雲黒斎(うん・こくさい)さんの本を読みました。たしかFacebookの投稿か何かで、この本が最高だというようなコメントがあり、それなら読んでみようかと思ったのです。
サブタイトルが「超訳『老子道徳経』」とあります。雲黒斎さんの本ですが、本名の黒澤一樹(くろさわ・いつき)の名前で出版された「ラブ、安堵、ピース」という本がありましたが、あれもたしか老子の関係だったはず。そう思って、老子関係の2冊目の本かなと思ってましたが、違ってましたね。
読み終えてからわかったのですが、本書はその「ラブ、安堵、ピース」そのものだったようです。他の出版社から改定再販するにあたって、書名を変更されたようです。
しかし、読み終えるまで気づかなかったということは、すっかり内容を忘れていたということですね。(笑) 「ラブ、安堵、ピース」は2017年に読んでますから、5年前のことです。改めてその紹介記事を読み返したのですが、また違う感銘があったようで、後で引用して紹介しますが、その箇所にも違いがあります。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「でもね、そうやって人が世界に名を付けることによって、タオは姿を隠し、代わりに「解釈」という幻想が現れる。そしてその幻想を「現実」と認識して生きているのが人間なんだ。
世間一般に言われる「現実」は、「様々な存在は分かれている」という幻想の中にあるけど、本当の現実(リアリティ)に分離はない。物理的に分かれて見えるからといって、それが「個別な存在だ」と決めつけてしまうのは早とちりだ。」(p.24-25)
名前を付けることで分離分断された個々別々のものだと解釈する。それが幻想なのですね。
「このように、「解釈」は、何かと何かを識別し、それらを比較したときに現れる。
一瞬のうちに行われる「自動連想ゲーム」の結果だ。
もちろん、識別自体に問題があるワケじゃない。
識別したものを比較し、その一方だけに価値をおいたり、選び取ろうとしてしまうところに、「満たされなさ」が生まれてしまうんだよ。
そして、もうひとつ大事なポイントは、この「解釈を生み出す物差し(優劣を決める基準)」が、人それぞれ違っているということなんだ。
だから、「あるがままの現実」はひとつでも、「解釈の現実」は人の数だけ存在する。」(p.29-30)
本当の現実がひとつのものなのに、その一部だけを選んで得ようとする。それは本質的に無理なことだし、一部しか受け取るまいとするのですから、不完全になって満たされなさを感じるのですね。
そして価値観は人それぞれであるということ。それなのにそれを絶対的なものと勘違いして、どっちが正しいかと争う。違うものを排除しようとする。劣ったものを批判非難する。こうして幸せから遠ざかっていくのです。
「だからね、そもそもの「賢い者ばかりをありがたがる」という物差しがなければ、人は「競う」という世界から自由になれるんだ。
同じように、皆が皆、希少価値を重んずるから、それらを奪い合い、しまいには、「泥棒だ! 強盗だ!」という騒ぎになる。
世の中が、「あいつが偉い」「これは素晴らしい」と、やたらに煽り立てるほど、余計に心がかき乱されるけど、本来は「事物そのもの」に価値が内在されているワケじゃない。人間がその対象に、概念的な価値を後付けしているだけなんだ。」(p.33-34)
価値を与えているのが自分の考え方、つまり価値観であり、それが絶対的なものではなく人それぞれなら、奪い合わなくても自分の考えを変えれば良いだけです。そうすれば簡単に幸せでいられるのです。
「「解釈の世界」に生きる人は、物事を分離して捉えているからこそ、「人の内に命がある」と言う。人に限らず、生物の個体それぞれに、個別の命が宿っていると思っている。
「あるがままの世界」に生きる人は、存在すべてのつながりを捉えているからこそ、「命の内に人がある」ことを知っている。
個別の命があるのではなく、無限に広がるたったひとつの「命」という空間の中に、すべての存在の躍動があるんだ。だから、そこに見えるのは、「個々の死生の繰り返し」ではなく、「絶え間ない宇宙の呼吸(全体における運動)」。そこには、奪われる命も、与えられる命もない。」(p.39)
本質が「ひとつのもの」だけであるなら、生命が「ひとつのもの」であるなら、そういうことですね。
「タオを生きる人は、誰かを救おうだとか、改心させようだとか、成長させようなどといった、何かをコントロールしようとする作為がない。
「世はこうあるべき」というイデオロギーを押しつけることもなければ、「自分はこうでなくてはならない」というセルフイメージに縛られることもない。
世の「うつろい」そのものを受け入れ見守る、愛の中に生きる。
タオは、万物を生み出し繁殖させるが、それらが成長しても、決して我がものとはしない。万物の創造主でありながら、支配者を気取らない。
「(意図を持って)働く」のではなく、「(摂理の)働き」とともにある。
これこそが、タオを生きる人の奥深さ「徳」なんだ。」(p.49)
自らの意図や希望を押しつけることがない。なぜなら、意に反するものは存在しないし、「かくあるべし」と考えないから。ただあるがままを無条件に、無批判に受け入れるだけ。愛とは、そういうものですね。
「「解釈の世界」では、一定の条件を満たしていなければ、相手や状況をそのまま受け入れられない。
ありのままの相手では受け入れられず、自分が受け入れられる状態に「変わって欲しい」と願うから、そこに、相手を自分好みにコントロールしようとする作為が生まれる。
また、相手に気に入られようとするがゆえに、ありのままの自分を認めず、相手の求める条件に沿う自分に矯正しようとしてしまう。
そうやって、「わたし」という自意識が強くなり、取引の世界に埋もれるほど、人は本当の愛から離れてしまうんだ。」(p.67)
「家庭内にいざこざが起きれば、「親孝行をしろ」「目上は敬え」とやかましく語られ出し、国の秩序が乱れれば、国民の模範となるべき者が求められ出す。
だけど、みんなが本当に求めているのは「愛」だろう?
