これはTwitterか何かの投稿を見て、興味を覚えて買った本です。
幕末の歴史には興味があったし、坂本龍馬という人物への関心もありました。その龍馬が、なぜ脱藩という決断をしたのか。そのことを、龍馬の足跡を追いながら、小説として表現した本になっています。
藩の中に留まっていたら、自由に行動できない。だから脱藩した。だいたいそのように説明されますが、しかし脱藩するということは、家族親族にも大きな影響がある重罪です。どのことを考えてみると、そう簡単に決断できることではないとわかります。
龍馬がどういう影響を誰から受けて、あるいは何から受けて、脱藩しようと決断するに至ったのか。脱藩からわずか5年で暗殺された龍馬ですが、その間に大政奉還という大きな事を成し遂げたとも言えます。脱藩したからこそできたこと。本当にそうなのか?
本書は、龍馬の脱藩に至る思いを知りたくて、その足跡を訪ねながら大城戸圭一(おおきど・けいいち)氏が書き起こした「幡龍飛騰(ばんりゅうひとう)」を原作に、山田徹(やまだ・てつ)氏が読みやすく小説化したものになります。
ではさっそく一部を引用しながら、内容を紹介しましょう。と言ってもこれは小説ですから、あまりネタバレにならないように、控えめに引用します。
「この物語は大城戸圭一(愛媛龍馬の会前会長)が二〇一二年に愛媛新聞サービスセンター刊で上梓した「幡龍飛騰(ばんりゅうひとう)」を原作とし、新たに加筆したものである。大城戸圭一の龍馬への深い尊崇の念と綿密な調査に基づき登場人物は実名であり、可能な限りの史実を辿るが、そこに刻まれない空白の溝を仮説・創作で埋めたものである。」(p.3)
すでに紹介したように、冒頭にこのように書かれています。
「市に向かう人々や荷車を押した商人、それに百姓らが道筋を往来して忙しい。この街路市には百姓らも店を開くことが許され、古くから続く南国の生活の風景が龍馬の心を癒す。
「こういう平穏な日々こそが大事ながや」」(p.20)
藩からの密命と、勤王党党首の武市半平太から密書を預かった龍馬は、萩の久坂玄瑞に会うために土佐を旅立ちます。その時、龍馬はこうつぶやいた。作者の山田氏は、この思いこそが龍馬の根底にあると考えたのでしょうね。
「日本中の藩の多くで論が割れていた。この伊予の各藩でも藩論を一致させるために奔走している者たちと話し合った。長い幕藩体制の疲弊を感じつつも、徳川への忠誠の思いも篤い。いや、それはそうでもあるべきなのだ。しかし時代はそうもいかぬ。そうもいかぬが「人の和にしかず」は龍馬に与えられた命題でもある。」(p.152-153)
何か事を起こすには、天の時、地の利、人の和が大事だと言われます、中でも人の和が大事だと、龍馬はそう感じていたのかもしれません。
西欧諸国がこぞってアジアを植民地化していた時代。もし日本国内でまとまることができなければ、容易に植民地化されてしまう。その危機感が龍馬にはあったのではないか。だから、徹底して争いを避けようとしたのだと。
「「坂本よ。お前はどうしたいのじゃ」
「わしは、この国の形を変えるなどは考えちょりません。いや変えるのはえいでしょうけんど、それだけでも藩論が割れ、妙な結社ばあ出来て、それが喧嘩の原因になっちょります。結局が血で血を洗うような抗争が起きちょります。それよりもずっと未来を見んと、政治が変わったち民の苦しさはなんちゃあ変わりませんき」
「ほう、それで」
「はい。それでとにかく船を買うて、造船技術を磨いて世界に売り込めるばあの船を作れるようにします。ほんで世界を相手に商売をしますき。いまは競ってよその国の物を買うて、日本のそう多うない富を西洋に取られちよります。なんぼ殖産興業をしたち、それを売りに行く船が無いと話にならんがです。ほんで人も運んで金を取るがです。海運、海事。日本は世界に誇る海洋国家ですき。そうすれば海軍も強う出来ます。海軍は武士のような者らでは出来ません。海軍は商売をします。それを貿易と言いますき」
「では、国はどうする」
「この国は、優秀な者らがどっさりおります。いまはあちこちで喧嘩ばあしゆうけんど、わしはこれらを仲良うさせて一つになってくれいうて頼みます。ほんで彼らに任せていたらえいでしょう」
「お前はその時どうしたいのじゃ」
