2022年02月18日

世界が注目する日本の介護



昨年の3月から介護職に就き、介護というものを学びながら働いています。そんな中で興味を抱いて買ったのがこの本です。
ずいぶんと「積ん読」状態だったのですが、やっと読むことができました。

読んでみて、様々な思いが駆け巡りました。「すごいなぁ」「でも、ムリだよ、うちでは」「こういう利用者様ばかりならできるだろうけど」「いや、最初から決めつけるべきじゃないよ」・・・
実際に介護職として働いているだけに、どうしても今の仕事内容と比較して考えてしまうのです。

たしかに、すぐにはできないことも多々あります。でも、諦めたら終わりでしょ。実際にこうやって、素晴らしい介護を実現しているところがあるのですから。
今の私にも何かできることがあるはず。そのためのヒントを得よう。そういう思いで、読み進めました。

著者は、あおいけあ社長の加藤忠相(かとう・ただすけ)さん。この本もマンガを取り入れていて、とても読みやすくなっています。そのマンガを描いたのは、ひらまつおさむさんです。


ではさっそく、一部を引用しながら本の内容を紹介しましょう。

認知症の「原因病」のほとんどは、医師でも治せません。一方、「行動」に目を向けると「カギをかけて出られなくする」「薬でおとなしくしてもらう」といった、よくない発想に陥ってしまいます。
 だから、「症状」に目を向ける必要があります。より具体的には、症状に影響して行動を引き起こす「環境」「心理状態」にアプローチします。つまり、
・お年寄りが症状で困らない「環境」を、先手を打って整えておく
・お年寄りが困っていても、コミュニケーションをとって「心理状態」を安定させる
 こうした配慮で、症状が出ない(もしくは、出ても目立たない)ようにすれば、困らないので行動も起こらなくなるはずです。
」(p.33)

まず、認知症そのものは治せないし、それによる問題行動を直すという発想だと上手くいかないということですね。
そうではなく、現れた症状に影響している環境を整えることや、心理状態を安定させるためのコミュニケーションを考えて接することが大事だと。


わざわざこう書くと、何か特別なことをしたように見えるかもしれません。確かに建物は、若い頃からログハウスに思い入れのあった私の理想が反映されています。でも、その他に特別なことはしていません。普通の台所、普通の風呂場です。にもかかわらずお年寄りが動き、料理までしてくれるのは、困らない環境で心理状態が安定しているからです。
 困ってさえいなければ、認知症があっても「普通のお年寄り」です。普通のお年寄りとして、自分のことは自分でできるように支援する、それが本当の「自立支援」ではないでしょうか。だからこそ、何よりもまず「困らないですむ環境」が大事なのです。
」(p.36)

認知症によって記憶に障害が現れても、手続き記憶と呼ばれる身体で覚えたようなことは忘れにくいと言われています。たとえば、毎日料理を作っていた人なら、何も考えなくても手が勝手に動いて料理ができるようなものです。
そういう手続き記憶を活かすことによって、認知症のままでも普通に暮らしていける。それを支援することが本当のケアだと言うのです。


なぜケイコさんは、スタッフの誘いに応じたのか? それは、人間関係ができたからに他なりません。ケイコさんに自分たちを認識してもらい、<この人はいい人だな>という「いい感情」を積み重ねてもらって信頼関係ができたから、なのです。
 認知症の人は、脳の「海馬」という記憶を司る部位が萎縮して、忘れっぽくなっています。しかし、感情を司る「扁桃体」の機能は強く残ると言われています。つまり、記憶が傷害される代わりに感情面では鋭敏になるので、その「感情」に上手にアプローチする必要があるわけです。
」(p.64)

まず人間関係を築かなければ介護ができない。これは私も実感しています。
しかし、一度人間関係を築いたからと言って、それだけですべてが上手くいくわけでもありません。利用者様の期待に添えないこともあり、それをいくら説明してもわかってもらえないこともあり、怒らせてしまうこともあるのです。

それは私がまだ下手だから。そうかもしれません。けれども、ムリなことはあるよ、と自分を擁護したくもなるのです。


誰かが自分に関心を持ってくれる−−これって、人間にとって最高に幸せなことですよね。認知症があっても、自分に関心を持ってくれる人に対しては、確実に「いい感情」が芽生えるものです。」(p.95)

日々の作業に追われていて、利用者様を大切な友人であるかのように考えている暇がない。そう思っている情けない自分があります。
つい、相手の欠点に目を向けてしまい、問題老人という見方をしてしまう。それでは、好かれることはありませんね。


要するに私は、ばあちゃんの「できない」が「できる」になるまで付き合ったわけです。それが「ケア」だと思っています。
 一方的に「してあげる」のではなく、お年寄りと関わり、できるまで付き合います。すると使える道具が揃い、同時に人間関係ができてきて、「環境」が整います。となれば、じいちゃん・ばあちゃんも大人ですから、自ら動くのはあたりまえではないでしょうか?
」(p.160)

「お茶を入れる」ということも、お年寄りにやってもらいますが、最新の電気ポットが使えないお年寄りもいます。そんな時は、一緒にお店へ行って、そのお年寄りが使える道具を買い揃える。そして、「私のためにお茶を入れてもらえませんか?」と誘いかける。
そこまでやることで、やっとお年寄りが自ら動こうという気になると言うのですね。