本当に望んでいるのは、「礼儀」でも「正しさ」でも「ルール」でもないじゃないか。」(p.67)
愛は無条件。このことを知っているはずなのに、誰もそれを実行しようとはしません。自分の解釈、特定の解釈に従わせようとするのです。
「人はそれぞれに理想や希望を抱えていて、人生が思い通りに運ぶことを期待している。
残念だけど、どんなに綿密な計画を立ててでも、コントロールしきれないのが人生ってもんさ。
人生もまた、すべての流れはタオに従っているんだ。
人間にはどうすることも出来ない。
タオが右に流れようとすれば、現象は右に流れる。人はその流れに逆らえない。
その流れと同調せずに「左に行きたい」と願っても、「なぜ願い通りにならないんだ」という苦悩にしかならない。」(p.87)
どんなに「思い通り」にしようとしても、そうはならないものだと老子も言っています。その「思い通り」に執着するから苦悩が発生するのです。
「だからこそ、優れた者は「反戦運動」ではなく「平和運動」を選ぶんだ。
前にも書いたとおり、「争いがない」ことでしか「平和」はあり得ないんだからね。
それゆえに、平和が訪れてもおごり高ぶる事がない。
「平和のために戦う」という行為ではなく、「そこに加わらない」という無為こそが、その平和をもたらすのだから、そこに「己の強さをひけらかす」なんてことはナンセンスだろう。」(p.89-90)
マザーテレサは、反戦運動には参加しないが、平和運動なら参加すると言ったとか。平和のために争うなら、それは平和には結びつかない。それがわかっていたのですね。
「自衛のため、やむを得ず用いなければならないとしても、決してそこに大義名分や免罪符をつけてはならない。
仮に戰に勝ったとしても、それを美談にするようじゃダメだ。英雄になってはいけない。
その勝利を褒め称えるなら、それは人殺しを楽しみ、褒め称えているのと代わらない。
殺人を楽しむような輩がこの世で志を得ることなんて、できるわけがない。」(p.92)
防衛のために暴力をふるい、敵を殺してしまうことはあるかもしれません。しかし、その行為を褒め称えることはもちろん、仕方なかったと言い訳をしてもダメなのです。
どんな理由があったにせよ、人殺しは人殺しです。どうにか殺さずに済む方法があったのではないか? そう自問し続けることが大事なのです。
「人生は「思い(願い)通り」に流れてくれるわけじゃない。
でも、人生を「思い(願い)通り」に歩むことはできる。
どんな状況であっても、「満たされない」と解釈するのなら、人生は決して満たされない。
どんな状況であっても「満たされている」と解釈するなら、人生は幸せなものになる。
ほら、人生における「幸不幸」は、その人の「解釈」の世界に浮かび上がっているのさ。」(p.94)
「満たされない」と解釈している限り、満たされる人生にはならないのです。幸せもまたそうですね。
「「足るを知る」という言葉が指しているのは、「有り余るほど抱えている」ことでも、「欲をこらえて我慢する」ということでもない。「欠乏感がない」ということなんだ。」(p.119)
現実を何とかし、思い通りに十分に抱えることでないのはもちろんのこと、欲しいものを我慢することでもないのですね。つまり、そもそもそれは、それほど欲しいものではないという認識に立つことです。すでに十分にある、あるいは、あればいいけどなくてもかまわない、という認識です。
前の本の紹介でも書きましたが、この考え方は、まさに「神との対話」シリーズで語られている内容です。ですから私も理解しやすいのです。
それにしても驚くべきは、こういう考え方が2500年以上も昔に、すでに示されていたということです。ただ、私たちが理解し受け入れてこなかっただけなのでしょうね。
雲黒斎さんの解釈力、表現力には、本当に感服します。「超訳・般若心経」もありましたが、これからも「超訳」シリーズを出してほしいと思います。
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