2022年05月10日

ユダヤに学ぶ「変容の法則」



これも日本講演新聞に講演録が載っていたことで、興味を持って買った本だと思います。著者は赤塚高仁(あかつか・こうじ)さん。ヤマト・ユダヤ友好協会の会長をされています。

ユダヤと言うと、何となく陰謀論とかマネーパワーなどを連想してしまうのですが、赤塚さんは別の視点を持っておられました。
そしてそのきっかけが、師と仰ぐ糸川英夫博士との出会いにあったと言います。私も子どもの頃に憧れたロケット開発の分野で、ペンシルロケットの実験に成功された糸川博士。変わり者とされた博士が、晩年、生涯をかけて取り組まれたのが日本とユダヤ、つまりイスラエルとの関係を深めることだったのだそうです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

世はバブル真っ盛りの頃でした。
 先生は私にこう言いました。

「土地も株も大会社も崩壊するでしょう。今日本は国が滅亡するかもしれない危機を迎えています。
 欧米に学び追従する時期はとうに過ぎました。イスラエル国こそ、今の日本民族にとってもっとも大切なメッセージを伝える国です。でも、誰もそんな声を聞こうとはしない。だから私は、たった一人でも日本のためにイスラエルとの橋渡しをしようと思っています。
 いつの日にか日本とイスラエルが手をつなぎ、大きな影響力を及ぼして世界を平安に導くことを確信しています」。
」(p.34)

世界平和を願う糸川博士は、その鍵が日本とイスラエルが手を取り合うことだと感じておられたようです。


キブツでの生活は、一般社会のように個人や家族が生活の単位ではなく、キブツメンバー全員が大家族として暮らしており、所有も生産も消費も、そして生活の一部も共同化されています。
 共同化されているというのは、衣食住を中心とした、生きていくのに必要なものには一切お金はかからないということです。病気をしても医療費は無料、子どもにかかる保育費や教育費もすべて無料なのです。
」(p.52)

実は「キブツ」とは人類の歴史上、唯一成功した社会主義の組織とも言えます。」(p.53)

社会主義の国々は信仰のない「神なき世界」です。
 一方のイスラエルはユダヤ教の国家です。
 信仰をもつ人々による平等の世界は、私たちの未来に一つの可能性を示すものなのかもしれません。
」(p.53)

そういえば「キブツ」という生活共同体があるということを、随分前に聞いたことがありました。これをモデルにしたのかどうかわかりませんが、そういうお金のかからない生活共同体のことを描いた小説もありましたね。
お勧めしている「神との対話」にもコミュニティの重要性が書かれていて、愛によってまとまったコミュニティなら、対価を支払わなくても生活のための物やサービスが得られるだろうなぁと思います。


ユダヤ人にとって、教育とは「神が与えてくれた、それぞれの役割を見出すこと」です。
 人と同じなら生まれてくる必要も意味もない。誰とも違うからこそ生まれ、そして、その役割を果たしてゆくことこそが「生きること」なのだと子どもたちに教えるのです。
」(p.56)

違うことが当たり前だという考えが、ユダヤ人の中には根付いているようですね。だから教育現場でも、生徒が他と違うことを言っても、教師はそれを否定しないのだそうです。
違っていていいし、違っているから存在意義がある。こういう考えは、とても素晴らしいと思います。

わからない授業を無理やり聞かせたり、関心のないことを無理に教え込んでも身につくことなどありません。
 それよりも、興味のあること、好奇心が湧くことに集中させて能力を伸ばしていけば、いつの間にかほかの分野での成長も促されるとユダヤ人たちは考えているようです。
」(p.58-59)

授業に関心がなく、勝手なことをしている生徒がいたら、日本だと教師が注意したり、叱責したり、罰を与えたりして矯正するのが普通です。けれどもイスラエルでは、その子の興味のあることを探して、それをさせるのだそうです。
そして、そういう特別扱いをされる子どもがいても、他の生徒たちは不満に思わないのだとか。それは、そもそも違っていて当然だという考えが、子どもたちの中にも根付いているからのようです。


