2022年04月08日

認知症はこわくない



これもたしか上野千鶴子さん「在宅ひとり死のススメ」で紹介されていた本だと思います。著者は高橋幸男(たかはし・ゆきお)医師

私は死ぬことはもう恐くはありません。ガンで死ぬなら、最幸だとさえ思っています。けれども、認知症というのは、その実態を知れば知るほど「やっかいだな」という気持ちになります。
そんな中で、認知症でも大丈夫、認知症でも一人で暮らしていける、という少数の方々がいらっしゃることがわかりました。なので、その観点を知りたくて、読んでみることにしたのです。


ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。

Aさんは、毎朝Bさん宅にやってきて、お嫁さんがつくってくれるお昼ごはんを一緒にいただき、一日中話し込んで夕方帰っていくそうです。お嫁さんが、「いつもこうなんですよ」と屈託ない笑顔で話してくれました。Aさんは時々道を間違えることがあって集落内を迷っていたそうですが、地区の人はみなよく知っていますから、Aさんの思いを尊重して、AさんをBさん宅まで連れていくかAさん宅に送っていくわけです。Aさんがうろうろさまよっても「徘徊」という概念はなかったのです。
 私は認知症の人がそのように地域で暮らせることが不思議でした。
」(p.5)

高橋医師は、島根県の隠岐の島へ行かれて、認知症があまり問題視されていないことに驚かれたのだそうです。

それでは、なぜ誰もが「認知症はこわい」と思うようになったのでしょうか。私は、一九七二(昭和四七)年に発行された有吉佐和子さんの小説『恍惚の人』が、契機になったと思っています。『恍惚の人』は東京周辺の町が物語の舞台です。『恍惚の人』を書くにあたって、有吉さんは、いろいろと取材をされたと思いますが、隠岐島や石垣島のような認知症の人との出会いはなかったのでしょう。結果的に、『恍惚の人』で描かれた認知症の人は、どんな思いで日々生きているのか、その心の中がまったくと言っていいほど書かれていませんでした。何もかもわからなくなって、異常な行動(たとえば、主人公は青梅街道を何度となく新宿方面へと徘徊します)を示し、世話をする家族が大変である、という話になっています。主人公は、最後に大便を畳に塗りたくるようになり、ほどなく亡くなるのですが、有吉さんはこの状態に「人格欠損」という言葉を使っています。」(p.7-8)

読んだことがないので知りませんでしたが、小説「恍惚の人」の影響で認知症が知られるようになり、同時に恐れられるようになったという説は、当たっているのかもしれませんね。

昔の時代に戻ることはできませんが、昔の人たちにとって認知症はこわくないと思われていた背景は何であるのか、それを知って現代に生かせれば、認知症の生きづらさも少しは改善できるでしょう。
 そして今私たちがすべきことは、まずは認知症を病む人の理解だと思います。
」(p.8-9)

昔は認知症という言葉はなく、ボケとか老人ボケなどと呼んでいました。私が子どもの頃です。その後、「ボケ」という言葉は良くないと言葉狩りにあい、「痴呆症」と名付けられましたが、意味合いが同じなのでこれも却下され、「認知症」という言葉になりました。

では、本当にボケは怖くなかったのか? 何とも言えません。そのことは、またいずれ書こうと思います。
ただ、昔はボケてから亡くなるまで、それほど長くなかったのではないか、という考察もできるということです。ボケても元気で動き回って、周囲の人に迷惑をかけることが少なかった。だからあまり社会問題にならなかったのではないかと。


ここで言いたいことは、認知症そのものが特殊な病ではなく、人が生きていく、特に長生きするときに出てくる、限りなく病ではあっても、老化を伴った価値のある、生きる上で意味のある経過だということです。まず、認知症をそういったものと捉えることは、認知症と向き合う際には大変重要なことではないでしょうか。」(p.17)

