認知症になった母親、それを支える年上の父親。その家族のありさまを、娘の立場で書き綴ったエッセー集です。
この物語は映画になっています。著者の信友直子(のぶとも・なおこ)さんが、自ら撮影した動画をもとにしたドキュメンタリー映画です。
私の母親も認知症(レビー小体型認知症)になり、父親が老々介護をしました。そういうこともあり、このテーマには非常に関心があります。
さらに、私は今、老人介護施設で認知症のお年寄りと向き合っています。どう対処すればいいのか、悩む日々です。だからこそ、このテーマを扱った本書に関心を持ったのです。
ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。
「私が、母に対する胸の奥のどす黒い思いを吐き出した回では、
「うちだけじゃないんだ、と思ったら励まされました」
というお手紙もいただきました。そして私は「ああ、私はこの人の役に立てたんだ」という喜びを、取り戻すことができたのです。
やっぱり私、誰かの役に立ちたいんですよね。役に立てたことで、私はいてもいいんだな、と安心できる。認知症になって「私はもう家族の役に立てんようになった。この家におってもええんじゃろうか」と悩んでいた母と同じです。」(p.4)
この考え方は、ある意味で麻薬のようなものだと思っています。役に立つから存在意義がある。その考え方をする限り、究極的に人は幸せになれない。私はそう思うのです。
「でも母に理不尽に怒られてばかりの父はよく我慢しているなあ。それが不思議だったのですが、ある時、父がポツリとこう言ったのです。
「直子もお母さんを傷つけるようなことは言うなよ。お母さんが一番不安なんじゃけんの」
ああ、父は全部わかっているんだ。その上で母をいたわり、支えようとしているんだ。私は父の度量の広さに感動しました。」(p.21)
認知症になった人が一番苦しんでいる。たしかにそう思います。だから、周りが支えてあげなければならない。たしかにそうです。でも、その思いによって、支える側が苦しむこともあるんですよね。だから、この問題は難しいのです。
「「母が認知症になったからといって不幸なことばかりだろうか? だからこそ気づけた素敵なこともあるんじゃないか?」
私にとって認知症からの最大の贈り物は、父が案外「いい男」だと気づけたことでした。」(p.32)
何が「良い」か「悪い」かなど、一概には言えません。大変な問題でもある認知症においても、「良い」と見ることができるのですね。
「母が認知症になって、父と母の距離はぐっと縮まりました。娘としては目のやり場に困りますが、それでも60年連れ添った人生の最終章にこんなスキンシップが取れるなんて、幸せなことではないでしょうか。」(p.37)
認知症になったことで、理性のバリアが取っ払われて、素直に甘えられるようになった母親。そしてそれを受け止める父親。たしかにそれは、素敵なことだと思います。
「私も決して、母の認知症を最初から「贈り物」だなんて思えていたわけではありません。大好きな母が壊れてゆくのを見るのは怖く、悲しく、目を背けたくもなりました。
でも気づいたのです。いくら目を背けたところで現実は変わらない。ならば潔く受け止めて、その上で少しでも前向きに、楽しく生きる方法を工夫した方が得じゃないかと。これは、長く暗いトンネルを抜けてつかみ取った、生きるコツのようなものです。」(p.38-39)
すべては見方次第です。そこに気づくために、認知症という困難な状況に向き合う必要があった。そうとも言えるのですね。
「そして気づいたのです。ああ、こうやって笑いが生まれたら、母も安心するんだな、と。母は自分の居場所がないと感じているのですから、「お母さんがおっても、お父さんも私もこんなに楽しいんよ」と態度で示せばいいのです。そうすれば母も「ああ、私はここにおってもええんじゃね」と安心します。」(p.53)
認知症になると、どうなっていくのかわからない「不安(恐れ)」から、疑心暗鬼になりがちです。家族が自分を邪魔者にしているのではないか? その疑念を払拭してあげることが大切なのですね。
お父さんの「何じゃ? わしゃ聞こえんわい」という聞いてないふりというのも、大いなる愛なのではないか。そうやってボケて笑いを取ることで、余裕が生まれるのです。
「母に疎外感を与えるのが一番良くないので、父も私も必死でご機嫌を取りました。そうしないと「私が邪魔なんね」「おらん方がええんじゃろ」と被害妄想が膨らんで、手に負えなくなるからです。そして、父も私も次第に母に気を遣うことに疲れてきました。」(p.64)
認知症の人の「不安(恐れ)」を刺激しないようにするために、機嫌を取ったり、あえて介入しなかったり、何が正解かはわかりませんが、介護者にはいろいろと苦労があるのです。
でも、そういう気遣いを重ねることによって、介護者が疲れてくるのです。
「父にとって母の介護サービスを受け入れることは、自分の限界を認めることです。手に負えなくなったから助けてください、と白旗を揚げることです。私は父の誇りを傷つけてしまったんじゃないか? 私の安心のために、父を傷つけてもいいのか?
