2021年10月20日
在宅ひとり死のススメ
看取りや認知症などに関連する本を探していたら、著者の上野千鶴子(うえの・ちずこ)さんの本がいくつか表示されました。「おひとりさまの老後」など、「おひとりさま」シリーズの本を書かれている方で、この世界では有名な方のようですね。それで1冊は読んでみようと思い、この本を選びました。
なんと過激な本だなぁとも思いましたが、これまで当たり前だった病院での死が否定される昨今、自宅での看取りも難しいとなれば、施設での死が受け入れられるようになるのではないか。前に読んだ「介護施設で死ぬということ」の影響もありますが、そう思っていました。
しかし上野さんは、それすら否定します。在宅での死ではありますが、誰にも看取られる必要のないひとり死。しかしそれは、かわいそうで悲惨な孤独死ではないと言うのです。
読んでみて、なるほどと思える部分が多々ありました。一方で、介護の現場をわずかながらでも経験した者として、これはちょっとどうなのだろうと感じることもありました。
ではさっそく、一部を引用しながら内容を紹介しましょう。
「介護保険が始まった2000年には、高齢者の子どもとの同居率は49.1%(内閣府、2000年)、それからおよそ20年で30.9%(内閣府、2017年)までに低下しています。高齢者世帯の独居率は、わたしが『おひとりさまの老後』を出した2007年には15.7%だったのが、2019年には27%と急増、夫婦世帯率は33%と高齢者のみの世帯の合計が5割を超えます。夫婦世帯は死別離婚による独居世帯予備軍だと考えれば、近い将来、独居世帯は半分以上になるでしょう。」(p.14-15)
こうやって数値を見せられると驚きます。上野さん自身も驚いておられますが、予想していたとは言え、変化の速さを感じます。実際、私の両親も高齢者夫婦の世帯でしたが、3年前に母が亡くなってからは父の独居世帯となっています。
「自分で選んだひとり暮らしなら、寂しくも不安でもない、満足度は高く、悩みも少ないってことをデータで示してもらえたのは、強力な援軍でした。
それなのに、メディアではあいかわらず「高齢者の独居」イコール社会問題のような描き方が多いようです。何度もくりかえしますが、独居と孤立は違います。その反対に、同居イコール安心でもありません。同居している家族が虐待やネグレクトをしたら……家族がいるほうが危険な場合だってあります。」(p.35)
かつての三世代同居家族を理想とするかのようなマスメディアの画一的な価値観の押し付けには、私も疑問を感じます。実際、私も一人暮らしが長かったこともあり、一人暮らしの快適さを理解していますから。
日本は現在、超高齢化社会に突入しています。すると今度は、長生きすることが苦しみだと言われるようにもなりました。それに対して上野さんは、次のように反論します。
「そんなに高齢化がイヤなら発展途上国へいらっしゃい、抵抗力の落ちた年寄りは、褥瘡(じょくそう)から感染症にかかってあっというまに死ねるから、とわたしは毒づくことにしています。かつての介護は、褥瘡などあたりまえ、そこから感染症で死ぬこともざらでした。いまどきの介護は、褥瘡をつくらないのがあたりまえ。介護の質の水準がそれほど上がりました。」(p.45)
たしかに、医療だけでなく栄養、衛生、介護などの水準が上がったからこその超高齢化です。私の職場でも寝たきりのような人がおられますが、褥瘡ができかかっても、すぐに治っていきますね。
「でも健康寿命の延伸というかけ声を聞く度に、なんだかな、と思うのは、寿命に終わりが決まっていれば、健康寿命を伸ばせばたしかにフレイル期間も短くなるでしょう。ですが、毎年平均寿命が伸びている状況のもとでは、がんばって健康寿命を伸ばせば、その分持久力もついて、平均寿命も伸びるかもしれないということです。」(p.46)
ちょっとわかりにくい文章ですが、要は、健康寿命を伸ばそうとしたところで意味がない、ということです。
