前に紹介した「認知症はこわくない」の最後に対談があり、縛らない看護を推進しておられる田中とも江(たなか・ともえ)さんの話がありました。それで興味を持ち、その考え方や手法を知りたくて本書を買いました。
私も老人介護の仕事をしている中で、排泄の問題は日々、頭を悩ましています。排泄介助が追いつかないため、トイレへ行ける人にもおむつをして、その中でおしっこをしてくれと言っている自分がいる。本当にそれでいいのだろうか? いろいろと考えるのです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「医療や介護の現場で、おむつは汎用されています。もちろん、おむつが必要な場合が多くあるのは事実です。しかし多くの現場では、それが本当に必要なものかどうか、という明確なアセスメントもなく、また、本人や家族との話し合いはおろか説明もないまま、現場の看護・介護スタッフの独断で、使用されているのが現実です。また、使用にあたっても、その使い方が、御本人に合った適切な使用法か、というアセスメントがされているとは思えません。
排泄は、人間の生活行為の中でも極めてデリケートで、ケアされることへの引け目を感じやすい部分です。そして、そのケアの質によって高齢者の生活の快適さ、さらには健康度をも大きく左右するものでもあります。高齢者への不適切なおむつ使用は、身体的、心理的、社会的にもダメージを与えています。特に安易なおむつ使用は、高齢者の活動性を大幅に制限することから、私たちは、おむつは「拘束」にすらなりうるものであると考えています。」(p.3−4)
冒頭の「監修のことば」の中で、田中さんはこのように問題提起されています。
なお、専門用語のアセスメントとは、客観的に評価・分析することです。
「さて、もしあなたがケガや病気のために、立って歩くことができないことから、トイレに行けなくなり、おむつを着けられたらどうしますか。
下半身をおむつに包まれた情けない姿、そして、おしっこもうんこもその中に出さなくてはいけない苦痛、さらに濡れて汚れたおむつをつけたまま、じっとしている不快感。濡れたままのおむつは気持ちが悪いだけでなく、冷えると寒く、ずっしりと重いので歩くだけでも大変です。新しいおむつと取り替えてもらうときは、下半身を露(あらわ)にされ、他人の視線にさらされます。
「とんでもない。おむつを着けられるのだけは、絶対にごめんだ」
誰もがそう感じることでしょう。
しかし、この「当たり前の感覚」が、お年寄りには適用されていないのが今の現実です。」(p.8)
たしかに排泄の問題は、プライベート感が強いだけに、介護されるだけで抵抗感があるものです。ましておむつの中に排泄し、その状態でい続けなければならないのは苦痛でしょう。
私自身、老人介護を始めた当初に、自分でおむつを着ける実験をやりました。自分が経験のないことを他人にやらせることには、どうしても抵抗があったからです。
けれども、小便は何度もやってみましたが、大便はできませんでした。室内にシャワーがないことも1つの理由です。自分できれいにできないので。しかし、そういう環境があったとしても、やはり大きな心理的な抵抗がありますね。
「はっきりしていることは、排泄は人間の尊厳にかかわることだということです。おむつは、自尊心を傷つけ、生きる希望を奪います。精神的にも、肉体的にも、きわめて大きなマイナスの影響を与えることは間違いありません。」(p.10)
私も、もし自力で排泄ができなくなったら、もう生きていなくてもいいかなと考えることがあります。それくらい、排泄は重要な問題なのです。
しかし、とは言え、障害によって寝たきりになって自力で排泄できない人もいます。そういう人は、生きている意味がないのか? そんなことはないでしょう。そういう人が「死にたい」と思う気持ちもわかるし、そういう人だって自力で排泄したいという気持ちもわかるのです。その上で、それでもおむつという選択肢もあるよね、と私は思うのです。
「治療のためにおむつという手段が必要、という論理に対抗するのは容易ではないとしても、それであきらめてしまってよいのでしょうか。治療の効果よりも、おむつがもたらす弊害がお年寄りの生きる力を奪ってしまうことに目を向けるべきです。」(p.12)
おむつが必ずしも有害ということではなく、治療とか生活の質とかとのバランスなのですね。それを考えずに、最初からおむつありき、という考え方は疑ってみるべきだと思います。
「おむつをしたことが、または汚れてもすぐに「随時交換」しないことが、介護量の増大を招いていることは少なくありません。
これに対して、トイレ誘導で排泄できれば、介護の手が必要だとしても、トイレまでの誘導、排泄後の処理といった部分のみですみます。途中でパンツに尿や便を失禁してしまっても、シャワートイレで洗うことができますし、衣類の着替えも寝たきりの姿勢でおむつを替えるような中腰の力作業は必要ありません。」(p.25)
