久しぶりにひすいこたろうさんの本を読みました。本当は、最新の本を予約して買おうと思っていたのですが、オススメに出てきたものを選んで買ってみました。これが大正解! 非常に素晴らしい本でした。
読み終えたあと、「小林正観さんを超えた!」と思いました。ひすいさんは、正観さんの講演を聞いて、見方を変えることの重要性を認識された方ですからね。ある意味で「師を超えた」とも言えるのです。
読みながら、いったい何度、感極まって泣いたことでしょう。話のほとんどは知っている内容です。けれども、ひすいさん独自の切り口で視点を示してくれる内容で、新たな感動があったのです。
もう超絶オススメで、引用したい部分も多々あって、この記事を書くのにどれだけ時間がかかるのだろう、と心配するほどです。でも、それくらい素晴らしいと私が思っていることを、ぜひ知っていただければと思います。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
まず「プロローグ」で、よく使われる話を持ち出しています。壺の中に石をいっぱいに入れて、「これでもう満杯か?」と尋ねるという話です。
ご存知だとは思いますが、「満杯だ」と答えると、そこにさらに砂利を入れていきます。さらに「満杯か?」と尋ね、同様に砂を入れ、最後に水を入れるというもの。つまり、一見すると満杯のように見えても隙間があり、その隙間を埋められるものであれば、後から入れられるのです。
では、この逸話の真意は何なのか?
「ひとりの学生が、「どんなに満杯に見えても、努力をすれば、まだまだ詰め込むことができるということですか」と答えると、教授は「そうではない」と。
さて、教授の真意はなんだったのか……。
「先に大きな石を入れないと、
それが入る余地は、そのあと二度とないということだ。
この壺は人生そのものを示している。
では私たちの人生にとって、大きな石とはなんだろう?」(p.13−14)
人生にとってもっとも大事なもの、いちばん大切なものを、まっさきに壺の中に入れる、つまりそれに取り組むことが重要だということです。
「「一番大事なものに
一番大事ないのちをかける」
これは、詩人の相田みつをさんの言葉ですが、
一番大切なものを、一番大切にしながら生きる。
それが人生最後の日に、後悔なく死ねる、
たったひとつの生き方です。」(p.14−15)
これが本書の結論です。自分にとって一番大事なものは何かを明確にし、そこに自分の命を懸けること。それが「一所懸命」なのですね。
「大きな石が決まっている人は、
やらなければいけないことに追われる人生ではなく、
やる価値のあることを追いかける人生を送れます。」(p.16)
命とは時間であり、時間の奴隷として振り回されて忙しく生きるなら、それは命を大切に扱ったことにはならない。そうひすいさんは言います。
「つまり、「生きる理由」が明確になっているかどうかが、幸せか否かをわける最重要の要素なのです。」(p.18)
全米心理学会の元会長マチーン・セリグマン氏が説く「幸せ」の3つの要素を紹介し、もっとも重要なのは「生きる意味」、つまり自分の命を懸けられる大事なものだと示します。
では、その「生きる理由」、「自分は何のために生きるのか?」の答えはどうやって見いだせるのか?