あとでフレイルをヨタへロと表現されてますが、要はヨボヨボになって足腰も飲食もおぼつかない状態です。老化というのは、健康期間の後のヨタへロ期間を経て死に至るもの。ですから、健康寿命が伸びれば、そこにヨタへロ期間が加算されて寿命が伸びることになる。健康寿命が伸びることは、必ずしもヨタへロの問題解決にはならないのです。
「日本人の死因からわかることは、大量死時代の大半の死が、加齢に伴う疾患からくる死だということです。すなわち、予期できる死、緩慢な死です。」(p.49)
「つまり多くの高齢者は死ぬまでの間に要介護認定を受けるフレイル期間を経験しますので、たとえのぞんでも、ピンピンコロリなんてわけにはいかないのです。」(p.49)
「では、年寄りの容態が急変したり、死にかけの現場を発見したら、どうすればいいか、ですって? まちがっても119番しないことです。」(p.50)
これは過激だなぁと思ったのですが、説明を聞くと納得です。年寄りは、何らかのきっかけで死ぬ運命にあるもの、という認識が前提にあるかどうかの問題なのですね。
死ぬべきでない人を見殺しにするなら問題ですが、死ぬ運命にある人は死なせてあげることも、ある意味で助けになるのです。
医療の介入は不要で、医師の役目は死亡診断書を書いて、警察のお世話にならずに済むようにすることだと上野さんは言います。主治医として訪問医療を受けていれば、医師が立ち会っていなくても死亡診断書は書いてもらえるのですね。
逆にピンピンコロリは、死ぬべきでない人が死んだとみなされ、警察が介入せざるを得なくなるとも。そうなれば関係者は、被疑者並みに扱われ、嘆き悲しんでいることもできない。はた迷惑な死に方だと上野さんは言います。たしかに、そうも言えますね。
「施設の機能はそこで生活が24時間完結することです。これを全制的施設(total institution)と呼びます。その典型が刑務所です。だから施設はある意味、刑務所のようなものなのです。しかも刑務所なら終身刑でもない限り、いつかは出て行けますが、高齢者施設は死体にならないと出て行けません。外出はさせてくれますが、職員の管理のもと、家族のもとへ外泊するにも許可が要ります。」(p.61)
私が働いているところも老人施設です。24時間365日、施設で暮らしているお年寄りもいらっしゃいます。
上野さんが指摘しているのは、本人の自由がないということです。これは、入居の契約を本人ができるうちはいいのですが、認知症などになって家族が契約の主体となった時、施設は刑務所のようになってしまうのです。
「いまいちばんもうかる介護系ビジネスは、サ高住に外付けの訪問介護を入れ、そこにさらに訪問看護と訪問医療をつける、というもの。サ高住の賃料と管理費で15万円程度、それに月額まるめての定期巡回介護、そこに訪問看護と訪問医療、不定期の往診などで積み増ししていけば20万〜30万円程度になります。利用者の側からしてみれば、ちょっとした有料老人ホーム並みのコストがかかります。
なんだかな、と感じるのは、医療・看護・介護をまるがかえした医療法人への利用者の系列化が起きることです。」(p.64-65)
上野さんは、一貫して施設を否定する考えのようです。その根本にあるのが自由のなさです。系列化されれば、医療や介護を自由に選ぶことができなくなります。
「施設はもういらない、というのがわたしの立場です。施設が足りないというけれど、これ以上作らなくてもいい。作ったが最後、施設は持ち重りします。建物は管理しなければならないし、雇用は維持しなければならないし、ベッドは埋めなければなりません。」(p.66)
最初の目的がお年寄りのために、ということだったとしても、組織ができればその組織を維持することが目的になってしまいます。その組織の維持にコストがかかれば、そのしわ寄せはお年寄りへと向かうでしょうね。
まあこの問題は、どんな組織にもつきまとうこと。会社だって、作った以上は維持したいと思うでしょう。
「それにわたしにどうしても納得がいかないのは、年寄りばかりが集まって暮らさなければならない理由がわからないことです。
