私が買ったのは単行本ですが、もうすでに文庫本になっているのですね。これもたしか上野千鶴子さんの「在宅ひとり死のススメ」で紹介されていた本です。著者は石飛幸三(いしとび・こうぞう)医師。「平穏死」という言葉に聞き覚えがあるなぁと思ったのですが、実は10年前にすでにブログで紹介していました。それが「「平穏死」という選択」と「「平穏死」10の条件」という本でした。いわば「平穏死」三部作の3冊目になったようです。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「人間はこうまでして生きていなければならないのか。これまで幾多の苦難に耐え、それを乗り越えてきた人生、その果てにまたこのような試練に耐えなければならないとは、なんとも言えない理不尽な思いを感じたというのが、その時の正直な私の気持ちでした。」(p.14)
「しかし、ほとんどの方は喋れません。寝たきりで寝返りも打てません。今この人たちは何を考えておられるのだろう。どんな思いでおられるのだろう。鼻から管を入れられて、一日三回宇宙食のような液体を滴下され、定時的にしもの処理をされて、人によっては何年も生き続けるのです。この方々に、生きる楽しみがあるのでしょうか。」(p.14−15)
「寝ていますから胃の内容が逆流して慢性の誤嚥性肺炎を起こします。膀胱機能が衰えていますから、たびたび尿路感染を起こして高熱を出します。これは治療なのか、何のための栄養補給か。ご家族にしても、正直に言って始めてしまったものだから、いまさら後に引けない、一体これでよかったのかとの思いが起こるのではないでしょうか。医療技術の進歩と延命主義による自縄自縛の悲劇をそこに見た思いでした。」(p.15)
石飛医師は、特養(特別養護老人ホーム)、芦花ホームの常勤配置医としてやってきて、最初にこう思われたそうです。胃瘻(ろう)や経鼻胃管によって栄養を与えられ、生かされているだけのお年寄りたち。これで良いのかという疑問が湧いてきたのでしょう。
私も、まだ若いころに伯父のこういう姿を見ています。そこは老人ホームのような施設で、そのフロアには糞尿臭が漂っていました。その一室のベッドに横たわっていた伯父は、まったく意識がないように思えました。反応することもなく、ただ胃に栄養を流し込まれ、シモの世話をされるだけの人生。
これは嫌だな。こうなりたくはないな。正直、そう思いました。
そして今、私が働く老人介護施設にも、こういう方がおられます。何のために生きているのだろう? 何が嬉しくて、何が楽しくて生きているのだろう? もう肩の荷を下ろしてもいいんじゃないだろうか。そう、思わざるを得ないのです。
石飛医師が赴任したころ、ホームのお年寄りに肺炎が多かったそうです。
「原因はすぐに判りました。大部分が誤嚥性肺炎でした。
高齢者にとっては食べることは最大の楽しみです。しかも認知症の場合は過食や早食いの方が少なくありません。その上介護職の方には食べさせないといけないという義務感があります。食べさせられないのは自分たちの技術が劣っているからではないかという自責感があります。おまけに食べる量が少ないと家族からクレームが来ることがあります。つい無理をしてしまうのです。
しかし認知症の場合は中枢の機能が低下していますから、食べる際に気管の入り口にある蓋(喉頭蓋(こうとうがい))がうまく閉まらず、食べ物が気管に入ってしまいます。生きていくためには食べなければならないのに、食べることが命取りになるという逆説が生じます。
介護士の大切な仕事の一つは食事介助ですが、そこにはこのような矛盾した作業をする面があるのです。」(p.20−21)
「しかし、ゆっくり時間をかけて食事介助をしている暇はありません。一人あたりに費やす摂食介助は、平均二十分以内に済ませないと次の業務に差し支えると言われています。隣では、別の入所者がトイレに行きたいと言い出します。介護士の数は足りていません。まだ前の食べ物が口の中にあるのに、次の食べ物を口の中に入れるようなことが起こります。誤嚥性肺炎を作ることになります。」(p.21)
まさに、私の職場でも起こっていることですね。
「認知症の人は胃瘻なんてやめてくれと意思表示をすることができません。家族は見殺しにできないと思い胃瘻を付けることを承諾します。
我が国では、老衰の終末期においても病院で亡くなる方が八〇%に及びます。同時に胃瘻を付けてホームに帰って来て寝たきりになる人が増えます。この状態は世界でも際立って多く、我が国の医療費高騰の原因の一つになっています。」(p.23)
