お勧めしている「日本講演新聞」に岸英光(きし・ひでみつ)さんの記事があり、とても興味深かったので、何かご著書を読んでみようと思ってネットで検索したところ、この本が表示されました。介護職をしていて認知症に関心があったことと、共著のように思えたので購入しました。
しかし、実際の著者はベ・ホス氏で、在日の方のようです。岸さんは第3章と第6章を監修されていて、コミュニケーションに関してトレーニングを提供するなどして、本書の執筆に協力されたようです。
ということで思惑とは違ってしまったのですが、私の今の仕事には役立つ内容でした。偶然とはいえ、こういう本を読めたことは幸いなことだと思っています。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「そもそも、「認知症である本人が、日常生活の中で、どんなときに、どんな場所で、何につまずいているのか?」という「理由」がわからないまま、「つまずいている人にどう対処するか?」という解決方法ばかりを追い求めることは、本末転倒ではないかと思うようになったのです。」(p.10)
認知症のBPSDが問題視されますが、たとえばなぜ徘徊するのかという理由を知らずに、どうやって徘徊しないようにさせるかということばかり考えるのは、本末転倒だと言うのですね。だからタイトルにもあるように、その人がそうする理由を探ることが重要なのだと。
「認知機能が低下しているために、適切な判断を下すための情報の理解に限界があり、立てる仮説にも限界や思い込みが強く働き、想定外の結果になったときに混乱するということが、本人にも起きている−−と見ることができるのです。
これからは、この「本人の混乱」に目を向け、『本人は何につまずいているんだろう?』という目線を持ち、そのつまずきを支えるケアが求められます。」(p.17)
想定外の結果とは、たとえば散歩に出かけたつもりで帰り道がわからなくなって困惑する、というようなことです。つまり認知症の人が混乱した結果、あてのない徘徊をしているかもしれないのです。
「このように一般的に知られている対処方法は、あくまでも混乱を収める確率が高いというだけであって、誰にでも適した方法というわけではありません。人の個性は十人十色ですから、想定通りにいかないことがあるのは不思議なことではありません。」(p.20)
たとえば財布がなくなって誰かに取られたと騒ぎ出した時、それを否定しないとか、一緒に探すなどの一般的な対処方法があります。それが必ずしも正解ではないということがある。その人の混乱は、その人固有のものだからですね。
「つまり、適切な「方法」は、その人なりの「理由」がわかれば、導きやすくなるのです。
認知症ケアも同様で、一人ひとりに適した介護方法を見つけるためには、「理由」を知ることが必要です。」(p.23)
たとえば自宅にいながら「家に帰りたい」と言い出した時、ここがあなたの家だと理解させる方法を考えがちですが、その最適な方法を見つけるためにも、なぜ「家に帰りたい」と言うのか、その理由を探ることが重要だと言うのです。
「そして、もう一つは、「予防に取り組めば取り組むほど、『認知症=ダメ』という価値観を強める」ということです。」(p.31)
認知症もなってからの治療より、なる前の予防が重要だと言われます。しかし、それに取り組むのは、それだけ認知症を恐れているからです。恐れから一生懸命に行動(予防)すれば、その動機である「恐れ(不安)」がさらに強まります。
「認知症になると、自分の存在がおぼろげになっていきます。自分が何をして生きてきたか、自分は誰とどんな思い出を作ってきたかといった記憶が失われます。言い換えれば、「自分」が徐々に失われていくような体験なのかもしれないのです。
だからこそ、自分のこと(顔、名前、生活歴、趣味、こだわりなど)を知ってもらうことに、もっと時間を使ってもいいのではないかと思うのです。」(p.33)
認知症の予防のために好きでもない計算ドリルなどをやるより、自分に関することをノートに書き留めて、ケアしてもらう時に役立つよう備えることが重要なのではないか。そうベ・ホス氏は考えるのだそうです。たしかに、これもまた頭を働かせることになりますしね。
「わたしたち介護者にとっては、「介護の困難を取り除くこと」や「家族の負担感を軽減すること」は大きなテーマであることは確かですが、そうした捉え方だけに介護者が彩られていたとしたらどうでしょうか? 本人にしてみると、「あなたを介護するのは大変だ」「あなたは家族に負担をかける」と言われているようなものです。
認知症というやっかいな症状に、一番悩まされているのは本人なのに、「認知症の症状でわたしたち(介護者)を煩わせないで!」と言われてしまっては、これほど辛いことはありません。」(p.37)
確かに、そういう一面はあるでしょう。しかし、「ない」ことにはできません。そうではあるけれども、それをできるだけ見せないようにする。そういうことになるのでしょうね。
「徘徊や帰宅願望などのBPSDが起きる場面では、本人が不安な気持ちや不快な感覚などに包まれていることが多く、その不安や不快を解消するために、歩き回ったり、家に帰ろうとしたりしていると見ることもできます。
その視点で、「本人が求めている認知症ケアは何だろう?」と考えてみると、これからのケアとしては『認知症ケア=本人の”不快”の時間を一分一秒でも減らし、”快”の時間を一分一秒でも増やすこと』という捉え方が適切なのではないでしょうか。」(p.37-38)