日本が敗戦を迎えた6年後の1951年、「サンフランシスコ講和条約」によって日本は主権を回復しました。そして、その条約が発効した1952年、日本と最初に国交を樹立した国はなんとイスラエルだったのです。
 1952年7月1日、ベングリオンは当時の日本国民に向けて「ベングリオン書簡/友情のメッセージ」という談話を発表しています。
」(p.77)

これは初めて知ったことです。イスラエルから先に手を差し伸べてきていたのですね。
イスラエルはアジアの西端にあり、日本は東端にあります。アジアの両端の国が手を取り合って、アジアを世界平和の礎にしていく。そんな未来が、すでに見えていたのかもしれません。


また、「開拓の父」と呼ばれるヨセフ・トゥルンベルドールという人も日本と深い関係がありました。彼はロシア軍の一員として日露戦争に従軍し、日本軍の捕虜として大阪に収容されました。

1年間この収容所に暮らすうちに、トゥルンベルドールは、なぜ日本のような小さな島国があの強大なロシアに勝ったのか、その答えを見つけました。日本人は規律正しく勤勉で、互いに私欲を捨てて公のために協力する、愛国心の高い民族であったのです。」(p.81)

これがトゥルンベルドールのイスラエル復興運動、シオニズムの目覚めであり、彼は大阪の収容所から世界へと発信するようになってゆきます。そして、驚くべきことに、収容されていたユダヤ人がシオニズム運動の活動をすることを、日本人は許しているのです。
 トゥルンベルドールが日本人を尊敬したように、日本人もトゥルンベルドールを尊敬していたからでしょう。
」(p.82)

私の故郷、島根県でも、日露戦争で被害を受け、漂着したロシア兵を住民が温かく迎えたという歴史があります。敵兵であっても、助けを求める者には救いの手を差し伸べる。その人情味は日本人の根本にあるのです。

また、トゥルンベルドール記念館に保管されている彼の遺品の中には「新しく生まれるユダヤ国家は日本的な国家となるべきである」という言葉が記されています。
 トゥルンベルドールの開拓魂に日本人の精神が影響していることは、二つの民族を結ぶ尊い絆といえましょう。
」(p.83)

イスラエル建国の精神的支柱の1つに、日本人の心があった。日本とイスラエルは、最初から深い絆で結ばれていたのですね。


糸川博士は、次のようなことを言われたそうです。

地球上には人間が60億以上いるといわれますが、私は、人類は60億で一つの生き物だと考えています。
 一人ひとりが、人類という生き物の細胞の一つとして、大きな繋がりの中で生かされていることに気づくときに、人は命の意味を知るのでしょう。
 すなわち命とは、自分のために使うのではなく、人のために使うときにこそすべてがうまくゆくようです
」(p.89)

ワンネスの考え方つながるものを、糸川博士も感じておられたのでしょう。
たしかに私たちの細胞は、一つひとつが個々別々の存在のようでありながら、全体として1人の人間として存在しています。赤血球や白血球など見れば明らかですが、1つの細胞として独立しています。けれども、そこには人体の一部としての役割があるのです。
いくら赤血球が心臓の細胞になりたいと思っても、そうはいきません。そして、心臓の細胞より赤血球が劣るということもないのです。

このことを考える時、私はNHKの大河ドラマ「篤姫」の初回に、篤姫(幼名は於一)の母親が言ったセリフを思い出します。
「この世のものには全て役割があるのです。それは人とて同じこと。侍も、百姓も、人の命の重さに変わりはありませぬ。されど役割はおのずと変わります。田畑を耕し、国を支えるのが百姓なら、その百姓たちを命投げ打ってでも守るのが武家の役割。於一、武家のおなごはいざというときのために覚悟を決めておかねばなりませぬ。」

個々別々の存在と見える私たちが、全体としての生命を支えているのだと気づけば、違っていてもうらやまず、卑下することなく、自分として命を全うしようと思うのではないでしょうか。


本書ではここから、聖書を紐解いていきます。
旧約聖書はユダヤ教の経典であるので当然ですが、新約聖書にもユダヤ教が顧みなかった一面があると赤塚さんは考えます。つまり、ユダヤ人イエスという見方をするのです。
よく描かれるひょろっと痩せた白人の姿ではなく、大工として働いて鍛えられた筋骨隆々のアジア人としてのイエスです。