こういうことがあって、今ではホームでの看取りが推奨されるようになりました。しかし、人々の意識はすぐには変わらないので、相変わらず終末期に救急搬送されることが多い。私の職場でも、1ヶ月に2〜3回は救急車がやってきます。
「そもそも九十歳前後の超高齢の方の基礎代謝は正確には判っていません。必要なカロリーはいくらかも判っていません。老衰した体にとっては、必要なカロリーという考え方自体が適切でないのかもしれません。体はもう生存することをやめようとしているのです。歳を取ると自然に量も質も変化します。一日二食の人が結構います。八十歳を超したら腹八分どころか腹五分でも結構なのです。
入れ過ぎると簡単に嘔吐します。吸い込むと肺炎になります。老人は脱水になりやすいと言います。確かにそうですが、脱水になるからといって量を増やすと今度は心臓や肺がその負担についていけないのです。調節できる幅が大変に狭いのです。熱が出るのは脱水のためだと言って、入れる水分量を増やせば今度は溺れさせる危険があります。」(p.26)
うちの施設でも、脱水を警戒して、無理に飲ませるようなことがあります。無理に飲ませる、無理に食べさせることはもちろん、飲み過ぎ食べ過ぎの弊害も考えてみる必要があるように思います。
いくら本人が食べられても、多くを与えないという判断ですね。しかし、これは難しい。一介護士にできることではありません。医師の意識向上を待つより他ないかと。
「しかし老衰は故障ではありません。もう機械に寿命が来たのです。高齢者は老衰で死ぬことも多いのですが、老衰という病態が認識されていないという奇妙な現実があります。特に多くの医者は老衰という病態に戸惑うことが多く、死因として何らかの病名をつける必要を感じてしまうのです。」(p.66)
老衰とは、全体が弱っていって、どう治療しようと元には戻らない状態です。怪我による傷そのものや骨折などは治るかもしれません。病気も治るかもしれません。しかし、それが治ったからと言って、元の若々しい元気さを取り戻すわけではないのです。
そうなった時、治療が必要なのかということを、考えてみる必要があるように思います。治療をせずに、楽に楽しく過ごさせる。前回紹介した緩和ケアの本「なんとめでたいご臨終」にもあるように、そういう最期の時を過ごすことを優先する考え方があってよいと思うのです。
「しかし、本人の命は本人が決めることです。高齢者医療においてはなおさらのことです。十年前は患者さんに「それは歳のせいですよ」とは相手に悪いようで言えませんでした。しかし最近は割合抵抗なく言えます。かえってそれが病気ではないという本人の安心感を生み、受け入れを促している場合があります。人々の意識が変わってきたと思います。人生は自分のもの、幕の引き方は本人の選択によるものという意識が高まって、家族もそれに沿う判断をすることが多いように思います。」(p.68)
私自身はもちろん、うちの家族もそういう考えを受け入れているように感じます。
それでも、母を亡くした時の父の無念さはありました。揺れ動く心が、まだ残っていたのでしょう。
「認知症の方と接する上で最も注意しなければならない点は、いくらつじつまの合わないことを言う人でも、感情はしっかり残っているということです。人間には自尊心があります。ですから褒めること、これが一番認知症の方を喜ばせるようです。無視されること、見下されること、これは認知症の方の心を最も傷つけます。」(p.73)
認知症なのだとわかっていても、言うことを理解してくれない、指示に従ってくれないことに嫌気が差して、つい邪険にしてしまうことがあります。ここはしっかりと自分に取り入れたいなぁと思います。
「ホームで看取るということが、何もしてあげられなかったという負の気持ちに、家族ばかりかホームの職員までもを追い込んでしまうのです。病院で亡くなれば、最後まで手を尽くそうとしたと言うことができます。しかし本当にそうなのでしょうか。」(p.80)
「これは病気ではないのです。天寿なのです。ここで最期の時を決めるのは医療ではありません。人間が決めてはいけません。正に時の流れに身を任せるべきなのです。
こう言うと、「寿命が来たと誰に決められるのか」「助けられないと誰が判定できるのか」と反論が必ず来ます。しかしこのような終末期の状態に至るまでの過程は、昨日今日始まったことではありません。」(p.81)
たしかに私もそう思います。しかし、石飛医師も明快に答えられないように、これが寿命なのだと明確に判断できる方法はないようにも思います。
石飛医師は人が決めてはいけないと言いますが、私は逆に人が決めるしかないと思うのです。どっちが正しいかではなく、どちらも正しいという前提を置いて。