ひすいさんは、そのために5つの物語を用意したと言います。それが続く5人の「サムライ」たちの生き様なのです。
その5人とは、吉田松陰、高杉晋作、野村望東尼、ジョン万次郎、坂本龍馬です。
ちょっと違和感を感じませんか? 吉田松陰、高杉晋作、坂本龍馬はわかるとしても、ジョン万次郎は武士ではないし、野村望東尼は女性です。
「「サムライ」の語源は「さぶらふ」という動詞です。
「さぶらふ」とは、「大切なものを守る」という意味です。
自分の命を超えて大切にしたいものを見出し、そこに生きる理由を見出した5人。
その意味において、この5人を「サムライ」と表現させてもらいました。」(p.20)
私は、野村望東尼を除いた4人の人生については、他の本などである程度は知っています。なので、野村望東尼には興味を持って、以下の物語を読み進めました。
しかし、知っていると思ったのは、私の思い込みでした。いや、実際は知っていることなのですが、ひすいさんの視点で眺めてみると、「こういう見方があるのか」と驚かされ、その生き様に感動させられたのです。
最初の吉田松陰の話から、もう涙ボロボロです。
まず最初は、吉田松陰の生き様です。
私は、松下村塾のある山口県萩市にほど近い島根県の出身です。松下村塾も何回か観光しました。
そして、縁あって国士舘大学に入学しています。世田谷にある本校の隣には、松陰神社が建っています。日本を護る国士を排出することを目的に創られた国士舘大学。当然、多数の国士を排出した松下村塾にあやかりたいと思ったことでしょう。
私は通学する時、必ず松陰神社に立ち寄って、松陰の墓にお参りしてから大学へ行きました。処刑された松陰が眠る墓。そこで独り静かに松陰と語らいたかったのです。私は遠く及ばないかも知れないけれど、あなたのように生きてみたいと。
「松陰は手紙に、このときの自分のことを「飛ぶが如し」と表現し、こう語っています。
「自分の心がそうせよと叫ぶなら、ひるむことなくすぐに従うべきだ」」(p.34)
黒船に乗り込もうとした松陰の思いです。直感に従う。できるかどうかではなく、やるかどうかだ。
情熱の塊のような松陰の性格がよく表れています。
「松陰は、兄にこの日の気持ちを、手紙でこう告げています。
「海外渡航の禁は、徳川一世のことにすぎない。今回のことは、三千年の日本の運命に関係する以上、この禁に、思い患うことなんてできなかった」(『兄梅太郎との往復書簡』)」(p.37)
規則は守るべきだ、という考え方がありますが、私は必ずしもそうとは思いません。守らないことでより大事なことが為せるなら、守らないという決断もあると思うからです。
けっきょく、海外渡航は失敗に終わります。日本との交渉を進めていたペリーは、幕府の意向を重んじたのです。ただ、松陰たちのアメリカを知りたいという気持ちも理解していたので、減刑を依頼したと言われます。
逮捕された松陰と重之輔は、江戸伝馬町の獄に送られる途中、高輪泉岳寺前で止めてもらい、眠っている赤穂浪士を拝みました。そして松陰は有名な歌を詠んだのです。
「「かくすれば かくなるものと知りながら やむにやまれぬ大和魂」
(こんなことをすれば、僕は捕らわれ、命を落としてしまうことだってあるとわかっている。しかし、この国を守りたいという大和魂は、やむにやまれないのだ)
自分以上に大切にしたいものがある。
それが大和魂です。」(p.45)
松陰たちは極刑を免れ、故郷にある野山獄と岩倉獄にそれぞれ投獄されることになりました。
しかし、過酷な環境の獄生活に耐えられず、金子重之輔は2ヶ月足らずで病死します。享年25歳。最初の弟子を死なせてしまったことで、松陰はひどく嘆き悲しんだそうです。
彼が死に、自分は生き残った。重之輔の死は、松陰に生きる意味を問わせるきっかけとなりました。
「どんなに嘆いても過去を変えることはできない。
しかし、未来なら変えることができる、と。」(p.48)
悲しみの果てに松陰がたどり着いたのは、その経験を未来に生かすことでした。無駄死にはさせない。その固い決意が、それ以降の松陰を支えていくのです。
とは言え、一生出られないとされている野山獄の中です。そこで生きるしかありません。松陰は腐ることなく読書を始め、他の囚人たちに影響を与えていきます。
「たしかに、僕らはもう二度と太陽は見られないかもしれない。
でも、死のうが死ぬまいが、学ぶしかない。
知って死ぬのと、知らずに死ぬのは違うんだ!