完璧にはできないのですから、少しでも、一分一秒でも、というように、よりよくなるように考えていくしかないのだろうと思います。
「本人は、何かを体験(見る、聞く、におう、触れる、感じる、考える、思い出す、など)して、家に帰りたいと言ったり、介護者につかみかかったり、大声を出したりしている−−としたら、きっかけを発見するポイントは、本人が体験していることに目を向けることだといえます。」(p.59)
認知症の方のことを理解するには、本人の体験をしっかりと観察することだと言います。介護者が気づいていないことに気づいている可能性がある。その可能性を意識することですね。
「不満はあるけれど、妻のためなら参加してもいい。この言葉を聞いたときに、これも素晴らしい自己決定だなと思いました。そして、おそらくは自分にあった不満を、すべての関係者に聴いてもらって、受け取ってもらえたことで、自分が感じている不満よりも大切な妻への思いを再認識したのかもしれません。」(p.71)
デイサービスを嫌がって行かないと言い張っていた男性が、関係者に不満をしっかりと聞いてもらえたことである程度満足し、妻のことを思いやる余裕が生まれたことで行動に変容が現れた実例です。
ただ、これが良かったことかどうかは何とも言えません。行きたくもないデイサービスへ行くことは、やはりストレスを溜めることになるからです。妻と合わせて総合的にどうかという考え方もありますが、双方が満足できる解決方法が他にもあるのではないか。そんな気もします。
「そのため、こうしたBPSDの表現は、実はわたしたちに理由を探ることをあきらめさせる「枠組み」といっても過言ではないのです。
「徘徊の理由を探りましょう」と話し合いをしようとしても、話し合う前から「理由はわからないだろう」という無意識をわたしたちに抱かせてしまっているとしたら……。やはり、「徘徊」という表現は適切な選択とはいえません。
このように、理由を探ることを妨げる「価値観の枠組み」が、ケアの現場には数多くあります。
そこで、まずは自分が持っている「枠組み」を発見することが、理由を探る認知症ケアの第一歩になります。そうすることで、これまで聞き流していた言葉が重要な情報に感じられたり、見逃していた言動を観察できるようになるなど、理由を探るために必要な事象が目に止まるようになり始めます。」(p.76)
「枠組み」というのは「偏見」や「思い込み」「決めつけ」とも言えますが、悪い意味ではありません。捉え方のクセとも言えます。ただ、そこに自分で気づいていないと、無意識にその考え方のクセが発動されるため、枠組みの外の事象や可能性を見落としてしまいがちなのですね。
「この「わかればできる」という枠組みは、裏を返すと「できない=わかっていない」という捉え方も表しています。また、この捉え方は、「できない・わからない」といった本人の能力に焦点を当てていますが、そのことで見逃すものが出てきます。
それが、本人の意思(選択)です。もしかすると、入れ歯を入れないのは、「入れ方がわからないから」ではなく「入れ歯を使いたくない」という本人の意思なのかもしれないのです。」(p.86)
可能性はいろいろあるということですね。枠組みにとらわれて、その可能性を考えることができなくなると、本当の理由を探れなくなるのです。
「自分は「被害者」だと訴えるとき、そこには「加害者」が存在します。つまり、被害と加害という(あまり好ましくないつながりではありますが)他人との関係が存在するのです。「妻」「嫁」「ヘルパー」など、一番身近でよくしてくれる人を加害者として訴えることは、裏を返せば、『その人との関係を途絶えさせたくない』『その人を頼りにしている』という思いの表れだと見ることができます。
施設の職員が、「得意な和裁を教えてください」と関わり始めたら、お金を盗られたという訴えがなくなった−−という話があります。」(p.103)
こういう捻れた思考の発現はやっかいですが、こういう可能性もあるということですね。
「本人の記憶力・理解力・判断力の低下(いわゆる中核症状)や、理解不能な言動(いわゆるBPSD(行動・心理症状))を、一言で「認知症」と表現していることが見受けられます。
そして、こういう出来事を「認知症」とひとくくりに表現するとき、そこには「わたしたちには理解できない」「わたしたちにはなす術がない」というあきらめに似た姿勢が、見え隠れします。これでは、理由を探るケアのスタートラインに立つことさえできません。」(p.106-107)
人の行動の理由は1つであるとは限りません。複合要因も多々あります。そうであれば、「認知症だから」と決めつけることは、偏見でしかないのです。
「言い換えれば、「気づいていないことがあるかもしれない」「知っていることとは違うかもしれない」という姿勢でいることです。そうすると、自分では考えもつかない不思議なことだらけであることに気づき、シンプルに疑問を抱き、知りたいという気持ちが湧いてくるでしょう。
その人に対する「興味・関心」が湧いていれば、理由を探る準備は整っているといってもいいかもしれませんね。」(p.109)
わかったと思った瞬間に、思考がストップしてしまうのです。だから知っていることでも、わかっていることでも、まだ知らないことやわからないことが隠れているかもしれないという、可能性に心の扉を開いておくことが重要なのですね。