そして、赤塚さんの聖書解釈を読んで、私は昔の記憶が蘇りました。赤塚さんが実際に話を聞いたかどうかは別として、ここで書かれている内容は、統一教会の教えに類似しています。なので、かつてそこに入信していた私にとっては理解しやすいものでした。


イエスが伝えたことは、「あなたはあなたのままで大丈夫」というシンプルな真理でした。その愛は「信じれば救われる」という条件付きの宗教の世界には収まりません。
 信じる前に信じられていたという喜びは、宗教の遠く外側にありました。
」(p.249)

赤塚さんはイスラエルで、ペテロやイエスの霊と遭遇しているようです。それが事実かどうかはわかりませんが、そういう体験をされたということは確かなのでしょう。
そこで感じられたのが無条件の愛ということです。キリスト教では愛を説きますが、やっていることを見れば、それを忘れているように感じます。無条件の愛と言いながら、これをすれば救われ、しなければ救われないなどと、条件を付けているのですから。そして、宗教戦争で見せた残虐な行為の数々。とても愛を説く人々の姿勢とは思えません。


赤塚さんは、こういう体験を経て変わっていったと言います。

争うことはもともと好きではありませんでしたが、地位や名誉、名声を得るために競うことに関心がなくなりました。
 「目標」や「夢」を設定して、それを追いかける考えが消えてゆきました。
 聖者や悟り人に対する憧れがなくなり、「良い人」でいるふりもしなくてよくなりました。格好をつけなくても、そのままの自分で良いと思え、弱さや欠点をさらすことに抵抗がなくなりました。
 美しい物語に興味がなくなりました。
 不思議を詮索せず見えない世界の虜にならず、出来事や現象が「在る」ことを素直に認めると、良し悪しの判断が不要になりました。

 善悪のパターンが消えると、正義感も薄れて勧善懲悪が馬鹿らしくなりました。
 善人・悪人という決めつけより、それぞれの抱えている闇の深さが意識されるようになりました。
 「正しい・間違い」などはなく、どちらにも学べる智慧があると知りました。
 他者との比較や嫉妬心がなくなるのは本当に素晴らしいことで、とても楽になり、心が晴れます。
 すると、人をコントロールしようとする気持ちがなくなり、説得することもなくなりました。

 世界を変えようという気持ちもなくなりました。
 変えるべきは世界でなく、自分の心だけなのですから。
 他者や社会が自分をどう見るかが気にならなくなりました。
 自分は自分でいいのです。
」(p.249-251)

ちょっと長いのですが、とても重要な部分だと思うので引用しました。
まさにこういうことですね。ありのままでいいと思えるようになると、こういうことになるかと思います。


第3次世界対戦かと思えるほどの未曾有の時局にあって、誰か特別なリーダーが現れて人々を導くのではないのです。一人ひとりが、変容を促されています。
 その変容とは、「願う」ことから「願われている」ことを生きるというものです。
 では、「願われている」こととは何か。
 聖書には、その答えまでもが記されています。

 兄弟たちよ。あなたがたにお勧めする。

 怠惰なものを戒め、小心なものを励まし、弱いものを助け、
 すべての人に対して寛容でありなさい。

 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。

 これが、キリスト・イエスにあって、
 神があなたがたに求めておられることである。
             (テサロニケ人への第一の手紙5-14)
」(p.265-266)

すべてがありのままで良いなら、誰に対しても寛容でいられるでしょう。すべてが良いのなら、いつも感謝していられるし、喜んでいられるでしょう。
このことからも、すべてがありのままで良いのだということを、神が示しているのではないかと思うのです。そして、そこに気づくようにと。その気づきこそが、求められている「変容」なのですね。


本のタイトルには「ユダヤに学ぶ」とありますが、必ずしもすべてを学ぶということではなさそうです。学ぶべき部分もあれば、頑なな彼らに気づかせてあげられる部分もある。そうであればこそ、互いが手を取り合うことに意義があるのかもしれませんね。

ユダヤと日本との関係を考えると、古くは同じ民族だったというような説もあります。その真偽はわかりませんが、現代だけを考えてみても深い関係があるなぁということを、この本は気づかせてくれました。

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タグ:赤塚高仁
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 08:50 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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