介護の大変さからして、実際はおむつよりトイレ誘導の方が楽なのだと田中さんは主張します。しかし、私はこれには懐疑的です。それこそアセスメントがされているとは思えないからです。
トイレ誘導で必ずしもきちんと排泄できるわけではありません。失敗すれば、もろに衣服の交換、洗濯をしなければならないのです。おむつなら、尿もれ便漏れでもなければ、おむつの交換だけで済みます。
それに何より、おむつ交換は時間が読めます。短時間で済ませられます。しかしトイレ誘導にかかる時間は、対象者次第です。10分、30分とトイレに座り続ける人もいて、いつ終わるかわからなければ、そこを離れられないこともあります。その人の排泄介助だけが仕事なら可能ですが、他にやらなければならない作業があり、それをやらなければ他の人への介助もできなくなるのです。
「おむつを導入する理由として、よく言われるのは「トイレまで行けない」「たびたび失禁する」「転倒する危険がある」などです。
しかし、本当にそうでしょうか。杖を使ってでも、歩ける人であれば、トイレに行けます。スタッフがその人の排尿パターンを把握してトイレ誘導すれば、トイレで排泄できます。車椅子であっても、便器への移乗ができればトイレ排泄が可能です。転倒しないようにケアするのがスタッフの仕事です。」(p.35)
たしかにトイレで座って排泄できる人は、少なくともスタッフの介助があればトイレ排泄が可能です。問題は、いつでも随時にスタッフが介助できますか? ということではないでしょうか。
そして、骨がもろくて立つことさえ医師から禁じられた人もいます。スタッフは、車椅子への移乗ができるなら、トイレも行けると思っていても、骨折したら誰が責任を取るのでしょう? 家族だって責任を取りたくはありません。そうやって医師の言いなりになるのです。医師だって背金を負いたくありませんからね。本人の意向などそっちのけで。
「トイレへの誘導を習慣化することで、お年寄り本人の排泄に対する学習能力が芽生えます。最初は失敗してしまっても、トイレへ向かおうとしたり、尿意・便意を訴えるようになってきます。おむつが必要だった人も、おむつがはずれるケースがあります。」(p.48)
おむつに慣れてしまって、尿意・便意すらなくなってしまう人がいます。そういう人でも、定時的にトイレへ誘導し、便座に座ってもらうことで、自力で排泄できるようになると田中さんは言います。
たしかに、そういうケースもあるでしょうね。しかし、それよりも多くのケースで、その逆があるのではないでしょうか? トイレ誘導していたけれども、徐々に尿意・便意もなくなってしまう。ズボンまで濡れていても、何とも感じない人もいるのです。
「「まったく、もう、さっきも取り替えたばかりでしょ。洗濯物を増やさないでちょうだい」
などと言ったら、ますます気持ちは萎縮し、次からは濡れた下着をタンスに隠したり、徘徊したり、問題は深刻になるばかりです。
「水、こぼれたのね。じゃあ、着替えましょう」
と見て見ぬふりをして、着替えと掃除をさりげなくすませます。同時に、廊下で放尿する理由をきちんと把握し、事前にトイレ誘導できなかった現場のスタッフの側の問題を反省することが大切です。」(p.53)
たしかにそうだと思います。それができたら理想的ですね。
しかしスタッフも、他に作業を抱えながら時間に追われながら、懸命に仕事をしているのです。愚痴の一つ、文句の一つも言いたくなるでしょう。私は、その気持ちもわかります。
そういう文句を言ってしまうスタッフだって、本当はそんなことを言いたくはないのです。どうすれば良くなるか、いろいろ悩んでいるのですよ。
「おむつ交換は、2人ペアになって何十人ものおむつを取り替える作業で、1日に8回も9回も同じことが繰り返されます。生産性はなく、達成感を味わうこともないでしょう。いくらがんばっておむつ交換をしても、おむつをしている限り、ADLやQOLが向上することはないのですから。
それと比べ、車椅子から便座に移乗するときにスタッフが2人がかりだとしても、時間的にはおむつ交換ほどかかりません。汚れた下着やシーツの取り替えといった手間も不要です。おむつではなく、トイレで排尿できるようになると、精神的な喜びや生きる力をわきあがらせ、身体的にも活動性があがってきます。筋力がつけば、便座への移乗時にはスタッフが1人いればできるようになることもあります。」(p.56-57)
たしかにそういう一面もあるのですが、必ずしもそうは言えない、というのが私の実感です。おむつで定時的な介助なら、1日に8回も排泄介助をやりません。せいぜい5回でしょう。けれども、随時に排泄介助をするなら、それこそ1日に8回も9回もやる必要があるかもしれないのです。トータルで、どっちが負担でしょうか?