でも、こうも思うんです。
人は必ず年をとる。父だって一人で母の面倒を見られなくなる日がいつかはやってくる。今、父が感じているだろう無力感は、いつかは味わわなければならないものなんだ……。」(p.77)
介護保険ができても、他人の介護を受け入れるということが、昔の人には理解できないのでしょう。それもまたその人の生き方ですからね。
でも、老人介護は、家族だけでは大変すぎると思うのです。だからこそ、老人介護を公的(社会みんなの責任)にすることは、良いことだと思うのです。
「つい最近、父がつぶやいた名言があります。
「年寄りにとって、「社会参加」いうのは社会に甘えることなんじゃのう。かわいい年寄になって、何かしてもろうたら「ありがとう」言うんが、わしらの社会参加じゃわい」」(p.80)
まさにそうだなぁと思う反面、そうしないと介護してもらえない悲しさも感じます。
「「介護はプロとシェアしなさい。家族の役割はその人を愛することと割り切って」……今井先生からこう教わって初めて、自分が「介護の責任」を履き違えていたことに気づきました。
娘の私がいるのに、母の世話を他人のヘルパーさんに押しつけるなんて、責任逃れ……それまで内心そう思ってきました。でもそれは言葉を変えれば、世間体を気にしていたということです。」(p.106)
介護保険制度の素晴らしい点は、「介護」を家族の義務(役割)から解放したことです。家族には、家族にしかできないことがあるのですから、たとえ介護をするとしても、それが最重要だと考えないことですね。
「そう、近所の人たちは本当にやさしかったのです。人生100年時代と言われ、誰が認知症になってもおかしくない今、「あそこのおばあさんはぼけた」と陰口をたたく人はいないのです。誰もが人ごとでなく自分ごととして認知症を捉えているから、母のことも親身になってくれる。そう実感しました。もっと早くご近所に話して、頼ればよかったな。」(p.108-109)
昔ながらのコミュニティがあると、認知症はずいぶんと助けてもらえますよね。それは、他の本でもそう感じました。
でも、そういうコミュニティのない都会ではどうでしょうか? あるいは、たとえ田舎だとしても、全員が全員、認知症に優しいわけではないという現実もありますよね。
事実、私が勤める施設でも、認知症の人を同じ認知症の人が責めるという現実があります。だから、必ずしも認知症であることを公開しても、それで上手くいくわけではないと思うのです。
「大好きだった母がどんどん別人になってゆく。おもらししても知らん顔。指摘するととぼけ、そのうち逆ギレして、
「私はおらん方がええんじゃろ!」
こんな姿を見せられて、心が揺れないはずはありません。
悲しさ、情けなさ、絶望感。認知症の肉親を介護している人なら、誰もが思い当たる葛藤ではないでしょうか。」(p.110)
認知症と排泄の問題は、本当に深刻だと思います。指摘したからと言って、上手くいくわけではありません。
では、どうすればいいのか!? それがわからないから、周囲は苦労するし、だからこそ認知症にだけはなりたくないと思うのです。
「母はこんな思いまでして生きていたくないんじゃないだろうか。いっそ死んだ方が楽なんじゃないだろうか。そんな思いが頭をよぎったことも一度や二度ではありませんでした。」(p.128)
そうまでして生きていたいのか? そうまでして生かせておくことが、その人の助けになるのか?
この疑問は、究極的なものだと思います。
「もはや認めざるを得ません。母が認知症になってから、私は努力しないと母を愛せなくなりました。取り乱し泣き叫ぶ姿を見ていると、大好きだったあの母と同じ人だとは、どうしても思えないからです。」(p.130)
認知症であることを受け入れられないと、認知症に負けてしまう患者(家族)を受け入れられなくなるんですね。
「認知症になった母を「努力しなければ愛せなくなった」と感じた私。でも同時に思ったのです。ならば努力をすればいい。形からでもいいから、ありのままの母を愛することを始めよう。それが、今までさんざん愛情を注いでくれた母への恩返しなんだと。」(p.134)
思い通りにならない認知症の家族を、あるがままに受け入れるしかない。そこから初めて、「愛」のなんたるかがわかるようになる。私もそう思います。
正直に言って、信友直子さんのお母様の認知症の程度は、大したことないと思います。私の母の認知症の程度は、それ以上に大したことないと思います。
けれども、実際にその介護をする人にとっては大変なことなのです。だからこそ、この認知症の問題、特に排泄の問題は、大事だなぁと思うのです。
簡単に答えは出ませんが、どんな風になっても愛するという思い、その決意が重要なのではないでしょうか。たとえ施設に預けるとしてもね。

【本の紹介の最新記事】