高齢者はいわば中途障害者のようなものです。高齢者も障害者も、老若男女が集まるふつうの街にふつうに住む、それをノーマライゼーションといいます。街が変われば、施設なんていらなくなります。」(p.68)
介護研修でもノーマライゼーションという言葉を習います。たしかに老人介護施設というのは、ノーマライゼーションという考え方に反するものとも言えますね。
「訪問診療の頻度は通常2週間に1回程度。死期が近くなっても週に2回、毎日入るのはよほどの末期ですが、訪問診療の対象に入っていれば、主治医は死亡診断書を書いてくれます。「心不全」や「老衰」と書いてあれば、実は死因はよくわからない、いつ死んでもふしぎではない状態にいたということです。」(p.87)
「だとすれば「孤独死」防止のキモは、死後の発見を早めればよいだけになります。死後一定時間、それも相当期間経過して発見されるというのは、誰も訪れる者がおらず、社会的に孤立した生を送っていることの結果であって、その逆ではありません。だから「孤独死防止キャンペーン」は、「孤立生防止キャンペーン」になるべきなのです。」(p.89)
たとえ家族と同居していても、24時間常に一緒にいるわけではありません。したがって、亡くなる瞬間に独りでいることは充分に考えられるのです。
そういう場合でも訪問診療の主治医がいれば、「心不全」や「老衰」など適当な原因をつけてくれるので、事件性のない死として、警察沙汰にせずに死後の処理ができるというわけです。
そうであればこそ、老人の独居は心配する必要はない、ということですね。それよりも、死後の発見が早まるよう、訪問医療や訪問看護、訪問介護などを受け入れて、少なくとも週に1回、できれば2〜3日に1回は訪れる人がいる状況を作っておくことが大事なようです。
「取材から見えてきたのは、臨終に立ち会いたいというのは死ぬ側ではなく、死なれる側のこだわりだということでした。わたしはこれを「看取り立ち会いコンプレックス」と名付けました。」(p.97)
たしかに、看取る側の考え方の問題が大きそうですね。
上野さんは、前に紹介した看取り士の柴田さんとも会われているようです。その上で、誰かに看取られる必要はないというのが上野さんの意見です。
「精神病院ならずとも、認知症高齢者を受け入れた施設で、認知症者が受ける処遇は、似たり寄ったり。「外に出たい」という患者さんを(そりゃ元気なら、散歩もしたいでしょう)、自由に外出してもらって、疲れるまで職員が同行する、なんて施設は、美談になるほど、めったにありません。そんなことをしたら、人手不足でやっていられない、というのが理由です。」(p.109)
たしかにそうです。認知症の入居者様の自由にさせることもできなければ、常に見張っているとか、常に同行するなんてことも施設ではほとんど不可能です。
「「駆け込み寺」を必要とするのは本人ではなく、家族。認知症病棟が救っているのは、本人ではなく家族と制度の欠陥だということが、6回の連載からはよくわかりました。」(p.113)
精神科の認知症病棟を取材して書かれたコラムを読んだ上野さんの感想です。認知症患者はひどい扱いを受けますが、それによって家族が助かるのですね。
しかし、では認知症の人は社会で野放しにしておけばいいのでしょうか? 上野さんは、まるでそうであるかのように書かれているのですが、私は疑問を感じます。
たとえば「異食」についても、上野さんは介護士から冷凍食品を食べた例を聞いて、大したことではないと書いておられます。しかし、実際の異食はそうではありません。おしぼり、お菓子の包装や保存剤、洗剤など、食べられないものを食べます。本人が苦しむだけなら自業自得とも言えますが、場合によっては生命の危機をもたらします。
もちろん、それは最終的に本人が死ぬだけだから、本人の自由にさせたらいいと言うこともできますけどね。
けれども、社会問題になった踏切への立ち入りなどはどうでしょうか? 重大な事故を引き起こしたり、高額な損害賠償請求されたりもします。それも認知症の方の自由だから、放っておいて良いと言えるでしょうか?