これはとても共感します。認知症も、発達障害も、自閉症スペクトラムも、はたまた健常者と呼ばれる人との関係においても、同じようなことはままあります。そうであれば、特別なことと考えるよりも、何かがちょっとだけ突出しただけのこと、と考える方が有益だと思うのです。


私の経験では、認知症はどういうふうな経過をたどるのか、というのを知ることと関係があるのですが、誰でも認知症になることへの不安のすべてはなくせません。まして、「あなたは認知症です」と医師から言われた瞬間、あるいは周りがそうみなしたときから、自分自身も「ああ私は、ぼけてしまった」と思い、人に言えない不安が大きく募ります。
 対応が進んでいるデンマークでさえ「認知症になりたくない」と言っているのはそういった不安があるからだと思いますが、そこからが違います。日本の場合は当事者も家族も認知症に対するネガティブなイメージを思い浮かべて、恐れだけが増幅していく、だから日本のほうが不安が強いのだと思います。
」(p.20-21)

解決方法がなく、自分自身を失っていくと思われている認知症ですが、日本と先進国のデンマークとでは、その反応にわずかに違いがあるようです。
そこにこそ、認知症と向き合う姿勢の1つの指針があるように思います。


ところが、認知症に関しては、意外に多くの人が当事者を悩める人と本気でみなしていないように思います。認知症の当事者も悩める人なのだということを理解して、その人のそばで寄り添って付き合っていけば、多くの認知症の人は、誰もが思うより、はるかにやさしく穏やかに日々を生きていけるはずです。
 わからなくなっていくこと、できなくなっていくことは、本来、老いからくる機能低下とみなしてもよいのです。普通の老いは誰もが認めています。
」(p.23)

認知症というのは、原因が脳の障害で、進行が普通の老いに比べて急激に来ます。言ってみれば「あなたの老い方は少しばかりみんなより速いね」というようなもので、認知症の人とつながる上で、その視点が重要だと私は思っています。」(p.23-24)

老いれば誰も、だんだんとできていたことができなくなる。そういう機能低下や見た目の劣化に、多くの人は戸惑い、悩むものです。
ですから、急速に機能低下していく認知症においても、その分、深刻に悩むことがあると言えるのですね。
そういう視点が、たしかになかったなぁと思いました。


ある当事者の方が本を書かれているのですが、そこでは奥様との葛藤が記されています。奥様と本人との関係はそんなに簡単ではなく、お二人の間には人には知れない葛藤があるのです。奥様自身もいらだって悩んでいます。最後の最後、奥様は「やっぱり、私が(主人の症状を)悪くしている」と言っているのですが、これこそあとで述べる認知症の”からくり”を理解されている発言です。」(p.25)

認知症そのものは、脳機能の低下ということですが、それが周りに及ぼす影響は、人間関係の維持が困難になるということかと思います。それまで近い関係であればより、その影響も大きくなる。それが認知症の問題点です。
そしてそれは、本人が悩んでいることを理解できず、これまでと同様の関係を維持できるのが当然と考えてしまう周囲の人によってもたらされるもの。そういう一面があるのですね。


どこをどうすればよくなるか、大きなポイントは夫婦関係や親子化関係など、家族関係を改善していくことです。それによって非常によくなるということは、私の長年の臨床経験からわかっています。しかし、その辺のことが、認知症ではなかなか触れられないのです。」(p.27)

これまでできたことが急速にできなくなるのですから、周囲の人はそれが理解できず、これまでと同様のことを期待します。もちろん本人も自分に期待したいのです。その期待が、本人を苦しめています。
だから、周囲の人の過剰な期待を減らしていくこと。そのことで本人の負担を減らすこと。そうすれば、人間関係が改善され、認知症の症状も緩和されるのですね。