そこに人としての喜びがある、と。」(p.51)
できないことを嘆いて何もやらずにいるとすれば、それは命の無駄遣い。今できることをやる。
「牢獄のなかでは、行動は自由にできませんが心は自由です。
獄なら獄で、できることをすればいい。
僕らが生きる真の目的は自らの内側(魂)に変容をもたらすことです。
だから、そこがどこだろうが、何をしていようが、本当は外側の状況は関係ないのです。」(p.51)
ひすいさんは、いつからスピリチュアリストになったのでしょうか?(笑)
しかし、私もそうだと思います。置かれた環境とか条件がどうかではなく、今、自分がどう生きるかだけが重要なのだと思います。
こうした獄中の態度もあって出獄した松陰は、いよいよ松下村塾を開くことになります。
月謝は無料。身分が低かったり、経済的に苦しい家庭の子どもが通ってきました。
そこで松陰は最初に、「なんのために学ぶのか?」と学ぶ理由を問うたのだそうです。
「松陰は「なんのために学ぶのか?」を突きつけて、ひとりひとりに
「立志」(生きる理由)
ココロザシを立てさせたのです。
「何を目指すのか」よりも、もっと大事なのは、
「なぜ目指すのか」
なんのためにそれをやるのか?
なんのために生きるのか?
つまり、「生きる理由」です。
それはそのまま、人生を「あきらめない理由」となります。」(p.54−55)
おそらく松陰は、塾生たちに問うことによって、自分自身にも日々問うていたのだろうと思います。
松下村塾では、先生も生徒もなく対等でした。すべてが学ぶ友。だから互いにさん付けで呼びあったそうです。これは当時、画期的なことでした。
「私のことを「僕」、あなたのことを「君」と呼び出したのも、実は吉田松陰が最初です。本来、漢文では僕とは「しもべ」のこと、君とは「主君」のこと。どんな相手だろうが、自分を下において、相手を主君として立てて付き合うために呼び名を開発したのです。」(p.58)
このことはまったく知りませんでした。「僕」「君」という呼び方は、松陰が考え出したものだったのですね。
松陰がこのように上下の区別をなくして対等に扱うという考えに至ったのは、野山獄でのある女性との出会いがきっかけだと言われます。それが高須久子。松陰よりひと回り上の女性です。
久子は、被差別部落民の演奏家を家に呼んでいたことが問題視され、投獄されていました。身分に関係なく平等に接する。それだけで当時は、投獄されるほどの罪だったのです。
「わずか2年ほどしか存続しなかった、吉田松陰の田舎の小さな松下村塾から、革命家・久坂玄瑞、高杉晋作を生み出し、伊藤博文、山縣有朋という、ふたりの内閣総理大臣まで排出しています。
田舎の小さな塾から総理大臣をふたりも出したら、その塾はなんなんだとなりますよね?
そんな伝説の塾が松下村塾なのです。」(p.62)
それ以外にも大臣や学長などを多数排出しています。
「小さな田舎塾から、目が眩むほどキラ星のごとく偉人を排出しています。
しかも、塾のリーダー格の人間は明治維新前に、ほとんど戦士しているにもかかわらずです。」(p.62)
「いうなれば、萩市3丁目の皆さまが日本を変えてしまったのです。
3丁目っていうのはたとえですけどね。
すべての人に「真骨頂」がある。
松陰が心からそう信じていたから、3丁目の住人が続々、偉人になっていったのです。」(p.63)
松下村塾に通ったのは、歩いて通える範囲の身分の低いご近所さんたち。その人たちによって新生日本が創られたということです。
続いては高杉晋作の生き様です。
高杉晋作は、松下村塾の四天王の1人と言われています。残りの3人が次々と死んでいく中、晋作だけが生き残り、松陰の期待がかかります。
しかし、松下村塾としては珍しく名家の息子であり、お家を大事にする責務を感じていた晋作は、容易には松陰のように命を投げ出して生きることができませんでした。
そんな時、晋作は上海へ派遣され、その実情を目の当たりにすることになります。