上野さんは、認知症について甘く考えすぎているのではないか、とも感じるのです。
「そのとおり、「周囲の目」が彼らを責める、からです。あんな状態で放っておくの? 世間体を考えないの? 家族も家族だね……と「外野の声」に責め立てられることを、介護職の人たちが内面化しているからでしょう。」(p.122)
自宅ですっぽんぽんでいる認知症のお年寄りに、ヘルパーさんが困るという話に対する上野さんの反論です。上野さん自身がもしそうなったら、放っておいてほしいと言います。気持ちいいから服を脱いでいるだけなのだからと。
この後、排便排尿の異常についても書かれています。部屋のあちこちで排便排尿してしまう父親を、そこは父親の家だから好きにさせると受け入れる息子の話です。上野さんはその話を引き合いに、認知症でも一人で家にいられると言います。
でも、それをケアしなければならない訪問介護や訪問看護の人たちはどう感じるでしょうね。糞尿まみれの部屋の中で作業をしなければならない人たちのことを、それは仕事だから当然だと言えるのでしょうか?
また、自宅から一歩も出ないで素っ裸でいるなら、それは何の問題もないでしょう。けれども、その姿で街に出たらどうなりますか? 街に出てはいけませんと言えば、認知症の方は理解してやめるのでしょうか? 上野さんが書かれていることは、どうも現実離れしているように思うのです。
「ですが、何をやってもムダ、とわたしが思うのは、まさかあの人が、と思うような、知的能力も高く好奇心も強い学者先生の先輩たちが、ちゃんと認知症になっておられる姿を見てきたからです。なにしろ認知症診断の「長谷川式スケール」で有名な精神科医の長谷川和夫さんが、自ら認知症になったと公表されたぐらいですから。」(p.118)
「認知症の発症リスクには、糖尿病や難聴、睡眠時無呼吸症候群、歯周病などが挙げられていますが、これだって疫学的相関であって、原因かどうかはわかりません。同じ症状を持っていても、認知症を発症するひともしないひともいます。それより、こういうデータが増えれば増えるほど、認知症になるのは「自己責任」という考え方が広まるのがおそろしい。」(p.125)
先日、鎌田實さんの認知症予防の本を読んだばかりですが、私も予防は気休め程度にしか考えていません。
「認知症になれば、過去も未来もなくなって現在だけ。赤ん坊と同じです。思えば赤ん坊の時には、あんなにも自己チューに生きることを主張していました。それをしだいに抑制していったのが成長という過程。老いたらその過程をまきもどして、もういちど、過去も未来もない、現在に生きる状態に戻ってもいいのではないでしょうか。」(p.134-135)
こういう考え方には共感します。ただし、現実的にそういう対応ができるかどうかはまた別です。なぜなら、お年寄りは赤ちゃんとは大きさも体力も違うからです。
赤ちゃんなら簡単に行動を抑制できても、力のあるお年寄りを抑制することは大変なことですよ。
それに、赤ちゃんを育てることは、どれほど大変なことかわかっていないのでしょうかね? それこそ24時間365日、誰かが側にいて育てるのがふつうではありませんか。認知症のお年寄りに対しても、同じようにせよと言うなら理解もしますが、そうなればその費用はどうするのかという問題も残ります。
「ほしいのは認知症を怖がる社会ではなく、認知症になっても安心して生きていける社会。自分だけ認知症にならないようにあくせく努力するくらいなら、そのエネルギーを「安心して認知症になれる社会」をつくるために使ってもらいたい。そう、思ってきました。」(p.140)
たしかに、それが理想であり、それだけにまだ実現できていないということなのでしょう。
「認知症になる前に書いた事前指示書を「本人の意思」と見なすかどうかは難しい判断です。事前指示書を書いた時点での過去の自分が、変化した後の現在の自分の死を決定することになるからです。」(p.154-155)
「だが「呼吸器をつけないことを選ぶ」のは、ほんとうに「自由な選択」でしょうか? 周囲のひとびととの「人生会議」のなかで、呼吸器をつけてもじゅうぶん生きていけるよ、そのまま外出だってできる、家族に負担をかけなくてもヘルパーが使える、わたしたちはあなたに生きてほしいと思っているよ……と背中を押されることで、患者の選択が変わることがあります。」(p.158)
「死にゆくひとは、気持ちが変わる。揺らぐ、ジェットコースターのようにアップダウンします。その揺らぎにつきあって翻弄されるのが、家族の役目だ、と。
父の看取り経験から、わたしは健康な時に書いた日付入りの意思など信じるな、と思うようになりました。また、いったん決めたことを最期まで貫くことを、尊いこととも思わなくなりました。」(p.161)
「事前指示書は誰のためのもの? 事前指示書はいったい誰を助けるのでしょうか?
