日本講演新聞でよく紹介されている執行草舟(しぎょう・そうしゅう)氏の新しい本です。新刊という意味もありますが、これまでとは違って、わかりやすく書かれた本になっています。
これまでの本(「「憧れ」の思想」)は、やたら小難しくてとっつきにくい、けれどもいいことを書いている、という印象でした。その本意がわかってくると、スムーズに読めるのですが、それまでは「何を言いたいんだろう?」という思いがあって、頭に入ってこなかったという印象があります。
今回は、比較的に若い層(20〜40歳)に向けた内容で、1テーマごとの完結で、わかりやすく書かれているようです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「どうして成功したいと思ったこともない私が、こんなことになっているのか。
その理由があるとすれば、思い当たることは一つしかありません。小学生の頃に出会った武士道の書『葉隠』です。」(p.4)
執行氏は、小学校1年で「葉隠」と出合い、その哲学に心酔し、極めて来られたようです。その後、事業を始められてそれが上手くいくなど、世間的には成功者だと思われています。その理由は、成功を求めることではなく、「葉隠」の生き方を実践してきたことにあると思われているのですね。
「『葉隠』で語られていることを簡単に言えば、体当たりの精神です。この世を生き抜く者としての「生命の燃焼」を教えてくれているのが『葉隠』の真髄です。
さらに分かりやすく説明すると、ボロボロになるまで体当たりを繰り返して、燃え尽きて死ぬ。そういった価値観が『葉隠』で言われていることです。良い子になるための「道徳」とは別物だということを、分かってもらいたい。」(p.17)
「人間関係の改善に役立つかどうかも、関係ありません。生まれたら、命が尽きるその日まで、ものごとに体当たりし、実践し続ける。これが武士道です。損も得もなければ、良いも悪いもありません。」(p.18)
「何が言いたいかというと、武士だけの生き方論が「武士道」ではなく、日本人としての本当の生き方を示しているのが「武士道」だということです。
『葉隠』では、自分の生命が求めるものに体当たりを繰り返し、何の功名を求めることもなく死んでいくことが「本当の人生」だと説いています。」(p.19)
ここでもうすでに結論が語られており、以下はその繰り返しとも言えます。
つまり、結果を求めることをしないという生き方です。結果はどうでもよく、ただそうすることが自分らしいからそうする。それが正しいかどうかさえ、どうでもいいのです。あくまでも自分の魂の声にしたがって、命も惜しまずに全力を出し切ること。それが武士道であり、『葉隠』に示された生き方であり、日本人みんなが踏み行うべき道だと執行氏は言われるのです。
「会社を辞めるのは、一向にかまわないと思います。でも、それは自分のわがままから出たことだということを、分かっていないといけません。会社が悪い、上司が悪いといって他人の責任にするのは、武士道ではありません。
上司がどうあれ、会社がどうあれ、すべては自分の責任だと考える。そうすることで、さらに鍛錬を積み重ね、一人の人間として成長することにつながります。上司や会社に恨みを残すこともないでしょう。」(p.24)
昔は「お家」というものを絶対的な存在とし、そこに忠誠を誓う生き方が武士道とされてきました。現代ではすでに「お家」というものがないので、それに近いのが「会社」ではないかと執行氏は言います。
しかし、その「お家」と同等の「会社」でさえ、辞めることそのものを否定はしないと言うのですね。どう決断したにせよ、その責任はすべて自分にある。その生き方の方が優先されるからです。
なお、理不尽な目に合うことは、生きていればいくらでもあることで、それによって鍛えられるという話もされています。会社に限らず、家族も同じだということも言われていますね。
すべてにおいて、自分の思い通りの結果を目指すのではなく、自分らしく生き抜くことが優先される。結果はどうでもよく、勝手に後からついてくる。そういうことではないかと思います。
「バカにされたからといって、私はその人を憎んだりはしません。言いたいことを言えば嫌われることなんて、分かりきっているからです。
バカにされようが、嫌われようが、信念を語る生き方をする。それを武士道は教えてくれます。」(p.29)
執行氏は、出会った人の99%から嫌われ、バカにされていると言います。それでも、そういうことを気にせず、自分を貫き通しておられるのだと。
「私が言いたいのは、お金があるから、本を読んでいるからできるんだ、という話ではないということです。人を助ける人は、お金があるかないかにかかわらず助けます。自分が食い物に困ってでも相手を助ける。これが本当です。「お金持ちになったら人を助ける」なんて言う人がいますが、それは嘘です。
金持ちだから、成功したから、健康だから、自信があるから、これらは自分の生き方と何の関係もありません。本人が決意した生き方が、その人の生き方です。」(p.31)
何らかの条件を付けている限り、それは言い訳になります。やらないことの言い訳です。
本当にそれがやりたいなら、無条件に始めるはずです。今、できることをやるはずです。
そこには、「自信がなくてできない」という言い訳も含まれると言います。何かができるから、何かがあるから、という理由で自信が持てるなら、その自信は偽物です。根拠のある自信は、簡単に崩れ去ります。だから私は、「根拠のない自信」を持つよう勧めています。「根拠のない自信」とは、自分が「やる」と決めるだけのことですから。
「自分の生まれやルーツのことを「宿命」と言います。「宿命」とは、終わってしまった運命のことです。出身地、家、卒業した小学校、これらはすべて「宿命」です。これから先にある運命ではなく、自分の過去にあった運命のことです。