「日本の教養人たちにとって清(中国)は憧れの国でした。漢字や儒教、たくさんの文化の恩恵を受けていたからです。その大国である清が、イギリスはじめ欧米列強に、貿易の主導権を握られて、外国人たちに奴隷のようにこき使われていたのです。」(p.92)
ステッキで殴打されたり、イギリス人しか渡れない橋があるなど、対等に扱われない清の人々。それを晋作は見ることになりました。
当時の日本は、長州藩もそうですが、「攘夷」という外国人を追い出せという考え方がありました。しかし、欧米の実力を知っている勝海舟など、それは無謀だということがわかる人もいました。晋作も、その1人になったのです。
「しかし晋作は、中国の惨状を見て、これまで自分を守ってくれた家柄という絶対的な誇りを断ちきり、家を捨て、禄を捨てると決めたのです。
このときの晋作の気持ちをあらわした一句があります。
「親も妻も 遺して独り 伊勢詣り」」(p.95)
何か新たなことを始めようとすれば、これまでの何かを捨てる必要がある。晋作は、家族や家を捨てたのです。
しかし、そう簡単には変わらないのが人というもの。これもまた、高杉晋作の愛すべき一面ですね。
「何者でもなくなった晋作は、まずは水戸出身の儒学者・加藤桜老のもとを訪ねています。すると、「あなたのような藩に大事にされている人が自分から藩を飛び出すなんて、とんでもない心得違いだ」とたしなめれれ、急に自責の念にかられ反省し、なんと晋作は藩邸にすごすごと引き返しています。」(p.95)
こういう晋作の優柔不断な部分を紹介する本って、滅多にありませんよね。私も知りませんでした。それだけに、晋作の魅力を感じます。
その後、脱藩を決行した晋作でしたが、あっさりと捕まってしまいます。そして投獄されたのが野山獄。そこで奇しくも松陰が過ごした部屋で、晋作は松陰の心と向き合うことになります。
「晋作は、松陰の言葉を獄舎の壁に書いて毎日眺めていました。晋作は知らなかったようですが、くしくもそこは野山獄・北局第二舎。10年近い歳月をはさみ、かつては師匠の松陰が同じように読書をしていたまさに同じ牢で、晋作は改めて松陰のココロザシと向き合っていたのです。」(p.99-100)
優柔不断だった晋作が、これ以降は急に精彩を放つようになります。まるで松陰の霊が乗り移ったかのようです。
長州藩は、改革派が粛清されていき、幕府への恭順派が権力を握るようになっていきます。しかしそれでは、日本の未来を潰してしまうことになる。
そこにたった1人で立ち向かうことを決意した男、それが高杉晋作でした。功山寺挙兵。この歴史の転換点とも言える奇跡は、松陰が乗り移った晋作によって始まったのです。
「しかし晋作は、もう覚悟が決まっていました。
幕府軍が15万人いようが、ひとりでもやる!
もう、これは狂ったとしかいえません。
しかし、これぞ吉田松陰から受け継いだ狂気の精神です。
常識では時代は動かない。
突破すべき一点に向けて狂う。
いまこそ狂うときだ。」(p.108−109)
狂うとは、現実を現実と見ないこと。結果を気にしないこと。ただやるべきことにのみ情熱を注ぐこと。
ドン・キホーテ。ラ・マンチャの男の生き方とは、まさにそうではないでしょうか。他人からすれば、常識のないバカ。でも、そのバカが歴史を動かすのです。
「やる気のない2千人より、
たったひとりの心意気が勝ったのです。
未来は、覚悟ができた、たったひとりの人間が切り拓くのです。」(p.122)
この功山寺挙兵にまっさきに駆けつけたのは、晋作のパシリだった伊藤俊輔。後の伊藤博文です。
伊藤博文は、自分の人生で唯一誇れるのは、一番に高杉のもとに駆けつけたことだと言っています。明治を創った首相は、高杉晋作によって育てられたとも言えるのです。
しかし、どんなに晋作が有能だったとしても、1人の力でできることはたかが知れています。そこには協力者が必要です。
面白いことに、時代は協力者を用意してくれているのです。その名は坂本龍馬。長州藩の危機を救い、日本をあげての改革を推し進めた男。薩長同盟が徳川幕府に引導を渡したことは、もう誰もが知っていることでしょう。