「その人らしさは細部に宿るといいます。習慣は「食後のコーヒー」で聞き取りを終えてはだめなのです。「好みの味は?」「ホット? アイス?」「使っていたカップの色は?」「食べ終えたらすぐに飲む?」など、どれか一つが違うだけでも飲む気になれないことだってあるのです。」(p.128)
たしかにそうなのでしょうけど、ここまで言われるとうんざりしますね。介護職にいったいどこまで要求するの!? という気持ちになるからです。
実際、使っていたカップの色と違うから飲みたくないなんて仮に言われたとしても、そんなの慣れればいいだけじゃないか、とも思います。それに、それがどれほど重要かというのも、人それぞれでしょう。
究極のところ、どこまで探っていっても、その人の理由はその人にしかわからないし、その人自身にもわかっていない理由はたくさんあると思います。そうであるなら、いったいどこまで理由を探るのが適切なのか? という問題も、実際の現場では出てくるのではないでしょうか。
「人を相手にしているのですから、完璧に一から十まですべて相手のことを理解するということはできません。また、今日、わからなかったことが、これからもずっとわからないわけではありません。しかし、行き詰まりを感じるケアでは、「自分じゃダメだ」「あの人のことはよくわからない」と、その状態がずっと続くかのように捉えがちです。
だから、「わからなくてもよし!」と自分に言ってあげてください。「わからないかもしれないし、わかるかもしれない」というスタンスが、明日は明日で新鮮に向き合えるあなたをつくってくれます。」(p.143)
理解することが重要だと迫られ、そんなの完璧には無理でしょ! とブチ切れそうになったら、こんな風にフォローされました。(笑)
でも、そういうことだと思います。完璧に理解するなんて不可能ですが、それを最初から不可能と諦めたのでは、一歩も前進できないのです。
「これまでもお伝えしてきたように、家族ごとに背景は違い、介護負担もさまざまです。その中で、どの家族も精一杯の介護をしながら生活しているわけですから、「承認」は家族の気持ちを解放するうえでも重要です。
そして、「承認」には二つのポイントがあります。
一つ目は、具体的な行動がもたらす具体的な影響を伝えるということです。」(p.229)
「二つ目は、「自分が承認される体験があると、他人を承認しやすくなる」ということです。」(p.230)
上手くできていようとできてなかろうと、誰もがその人なりに精一杯に介護をしている。そのことを「承認」によって伝えることで、負担を軽くすることになると言います。これは、介護している家族に対してだけでなく、仕事として行っている介護職に対しても重要なことだと思います。
そしてそのためには、まずは具体的に承認することだと言います。ただ「素晴らしい」と言うより、「一緒に散歩されたことで、お父様も笑顔になられましたね」というように、具体的に示してあげることです。それによって、次もこうしようという意欲が湧いてきますから。
次に、他人を承認できない人は、自分が承認されていると感じていないからだ、ということです。つまり、介護する家族を承認してあげることで、家族は介護している認知症の人のことを承認しやすくなるということになります。本人は、家族から承認されることで、イライラや不安も軽減することになります。
「家族を支えるすべての専門職に大切にしてもらいたい価値観があります。それは、「人の存在が人を勇気づける」という価値観です。」(p.232)
「しかし、家族は、わたしたち専門職がどれだけの知識や経験を持っていて、具体的にどのような助言やアイデアを示せるか? ということだけを、頼りにしているわけではありません。
ただ、そばにいるだけでも人は勇気づけられたりするものです。
誰かが一緒にいてくれるだけで、あまり行きたくない病院にも行くことができたり、初めての場所にも行ってみようという気持ちになることがあります。このように、一緒にいて行動や決断をサポートすることを、コンパニオンサポートといいます。
そんなコンパニオンがいることは、家族にとっては大きな支えになります。」(p.232-233)
専門職だから、知識や技術でサポートしなければならない、と考える必要はないのです。ただ寄り添っていること。それだけで十分な価値があり、十分に役立つのですね。
認知症の人自身が悩んでいる。不安や恐れを感じている。だから、それがわからない人にとっては理解できない行動を取ってしまう。それが徘徊などのBPSDとして表れ、それによって介護する側も苦しむことになる。それが、認知症とその介護に関わる大きな問題です。
この本では、その問題に対して、根本にある認知症の人の「そうする理由」を探ることで、本人の悩みや不安、恐れを軽減して、そういう問題行動を減らしていこうというアプローチを示しています。
もちろん、それが完璧にできるわけではありませんが、今よりも少しでも気づくことができるなら、少しでも問題行動を減らすことに役立つでしょう。
それにこのことは、何も認知症の人に限らないと思いました。だいたい他人のことはわからないのです。だから「あの人はおかしい」というように決めつけ、その偏見から他人を見たりすることが多々あります。人間関係のトラブルの多くは、こういう偏見や無理解から生じているのではないでしょうか。
そうであれば本書のアプローチは、すべての人間関係のトラブル解消のためのアプローチでもあるようにも思います。
【本の紹介の最新記事】