2022年07月15日

民族と文明で読み解く大アジア史



私の友人でもある宇山卓栄(うやま・たくえい)さんの本です。
宇山さんの本は、以前に「世界史で学べ! 間違いだらけの民主主義」や「経済で読み解く世界史」を紹介しています。いずれも、歴史に関する深い知識をベースに、論理的な思考によって真実をあぶり出そうとするもので、素晴らしい内容だなぁと思っています。

今回の本は、アジアの有史以降の歴史を解明しようとする試みです。民族的にどうなのか、語族(言語)的にどうなのか、遺伝子的にどうなのかと、実に多角的に解明しようとされています。
これまでの権威的な思い込みの歴史解釈を排して、事実を基にして解明しようとされてる姿勢には共感します。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介します。

文明は民族の思考と行動の累積であり、民族の持つ世界観を表します。日本や中国、朝鮮半島などの東アジアはもちろんのこと、東南アジアやインド、中東や中央アジア、トルコに至るまで、アジア民族の足跡を幅広く辿ります。
 同じアジア民族でも何が異なり、何が同じなのか。アジア各民族の思考のパターンや習性とは。こうした問題意識とともに、アジア人やアジア文明を、つまり「我々とは何か」を、読者の皆様と考えていきます。
」(p.4)

これが本書に書かれていることであり、その目的でもあります。


中国の統一王朝で、漢字を使う漢民族が作った王朝は秦、漢、晋、明の4つしかありません。中国の主要統一王朝は「秦→漢→晋→隋→唐→宋→元→明→清」と9つ続きますが、そのうちの5つが異民族の作った王朝です(本来、北方遊牧民を「異民族」と表現すること自体が適切ではありません。遊牧民からすれば、漢民族が異民族であるからです)。秦、漢、晋、明の4つのうち、秦と晋は短命政権で、わずか漢と明の2つだけが実質的な漢民族の統一政権でした(秦の建国者のルーツはチベット系の羌(きょう)族であるとする見解もあり)。」(p.16-17)

のっけから目からうろこでした。中国の統一王朝については歴史で習いましたが、漢民族の王朝かどうかという視点すらありませんでした。
それでも、元はモンゴル族であり、清は満州族だということくらいは、何となくわかっていました。しかし、実は漢民族の王朝がわずかにしかなかったのですね。


遊牧民の共通の文化的特徴として挙げられる最大の点が実力主義です。定住生活をしない彼らは敵対部族との接触も頻繁であり、さまざまな状況に流動的に対処しなければならず、能力のある者が指導的な地位に選出されました。能力があれば、異民族でも受け入れて厚遇したのです。」(p.20)

漢民族と違って遊牧民(北方の異民族)は、実力主義という特徴があったのですね。たしかに元もそれによって国家統治をしたということを歴史の授業で習いましたよ。


日本でも、この中国式の「四大文明」が教科書のトップに記され、梁啓超の言説に依拠しただけのものに基づいて間違った歴史教育が公然となされています。
 しかし中国では、黄河文明とともに長江文明も栄えており、稲作が盛んであったことを示す遺跡が1970年代以降、浙江省余姚市の河姆渡遺跡などをはじめ、多く見つかっています。日本の稲作も長江流域から直接伝わりました。
 長江文明は黄河文明に匹敵するような豊かで巨大な文明であったにもかかわらず、教科書や一般の概説書では、ほとんど扱われていません。なぜでしょうか。
 第一に、黄河文明を擁した漢民族こそが中国唯一の文明の発現者であるとする定型的な中華思想の歴史理解の中で、長江文明の存在を教科書などで意図的に扱わなかった。あるいは扱いたくなかったということが背景としてあるでしょう。
」(p.27)

教科書や一般の概説書では、中国文明は黄河流域から発祥し、文化や人口が南方にも広がっていったと解釈されます。中心たる黄河流域に対し、長江流域は周辺であったと位置付けられていますが、この捉え方がそもそも間違っています。黄河流域と長江流域には、それぞれ独自の文明があったのです。
 紀元前2200年頃、良渚文化が洪水で衰退して、黄河流域の勢力に征服されて以降、黄河文明が優位的となりますが、それ以前は2つの文明が併存していました。
」(p.31)