晋作と龍馬も、出会って意気投合しています。
「かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂」という師、吉田松陰の歌を詠んだ晋作に対し、龍馬はこう返したと伝わっているそうです。
「「かくすれば かくなるものと 我も知る なおやむべきか 大和魂」
(こんなことをすれば命がいくつあっても足りないことは私にもわかる。しかし、それでも大和魂は貫き通さずにはいられない。)」(p.130−131)
英雄は英雄を知る。龍馬には、晋作の気持ちが痛いほどわかったし、自分も同じ思いだよと伝えたかったのでしょう。
薩長同盟が成立し、長州征伐の幕府軍を晋作の騎兵隊が蹴散らしました。絶対に刃向かえない相手と信じられていた幕府が、「いや、けっこう倒せるのかも。」と多くの人に思われるようになった瞬間です。
大きく歴史が動き、幕藩体制の崩壊が始まりました。役目を終えた高杉晋作は、結核で亡くなるのです。享年29歳。
「看取り士という仕事があります。亡くなっていく方が幸せな最期を迎えられるように寄り添う仕事です。たくさんの死に立ち会ってきた、ある看取り士の方が、一例だけ、家族みんなを幸せにした死を見たというのです。普通、死はまわりの人を悲しませます。しかし、そのおじいちゃんの死はみんなを笑顔にしたというのです。亡くなる直前にガッツポーズして「やりきった」といって亡くなったのだそうです。そうなのです。自分の人生をやりきれば、死でさえもみんなをハッピーにできるのです。」(p.134)
これはおそらく、柴田久美子さんのことでしょう。「この国で死ぬということ」だったか「私は、看取り士。」だったか忘れましたが、そういうエピソードがありましたね。
高杉晋作も、やるだけのことはやった、これで松陰先生に顔向けできると思いながら、亡くなっていったのではないかと思います。
3人目は野村望東尼(のむらぼうとうに)です。女性なのに「サムライ」。
実は私もよく知りませんでした。知っていたのは、逃亡中の高杉晋作をかくまったこととか、亡くなる前の晋作の看病をしていて、晋作の辞世の句の下の句の作者だというようなことだけでした。
望東尼は、尼になる前に結婚して子どもをもうけています。しかし、生まれるとすぐに死んでしまう。そんなことが何度も繰り返されたのです。
「生老病死。そもそも生きるって切ないことです。
生まれた瞬間から、死は運命づけられていて、死へのカウントダウンは始まっています。
生まれてくること、老いること、病になること、死ぬこと、どれひとつとってみても、自分の思い通りにいくものなどありません。ひとりで生まれ、死ぬときもひとりで死んでいくのが人間です。
そして、人生最後の日には、得たものをすべて失う。
それが人生のゴールなんです。
変わっていくことを恐れていたら、不幸はどこまでもつきまとう。だから、避けることのできない悲しみを、避けようと思わないこと。ありのままを、ありのままに受け止めることから始める。」(p.148−149)
尼になり、座禅を組む日々の望東尼は、徐々に悟っていきます。
「そうか。どんなことが起きたって、心は私次第なんだ。
状況が心を決めるのではない。
自分の心は自分が決められるのだ。」(p.149)
現実に振り回されてきた自分の人生を振り返って、いかに心のありようが大切かがわかったのです。
「これからは本心にそって自由に生きよう……。
これまでは病身のため迷惑をかけないようにと、いつも周囲の目を気にするように生きてきた。女だからと自分を閉じ込めてきた。でも、これからは、心のままに楽しいことをやろう。」(p.150)
自分を制限していたのは、実は自分だったということにも気づいたのですね。
「高杉晋作の辞世の句といわれる
「おもしろき こともなき世を おもしろく……」
