で過ごすことで、思索を深めることができた、とか。
結局、すべては自分が選択する考え方次第だと私は思います。
「「徹底的に手間を省き、頭を使わずに済ませれる先に、究極の豊かさがあるのだ」と、ここまで極論すると、みんながみんな、首をかしげます。ところが今、この極論に通じる事態を私たちは知らず知らずに受け入れてしまっているような気がしませんか?」(p.77)
「WALL・E(邦題:ウォーリー)」という映画で描かれていた近未来の話です。何もする必要がなくても生きていかれる世界。それが便利を追求した先にある。身体を動かす必要がなくなり、動かさなくなれば、身体は退化します。究極、頭と心肺機能を維持する内臓だけでよくなる。果たしてそれが幸せなのでしょうか?
「・自由とは、何もしなくていいことだ
・自由とは、何をしてもいいことだ
さて、どちらが本当でしょうか?
これを初めて聞いた時、私自身も迷いました。私自身は、「義務」を課せられた状態では前者、「制限」を課せられた状態では後者を、自由と呼ぶ気がします。つまり、状況に依存して自由という言葉を使い分けているのです。」(p.79-80)
「さて、不便益の立場はどうでしょうか? なんとなく想像できるかと思います。何もしなくていいことを自由と呼ぶだなんてとんでもない、という立場です。」(p.80)
たしかに、義務を課せられた時に、その義務を果たさなくて良いというのは「自由」ですよね。そして、何かをしてはならないという制限を課せられた時は、その制限を破っても良いというのが「自由」です。
私は、ここで1つの視点が忘れられているように感じます。何もしなくてもいいとなった時、人は本当に何もしないのでしょうか? 何もしなくていいけど、何かをしたがるのではないでしょうか?
そうであれば、無理に不便益によって無理やり何かをせざるを得ない状況に追い込まなくても、私は自由にさせていいのではないかとも思うのです。
つまり、義務も制約もないのが「自由」であり、「自由」であれば、そこで何をするかは、その人の「自由」なのです。
「手間がかかったり頭を使わねばならなかったりする。そしてそれだからこその益がユーザーにもたらされる。そのようなモノゴトを「不便益システム」と呼んでいます。そして、そのようなシステムのデザインを「不便益デザイン」と呼びましょう。」(p.109)
あえて手間がかかるようにする。そのことによって、不便だけれども益があるということを楽しんでもらうデザインということですね。
たとえば、周囲が消えていくナビとかがあるようです。強制的に自分の頭(記憶力や推考力)を使わされる仕組みです。
「しかし、携帯電話やスマホを持つという便利な状態を経験したことがないので、比べようがなく、ピンときません。便利/不便というのは、比較の問題だったようです。」(p.137)
便利や不便、益や害(不益)も、すべて相対的なことですよ。つまり、自分が選んだ価値基準によって、どちらにでもなるのです。
だから私は、不便益ということそのものも相対的だから、それを絶対視するとおかしなことになると思うのです。
「あちこちにあるコンビニ・自動販売機・夜遅くまで開いているお店に違和感があり、生きづらいと感じる。その理由を二人で考えてみたところ、便利が前提になっている社会は個人が不便益を得ることを許してくれないからではないかと結論しました。」(p.159)
たしかに、安価に編み物のセーターが買える社会で暮らしていたら、わざわざ羊の毛を刈って毛糸に紡いでセーターを編もうなどとは考えないでしょう。そうする自由を奪われている社会とも言えます。
でもね、それでもあえてやるという選択もできるんじゃありませんかね? その選択をしないことを、社会環境のせいにするのもどうかと思いますよ。
「ただ、装備なくしての山登りは危険です。山登りで不便の益(達成感)を得るためには、「信頼できる装備」という便利が必要です。そして価値工学は、装備の機能を高めコストを抑えるという仕事で、不便益と協働することができるのです。」(p.161)
山登りというのは不便益だと言います。たしかに、山頂に登ることだけが目的であれば、わざわざ歩いて登らなくても、ヘリコプターで運んでもらえばいいのです。
その不便益である登山を支えるためにも、安全性や快適性を高める装備が必要になってくる。つまり、不便益を安易に享受するためのテクノロジーは、必要とも言えるわけですね。
でも、これも考え方次第だと思います。たとえば、エベレストは酸素ボンベを持っていけば比較的に安易に登頂できます。だからこそ、あえて酸素ボンベを持たない登頂(無酸素登頂)に挑戦する意義があります。
この考え方でいけば、冬山でも夏の装備での登頂とかも、挑戦の対象になりますよね。つまり、機能を高めた装備すら不要になるのですよ。
最初は興味深く読み始めたのですが、途中からは、なんかどうでもいいなぁという気がしてきました。
たしかに「不便益」という考え方は面白いと思います。そう思いますが、絶対的な「不便益」という価値観があるわけではないのです。
その人が選択する価値観によって、便利で役立つ(益がある)もあれば、不便だけれども、不便だからこそ役立つ、ということもあるのです。
そうであれば、ものごとはすべてニュートラル(中立)であり、そこに益を見出すかどうかは自分次第だということになります。
不便を楽しんでもいいし、便利を楽しんでもいい。ともかく、それを楽しんだらいいんじゃありませんかね。
【本の紹介の最新記事】