これはおそらく、先日紹介した上野千鶴子さんの「在宅ひとり死のススメ」の中で紹介されていた本だと思います。たくさんの本を紹介されていたので、そのうちの何冊かを買いました。
上野さんは、老後は一人暮らしが気ままで良いと勧めておられます。また、その一人暮らしでの在宅死も勧めておられます。そういう上野さんにとっても、認知症になって何が何だかわからない状態でも独りで暮らせるのか、という問題が頭にあったかと思います。私も、そういう疑問があります。
この本は、認知症でも1人在宅で暮らせるということを示す内容になっています。何がポイントになるのか。とても興味深く読みました。
ただ最初、どうもしっくり来ませんでした。社会福祉法人・共同福祉会というところの編集になっている本ですが、どうも自分のところの宣伝ではないか、と感じたのです。
自分のところがどういう取り組みをしているかという話や、介護保険の問題などが中心で、タイトルにある認知症の人が一人暮らしをするための方法についての言及がなかったからです。
また、唐突に生協の話が出てきて、何のことかわからずに混乱しました。あまり詳しくは説明されてませんが、どうやら生協が行っている老人介護の取組みのようですね。
そういう点があったものの、読み勧めていくうちに、いろいろ見えてくる部分もありました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「高齢になり長い距離を歩けなくなると、生活が制限されます。買い物や通院にも支障が出て、自宅に閉じこもるようになることが、要介護状態になるきっかけの1つだと考えられています。地域で元気に暮らしていくために、足が悪くても送迎があり、出かけていく”居場所”があれば、自宅での生活が続けられます。」(p.40)
まず高齢者の一人暮らしですが、老化による衰えは、引きこもりを促進することにつながる、という指摘ですね。そして、引きこもることによってさらに身体的な機能が衰えて、また精神的にも意欲を失っていくという問題があります。
そのための解決策としては、地域に「出かけていける場所」「出かけていきたい場所」がある、ということだと言うのです。より活動的になることを促してくれるもの。それが大事なのですね。
「もちろんサポートハウス内に鍵をかけたり、マサ子さんの行動を制止したりもしていません。自由に外出できる環境が本人の精神状態に一番よいことを、職員もケアマネジャーも家族も実感しているからです。」(p.43)
たしかに、自由に出歩けるということは、本人にとってストレスにはならないでしょう。しかし、周りの人たちは、それによるストレスを受けないでしょうか?
実際の取組みについては後から出てきますが、地域を巻き込んだ認知症の方の「見守り」という体制づくりが、非常に大事だなぁと思いました。
もちろん、それでも何らかの問題を引き起こす可能性があります。たとえば本人が事故や事件に遭うとか、あるいは事故を誘発させるとか。そうなった時の責任問題はどうなるのか? それについては、この本では言及されていませんでした。
「個人の問題を住民の問題としてとらえることは、とても大切であると同時にとても難しい問題です。住民は地域のことに無関心どころか拒絶したり、批判することもあります。地域住民が支え合いの認識をもつためには、まず職員がプロの地域コーディネーターとして問題を整理できる人材になり、地域住民の主体性が育つよう支援しなければなりません。
身体拘束からは何も生まれないように、排除からも何も生まれないのです。活きる力は、子どものときも大人になってからも、社会で行きていくために必要です。困っている人の存在を知り、ともに自分のこととして考え、力を合わせて実践していくこと、支え支えられる関係を築き、生きる力を育むことが大切です。」(p.52)
こうすれば上手くいくというような、一朝一夕にできる解決策などない、というのが本当のところだと思います。批判的な人、何を言っても反対する人など、そういう人たちも含めての地域住民です。そういう人たちに理解していただき、支えていただくための活動を継続すること。そういう活動の結果として、いつか支え合う地域という結果がともなってくるのかもしれませんね。
実際、この団体が施設を建設するときも、常に反対運動が起こったそうです。それでも諦めず、怯まず、反対者と敵対せずに思いを遂行する。そういう芯の通った地道な活動の継続が重要なのでしょう。