これは、「おもしろくもなんともない世の中を、おもしろく生きていくために、あなたならどう考える?」と晋作から望東尼への問いが上の句になっています。これを受けて、下の句を望東尼はこう結んだのです。
「すみなすものは 心なりけり」
おもしろく生きられるかどうかは、現実が決めるのではない。心が決めるのだ、と。」(p.169−170)
幸せ実践塾の幸せの公式として使わせていただいている相田みつをさんの詩も、まさにそのことを言っています。幸せはいつも、自分の心が決めるのです。
4人目はジョン万次郎です。
ひょんなことからアメリカに渡ってしまった万次郎ですが、それが日本のために大いに役立つことになりました。
これはある意味で、望まなかった運命とも言えますが、そうなるにはそうなるだけの理由があったのですね。
漁船が無人島に漂着し、それをアメリカの捕鯨船に発見されたことで九死に一生を得た万次郎たち。しかし、国交がないため、帰国することができませんでした。
他の船員たちはハワイにとどまったのに対し、万次郎はアメリカを見てみたいという好奇心もあり、船長に従ってアメリカへ渡ります。そこで船長の養子となり、教育を受けることになったのです。
自由の国アメリカでしたが、一方で人種差別もありました。白人でない万次郎は、他の人々から差別を受けます。
アメリカではキリスト教の教会が生活の中心にありましたが、そこでの差別を受けたことを機に、船長は万次郎のために、通う教会を変えているのです。
「アメリカ人が異国の少年のために教会を変えるなどよほどのこと。船長は万次郎を受け入れてくれる教会を探して、いくつもの教会をまわってくれました。申し訳なく思った万次郎は、その旨を伝えると船長はこういったのです。
「約束したはずだ。ジョンマン、私は君を育てると」」(p.187−188)
たとえ反対があろうと、思い通りにならなかろうと、育てるという意思は変わらない。なぜなら、自分がそう決めたのだから。
船長は、愛が何かがよくわかっていたのでしょう。愛は無条件です。条件次第で変わるものではなく、自分が愛すると決めたから愛するのです。
愛することが自分らしいから、そういう自分でありたいから愛する。相手がどうかとか、状況がどうかとか、まったく関係がないのです。
「革命が起きるとき、そこには”3つの者”が必要になるといわれています。
それが
・若者
・馬鹿者
・よそ者
この3者です。
この3者は、見事に明治維新にも当てはまります。幕末の志士たちは、若者が中心です。また、吉田松陰は馬鹿正直過ぎて命を落としていますし、坂本龍馬だって、先生があきれて塾をクビにするくらいでしたから、文字通り馬鹿者だったといっていいでしょう。では最後のよそ者に当たるのは誰か? それが万次郎でした。」(p.200)
時代を変えるのは若者だということは、私も感じています。そして、ドン・キホーテのような馬鹿者、命を惜しまない山岡鉄舟のような馬鹿者が、時代を変えるのです。
よそ者というのは、異なる常識を持っている人のこと。つまり、これまでの常識を覆してくれるからですね。
そしていよいよ最後の5人目、坂本龍馬です。
「ゆったり、優しく、まあるく、弱い者の立場で考える。
生涯にわたって、龍馬はそのように考えました。後に、老子からとった『自然堂(じねんどう)』という号を龍馬が名乗っていたことからも、龍馬は老子の考えが好きだったことがわかります。」(p.212)
対立の火花が散る幕末において、龍馬の行動は異色です。融和させ、どちらもが立つように仕向ける。
大政奉還によって徳川の存続を図りながら、長州を潰させないために薩摩と手を結ばせる。
龍馬の心には、悲しむ人が1人もいてほしくないという強い思いがあったようです。これも、子どもの頃にいじめられっ子だった経験が下地にあるのかもしれません。
「幕末から明治期に、500もの会社の立ち上げにかかわった渋沢栄一が掲げた「士魂商才」の先駆けといっていい存在が龍馬だったのです。
士魂商才とは、「サムライの魂」と「商売のセンス」を併せ持つ者をいいます。」(p.235)