聞こえてくるのは「事前指示書があってよかった」「助かった」という家族と専門職の声ばかり。もちろん本人の声を聞こうにも、死んだ本人から聞くことはできませんが、事前指示書が「助ける」のは、家族と専門職が迷い、考えることから「助ける」ことじゃないか、と皮肉を言いたくなります。」(p.162)
「生まれてきたことに自己決定はありませんでした。死ぬことに自己決定があると思うのは、傲慢だ、とわたしは思います。もし、わたしがボケたら?……食べられるあいだは生かしておいてほしい、と願います。」(p.167)
これは上野さんの考え方であり、それを否定するつもりはありません。ただそうであるなら、上野さんも他の考え方を否定できないのではないでしょうかね。
健康な時の決定を貫きたいと思う人だっているでしょう。成人後見人に重要な決定権を託さなければならない人が、どうして自分の死だけは託してはならないのでしょうか?
上野さんが、「食べられるあいだは生かしておいて」というのも、これも事前指示書と同じですよね。ボケたら「もう死にたい」と言うかもしれないのに。そんな皮肉を返したくもなります。
このことについては、私も動画を撮って語りました。「尊厳死、安楽死、自殺。どこまで受け入れられますか?」です。よろしければご覧ください。
「その結果、事業者の利益を最大化するように誘導するケアマネが出てきました。お金をくれる人の顔色を見る……のは、どこの世界でもあたりまえ。ケアマネをつくったところまではいいけれど、事業者所属を認めたのは制度の設計ミスでした。」(p.180)
「介護保険はもともと中流階級の家族介護負担を軽減するという政策意図を以て設計されたものでした。「利用者中心」をうたいながら、その実、介護保険を推進したのは要介護当事者ではなく、その介護家族たちだったことは、覚えておいてください。」(p.184)
「あまり多くの論者が指摘しませんが、介護保険がもたらした大きな変化のひとつは、ケアという労働がタダではない、という常識が広く定着したことです。」(p.186)
「暴言暴力からネグレクト、介護殺人まで。その実態を踏まえて、高齢者虐待防止法ができたのは2005年のことです。それまで家族の恥は世間に見せたくない、そもそも他人に頼らなくてはならないこと自体が家族の恥だとする考え方が、久しく「家族の闇」を閉ざしてきました。介護保険は、その「闇」の扉を、こじあける効果がありました。」(p.188)
「高齢者の施設入居の意思決定者は大半が家族。現場の専門職は利用者と利用者家族を区別しないばかりか、両者の利害が対立すると、家族の意思を優先する傾向がありました。」(p.190)
介護保険という制度の導入によって、いろいろな変化が現れたそうです。介護は家族の、特に嫁の、タダ働きだという常識が覆されたことは、本当に良い変化と言えそうです。
その一方で、新たな姥捨山を作ることに貢献したとも言えるわけです。
「「あなたご自身が将来ここに入ってもよいと思われますか?」という問いには、多くの職員さんが一瞬絶句します。ホンネは入りたくないのでしょう。経営者さんにもおたずねします。「あなたが要介護になったら、ご自分が経営していらっしゃるこの施設でお世話を受けたいと思いますか?」これまでたったひとりの例外を除いて、すべての答えは、「ぎりぎりまで家にいたい」でした。」(p.192)
上野さんは施設に反対する考え方ですので、こういう意地悪な質問をするのでしょう。
でも、この質問は偏っています。施設職員にここの施設に入りたいかと問えば、私でも入りたくはないと答えるでしょう。自分が働く施設だけでなく、すべての施設です。なぜなら、自由が大きく損なわれるからです。