介護する側がさせたいこと」ではなく、「お年寄りがやりたいこと」に合わせていくのが大切なのです。
 声のかけ方も大事です。ただ頼むといっても、「○○してください」なんて言ってしまうと、その瞬間に「やらせる/やらされる」という関係性ができてしまいます。
「豚汁のこんにゃくって、包丁で切るんだっけ? 手でちぎるんだっけ?」
「これからサラダを小鉢に盛り付けるんですが、これでいいんでしたっけ?」
 というオープンな感じで始めると、お年寄りが「どれどれ……」と主体的に関わる機会ができます。声のかけ方ひとつで、大きな違いが生まれるわけですね。
」(p.225)

人が楽しくなるのは、自発的に動くからです。そして、そうすることが誰かの役に立つことが嬉しいものです。
そうであれば、このようなアプローチが大事だろうと思います。

たとえば私たちは、お年寄りと梅干しを手づくりしていますが、余ったシソをジュースにし、近くの公園に体操をしに集まる人たちに振る舞ったことがあります。
 また、古いシャツやタオルを集めて、ばあちゃんたちと雑巾づくりをしたこともあります。事業所内で使うだけでなく、お年寄りが小学校に寄付しに行っていました。
 単なる家庭菜園や雑巾づくりが、外に出るだけで立派な「地域共生ケア」になりました。
」(p.226)

自分の楽しみだけではなく、それが他の人に役立つように考える。そうすれば、自分の喜びも増えるし、他の人も喜ばすことができる。そういう取り組みが、地域全体にとっても良い結果になるのですね。

外出し、人と会い、おしゃべりし、お腹が空いたら自分でご飯を用意して美味しく食べる−−そんな何気ない日常の行為こそが、お年寄りの健康を支えているのです。その「日常」を支えるのが、介護の仕事ではないでしょうか?」(p.228)

外出すれば、いろいろなリスクもあるでしょう。けれども、そのリスクを恐れて閉じ込めてしまえば、不健康になってしまう。
どう生きることが本当の意味で幸せなのか? それをもっと真剣に考えてみる必要があるように思います。


であれば、私たちがすべきは、その希望を奪ってまで医療につなぐことではないはずです。じいちゃん・ばあちゃんの「○○したい」という気持ちを支えること。それが「CARE(ケア)」であり、介護にあたる人間が目指すものだと思います。」(p.260)

若い人なら、まずは病気を治してから、というのが最善かもしれません。しかしお年寄りは、ずっと病気と付き合って行かなければならない、ということもあるし、いずれ近いうちに来るであろう「死」を受け入れて、それでもやりたいことを優先するという生き方が最善かもしれません。
その判断は簡単なものではないし、他から責められる可能性もあります。けれども、これも正面から向き合わなければならない問題だと思います。


暴れるから縛る・眠らないから薬を一服盛る−−高齢者の尊厳を傷つける行為でしょう。それを”介護”と呼び、胸を張って”自分の仕事”と言えますか? あなたなら、縛られたり薬を盛られて「しかたない……」と我慢しますか?
 いいところや強みを活かす。「困っている人」が困らない環境とアプローチを整える。私たちがやっているのは、一言でまとめるとそれだけですが、お年寄りは元気になってくれます。
」(p.294)

うちの施設では、さすがにそこまでのことはやりませんが、けれども考え方はそれに近いものがあります。いかにお年寄りを扱いやすくするか、という発想です。
これには、仕方がない面もあります。そうしないと、他に手が回らないから。

何が問題なのでしょう? 人手が足りないのでしょうか? だったら、給料をもっと高くすればいいのです。でもそうすると、会社経営が続けられない。ならば施設の利用料を高くするとか? そうすると利用者が減って、やはり会社経営が成り立たない。
また、介護保険制度というものによって、施設側が受け取れる金額もある程度制限されてしまっているようです。したがって、それ以上のサービスを求めるなら、介護保険を使わずに、自費で介護を受けなければならず、それでは高額になってしまいます。介護保険という目安があるだけに、それは利用者としても受けがたい。

こういう問題があると私は思うのですが、この本では、そこまでは語られていません。それでもこの「あおいけあ」では上手くやっている。それが事実なのでしょう。


実際のところ、一介護士という立場で、すぐにどうこうできないことは多々あります。
著者の加藤さんも、最初は特養で働かれたそうですが、老人を押さえつけるだけの介護に幻滅して辞め、自分の理想を実現するために「あおいけあ」を作ったそうです。
事業者がこういう想いを持っていなければ、介護が変わることはないのかもしれませんね。

けれども、それだけではないと思います。施設に預ける家族の認識が変わらなければ、やはり責任問題はつきまといます。
もちろん、施設側がしっかりと家族に説明し、受け入れてもらえないなら入所させない、という覚悟があればいいのでしょうけれど。

また、介護職の認識も変わる必要があるでしょう。ただ決められた作業をこなすことが仕事ではなく、利用者様に喜んでもらい、元気になってもらうことが仕事なのだと。
そういう意味では、「あおいけあ」のようにマニュアルがないとか、作業指示書のようなやるべきことがない、という仕組みづくりも大切かもしれませんね。

いずれにせよ、一介護士がすぐにできることではありません。そういう考え方を施設内に広めるために、機会を見つけてそういう話をすることはできるでしょうけど。
でも、諦めたくはない、という気がしています。何ができるかはわかりませんが、今、できる範囲で、自分にできることをやりたい。そんな気持ちになっています。

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posted by 幸せ実践塾・塾長の赤木 at 07:40 | Comment(0) | 本の紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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