坂本家は武家でもありますが、商売もやっていました。ですから龍馬にも商人の血が流れていたのでしょう。
薩長同盟が成立したのも、龍馬という商売に長けた存在があったから。外国から薩摩名義で最新鋭の武器を買い付け長州へ配達し、長州では米を買い付けて薩摩へ配達する。それで自分たちも利益を得る。こんなことを考えて実行できたのは、龍馬だったからと言えます。
大政奉還は、絶対に不可能と思われていました。なぜなら、絶大な力を誇る徳川幕府が、幕府を投げ出す必要性がないし、400年続いた幕府を終わらせるなどという決断ができるはずもないからです。
そこで龍馬は、幕府側であった土佐藩から働きかけてもらうことを考えます。それは、土佐藩に功績を立てさせることにもなります。
土佐藩にとっては願ってもない約目でしょう。しかし龍馬には、土佐藩に功績を立てさせることに心のしこりがあったはずです。自分の故郷とは言え、仲間をたくさん殺してきた前藩主、山内容堂を許せないからです。
「親友を殺した相手をゆるせるわけがない……。
大切な幼なじみを殺した相手をゆるせるわけがない……。
そんなの絶対にゆるせるわけがないんです。
しかし龍馬は、最も憎悪していた土佐藩、山内容堂を血のにじむ想いでゆるすのです。
本当の敵は人ではない。
憎むべきは人ではなく、社会の制度なんだと龍馬はわかっていたからこそ、社会の仕組みそのものを変えることに人生をかけたのです。」(p.238)
「龍馬は、外側に平和を結ぶために、
内側の自らの積年の恨みを解(ほど)いたのです。
先に自らの内側のエゴを解かなくては、外側で和(愛)を結ぶことはできないのです。」(p.239)
自分の愛する人たちを殺した相手を許し、受け入れ、なおかつ活躍の場を与える。これは「愛」ですね。
外の世界に平和を実現したければ、まず自分の心の内に平和を築くこと。龍馬はそれをやったのです。
しかし、そんな平和主義の龍馬は、だんだんと敵を増やしていくことになります。
新選組など幕府側から付け狙われるだけでなく、武力で幕府を倒したい薩長からも敵視されます。また、土佐藩に活躍の場を与えたということで、土佐の仲間たちからも叩かれることになりました。
「龍馬は無血革命を目指し、ニッポンの最善・最高の未来からすべてを発想していました。しかし、まわりはみんな自分の都合(過去と現在)からしか世界を見られていないのです。だから龍馬が理解できず、龍馬はもはや、どこから暗殺されてもおかしくない状況に追い込まれました。
たったひとり、闇のなかをゆく革命家の道。
ニッポンの未来のためには、まわりを敵にすることもやむなし。
それがいかに孤独な道か……。
「世の人は 我を何とも 言わば言え 我が成すことは 我のみぞ知る」
龍馬の詠んだ和歌です。」(p.240−241)
しかし、大政奉還によって大規模な内乱を防がなければ、いずれ日本は植民地化されてしまう。場合によってはイギリスとフランスで分割統治ということにもなりかねない。日本を護るためには大政奉還しかないという信念を、龍馬は貫き通したのです。
龍馬は、自分の名誉とか利益のために、そういうことをやったわけではありません。
ですから、新政府の役職になろうとは微塵にも思っていませんでした。
「「世界の海援隊でもやりますか」
龍馬の生きる理由、その源泉は遊び心だったのです。
龍馬は海援隊というカンパニーで、世界の7つの海をまたにかけて黒船で商売をしたかったのです。世界に冒険の旅に出たかったのです。龍馬の動機、それは子どものようなときめいた遊び心だったのです。
そのために、日本にフリーダムをもたらす必要があった。そのために幕府を終わらせて、日本をひとつにまとめる必要があったのです。」(p.250-252)
ただ自由に遊びたかったから。人の本質は自由であり、だからこそ自由を求める。龍馬は、余分なものを削ぎ落として、ひたすら自由を追い求めたように思います。
