SNSで友だちが紹介していたので、面白そうだと感じて買ってみました。
興味が湧いたのは、著者が理系だということ。そこをウリにするということは、小説の中に理系の要素が取り入れられているということです。どんなふうに取り入れられているのか、そこに関心があって読んでみることにしたのです。
私が買ったのは文庫本です。検索でたまたま先にヒットしたので、単行本ではなく文庫本になりました。でもお陰で、短編をいくつか読むことができ、著者の伊与原新(いよはら・しん)さんの小説の傾向が見て取れました。
この文庫本には、タイトルにある「月まで三キロ」という小説の他に、5つの小説が盛り込まれています。さらに、この文庫本用に書かれた超短編も含まれています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介していきましょう。しかし、これは小説ですから、なるべくネタバレしないように、物語のキモを紹介したいと思います。
「ある日のことだった。母の月命日だったので、仏壇に仏飯を供えていた。父がそれを手づかみにして、口に入れようとした。普段なら好きにさせただろうが、その日は朝から言うことを聞いてくれず、いらいらしていた。父の手首をつかんでやめさせようとすると、逆につかみかかってきた。それを力まかせに引きはがし、顔面をなぐりつけた。倒れ込んだ父は、失禁していた。匂いが辺りに漂った。畳に染み出す尿を見つめていると、涙があふれてきた。膝から崩れ落ち、嗚咽した。」(p.36 「月まで三キロ」)
この物語には、老人介護の問題、認知症の問題が関わってくるのです。私が今、老人介護施設で働いているだけに、ここの描写は共感するのです。
「そうだ。違う。父はあんなところにいるわけじゃない。岐阜にいる。老人ホームにひとりでいる。岐阜駅まで行けば、そこから三キロもない。
父は、もう何も答えてはくれない。でも、焦点の合わないその目を直接のぞき込むことはできる。耳もとで直接問い質(ただ)してやることはできる。
息子のことをどう思っていたのかと。息子に本当は何を伝えたかったのかと。そして、息子のことを愛していたのかと。」(p.52-53 「月まで三キロ」)
認知症になった親に、何をしたって意味がない。そう考えることもできます。しかし、相手が何も返してくれないとしても、こちらからアプローチし続けることはできるのです。
問われているのは、相手がどうするかではなく、自分がどうするか、それだけではないのか? そんなことを考えさせてくれるのです。
「なんで別居することになったの? 離婚するつもりなの? 親権はどうなるの? 何を訊いても、「それは大人の話だから、そのうちね」。そうやって除(の)け者にされるのは、うんざりだった。もう十二歳。そこらの小学生より知識はある。幼稚な駄々をこねたりもしない。話してさえくれれば、何だってわかるのだ。」(p.131 「アンモナイトの探し方」)
こういうことって、あるんじゃないかなぁと思いました。大人は子どもを、大人のミニチュアだとか、未熟な大人だと考えがちです。でも、本当にそうでしょうか?
私も、正直に話してくれない母に対してキレたことがありました。きちんと話してくれれば、私だってわかるのに、と。
「私はそのとき思い知った。わかるための鍵は常に、わからないことの中にある。その鍵を見つけるためには、まず、何がわからないかを知らなければならない。つまり、わかるとわからないを、きちんとわけるんだ」(p.143 「アンモナイトの探し方」)
登場人物のセリフですが、このセリフについては、巻末にある逢坂剛(おうさか・ごう)氏との対談の中で、逢坂氏が指摘しています。
「気の利いた警句がうまいタイミングで出てきますね。」(p.360)
「こういうセリフはいいですね。」(p.360)
私も、この哲学的な表現が、とても良いと感じました。「わからない」を明確にすることによって、「わかる」が輪郭を見せてくれるのです。
「「やることはまだいくらでもあるからな」
「いくらでもって……」朋樹もそちらに顔を向ける。「いい場所はもう水没しちゃったんでしょ? それとも、ここは見込みがあるんですか? 何かすごい発見がありそうとか」
「そんなことは誰にもわからん。わからんからやるんだろうが」戸川は渋い顔で言った。「やるのは誰でも構わんが、何年、何十年かけてでも散々やってみて、それでもダメなら、ここはダメだということがわかる。そして、次の場所へいく。わかることではなく、わからないことを見つけていく作業の積み重ねだよ」」(p.156 「アンモナイトの探し方」)
エジソンが電球を発明した時のエピソードを思い出します。失敗するということは、それがダメだとわかるということです。それだけ成功に近づいているのだと。
こういう考え方がなければ、地道な作業の繰り返しはできません。一足飛びに成功だけを追い求め、けっきょく何もできずに終わってしまうのです。
化石を見つけるという作業も、同じなのですね。たとえ有力な場所がダメになっても、まだ掘っていない場所はある。だったら、探してみるしかない。それが、研究者の考えなのです。
「「優−−」哲おっちゃんが兄貴に顔を向ける。「さっきの最後の質問の答えは、冗談や。ミカに言うといて。人生に後悔はつきものや。でもそれでええやないか。そのために、ブルースがある。優には優の、健には健の、ミカにはミカのブルースがある。お父ちゃんは、機嫌ようお父ちゃんのブルースをやってますさかい−−ってな」」(p.212 「天王寺ハイエイタス」)
何を選択しても、選択しなかった方に未練が残ることはありますよ。だって、それを経験しなかったのですから。でも、それが人生なんですよね。
伊与原さんは、元々ミステリー小説を書かれていたそうです。科学的なことは、専門家にとっては常識でも、一般人にはよくわからないこと。だから、それをミステリーのトリックにしていたのだとか。
たしかにそういうトリックはありますね。たとえば、鋭い何かで刺殺されたのに、凶器が見つからない、実はその凶器は「つらら」だったとか。
伊与原さんは、そういうミステリー小説を書かれていましたが、ある時に限界にぶち当たって、編集者からミステリーじゃないものを書いたらどうかと言われて、「月まで三キロ」を書いたのだそうです。それによって、新ジャンルを切り開くことになったようです。
私はこの短編集を読んで、科学的なうんちくがみごとに伏線になっているなぁと思いました。小説のテーマは、別のところにあります。それは、恋愛というよりも家族愛のようなものですね。
そして、主人公が様々な出会いをしますが、状況は何も変わらないのです。正義のヒーローも現れないし、事態が急変することもありません。ただ、主人公の見方が変わるのです。それによって救われると言うか、穏やかな満足感が訪れます。
何だかホッとする小説ですね。ミステリーのようでミステリーじゃない。科学のようで、科学もどうでもいい。まさに新ジャンル。率直に、面白いと感じました。
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