「私たちプロ集団が地域コーディネーターになり、誰もが住み続けられる環境をつくっていけば、認知症になってもひとりで暮らせる地域をつくることができると思います。しかし、このような考え方をもち続けられるプロの職員集団を、継続して排出できるのかという課題があります。」(p.59)
認知症の一人暮らしを可能にするには、地域ぐるみの協力が不可欠だということですね。そのためには、地域をまとめるコーディネーターが必要であり、そういうプロを育てることは、なかなか難しいということのようです。
「ヤスオさんは、ご飯が食べられなくなり、体力が落ちてきている状態でも「トイレに行きたい」と言い、そのたびに職員がトイレに付き添いました。トイレに行くことも難しくなってくると、部屋にポータブルトイレを置いて、そこに座って用を足しました。決して「オムツを巻いてくれ」とは口にしませんでした。ヤスオさんがトイレに行きたいと言う限り、トイレに行ける工夫をするのが大切だと感じさせられました。」(p.64)
何気ない話ですが、私などは「どうやったらそれができるの?」と疑問に感じるのです。実際、私が働く施設では、多くの利用者様がオムツをされています。全員の「トイレへ行きたい」に機敏に対処できないからです。
オムツ(尿とりパッド)の取替をするだけでも大変な作業です。もし、一人ひとりを毎回トイレに行かせていたら、マンパワーが明らかに不足するのです。
この問題を、どうクリアしているのか? そのことについて、この本にも解決方法は明示されていませんでした。
後で出てくるのですが、訪問介護では日に6回伺い、排泄介助も行っているようです。日中4回、夜間2回です。
私たちがトイレへ行く回数って、そんなものですか? もちろん、そういう日もあるし、訓練でそれで収めることも可能でしょう。しかし、たまたま訪問介護で来られたタイミングで排泄したくなりますかね?
下痢の時もあるでしょう。さっき行ったばかりなのに、またすぐ小便をしたくなる時もあるでしょう。それに対応できますか?
私は、それは無理だと思うし、私の現状もそういう状態です。忸怩たる思いはありますが、どうしようもないのです。
「8割以上の圧倒的多数は自宅を選択します。
現実は病院で亡くなる人が8割以上を占めており、これほど世間のニーズと現実がずれている課題を解決する道筋はまだ、見えていません。
「自宅で自分の人生の幕を閉じる」
これを実現するためには、自分の意思で決め、周囲が覚悟を決めて、医療で支え、死亡診断をする在宅医がいて、さらに24時間の生活を支える介護職がいることで、初めて実現します。」(p.74−75)
以前の看取り士の本でも指摘されていましたが、在宅死を望む人がほとんどなのに、病院死が8割という現実があります。
この本でも、在宅死は可能だと言います。そのためには、まずは本人が明確に意思表示をすることです。本人の決意が揺れていたら、周りも動揺しますから。
次に、これも他の本で指摘されていますが、家族など周囲が覚悟を決めるということです。容態が急変すると狼狽して救急車を呼んでしまう。だから病院死になりがちです。
在宅医がいて、きちんと説明されていて、家族など周囲が納得して覚悟を決めていれば、むやみに救急車を呼ぶことはないでしょう。静かに看取ることができるのです。
「「”地域医療”があればひとりで暮らせる」ためには、訪問看護ステーションのあり方と考え方が重要になってきます。
訪問看護ステーションは医療保険制度で患者を診てきました。「地域医療」とは何かを考えると、まず75歳以上の人は必ず身体の衰えによる病気があります。永眠するまで病気とつき合って楽しく暮らしていくことを目標に生活をサポートすることが、地域医療の目的になります。」(p.79)
機能する地域医療のためには、訪問看護ステーションのあり方が重要だと指摘しています。
そのためには、75歳以上のすべてのお年寄りをターゲットにすることで、効率よく作業ができて、看護師の費用をまかなえる体制づくりが重要だということです。
「そのなかで私たちは、定期巡回・随時対応型訪問介護看護事業を柱にして、「地域医療」と「訪問看護ステーション」をつくってきました。」(p.80)
この団体の取組みを紹介しているのですが、いかに経済的にペイできるようにするかという視点です。