「船に乗りますき。船で世界中を回って来ます。世界はまだ見んものがどっさりありますろ。それをこの国に持ち帰って女や子供たちにも見せちゃりたいと思うちょります」」(p.179-180)
実際にあったかどうかはわかりませんが、宇和島藩の伊達宗城(だて・むねなり)と龍馬との会話です。大政奉還を成し終えた後、龍馬は政権に入ろうとはせず、世界の海援隊になると言った話は知られています。そのことからして、こういう会話があったのかもしれませんね。
「お前ら三人に頼みがある。よう聞け。龍馬と児島と土居じゃ」
児島と土居は、膝を直した。
「はい。なんなりとお申し付けください」
児島が明瞭な声で答えた。
「ええか、お前ら三人は藩を出ろ」
「と言いますと」
児島が低い声で訊き返した。
「脱藩せよ」
宗城は冗談で言っているのではなかった。」(p.192-193)
開明的な伊達宗城は、自藩の有能な下級武士の2人に対して、藩命で脱藩をさせたのではないか。そこに龍馬も連なっていたのではないか。
あくまでも仮説ですが、その後の動きを見ると、そう考えることもできるということですね。
「それは結社に入ること、つまり藩の形式論と結社の思想は、合致する時は良いが、ひとたび論が割れると凄まじいことが起きる。自由が無く、その組織の論理の前に身動きが取れなくなる。
脱藩をすれば、勤王党にも距離が置ける。いやなにも距離を置きたいという事でもないのだが、組織には組織の掟と、異論を許さないほどの激しい思想がある。誰かの思想や組織の理論に立ちすくむならば、少しも目的へは向かえまい。」(p.216)
土佐勤王党に入った龍馬は、勤王党という結社に束縛されることを嫌ったとも考えられます。尊皇攘夷に反するなら誅殺される。そういう不自由さが、龍馬には受け入れられなかったのかもしれません。
「安政六年十月、安政の大獄によって松陰は刑死した。龍馬は知る限り松陰の最後について考えた。松陰に斬首刑を言い渡した井伊直弼が敗れたのではなかったか。辞世は
身はたとひ武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし大和魂
これだ。これを発するため流刑ではなく斬首になるべく、いわずもがなの間部(まなべ)要撃策を自白した。それは老中首座間部詮房(まなべあきふさ)に条約破棄と攘夷を迫り、拒まれれば討ち取る、という策であり実行には至っていなかったものだ。」(p.263-264)
吉田松陰は、その思いを残る志士たちに伝え、奮起させるために、あえて刑死の道を選んだのではないか。たしかに、そうかもしれませんね。
「龍馬は、この岡本三右衛門との日々で、遂に最後の決心をした。
「これは間違いなく、藩を出て取り組むのだ。この岡本さんの考えはこれまでの誰よりも正鵠を射ておって面白い。わしは、どうあっても脱藩する。いや脱藩せにゃあいかん」」(p.296)
瀬戸内海の海運によって富を築いた岡本は、日本を改革する若者を支援することで、自分の人生を有意義なものにしたいと思っていたのでしょうね。龍馬はその支援を受けて、脱藩を決意した。つまり、自分の人生のすべてを、将来の日本のために捧げる決意をしたのです。
実際にそうだったのか。それはわかりません。これからまた新たな事実が出てきたら、歴史は書き換えられるかもしれませんから。
しかし、幕末において倒幕でなければならないという考え方と、公武合体による佐幕と、どれほどの違いがあったのか疑問に思うことがあります。そこは、西洋列強の脅威を、どれほど感じていたかの違いなのかもしれませんね。
私は、考え方が違う相手であっても受け入れて、仲間にして、みんなで日本を豊かにしていこうという龍馬の考え方が好きです。
でも、そうでない考え方の多くの人たちも、この国を何とかしようとして立ち上がったのだと思います。だから、そういう「思い」そのものには、リスペクトしています。
今、ウクライナ戦争が起こり、コロナ騒動があり、世界はまた未曾有の激変の時代になったとも言えます。過去の歴史を振り返りながら、今、自分はどう生きるのか? 改めて考え直したいなぁと思います。
それにしても、今、平和で豊かな生活環境が与えられている日本は、龍馬のような先人たちが活躍してくれたお陰だなぁと思います。本当に、ありがたいことです。