日本人はさまざまな方面からの民族の雑多な混合形であるものの、文明や民族の血ということにおいて、その多くを長江人に負っていると言えます。両者の遺伝子が近似していることからも明らかです。一方、日本は畑作牧畜の黄河文明からはほとんど影響を受けていません。したがって、この時期に中国の北方から朝鮮半島を経由して渡来人が多くやって来て日本に文明をもたらしたという、教科書や概説書にいまだに書かれている従来の説は、見直されるべきでしょう。」(p.33-34)

紀元前9000年頃、稲作が行われていた痕跡を明確に示す遺跡は長江流域以外に世界中どこにもないことから、稲作のはじまりは長江流域にあると考えられます。長江の稲作文化が世界最古で、その後、中国南西部の雲南省、東南アジア、インドのアッサム地方に拡大していったと見直されています。」(p.36)

これも目からうろこの話ですね。黄河文明しか知りませんでしたが、実は同じくらい豊かな文明が長江流域にあって、稲作文化はそこから伝わってきた。これが、合理的に考えられるというのです。


かつて、弥生人の人骨が面長で、縄文人の人骨が丸顔であるとする発掘調査が報告されたことがありましたが、これも実は、部分的なサンプルだけを意図的に抽出した結果に過ぎません。全体の人骨を俯瞰すれば、弥生が面長で、縄文が丸顔などという定型的な区分ができないことは明らかであり、特定の時期に民族が入れ替わったことはないとわかります。
 文明的にも、縄文時代後期の紀元前1000年頃に稲作文化が漸次的に普及していき、弥生時代にそれが確立したのであり、その社会的変化と移行は長期に及ぶ緩やかで静的なものでした。
」(p.62)

縄文から弥生への時代の変化も、これまで歴史の授業で習ったことが、必ずしも正しくなかったと目を見開かされました。


扶南人とチャム人はヒンドゥー教などのインド文明の受容により、武力侵略的な中華文明に対抗しました。多神教のヒンドゥー教は多元的な価値を包容する文化的な寛容性を有していたのに対し、中華文明は儒教に代表されるような身分秩序を厳格に強制しながら、官僚的な社会統制を敷きました。中華文明は言わば「力の文明」であったのです。素朴で牧歌的な原初生活を営んでいた東南アジア人にとって、中華文明は受け入れがたいものでした。」(p.198-199)

中国は周辺国への侵略を繰り返していますが、一方のインドには、そういう歴史がありません。にも関わらず、ヒンドゥー教などインドの文化が周辺国にも広まっている。その理由を、このように説明しています。


トルコ人やモンゴル人は中華文明を拒絶しましたが、イスラムについては、これを受け入れたのです。周辺異民族を蛮族とみなす中華思想には、何の包容力もありませんでしたが、「アラーの前の平等」を唱えるイスラム教には、文化文明の相違を超えて多民族を同化する力があったのです。」(p.233)

イスラム教がキリスト教よりも他人種・多民族に強い訴求力を持って広がっていたのは、徹底した平等理念を掲げ、階層主義や組織主義を排したことが大きかったのです。」(p.234)

力ずくで自分たちの文明を押し付けようとしても、それはなかなか上手く行きません。それを受け入れるメリットが感じられなければ、やはり受け入れてはもらえないのですね。


この広いアジアの歴史を、それぞれの民族や国家の成り立ちから紐解くことは、実に大変なことだと思います。それをこうやって1冊の本で知ることができる。とても貴重な本だと思いました。

もちろん、宇山さんの解釈が絶対的に正しいとは思いません。けれども、事実に即して論理的に考えるというスタンスがあれば、より真実へと近づいていけると思います。
今後も、歴史の真実に迫る情報を提供してくださることを期待しています。

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タグ:宇山卓栄
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 20:13 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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