「かつてこの国は、職業の選択の自由も、移動の自由もなく、身分制度もガチガチで、差別もあり、好きな人と結婚する自由もゆるされていませんでした。そんな社会をぶち壊し、誰からも差別されずに、自分の才能を活かして、やりたいことができる社会を、龍馬が、松陰が、晋作が、望東尼が、ジョンマンが、僕らにプレゼントしてくれたのです。」(p.255)
「事実、いま、この瞬間も、世界のどこかで国と国が戦争、内戦、紛争をしています。
いま、この瞬間も20カ国以上で争いは続いています。
それは、心のなかに国境(分離)があるからです。
しかし、いまの日本では、東京と大阪で戦争するようなことはありません。
龍馬たちが、この列島を「日本」としてひとつにまとめてくれたからです。
薩摩人でもなく、長州人でもなく、「日本人」というものを誕生させてくれたからです。
ひとつであるところに争いはないのです。
僕らはいまこそ、「地球人」としてひとつになるときです。」(p.255−256)
龍馬から私たちへのバトン。それは、「ひとつ」への道。私たちはそれを受け取るのでしょうか? そのことが問われているように思います。
「幕末は、わずか1年の間に巨大地震が3連発できているのです。
さらには、異常気象による凶作が続き、その上、猛烈なインフレに襲われ物価が高騰。まさに泣きっ面に蜂。おまけに伝染病のコレラが上陸し猛威をふるい、江戸だけでも死者は数万人に。」(p.271)
天変地異に経済的な混乱。さらに伝染病。今の日本よりもさらにさらに深刻な非常事態だったと言えるでしょう。
そんな中でも日本は植民地にならずに済んだ。
「日本には「サムライ」がいたからです。
サムライとは、いちばん大切なものに、一番大切な命をかけた者のことをいいます。」(p.272)
命がけで日本を守ろうとするサムライたちのお陰で、今の日本があるのですね。
「「神道は教えがないんです」
と神主さんはいいました。教えがない。これ、よく考えたら、すごいことです。
神主さんの質問はまだ続きました。
「教えがないってことは、神道には何がないと思いますか?」
教えがないということは……
「善悪がないのです」」(p.272−273)
ある神社で正式参拝した時の話だそうです。他の宗教と比べて、神道には大きな違いがあります。それは教えがないこと。
それは知っていましたが、それが「善悪がない」という意味になるとは、考えてもいませんでした。
「「じゃあ、日本は、善悪のかわりに何があると思いますか?」
なんでしょうか……
「美しいかどうかという判断基準です」
美しいかどうか。
江戸時代は、それが「粋か野暮か」になったわけです。」(p.274)
善かどうか、正しいかどうかではなく、美しいかどうかで判断すること。それは元々、日本人に備わったものだったのですね。
「日本人は、お茶を道にして茶道を生み出し、剣は剣道、書は書道、弓は弓道、華は華道、なんでもそれを道にしてきたんです。
道とは、勝ち負けを競うのではなく、
美しさの追求です。
勝つか負けるかじゃない。損か得かでもない。
美しいかどうか。かっこいいかどうか。
これは突き詰めれば、みんなで笑い合えるかどうか、
より多くの人を幸せにするかどうかです。
みんながうれしいってことが、宇宙がうれしいってことです。」(p.275)
自分の生き方に、ことあるごとの判断基準に、美しさへの追求があれば、みんなで笑い合える平和で幸せな社会にしていくことができる。そういうことを、幕末のサムライたちは教えてくれているように思います。
何度も何度も感極まって泣きながら読み終えました。
私もよく「美しいかどうか」という判断基準が大切だと言っていますが、私自身がどれだけできているか、改めて問い直したいと思います。
そして、サムライたちから受け渡されたバトンを、しっかりと受け継ぎたいと思うのです。。
そんな気持ちにさせてくれた、この本に感謝です。そしてこの本を、心から皆さんへもお勧めしたいと思います。
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