田中さんの思いはわかるのですが、それを正当化するために、無理やりこっちが合理的だと決めつけるのはどうかなぁと思うのです。
「しかし、ポータブルトイレのほうが実は手間がかかるのです。朝に、昼に、ポータブルトイレ内の排泄物をトイレに捨てに行く作業、洗って消毒剤を入れる作業、部屋にたちこめた臭を消す作業などです。トイレに連れていってあげたほうが本人も気持ちいいし、長い目でみればスタッフも楽なはずです。
トイレに行くことは足腰を鍛え、寝たきりを防ぐためにも大切です。」(p.59)
これも、たしかにそういう面もあります。けれども、一概にそうは言えない、と私は思います。
トイレに行ける人でも、ポータブルトイレの方が安心できるからと言って、トイレに行かない人もいるのですから。
ただ、トイレに行かなければならないからという理由で、多少無理をしても動くことで筋力を鍛え、日常生活がスムーズに行えるようになるという一面もあります。何ごとも絶対的にこれが正しいとは言えないのです。
「身体拘束については介護現場を含めて様々な固定観念があり、それが廃止への取り組みを阻害している。その代表的なものは「身体拘束は本人の安全確保のために必要である」とか、「スタッフ不足などから身体拘束廃止は不可能である」という考え方である。しかし、こうした考え方は、介護現場での実践の積み重ねにより、多くは誤解を含んだものであることが明らかになってきている。」(p.100)
「そして、何よりも問題なのは、身体拘束によって本人の筋力は確実に低下し、その結果、体を動かすことすらできない寝たきり状態になってしまうことである。つまり、仮に身体拘束によって転倒が減ったとしても、それは転倒を防止しているのではなく、本人を転倒すらできない状態にまで追い込んでいるからではなかろうか。」(p.100)
これも、たしかにそう言える面もありますが、必ずしもそうは言えないと私は思うのです。
相変わらず身体拘束をせざるを得ない時があると介護現場が感じているのは、単なる誤解ではないと思いますよ。つきっきりで介護できるとか、随時に臨機応変に対応できる環境があればいざしらず、他の業務を抱えながらでは、どうしても無理があるのです。
身体拘束される本人の機能劣化は、たしかにあると思います。しかし、ではフリーにしたことで転倒し、骨折した場合、いったい誰が責任を負うのですか? 本人がそれでも良いと意思表示できるなら、その意志を尊重することも可能でしょう。けれども、それが認知症の人ならどうですか? 家族だって責任を負えません。まして医師は、安全な方を選択したくなるでしょう。
本書の全体を通じて感じたのは、理想的にはそうかもしれないが、実際の現場でどうするかは難しい問題がある、ということです。
それでもおむつをしないとか、拘束をしないという選択は、崇高なことかもしれませんが、そういう崇高さを求める関係者の同意がなければ、現実的には難しいのではないかと思うのです。
認知症と診断され、本人の意思が軽視される前に、そういう決断がなされればいいなとは思います。しかし、こういう問題に直面するのは、そういう時期の後なのです。それだけに、一概には何とも言えないなという思いが残ります。
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