その上で、身体機能が弱まって、その改善が見込めないのであれば、それが肺炎だろうと心臓病であろうと、あるいは嘔吐による窒息であろうと、治療する必要はないし、治療せずに死なせてあげる方が良いと思うのです。
「食べられなくなった。熱が出た。脱水だ。さあ、点滴だ。多くの人は点滴をすると元気になるとばかり思いこんでいます。もちろん点滴一本で状況が好転する場合もありますが、心臓が弱っている高齢者では点滴量が多いと心臓が負担に追いつけず、心不全を引き起こすことが少なくありません。
本当のところ、超高齢者の補液量の管理は容易ではありません。」(p.118)
うちの施設の利用者様も、足などがむくんでいる方が大勢いらっしゃいます。そして心不全を患っておられる方も。
おそらく、多量の血液を心臓が処理できなくなってきているのでしょうね。だから余分な水分を血液から排除する。その身体の生きるための働きが、むくみとして現れているのかと。
もしそうであれば、脱水を心配して水分を摂ることは、かえって心臓の負担を増やすことになる。せっかく身体が生きるための最善策を取っているのに、それに反することをしていることになるのです。
こういう点でも私は、身体を信頼して、自然治癒力に任せることが大切ではないかと思うのです。
「介護士を見ていると、この時代いろいろな職業がある中で、よくこんな地味な、きつい仕事を選んだものだと感心します。しかしこのような人たちが居なかったらこの高齢化社会どうなるのだろうかと思います。付き合ってみると気持ちが明るく、優しく、その上、信念のある人たちです。高齢化社会はこのような人たちによって支えられているのだなとつくづく思います。もっと伸び伸び仕事をさせてあげたい、私は彼らを見ていて心からそう思いました。」(p.127)
私も介護職なので、この部分には共感します。常に入居者様やそのご家族からのクレームに晒されます。それを受けた経営者や上司から叱責されます。じゃあいったいどうすればいいの!? そう言いたくなることもあります。
でも、そうやってぶつかることによって、より良い社会的な仕組みや働き方などに変化していくのだろうとも思います。ネガティブに捉えず、前向きでありたいと思うのです。
芦花ホームでは、そこで最期を迎えた方のご家族様からいただいたご寄付を元に、看取り介護の研究を推進しているそうです。これは、その調査に関わった「場所づくり研究所プレイス」の宮地成子さんの、石飛医師の話などを聞いて書いた感想文からです。
「お話の中で印象深かったことの一つは、「口から食べられなくなったら、もう先が長くない状態である」ということでした。「そうか、食べられなくなるというのは、生命活動が終焉に近づいているということなのか」と、その事実に驚き、また「安らかな死を迎える判断基準」として明快だと思いました。三宅島では「最後は水だけ与える、そうすれば精神が落ち着き自然に戻る」という言い伝えがあるそうです。無理に食べさせることで、誤嚥やそれに伴う肺炎が起こり、かえって体の負担になってしまうことがあるとのこと。父の最期の時、医師と点滴について相談することがありましたが、「栄養をとらずに横たわる人を静かに看取る」という選択肢は、その時の私たち家族には考えられませんでした。三宅島の言い伝えは、心安らかに亡くなっていく人を、「みんなで見届ける様子が目に浮かぶ、心に響く言葉です。」(p.138)
食べられなくなったら寿命だ。動物なら当たり前のことです。しかし人は、人の助けによって食べ続けることができます。だから判断に迷うのでしょう。
「食べられない」と一言でいっても、状況はいろいろあります。手が思うように動かないのか、噛めないのか、飲み込めないのか。そしてその状況は医療によって改善するのかしないのかなど。それが判断を難しくしています。
宮地さんは明快な判断基準と言われていますが、私はそれでもやはりその場の誰かが決めなくてはならないのだと思います。
そうであるなら、自分のことは自分が決めておくのが良いと思うのです。
私は、自分で食べられなくなったら、もう食べることをやめてもいいかと思っています。それは餓死かもしれませんが、それもまた運命というものかと。
これもまた、いろいろと「死」について考えさせられる本でした。
終末期の医療はどうあるべきか。なかなか難しい問題ではありますが、私たちは考えていかないといけないのではないかと思います。
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