しかし、ではどうすればいいのか? どうしたいのか? それができるのか? ということが対立軸に必要ではありませんかね。
「ぎりぎりまで家にいたい」という答えは、いみじくもそれを示しています。自分が自由に振る舞えて問題がないなら、施設には入りたくないのです。けれども、それでは生活ができないとか、愛する家族を困らせるなど問題が大きくなってきたら、やむを得ないという思いもあります。
認知症になって、他人を困らせる存在になってしまう自分を、今の健常な自分が許せないと感じる。そうであれば、たとえ自由を抑制したとしても迷惑をかけないようにするのか、あるいはできるだけ短い期間で死を迎えられるようにしたいと思うのか、人それぞれ判断があろうかと思います。
「すべて利用抑制したいという「不順な動機」からです。医療保険財政の二の舞だけは避けたいという、「制度の持続可能性」が錦の御旗になっていますが、背後には財務省の思惑が透けて見えます。」(p.201-202)
介護保険制度は、3年毎の改定によって、徐々に使いづらいものになってきたと上野さんは言います。だからこそ政府の動きを先読みし、正しく改定されるよう見張り、声を上げていく必要があるのだと。
その政府の動きは、介護予算の削減だと見ているわけですね。福祉予算の肥大化が日本の財政の大きな問題ですから、当然のことと言えるでしょう。
これについては、どっちが正しいなどと一概には言えません。問題は多々あります。介護職の人手不足の問題もあります。
理想を言えば、要介護者に介護職がつきっきりで介護し、自由を満喫させてあげればよいのでしょう。しかし、その費用は誰がどうやって負担しますか? という問題にぶち当たります。当然のことです。
やみくもに予算は増やせません。どこまでやるのが正しいのかなど、一概に答えは出ませんよ。だから迷うのであり、悩むのでしょう。様々な意見を言う人がいて、それをとりまとめる側も大変です。どう決定しても文句が出ますからね。
介護保険制度の導入から関係していて、老後は一人で暮らすのが幸せだという上野さんの考え方は、いろいろと参考になります。私自身、独りで暮らすのがいいなぁと考えているからです。
しかし、介護保険の訪問介護だけで本当に生活していけるのか、はなはだ疑問なところはあります。私自身はかなりストイックな生活スタイルなので、充分に可能だとは思っていますが、ふつうの人は難しいのではないでしょうか。
また、施設の介護職として働いていることもあり、上野さんの施設不要論には、私はいささか疑問を感じます。
やはりまだまだ社会全体が認知症の方の一人暮らしを容認し、そのために起こる問題をも許容しているとは思えませんから。これもまた、何が正解かなどは一概に言えないと思っています。
ただ、上野さんの考え方を知ることで、いろいろと考えさせられたことは間違いありません。もし認知症でも一人暮らしが可能だということをもっと掘り下げて語る本を出されたなら、また読んでみたいと思いました。
もう10年くらい前ですが、「平穏死」という言葉を知りました。終末期に医療にかかると穏やかに死ねなくなるから、もっと心を強く持って穏やかな心持ちで死を迎えようとするものです。このブログでも「「平穏死」という選択」と「「平穏死」10の条件」の2冊を紹介しています。上野さんの本もそうですが、自分や身近な人の「死」を、じっくり考えるきっかけにしていただければと思います。
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