それにはまず、75歳以上の人は皆なんらかの病気を抱えているので、ターゲットにして顧客層の裾野を広げることです。次に、定期巡回・随時対応型訪問介護看護の登録者を100人以上にすること。つまり、実際の顧客を100人以上にするという目標ですね。
さらに、訪問看護の登録者は70人以上にするという目標を掲げています。このくらいの人数がいないと、看護士を常駐させる費用が出せない、ということのようです。
たしかに、採算性がとれなければ事業は継続できません。しかし、その決め手が「定期巡回・随時対応型訪問介護看護事業」というのは、どうかなぁと感じるのです。
この事業形態は、要は利用してもしなくても全ての利用者から一定額をいただくことによって、よりサービスを必要とする人には手厚く、必要としない人には少なめにサービスを提供することで、全体バランスを取るということだと思うからです。
もちろん、背に腹は代えられないという面もありますが、お互いの助け合いというのであれば、それは介護保険制度がそもそも担っていることではないかと思うのです。だって「保険」ですから。
その介護保険制度の不備を、こういうやり方で補完するというのは、私は本質的な解決策ではないように感じました。
「この3つの考え方をもった、介護・医療事業所、行政、市民がそろったら、安心して「認知症になってもひとりで暮らせる」地域ができると思います。この考え方を学び自分の地域で実践したい人は「全国地域包括ケアシステム連絡会」に加入して、「あすなら安心システム講座」と「10の基本ケア講座」に参加してください。」(p.85)
「この3つの考え方」とは、「(1)「ほっとかない」「ことわらない」人のいる地域をつくる」「(2)「あすなら安心システム」をつくる」「(3)包括ケア・包括報酬で自立支援ケアができる介護事業所をつくる」の3つです。
要は、行政も地域順民も事業者も、この3者が一体となって認知症の一人暮らしを受け入れるコミュニティを作ることが重要であり、それができたなら、認知症であっても一人暮らしが可能だ、ということかと思います。
逆に言えば、それができない限り、認知症の人が一人暮らしを続けることは難しいということになります。まあ、それが現実かと思います。
だからこそ、その3者をとりまとめるコーディネーターが必要なのであり、その育成が急務だと言えるのですがね。なかなか難しいことだと思います。
「このように、1日6回訪問とデイサービスで生活を支えることができています。包括ケア・包括報酬ですから、要介護1では採算が合いませんが、支えるには1日6回訪問とテレビ電話の設置が必要です。
要介護認定の課題として、全介助、一部介助、見守りなどの時間によって認定されますが、認知症では要介護1、2の人へのケアが一番人件費がかかります。包括ケア・包括報酬で、認知症の人にはもっとケア加算がつけば、家で暮らせるようになると思います。」(p.89)
つまり、現行の介護保険制度だと、認知症の要介護1や2の人が一人暮らしするのを支えられるほどのお金がもらえないので、支援は不可能だということだと思います。だから制度の改善を求めているわけですよね。
実際問題、認知症で要介護1とか2というのは、徘徊のリスクが高く、他人に暴力を振るうことも十分に考えられます。そういう人を完全にケアするには、1日6回の訪問介護では不十分だと私は思いますよ。常に見張っていなければならないし、同行しなければならないわけですから。
もちろん、何かあったら損害賠償請求などで保障されればいいから、基本的には温かく見守ろうという地域であれば、可能かと思います。たとえ踏切に侵入して事故を引き起こしても、家族や介護施設などが、賠償責任を負わずに済むなら、ですがね。
理想としてはよくわかるし、今はまだ過渡期なのだろうとも思います。
しかし、やはり現実としては、認知症の人の一人暮らしは難しい、ということになるのではないでしょうか。
もうちょっと踏み込んだ解決策を期待して読んだだけに、ちょっと残念な思いもあります。
けれども、こういう理想を持つことは大切だし、その理想に向けて挑戦し続けることも大事なことだと思います。
私の中では、まだこうすればイケるという確信はありませんが、1つのとっかかりとなるメッセージを得られたように思っています。
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