認知症という病をもった人は、”寄る辺ない”状態のままで「叱られ(続け)る」というストレスになかなか耐えていけません。叱られるいわれがないと思って「何も悪いことはしていない」と必死に訴える人もいます。また、叱られ責められてばかりいるから「自分は要らない存在だ」と嘆き、「死んだほうがいい」と言う人も珍しくありません。多くの人が叱られ続けることで、急速に自尊心を低下させますが、笑顔をなくして表情が硬くなるようになれば要注意です。不安や緊張が一段と強まり、周囲のちょっとした言葉や態度が契機となって、本格的なBPSD(行動・心理症状)につながりやすいのです。
 そして、ここまで述べてきたようなことを、私は認知症の”からくり”と呼んでいます。認知症の種類を問わず、家族関係のよし悪しも問わず、認知症になると誰もが”からくり”に陥りやすくなってしまいます。
」(p.32)

これは認知症に限りませんね。そう感じました。
たとえば、鬱(うつ)の人に対して「がんばれ」と言ってはいけない、と言いますが、これも周囲の過剰な期待です。「あなたはもっとできるはず」という言外の意味を含み、それが「どうしてもっとやらないの!?」という責める言葉に転嫁されて受け取られます。
そうやって責められ続けたら、認知症でなくても鬱でなくても、つまり健常者であってもおかしくなるでしょう。


一人暮らしの高齢者も、認知症になりゆく過程で周囲とのつながりを失いやすく、そういう意味で認知症になりゆく不安とともに強い孤独感があります。しかし、家族がいる場合とは異なり、”からくり”からいえば、日々指摘を受け(叱られ)続けるストレスはきわめて少ないということになります。
 ですから、一人暮らしの認知症の人は、家族と暮らす人よりBPSD(行動・心理症状)が起こりにくいだけではなく、程度も軽い可能性があります。
」(p.34)

一人暮らしの認知症の人の、暮らしへの不安はかなりあるとは思いますが、いろいろな人とのつながりを得ることで、BPSD(行動・心理症状)も起こりにくくなり、程度も軽くなりますし、多くの人の支えがあれば、思う以上に豊かに暮らしていけるはずです。」(p.35)

前に読んだ「老後はひとり暮らしが幸せ」でも、一人暮らしの方が幸せに生きられるとありました。濃厚な人間関係から解放されることで、日常的にストレスにさらされることがないからです。
このことは、認知症のBPSD(徘徊などの問題行動のこと)にも現れるのですね。


認知症の方々を長年診ていたら、理由がないのに家を出て行くということはまずないことがわかります。最も多いのは、もともと散歩のように外へ出る習慣もなくわけがわからないままに出て行く、そしてみんなが「大丈夫か、大丈夫か」と言い出す徘徊で、徘徊の中には、今日は近所を散歩しようと思って道に迷ったり、いつもの日課で外に出て道に迷ったりという場合もあるでしょう。そこには本人なりの出て行く理由が必ずあります。私が言うところの”からくり”です。」(p.62)

徘徊と言っても、本人には何らかの目的(意図)があって外へ出ていくのですね。ただ、外に出たものの道がわからなくなって、歩き回ることになるだけ。戻ってこれれば、何も問題がないのです。もちろん、途中で事故に遭う危険性はありますが。

徘徊で亡くなった人、家族が見つけることのできないような場所で亡くなった人は、もしかしたらご本人が死に場所を求めて徘徊した可能性が高いのではないかと、私は考えています。やはり、家族の中で居場所のない、孤立して”寄る辺ない”認知症の人が、励ましや叱責で「私なんかいないほうがいい」「迷惑をかけるだけだ」と思って、「死んでしまったほうがいい」「人知れずに死にたい」と思うのも決して珍しいことではないのかもしれません。そして、最期は本能的に隠れようとするのではないでしょうか。」(p.63-64)

つまり、散歩がしたくて出て行って道に迷う徘徊とは、目的が違うということですね。
つらくて消えてしまいたいという、いわば自殺願望のようなものがあって、戻りたいと思わなくなっている。そういう徘徊でなければ、事故でない限り、徘徊中に亡くなることは滅多にないのだと。