「宿命」は変えることができません。例えば、日本人であること。ひとたび日本人として生まれてきたからには、どう転んでもフランス人という人種にはなれません。親もそうでしょう。自分の両親から生まれてきたという事実は、絶対に動かせないのです。」(p.48)
宿命と運命の違いについては、いろいろな説明があります。すでに起こった運命を宿命と呼び、未だ起こっていないものが運命だという説明は、なるほどと思いました。
「私は、商売や事業は「志」を実現するためにやるものだと思っています。「志」がなかったり、ダメになったりしては、事業を行う意味はありません。」(p.58)
執行氏にとっての事業は、自分の志を表現するものであり、単に生活のためとか、儲けるためではないと言うのですね。
したがってその志のための適正な規模を保つように心がけておられるそうです。
「現在の日本には、家制度がほとんど残っていません。ですから、家制度と聞いてもピンと来ない人が大勢いると思います。しかし、昔の家制度に最も近いのが、先にも触れましたが、いまの会社組織だと言えば、イメージしやすいのではないでしょうか。
武士は、「家」を大事に考え、それを守るために戦いました。相手を攻め負かすというより、自分にとって大切な「家」のために、槍や刀をとったのです。
つまり、先述したように「武士道」は、”戦いの哲学”ではなく、”守りの哲学”だということを思い出して下さい。」(p.77)
先に書いたように、武士道の本質は「お家」のために命を投げ出すことです。現代であれば「会社」だと執行氏は言います。そしてそれは、他を打ち負かすためではなく、守るために命を投げ出すのだと言うのですね。
「武士道で重要なのは、成功や失敗ではありません。いったん自分が選んだのなら、そこに自分の人生と命を捧げる。大事なのはそこです。
選んで命を捧げた結果、失敗したのだとしたら、それは運命です。『葉隠』でいう犬死にになるかもしれませんが、それはそれでいい。『葉隠』の武士道では、犬死にOKです。」(p.146)
そもそも結果に執着していないのですから、成功か失敗かなど、どうでもいいことなのですね。自分が選んだ(決めた)という一点によって、そうする意義が生まれる。
私も、妻のことを愛するのは、私が愛すると決めたからだ、と考えています。妻がどうこうとか関係なく、私がそう決めたから、それに従うだけなのです。
「よく「会社のここがダメだからうまくいかないんだ」とか、「こういうところがイヤなんだ」という人がいます。そういう人に限って、きれいごとばかり言っています。
人間に欠点があるように、どの会社にも欠点はあります。すべてが美しいなんてことはありません。汚れた部分はあるし、表面からは見えない裏の部分もあります。」(p.156)
「こうしたダメな部分を拒絶するのではなく、受け入れ、許したとき、会社の中で自分が何を成すべきかという使命が分かります。分かったら、そこに全精力を傾ける「やる気」がわいてきます。」(p.158)
完璧を求めるということは、他人に責任を負わせるということなのですね。不完全であってもそれを受け入れ、自分の責任で何とかしようとする。そういう生き方こそが、「志」のある生き方だろうと思います。
「学校もそうでした。昔は先生がムチを持っていて、子どもが嫌がる暗記や筆記をさせていました。やらないと、問答無用に容赦なくムチが飛んでくる。まさしく「不合理」です。
しかし、この「不合理」があったからこそ、子どもたちは人生を考え勉強ができるようになり、社会に出て働ける人間になれました。自分の能力を伸ばすこともできた。
私は、「思い通りにならない」「イヤなことをせざるを得ない」といった、文明の毒素ともいえる「不合理」が、最も人を育ててくれると思っています。
だから、本当に成長したいと思ったら、「不合理」から逃げてはいけません。「不合理」という毒を食らい、消化し、自己化するのです。」(p.179)
困難があるから成長できる。私もそう思います。しかし、だからと言って暴力が正しいとは思いませんがね。
「信念を貫き、自分として一生懸命やれば、出世できなかろうが、儲からなかろうが、そんなことはどっちでもいいのです。出世や儲けを考えること自体がダメなのです。
平社員で一生を終える運命であるなら、その運命を一生懸命に遂行すればよい。「損な生き方だ」と思うかもしれませんが、葉隠流に言えば、その考え方がもう上方風の格好つけ武士道なのです。」(p.207)
ここでも、結果を放り出して、やるべきことに邁進する姿勢、つまり生き方こそが大切なのだということを言っています。
結果が出ないからダメなのではない、ということを言われているのでしょう。私もそう思います。
結果にとらわれずに行為に情熱を燃やすという生き方は、私も「神との対話」によって知っていて、実践しています。できているかどうかは別として、そう生きようと思っています。
ただ、執行氏が言うことの多くに賛同するものの、一部には納得できない部分もあります。
たとえば原発批判です。特にその理由を言われず、さも当然かのようにあるべきではないと決めつけられています。執行氏がどう考えるかは自由なのですが、それがさも絶対的に正しいかのように言われるのには、私は違和感を感じます。なぜなら、ここに引用したような執行氏の考え方と矛盾すると思うからです。
何が正しいかなど一概には言えないはずです。その人にはその人の正しさがあり、その思いに従って命を燃焼させているなら、それでいいというのが武士道ではないのでしょうか? そうであれば、原発の研究や推進にだって、それぞれの思いがありますよ。そんなことがわからないのでしょうか?
そういう思いもあって、ややもやもやする部分はあります。
しかし、全般的に観れば、結果を気にせずに自分らしく生きよ、というメッセージだと思うし、そういう点では共感しています。

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