私の経験からは、認知症の人のつらさや不安は、記憶障害や判断力の低下といった中核症状が進行することよりも、認知症が進む中で、身近な人とのつながりをなくし、孤独で寄る辺がなくなることのほうが深刻なのだと思っています。BPSD(行動・心理症状)のある人はその傾向がより顕著ですが、周囲を巻き込むBPSD(行動・心理症状)は、介護者を苦しめ、介護者のうつ状態を引き起こします。それは結果として、認知症の人の施設入所や病院への入院につながりやすいのです。」(p.65)

認知症の人への周囲の過剰な期待は、認知症の人を苦しめます。その苦しみによって、深刻なBPSDを引き起こし、それが介護をする周囲の人を苦しめるのです。


事例でも示しましたが、寄り添い、支えるために大切なことは二つです。
 一つは、寄る辺のない認知症の人たちにとって、なんと言っても身近な人たちとのつながりを取り戻すことです。その場合、認知症の人たちは自分から行動を起こすことはできませんから、なによりも家族など身近な人の対応が重要です。
」(p.65-66)

具体的には、認知症の人に、笑顔で、感謝の言葉を忘れずに、できるだけ話しかけることが大切です。声をかけてもらえるということは、認知症の人にとって、自分を大事にしてくれている、という思いにつながります。その際、話しかける内容は、季節のことなどさりげない話題から始めて、認知症の人の昔懐かしい自慢話、苦労話などをするのが最も有効です。」(p.66)

もう一つ大切なことは、できなくなったことを可能な限り家族や周囲が受け入れて、励ましや、こうあってほしいという願望をできる限り少なくしていく必要があります。指摘を減らす=叱られないというだけで、ずいぶん穏やかになったという認知症の人が、私の経験では何人もいます。叱られないということは、認知症の人の尊厳を守ることにもつながります。」(p.67)

過剰に期待しないこと。以前のように行動せよと指摘しないこと。できないことを受け入れて、フォローすること。そして機能低下があっても、存在するだけで価値があるのだということを知って、敬意を示すことですね。
これは、ある意味で認知症の人だけへの対処法ではなく、うつ病でも、発達障害でも、自閉症スペクトラムでも、同じではないでしょうか。そればかりか、健常者であっても、このように対処すべきではないかと思います。

認知症になるのがこわくない社会、なっても安心して暮らせる社会、それは認知症でない人たちとってもよい社会ではないでしょうか。言い換えれば、人と人がつながっていて、認め合える社会であるはずです。そして、社会を家庭に置き換えれば、私たちが認知症とどう向き合うか、よりわかっていただけると思います。」(p.69)

まさにそういうことですね。認知症かどうかに関係ないのです。
そういう意味で言うと、認知症の人というのは、本当はこうした方がいいんだよということを私たちに気づかせるために、あえて認知症になって示してくれている魂なのかもしれませんね。


これは巻末にある田中とも江さんとの対談からの引用です。田中さんは、身体拘束廃止に取り組んでこられた方のようです。田中さんの本も買ったので、いずれ紹介できると思います。

後に八王子の川上病院という精神科病院で認知症の患者さんたちの身体拘束廃止に取り組んだときも、看護学総論で学んだ「五つの基本的なケア」(@起きる、A食事、B排泄、C清潔、Dアクティビティ)を自分なりに咀嚼して、患者さんのどんな行為にも理由があるという考え方で「叱らない」「許容する」「拘束しない」を徹底していき、二年で身体拘束を廃止することができました。昭和六一(一九八六)年、まだ「人権」とか「尊厳」など言われない時代で、周りの抵抗もありましたけど、「絶対、それまでの看護に戻ってはいけない。あれは看護の恥だ」という一念で取り組みました。」(p.166-167)

たしかに、介護や看護する人たちは、疑問を感じるのです。しかし、多くの人が現実に圧倒されて、身体拘束の道を選んでしまいがちです。
「便いじり」をしてしまう方に、それができないようにミトンを手にはめる。これも身体拘束です。転倒すると骨折する恐れがあるなら、車イスに安全ベルトと称して拘束ベルトを装着する。
これらは介護や看護する側の都合とも言えますが、スムーズに介護看護できることが、その方の役に立つと思うから敢えてしているのです。

けれども、その方の意志に反していることは事実です。便いじりする人は、便いじりしたいのです。その時のその状況においては。
では、どうすればお互いがWin-Winの関係になれるのか? つまり、便いじりさせたくないわけですから、ご本人が便いじりしたいと思わなければいいのです。どうすればそれが可能でしょうか?

その具体的な方法は、ここには書かれていません。取り組む考え方としてはわかりますが、方法論としてはまだよくわかりません。ただ利用者様の考えを理解せよと言われても、他人のことを理解できないのが世の中のふつうですから。


これは前に紹介した「「平穏死」のすすめ」の著者、石飛幸三さんとの対談からの引用になります。

当時でも、お嫁さんの本音はいろいろあったとは思うけど、今は、核家族化してしまったこともあって、身を粉にして尽くそうなんていう感覚は間違いなく薄れている。まして、親が姿形も変わって、認知症になって気持ちも荒れて、乱暴なことを言い出したら、血のつながった子どもたちだってつい感情的になるじゃない。それが現実、それが介護地獄。もちろんその人が一生かかってつくってきた家庭だから、そこで家族みんなで覚悟ができれば、それが正しくていいことだと言われると、反論はしにくいけど、現実をしっかり見てほしいと言いたい。むしろ社会としてきちっと施設を準備して、プロが冷静に支えるというのが、今、最も必要な対応でしょう。」(p.185-186)

つまり、ひとり暮らしで最期までというのは無理というケースもあり、その場合、家族の介護があれば大丈夫だというのはきれいごとだとおっしゃるのですね。冷静に、客観的に対処できるプロの支援が、どうしても必要なのだと。

人間の心理としてスタッフだって、虐待する家族と同じ面がないとは言えない。うまくいかなければ悩むし、一生懸命努めているだけに、頭にくるような思いにかられることもある。でも、どうして認知症の人がそういった行動をとるのかということを真剣に考える、そういう文化が育っているから、自分たちの役割はそれでは済まないということもわかっている。しかも家族のように二四時間介護するわけじゃない、決められた時間に働く仕事だから、自分たちの役割がわかれば、プロに徹することができる。それがある意味では施設の強味かな。」(p.195-196)

これは共感します。1日8時間の仕事だと割り切れるからこそ、感情的にならずに冷静に対処できるという面はあると思いますから。

そして、高齢者の認知症の世界はそれこそ人間の心の世界だから、それにどう医者が役に立つか、もう一度人を診る医療というか、心を診る医療に戻らなきゃいけないと思うよ。その上で家族も「世の中がなんとかしてくれるだろう」なんていう他力本願じゃなくて、自分たちで認知症の人たちを知ろうと努力する、そして理解していく、そうしなければ本当に変わらないよ。」(p.201)

そもそも認知症だからどうこうではないのです。すべての人間関係と同じなのです。その心の世界に、医療も介護も踏み込んでいく必要があるし、家族関係においても踏み込む必要があると言えるのですね。


排泄の問題に関しては、ここで語られていることだけでは納得できない部分があります。しかし、徘徊とか不穏になるなどのBPSDに関しては、認知症の方の悩みを理解することで、かなり問題解決に近づけるのではないかとも思いました。

私自身、介護の世界に飛び込んで1年が過ぎましたが、まだまだ上手く対処できずにいます。さらに学びを深めていきたいと思いました。

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タグ:高橋幸男
posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 13:29 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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